徒然草第165段 吾妻の人の
原文
吾妻の人の、都の人に交り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる、顕密の僧、すべて、我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。
現代語訳
関東の人が都の人と交わり、都の人が関東に出て行き、身を立て、また本寺・本山を離れた顕教や密教の僧侶のすべてが都の風習をないがしろにして人と交わる姿は見苦しい限りだ。
世界史から憲法を考える 白井一道
句郎 世界の歴史で初めて憲法が制定されたのは、どのような事情で成立したのかな。
華女 それはイギリスで議会政治が発達した結果だったのじゃないのかしら。
句郎 イギリスでは確かに議会政治が世界で最も早く成立した国ではあるが、成文憲法を持たない国だと言われている。
華女 イギリスには日本国憲法のようなものがないの。
句郎 そうなんだ。我々が中学や高校で学んだマグナ・カルタが今でもイギリスの憲法文書の一つとして存在しているんだ。
華女 マグナ・カルタって、今から800年も前の歴史的文書なのよね。
句郎 そうなんだ。1215年に当時のイングランド国王ジョンと議会が結んだ文書なんだ。
華女 私も高校生の頃、世界史の授業でマグナ・カルタを教わった記憶があるけれどもどんな内容のものだったのか、すべて忘れてしまったわ。
句郎 イングランドの歴史を簡単に辿ってみると、イギリスの歴史はドイツやフランスの歴史と何が大きく違うかというと何だと思う?
華女 そんなこと突然言われても困るわ。
句郎 そうだよね。中国の歴史には征服王朝というのがあるでしょ。例えば、最も有名な王朝はモンゴル帝国かな。
華女 世界史上最大の大帝国を築いた王朝ね。
句郎 モンゴル族が漢族を征服支配した王朝だった。このような征服王朝が中国の歴史には何回も登場する。清王朝は満州族が漢族を支配した王朝だった。
華女 そうして中華民族は巨大化していったということなのね。イングランドの歴史にもそのようなことがあったのかしら。
句郎 そうなんだ。ヨーロッパにあっては、ゲルマン民族の大移動という出来事があり、フランク族がアルプス山脈以北の地域に古代ローマ帝国に匹敵するような帝国、神聖ローマ帝国を樹立する。この帝国が中世ヨーロッパを代表する王朝になった。ただこの王朝には古代ローマ帝国の中心になったローマのような大都市が造られることがなかった。
華女 ウィーンやベルリンは中心的な大都市ではなかったのかしら。
句郎 ウィーンはドイツ民族の諸邦の一つ、オーストリア侯国の中心都市かな。ベルリンはプロイセン侯国の中心都市だった。それぞれ神聖ローマ帝国の中の一つの邦だった。
華女 イングランドにはゲルマン族の侵入はなかったのかしら。
句郎 もともとイングランドはヨーロッパ大陸に比べて痩せた貧しい地域であったから、ゲルマン族は見向きもしなかったのかもしれない。その結果、第二次ゲルマン族の移動、ノルマン族がブリタニアに侵入する。
華女 ノルマン人はより豊かな大陸地域に侵入することが困難だったということなのね。
句郎 フランス北西部にノルマンジー地方があるでしょ。この地域に住む人々を現代フランス人はノルマン人と呼んでいるらしいよ。
華女 ヨーロッパ大陸の一部にノルマン人は侵入することができたと言う事なのね。
句郎 11世紀にイングランドにノルマン朝という征服王朝が制服する。この王朝はフランスの一部に支配地域を領有していた。
華女 このことが英仏百年戦争の原因になったと言う事なのね。
句郎 英仏間の領土紛争は実に長い歴史がある。ノルマン王朝が断絶した後、ノルマン族の血を引くフランス南西部の大諸侯アンジュー伯がイギリス王ヘンリ2世となってプランタジネット朝を創始、フランスに広大な領土をもった。フランスに出兵するため、諸侯や都市に莫大な軍役をヘンリ二世の後を継いだジョン王は賦課していた。諸侯と都市の上層市民は出費を拒否、戦いを強行したジョンが敗北してイギリスに戻ると諸侯はジョン王への忠誠破棄を宣言し、挙兵した。ロンドン市民もそれに呼応し、首都は反乱軍が制圧することとなった。その結果がマグナカルタ(大憲章)というものだった。その主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止などである。国王の権力を制限するものがマグナカルタである。権力を縛るもの、制限するというところに憲法の本質がある。この憲法の精神を現代のユナイテッドキングダム(UK)・イギリスは継承している。