マーテル・ドロローサ、悲しみの聖母でしょう。カルロ・ドルチかな。違うみたいですね。このコーナーは、わたしのためにみながためておいてくれた絵に寄せて書いているのですが、いちいち画家の名前など記録しておいてくれないのです。
絵が好きだったかのじょの趣味をついで、みんないろんな絵をあちこちで探しているのですが、時々、これはスピカの趣味だな、というのが見つかると、みながわたしのファイルに入れておいてくれるのです。それが実に痛いファイルなのだ。このファイルの奥にまたファイルがあって、それに痛いものが全部入れてある。それはさておき。
美しい聖母ですね。これは実に、人類にとっての理想の女性像の一つでしょう。実在のマリアは欠点もある人間的な女性でしたが、のちの人々が女性のあらゆる美をこの存在の中に注ぎ入れた。処女で母で美女で、やさしく神への取次ぎをしてくれる。なんでも受け入れてくれそうだ。
実に女性というのは、いつも、イエス、ということを期待されているのです。拒否されたくない。拒否されてはつらい。だが、男を拒否する処女性の中に、それに矛盾するイエスという名の男子が孕まれているのだ。おもしろいですね。いや、英語の許諾を表すイエスとヘブライ語のイェホシュアはちがいますが。しかし、何らかの意義が、語源を越えて生じていることは感じる。
女性というものは、進化していくと、大きなイエス、というものを発する存在となります。すべての存在を認める愛、あらゆるものを肯定する愛、これをウェリタスという、とアンタレスは言いましたが、そのウェリタスを大きく表現する存在となるのです。
未熟なうちは、何でもいやいやというものですが、いつまでもそれではいけない。受け入れる、ということを練習していかないと、女性は女性として高くなれません。女性はすべてを愛によって認めていくと言う、高い使命を持っているのです。それが、大きなイエスです。
マリアはイエスという名の子供を産んだ。それはつまり、大きく世界を肯定する愛を産んだと言う隠喩にとれる。しかしそれにノーと言ったのは、人類の方なのだ。
受け入れてくれと言われたから、愛はイエスと言ったのだが、そうしたら、人間はノーと言ったのです。なぜか。愛があまりにも美しくて、嫉妬を抑えきれなかったからです。
この聖母は美しい。だが愛を拒否されて悲しんでいる。絵の中の愛ならいくらでも愛せるでしょう。だが、もしこんな愛が本当に近くにいたら。
自分がつらい人間は、狂ったように叫びをあげて、すべてを否定してしまうでしょう。なんでも受け入れて欲しい人間は、だがそういう愛を決して受け入れないということになる。この矛盾はいずれ大きな崩壊につながっていくのだが。
ところで、わたしのファイルの奥には、こんな人間の矛盾がいっぱい入ったファイルがあるんですよ。アンタレスはここから、いつもツイッターでつぶやいているのです。なんでこんなところにあるのかと聞いてみたら、わたしなら置いてあっても許してくれそうだから、だそうですよ。
女性的だと言う意味らしいですね。