昨日磔刑図のことなど言ったので、磔刑図をあげてみました。もちろんこれもわたしのファイルの中にあったのです。選んでくれた人がどういう意図でこの絵を選んだかはわからないが、活用させていただくことにしましょう。
暗闇の中に白くイエスの姿が浮かび上がっている。画家の腕でしょう。これが刑死した泥棒だとは見えません。受難の聖者に見える。
だがこの図が、時に刑死した泥棒と変わりなく見えるのは、イエスの姿があまりにもみじめにひどいからです。
こんなことをしてはいけないのです。
本当にすばらしい人には、それなりの服を着せねばならない。それなりの良いことをしてあげねばならない。そうすればその人は、みなのためによいことをなんでもやってくれるのです。
ここまでひどいことをしても、イエスにまだ愛を請うなら、人間はとんでもないわがままだと言いますよ。無条件の愛というのはあるが、その苦しさを理解しているのなら、まだ愛してくれとは言えません。
イエスは、人類を愛してくれてはいますがね。しかしここにきてはくれない。くればまたひどいことになるおそれがあるからです。
こんな図をいつまでもありがたく描いていては、いいことをする者は必ずこういう目にあう、いや、いいことをするものは泥棒なのだ、という歪んだメッセージを世の中に投げかけていることにもなりますよ。これは大きな矛盾です。ほんとうの愛はこんな形をしていない。もっとすばらしく立派で美しいのです。
愛はこの絵のように、みじめに滅ぼされたりはしない。これはあくまでも、人類の暴虐と混乱の時代に起きた、最も悲しい事件の象徴です。
もっとイエスを、立派な美しい姿に描いて下さい。そして、愛でなんでもしてあげてください。それが愛の本当の姿です。
そうすれば、愛の本当のすばらしさ、豊かさが、この世界に広がっていくことでしょう。