醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 166号  聖海

2015-04-30 11:21:37 | 随筆・小説
 
   めでたき人のかずにも入(いら)ン老(おい)の暮(くれ)  貞享2年(1685)  芭蕉42歳

 乞うて食らい、貰うて食らい、どうにか飢えることもなく、年の暮を迎えることができた。芭蕉は俳諧宗匠として門人たちの俳句を添削する点料で生活することを辞めた。人の目を見ては気を遣う。人の噂に聴き耳をたてる生活に倦んでいた。日本橋の繁華街の活気には豊かな生活と気疲れがあった。多くの人に接する生活に倦み、田舎生活を求めて日本橋から深川の田舎に隠棲して五年になる。点料のない生活ができるのか、どうか、全く分からなかった。ただ幕府御用の魚問屋を営み豊かな経済力を持っていた杉山杉風(さんぷう)の後援を得て決断したことだった。この五年もの間、門人たちの喜捨のみの乞食(こつじき)生活してきた。乞食生活に慣れれば、これほど充実した生活ができると実感していた。芭蕉は自分を「めでたき人のかずにも入(いら)ン」と自覚した。今から300年前の42歳は初老期だった。初老期を迎えた年の暮だと今の生活に満足感を得ている喜びを表現した。風雅の誠を求める質素で簡素な生活に「足る知る」喜びを詠んだ。

醸楽庵だより 165号  聖海

2015-04-29 11:14:52 | 随筆・小説

   安倍政権が思っていることと日本国民や周辺の国々の人々が思っていることは違っている

 正しいことをすると云って悪をはたらく。こういうことがある。沖縄辺野古に米軍の新基地を建設する。これは沖縄の人々にとって正しいこと、良いことだと安倍政権は言う。普天間の米軍基地を撤去するには辺野古に新基地を建設しかないと主張する。東アジアの政治情勢が日本に軍事的抑止力を要請していると主張する。抑止力としての米軍新基地建設は日本国民にとって正しいこと、良いことだと安倍政権は主張する。が、しかし沖縄の人々は東アジアの政治情勢に危機感を抱いていない。もし本当に危機感を抱いているなら、いち早く沖縄の人々は本土政府に助けを求め、軍事基地を作ってほしいと要求するに違いない。ところが沖縄の人々は安倍政権の主張とは反対に辺野古に米軍の新基地を建設することに命を張って反対している。普天間の米軍基地を撤去しなくてもよいのかと安倍政権は主張する。代替地をどこかに求めざるを得ないと安倍政権は主張する。この主張に沖縄の人々は嫌な思いをしている。脅されている。こう感じるからである。これが自分たちの政府の言うことかと感じている。沖縄の人々の大多数の意見は普天間米軍基地の無条件撤去である。代替地は日本のどこにもない。米軍基地は日本に必要ない。これが日本国民、沖縄県民の大多数の意見である。外国軍基地の存続を国内に認める主権国家がどこにあるだろうか。日本国民の税金で新しく米軍基地を建設し、米軍基地のほぼ永久的存続をお願いする国がどうして主権国家といえるのだろうか。安倍政権は正しいこと、日本国民にとって良いことだと云って悪いことをしている。
 日米安保条約は日本をアメリカの属国にする条約である。この条約そのものよりも「日米地位協定」に日本をアメリカの属国にする協定があるようだ。
 日本は自由で民主主義の国だと安倍政権は云う。政権政党は自由民主党と名乗っている。4月27日、安倍総理はアメリカ訪問へ旅立った。ボストン郊外にあるハーバード大学で安倍総理は講演をした。講演後、学生たちとの質疑応答をした。韓国系アメリカ人学生は安倍総理に次のような質問をした。
 学生 「何百人、何千人にという女性が性的奴隷として強制的に連行されたということを否定するのか」
 安倍 「人身売買の犠牲となって、筆舌に尽くしがたい思いをされた方々のことを思うと、今でも私は胸が痛む。この思いは歴代の首相の思いと変わりはありません」
 安倍総理は「人身売買」という言葉を使って従軍慰安婦にされた女性の方々への気持ちを表現した。「人身売
買」という言葉によって安倍総理は当時の日本政府は関係していませんと主張した。当時の民間の売春業者がしたことに日本政府を代表して「胸が痛む」、「この思いは歴代の首相の思いと変わりはありません」と述べた。
 安倍総理は当時の日本政府、軍関係者が直接強制的に朝鮮人や中国人、オランダ人女性等を従軍慰安婦にしたということを認めたくないようだ。その根拠に朝鮮人や中国人、オランダ人女性等を強制的に慰安婦にした文書がないということを述べている。がしかし、騙されて従軍慰安婦にされた女性が軍隊と一緒に従軍したと申し出た。このような女性の気持ちを逆なでするような発言を安倍総理はしている。
 安倍総理の祖父は東条内閣の閣僚であった。岸信介は戦争犯罪人として弾劾され、巣鴨拘置所に拘留された人である。その後、米ソ冷戦の中で運よく公民権を回復することができた。東京裁判で裁かれた戦争犯罪人たちの罪を率直に認めることが安倍総理にはできないようだ。どんなに辛くとも罪を罪として率直に認めてこそ大人として周辺諸国の人々から認められるのではないだろうか。認めないからだろうか。アメリカ下院議員たちが安倍総理に謝罪要請をしている。
 「マイク・ホンダ(民主・カリフォルニア)、チャールズ・レングル(民主・ニューヨーク)、ビル・パスクレル(民主・ニュージャージー)の各下院議員は4月21日に下院本会議場で、「安倍首相は今回の上・下院合同演説で旧日本軍慰安婦問題を含む過去の戦争犯罪を認めて謝罪せよ」と要請し、安倍首相の訪問時に過去の戦争犯罪を改めて謝罪するように強く求めています」。
 安倍総理は正しいこと、良いことをしているつもりでも悪いことをしているのかもしれない。


醸楽庵だより 164号  聖海

2015-04-28 13:00:31 | 随筆・小説

  なぜあなたは一票を投じるの

 今年、2月12日、安倍総理は国会で施政方針演説を行なった。この中で次のような発言している。
「明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。」
「明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ないわけはありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。」
 安倍総理は「世界で活躍する国」、「列強」への道を歩もうと力説している。「世界で活躍する国」になるため集団的自衛権を認める国になろう。これは海外で武力を行使する国になろう。戦争する国になろうと国民に安倍総理は訴えている。
 戦争は既に始まっている。2015年の年明け早々、中東を歴訪した安倍首相は、1月17日、エジプトで「「イスラム国」の脅威を食い止めるため」、「イスラム国と闘う周辺各国に」」としてイラクやレバノンに2億ドルを支援することを表明した。これは「イスラム国」にとっては利敵行為である。日本は「イスラム国」を敵とした。更にイスラエルを訪問、イスラエルと日本の両方の国旗の前で、ネタニヤフ・イスラエル首相と両国が連携を強化することを表明した。これはイスラエルと敵対関係にある中東諸国を敵にする行為であった。
早速、「イスラム国」の人質になっていた元ミリタリーショップ経営者の湯川遥菜(ゆかわ はるな)さんが1月25日未明、殺害された。湯川遥菜さん救出に向かった後藤健二さんが「イスラム国」の人質になり、2月1日早朝、殺害されたと報道された。
 安倍政権は「イスラム国」人質湯川さん、後藤さん救出のために何もしなかった。しかし、今までの日本政府はこのようなことはしなかった。1977年、日本赤軍が人質を取り獄中のメンバー釈放を要求した事件(クアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件)がある。その結果、獄中メンバー11人が日本赤軍に参加するために出国する際には、日本政府の正規の旅券が発行された(日本国のパスポートは出国直後に返納命令を受けて返却された)。また、身代金600万ドルに加えて、獄中メンバーが働いた獄中労務金が上乗せされた金が釈放メンバーに渡された。獄中にいる11人のメンバーが釈放された。犯人グループの要求に応じた内閣総理大臣・福田赳夫は「人命は地球より重い」と述べた。超法規的措置を当時の日本政府はした。
 これまでの日本政府の措置と比べて今回の安倍政権がとった措置はアメリカの指示に従った戦争当時国のような措置だった。
 3月27日、テレビ朝日の番組「報道ステーション」にコメンテイターとして出演した古賀茂明さんは「自らが番組を降板することになった」理由を述べた。更に「I am not abe」というフリップを掲げた。この出来事がマスコミで事件になった。事前打ち合わせに無かった出来事だったため、担当ディレクターやプロデューサーも驚いたようだ。この出来事を通して我々視聴者は担当プロデューサーやディレクターが管理しているニュースが報道されていることを知った。コメンテイターの発言もまた管理されていることを知った。古賀氏はこの慣例を破り、自由な発言をした。この自由な発言が問題になった。テレビ出演者の発言はテレビ局の編集権内の自由な発言のようだ。古賀氏は後になぜ慣例を破り、あのような発言をし、「I am not abe」を掲げたのかを説明していた。
 古賀氏はインド独立の指導者ガンジーの言葉を挙げて説明した。その言葉は次のようなことばである。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
 安倍政権は報道各社に「中立公平な報道をお願いしたい」という依頼文を発送している。「ニューズオプエド」がその文書を公表した。この文書に対して政府は圧力ではないと述べ、報道各社もまた圧力を感じていないと述べている。この文書のために自粛して報道しているとも発言していない。がしかし、この文書をテレビ局では各部局にメールを流したと云う。
 安倍首相が「列強」を発言しても問題になることがない。「イスラム国」を敵に回すようなことをしても大きな問題になることがない。人質を殺害されても政府の対応が問題になることもない。これは知らないうちに自分が変わってしまって、本当に大きな問題が起きているのに気がつかないということになってしまっているからなのかもしれない。ガンジーの言葉は真実なのであろう。私が選挙で一票を投じても日本が変わることはないだろう。それでも私は一票を投じる。なぜなら、今の政治に自分が変えられてしまわないために一票を投じたい。

 

醸楽庵だより 163号  聖海

2015-04-27 10:21:32 | 随筆・小説

   頓(やが)て死ぬけしきも見えず蝉の声  元禄3年夷則下(いそくげ) 1690年7月下旬47歳

 この芭蕉の句には俳文がある。
 「我しゐて閑寂を好(このむ)としなけれど、病身人に倦(うん)で、世をいとひし人に似たり。いかにぞや、法(のり)をも修(しゆ)せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、若き時より横ざまにすける事ありて、暫く生涯のはかりごととさへなれば、万(よろず)のことに心を入れず、終(つひ)に無能無才にして此の一筋につながる。凡(およそ)西行・宗祇の風雅にをける、雪舟の絵に置(おけ)る、利休が茶に置(おけ)る、賢愚ひとしからざれども、其(その)貫道するものは一ならむと、背をおし、腹をさすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして、又又幻住なるべし」。
 私は特にひっそりして淋しいことを好んだわけではありませんけれども、病を抱えていたものだから人との付き合いが煩わしくなり、世の中に出て行くのが億劫がる人に似ていたのかもしれません。どんなものだろうか、世に出て働く方法を身に付けようともせず、世に出て働くこともせず、人とも付き合わずに義理を果たすこともせず、若かったころから下手の横好きでしていたことを暫くは生涯の仕事のように考えていたものだから、よろずのことに心を入れずに来てしまいました。ついに無能無才を自覚し、この好きな俳諧一筋の道に生きることにした次第です。
 西行や宗祇の歌・連歌が追求したものも、雪舟の絵や利休の茶が追求したものも、どこまで追求したかは同じではないだろうが、その中で貫いているものは同じだ。人に褒められ背中を押されることがあったり、人に批判され顔をしかめたりしているうちに、気が付けば人生の半ばを過ぎ初秋になってしまいました。一生もまた同じように過ぎていくのだろう。人生は夢のようにまたまた幻の住処にいるようなものだ。
 やがて死ぬのが分っていないかのように蝉は思いっきり大きな声で鳴いている。いつまでもいつまでも夏が続いて行くような勢いで蝉は鳴いています。
 芭蕉は存在ということを、今、私はここにいるということを認識した。蝉の鳴き声を聞き、芭蕉は存在を自覚した。俳諧一筋に生きる存在としての自分を自覚した。西行や宗祇、雪舟、利休の心の世界に生きる自分を意識した。西行、宗祇、雪舟、利休が追求した真実を自分もまた追求していく存在としての自分を芭蕉は認識した。

  

醸楽庵だより 162号  聖海

2015-04-26 10:26:59 | 随筆・小説

 
  グラスとお酒   グラスによってお酒の味が変わる。ホントなの。

侘輔 ノミちゃん、盃で酒の味が変わるのを経験したことがあるかい。
呑助 そんなことって、あるんですか。
侘助 あるみたいだよ。ワインはグラスで味が変わるって言うでしょ。
呑助 そういえば、そんな話を聞いたことがありますね。
侘助 リーデルグラスでワインを飲むと味が変わるという話を聞いたことがあるでしょ。
呑助 リーデルグラスって、言うんですか。白ワインと赤ワインではグラスが違うと言うことですよね。
侘助 うん。そういうことらしい。
呑助 赤ワインと白ワインではグラスがどう違っているんですか。
侘助 赤ワインは白ワインに比べて渋いでしょ。そうではない場合もあるかもしれないけれど、普通は赤の方が渋くて酸味があるじゃない。
呑助 そうですね。確かに赤は白に比べて渋いですね。赤の方が酸味の強いワインが多いようには思いますね。
侘助 そうでしよ。そのお酒の特徴というか、個性によってグラスを分けて作っているグラス会社がリーデル社なんだ。
呑助 リーデル社というのはもちろんフランスの会社なんですよね。
侘助 フランスの会社のようだ。ワインの風味は、ブドウ品種の個性的な果実の味、酸味、タンニン、アルコールのバランスによって決まるらしい。
呑助 日本酒の場合はどうなんですかね。
侘助 日本酒の場合は米の精米歩合、水、硬水か、軟水か、酵母、造りの違いによって味が違ってくるようだ。
呑助 赤と白のワインではグラスの違いによって味がどう違ってくるんですかね。
侘助 渋くて酸味が強い赤の場合は細いグラスで飲むと美味しく飲めると言われている。白の場合はやや口が広めのグラスがいいようだよ。
呑助 赤ワインはどうして細いグラスのほうが美味しく飲めるんでしょうね。
侘助 細いグラスでワインを飲むと頭をやや後ろに傾け口をすぼめて飲むようになるから少しづつ飲む。だから渋さや酸味を強く感じることが無いみたいなんだ。だから赤ワインを美味しく飲めると言われているようだよ。
呑助 白ワインはグラスの口が広がったグラスで飲んだ方が美味しいということになるんですか。
侘助 そのようだよ。口の広がったグラスだと細いグラスに比べてより多くのワインが口に入ってくるからね。白は赤に比べて酸味や渋みが柔らかだから一気に口の中にたくさんのワインが入ってきても美味しく飲めるという訳なんだ。
呑助 なるほどね。アブサンのようなアルコール度の高い蒸留酒は少しづつしか飲めないというのと同じことですか。
侘助 そうだよ。個性の強い酒は少しづつ、穏やかなお酒は少し量を多く飲めるということだと思う。
呑助 日本酒はワインやビールに比べてアルコール度数が高いからお猪口は小さかったということですか。
侘助 そうなんじゃないかなと思うね。ついこの間、青森の「田酒」の蔵のグラスを貰ったんだ。このグラスが軽快な白ワイン用のグラスに似て、日本酒を飲むと旨いんだ。そんな気がするだけかもしれないけれどね。

 

醸楽庵だより 161号  聖海

2015-04-25 10:24:27 | 随筆・小説
 
   世にふるも更に宗祇のやどりかな  ○桃青 『芭蕉俳文集 下』堀切 実編注  岩波文庫

 この句には俳文がある。「かさの記」と題したものである。
秋の風さびしき折々、妙観が刀をかり、竹とりのたくみを得て、たけをさき、たけをたはめて、みづからかさ作りの翁と名いふ。たくみつたなければ、日をつくしてならず、こころ静(しづか)ならざれば、日をふるにものうし。朝(あした)に紙をしたためて、かわくをまちて夕べにかさぬ。しぶをもてそそぎて、いろをそめ、うるしをほどこして、かたからむ事をようす。はつか過ぐる程にこそ、ややいできにけれ。かさのはのななめに、荷葉(かえふ)のなかば開らけたるににたるもおかしきすがたなりけり。なかなかに規矩(きく)のいみじきより、猶愛すべし。かの西行の侘笠か、坡翁(はをう)雲天の笠か。呉天の雪に杖をや曳かん、宮城野の露にやぬれむと霰(あられ)に急ぎ、時雨を待ちて、そぞろにめでて殊に興ず。興のうちにしてにはかに感ずるものあり。ふたたび宋祇の時雨にたもとをうるほして、みずから笠のうらに書き付けはべりけらし。天和2年(1682) 芭蕉39歳
 秋風が寂しく吹いている折々、普段用いている刀を仏師・名工の妙観の刀を借りたつもりになって、竹藪に入り、竹を切り、竹を裂き、竹を曲げ、自ら笠作りの職人だと言い聞かせる。技が劣っているなら時間をかけても笠にはならない。心が騒ぎ、時が過ぎていくのが物憂い。朝、紙を用意し、濡れた紙が乾くのを待って夕方には紙を重ねる。柿渋を紙に塗り、漆を塗る。20日もたてば、やや出来上がる。傘の端は蓮の花が半ば開いているように見える姿におかしさを感じる。なかなか上手にできた。これは西行の侘笠か、蘇東坡の傘か、呉天・異郷の地を旅する杖にもなろう。宮城野の露を防ぐ笠にもなろう。霰が降ってきたら、この笠をさそう。時雨を待ってこの傘をさそう。面白がってこの出来上がった傘を見ていると宗祇が詠んだ時雨の歌の気持ちになって笠の浦に「世にふるも更に宗祇のやどり哉」と書きつけた。
 深川芭蕉庵に隠棲した芭蕉は暇に任せて傘を作っては楽しんでいた。芭蕉は俳句ばかりでなく、土木事業や竹細工、調理など器用な人だった。生活力旺盛な人だった。身の周りの日常生活に必要なものを自分で作ることができる人だった。一人住まいはきっと忙しい生活だったのだろう。と同時に西行や宗祇の歌や句に親しむ文人でもあった。
 「世にふる」。いい言葉だ。「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」。小野小町は若かった頃を思い出し、皆からチヤホヤされていい気持ちになっていた。気が付いて見てびっくりした。こんな歳になっていたなんて。「我が身よにふる」と老いた自分の半生を想った。思えば一瞬の出来事だった。我が身は世に降ったのだ。降っている間、世間は注目するが止めば一顧だにしてくれない。
「世にふるは苦しきものを槙の屋に易くも過ぐる初時雨」。二条院讃岐は「世にふるは苦しきものを」と詠んでいる。世を経ることの苦しさは初時雨に会うようなものだ。一瞬のこと。くよくよすることはないよ。
 「世にふるも更に時雨のやどりかな」。生きていくというのは時雨の宿りのようなものだなぁー。宗祇は詠んでいる。そうだ。私も宗祇の気持ちになって生きていこう。「世にふるも更に宗祇のやどりかな」。芭蕉は宗祇の心の世界に飛び込んで生きていこうと句を詠んだ。
 芭蕉忌を時雨忌という。はかない人生、定めなき人生、移り行く無常の世を表現しているものが時雨なのであろう。この流行する世に不易なものを探ったのが芭蕉である。
 楠の根をしづかにぬらす時雨かな   蕪村
 蕪村になると「時雨」には芭蕉が詠んだような世界はない。

醸楽庵だより 160号  聖海

2015-04-24 10:53:17 | 随筆・小説

  侘(わび)てすめ月侘斎が奈良茶歌  芭蕉38歳 延宝9年(1681)

 この句には次のような詞書がある。「月を侘び、身を侘び、つたなきを侘びて、侘ぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほわびわびて、」。
 日本橋から深川に隠棲し、芭蕉庵に住むようになって詠んだ句である。この句は須磨に流された在原行平が詠んだ歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」『古今集』をふまえて詠んでいる。わくらばに、たまたま私はどうしているかと尋ねる人があったなら、須磨の浦にて塩田の藻塩が垂れているのを眺め侘びて住んでいると答えて下さい。芭蕉は源氏物語を読んでいた。紫式部は『源氏物語』の中で在原行平の歌を引用している。「おはすべき所は、行平の中納言の、[藻塩垂れつつ]侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」。お住まいになる所は、行平中納言が、「藻塩たれつつ」と詠んだ侘住まい付近でございます。海岸から少し入り、寂しさが身に沁みる山の中」。光源氏は須磨に退去し、朝廷に謀反の意は無いことを明かそうとした。芭蕉もまた古里、伊賀上野藤堂藩に背くようなことは何もしていない意を表すために深川芭蕉庵に隠棲したのかもしれない。
 月を眺めては侘しさを感じる。一人住まいの寂しさ、侘しさを想う。私には才能もなければ、能力もない、芸もない。そんな自分の侘しさが身にしみね。私は侘しく、寂しいと答えようとしても、問うてくれる人もいない。なお侘しさ、寂しさが深まっていく。
侘びて住んでおります。侘びて澄んだ生活をしております。月を眺めては侘びている私は奈良の僧侶たちが食べる茶粥を食べては歌を唄っております。あの澄んだお月さまのように清らかな生活をしております。
 寂しく、侘しい生活を否定的なものとして忌避するのではなく、寂しく、侘しい生活を肯定しようとしている。貧しく、質素な一人住まいの清らかさのようなものを句に詠もうとする気持ちを表現した句なのであろう。

醸楽庵だより 159号  聖海

2015-04-23 11:17:46 | 随筆・小説

  体罰がなくならない。なぜか、日本国民にスポーツ文化が根付いていないから。

 中・高の部活動において、体罰がなくならない。体罰をした教師を処分しても体罰はなくならない。体罰が禁止されると指導者は技を通じて体罰をする。武道の場合、教師は対戦相手に指導したい生徒を指定し、徹底的にしごく。指導者である教師にスポーツ文化が身についていないから、このようなことが起きる。何もこれは武道に限らない。球技のスポーツにあっても同じことである。生徒より技に優れた教師は生徒をしごく。そのしごき方に優しさが何もない。これは将に体罰である。なぜか。部活動も教育活動の一部としてスポーツ指導が行われているからである。知育・徳育・体育。体育指導の一環として部活動がある。野球やサッカー、バスケット、バレー、テニス、剣道、柔道等々のスポーツが体育指導の一部として実施されている。
 体育とスポーツは違う。明治以来、学校教育における体育指導は強健な身体を作り、平民を兵隊に作り上げるために行われたものが体育であった。明治維新は四民平等を実現した。武士の特権であった兵を平民に開放した。徴兵令を実現するためには平民を武士に、兵につくりあげねばならなかった。それが体育であった。基本は行進であった。一糸乱れぬ行進が体育の基本であった。これはまた同時に兵隊の基本でもある。
 スポーツは遊びである。遊びにルールを持ち込み、危険性を防ぐ。これがスポーツである。スポーツは遊びであるから勝った者(たち)は負けた者(たち)を称える。負けた者(たち)を称えることは自分(たち)を称えることでもある。なぜなら勝ったのであるから。これがスポーツである。体育は遊びではない。教師が生徒と一緒に遊んでいたなら、それでは給料は支払えないということになるだろう。部活動は遊びではないのだ。教育指導の一部なのだ。だから体罰は起る。
 スポーツ(sport)に体育という訳語はない。訳せなかった。だから訳さず原語のまま、スポーツとカタカナ語で日本語にした。スポーツは古代ギリシャ、オリンピック競技として誕生した。マラソン競技の誕生はペルシア戦争に起源がある。有名な話だ。ギリシア都市国家連合軍が東方の大国、専制国家アケメネス朝ペルシアと戦った。マラトンでギリシア都市国家連合軍が東方の大国、専制国家アケメネス朝ペルシアと戦い、その勝利の連絡をした。使者は40キロを走りぬき、

醸楽庵だより 158号  聖海

2015-04-22 11:14:05 | 随筆・小説
 
 
  高千代酒造 蔵開き 新潟県南魚沼市

 4月19日、どんより曇っていた。朝9時集合の場所に行くと後ろから私を呼ぶ声がした。振り返るとニコニコ顔した酒屋の社長が私に向って歩いてくる。私も社長に向って急ぎ足になった。「今日はよろしくお願いします」と私は社長に挨拶した。社長と肩を並べて社長の自家用車に向って歩いた。「車が汚れていますね。チョットガラスを拭きます」。社長は自動車の窓ガラスを拭き、ボンネットや扉を拭いていた。そこに仲間が一人やって来た。「お早うございます」とサングラスをしたMさんが言った。「今日の天気はどうなりますかね」と話していると後ろから「お早うございます」と声がかかった。Kさんが来てくれた。「あとGさんだけだね」とKさんが言った。Gさんが急ぎ足でやってくるのが見えた。全員揃ったね。さぁー出発だ。
 午前8時59分、越後塩沢に向け出発した。Mさんが高速に乗るナビをしてくれた。日曜日の道路は空いていた。関越自動車道路石打・塩沢インターを11時50分に降りた。まだ蔵開きの時間には間があるな。「へぎそばを食べて行きましようか。ケーブルに乗って山に登り、アルプスの山々を眺めましようか。雲洞庵に行きましようか。鈴木牧之記念館、『北越雪譜』の著者の記念館にしましょうか」と私は尋ねた。
 「雲洞庵に行きましょう。良い所だった覚えがありますよ。家内と六日町温泉に一泊したときに拝観した覚えがありますよ」とMさんが言った。「雲洞庵に行きましょう」。皆の気持ちが一致した。南魚沼の道路の脇には雪がうず高く積まれていた。
 雲洞庵の駐車場に止めた自動車から降りると寒さが肌を刺した。拝観料三百円を支払い、杉木立の中の参道を歩いて行くと雪解け水の中に水芭蕉が咲いていた。土の上を透明な水が薄く流れ、その脇に水芭蕉がツンと背筋を張った緑の葉に囲まれて白い花が咲いている。曹洞宗の禅寺の中は寒さがピンと張りつめていた。うん、これは俳句の世界だ。一句と、思っていたがとうとう句は生まれなかった。帰り際、寒そうにしている親子連れがいた。「寒いね」と私が声をかけると「本当に寒いですね」「どちらからですか」「千葉県です」「あぁー、私どもも千葉県野田市からです」「あら、そうですか。私たちは安孫子からです」というような話を母と娘の親子連れと話を交わした。「ちょうど、良い時間です。高千代酒造に行きましよう」。
 雲洞庵から5,6分で目的地に到着した。蔵人が迎えてくれる。受付を済ますと早速、樽に入った絞りたての大吟醸の酒とおりがらみの無濾過生原酒の酒が迎えてくれた。柄杓で汲んだ酒がチョコに注がれる。あぁー、酒蔵に来た醍醐味だ。一杯づつ飲んだ。大吟の酒と生原酒の酒を飲んだ。「何杯飲んでもいいですよ。一杯づつではありませんからね」と蔵人が楽しい声をかけてくれた。もう一杯、もう一杯。4,5杯飲むと突然酔いが回ってきたように気分になった。2階でマッチングをしていますよ。「おぉー、やろう」。Gさんの声がする。この声に励まされて2階に登った。5種類の酒が用意されている。意気こんで利酒をしたが残念ながら全問正解をした仲間はいなかった。酒を講釈する私自身も全問正解できなかった。お酒のことがわかったようなことは何も言えないと深く反省した一瞬であった。

醸楽庵だより 157号  聖海

2015-04-21 11:45:37 | 随筆・小説

  先(まず)たのむ椎の木も有(あり)夏木立  芭蕉47歳  元禄三年(1690)

 元禄二年の春、芭蕉は江戸を立ち、松島・平泉を経て奥羽山脈を越え、酒田・象潟を通って日本海側を南下し、秋を迎えた金沢・敦賀を経て大垣で終わる『おくのほそ道』の旅を遂げた。旅に痩せた体を門人に迎えられた。元禄2年の冬、近江膳所の義仲寺無名庵で芭蕉は年を越した。その後、元禄3年4月6日から7月23日まで芭蕉は門人の菅沼曲水の奨めで近江国大津国分山にある幻住庵に入った。幻住庵に入るに当たって挨拶をした句が「先(まず)たのむ椎の木も有(あり)夏木立」である。この挨拶句は西行の歌「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒<ねぐら>に頼む椎の下枝」を反芻した句だという。「子がらめ」とは小雀をいう。
 芭蕉が書いたもっとも有名なものといえば、『おくのほそ道』であろう。その次に有名なものというと幻住庵にいた時に書いた『幻住庵記』であろう。ここに芭蕉の人生観が表現されている。
  かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天は五臓の神を破り、老杜(ろうと)は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。
 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と芭蕉は書いている。きっと若かったとき、武士に取り立ててもらい、命を懸けて守る封土を持てる身分になりたいと願った。この文章を読むと農民の身分であった者でも武士に取り立ててもらえる道があったことを意味している。可能性が無いものに人は希望を持たない。江戸時代は身分制社会であったが社会的流動性がわずかながらにもあったことをこの文章は意味している。二宮尊徳は農民の出身でありながら、藩に取り立てられ、藩政を司っている。芭蕉は「やや病身」と自分を見ている。二宮尊徳のような屈強な若者ではなかった。「人に倦んで、世をいとひし人に似たり」と書いている。人付き合いに草臥れたと愚痴っている。できるものなら嫌な人とは付き合いたくないとこぼしている。「一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも」。仏道修行に入ろうかとも思ってはみたけれども、できなかった。「たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば」と俳諧師への道を歩んでみた。「楽天は五臓の神を破り、老杜(ろうと)は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と白楽天は詩作のために全身を痛め、杜甫もまた詩作のために体が痩せるような苦しみをしている。白楽天や杜甫の詩文は素晴らしいが私の文は劣り、才能は平凡だ。どこに私の生きる幻の住処があるのだろう。そんなところはどこにもない。こんな思いを持って捨て寝している。
 どうか、椎の木の夏木立の皆さん、こんな私ではありますが、よろしくお願い致します。