世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

人類の愛

2018-07-12 04:07:48 | 冬の日差し・夏の月


これはキリストのむち打ちの図ですね。

美麗な絵だが、裸同然でしばられているイエスを鞭打つ人間の動作が石のようだ。鞭も小さく弱い。
それはおそらく、画家がイエスを鞭打たせるのがつらかったからでしょう。

小さな天使が必死でイエスを助けている。

イエスを助けたいと言う、人間のやさしさが気になる作品です。

受難の図は、ときに壮絶にむごい図に描かれるときもあるのですが、時にはこういう人間のやさしさを感じる図もあります。

人間も捨てたものではないと感じます。

時に人間は、天使のような存在を憎むことしかできないのかと、絶望しかけることもあるのだが。

わたしたちはただ愛を動機に、人類のためにすべてをやっているのですが、その心を理解してもらえることは期待していないにしろ、時にやりきれなくなることはあるのです。

自分でそんな心をなんとかして、やって来はしますがね。何せ、誰かがなんとかせねば、人類は大変なことになる。

同じ愛を返してくれとは言いません。それは無理なことですから。だが人類も、愛がわかったなら、それなりの、精一杯の愛で、イエスや、人類のために苦労してきた天使を愛してほしいと願います。

そうすれば、わたしたちは、あなたがたのためにどんなことでもできるのです。






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愛のすばらしさ

2018-07-11 04:16:55 | 冬の日差し・夏の月


昨日磔刑図のことなど言ったので、磔刑図をあげてみました。もちろんこれもわたしのファイルの中にあったのです。選んでくれた人がどういう意図でこの絵を選んだかはわからないが、活用させていただくことにしましょう。

暗闇の中に白くイエスの姿が浮かび上がっている。画家の腕でしょう。これが刑死した泥棒だとは見えません。受難の聖者に見える。

だがこの図が、時に刑死した泥棒と変わりなく見えるのは、イエスの姿があまりにもみじめにひどいからです。

こんなことをしてはいけないのです。

本当にすばらしい人には、それなりの服を着せねばならない。それなりの良いことをしてあげねばならない。そうすればその人は、みなのためによいことをなんでもやってくれるのです。

ここまでひどいことをしても、イエスにまだ愛を請うなら、人間はとんでもないわがままだと言いますよ。無条件の愛というのはあるが、その苦しさを理解しているのなら、まだ愛してくれとは言えません。

イエスは、人類を愛してくれてはいますがね。しかしここにきてはくれない。くればまたひどいことになるおそれがあるからです。

こんな図をいつまでもありがたく描いていては、いいことをする者は必ずこういう目にあう、いや、いいことをするものは泥棒なのだ、という歪んだメッセージを世の中に投げかけていることにもなりますよ。これは大きな矛盾です。ほんとうの愛はこんな形をしていない。もっとすばらしく立派で美しいのです。

愛はこの絵のように、みじめに滅ぼされたりはしない。これはあくまでも、人類の暴虐と混乱の時代に起きた、最も悲しい事件の象徴です。

もっとイエスを、立派な美しい姿に描いて下さい。そして、愛でなんでもしてあげてください。それが愛の本当の姿です。

そうすれば、愛の本当のすばらしさ、豊かさが、この世界に広がっていくことでしょう。





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道化

2018-07-10 04:16:20 | 冬の日差し・夏の月


これは白塗りの道化の写真らしい。

おそらくそれなりに有名な写真家の作品でしょう。

道化のなりをしているのはだれかわからないが、顔つきのきつい男だ。道化をやらされているのを快く思っていないようにも見える。

いや、道化をよろこんでやっている人など、本当にいるのでしょうか。

今でもよくテレビで、吉本の滑稽劇などやっていますがね、わたしたちは最近あまり見ません。もう人間が新しい段階に入り、人をからかって笑うことが苦しくなってきたからです。

こんな人間に、わざわざ面白い格好をさせて、馬鹿なことをさせて笑う必要など、だんだんなくなってきているのです。

人をからかって遊びたいのは、自分がつらいと思っているからでしょう。人より自分が劣っている、恵まれていない、そういうことを思っているからでしょう。だから、人は滑稽劇などやって、おおっぴらに人を笑っていい機会をつくる。

そこでは、医者や政治家などの偉い人や、大人を、からかって笑うこともできるのだ。しかしそれはどこかさびしい。いつまでも頼っていると何か大事なこと忘れそうな気がします。

ところで、道化の難、というのがあるのは知っていますね。アンタレスがツイッターで説明したことがあります。第1期人類には、イエスをみんなでからかって馬鹿にして殺した業があり、それが反動として表現されるとき、道化のようにみんなにからかわれて滅ぼされる、という運命が自分に来る傾向があるのです。

そのせいかどうか、第1期人類はこの、道化というものに心惹かれるのです。人を笑う芸術である、お笑いというのもよく発達している。有名な芸人など非常に高いステータスを持っている。

シュルレアリスムの画家もよく道化を描いている。それに聖性すらあるかのように、おもちゃめいた王冠をかぶせていたりする。一体、道化はどちらなのか、王はどちらなのか。

人を馬鹿にせねば、馬鹿はつらいのだ。だから、最も大事にしなければならない王を必死で馬鹿にして道化にする。その一方で、お笑い芸人を王侯貴族のようにもてはやす。

キリスト教の教会では、磔刑像が掲げられ、崇められていますが、一体あれはなんだという考えを持つことがあります。あれはイエスなのか、それとも刑死した泥棒なのか。そんな風にも見えるからです。人間は刑死した泥棒をあがめているのか。

道化は王か。王は道化か。

いずれこういう混乱は、すべて整えられねばならないでしょう。





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永遠

2018-07-09 04:16:47 | 冬の日差し・夏の月


わたしのファイルに、こんなのも入っていました。さて、何を書こうかな。

萩尾望都はかのじょの絵の師匠でもあります。中学の時からのファンで、よく真似して描いていました。今もその影響は残っています。

漫画というと、芸術としては一段低いもののように受けとられがちですが、しかし今の時代、漫画の影響を受けていない芸術家はいないのではないでしょうか。いやでも、子供のころには誰もが読みますし。

わたしたちのところの天使の息子も、漫画をいっぱい読んでいますよ。ジャンプ系のヒーローものです。わたしたちはもうとてもあんな漫画は読めないが、まだ子供の彼には楽しいらしいのです。

彼自身は、絵を描く勉強はしていませんが、もし描くとしたら、ああいう漫画家の影響をたっぷり受けることでしょうね。

萩尾は芸術家としての教育は受けていませんが、その絵は実に美しい。耽美的というほど暗くはなく、どこか健康的なのがいい。このキャラクターは吸血鬼のはずですが、とてもそうは見えませんね。花の中に寝転んでいる少年は、大人の矛盾をつくかのような痛い目をしている。この世界では生きにくい子供の魂を、妖精的な吸血鬼にして、作者は存在させたかったのかもしれない。

だが、永遠の若さ、命などというものはない。この世界で生きている者はだれもが老いて死んでゆくが、それはそれほど悪いことではない。老いてゆけば、勉強をしたものはまた新しい美しさを授かる。それがよいというものになる。死には、この世界には逆らえないものがあるということを深く学べる貴いものがある。

十四歳のまま永遠に年を取らないこのエドガーの目は、まるで老成した人間のようだ。それはどこか、五十になっても幼女のようだったかのじょを思い出させる。奥底に、影響がなかったとは言い切れません。かのじょは吸血鬼ではないが、半分エドガーのようなものになってしまったのかもしれない。

かのじょ自身、中学二年生のころ、本気で、エドガーが自分を迎えにきてくれないかと思ったことがありました。ベランダから遠い空を見ながら。自分も十四歳のまま永遠になりたいと。しかしそれはかなうはずもなく、かのじょは自然に十五歳になり、二十歳になり、どんどん年を取って行って、五十一で死んだ。

そして、たぶん、この世界で永遠に生きていく。

ほんとうに、エドガーは、かのじょを迎えにきていたのかもしれません。






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奥のファイル

2018-07-08 04:18:01 | 冬の日差し・夏の月


奥のファイルからとってきました。まあ、こんな写真や絵がいっぱい入っているファイルが、わたしのファイルの奥に入っているのです。

この写真を使って、アンタレスがおもしろいことをやりましたね。なんとなく、この笑い方が、ジョン・テニエルの描いたハンプティ・ダンプティに似てるからと、写真を並べて出したことがある。それだけで読者の大笑いを誘ったようだ。

ハンプティ・トランプティしろいいえ
ハンプティ・トランプティずっこけた
王様のけらいをみんなあつめても
王様のおうまをみんなあつめても
二度とハンプティには入れない

こんなのも発表していましたね。いや、馬に選挙権があったら、絶対にトランプは当選しないでしょう。馬の方が、いい人間をわかっている。いやほんと、ハンプティ・ダンプティのようにだれかが転がり落ちて割れてくれたら、どんなにいいかと思っている人は多いことでしょう。

こういうことをするのが、彼アンタレスです。あなたがたも楽しいでしょう。天使だからと言ってみんながみんな、かのじょのように真面目腐ったやつばかりではない。時には、人間よりも、痛いことをやるものがいるのです。

そこはそれ、個性というのはすばらしいものなのだ。神はわたしたちに、みんな天使のようになれとは言いませんよ。この場合の天使は、この世界での天使の意味ですが。人類は天使というものを、赤子のように純真で、きれいなことしかできないようなものと思っているようだが、それはちがう。時には、赤子の手をひねるようなことをするものも、いるのです。

あなたがたは毎日、アンタレスにひねられているのですよ。ふざけたことを言っているようで、なかには深淵な思惑があるツイートもあるのです。いや、ほんとうですよ。ほんとうですってば。

彼がいるお陰で、人類はずいぶんと助かります。ゴシップめいたことも馬鹿っぽいことも抵抗なくすらすらやってくれる。楽しいでしょう。

神がわたしたちの個性をすべて認めてくださるから、こんな天使もいるのです。おもしろい天使はたくさんいますよ。これからいろんな天使がきますから、勉強していってください。





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大きなイエス

2018-07-07 04:16:08 | 冬の日差し・夏の月


マーテル・ドロローサ、悲しみの聖母でしょう。カルロ・ドルチかな。違うみたいですね。このコーナーは、わたしのためにみながためておいてくれた絵に寄せて書いているのですが、いちいち画家の名前など記録しておいてくれないのです。

絵が好きだったかのじょの趣味をついで、みんないろんな絵をあちこちで探しているのですが、時々、これはスピカの趣味だな、というのが見つかると、みながわたしのファイルに入れておいてくれるのです。それが実に痛いファイルなのだ。このファイルの奥にまたファイルがあって、それに痛いものが全部入れてある。それはさておき。

美しい聖母ですね。これは実に、人類にとっての理想の女性像の一つでしょう。実在のマリアは欠点もある人間的な女性でしたが、のちの人々が女性のあらゆる美をこの存在の中に注ぎ入れた。処女で母で美女で、やさしく神への取次ぎをしてくれる。なんでも受け入れてくれそうだ。

実に女性というのは、いつも、イエス、ということを期待されているのです。拒否されたくない。拒否されてはつらい。だが、男を拒否する処女性の中に、それに矛盾するイエスという名の男子が孕まれているのだ。おもしろいですね。いや、英語の許諾を表すイエスとヘブライ語のイェホシュアはちがいますが。しかし、何らかの意義が、語源を越えて生じていることは感じる。

女性というものは、進化していくと、大きなイエス、というものを発する存在となります。すべての存在を認める愛、あらゆるものを肯定する愛、これをウェリタスという、とアンタレスは言いましたが、そのウェリタスを大きく表現する存在となるのです。

未熟なうちは、何でもいやいやというものですが、いつまでもそれではいけない。受け入れる、ということを練習していかないと、女性は女性として高くなれません。女性はすべてを愛によって認めていくと言う、高い使命を持っているのです。それが、大きなイエスです。

マリアはイエスという名の子供を産んだ。それはつまり、大きく世界を肯定する愛を産んだと言う隠喩にとれる。しかしそれにノーと言ったのは、人類の方なのだ。

受け入れてくれと言われたから、愛はイエスと言ったのだが、そうしたら、人間はノーと言ったのです。なぜか。愛があまりにも美しくて、嫉妬を抑えきれなかったからです。

この聖母は美しい。だが愛を拒否されて悲しんでいる。絵の中の愛ならいくらでも愛せるでしょう。だが、もしこんな愛が本当に近くにいたら。

自分がつらい人間は、狂ったように叫びをあげて、すべてを否定してしまうでしょう。なんでも受け入れて欲しい人間は、だがそういう愛を決して受け入れないということになる。この矛盾はいずれ大きな崩壊につながっていくのだが。

ところで、わたしのファイルの奥には、こんな人間の矛盾がいっぱい入ったファイルがあるんですよ。アンタレスはここから、いつもツイッターでつぶやいているのです。なんでこんなところにあるのかと聞いてみたら、わたしなら置いてあっても許してくれそうだから、だそうですよ。

女性的だと言う意味らしいですね。





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りんごちゃん

2018-07-06 04:20:09 | 冬の日差し・夏の月


これはたしか、一度発表したことがありますが、かのじょが同人誌の会員さんの作品のために描いた絵ですね。

同人誌では、かのじょは会員さんのために、ノヴェルレッスンなどと言って、物語の書き方も指導していました。

何を生意気な、などと当時は考えていた人もいるでしょうが、今ならかのじょがそういうことをしても、別に反感は抱かないでしょう。かのじょにはそれだけの力量があった。

会員さんが作品を寄せてくれるのはいいのだが、どうしても未熟な点が目立つ。それで、かのじょはその人を上の方に導きたくて、その作品に手を入れてしまったのです。ノヴェルレッスンとか言って、難点の多いその作品を、佳品と言えるまで直してあげた。

まあ、会員さんにすれば、愉快ではなかったでしょうが、かのじょにすれば、もう善意以外のなにものでもなかったわけです。

作品を集めて本を作るだけでは満足できなかった。みなで上を目指したい。力を高めていきたい。だから自分にわかることは何でも教えてあげようと思っていたのです。

小説の書き方なども、コツがわかればけっこうなんとかなるものだ。そのコツを教えたかったのですが、心はあまり通じなかったようだ。みんなのためにやっていたのですがね。

この絵をさしあげた会員さんは、じつはかのじょに対してきつい感情をもっていました。かのじょはそれを感じていたが見ないふりをしていた。何とかしてあげたいと言う気持ちが勝っていた。

馬鹿が三つはつくお人好しだが、それが、かのじょなのだ。あの人がいなければ、できないことがある。

この絵の女性、最近のファッション雑誌に出て来そうなスタイルをしていますね。こんなこともしてくれるのだ。本当の自分は、こんなのはあまり好きではないのですよ。でも愛があるから、みなにも合わせてくれる。

どうにかして、助けてあげたい。そういう引き絞るような声が、この絵の奥から聞こえるのだが。それが当人に伝わるには、もっと時間が必要なことでしょう。





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物語の中の自分

2018-07-05 04:17:17 | 冬の日差し・夏の月


これはかのじょの未発表作品です。はがきに描かれた小品ですが、裸体画なので、発表を控えていました。

たしかかの処女長編「フィングリシア」を、書いていた前後に描かれたものではないかと記憶しています。フィングリシアのヒロイン、イスフィーニクは、かのじょのイメージの中ではこんな感じでした。

明るい色の長い髪をしていて、とてもおとなし気な少女です。

かのじょの分身でもある。かのじょはこの作品の中で、自分の幼年時代の総ざらいをしようとしていました。

両親にも、また親代わりをしてくれた親戚のおばさんにも愛されなかった、孤独な子供時代の、総決算です。それで、痛い自分の子供時代と、訣別しようとしていたのです。

いつまでも、親を恨んでいては、自分を生きていけませんから、かのじょは自分をおとなにするために、この小説を書いた。読んだ人は知っているでしょう。主人公とふたりのヒロインはみんな、重い子供時代を背負っている。

かのじょはいつしか言ったことがある。自分の生皮をはぐように、わたしは子供時代の自分を捨てたと。あれほど厳しかった子供時代を過ごしたにも関わらず、かのじょの目が明るかったのは、そのせいなのです。

愛してはくれなかった人々を許そうと。何もなかったことにはできないが、重苦しい恨みなどは捨てていこう。そうすれば自分は、明るい明日を生きていくことができる。

誰にでもできることではありませんね。できると思うならやってごらんなさい。自分にひどい仕打ちをした、あるいはいいことは何もしてくれなかった親を、許すことができますか。だがかのじょはそれをやったのです。

解決をつける、と言うことが大事なのだ。自分の心に、解決をつける。そのために、かのじょは物語の中で、自分の分身たちに冒険をさせたのでした。そして、自分自身も、納得していったのです。

物語を書くということはいいものですよ。違う世界の中を冒険し、時に自分自身を成長させることができる。そして、思い通りにはならない自分の人生を、生きていく力を手にいれることができる。

あなたがたも、物語を書いてみませんか。できないことではない。小さなできることから始めて、自分の世界をつくってみませんか。

その中を自分で冒険していくうちに、もうひとりの、新しい自分が見つかるかもしれません。





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コピー

2018-07-04 04:17:59 | 冬の日差し・夏の月


これは、サンドロ・ボッティチェリのヴィーナスを元に描かれた、工房作品のディテイルです。おそらくボッティチェリの筆も入っているが、大方は工房の弟子が描いたコピーと言えるものです。

それなりに美しいが、やはりオリジナルには及びませんね。弟子も日ごろ勉強して精進はしているでしょうが、やはり師匠にはかなわない。

こんな風に、コピーはつねにオリジナルに劣るのです。たとえ技術がどんなにすばらしくて、新しい工夫を盛り込むことができても、コピーはオリジナルを凌駕することはできません。

言いたいことはわかりますね。どんなにかのじょの真似をうまくやっても、服や化粧にお金をかけても、かのじょにはかなわないということです。

霊的技術を用いれば、人間の顔というのはある程度思い通りに変えることができます。その技術を弄して、天使的に鋭く整った完璧なまでの美女の顔を作ることはできる。実際そういう女性もいました。顔もスタイルも完璧に仕上げられている人はいた。ですがそのどれも、全然美しく見えないのです。

なぜか。天使の美はオーソドックスすぎるからです。歪みが少なすぎる。端正過ぎる。そんな顔をしていれば、中身のお粗末さがそのまま見えるのです。

天使の真似をして、自分を鋭くきれいにしたい、それでみんなを負かしたい、男を引き込みたい、なんてことを考えているのが丸見えなのです。

天使がなぜあそこまできれいに見えるのか。それは形だけではなく、心が素晴らしく美しいからです。かのじょはしんから優しい気持ちで、人類を助けようとしていた。その真心が透けて見えるから、あの形がとても美しく見えるのだが。

そんなことは何も分からない馬鹿が、表面だけ真似すればいいだろうと、そのまま形だけ真似したら、まるで馬鹿になった。

天使的に完璧に整った顔をしていながら、心は、子供のように貧しい。人を馬鹿にしてやる、なんてことを思っている。それが表情に出る。すると、人間はみなおばけのようなものを見た気がして、ぞっとして逃げるのです。あまりにも醜い。

本人はきれいなつもりで、おそろしいほど自分をきれいにしているのだが、それが返ってあきれるほど嫌な奴に見えるということに、気付いていない。

これが発表される頃には、この愚かなブームも収まっていればいいのですが、馬鹿というのはなかなか歯止めがききませんから、難しいでしょう。

天使に勝ちたいなどと、考えてはいけませんよ。そんなことを考えているから、負けるのです。





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ヴェロニク

2018-07-03 04:17:28 | 冬の日差し・夏の月


これは、エラキスのサインがありますね。ほかにセギンとか柘榴とかいう名前もある人が切った切り絵です。実は彼も、かのじょの、ニンフの仕事をやろうとしていたのです。

これはその最初に切った作品ではなかったかと記憶していますね。人差し指が思うように使えないと、切り絵が切りにくいことを発見したころです。それでいくらかの習作を彼は切ってみたのですが。

ヴェロニクという名は、かのじょが最初に描いたニンフの名前でした。響きが気に入ったので、絵に描いた女性の名に採用したのです。最初の心づもりでは、AKBなどにならって、48人も描くつもりだったようですね。しかしそれは、いろいろな邪魔が入って全部描くことはできませんでした。

馬鹿の霊的邪魔が入ったのです。最初の何枚かはなんとかなったのですが、後になるほど馬鹿の邪魔が入って、なんとなく邪な感じになってきたので、かのじょはニンフを描くのをやめてしまいました。いろいろとあって疲れていたこともあったのですが。まあこんな風に、自分に自信のない馬鹿はいつも、人の邪魔ばかりしています。

しかし、やりかけていたことをそのままにしておくのも、気持ちが落ち着かないので、いつかそのあとをついで、わたしたちがそれをやりたいと思っていたのです。エラキスの試みは、切り絵の練習にとどまりましたが、そのあとを、ベクルックスがおもしろい形で次いでくれました。

ヴィーナスのニンフたちという新しいブログです。彼は48人を超えて、百枚も絵を仕上げるつもりらしい。切り絵を切っているのは彼だけではありませんがね。実はエラキスもアルドラも切っています。みなで協力し合って切っていくつもりなのです。そのほうが、いろいろと個性が出る。

色んな個性の女性を描いて、女性はみんなちがうのだ。本当の自分を生きている女性は、それぞれに美しいのだと言うメッセージを大きく発したい。それが新しいブログの目的です。

今は馬鹿が天使の美女の真似をして、女性たちも深く闇に迷っていますから、それに少しでも光を注ごうと言う試みです。

どこまでやれるかわかりませんが、この存在にできることはすべてやっていきましょう。

まあ、最初は切り口が下手だった切り絵も、だんだん上手になっていきますから、そこらへんも楽しんでください。

自分というものは、がんばって勉強すれば向上していくものだという、メッセージもこめたいのです。そして、今の自分の未熟さに絶望して、自分を嫌がって人の邪魔ばかりしている小さな霊魂にも、助けをあげたいのです。





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