醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1341号   白井一道   

2020-02-29 11:13:19 | 随筆・小説


   
    徒然草第165段  吾妻の人の  



原文
  吾妻の人の、都の人に交り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる、顕密の僧、すべて、我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。

現代語訳
 関東の人が都の人と交わり、都の人が関東に出て行き、身を立て、また本寺・本山を離れた顕教や密教の僧侶のすべてが都の風習をないがしろにして人と交わる姿は見苦しい限りだ。

世界史から憲法を考える  白井一道
句郎 世界の歴史で初めて憲法が制定されたのは、どのような事情で成立したのかな。
華女 それはイギリスで議会政治が発達した結果だったのじゃないのかしら。
句郎 イギリスでは確かに議会政治が世界で最も早く成立した国ではあるが、成文憲法を持たない国だと言われている。
華女 イギリスには日本国憲法のようなものがないの。
句郎 そうなんだ。我々が中学や高校で学んだマグナ・カルタが今でもイギリスの憲法文書の一つとして存在しているんだ。
華女 マグナ・カルタって、今から800年も前の歴史的文書なのよね。
句郎 そうなんだ。1215年に当時のイングランド国王ジョンと議会が結んだ文書なんだ。
華女 私も高校生の頃、世界史の授業でマグナ・カルタを教わった記憶があるけれどもどんな内容のものだったのか、すべて忘れてしまったわ。
句郎 イングランドの歴史を簡単に辿ってみると、イギリスの歴史はドイツやフランスの歴史と何が大きく違うかというと何だと思う?
華女 そんなこと突然言われても困るわ。
句郎 そうだよね。中国の歴史には征服王朝というのがあるでしょ。例えば、最も有名な王朝はモンゴル帝国かな。
華女 世界史上最大の大帝国を築いた王朝ね。
句郎 モンゴル族が漢族を征服支配した王朝だった。このような征服王朝が中国の歴史には何回も登場する。清王朝は満州族が漢族を支配した王朝だった。
華女 そうして中華民族は巨大化していったということなのね。イングランドの歴史にもそのようなことがあったのかしら。
句郎 そうなんだ。ヨーロッパにあっては、ゲルマン民族の大移動という出来事があり、フランク族がアルプス山脈以北の地域に古代ローマ帝国に匹敵するような帝国、神聖ローマ帝国を樹立する。この帝国が中世ヨーロッパを代表する王朝になった。ただこの王朝には古代ローマ帝国の中心になったローマのような大都市が造られることがなかった。
華女 ウィーンやベルリンは中心的な大都市ではなかったのかしら。
句郎 ウィーンはドイツ民族の諸邦の一つ、オーストリア侯国の中心都市かな。ベルリンはプロイセン侯国の中心都市だった。それぞれ神聖ローマ帝国の中の一つの邦だった。
華女 イングランドにはゲルマン族の侵入はなかったのかしら。
句郎 もともとイングランドはヨーロッパ大陸に比べて痩せた貧しい地域であったから、ゲルマン族は見向きもしなかったのかもしれない。その結果、第二次ゲルマン族の移動、ノルマン族がブリタニアに侵入する。
華女 ノルマン人はより豊かな大陸地域に侵入することが困難だったということなのね。
句郎 フランス北西部にノルマンジー地方があるでしょ。この地域に住む人々を現代フランス人はノルマン人と呼んでいるらしいよ。
華女 ヨーロッパ大陸の一部にノルマン人は侵入することができたと言う事なのね。
句郎 11世紀にイングランドにノルマン朝という征服王朝が制服する。この王朝はフランスの一部に支配地域を領有していた。
華女 このことが英仏百年戦争の原因になったと言う事なのね。
句郎 英仏間の領土紛争は実に長い歴史がある。ノルマン王朝が断絶した後、ノルマン族の血を引くフランス南西部の大諸侯アンジュー伯がイギリス王ヘンリ2世となってプランタジネット朝を創始、フランスに広大な領土をもった。フランスに出兵するため、諸侯や都市に莫大な軍役をヘンリ二世の後を継いだジョン王は賦課していた。諸侯と都市の上層市民は出費を拒否、戦いを強行したジョンが敗北してイギリスに戻ると諸侯はジョン王への忠誠破棄を宣言し、挙兵した。ロンドン市民もそれに呼応し、首都は反乱軍が制圧することとなった。その結果がマグナカルタ(大憲章)というものだった。その主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止などである。国王の権力を制限するものがマグナカルタである。権力を縛るもの、制限するというところに憲法の本質がある。この憲法の精神を現代のユナイテッドキングダム(UK)・イギリスは継承している。


醸楽庵だより   1340号   白井一道

2020-02-28 12:40:47 | 随筆・小説



   徒然草第164段 世の人相逢ふ時



原文
 
 世の人相(あい)逢ふ時、暫(しばら)くも黙止(もだ)する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益(むやく)の談なり。世間の浮説(ふせつ)、人の是非、自他のために、失多く、得少し。
 これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

現代語訳
 世間の人が人と逢うと、一時も黙っている事はない。必ず、話している。その話を聞いていると多くは無意味な話である。世間の噂話や人の良し悪し、自他のためになるような話は少なく、大半が何のためにもならないものばかりだ。
 このような話をする時は互いに無意味なことだとは分からずにしているのだ。

日常会話のない都会生活  白井一道
 職場に着いても朝、誰とも挨拶を交わす事はない。黙々と自分の仕事の準備を初め、黙って始める。時間が来ると会議室に向かう。打合せ担当の者が、「お早うございます」と発言し、今日の日程を確認する。本日の出張、休暇、遅刻者の確認する。それぞれの部署で全職員に知ってもらいたいことを担当者が話す。司会者が確認する。打合せの時間はおよそ、10分弱である。打合せが終わると各人はそれぞれの部署に散っていく。一日中、異なった部署で働く者とは朝の打ち合わせの時間が終わると逢うこともない。誰も朝、挨拶を交わしている者はいない。職場において日常的な挨拶や会話はほとんどない。これが職場における実態である。
 仕事が終わり、誰にも挨拶することなく、黙って職場を後にする。夕暮れてネオンの付いた街中に出ると行きつけの赤ちょうちんの暖簾をくぐり、顔なじみがいると黙って隣に座り、「今日は寒かったね」などと挨拶らしい言葉を発する。日常会話に人の温もりを感じる。この温もりを求めて、行きつけの赤ちょうちんに通う。人は人との温もりを求めている。居酒屋の女将は何も言わずに、お燗した徳利を出す。客も黙って盃を出すと昨日と同じようにお酌をしてくれる。「今日はどうしたの。いつもの時間より遅いじゃないの」とどうでもいいようなことを言ってくれる。「うん、今日は問題があってね。特別の会議が入っちゃったんだ。それが少し長引いてね」。「あっ、そうなの」。客は日常会話を求めて居酒屋に通う。後に何も残らない会話を求めている。
 仕事している間には一切の日常会話がない。緊張した仕事の会話が続いている。仕事の会話の中には安らぎが何もない。日常会話がないのだ。不足する日常会話を提供する商売が赤ちょうちんなのだ。

醸楽庵だより   1339号   白井一道

2020-02-27 10:04:46 | 随筆・小説




  徒然草第164段 世の人相逢ふ時



原文
 
 世の人相逢ふ時、暫(しばら)くも黙止(もだ)する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益(むやく)の談なり。世間の浮説(ふせつ)、人の是非、自他のために、失多く、得少し。
 これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

現代語訳
 世間の人が人と逢うと、一時も黙っている事はない。必ず、話している。その話を聞いていると多くは無意味な話である。世間の噂話や人の良し悪し、自他のためになるような話は少なく、大半が何のためにもならないものばかりだ。
 このような話をする時は互いに無意味なことだとは分からずにしているのだ。

日常会話のない都会生活  白井一道
 職場に着いても朝、誰とも挨拶を交わす事はない。黙々と自分の仕事の準備を初め、黙って始める。時間が来ると会議室に向かう。打合せ担当の者が、「お早うございます」と発言し、今日の日程を確認する。本日の出張、休暇、遅刻者の確認する。それぞれの部署で全職員に知ってもらいたいことを担当者が話す。司会者が確認する。打合せの時間はおよそ、10分弱である。打合せが終わると各人はそれぞれの部署に散っていく。一日中、異なった部署で働く者とは朝の打ち合わせの時間が終わると逢うこともない。誰も朝、挨拶を交わしている者はいない。職場において日常的な挨拶や会話はほとんどない。これが職場における実態である。
 仕事が終わり、誰にも挨拶することなく、黙って職場を後にする。夕暮れてネオンの付いた街中に出ると行きつけの赤ちょうちんの暖簾をくぐり、顔なじみがいると黙って隣に座り、「今日は寒かったね」などと挨拶らしい言葉を発する。日常会話に人の温もりを感じる。この温もりを求めて、行きつけの赤ちょうちんに通う。人は人との温もりを求めている。居酒屋の女将は何も言わずに、お燗した徳利を出す。客も黙って盃を出すと昨日と同じようにお酌をしてくれる。「今日はどうしたの。いつもの時間より遅いじゃないの」とどうでもいいようなことを言ってくれる。「うん、今日は問題があってね。特別の会議が入っちゃったんだ。それが少し長引いてね」。「あっ、そうなの」。客は日常会話を求めて居酒屋に通う。後に何も残らない会話を求めている。
 仕事している間には一切の日常会話がない。緊張した仕事の会話が続いている。仕事の会話の中には安らぎが何もない。日常会話がないのだ。不足する日常会話を提供する商売が赤ちょうちんなのだ。
   

醸楽庵だより   1338号   白井一道  

2020-02-26 12:43:45 | 随筆・小説



   
  徒然草第163号   太衝(たいしよう)の「太」の字


 
原文
 太衝(たいしよう)の「太」の字、点打つ・打たずといふ事、陰陽(おんやう)の輩(ともがら)、相論(さうろん)の事ありけり。盛親入道(もりちかにふだう)申し侍りしは、「吉平(よしひら)が自筆の占文(せんもん)の裏に書かれたる御記(ぎょき)、近衛関白殿にあり。点打ちたるを書きたり」と申しき。

現代語訳
 太衝(たいしよう)の「太」の字は、点を打つべきか、それとも打たなくともいいのか、陰陽(おんやう)道をしている人々が論じ合ったことがある。盛親入道(もりちかにふだう)がおっしゃったことによると「陰陽(おんやう)博士の吉平(よしひら)が自筆の占いの結果を書いた紙の裏に天皇が書いたものが近衛関白殿にある。そこには点を打っているのが書かれていた」という。

 文字(漢字)の統一ということ 白井一道
 秦の始皇帝が、宰相李斯に命じて漢字の書体を定めたという。その簡略体が隷書である。
戦国時代の漢字の変化
 殷の甲骨文字や西周の金文の漢字は、祭りとしての占いを記した文字である。戦国時代は雄割拠の時代であり、漢字は地域ごとに独自の発達をした。さらに孔子、墨子を初めとする諸子百家が春秋時代から戦国時代にかけて活動し、盛んに書物を著述するようになると、漢字は象形のレベルを超えて人間の精神世界を表現する文字となった。
秦の漢字統一の本質
 戦国各地で文字が字体だけでなく、使われ方が異なっていった。字形は言うに及ばず、言葉と漢字との配当関係を秦に合わせ、さらに語彙そのものや文章の書き方をも秦風にしたのが文字統一の本質であった。戦国時代には、各国で法令と行政文書による統治のシステムが整えられつつあった。文字が不統一であると行政に差し障りが生じる。秦は新たな領土を加える度に、秦の文字の使用を強制した。中国統一後に全国規模で行われた文字統一は、いわばその総仕上げであった。
秦の書体を継承した漢字
 秦は短命に終わったが、「漢承秦制」と言われるように、漢は制度としての秦の文字表記体系を引き継いだ。このことが漢字の運命を決定づけた。後世「漢字」と呼ばれるようになったが、秦の文字としての漢字が伝承されたのである。秦の文字体系は厳格だった。 漢が秦の文字を継承した以上、政策としての文字統一を推進する必要があった。書記官には書類をきちんとした文字遣いで書くことが求められ、誤字があれば罰金が科せられた。朝廷に差し出す上奏文に誤字があれば刑罰に問われた。前漢の武帝の時代に九卿(高官)の一つである郎中令を務めた石建という人は、上奏文に書いた「馬」の字の足が三本しかないことに気づき、死刑になるのではないかと恐懼したという話が『史記』に伝わっている。
印鑑に篆書という古風な書体を用いて権威づけを行うのも秦の特徴で、他の国々では日常的な書体が印鑑に使われていた。その風習は、公印・実印に篆書を用いる現代の我々にも受け継がれている。
『康熙字典』(康煕字典、こうきじてん)は、清の康熙帝の勅撰により、漢代の『説文解字』以降の歴代の字書の集大成として編纂された。全42巻、収録文字数は49,030にのぼり、その音義(字音と字義)を解説している。字の配列順は「康熙字典順」という呼称が使われているようにのちの部首別漢字辞典の規範となっている。『康熙字典』は、現代日本では主に字体の基準となる正字を示した書物というとらえ方をされている。
『康熙字典』は近代以前に作られた最大規模の字書であり、字書の集大成ということができる。辞書史上極めて重要な書物である。最大の特徴はその収録文字の多さと解釈の詳細さにある。
『説文解字』以来のそれまでの中国の字典と同様、『康熙字典』は熟語を収録していない。この点は、日本の近代以降に編纂された漢和辞典とは大きく異なっている。したがって、すべての語義は字義に分解する形で解説されている。
為政者の統治に絶対必要なものが文字の統一であった。皇帝の命令を徹底させるためには文字が必要であり、文字は誰にとっても同じ意味を表現するものでなければならなかった。このようなことは明確に出てくるのが古代社会においてである。文字の統一が中国を統一した。秦の始皇帝が中国を統一した初めての王朝であった。ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1337号   白井一道

2020-02-24 12:29:51 | 随筆・小説


   
 徒然草第162段 遍照寺の承仕法師



原文
 遍照寺(へんぜうじ)の承仕法師(じようじほふし)、池の鳥を日来(ひごろ)飼ひつけて、堂の内まで餌を撒きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入り籠(こも)りける後、己れも入りて、たて籠めて、捕へつゝ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童(わらは)聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて、入りて見るに、大雁(おほかり)どもふためき合へる中に、法師交りて、打ち伏せ、捩ぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸に懸けさせて、禁獄せられにけり。
 基俊大納言(もととしのだいなごん)、別当の時になん侍りける。

現代語訳
 遍照寺(へんぜうじ)の雑役をしている承仕法師(じようじほふし)は、広沢池に集まる鳥を日頃餌付けをして、お堂の中まで餌をまき、戸を一つ開け、数知れないほど鳥が入った後、自分自身もお堂の中に入り、閉じ込め、捕らえ殺す様子が騒々しく聞こえるのを草刈をしていた童子が聞きとがめ、人に話したところ、村の男どもが怒り、お堂の中に入って見ると大きな雁が羽をバタバタさせている中に承仕法師(じようじほふし)が交じり合い、討ち伏せねじ殺しているので、この法師を捕らえて検非違使庁へ突き出した。殺した鳥を首に掛けさせて、投獄した。
 基俊大納言(もととしのだいなごん)が検非違使庁の長官であった時の事である。

 寺男の思い出   白井一道
 じぃーさんと私は呼んでいた。おばさんもじぃーさんと呼んでいた。夏は毎朝5時になるとじぃーさんは梵鐘を鳴らした。私は本坊から礼堂に向かって走った。冬になるとじぃーさんは毎朝6時になると梵鐘を打った。礼堂でのお勤め、お経を4、50分あげる。礼堂には鎌倉時代に造られた釈迦如来像が祀られていた。夏は本坊に帰り、寺務所の掃除をした。廊下の雑巾がけと部屋を箒で掃き清めることであった。その後を朝食をいただいた。朝食はご飯とみそ汁、沢庵ととろろ昆布であった。一年中朝食のメニューが変わることはなかった。朝食のメンバーは和尚さん、小僧が三人、おばさんとじぃーさんの六人であった。私は小僧の中の三番目の席に座っていた。食事中、おしゃべりする人はいなかった。たまにおばさんが話すことはあったが、小僧は誰も話すことはなかった。ただ黙って黙々と食べるだけである。じぃーさんが食事中に話すことは一度もなかった。和尚さんが手を合わせ、祈りを捧げると朝食の終わりである。小僧たちは各々自分の茶碗と椀、箸を洗い、箸箱にいれ、自室に帰り、学校に行く用意をする。おばさんの作ってくれた弁当を「いただきます」と挨拶をして鞄の中にいれ、自転車に乗って中学校に向かった。高校生の兄弟子は定時制高校に通っていた。もう一人の兄弟子は京都の予備校に通っていた。和尚さんに「学校に行かせていただきます」と挨拶すると「早う帰ってきぃーや」と和尚さんはいつも言った。
 じぃーさんは毎朝食事が終わると寺務所に来て、和尚さんに「今日はどこをやりまひょ」と聞く、和尚さんは「今日は東門の辺りを中心に掃除をしてくれ」と言われると一日中、午後五時近くまで掃除をしている。本坊に上がって来ると風呂の準備をして、火を付ける。午後6時、夕食が終わると、和尚さんが一番風呂に入る。その次が小僧の番である。次が塔頭にいる人が入り、おばさんが入り、最後がじぃーさんであった。そのことに子供だった私は当然のことのように受け入れていた。寺男のじぃーさんは大きな台所の隣の六畳間にいた。一年中、日が入ることのない部屋に一人でいた。真冬でも暖房設備は何もなかった。我々小僧にも暖房設備は何もなかった。我々小僧の部屋には日が射す事はあったが、外界を遮断するものは障子一枚のみだった。冷たい隙間風が入って来た。じぃーさんが不平を言うのを聞いたことがない。毎日、黙々と体を動かし、伽藍の掃除をしていた。じぃーさんの部屋にはもちろん電気製品は一つもなかった。なしぼれた衣類と布団があるだけだった。そんなじぃーさんに私は世話になったことがある。学校に来ていくシャツが無くなり、じぃーさんから新品のシャツを貸してもらったことが度々あった。夏場は毎日、洗濯しなければならないが、それをサボると学校に着ていくシャツが無くなり、じぃーさんからシャツを借りたのだ。何一つ言うことなくじぃーさんはシャツを貸してくれた。

醸楽庵だより   1336号   白井一道

2020-02-23 07:46:04 | 随筆・小説



   徒然草第161段 花の盛りは



原文
 花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正(じしやう)の後、七日(なぬか)とも言へど、立春より七十五日、大様違(おはやうかが)はず。

現代語訳
 桜の花の盛りは、冬至より百五十日ほど後とか、春分の日より二日後の昼夜が等しい時正(じしやう)の後、七日とも言われているが、立春より七十五日がおおよそ違うことはない。

 花を待つ人   白井一道

 立春が過ぎても「春は名のみの風の寒さや」と詠われるような日々が続くが、そのころからだろうか、そろそろ梅の花が咲き始め、桜の花が咲き始めるのを待ち望む日がやって来る。平安時代に生きた貴族たちにとって、時間はゆったりと流れていた。
 桜の花がいつ咲き始めるかを待っ日々が来ると夢の中にも桜の花が咲き始めたと詠んだ歌人がいた。

朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける         (崇徳院)千載和歌集
 
 
 山村に住む者にとって春は胸はずむ季節だ。山の若葉が萌えだすと日に日に春は迫って来る。沢を流れる小川のせせらぎに春が来ていると告げ始める。街場に住み、桜の花が咲くのを待ち望む人々に残雪の残る山肌に雪の間から草が萌えだすのを見せてあげたいものだと詠んだ家人がいた。

花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや  藤原家隆


昔、山の中で見た山桜に心奪われた。その美しさが忘れられない。あぁー、いいなぁー。山の中に咲く桜の美しさは私一人だけのものだ。心の中にいつまでもしまっておきたい宝物だ。そんな思いが夢の中に出て来たと詠んだ家人がいる。

思ひ寝の 心やゆきて尋ぬらむ 夢にも見つる山桜かな      藤原清輔



醸楽庵だより   1335号   白井一道

2020-02-22 11:55:29 | 随筆・小説



    徒然草第160段 門に額懸くるを



原文
  門に額懸くるを「打つ」と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、「額懸(がくか)くる」とのたまひき。「見物の桟敷打つ」も、よからぬにや。「平張(ひらばり)打つ」などは、常の事なり。「桟敷構ふる」など言ふべし。「護摩焚く」と言ふも、わろし。「修する」「護摩する」など言ふなり。「行法(ぎやうぼふ)も、法の字を清みて言ふ、わろし。濁りて言ふ」と、清閑寺僧正仰せられき。常に言ふ事に、かゝる事のみ多し。

現代語訳
 門に額を懸けることを「打つ」と言うのは、良いことではないのだろうか。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、「額懸くる」とおっしゃった。「見物の桟敷打つ」も良くないのだろうか。「平張(ひらばり)打つ」などは、常に言われていることだ。「桟敷を構える」などと言うべきだ。「護摩焚く」と言うのも悪いことだ。「修する」「護摩をする」などと言うものだ。「行法(ぎやうぼふ)も、法の字を法の字を「ほう」と清音で言うのは悪い。濁りて言う」と、清閑寺の僧正はおっしゃられている。常日頃使われている言葉にこのような事が多い。

 
ピジン語について  白井一道

 日本は独立した立派な主権国家だと私は考えている。しかし日本の首都東京の空は日本の空ではないと言う事を知っている。
 
智恵子は東京に空が無いという
「あどけない話」
智恵子は東京に空が無いという
ほんとの空が見たいという
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言う
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという
あどけない空の話である。
【高村光太郎】
 東京の空は日本人にとって私が子供だった頃仰ぎ見た空ではなくなっているということなのかもしれない。透明感の薄れた空、ビルに閉ざされた空、山の稜線のない空になっている。
 米軍横田基地に離発着陸する空軍戦闘機優先の東京の空なっている。羽田空港に離発着陸いる旅客機は遠慮するかのように木更津沖からのコースしか利用できないようだ。日本は未だに第二次世界大戦が終わって70年以上になるにもかかわらず、日本の空は米軍に占領されたままになっている。東京には日本の空がない。
 日本は未だにアメリカに半ば従属した属国なのかもしれない。『属国—米国の抱擁とアジアでの孤立』
ガバン・マコーマック著。このような本をオーストラリアの歴史学者が書いている。アジア近隣諸国は日本をアメリカの属国として見なしていると言う事のようだ。日本に住む日本人は自分たちを独立した国の主権者だと自負してみたところで隣近所にする外国人たちは日本人をアメリカに従属した属国人だと見なしているのかもしれない。
 終戦直後から現在に至るまで若者はいつの時代にあってもカタカナ語が大好きだ。私が若かった頃もカタカナ語が多かった。今の若者もまたカタカナ語を多用する。最近の傾向は横文字をそのままカタカナ語として使用している。特にパソコン関係の言葉はすべてカタカナ語で表現されている。英単語そのものをカタカナ語で表現して大和言葉の中の一部にしていることは一種のピジン語になってきている。ピジン語とは植民地語である。Businessを中国人がpidginと理解したのがピジン語の始まりだという話を聞いたことがある。中国がイギリスの反植民地にされ、上海や香港で使用された英語と中国語のまじりあった言語がピジン語だ。
 日本が終戦直後から現在に至るまでアメリカの反植民地であったが故に現在の日本語にカタカナ語の氾濫が後を絶たない。日本語は変わってきているのかもしれない。その変わりようは一種のピジン語化だ。日本語の英語化であっても文法構造は変わりようがない。豊かな美しい日本語を紡ぎ出す営みもまた一方において行われているようにも思われる。

醸楽庵だより   1334号   白井一道

2020-02-21 11:11:26 | 随筆・小説



   徒然草第159段 みな結びと言ふは



原文
 「みな結びと言ふは、糸を結び重ねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たれば言ふ」と、或やんごとなき人仰せられき。「にな」といふは誤なり。

現代語訳
 「装飾に用いる組紐のみな結びというのは、糸を結び重ねたものが蜷(みな)といふ貝に似ているから言う」と、或る高貴な方がおっしゃられた。「にな」というのは間違いだ。

 映画『忍ぶ糸』のあらすじ -Movie Walkerより
〈第一部・古都のめぐり逢い〉昭和十八年、伊賀上野。滝本千賀は、この里一番の紐屋“増住”の組み子になりたく、単身増住の門をくぐった。だが、増住は八十年の歴史を持つ老舗、良家の子女しか採用されない。しかし、千賀は、増住の一人息子・洋三の口聞きで、組み子として増住で一番の織り手・海渡たけのの下で働くことになった。日増しに千賀と洋三は深く愛し合うようになっていったのだが、あまりにも家柄が違いすぎた。結婚を反対する父・大二郎と激しく争った洋三は、千賀に必らず迎えに来る、といい残し、京都の大学に帰ってしまった。大二郎は、千賀が結婚すれば、洋三が諦めるものと考え、増住の下請け紐屋、藤波良作に縁談を持っていった。悩み苦しんだ千賀は列車に身を投げようとするが、たけのに助けられた。そしてたけのは千賀に、洋三への想いは一生胸の奥へしまい込み、藤波家に嫁ぐように助言するのだった。結納が交された日、千賀は京都へ洋三に会いに行った。その夜二人は結ばれた。そして別れ際、千賀は一束の髪を切り洋三に手渡した……。洋三への想いを堅く心に閉ざしたまま良作と結婚した千賀は、決して良作に心を許そうとせず、まるで生人形だった。戦局はますます悪化、洋三、良作も召集された。敗戦の年、千賀は、洋三の子か良作の子か、長女・亜木子を生んだ。〈第二部・春の旅立ち〉昭和二十二年十一月。亜木子も二歳になり、良作がシベリアから復員して来た。千賀は増住の下請けを離れて独立した。良作は千賀と愛のない生活を送るうち、亜木子が本当に自分の子供であるか疑いを持ち、千賀を責めるのだった。そんなある日、酔った良作は、自殺とも事故死ともつかず、列車に轢かれて死んでしまった。その頃、戦地で身体障害者になった洋三が、看護婦の妻・咲枝を連れて復員して来た……。歳月は流れ、亜木子は母に似て美しく成長していた。亜木子には婚約者がおり、猪木慶山の窯場で働いている。ある日、亜木子の前に、陶芸家の三沢という男が現われた。亜木子は三沢の陶器に対する異常なまでの気魄に魅かれていく自分をどうすることもできなかった。一方、千賀と洋三は同じ町に住みながらも、会うことはなかった。たとえ道で逢っても言葉を交わすことなく通りすぎていた。氷い歳月が二人を変えていた。亜木子の結婚式の日取りも決った時、亜木子は三沢の気持ちを知った。激しい亜木子への想いが、三沢の心を乱している、ということを。千賀は、かつて自分が適えられなかった恋を思い、耐え忍ぶのも伊賀の女の性根なら、貫き通すのも伊賀の女の性根だと、亜木子を三沢のもとに走らせるのだった。亜木子の恋を適えてやることによって、自分の生涯の意味を果すかのように、千賀は娘の旅立ちを見守るのだった。 製作年 1973年 上映時間 168分
 主演女優 栗原小巻

醸楽庵だより   1333号   白井一道  

2020-02-19 10:32:02 | 随筆・小説



   徒然草第158段 盃の底を捨つる事は、



原文
「盃の底を捨つる事は、いかゞ心得たる」と、或人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ぎやうだう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ぎよだう)なり。流れを残して、口の附きたる所を滌(すず)ぐなり」とぞ仰せられし。

現代語訳

 「自分の飲んだ盃を人に差し出す時、盃の底に少し残った酒を捨てることは、どういうことと了解しているのか」と、或る人がお尋ねになられた時に、「凝当(ぎやうだう)と申されることは盃の底に残ったものを捨てることではない」とおっしゃられたので「そうではない。魚道(ぎよだう)だ。少し飲み残し、自分の口の付いたところを洗い清めるためである」とおっしゃられた。

 酒の文化を知る – 酒の歳時記 月桂冠より
 春の宴は花見だけではない。「水口祭」(みなくちまつり)や「田遊び」、神の山への登山なども盛んに行われていたようで、各地の風土記には「遊楽」「宴遊」などの言葉がしばしば出てくる。
平安朝になると、宮廷貴族たちは、ことのほか詩歌管絃の遊びを好んだが、それは大抵酒宴を伴っていた。 11世紀初頭の『紫式部日記』には、藤原道長邸で催された後一条天皇誕生の祝い歌が自らの筆で記されている。
珍らしき 光さしそふ盃は
もちながらこそ 千代をめぐらめ
宮廷の女房たちも、貝合せを始め、絵合せ、物合せ、草花合せなど、優雅な遊びと芸術を生活の中にとけこませていった。詩人・大岡信によると、こうした貴族たちの美意識の根底には、常に「うたげ」があったのだと言う。
3月3日の節会には、庭を縫うように流れる遣水(やりみず)にうかべた酒盃が、汀(みぎわ)のところどころに座を占めた公卿たちの前へ流れてゆく。盃が自分の前を通り過ぎないうちに歌を詠みあげ、盃をとりあげて飲み干すといういとも風流な行事である。 これを人々は「曲水の宴」(ごくすいのえん)と呼んだ。もとはといえば、4世紀、中国の書聖・王羲之が始めた「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)が起源、それを日本の風土と、日本人の美意識によって見事に再生された。
曲水の宴ばかりではない。春は花、夏は時鳥(ほととぎす)、秋は月、冬は雪という花鳥風月に恵まれた風土の中で、先人達が育て上げてきたすばらしい感性がいまも私たちの中で脈うち、日本の酒文化もきわめて洗練されたものになっている。      
 日本では酒というものは、もともと先祖の霊魂や、八百万(やおよろず)の神々をまつるたびに造られた。その祭りに集まった敬虔な人々にとって、酒は神々に献上し、神々と一緒になって飲むもので、決して一人で飲むものではなかった。また、酒に酩酊することで神がかりになり、神のお告げを人々に伝える人も現れた。 こうして、酒を造ること自体が神事となり、さらに神の嘗(な)めた酒を人々が共に飲み、神々に近づく「相嘗(あいなめ)の神事」が生れ、それが今も神社で行われる「直会」(なおらい)となって伝わっている。これが後世宴(うたげ)へと発展していった。「うたげ」とは、酒宴で手を打つことだったといわれるが、これも大切な神事であった。
3世紀初頭、中国の史書『三国志』「魏志東夷伝」倭人の項に「其ノ会同坐起ニハ、父子男女ノ別無ク、人性酒ヲ嗜ム」と記されており、当時の日本人は、中国人も驚くほどみんなで酒を飲んでいたようだ。何かというと山や海辺に集まり、男女が互いに歌を唄い合って交歓し、求婚も行ったという。この東アジア共通の習俗は、日本では「歌垣」と呼ばれ、奈良時代には「かがい」と呼ぶ宮廷の行事にまでなった。
春の宴は花見だけではない。「水口祭」(みなくちまつり)や「田遊び」、神の山への登山なども盛んに行われていたようで、各地の風土記には「遊楽」「宴遊」などの言葉がしばしば出てくる。
平安朝になると、宮廷貴族たちは、ことのほか詩歌管絃の遊びを好んだが、それは大抵酒宴を伴っていた。 11世紀初頭の『紫式部日記』には、藤原道長邸で催された後一条天皇誕生の祝い歌が自らの筆で記されている。
珍らしき 光さしそふ盃は
もちながらこそ 千代をめぐらめ
宮廷の女房たちも、貝合せを始め、絵合せ、物合せ、草花合せなど、優雅な遊びと芸術を生活の中にとけこませていった。詩人・大岡信によると、こうした貴族たちの美意識の根底には、常に「うたげ」があったのだと言う。
3月3日の節会には、庭を縫うように流れる遣水(やりみず)にうかべた酒盃が、汀(みぎわ)のところどころに座を占めた公卿たちの前へ流れてゆく。盃が自分の前を通り過ぎないうちに歌を詠みあげ、盃をとりあげて飲み干すといういとも風流な行事である。 これを人々は「曲水の宴」(ごくすいのえん)と呼んだ。もとはといえば、4世紀、中国の書聖・王羲之が始めた「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)が起源、それを日本の風土と、日本人の美意識によって見事に再生された。

曲水の宴ばかりではない。春は花、夏は時鳥(ほととぎす)、秋は月、冬は雪という花鳥風月に恵まれた風土の中で、先人達が育て上げてきたすばらしい感性がいまも私たちの中で脈うち、日本の酒文化もきわめて洗練されたものになっている。


醸楽庵だより   1332号   白井一道

2020-02-18 10:22:37 | 随筆・小説



   徒然草第157段 筆を取れば物書かれ



原文
 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。

現代語訳
 筆を取ると何かを書きたくなり、楽器を取ると何か音を鳴らしたいと思う。盃を手に取ると酒を思い、賽を取れば双六がしたくなる。心は必ず何かに刺激され生れて来る。仮にも悪い遊びをしてはならない。

原文
  あからさまに聖教(しやうげう)の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披(ひろ)げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るゝ所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床(じやうしやう)に座せば、覚えずして禅定成るべし。

現代語訳
 ついちょっと、経典の一句を見れば何となく前後の文を見る。突然、多年の非を改めることもある。仮に今、この文を公にしたら、この事を知ることになろう。これすなわち、知り得たということだ。心更に気持ちが乗らなくとも仏前において数珠を取り上げ怠っているうちにあっても善いことをしているということが分かり、取り乱された心であっても縄で編んだ座布団に座れば、気の付かないうちに禅定の境地になるであろう。

原文
 事・理もとより二つならず。外相(げさう)もし背かざれば、内証(ないしやう)必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

現代語訳
 事実と考えた事は一体のものである。表面的なものにもし事実に反することがなければ、仏法の真理は分かって来る。けっして仏法の不信を言ってはならない。仰ぎて仏法を尊ぶべきだ。

 末法思想が支配した時代    白井一道
 末法の時代に民衆がすがった思想が法然の教えだった。兼好法師もまた、法然の仏教思想に帰依していた。天皇にまとわりつく貴族階級が台頭する武家に対して最後の足掻きをする時代、専修念仏を唱える法然の仏教思想に兼好法師も心の平安を求めていたのかもしれない。
 兼好法師は後醍醐天皇と同時代を生きた。関西以西に権力基盤を置いた後醍醐天皇が武家権力に反旗を翻したが敗北し、武家の権力が関西以西まで完全に拡大していった。そのような時代が末法思想の流行した時代だった。不安激動の時代に至る時代に兼好法師は生きていた。