これはかのじょの未発表作品です。はがきに描かれた小品ですが、裸体画なので、発表を控えていました。
たしかかの処女長編「フィングリシア」を、書いていた前後に描かれたものではないかと記憶しています。フィングリシアのヒロイン、イスフィーニクは、かのじょのイメージの中ではこんな感じでした。
明るい色の長い髪をしていて、とてもおとなし気な少女です。
かのじょの分身でもある。かのじょはこの作品の中で、自分の幼年時代の総ざらいをしようとしていました。
両親にも、また親代わりをしてくれた親戚のおばさんにも愛されなかった、孤独な子供時代の、総決算です。それで、痛い自分の子供時代と、訣別しようとしていたのです。
いつまでも、親を恨んでいては、自分を生きていけませんから、かのじょは自分をおとなにするために、この小説を書いた。読んだ人は知っているでしょう。主人公とふたりのヒロインはみんな、重い子供時代を背負っている。
かのじょはいつしか言ったことがある。自分の生皮をはぐように、わたしは子供時代の自分を捨てたと。あれほど厳しかった子供時代を過ごしたにも関わらず、かのじょの目が明るかったのは、そのせいなのです。
愛してはくれなかった人々を許そうと。何もなかったことにはできないが、重苦しい恨みなどは捨てていこう。そうすれば自分は、明るい明日を生きていくことができる。
誰にでもできることではありませんね。できると思うならやってごらんなさい。自分にひどい仕打ちをした、あるいはいいことは何もしてくれなかった親を、許すことができますか。だがかのじょはそれをやったのです。
解決をつける、と言うことが大事なのだ。自分の心に、解決をつける。そのために、かのじょは物語の中で、自分の分身たちに冒険をさせたのでした。そして、自分自身も、納得していったのです。
物語を書くということはいいものですよ。違う世界の中を冒険し、時に自分自身を成長させることができる。そして、思い通りにはならない自分の人生を、生きていく力を手にいれることができる。
あなたがたも、物語を書いてみませんか。できないことではない。小さなできることから始めて、自分の世界をつくってみませんか。
その中を自分で冒険していくうちに、もうひとりの、新しい自分が見つかるかもしれません。