醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  7号(短編小説)    聖海

2014-11-20 14:34:42 | 日記
一振の夜   
                  聖海
 1 古池や蛙飛びこむ水のおと
 貞享三年弥生(西暦1686年4月20日前後)の名残が残る小名木川の川辺には蕗の薹が頭をだし、タラの芽を青葉がおおっている。堤には鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂り、その中に人が踏みならした一本の細い道が続いている。その道に小糠の雨が降りしきっている。
笠を被り、蓑を着た仙化はその道を足早に歩いていく。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな家が望める。そこが仙化の訪ねる先である。そこは小名木川と土地の者が大川と呼びならわしている隅田川とが合流する場所の手前にあった。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に芭蕉は挨拶をした。
「師匠から蛙を季題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかとのお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたからね」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさいくらいでした」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めましたね。農民にとって春は一刻を争う時節ですからね」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。仙化は目で其角と挨拶を交わし、其角の隣に座った。そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。
座布団に座った仙化を見て芭蕉はいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける』ですからな」
「われわれ俳諧をする者にとっては蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはいきません」
仙化は芭蕉の言葉に応えた。
「確かに、確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか決まらなくもがいているところです。上五に苦しんでいます」
 芭蕉の話を聞いていた其角が突然いった。
「師匠が先ほどいっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょう」
 其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら静かに言った。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですね。山吹では私の俳諧にはならないように思うのです。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。京の井出の玉川で鳴く河鹿蛙を詠んだ歌だったと思い起していた。玉川とはどんな山間(やまあい)の川なのだろう。京に行ったことのない仙化は想いめぐらした。山吹が川の上におおいかぶさり透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)を思い浮かべ、川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴くという河鹿蛙を思った。誰が詠んだのか、忘れてしまったが古今集にある歌を思い出そうと心を籠めていた。すると芭蕉がいった。
「仙化さん、古今集の歌を思い出そうとしているのですか」
「そうです。『ゐでの山吹……』という言葉は出てきたのですがね……」
仙化の言葉を聞いた芭蕉はいった。
「『かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにおはまし物を』でしょうかね」
「そうです。そうです。蛙と山吹を詠んだ歌でした」
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』では俳諧ではないですね」
 仙化の言葉に芭蕉はいった。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声ですけれども、私が詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるのですよ」
 すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』、芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まずにいることはできませんからな」
と、其角はニヤリとして句を読んだ。仙化はまだ句が詠めていなかった。芭蕉は静かに決まった言葉を発見したかのようにいった。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』。みなさん、いかがでしよう」
 仙化は師匠が詠んだ句を心の中で繰り返し、気になったことを師匠におずおずと尋ねた。
「古池」と「水」、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしようか」
 芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、ただ一言、「や」は切字ですとのみ応えた。仙化は去来に芭蕉が述べたという言葉を思い出していた。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」。こう芭蕉は去来に述べたと伝え聞いていた。こういわれている以上、仙化はさらに問うことをためらった。仙化は自分が詠まなくてはならない句に没頭した。師匠の句を聞き、突然睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだ。「いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉」。仙化はさらさらとこの句をしたためた。
 芭蕉は切字「や」の働きを弟子たちに教えなかった。これは教えるものではない。弟子たち一人一人が句を詠み、自分のものにしなくてはならない。
其角はこの「蛙合」で詠んだ芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水のおと」を味わい、師匠は風雅の誠を詠むことに成功したのではないかと漠然と感じていた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)がある。このことに其角は気が付いた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」とは全く別次元の言葉なのだ。二つの別次元の言葉ですよと言っている言葉が切字「や」なのだと其角は悟った。「古池」と「水」、同じような意味をもつ二つの言葉ではあるが「古池」と「水」はそれぞれ別の次元での言葉であるから同じ言葉を重ねていることにはならないのだ。このように其角は納得した。この句は「古池に蛙が飛びこみ水の音がした」という句ではないのだと、其角は漠然と思っていたが、切字「や」の働きに気付いてからははっきりと「古池に蛙が飛びこむ水の音」という句ではないと其角は考えるようになった。師匠の芭蕉は芭蕉庵の部屋の中にあって蛙が水に飛びこむ音を聞いた。このとき、実際には何匹もの蛙が水に飛びこむ音を聞いたはずだが、「古池や」と詠んだ瞬間、飛びこんだ蛙は一匹にちがいない。水音はポチャンと一つきりなのだ。それが切字「や」の働きなのだ。この音に刺激された師匠の心に昔見たような古池の姿が浮かび上がった。「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句は閑寂な師匠の心象風景を表現した句なのだとわかるようになった。
数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角にいった。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしよう」
「それは面白い企画ですね」と其角は応える同時に仙化に問うた。
「仙化さん、師匠の句『古池や蛙飛びこむ水のおと』は何を詠った句だとおもいますか」
「古池に蛙が飛びこみ水の音がしたというだけでは師匠の句にはならないように感じているのですがねー」
仙化が其角に応えると其角は胸を反らし、いった。
「そう思うでしょう。仙化さん、師匠のいう切字の働きが分かりましたよ。師匠は切字とは切ることと言っているのです。切字の働きとは間(ま)を設けることだといっているのですよ」
「あっ、そうですか。それで分かりました。其角さん、ありがとうございました」
「分かりましたか」
「はい、分かりました。芭蕉庵に一人でいる静寂な心内を師匠は詠んでいるのですね」
「そうですよ。そうなんです」
と其角は仙化に応えた。


一家に遊女も寝たり萩と月  芭蕉

 芭蕉庵で蛙合をしてから三年後の元禄二年三月二十七日(西暦1689年5月16日)、千住から芭蕉と曾良は「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、越中路にさしかかっていた。七月十二日(西暦1689年8月26日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能生川に至った。能生川は徒歩(かち)歩きで渡る。水量は多く、水勢は強く、早い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩歩きの早川が間近に迫ってきた。山間から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまってすまないね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉は言った。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまいました」
「何か、新しい風雅があるように感じているのですか」
「何か、生まれてきているように思うのですよ。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますよね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。平易な我々が日常使っている言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと私は考えています」
「曾良さん、そうなんですよ。その風雅が寂びの心であり、侘びの心でしょうか」
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしようか」
「何か、そのような風雅のあり方があるように感じられるのですよ」
「古池やの句で詠まれた風雅をさらに深めた風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
「そうだといいのですがね。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参りましたからね」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのですよ。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのですよ」
「なるほど。一振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですね」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのですがね」
 曾良と話しながら、天和二年十二月二八日(西暦一六八三年一月二五日)に起きた江戸の大火を芭蕉は思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」貞享三年(西暦一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。年も押し迫った十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。この大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに芭蕉は励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものが俳諧だと芭蕉は感じていた。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは笑っていた。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅あることを見つけ始めていた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
 芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
 断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。夕飯も早々、疲れ切っていた芭蕉と曾良は枕を並べて早々に床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に若い女二人のすすり泣くような声がかすかに隣の部屋から聞こえてきた。何を話しているのかわからないが若い女二人の声に誘われて尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向っていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見ていると眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は一振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かに言った。
「よろしゅうございます」
 年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くとそれは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。言われたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のようにあたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身をひさぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけて生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
 朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
 一家に遊女も寝たり萩と月
 昨夜の出来事は夢幻のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
 「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わかりません。女二人だけでは心細くてしかたがございません。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうございます。どうか、お許しくださいませ」
 芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
 「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃいます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私どものような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけのうございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきとうございます」
 涙を落とし、すがるように女は言う。女の願い事を聞いている芭蕉に変わって曾良が答えた。
 「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまた言った。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)が俳諧なのだと芭蕉は感じ始めていた。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと芭蕉は心の中で遊女たちに言っていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきましたよ」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんですとも」
 こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれまたね。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節を私は思い出していたのですよ」
「そうですか。だから、浮世を生きる人に問うているのですね」
「そうなのですよ。『猿を聞く人』と問うてみたのです。この世を見なさいとね」
「なるほど、猿の鳴き声ほど悲しく、哀れなものはないですからな」
「小猿を殺された母猿の腸は破れていたという故事があるほどですからね」
「師匠はまず浮世の人に問い、さらに古人に問い、自分に問うているのですね」
「曾良さんはそんなふうにこの句を読んで感じてもらえましたか」
「自分に問うて、江戸町人のように大火に焼け出されても、誰を怨むことなく笑って生きていく姿に風雅の目指す道があるように感じているのですがね」
「師匠のおっしゃる通りです」
「そうなのです。私どもにゃ、何もできゃしません。この世の春を謳歌する唐の詩人たちや、古人の歌人たちにこの世の無慈悲さを問うことしかできません」
「この世に生きる歓びを詠う詩人や昔の歌人に問うことは今の自分に問うことなのですね」
「そういうことになりますかね」
「師匠はそれだけではなく、今日の自分の昼飯を投げ与えたじゃありませんか」
「私はね、捨てられた子の天命を信じているのですよ」
「わしも信じといます。師匠が詠んでいるように、母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「この世が浮世でないはずがない。そうじゃないですか。曾良さん」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの天命も信じているわけなのですね」
「もちろん、そうですよ」
「わしは師匠の気持ちが分かったものですから遊女たちの願いを断ったわけです」
「ありがとう。本当にありがとう」
 曾良は「野ざらし紀行」の富士川の畔の件(くだり)を読んだときに震えるような感動をお覚えていた。このことを曾良は芭蕉には話さなかった。話せなかった。生きることは苦しみ以外のなにものでもない。苦しみもがき、生きている自分を遠くの自分が自分を見て笑う。富士川の畔の件は芭蕉が捨て子に言った言葉ではない。芭蕉は自分に問うたのだ。こんなことを自分が自分に言って笑いたいと思っている。そのように曾良は芭蕉の句を、言葉を分かったつもりになっていた。芭蕉はちっとも三つばかりになる捨て子にたいして自分は無慈悲だとは思っていない。無慈悲にならざるを得ないと思っているのだ。生きるとは無慈悲さの中で無慈悲さを見つめ、その無慈悲な中を平気に生きていく。こう思っていたのだ。曾良もまた無慈悲さの中にいた。だから曾良は富士川の一節を読み震えるような感銘を受けたと言えなかったのだ。目の前の現実に打ちのめされていては風雅を詠むことはできない。曾良は芭蕉が風雅をどのように考えているのか興味が湧いてきた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしてきたのです。浮世とは出会いと別れですね」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当ですな」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思うのですがね。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない。こんなことになりますからな」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽さが表現できないかと思うのです」
「師匠、おっしゃるとおりです」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めをくいました。その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのですよ。今、思うととても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。切れがいい。こんなふうに思うのですが、曾良さん、いかがですか」
「軽いですな。師匠。本当に軽い」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事と気付いたのが市振の宿だったように思うんですよ」
「なるほど、軽みですか」
 芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は柿本人麻呂の歌を思い出した。
 たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 柿本人麻呂
 有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。ここで恋句を詠んではならないのだ。そう、芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
 わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
芭蕉は有磯海をこのように詠んだ。芭蕉にとってこの句は軽みを表現しようと思い詠んだ最初の句になった。

芭蕉は「古池や蛙飛びこむ水のおと」を詠み、蕉風に開眼し、「おくのほそ道」の旅で蕉風を完成する「かるみ」の精神を発見した。

参考文献
おくのほそ道、菅菰抄、俳諧書留(芭蕉)
笈の小文、去来抄、曾良旅日記、三冊子
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)芭蕉紀行文集(中村俊定校注)

醸楽庵だより  6号    聖海

2014-11-19 09:50:34 | 日記
醸楽庵ゼミナール   6号   聖海

なぜ正岡子規は蕪村を芭蕉より高く評価したのか。

 芭蕉の句は嫌い。侘びとか、寂びとかいうのでしょ。農家の古ぼけた納屋を詠んでいるような気がするわ。蕪村の句は明るいじゃない。だから良いのよ。こう発言する若い女性がいた。私は初めて芭蕉の句に親しめない人がいることを知った。
 俳句をする人にとって芭蕉は神様に祭り上げられている。芭蕉の句だったら、何でもいいと言う人がいる。こういう人が大勢いるような感じがするね。だから嫌いだ。俺は芭蕉神社に詣でるつもりはないよ。一茶の句には隣のおやじが詠んだ句のようなものを感じるんだ。だから親しめる。親しみやすいから良いんだ。ここにも芭蕉の句を好まない初老の男がいた。
 蕪村の句に親しむ人が増え始めたのは明治になってから正岡子規が芭蕉の句を否定し、蕪村の句をいい句だと言い始めてからのようだ。正岡子規は明治以降の日本人に大きな影響を与えた。その一つが蕪村の句を高く評価したことだ。子規が芭蕉の句を否定し、蕪村の句を評価した理由は何だったのだろうか。
 「俳人蕪村」の中で子規は述べている。芭蕉は消極的美を表現したが蕪村は積極的美を表現した。季節が積極的に美しいと子規が言うのは春と夏のことである。陽光がきらきら輝く季節だ。蕪村の句には比較的春と夏の句が多い。結果として蕪村の句は明るい。元気で溌剌としているということか。蕪村の句に対し、芭蕉の句には秋と冬の句が多い。秋から冬にかけての季節は消極的である。これが子規の主張である。この季節の柔らかな光に積極的な美しさを子規は感じなかった。芭蕉の句は消極的で暗い。具体的に子規は述べている。「若葉」という季語を芭蕉は二句詠んでいると子規は述べているが実際は四句詠んでいる。子規が紹介する一つは「おくのほそ道」、日光で詠んだ「あらたふと青葉若葉の日の光」である。もう一つは「笈の小文」、唐招提寺鑑真像を拝み、詠んだ「若葉して御めの雫ぬぐはばや」である。子規はこの二句を挙げているが芭蕉はこの他に同じ「笈の小文」に「いも植えて門は葎の若葉哉」があり、「むぐらさへ若葉はやさし破レ家」という句を詠んでいる。子規はこれらの芭蕉の句を知ることができなかったのかもしれない。
 蕪村は「若葉」という季語を十余句も詠んでいると子規は主張し次の句を紹介している。「をちこちに滝の音聞く若葉かな」、「蚊帳(かや)を出て奈良を立ち行く若葉かな」、「窓の灯(ひ)の梢(こずえ)に上(のぼ)る若葉かな」、「絶頂の城たのもしき若葉かな」かな」である。
 春や夏を表現する季語を詠んでいる句が蕪村に比べて芭蕉は少ないから芭蕉の句は消極的だという子規の主張に私は疑問を感じる。例えば「あらたふと青葉若葉の日の光」を私は次のように感じている。日光東照宮に至る参道におおいかぶさる青葉若葉の下を通って芭蕉はお参りに行く。東照宮を拝謁した芭蕉は絶叫した。「あー何と、荘厳なことか」。「おー何と、きらびやかなことか」。「日の光、日光は何と、神々しいことか」。この感動を表現した句が「あらたふと」の句である。この芭蕉の絶叫がなんで消極的なのであろうか。子規の芭蕉解釈はピントがずれている。
 「若葉して御めの雫ぬぐはばや」と芭蕉は鑑真像に拝謁し詠んだ。この句が表現している世界は鑑真の偉業を讃えていることである。日本への渡海に光を失いながら仏教の伝播に命をかけた鑑真の心に涙したのだ。この句が表現する若葉は優しさであろう。こうした優しさが消極的なものであるはずない。芭蕉は「若葉」という春を表現する季語を数多く詠んでいないという理由で消極的である主張するのは句の本質を把握していないのではないだろうか。
 蕪村の句「をちこちに滝の音聞く若葉かな」が表現している世界は春の山の沢である。蕪村は目に見える自然を写生した。日常的に目にする自然を表現した。ここに近代の精神を子規は見た。絵を目に見えるように描く。この精神を文学に適用したのが子規の俳句なのだろう。だから芭蕉の句を古いと否定したのかもしれない。しかし芭蕉の句の方が蕪村の句より表現された世界が遥かに深く、広い。人間の心を芭蕉は表現している。

醸楽庵だより  5号

2014-11-18 09:44:36 | 日記

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

 貞享元年(1684)秋、江上の破屋、芭蕉庵を後に41歳になった芭蕉は門人の千里を伴い、ふる里に旅立つ。この旅の紀行文が「野ざらし紀行(甲子吟行)」である。この「野ざらし紀行」の巻頭に掲げられている句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」である。この句を初めて知ったのは高校三年の国語乙、古文の授業においてであった。詩歌に縁のなかった私にこの句が心に沁みていく不思議な感覚を覚えた。晩秋の夕暮の景色が瞼に浮かんだ。行く人のない一本道を年老いた男が一人、杖をつきとぼとぼと行く姿である。泊めてもらえる宿の予定がない。それでも男は物に憑かれたように歩み行く。
 この句を習い、私は芭蕉が好きになった。深夜、月下の理想郷に行くようなつもりになって芭蕉は旅立った。旅の食糧を、宿をどうするかと心を煩わすことなく旅立つ。やがて秋風の寒さが身に沁みる。道野辺に自分の髑髏が風雨にさらされる。月下の理想郷の果てを覚悟した心境を詠んだ句だと教師は説明したような記憶が残っている。この教師の説明を聞き、感動が背筋を走った。新しく知ったことに感動する年頃だったのだろう。
 この授業のとき、強い雨が降ってきた。外を眺めた生徒に向って教師は言った。今日傘を持ってきていない。どうしようと心配するような者には芭蕉の気持ちなど分かるまいと。ロマンとは日常生活にまとわりつく雑念から解放されることなんだ。芭蕉はロマンに生きた詩人だった。このようなことをこの授業を通して学んだ。
 素堂は「野ざらし紀行(甲子吟行)」の跋に述べている。「こがねは人の求めなれど、求むれバ心静かならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。ただ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハはなし。ここに隠士あり。その名を芭蕉とよぶ」。俳諧師として成功していた芭蕉は俳諧宗匠として安穏な生活を求めなかった。だから現在に伝わる芭蕉の作品があるのかもしれない。

醸楽庵だより  5号

2014-11-18 09:44:36 | 日記

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

 貞享元年(1684)秋、江上の破屋、芭蕉庵を後に41歳になった芭蕉は門人の千里を伴い、ふる里に旅立つ。この旅の紀行文が「野ざらし紀行(甲子吟行)」である。この「野ざらし紀行」の巻頭に掲げられている句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」である。この句を初めて知ったのは高校三年の国語乙、古文の授業においてであった。詩歌に縁のなかった私にこの句が心に沁みていく不思議な感覚を覚えた。晩秋の夕暮の景色が瞼に浮かんだ。行く人のない一本道を年老いた男が一人、杖をつきとぼとぼと行く姿である。泊めてもらえる宿の予定がない。それでも男は物に憑かれたように歩み行く。
 この句を習い、私は芭蕉が好きになった。深夜、月下の理想郷に行くようなつもりになって芭蕉は旅立った。旅の食糧を、宿をどうするかと心を煩わすことなく旅立つ。やがて秋風の寒さが身に沁みる。道野辺に自分の髑髏が風雨にさらされる。月下の理想郷の果てを覚悟した心境を詠んだ句だと教師は説明したような記憶が残っている。この教師の説明を聞き、感動が背筋を走った。新しく知ったことに感動する年頃だったのだろう。
 この授業のとき、強い雨が降ってきた。外を眺めた生徒に向って教師は言った。今日傘を持ってきていない。どうしようと心配するような者には芭蕉の気持ちなど分かるまいと。ロマンとは日常生活にまとわりつく雑念から解放されることなんだ。芭蕉はロマンに生きた詩人だった。このようなことをこの授業を通して学んだ。
 素堂は「野ざらし紀行(甲子吟行)」の跋に述べている。「こがねは人の求めなれど、求むれバ心静かならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。ただ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハはなし。ここに隠士あり。その名を芭蕉とよぶ」。俳諧師として成功していた芭蕉は俳諧宗匠として安穏な生活を求めなかった。だから現在に伝わる芭蕉の作品があるのかもしれない。

醸楽庵だより  5号

2014-11-18 09:44:36 | 日記

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

 貞享元年(1684)秋、江上の破屋、芭蕉庵を後に41歳になった芭蕉は門人の千里を伴い、ふる里に旅立つ。この旅の紀行文が「野ざらし紀行(甲子吟行)」である。この「野ざらし紀行」の巻頭に掲げられている句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」である。この句を初めて知ったのは高校三年の国語乙、古文の授業においてであった。詩歌に縁のなかった私にこの句が心に沁みていく不思議な感覚を覚えた。晩秋の夕暮の景色が瞼に浮かんだ。行く人のない一本道を年老いた男が一人、杖をつきとぼとぼと行く姿である。泊めてもらえる宿の予定がない。それでも男は物に憑かれたように歩み行く。
 この句を習い、私は芭蕉が好きになった。深夜、月下の理想郷に行くようなつもりになって芭蕉は旅立った。旅の食糧を、宿をどうするかと心を煩わすことなく旅立つ。やがて秋風の寒さが身に沁みる。道野辺に自分の髑髏が風雨にさらされる。月下の理想郷の果てを覚悟した心境を詠んだ句だと教師は説明したような記憶が残っている。この教師の説明を聞き、感動が背筋を走った。新しく知ったことに感動する年頃だったのだろう。
 この授業のとき、強い雨が降ってきた。外を眺めた生徒に向って教師は言った。今日傘を持ってきていない。どうしようと心配するような者には芭蕉の気持ちなど分かるまいと。ロマンとは日常生活にまとわりつく雑念から解放されることなんだ。芭蕉はロマンに生きた詩人だった。このようなことをこの授業を通して学んだ。
 素堂は「野ざらし紀行(甲子吟行)」の跋に述べている。「こがねは人の求めなれど、求むれバ心静かならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。ただ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハはなし。ここに隠士あり。その名を芭蕉とよぶ」。俳諧師として成功していた芭蕉は俳諧宗匠として安穏な生活を求めなかった。だから現在に伝わる芭蕉の作品があるのかもしれない。

醸楽庵だより 四号

2014-11-17 09:58:25 | 日記
          


句郎 「遠山に日のあたりたる枯野かな」という虚子の句があるでしょ。この句は素晴らしいという人がいるけれども、どこがいいのか   な。華女さんはどう思っているの。
華女 私はいい句だと思っているわよ。冬の日の情景が目に浮かぶでしょ。その情景がなんとも冬の日の暖かさを感じない。
句郎 花鳥諷詠とは、このようなことなのかな。
華女 そうだと思うわよ。花鳥諷詠とは一瞬の風景なのよ。その直観力が勝負だと思うけれどね。
句郎 直観力か。何も感じなかったら、風景は過ぎ去って行ってしまうということなのか。
華女 張りつめた神経に風景が語りかける一瞬を捉えたものが俳句になるのだと思う。
句郎 芭蕉が詠んだ風景とは大きく違うね。
華女 どう違うの。
句郎 日光で詠んだ「あらたうと青葉若葉の日の光」という句があるでしょ。この句が詠んでいる風景と高浜虚子が詠んだ風景とは違っ   ていると感じない。
華女 そうかしら。落葉樹の若葉や青葉が日の光にきらきらする一瞬を詠んでいるように私は思うけど。違うの。
句郎 違うと思うよ。日光山輪王寺は数百年の歴史をもつ、日本有数の修験道の聖地だよ。更に徳川家康を祭神とする神宮の所在地なん   だからね。まさに神仏習合の聖地なんだ。日光の山には神がいる。と同時に悟りを開く修験の山でもあるんだ。その聖地を称えた   句が「あらたうとーー」だと思う。芭蕉が詠んだ世界は自然じゃないんだ。何代にもわたる人々の営みというか、その経験によっ   て築かれた尊いものを称えた句だと思うんだけどね。
華女 だから、言ったのね。杉の大木に囲まれた参道を歩き、ああーー、いい気持ちだ。東照宮・陽明門の前に参ったら、おおーーー、   と絶叫した。その気持ちを詠んだ句が「あらたうとーー」なのだと言ったわけなのね。
句郎 そうなんだ。単に森林浴をしていい気持ちになった。東照宮の煌(きら)びやかさに驚いたというだけの句ではないと思うんだ。
華女 なるほどね。
句郎 杉の木、一本一本に、修験者が走った細い石の道、その石一つにも行者たちの思いが詰まっている。参道の小道を歩くと昔の人々   の息遣いを感じ、すがすがしい気持ちになった。陽明門を見てはここまで細密に彫刻を施して祭神を飾った人間の技の極致に感極   まった。こうして祭神を称える人々の気持ちに絶叫したのだ。
華女 目に見えた自然ではなく、人間の営みを自然に託して芭蕉は句を詠んだといいたいわけね。
句郎 うん。そうなのかな。だから、芭蕉が詠んだ風景、自然はすべてといっていいくらい、人間を詠んだ句ではないかと思っているん   だけどね。
華女 虚子の花鳥諷詠も単なる花や鳥、山の自然の風景を詠んだのではなく、やはり、人間を詠んでいるとは思うけどね。
句郎 「流れ行く大根の葉の速さかな」なんていう句も近郊農村の農民の暮らしが見えてくるような気が確かにするね。でも芭蕉の句は   違うんだな。人間の歴史の厚みを詠んでいるように思う。そこが違うと思うけど。

醸楽庵だより三号

2014-11-16 13:17:29 | 日記



侘輔 ノミちゃん、芭蕉はなかなか酒と女にはうるさかったって知っている。
呑助 へぇー、芭蕉さんと云えば、清貧に生きた詩人というイメージがあるけれどもね。
侘輔 そうでしょ。芭蕉は私のように上品に酒と女を楽しんだんですよ。ノミちゃんのように酒もだらだら、女にもだらだら、こうじゃ   なかったんだ。
呑助 冗談じゃない。私ほどけじめのしっかりした人はいないと思いますよ。ワビちゃんなんか、どうなの。いつももう一軒行こうか、   言うから私が付き合ってやっているということを忘れてもらっては困りますよ。
侘輔 「うちかづく前だれの香をなつかしく」と桂(けい)楫(しふ)が詠んだ句に芭蕉は「たはれて君と酒買にゆく」と付句をしている。
呑助 「うちかづく」とはワビちゃん、どんな意味なんだい。
侘輔 前垂れを被ると、いう意味だよ。飯盛り女は赤い前垂れをしていたんだ。もちろん、その女を所望すれば二階に上がって、楽しめ   たんだ。だからその赤い前垂れを被ると女の匂いが懐かしいという意味だよ。
呑助 飯盛り女の赤い前垂れを被ると懐かしい匂いがする。俺はしたことないけど、分かるような気がするな。女がほしい男の気持ちが   出ているね。
侘輔 女の赤い前垂れを被って遊んでいる男を見て芭蕉は「たはれて君と酒買にゆく」と付けた。
呑助 「たはれて」とは何なの。
侘輔 戯れて君とは女だよ。飯盛り女といちゃつきながら酒買いに行く。もう少し、あなた、お酒飲みたいわ。そうだね。じゃ、行こ う か、ふらついた足の男と女が、だめよ、だめよ、そんなことしちゃ嫌、恥ずかしいわ、なんて言われながら、酒屋に向う。
呑助 若かった頃、思い出すな。俺にもそんなことしたような記憶があるな。女が放さないんだよ。しかたなくいつまでもいちゃついて いたような気がするな。
侘輔 そうでしょ。どこにけじめがあったって言うの。でれでれしているでしょ。それがノミちゃんじゃないの。
呑助 芭蕉も買った女とそんなことをしたんでしようね。そうでなけりゃ、こんな句をつくれるわけないなぁー、そう思うね。
侘輔 俺もそう思うね。ただ芭蕉が偉かったのは、そんなだらしない、みっともない自分をもう一人の自分がしっかり見ていたというこ とかもしれないよ。
呑助 赤い前垂れの匂いが懐かしいと、言ってるところが、何か、許せるというか、良いじゃないのという気持ちにさせるね。
侘輔 俺もそう思う。飯盛り女と、見下したところが感じられない。女を愛しく思う気持ちがこの句から感じられるでしょ。
呑助 そんなところがこの句のいいところかな。
侘輔 俳諧というのは座の文学だというでしょ。五七五と詠むと次の人が七七と詠む。笑いがある。その七七の句に新しい世界の五七五 を付ける。うーん。なるほど、困ったなぁー、どうしよう、できた、できた。その場に笑いが起きる。
呑助 俳諧というのは、けっこう、下世話なものを上品に笑う遊びなんだね。
侘輔 それが遊びさ。

醸楽庵だより 二号

2014-11-15 15:28:28 | 日記
 
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟 芭蕉

 何回もこの句を口ずさむでいると泪があふれてくるような哀しみが湧いてきた。なぜなのだろう。
芭蕉が生きた社会は身分制社会だった。農民階層出身の芭蕉にとって男の子の端午の節句に修験者が背負った笈や武士にのみ着用が許された太刀を飾ることなどかなわなかった。芭蕉は上層の農民階層出身ではあったが、次男であった。当時農民階層出身の次男以下の男子は部屋住み、嫁をもらうこともできず、長男の支配下に属する下人であった。長男の下人に甘んじるか、養子に出るほかなかった。次男である芭蕉が選んだ道は籐堂藩伊賀付き士(さむらい)大将の息子藤堂良忠に仕える武家奉公人であった。生涯家族を持つことが難しかった。息子をもつことができない。そんな立場にあった芭蕉が五月、端午の節句に「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」と詠んだ。芭蕉は叶わぬ夢を青空に描いた。生きる哀しみがこの句には表現されている。
 端午の節句は男の子の成長を祈るお祭りである。芭蕉が生きた時代には年中行事としての端午の節句が定着したようだ。武士として健やかな成長を祈り、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽(ちまき)や柏餅を食べた。菖蒲は尚武に通ずる。尚武の気風をもった男に育てという願いが家の軒に菖蒲を挿した。
 私には高等小学校を卒業し、小学校の代用教員を振り出しに最後は栃木県立栃木女子高等学校の先生になった義理の伯父がいる。学校の代用教員の制度は戦後まで存続していた。代用教員と師範学校を卒業した正規の教員との間には厳しい差別があった。まず俸給の差があった。待遇の差があった。厳しい差別を感じるのは朝礼で並ぶ順である。生徒の前で師範学校出身者の下に立つ。毎年四月には職員の歓送迎会がある。栄転していく校長は師範学校出の職員に対しては杯に酒を注ぐが代用教員に対しては素通りした。校長にとって代用教員は自分とは同じ教員仲間としてはみなしていなかった。きっと伯父は哀しい想いをしたに違いない。この差別から抜け出したい。
 当時、文部省は教員資格検定試験を実施していた。この試験に合格すれば対等になる。俸給も上がる。伯父は何回も挑戦した。五月、息子よ、立派な男の子になってくれ。自分のような哀しい想いをすることのない人間になってくれと祈りをささげて、教員住宅の軒下に梯子をかけて菖蒲を挿していたとき、赤い自転車に乗った郵便配達夫が「文検」合格の電報を持ってきた。伯父はその電報を見ると足がガクガクと震え、梯子から下りられなくなってしまった。この時の伯父の気持ちを思うと私は感極まる。
 「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」。芭蕉がどんなに優秀な人間であっても、努力家であっても所詮、農民はどこまでいっても農民にすぎない。私の義理の伯父は菖蒲を挿して祈りを現実のものにすることができたが、芭蕉は青空に夢を描く俳句を詠み、自分の気持ちを歌たった。この句の裏にはきっと身分制社会に生きた芭蕉の哀しみがこもっている。俳句は読者のものである。私は芭蕉の俳句をこう読んだ。

醸楽庵だより

2014-11-13 13:56:38 | 日記

 石山の石より白し秋の風  芭蕉
 なぜ秋の風は白いの。芭蕉はなぜ秋の風を白く感じたのだろう。不思議だ。私は全然秋風が白いなんて感じたことはない。「吹き来れば身にも沁みける秋風を色なきものと思ひけるかな」と平安時代の歌人は詠んでいる。「秋風を色なきもの」と昔の日本人は感じた。秋風の吹く景色は殺風景だということかな。殺風景な景色を「色なきもの」と表現したのだ。殺風景な景色に吹く風が身に染みる。分かるな。
 「色なき風」はなぜ白いのかな。錦秋という季語が表現する色は赤や黄色に色づく紅葉の色だ。そこに吹く風が色なきものであるはずがない。秋風は紅葉を吹き飛ばす。色づいていた山から色が抜けていく。野山の景色を色なきものにしていくのが秋風だ。
 清少納言は「秋は夕暮」と言っている。夕暮の秋には秋を感じる。特に晩秋の夕暮に秋を感じる。晩秋の夕暮の景色には色がない。野山に紅葉がなくなった景色を見て、芭蕉は無常観を感じた。生あるものの哀しみを思った。この世の無常と哀愁に白をいう色を感じたのかな。