醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 105号  聖海

2015-02-28 10:06:01 | 随筆・小説

  男は寂しい

 居酒屋「此処(ここ)」の縄暖簾をくぐるとカウンターの端に一人、ウーロンハイを傾けている男がいた。背を丸め、大半が白髪の頭を垂れ、額には深い皴が刻まれていた。頭をあげるとママの方に目をやり話しかけることなく黙っている。ママもまた話しかけることはない。いつもニコニコしているが親しく話す飲み仲間はいない。
 どのようなきっかけで話し始めるようになったのか、記憶がない。いつものように我が家に帰るように居酒屋「此処」の戸を開けるとこの初老の男がカウンターに一人いた。「暖かくなってきましたね」といつしか挨拶を交わす仲になっていた。問わず語りに初老の男・Nさんが話し始めた。
 ちょうど、去年の11月の頃だったでしょうかね。家内と二人古利根川の畔に建つ売出し中のマンションを見に来たんですよ。10階の部屋に登りベランダから暮れなずむ景色を見て息を飲みました。夕日を浴びた富士山が赤く見えました。富士のすそ野の黒いシルエットが今も印象に残っています。案内してくれた不動産会社の人にすぐ手付金を払い、満足した気持ちに満たされていました。
 定年後はゴミゴミした東京を離れ、静かな所で老後を送りたいねと家内と話していたものですから、家内もこのマンションがとても気に入り、帰りは浅草でウナギを食べたことを覚えていますよ。家内のニコニコした顔を見ると私もいいことをしたなと独り満足していました。定年後の生活を思うと定年が待ちどうしいくらいでした。東京・豊島の自宅を処分したお金と退職金があれば、安心だなと思っていました。
 定年を十日後に控えたころだったでしようか。いつものように夜の十時ごろ家に帰ると家全体が真っ暗だったんです。家内も勤めが今日は遅くなっているのだろうと思い、玄関を合鍵で開け、電気を付けるとガランとした嫌な胸騒ぎが起きました。子供は男の子と女の子の二人です。二人とも結婚して別の家族を築いています。夫婦二人きりの家族になっていたんです。部屋に入って驚きました。家内の使っていた箪笥がない。衣服がない。布団がない。茶碗がない。最低限度の調理具と皿と茶碗、コップ類が残されていました。
 娘に電話をかけると教えてくれました。家内は都内に別のマンションを既に購入し、一人で老後を送る準備をしていたようなのです。私は全然気が付きませんでした。私はボーとしていたのですね。妻の気持ちなど考えたこと一度もありませんでした。しかしこれといった浮気をしたこともありませんでしたし、真面目に過ごしてきました。妻にこれといった苦労をかけた覚えもありません。ただずっと夫婦共働きで二人の子供を育てましたので子育てでは妻は大変だったかもしれません。それくらいですよ。私は転勤族でしたから山形・名古屋・香川と合わせれば十六・七年ちかく単身赴任していました。結婚生活は三十三年年になりますが、一緒に生活したのは実質的には十五・六年だったでしょうかね。
 娘に妻の電話番号を教えてもらいましたが、電話するつもりはありません。妻のマンションを訪ねるつもりもありません。何が気に入らなくて出て行ったのか。聞く気持ちにもなりませんでした。ただ呆れただけでしたね。
 定年を迎えて私は独りで古利根川河畔のマンションに越してきました。夕日に輝く富士山を眺めて癒されています。妻との思い出の品はすべて捨てました。妻と一緒に生活した品すべて捨てました。一切の家財道具をすべて捨てました。新しい第二の人生を始めるに当たって古い家具に嫌悪感がありました。ソファー、箪笥、テレビ、ベッド、布団などすべて新しいものを買い揃えました。預金はすべて妻に持って行かれていましましたが、退職金はすべて自分のものになりましたしね。私自身が会社に積み立てていた預金もありましたから老後の生活に困る心配はありません。一人の生活にも長い単身赴任の経験がありますから困りません。炊事や洗濯、掃除、日常生活は快適です。炊事や洗濯、掃除はどちらかというと好きなんですよ。気持ちがいいのです。まぁー、そうは言っても料理のレバートーリーが少ないものだから、夜は居酒屋「此処」さんに来るようになったんですよ。ここのママさんとても気さくで話しやすいでしょ。毎日、来るようになっているんですよ
 Nさんの話はテレビドラマで見たような話だった。この話には後日談がある。Nさんが健康を害したとき、息子は来たが奥さんと娘さんは来なかったという。


醸楽庵だより 104号 聖海

2015-02-27 12:07:05 | 随筆・小説

   ヒーちゃん

 居酒屋「此処」(ここ)の人気者はヒーちゃんだ。50年間、体重が変わっていないと本人が言う。背が低い。小学生のように痩せている。背をかがめ、静かに居酒屋「此処」の暖簾を割って入ってくる。カウンターに知った顔を見つけるとえも言われぬ笑顔を浮かべ、ヨッと手をあげる。その姿に愛嬌がある。カウンターの高いに椅子に腰かけると隣に「今日は寒いね」と話しかける。
「ここ三・四日頭が痛くて困ったよ」と愚痴ると隣の客が
「どうしんだい。借金で首が回らなくなったかい」と澄ました顔でヒーちゃんを茶化す。
「風邪っぽくてよ」
「酒飲みが足りないんじゃないの」
「そんなこと、ないよ。昨日、ちょっと焼酎呑みすぎちゃったかな」
 ヒーちゃんの愚痴に終わりはなさそうだ。ママはいつものことと注文も聞かずに、黙ってウーロンハイをヒーちゃんの前に出す。ヒーちゃんは大の巨人ファンだ。昨晩のナイターを肴にウーロンハイを傾ける。ヒーちゃんの野球解説が始まると隣の客はそっぽを向いて黙っている。隣りの客が聴いてくれているものと一人合点し、ヒーちゃんはウーロンハイを一口飲んではしゃべり続ける。ウーロンハイを一杯飲み終えるとカラオケの厚い本をカウンターの隅から引っ張り出し、指をなめなめ、ページを繰る。細めた目が歌の番号を確認する。
 ヒーちゃんの十八番は「武田節」である。ドスが利いて聞かせる歌だ。痩せた小さな体からよくもこんなに大きな声がでるものだといつも思う。唄い終えると一口ウーロンハイを傾ける。隣りの客が迷惑がっているのもわからず話しかける。
「どーも、腹の調子が悪くてな」と同情を求める顔をする。腹の調子が悪いにしてはウーロンハイのペースは速い。グイグイ飲む。ツマミをつつくことがない。お湯割りのウーロンハイに上気したのか、顔がピンクに輝き始める。静かになったなとヒーちゃんを見るとカラオケのページを繰っている。次々と唄う。どの歌を聞いても「武田節」と同じである。「良い声してるね」と愛想を言うと嬉しそうな顔に魅力が出て来るように感じる。
「ここんところよ、腰が痛くってよ。まいったよ」と弱く微笑む。
 ヒーちゃんは30代のころ、椎間板ヘルニアの手術をした。
「手術しても良くならないね。医者も狡いからよ。100%良くなるとは言わなかったよ」と愚痴る。「さんざん足を引っ張っる整形にかよっても、一時的なもんだね。すぐ痛くなるんだよ。挙句の果てに足を引っ張りすぎて腰が却って痛くなっちゃったよ」と目を丸くして自分を笑うように話す。腰が痛いと愚痴る割には高い椅子から身軽に降り、カラオケを唄う。
 頭が痛い。腹の調子が悪い。腰が痛い。老いた体を一通り愚痴り、ウーロンハイを三・四杯飲み、カラオケを五・六曲唄うとそろそろヒーちゃんの帰るころだ。
 ヒーちゃんには立派な苗字がある。「東小路(あずまこうじ)」という元公家さんのような苗字を持っている。「此処」のアイドルヒーちゃんを苗字で話しかける客はいない。いつの頃からか、低い声で体の調子が愚痴る様子がヒーヒーしているので馴染の客たちはいつしか「ヒーちゃん」をヒーちゃんと言うようになった。自分の子供のような若者に「ヒーちゃん」と話しかけられても嫌な顔をすることはない。「なんだい」と元気よく微笑む。人生に疲れた顔の目が一瞬輝く。その顔が憎めないのか、馴染客は皆、ヒーちゃんと心安く呼ぶ。ママもまたヒーちゃんに遠慮することはない。
 ヒーちゃんは後一年数か月で二十年近く務めた食品会社を定年になる。そのヒーちゃんに膾炙は転勤を命じた。茨城県下妻からバスで三十分ほどかかる工場への転勤を命じた。配置換えだという。「会社は俺の辞めんのを待っているんじゃねぇーかな」と弱々しく笑う。自宅から通えるところにして欲しいと、人事担当者にお願いしたが無理だと言われた。「俺のよ、配置換えの意見具申を係長がしているんじゃねぇーのかな」とヒーちゃんは疑っている。「皆から嫌われているんだ」と「此処」の仲間に係長を詰った。人の悪口を言わないヒーちゃんが感情をあらわにウーロンハイの力を借りて怒る。退職までの一年数か月ヒーちゃんは一人住まいをして茨城の工場に行く覚悟している。それまではカラオケはお預けだと寂しげに笑った。
 

醸楽庵(じょうらくあん)だより 103号 聖海

2015-02-26 11:38:17 | 随筆・小説

 酒好きの芭蕉 

  鰹賣(かつおうり)いかなる人を酔(よは)すらん  貞享四年

 
 桜の花が咲き始めると江戸の町に初鰹を籠にのせ、天秤棒を担いだ威勢のいい声が街に轟く。鎌倉の海でとれた鰹はならぶもののない美味しさだと噂になっている。芭蕉と同世代の山口素堂は「目には青葉山ほととぎす初鰹」と鰹の美味しさを讃えている。貞享四年、芭蕉は四十四歳になっていた。深川に隠棲した芭蕉にも鰹売りの声がきこえる。「櫓の声波をうつて腸(はらわた)氷る夜や涙」と詠んだ生活をしている芭蕉にとって、鰹は高嶺の花である。あの鰹でいかなる人が今夜、お酒を楽しむのだろうか。鰹売りの声が遠くなっていくのを芭蕉はじっと聞いていた。

  酔うて寝ん撫子(なでしこ)咲ける石の上   貞享四年

 撫子が咲き始めた。故郷、伊賀上野でもきっと撫子が咲き始めていることだろう。撫子を眺め、芭蕉は故郷を思った。初恋の子はどうしたろう。田植えはもう済んだのだろうか。暖かな石の上でお酒を楽しんだ後、昔、想ったあの娘と添い寝がしたいなぁー。四十四歳、当時にあってはもう初老の男になっていたは芭蕉は撫子を見て空想した。

  盃の下ゆく菊や朽木盆(くちきぼん)   延宝四年

 江戸に出て俳諧宗匠として成功した芭蕉は延宝四年に伊賀上野に帰郷した。重陽の宴だとふる里に帰った芭蕉を俳諧仲間の旧友たちが歓待してくれた。不老長命を願う菊の水とはお酒である。盃をのせた朽木盆の上に菊の水、酒をなみなみと注いでくれた。酒が盃から溢れ、朽木盆の上を走った。延宝四年には重陽の宴を仲間と楽しむ元気いっぱいの芭蕉がいた。

盃に三つの名を飲む今宵かな   貞享二年
 
 「霊岸島に住みける人三人、更けて、わが草の戸に入り来るを、案内する人にその名を問へば、各々七郎兵衛となん申し侍るを、かの独酌の興に思ひ寄せて、いささか戯れとなしたり」。このような前詞がこの句にはある。
仲秋の名月であったのだろうか。霊岸島からきたという三人の酔っ払いが芭蕉庵にやってきた。この三人、聞けば三人とも七郎兵衛だという。面白がった芭蕉はちょうど一人で月見の独酌をしていたところだ。一緒にやろう。意気投合した。芭蕉は月を見上げ、李白の詩「月下独酌」を芭蕉は思い出ししていた。自分自身と盃に映った月影と月の光で生じた己の影の三人で月見の独酌を楽しんだ李白を想った。

 秋をへて蝶もなめるや菊の露  貞享二年

 残暑厳しい秋を生き延び晩秋を迎えた蝶が菊の露を舐め、羽ばたいている。不老長命の水にあやかり、生き貫
こうとしているに違いない。菊の露を吸い、生き延びようとしている。不老長命の水。酒を嗜む芭蕉は自分の姿を蝶に見つけていた。健気に生きる蝶よ、明日も元気に生きろよ。

  草の戸や日暮れてくれし菊の酒  元禄四年

 『笈日記』(支考編)に「九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに」と前詞。また、『蕉翁句集』には「此の句は木曽塚旧草に一樽を人の送られし九月九日の吟なり」と付記。芭蕉、義仲寺無名庵滞在のときの作。
 重陽の節句、九月九日は宴を催す年中行事が庶民の間にも元禄時代には普及し始めていた。元禄四年、四十八歳になった芭蕉は近江、義仲寺無名庵に滞在していた。無名庵には菊の花もなければ、菊の露・酒も無かった。夕暮れて思いがけなく乙州が一樽携えて来てくれた。嬉しさがこみ上がり、ひとりでに喉が鳴るのを芭蕉は微笑んで隠した。しばらくぶりの菊の酒、不老長命の水を乙州と味わった。最後の一滴まで飲みつくした。二人の重陽の宴は夜の明けるまで続いた。

醸楽庵(じょうらくあん)だより  102号  聖海

2015-02-25 10:28:39 | 随筆・小説

  俳句は「切れ」字。   秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)

 元禄二年七月の二十日(新暦9/3)は曾良旅日記を読むと快晴だった。記録とは凄い。三百年前の天候を知ることができる。この日、芭蕉は金沢・犀川の畔に建つ斎藤一泉(さいとういっせん)の松玄庵(しょうげんあん)に招かれ、歌仙を半分18句を捲いた。その後、里山、野端山を散歩して帰り、夜食をいただき宿に帰ると午前零時になっていたという。俳諧は当時の金持ちたちの遊びだった。これ以上のことは曾良旅日記にも俳諧書留にも何も書いていない。が、一泉の松玄亭に正客として招かれた芭蕉が詠んだ発句が「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」であると判る。「おくのほそ道」には「ある草庵にいざなはれて」とある。この「ある草庵」とは一泉の松玄亭である。なぜ、一泉の松玄亭であると分かるのかというと、宝暦三年(1763)芭蕉70回忌に蘭更が編集した『花の古事』に元禄二年七月二〇日一泉の松玄亭で捲いた半歌仙が載っているからである。『花の古事』に載っている芭蕉の発句は「残暑暫し手毎(てごと)にれうれ瓜茄子(うりなすび)」である。「れうれ」とは「れう」と「り」が結びついて料理しようと意味になる。この発句を芭蕉は「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」と推敲し、この句を「おくのほそ道」に載せた。
「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」。この句は俳諧、歌仙から独立した句である。歌仙の発句ではない。俳諧から切れている。この「切れ」が俳諧の発句から独立した句である証拠である。
「丈草に向て先師曰、歌は31字にて切レ、発句は17字にて切レる」と『去来抄』にある。当時はまだ「俳諧の発句」と「俳句」とが明確に分けて考えられていなかったから丈草は「発句」という言葉を用いているが、実質的にはこの「発句」は俳句を意味している。
 17文字の前後で切れていなければ俳句にはならない。「秋涼し」の上五の前で「 / 秋涼し」となっていなければ俳句にはならない。「下五」の「瓜茄子」も同様に「瓜茄子 / 」となっていなければならない。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の17音は「秋涼し / 」で切れるのか、それとも「手毎にむけや / 瓜茄子」で切れるのか、戸惑ってしまう。「手毎にむけや」の「や」は確かに切字の「や」のようだ。しかし「瓜茄子を手毎にむこうや」と一つの想いを述べているから中七と下五は一体のものとして捉えることができる。「秋涼し」はこれで一つの想いが伝わってくる。この句は上五「「秋涼し」と中七・下五の「手毎にむけや瓜茄子」とを取り合わせた句なのであろう。「秋涼し」という芭蕉の主観と「手毎に向けや瓜茄子」という現実との取り合わせであろう。しかし中七の「手毎にむけや」と下五の「瓜茄子」との間に全く切れが無いかというとそうではない。小さな切れがあるようだ。だからといって三句切れの句かというとそうではないように感じる。
 「切れ」とは「秋涼し」という思想と「手毎にむけや瓜茄子」という思想がぶつかり合い、間ができることによって「秋涼し」という詩情が生まれる働きをする。この間をつくりだす働きをするのか「切れ」である。「切れ」が深ければ深いほど間が深い詩情を生む。
 俳諧の参会者が各々瓜茄子を手毎に向いて調理してもらう。ここに協力し合い料理する清々しい仲間たちの友情が醸し出される。あー、仲間がいるのはなんと楽しいことか、としみじみした思いにとらわれる。これはまさに秋の涼しさだと表現したのが「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」という句なのであろう。


醸楽庵(じょうらくあん)だより 101号 聖海

2015-02-24 11:19:50 | 随筆・小説

  冬の芽やめぐみ孕みてふくらみぬ   聖海

 自然の摂理を受け入れたら自然のめぐみを得ることができた。
 寺田啓佐著「発酵道」を読み、このような感想をもった。寺田啓佐さんは、千葉県神崎町の酒蔵の蔵元である。「五人娘」という銘柄の酒を醸している。20年ほど前になるだろうか、近所の酒販店でなんとなく手に取り買い求めたことがある。飲んでみてとてもおいしかったという印象が残った。それ以来、「五人娘」というお酒は脳裏からはなれたことがない。だからといっていつも買い求め、飲み続けてきたのかというとそうでもない。千葉県のお酒というと、「岩の井」「腰古井」「東薫」、なかでも特に「腰古井」は、軽快でのどごしがよく、買い求めては飲んだお酒である。
寺田さんは私と同世代の方である。大学に立て看板が立ち並んでいた頃である。テレビ番組で見た寺田さんのソフトな優しい話しぶりに好感がもてた。その番組で紹介されていた本が「発酵道」である。興味をもち、買い求め読んでみた。
 この本の最後は「ありがとうございます」という日常生活で使い古された平凡な言葉で終わっている。私はこの言葉を読み終わったときに落涙してしまった。「ありがとうございます」という手垢のついた言葉が胸に沁みたのである。きっと寺田さんの気持ちがこの言葉にこもっていたから寺田さんの気持ちが私に伝わったのかなと思う。
 酒造会社が競争をしては、いいお酒は醸せない、と寺田さんは言う。凄い主張だ。競争することが安価で良い
製品を消費者に提供すると世の人はみな言う。学校でもそう教える。神の見えざる手が働いて人々の生活を豊かにする、と政経や現代社会の授業で講義する。この中にあって、寺田さんは競争しないという。助け合うことが大事だという。微生物は助け合っている。微生物は自分が好き。自分の役割を心得ている。自分の役割を終えると、次の微生物にバトンタッチしていく。そうして微生物が恵んでくれるのがお酒なのだという。
 お酒を腐らせてしまう火落ち菌にも何か役割があるのではないかという。肯ける話だ。徹底的な消毒は良い菌も殺してしまう。徹底的な消毒に疑問を投げかけている。納得する話だ。
 学校にあっても徹底的な消毒をすることに私は疑問をもつ。1人1人の生徒が学校のなかにあって自分を好きになれる場をつくらなければならない。1人1人の生徒が学校の中に居場所があり、役割がなければならない。生徒間の競争を煽るようなことをすれば、生徒たちは孤立し、心を閉じてしまう。これは学校が腐っていくということだ。生徒同士は協力し、助け合い、礼儀をわきまえるなら学校は発酵を始めるにちがいない。しかし、現実は悪いとみなした生徒を他の生徒から隔離し、徹底的に生徒の非を責める。最終的には排除する。これは酒造りにおける消毒のように思う。消毒しなければ、悪い菌が蔓延し、学校が腐ると恐れている。
 国際社会も同じではないかと思う。今、アメリカを中心にした国々は有志連合を組みダーイシュを亡き者にすべく爆撃をしている。この措置は発酵道における消毒の思想ではないだろうか。消毒はよい菌をも殺す。国際社会にあって消毒は菌を蔓延させてしてしまうだろう。ダーイシュが壊滅した後、ヨーロッパ諸国からターイシュに参加した人々は自国に帰り、テロをするだろう。テロが全世界に蔓延するのだ。
 勇気をもって自然に任せる。自然の摂理にしたがって、自然の恵みをいただくという精神は学校にあっては生徒を信頼するということ、国際社会にあっては全世界諸国民衆を信頼するということだ。勇気をもつということは自然を信じること、生徒を信頼すること、民衆を信頼することでもある。
 

醸楽庵(じょうらくあん)だより  100号  聖海

2015-02-23 11:27:41 | 随筆・小説

  「おくのほそ道」序章についての一考察

句郎 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」。この70字弱の文章に元禄時代が表現されている。芭蕉は元禄時代が表現したいと思ったことを聞き取った。こう考えているだけれどもね。
華女 「元禄時代が表現したい」。人でもない元禄時代が表現したいと思うはずがないじゃない。
句郎 そうかな。芭蕉とほぼ同時代を生きた木食上人・円空は樹木をみるとそこに仏の存在を感じた。その仏が乞うている。私を表現してくれと言っている。その声を聞いて円空は仏を彫った。
華女 円空は日本国中を旅して回り、大小様々な仏さんを彫って歩いたんでしょ。
句郎 歩いた距離や範囲では芭蕉を遥かに越えているようだよ。
華女 仏師とは凄いのね。
句郎 衆生済度、苦しんでいる民衆を救いたいという強い気持ちが樹木の中に仏の姿を見たのではないかと思うんだ。円空は僧侶になろうとして日々刻苦勉励に励んだ。樹木から仏を彫り出すことが円空にとっては僧侶になることであった。
華女 仏さんを造ることが円空にとって生きることだったのね。
句郎 芭蕉もまた元禄時代という時代が語りかけてくる声を聞き取り、この言葉を表現したんだと思う。
華女 元禄時代が芭蕉に語りかけてきた言葉とはどんな言葉だったの。
句郎 その言葉の一つが『おくのほそ道』冒頭の言葉だと思う。
華女 最初に月日は百代の過客だと言っているのよね。それがどうして元禄時代が発している言葉になるのかしらね。
句郎 そう思わないかな。元禄時代というのは町人の経済力が武士の経済力を上回っていく時代だったんだよ。江戸時代は身分によって人間を差別した時代だったでしょ。その差別を乗り越える経済力を低い身分の町人が力を持ち始めた時代だった。
華女 町人の経済力が武士の経済力を上回っていくということが「月日は百代の過客」という言葉とどうつながるの。
句郎 「月日」の月は、すなわちお月さまだよ。「日」は太陽だよ。「月日」とは天空を日夜地球の周りを巡っている太陽と月は歴史以来の旅人だと言っている。だから武士だろうが、町人だろうが、同じ旅人だと言っている。同じ人間だと言っている。これが元禄時代の声なんだ。
華女 なんか、私には飛躍した話に聞こえるわ。そんな風には思えないわ。
句郎 「行かふ年も又旅人也」でしょう。だから「年」もまた旅人だと言っている。同じ年を生きる人々は皆同じだという元禄時代の声を芭蕉は聞いた。
華女 句郎君が言っていることは通じているけれども何を言っているのか、意味していることは私には通じないわ。
句郎 そうなんだ。残念だなぁー。「舟の上に生涯をうかべ」と次に書いているよね。この「舟の上に生涯をうかべ」とは船頭さんのことだよね。船頭さんは紛れもなく、町人階層の人々だよ。町人階層の中でも下層の人々に属する人々だよ。更に「馬の口とらへて老をむかふるもの」とは馬丁のことだよ。馬丁さんも船頭さん同様町人階層の下の方に位置する人々だと思うよ。それらの人々もまた「日々旅にして旅を栖とす」と言っている。
華女 船頭さんや馬丁さんが身分制社会の江戸時代にあってはきっと町人階層の下の方の人々だということは分かるわ。
句郎 そうでしょ。それらの町人階層の下の方の人々が「古人」と同じだと言っている。「古人」とは西行や宗祇のことを言っている。西行や宗祇という人々は貴族だよ。華族かな。歌を詠んだ人々はほとんど貴族だよ。貴族だからこそ歌が詠めた。文字が読めた。文字が読めなければ歌は詠めない。当時船頭や馬丁は文字が読めなかった。目に一丁字ない船頭や馬丁が貴族や武士と同じだと芭蕉は元禄時代が言っているという声を聞いた。このことを述べているのが「おくのほそ道」冒頭の文章なんじゃないかなと思う。
華女 句郎君の理解は文学的な解釈とは違うんじゃないかという印象があるわ。
句郎 残念だなァー。

醸楽庵だより  99号  聖海

2015-02-22 11:56:40 | 随筆・小説

   飲み友だちを見送った思い出の記

 もう20年前のことになる。48歳の若さでセーさんは逝った。柩の蓋を開け、菊の花で遺体を包んだ。この時だった。居酒屋のママが誰憚ることなく号泣した。真っ赤に泣き腫らしたママの目を見て、奇異な感に私は囚われていた。隣りにいたM食品工業の常務さんが囁いた。「ママさんはセーと内縁関係にあったらしいよ」。
 セーさんはその居酒屋で知り合った唯一の飲み友だちだった。長野の酒蔵見学を兼ねた一拍旅行を一緒した。その居酒屋では毎日のように一緒に酒を楽しみ、カラオケをした。地方出張に出た時は互いに地酒を土産に私の自宅で楽しんだ。唎酒の会に何回も一緒した。そんな付き合いが五年くらい続いていた。それなのにセーさんとママが内縁関係にあったことに気付くことがなかった。
 若かったころのセーさんは女性職員の中にあって人気が高かった。中年になったセーさんにはその名残があった。私の飲み仲間の中でセーさんのあだ名は市長さんだった。端正な顔立ち、静かな言葉使い、整った綺麗な字を書いた。有名な東京の私立大学を卒業し、M食品工業に入社した。数年後、同じ会社の女性と恋愛をし、結婚した。結婚後も、奥さんは仕事を続けた。夫婦共働き、男の子が二人生まれた。幸せな生活だった。そんなある日の出来事だった。セーさんが家に帰るとガランとしている。胸騒ぎがした。奥さんと子供のものがない。どうしたんだ。奥さんと子供たちはセーさんを家に残し、出て行ってしまった。理由が分からなかった。セーさんがお酒を飲むようになったのはそれからだった。一人身の寂しさに酒を求めた。
「セーさんは律儀な人よ。奥さんと別れてから一度として子供さんへの仕送りを欠かしたことのない人よ。毎月12万円、子供さんが二十歳になるまで仕送りしていた記録が銀行通帳に残っていたわ。本当に真面目な人だったのよね」。
 セーさんが亡くなり、独りその居酒屋の口開けに行ったとき、偶然私の他に客がいなかった。ママはセーさんを思い出したのか、話し始めた。
「こうノロケられちゃ、今日の飲み代はサービスかな。いつごろから付き合い始めたの」
「三年くらい前からよ。セーさんの部下にEさんがいたでしょ。彼がセーさんの手紙を届けて来たのよ。今度、一緒に食事をしませんか、とね。お誘いだったのよ。私、初めは、全然その気にならなかったのよ。何回か、お誘いがあったとき、私の友だちがしているレストランがあるじゃない。そこでのランチだったら、いいわよと、返事したのよ。それからだったかしらね。彼は正真証明の独身でしょ。だから安心して付き合えたのよ。奥さんがいる人だったら付き合わなかったわ。だって、面倒くさいでしょ。私も独身でしょ。ちょうどよかったのよ。月々五万円、いただいて彼の身の回りの面倒を見ていたのよ。部屋代、光熱費、全部彼が持ってくれたの。私は彼の部屋に居候していたようなものなの。本当に毎日が楽しかったわ。札幌の雪祭には二回行ったわ。沖縄で正月を迎えたこともあったわ。日本全国、行かなかった所なんてないくらいよ。いい思い出がこの胸に詰まっているわ。日曜日にはバドミントンをしたり、釣りに行ったり、遊ぶのに忙しかったわ。一緒に家に帰り、一緒にお風呂に入るの。私が全部彼の体を洗ってあげるのよ。彼、凄く喜んでね。まるで子どもみたいなんだから。毎日が楽しかったわ。でも、怒ると恐いのよ。でも子供っぽいのよ。本を何冊も重ねて、私の布団との間に積んだりしたね」。
 ママさんのノロケ話しに尽きることがなかった。商売を忘れ、ウットリ彼方を見つめていた。

醸楽庵(じょうらくあん)だより  98号  聖海

2015-02-21 10:39:38 | 随筆・小説

 
  美味しさとは

 まだ若かった頃、妻と二人日本橋三越本店にあったフランス料理店に行ったことがある。店に入るのに物怖じしてしまうような薄暗く厳めしいお店だった。勇気を奮い、客がぽつんぽつんといる店内に入り、黒服を着たボーイに案内を受け席に着いた。
 吾々は本格的なフランス料理など食べたことが無かったので、メニューを見て一番安い定食を注文した。ワインももちろん一番安い赤を注文した。それで終われば何のことはなかった。メニューを見ていた妻が突然黒いスーツを着ている女性が傍を通ったとき、単品でエスカルゴを注文した。妻は胸を張り、堂々と注文した。いつも食べているような態度だった。注文を受けた女性は「エスカルゴでございますね」と腰を屈め微笑んで確認した。見るからにウェイトレスより格上という雰囲気が漂う中年の女性のその微笑にエスカルゴは初めてなんですねというようなものを私は感じた。いくら妻が胸を張ってみても吾々の正体は見抜かれていたのだ。
 悲劇はエスカルゴが運ばれてきて起こった。一口エスカルゴを口に入れた妻は吐き出してしまった。こんなもの食べられないと小さな声で言った。ニンニクの匂いが咽につかえ、むせると言い、エスカルゴの皿を私の方に押してくる。
 ボーナスが出たころだった。大変な散財を妻はしてしまった。やむを得ず私はエスカルゴを一人で二人前いただいた。赤ワインと一緒に食べると実に美味しい。そんな私を見て妻はよくあんなものを美味しそうに食べられるわねと憎らしそうに言う。私はついニヤニヤしてしまった。
 やはり若かった頃だ。妻と二人、フカヒレを食べに気仙沼に行った。民宿の親父が養殖雲丹を捕りに行くという。誘われたので船に乗せていただき、同宿のカップルと一緒に夏の夕暮れ湾の水面を走った。しばらく行くと船を留め、海水から引き上げたばかりの海鞘(ほや)を取り上げ、パンパンに張った海鞘(ほや)にナイフを差し込んだ。水が海鞘(ほや)から放物線を描いて海面に落ちた。親父は素早く海鞘をさばき、切り身にすると海水で洗い、これがもっとも新鮮な海鞘の刺身だといって、食べさせてくれた。海鞘の切り身を口に入れた妻は突然親父に背を向け、手に海鞘を吐き出すと気づかれないよう海に捨てた。私も美味しいとは思わなかったが、海水の塩味と独特の味が強く印象に残った。
 海鞘を食べたのはその時が初めてだった。その後、何回か、海鞘を生で食べる機会があった。思い出すと海の上、海水で洗って食べた海鞘が一番美味しかったように思う。
 美味しいものとは、きっと食べ慣れたものなのだろう。いつだったか、ホテルオークラで七百二十ミリリットル五万円で売られているという日本酒をその蔵元で試飲させてもらったことがある。その時、普段飲み慣れた剣菱が美味しいと言った友人がいた。本当にそう思ったのだろう。美味しさとは、食べなれたもの、飲みなれたものなのだろう。また見た目とか、器とか、場所とか、仲間とかいうようなものの総合したものに違いない。
 空腹は最高の調味料というフランスの諺がある。この言葉は真実だが、職人の技が築いた文化財としての料理もまたあるに違いない。エスカルゴのような。

醸楽庵だより  97号  聖海

2015-02-20 10:10:07 | 随筆・小説

  再び「座の文学」とは、

句郎 俳句は「座の文学」だと言われるけれど、それはどんな意味だと華女さんは思う?
華女 仲間で創作する文学というように私は理解しているわ。
句郎 そうだよね。仲間たちの共同創作というところに俳句という文学の特徴があるということだよね。
華女 俳句は共同創作だとしても作者ははっきりしているのよね。
句郎 そうなんだよね。個人が創作したものであると同時に仲間たちが創作したものである。ここに 「座」というものの特徴があると思うんだ。
華女 「座」とはどんなものなのかしら。
句郎 「座」とは、座るという意味だよね。
華女 漢字の意味としては「座」は確かに「座る」という意味があるわね。
句郎 昔、貴族の位階を表す言葉に公爵とか、侯爵、伯爵、子爵、男爵というのがあったじゃない。
華女 今でもイギリスやフランスには伯爵令夫人なんていう人がいるんでしょ。お城みたいなところに住んで、良いわね。
句郎 貴族の位階を表す「爵」という字のもともとの意味は大きな盃を表す言葉だった。古代中国では王様を中心して酒盛りをした。燕をかたどった大盃・爵で酒を回し飲む。位の高い者から順に爵(大盃)で酒を飲む。王様に近い所に座る者は位が高い。遠くなるに従って位が低くなる。
華女 分かったわ。座る場所が貴族の位階を表すようになったってわけね。
句郎 そうなんだ。盃だった「爵」が貴族の位階を表す言葉になった。座敷に座る者、板の間に座る者、廊下に座る者、庭の白砂に座る者、どこに座るかがそのものの位階から身分をも表すようになった。だから「一座」とは同じ身分・位階の者たちが同じ場所に座る者という意味なんだ。
華女 日光・東照宮を拝観した時、嫌な思いをしたことがあったわ。説明役の禰宜が皆様の今座っている場所は十万石以上の大名でなければ座れなかった場所ですと侮蔑されたように感じたことがあったわ。
句郎 封建制社会は身分制だったからね。今でもこのような身分意識は強固に残っているようだよ。例えば、位の高い国会議員は位の低い議員と公的な場では同席しないとか、ということが不文律として今でも残っているようだよ。
華女 へぇー、そうなの。そういえば、お茶会なんかに行くとそんな雰囲気があるわね。
句郎 強固な身分制社会であった江戸時代、俳諧に遊ぶ者は公的な姓を名乗らず、名だけを唱えて、身分の違った人々とも同席した。これが「座」というものなんだ。同じ座敷に座る。これが仲間の始まりなのだ。
華女 その「座」での遊びが俳諧だったわけね。
句郎 そうなんだ。柳田國男が発見した「ハレ」と「ケ」で世界を分ければ、俳諧とは「晴」の世界で詠まれた遊びの文芸ではなく、「褻(け)」の世界で詠まれた遊びが文芸になったものなんだ。だから俳諧の「座」とは仲間でもあるが、それは「褻(け)」の世界だけの仲間なんだ。「晴」の世界にでると個人が出現する。

醸楽庵だより  96号  聖海

2015-02-19 10:24:35 | 随筆・小説

  慟哭の句か。 塚も動け我泣声は秋の風  追善句とは。

 私の気持ちに応えて、塚よ応えてほしい。私があなたにどんなに会いたかったか、その気持ちをわかってほしい。あなたが亡くなったと聞いて秋風のごとく悲しみにくれています。
 このような芭蕉の気持ちを表現した句でしょうか。小杉一笑という金沢では有名な俳人に会いたいと思って芭蕉はやってきた。芭蕉はまだ一度も一笑にあったことはない。それにもかかわらずにこのような句を詠んだ。なにか一笑からの手紙に芭蕉の心に触れるものがあったのであろう。江戸時代にあって手紙は今では考えられないほど人と人とを結びつける力があった。噂に聞く一笑の俳諧の力に学びたいという気持ちが芭蕉にあったのかもしれない。きっと芭蕉は人間関係を大事にする人であったのであろう。俳諧そのものが人と人との交わりを楽しむ遊びでもあった。そんな遊び事に芭蕉は命をかけた。
 芭蕉は「塚よ動け」とは詠まずに「塚も動け」と詠んだ。まずここに芭蕉の芸があるように思う。「よ」と「も」ではどのような違いあるのだろう。細見綾子の句に「春の雪青菜をゆでてゐたる間も」がある。この「も」は「春の雪」も「ゆでていたる間」もという解釈でいい。「春の雪も」の「も」は省略されている。この「も」を読者に喚起させる言葉が「ゆでていたる間も」の「も」である。「塚よ動け」と詠んだのでは「我泣声も」のもを読者に喚起させることはできない。だから「塚も動け」でなければならない。
 「我泣声は 秋の風」の中七の言葉と下五の言葉の間に小さな切れがある。このことに気づかせてくれるのも「塚も動け」のもの働きである。「我泣声は」のは、「も」という意味をも表現していることに気付く。この句の解釈は塚も動いて私の言葉に答えて下さい。私が泣く声も私の哀しい思いを乗せた秋風になってあなたに語りかけています。どうか私に一笑さん、応えて下さい。こう解釈することで追善句になる。静かに故人を思う気持ちが表現されることになる。
 芭蕉学の泰斗、鴇原退蔵がこの句ははげしい悲しみの情をのべたと解釈したのに対して上野洋三は違和感を覚えた。この句は慟哭の句ではない。そもそも追善句とは静かに故人への思いを表現するものである。
 芭蕉の他の追善句を上野洋三は読む。
 なき人の小袖もいまや土用干し
 数ならぬ身とな思ひそ玉祭
 埋(うづみ)火(び)もきゆやなみだの烹(にゆ)る音
 火鉢の埋火も消え、悲しみの涙もなくなり、会葬の人もいなくなった。囲炉裏にかかっている鉄瓶の音だけが部屋にこだましている。会葬者のいなくなった棺の前で故人を思う気持ちが静かに表現されている。これが追善句なのだ。
 整えられ、鎮静された感情を表現してこそ此岸から彼岸に向けて故人が彼岸に渡っても幸せであってほしいという気持ちが表現されるのだと上野洋三は主張する。慟哭では追善にならない。
 この句を激情、慟哭を表現したものとするのが大勢の中にあってこのような解釈をしたのは勇気ある試みであろう。私もこの上野洋三の解釈に従ってこの芭蕉の句を鑑賞したい。