一振の夜
聖海
1 古池や蛙飛びこむ水のおと
貞享三年弥生(西暦1686年4月20日前後)の名残が残る小名木川の川辺には蕗の薹が頭をだし、タラの芽を青葉がおおっている。堤には鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂り、その中に人が踏みならした一本の細い道が続いている。その道に小糠の雨が降りしきっている。
笠を被り、蓑を着た仙化はその道を足早に歩いていく。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな家が望める。そこが仙化の訪ねる先である。そこは小名木川と土地の者が大川と呼びならわしている隅田川とが合流する場所の手前にあった。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に芭蕉は挨拶をした。
「師匠から蛙を季題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかとのお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたからね」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさいくらいでした」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めましたね。農民にとって春は一刻を争う時節ですからね」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。仙化は目で其角と挨拶を交わし、其角の隣に座った。そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。
座布団に座った仙化を見て芭蕉はいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける』ですからな」
「われわれ俳諧をする者にとっては蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはいきません」
仙化は芭蕉の言葉に応えた。
「確かに、確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか決まらなくもがいているところです。上五に苦しんでいます」
芭蕉の話を聞いていた其角が突然いった。
「師匠が先ほどいっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょう」
其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら静かに言った。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですね。山吹では私の俳諧にはならないように思うのです。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。京の井出の玉川で鳴く河鹿蛙を詠んだ歌だったと思い起していた。玉川とはどんな山間(やまあい)の川なのだろう。京に行ったことのない仙化は想いめぐらした。山吹が川の上におおいかぶさり透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)を思い浮かべ、川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴くという河鹿蛙を思った。誰が詠んだのか、忘れてしまったが古今集にある歌を思い出そうと心を籠めていた。すると芭蕉がいった。
「仙化さん、古今集の歌を思い出そうとしているのですか」
「そうです。『ゐでの山吹……』という言葉は出てきたのですがね……」
仙化の言葉を聞いた芭蕉はいった。
「『かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにおはまし物を』でしょうかね」
「そうです。そうです。蛙と山吹を詠んだ歌でした」
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』では俳諧ではないですね」
仙化の言葉に芭蕉はいった。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声ですけれども、私が詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるのですよ」
すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』、芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まずにいることはできませんからな」
と、其角はニヤリとして句を読んだ。仙化はまだ句が詠めていなかった。芭蕉は静かに決まった言葉を発見したかのようにいった。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』。みなさん、いかがでしよう」
仙化は師匠が詠んだ句を心の中で繰り返し、気になったことを師匠におずおずと尋ねた。
「古池」と「水」、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしようか」
芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、ただ一言、「や」は切字ですとのみ応えた。仙化は去来に芭蕉が述べたという言葉を思い出していた。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」。こう芭蕉は去来に述べたと伝え聞いていた。こういわれている以上、仙化はさらに問うことをためらった。仙化は自分が詠まなくてはならない句に没頭した。師匠の句を聞き、突然睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだ。「いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉」。仙化はさらさらとこの句をしたためた。
芭蕉は切字「や」の働きを弟子たちに教えなかった。これは教えるものではない。弟子たち一人一人が句を詠み、自分のものにしなくてはならない。
其角はこの「蛙合」で詠んだ芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水のおと」を味わい、師匠は風雅の誠を詠むことに成功したのではないかと漠然と感じていた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)がある。このことに其角は気が付いた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」とは全く別次元の言葉なのだ。二つの別次元の言葉ですよと言っている言葉が切字「や」なのだと其角は悟った。「古池」と「水」、同じような意味をもつ二つの言葉ではあるが「古池」と「水」はそれぞれ別の次元での言葉であるから同じ言葉を重ねていることにはならないのだ。このように其角は納得した。この句は「古池に蛙が飛びこみ水の音がした」という句ではないのだと、其角は漠然と思っていたが、切字「や」の働きに気付いてからははっきりと「古池に蛙が飛びこむ水の音」という句ではないと其角は考えるようになった。師匠の芭蕉は芭蕉庵の部屋の中にあって蛙が水に飛びこむ音を聞いた。このとき、実際には何匹もの蛙が水に飛びこむ音を聞いたはずだが、「古池や」と詠んだ瞬間、飛びこんだ蛙は一匹にちがいない。水音はポチャンと一つきりなのだ。それが切字「や」の働きなのだ。この音に刺激された師匠の心に昔見たような古池の姿が浮かび上がった。「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句は閑寂な師匠の心象風景を表現した句なのだとわかるようになった。
数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角にいった。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしよう」
「それは面白い企画ですね」と其角は応える同時に仙化に問うた。
「仙化さん、師匠の句『古池や蛙飛びこむ水のおと』は何を詠った句だとおもいますか」
「古池に蛙が飛びこみ水の音がしたというだけでは師匠の句にはならないように感じているのですがねー」
仙化が其角に応えると其角は胸を反らし、いった。
「そう思うでしょう。仙化さん、師匠のいう切字の働きが分かりましたよ。師匠は切字とは切ることと言っているのです。切字の働きとは間(ま)を設けることだといっているのですよ」
「あっ、そうですか。それで分かりました。其角さん、ありがとうございました」
「分かりましたか」
「はい、分かりました。芭蕉庵に一人でいる静寂な心内を師匠は詠んでいるのですね」
「そうですよ。そうなんです」
と其角は仙化に応えた。
2
一家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉
芭蕉庵で蛙合をしてから三年後の元禄二年三月二十七日(西暦1689年5月16日)、千住から芭蕉と曾良は「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、越中路にさしかかっていた。七月十二日(西暦1689年8月26日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能生川に至った。能生川は徒歩(かち)歩きで渡る。水量は多く、水勢は強く、早い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩歩きの早川が間近に迫ってきた。山間から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまってすまないね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉は言った。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまいました」
「何か、新しい風雅があるように感じているのですか」
「何か、生まれてきているように思うのですよ。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますよね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。平易な我々が日常使っている言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと私は考えています」
「曾良さん、そうなんですよ。その風雅が寂びの心であり、侘びの心でしょうか」
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしようか」
「何か、そのような風雅のあり方があるように感じられるのですよ」
「古池やの句で詠まれた風雅をさらに深めた風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
「そうだといいのですがね。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参りましたからね」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのですよ。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのですよ」
「なるほど。一振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですね」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのですがね」
曾良と話しながら、天和二年十二月二八日(西暦一六八三年一月二五日)に起きた江戸の大火を芭蕉は思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」貞享三年(西暦一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。年も押し迫った十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。この大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに芭蕉は励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものが俳諧だと芭蕉は感じていた。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは笑っていた。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅あることを見つけ始めていた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。夕飯も早々、疲れ切っていた芭蕉と曾良は枕を並べて早々に床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に若い女二人のすすり泣くような声がかすかに隣の部屋から聞こえてきた。何を話しているのかわからないが若い女二人の声に誘われて尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向っていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見ていると眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は一振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かに言った。
「よろしゅうございます」
年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くとそれは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。言われたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のようにあたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身をひさぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけて生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
一家に遊女も寝たり萩と月
昨夜の出来事は夢幻のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わかりません。女二人だけでは心細くてしかたがございません。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうございます。どうか、お許しくださいませ」
芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃいます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私どものような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけのうございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきとうございます」
涙を落とし、すがるように女は言う。女の願い事を聞いている芭蕉に変わって曾良が答えた。
「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまた言った。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)が俳諧なのだと芭蕉は感じ始めていた。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと芭蕉は心の中で遊女たちに言っていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきましたよ」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんですとも」
こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれまたね。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節を私は思い出していたのですよ」
「そうですか。だから、浮世を生きる人に問うているのですね」
「そうなのですよ。『猿を聞く人』と問うてみたのです。この世を見なさいとね」
「なるほど、猿の鳴き声ほど悲しく、哀れなものはないですからな」
「小猿を殺された母猿の腸は破れていたという故事があるほどですからね」
「師匠はまず浮世の人に問い、さらに古人に問い、自分に問うているのですね」
「曾良さんはそんなふうにこの句を読んで感じてもらえましたか」
「自分に問うて、江戸町人のように大火に焼け出されても、誰を怨むことなく笑って生きていく姿に風雅の目指す道があるように感じているのですがね」
「師匠のおっしゃる通りです」
「そうなのです。私どもにゃ、何もできゃしません。この世の春を謳歌する唐の詩人たちや、古人の歌人たちにこの世の無慈悲さを問うことしかできません」
「この世に生きる歓びを詠う詩人や昔の歌人に問うことは今の自分に問うことなのですね」
「そういうことになりますかね」
「師匠はそれだけではなく、今日の自分の昼飯を投げ与えたじゃありませんか」
「私はね、捨てられた子の天命を信じているのですよ」
「わしも信じといます。師匠が詠んでいるように、母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「この世が浮世でないはずがない。そうじゃないですか。曾良さん」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの天命も信じているわけなのですね」
「もちろん、そうですよ」
「わしは師匠の気持ちが分かったものですから遊女たちの願いを断ったわけです」
「ありがとう。本当にありがとう」
曾良は「野ざらし紀行」の富士川の畔の件(くだり)を読んだときに震えるような感動をお覚えていた。このことを曾良は芭蕉には話さなかった。話せなかった。生きることは苦しみ以外のなにものでもない。苦しみもがき、生きている自分を遠くの自分が自分を見て笑う。富士川の畔の件は芭蕉が捨て子に言った言葉ではない。芭蕉は自分に問うたのだ。こんなことを自分が自分に言って笑いたいと思っている。そのように曾良は芭蕉の句を、言葉を分かったつもりになっていた。芭蕉はちっとも三つばかりになる捨て子にたいして自分は無慈悲だとは思っていない。無慈悲にならざるを得ないと思っているのだ。生きるとは無慈悲さの中で無慈悲さを見つめ、その無慈悲な中を平気に生きていく。こう思っていたのだ。曾良もまた無慈悲さの中にいた。だから曾良は富士川の一節を読み震えるような感銘を受けたと言えなかったのだ。目の前の現実に打ちのめされていては風雅を詠むことはできない。曾良は芭蕉が風雅をどのように考えているのか興味が湧いてきた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしてきたのです。浮世とは出会いと別れですね」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当ですな」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思うのですがね。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない。こんなことになりますからな」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽さが表現できないかと思うのです」
「師匠、おっしゃるとおりです」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めをくいました。その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのですよ。今、思うととても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。切れがいい。こんなふうに思うのですが、曾良さん、いかがですか」
「軽いですな。師匠。本当に軽い」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事と気付いたのが市振の宿だったように思うんですよ」
「なるほど、軽みですか」
芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は柿本人麻呂の歌を思い出した。
たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 柿本人麻呂
有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。ここで恋句を詠んではならないのだ。そう、芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
芭蕉は有磯海をこのように詠んだ。芭蕉にとってこの句は軽みを表現しようと思い詠んだ最初の句になった。
芭蕉は「古池や蛙飛びこむ水のおと」を詠み、蕉風に開眼し、「おくのほそ道」の旅で蕉風を完成する「かるみ」の精神を発見した。
参考文献
おくのほそ道、菅菰抄、俳諧書留(芭蕉)
笈の小文、去来抄、曾良旅日記、三冊子
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)芭蕉紀行文集(中村俊定校注)
聖海
1 古池や蛙飛びこむ水のおと
貞享三年弥生(西暦1686年4月20日前後)の名残が残る小名木川の川辺には蕗の薹が頭をだし、タラの芽を青葉がおおっている。堤には鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂り、その中に人が踏みならした一本の細い道が続いている。その道に小糠の雨が降りしきっている。
笠を被り、蓑を着た仙化はその道を足早に歩いていく。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな家が望める。そこが仙化の訪ねる先である。そこは小名木川と土地の者が大川と呼びならわしている隅田川とが合流する場所の手前にあった。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に芭蕉は挨拶をした。
「師匠から蛙を季題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかとのお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたからね」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさいくらいでした」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めましたね。農民にとって春は一刻を争う時節ですからね」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。仙化は目で其角と挨拶を交わし、其角の隣に座った。そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。
座布団に座った仙化を見て芭蕉はいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける』ですからな」
「われわれ俳諧をする者にとっては蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはいきません」
仙化は芭蕉の言葉に応えた。
「確かに、確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか決まらなくもがいているところです。上五に苦しんでいます」
芭蕉の話を聞いていた其角が突然いった。
「師匠が先ほどいっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょう」
其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら静かに言った。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですね。山吹では私の俳諧にはならないように思うのです。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。京の井出の玉川で鳴く河鹿蛙を詠んだ歌だったと思い起していた。玉川とはどんな山間(やまあい)の川なのだろう。京に行ったことのない仙化は想いめぐらした。山吹が川の上におおいかぶさり透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)を思い浮かべ、川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴くという河鹿蛙を思った。誰が詠んだのか、忘れてしまったが古今集にある歌を思い出そうと心を籠めていた。すると芭蕉がいった。
「仙化さん、古今集の歌を思い出そうとしているのですか」
「そうです。『ゐでの山吹……』という言葉は出てきたのですがね……」
仙化の言葉を聞いた芭蕉はいった。
「『かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにおはまし物を』でしょうかね」
「そうです。そうです。蛙と山吹を詠んだ歌でした」
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』では俳諧ではないですね」
仙化の言葉に芭蕉はいった。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声ですけれども、私が詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるのですよ」
すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』、芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まずにいることはできませんからな」
と、其角はニヤリとして句を読んだ。仙化はまだ句が詠めていなかった。芭蕉は静かに決まった言葉を発見したかのようにいった。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』。みなさん、いかがでしよう」
仙化は師匠が詠んだ句を心の中で繰り返し、気になったことを師匠におずおずと尋ねた。
「古池」と「水」、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしようか」
芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、ただ一言、「や」は切字ですとのみ応えた。仙化は去来に芭蕉が述べたという言葉を思い出していた。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」。こう芭蕉は去来に述べたと伝え聞いていた。こういわれている以上、仙化はさらに問うことをためらった。仙化は自分が詠まなくてはならない句に没頭した。師匠の句を聞き、突然睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだ。「いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉」。仙化はさらさらとこの句をしたためた。
芭蕉は切字「や」の働きを弟子たちに教えなかった。これは教えるものではない。弟子たち一人一人が句を詠み、自分のものにしなくてはならない。
其角はこの「蛙合」で詠んだ芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水のおと」を味わい、師匠は風雅の誠を詠むことに成功したのではないかと漠然と感じていた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)がある。このことに其角は気が付いた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」とは全く別次元の言葉なのだ。二つの別次元の言葉ですよと言っている言葉が切字「や」なのだと其角は悟った。「古池」と「水」、同じような意味をもつ二つの言葉ではあるが「古池」と「水」はそれぞれ別の次元での言葉であるから同じ言葉を重ねていることにはならないのだ。このように其角は納得した。この句は「古池に蛙が飛びこみ水の音がした」という句ではないのだと、其角は漠然と思っていたが、切字「や」の働きに気付いてからははっきりと「古池に蛙が飛びこむ水の音」という句ではないと其角は考えるようになった。師匠の芭蕉は芭蕉庵の部屋の中にあって蛙が水に飛びこむ音を聞いた。このとき、実際には何匹もの蛙が水に飛びこむ音を聞いたはずだが、「古池や」と詠んだ瞬間、飛びこんだ蛙は一匹にちがいない。水音はポチャンと一つきりなのだ。それが切字「や」の働きなのだ。この音に刺激された師匠の心に昔見たような古池の姿が浮かび上がった。「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句は閑寂な師匠の心象風景を表現した句なのだとわかるようになった。
数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角にいった。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしよう」
「それは面白い企画ですね」と其角は応える同時に仙化に問うた。
「仙化さん、師匠の句『古池や蛙飛びこむ水のおと』は何を詠った句だとおもいますか」
「古池に蛙が飛びこみ水の音がしたというだけでは師匠の句にはならないように感じているのですがねー」
仙化が其角に応えると其角は胸を反らし、いった。
「そう思うでしょう。仙化さん、師匠のいう切字の働きが分かりましたよ。師匠は切字とは切ることと言っているのです。切字の働きとは間(ま)を設けることだといっているのですよ」
「あっ、そうですか。それで分かりました。其角さん、ありがとうございました」
「分かりましたか」
「はい、分かりました。芭蕉庵に一人でいる静寂な心内を師匠は詠んでいるのですね」
「そうですよ。そうなんです」
と其角は仙化に応えた。
2
一家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉
芭蕉庵で蛙合をしてから三年後の元禄二年三月二十七日(西暦1689年5月16日)、千住から芭蕉と曾良は「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、越中路にさしかかっていた。七月十二日(西暦1689年8月26日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能生川に至った。能生川は徒歩(かち)歩きで渡る。水量は多く、水勢は強く、早い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩歩きの早川が間近に迫ってきた。山間から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまってすまないね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉は言った。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまいました」
「何か、新しい風雅があるように感じているのですか」
「何か、生まれてきているように思うのですよ。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますよね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。平易な我々が日常使っている言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと私は考えています」
「曾良さん、そうなんですよ。その風雅が寂びの心であり、侘びの心でしょうか」
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしようか」
「何か、そのような風雅のあり方があるように感じられるのですよ」
「古池やの句で詠まれた風雅をさらに深めた風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
「そうだといいのですがね。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参りましたからね」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのですよ。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのですよ」
「なるほど。一振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですね」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのですがね」
曾良と話しながら、天和二年十二月二八日(西暦一六八三年一月二五日)に起きた江戸の大火を芭蕉は思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」貞享三年(西暦一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。年も押し迫った十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。この大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに芭蕉は励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものが俳諧だと芭蕉は感じていた。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは笑っていた。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅あることを見つけ始めていた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。夕飯も早々、疲れ切っていた芭蕉と曾良は枕を並べて早々に床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に若い女二人のすすり泣くような声がかすかに隣の部屋から聞こえてきた。何を話しているのかわからないが若い女二人の声に誘われて尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向っていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見ていると眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は一振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かに言った。
「よろしゅうございます」
年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くとそれは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。言われたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のようにあたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身をひさぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけて生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
一家に遊女も寝たり萩と月
昨夜の出来事は夢幻のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わかりません。女二人だけでは心細くてしかたがございません。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうございます。どうか、お許しくださいませ」
芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃいます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私どものような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけのうございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきとうございます」
涙を落とし、すがるように女は言う。女の願い事を聞いている芭蕉に変わって曾良が答えた。
「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまた言った。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)が俳諧なのだと芭蕉は感じ始めていた。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと芭蕉は心の中で遊女たちに言っていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきましたよ」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんですとも」
こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれまたね。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節を私は思い出していたのですよ」
「そうですか。だから、浮世を生きる人に問うているのですね」
「そうなのですよ。『猿を聞く人』と問うてみたのです。この世を見なさいとね」
「なるほど、猿の鳴き声ほど悲しく、哀れなものはないですからな」
「小猿を殺された母猿の腸は破れていたという故事があるほどですからね」
「師匠はまず浮世の人に問い、さらに古人に問い、自分に問うているのですね」
「曾良さんはそんなふうにこの句を読んで感じてもらえましたか」
「自分に問うて、江戸町人のように大火に焼け出されても、誰を怨むことなく笑って生きていく姿に風雅の目指す道があるように感じているのですがね」
「師匠のおっしゃる通りです」
「そうなのです。私どもにゃ、何もできゃしません。この世の春を謳歌する唐の詩人たちや、古人の歌人たちにこの世の無慈悲さを問うことしかできません」
「この世に生きる歓びを詠う詩人や昔の歌人に問うことは今の自分に問うことなのですね」
「そういうことになりますかね」
「師匠はそれだけではなく、今日の自分の昼飯を投げ与えたじゃありませんか」
「私はね、捨てられた子の天命を信じているのですよ」
「わしも信じといます。師匠が詠んでいるように、母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「この世が浮世でないはずがない。そうじゃないですか。曾良さん」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの天命も信じているわけなのですね」
「もちろん、そうですよ」
「わしは師匠の気持ちが分かったものですから遊女たちの願いを断ったわけです」
「ありがとう。本当にありがとう」
曾良は「野ざらし紀行」の富士川の畔の件(くだり)を読んだときに震えるような感動をお覚えていた。このことを曾良は芭蕉には話さなかった。話せなかった。生きることは苦しみ以外のなにものでもない。苦しみもがき、生きている自分を遠くの自分が自分を見て笑う。富士川の畔の件は芭蕉が捨て子に言った言葉ではない。芭蕉は自分に問うたのだ。こんなことを自分が自分に言って笑いたいと思っている。そのように曾良は芭蕉の句を、言葉を分かったつもりになっていた。芭蕉はちっとも三つばかりになる捨て子にたいして自分は無慈悲だとは思っていない。無慈悲にならざるを得ないと思っているのだ。生きるとは無慈悲さの中で無慈悲さを見つめ、その無慈悲な中を平気に生きていく。こう思っていたのだ。曾良もまた無慈悲さの中にいた。だから曾良は富士川の一節を読み震えるような感銘を受けたと言えなかったのだ。目の前の現実に打ちのめされていては風雅を詠むことはできない。曾良は芭蕉が風雅をどのように考えているのか興味が湧いてきた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしてきたのです。浮世とは出会いと別れですね」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当ですな」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思うのですがね。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない。こんなことになりますからな」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽さが表現できないかと思うのです」
「師匠、おっしゃるとおりです」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めをくいました。その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのですよ。今、思うととても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。切れがいい。こんなふうに思うのですが、曾良さん、いかがですか」
「軽いですな。師匠。本当に軽い」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事と気付いたのが市振の宿だったように思うんですよ」
「なるほど、軽みですか」
芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は柿本人麻呂の歌を思い出した。
たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 柿本人麻呂
有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。ここで恋句を詠んではならないのだ。そう、芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
芭蕉は有磯海をこのように詠んだ。芭蕉にとってこの句は軽みを表現しようと思い詠んだ最初の句になった。
芭蕉は「古池や蛙飛びこむ水のおと」を詠み、蕉風に開眼し、「おくのほそ道」の旅で蕉風を完成する「かるみ」の精神を発見した。
参考文献
おくのほそ道、菅菰抄、俳諧書留(芭蕉)
笈の小文、去来抄、曾良旅日記、三冊子
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)芭蕉紀行文集(中村俊定校注)