これは白塗りの道化の写真らしい。
おそらくそれなりに有名な写真家の作品でしょう。
道化のなりをしているのはだれかわからないが、顔つきのきつい男だ。道化をやらされているのを快く思っていないようにも見える。
いや、道化をよろこんでやっている人など、本当にいるのでしょうか。
今でもよくテレビで、吉本の滑稽劇などやっていますがね、わたしたちは最近あまり見ません。もう人間が新しい段階に入り、人をからかって笑うことが苦しくなってきたからです。
こんな人間に、わざわざ面白い格好をさせて、馬鹿なことをさせて笑う必要など、だんだんなくなってきているのです。
人をからかって遊びたいのは、自分がつらいと思っているからでしょう。人より自分が劣っている、恵まれていない、そういうことを思っているからでしょう。だから、人は滑稽劇などやって、おおっぴらに人を笑っていい機会をつくる。
そこでは、医者や政治家などの偉い人や、大人を、からかって笑うこともできるのだ。しかしそれはどこかさびしい。いつまでも頼っていると何か大事なこと忘れそうな気がします。
ところで、道化の難、というのがあるのは知っていますね。アンタレスがツイッターで説明したことがあります。第1期人類には、イエスをみんなでからかって馬鹿にして殺した業があり、それが反動として表現されるとき、道化のようにみんなにからかわれて滅ぼされる、という運命が自分に来る傾向があるのです。
そのせいかどうか、第1期人類はこの、道化というものに心惹かれるのです。人を笑う芸術である、お笑いというのもよく発達している。有名な芸人など非常に高いステータスを持っている。
シュルレアリスムの画家もよく道化を描いている。それに聖性すらあるかのように、おもちゃめいた王冠をかぶせていたりする。一体、道化はどちらなのか、王はどちらなのか。
人を馬鹿にせねば、馬鹿はつらいのだ。だから、最も大事にしなければならない王を必死で馬鹿にして道化にする。その一方で、お笑い芸人を王侯貴族のようにもてはやす。
キリスト教の教会では、磔刑像が掲げられ、崇められていますが、一体あれはなんだという考えを持つことがあります。あれはイエスなのか、それとも刑死した泥棒なのか。そんな風にも見えるからです。人間は刑死した泥棒をあがめているのか。
道化は王か。王は道化か。
いずれこういう混乱は、すべて整えられねばならないでしょう。