わたしのファイルに、こんなのも入っていました。さて、何を書こうかな。
萩尾望都はかのじょの絵の師匠でもあります。中学の時からのファンで、よく真似して描いていました。今もその影響は残っています。
漫画というと、芸術としては一段低いもののように受けとられがちですが、しかし今の時代、漫画の影響を受けていない芸術家はいないのではないでしょうか。いやでも、子供のころには誰もが読みますし。
わたしたちのところの天使の息子も、漫画をいっぱい読んでいますよ。ジャンプ系のヒーローものです。わたしたちはもうとてもあんな漫画は読めないが、まだ子供の彼には楽しいらしいのです。
彼自身は、絵を描く勉強はしていませんが、もし描くとしたら、ああいう漫画家の影響をたっぷり受けることでしょうね。
萩尾は芸術家としての教育は受けていませんが、その絵は実に美しい。耽美的というほど暗くはなく、どこか健康的なのがいい。このキャラクターは吸血鬼のはずですが、とてもそうは見えませんね。花の中に寝転んでいる少年は、大人の矛盾をつくかのような痛い目をしている。この世界では生きにくい子供の魂を、妖精的な吸血鬼にして、作者は存在させたかったのかもしれない。
だが、永遠の若さ、命などというものはない。この世界で生きている者はだれもが老いて死んでゆくが、それはそれほど悪いことではない。老いてゆけば、勉強をしたものはまた新しい美しさを授かる。それがよいというものになる。死には、この世界には逆らえないものがあるということを深く学べる貴いものがある。
十四歳のまま永遠に年を取らないこのエドガーの目は、まるで老成した人間のようだ。それはどこか、五十になっても幼女のようだったかのじょを思い出させる。奥底に、影響がなかったとは言い切れません。かのじょは吸血鬼ではないが、半分エドガーのようなものになってしまったのかもしれない。
かのじょ自身、中学二年生のころ、本気で、エドガーが自分を迎えにきてくれないかと思ったことがありました。ベランダから遠い空を見ながら。自分も十四歳のまま永遠になりたいと。しかしそれはかなうはずもなく、かのじょは自然に十五歳になり、二十歳になり、どんどん年を取って行って、五十一で死んだ。
そして、たぶん、この世界で永遠に生きていく。
ほんとうに、エドガーは、かのじょを迎えにきていたのかもしれません。