芭蕉の恋
句郎 伊勢の一有宅に招かれた芭蕉は奥さんの園女(そのめ)さんを称えて「暖簾の奥ものふかし北の梅」と俳諧の発句を詠んだ。
華女 この句は五七五になっていないんじゃないの。「暖簾の奥」、六音じゃないの。
句郎 あっ、そうなんだ。現在では、確かに「暖簾」は「のれん」と読むけれど、古語では「のうれん」と読むようなんだ。
華女 へぇー、初めて聞く話ね。
句郎 「暖簾」は唐音では「ノンレン」と読んだらしいが、「ノウレン」と転訛し、「ノレン」と読むようになったようだよ。
華女 あぁー、成程ね。分かったわ。「のうれんの おくものふかし きたのうめ」。五七五になっているわ。納得したわ。「北の梅」が寒そうで嫌ね。
句郎 昔、奥方を「北の方」と言っていたでしょ。
華女 「北の梅」とは、一有さんの奥さんを言っているのね。
句郎 そうだと思う。「奥ものふかし」とは、奥ゆかしくというような意味だと思うんだ。
華女 暖簾の奥に見える梅が立派で綺麗ですね。ということなのね。
句郎 一有さんは医業を営んでいたから、「暖簾」とは、今でいう医院の看板かな。伊勢の御典医だったようだから、さぞ立派な屋敷だったんじゃないかな。
華女 一有さんを支える立派な奥方様であられますことと、お世辞を芭蕉は言ったのね。
句郎 一有宅に招かれた芭蕉はこのような挨拶吟を詠んだんだと思う。
華女 芭蕉さんは世慣れた商売人のような人だったのね。
句郎 江戸元禄時代の俳諧師は、今でいうタレントみたいな商売人だったからね。
華女 俳諧師とは、一種の今でいう芸能人だったのね。
句郎 きっと、そうだよ。俳諧の連歌を一有さんとその奥さん園女さんと芭蕉、芭蕉を慕う俳人が参加して歌仙をあんだ。
華女 俳諧の連歌の会をしたのね。遊びね。
句郎 そう、遊び。当時の金持ちたちの遊びが俳諧だった。
華女 終わった後はお酒を楽しんだのね。
句郎 そうだったんだろうね。園女さんも俳諧をたしなみ、お酒の相手もできる女性だったんじゃないかな。芭蕉は園女さんを慕っていたようだからね。
華女 どうしてそんなことが分かるの。
句郎 芭蕉は元禄七年九月、病をおして園女邸を訪れ、「白菊の目に立て見る塵もなし」と詠んでいるからね。
華女 ほんとうに其女さんは白菊のように美しいと言っているの。
句郎 そうだと思う。園女さんも芭蕉を俳諧の師として尊敬していたんじゃないのかな。
華女 なんとなく分かるような気もするわ。
句郎 園女さんは「春の野に心ある人の素貌(すがお)哉」と詠んだ句が残っているからね。
華女 この句は、どのような意味なのかしら。
句郎 素顔とは、恋するサインらしい。だから春の野に恋をする女が独りいますよと、訴えているからね。この句は乙女の句じゃないよ。きっと成熟した立派な女性の句じゃないかと思うけどね。