醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1172号   白井一道

2019-08-31 10:17:10 | 随筆・小説



    菊の後大根の外更になし   芭蕉   元禄間年



句郎 「菊の後大根の外更になし」。元禄間年。『陸奥鵆』。
華女 菊と大根ね。二つとも今では季語になっているわね。大根を詠んだ和歌はあるのかしら。
句郎 大根は和歌の対象にはならなかった。大根の姿かたちが歌人の心に訴えるものがなかったのではないかと思う。,
華女 大根が普及したのはいつごろだったのかしら。
句郎 江戸時代に急激に普及したようだ。原産地はコーカサス地方だと言われている。日本には中国、朝鮮を通じて奈良時代にはすでに日本に伝わっていた。
華女 芭蕉の生きた時代には大根が江戸庶民の根菜になっていたということね。
句郎 沢庵漬けが普及するのも16世紀後半頃からのようだ。三代将軍家光が推賞したという話がある。
華女 芭蕉が菊と大根とを取り合わせたところに俳諧があるということなのね。
句郎 何しろ菊は古い歴史を持つ高貴な花として愛でられてきているからな。
華女 そうよね。百人一首にも菊を詠んだ歌が入っているわね。
句郎 「心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花」凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌かな。宮廷歌人が菊を詠むようになるのは平安時代になってからだった。『万葉集』には菊を詠んだ歌はない。
華女 どこに白菊の花があるのかしら。ここかなと手を伸ばして手折ってみよう。初霜に惑わせる白菊の花ですこと。というような意味かしら。
句郎 第二次大戦中、アメリカ政府は日本研究をしていた。その成果の一つが文化人類学者R.ベネディクトの『菊と刀』(1946)である。日本文化を象徴するものが菊の花と日本刀だとベネディクトは述べている。
華女 恥の文化と罪の文化として日本文化を解説したものよね。平安時代以来の日本人の思いが菊の花には籠っていると言うことね。
句郎 大根と菊とじゃ、比べものにならないほど日本人の思いの違いがある。今では八重菊を図案化した菊紋である十六葉八重表菊は、天皇および皇室を表す紋章になっている。俗に菊の御紋とも呼ばれている。
華女 そうね。「色かはる 秋の菊をば ひととせに 再びにほふ 花とこそ見れ」(よみ人しらず)。菊の花というのは萎れてきても色が変わり、情緒が出るのよね。
句郎 「秋をおきて 時こそ有りけれ 菊の花 移ろふからに 色のまされば」(平貞文)という歌もあるかな。
華女 芭蕉は古人が菊を愛でてきたことをよく知っていたということね。菊の花を愛でることができなくなっても残念がることなんて少しもありませんよ。大根があるじゃないですかと芭蕉は言っているのね。
句郎 花の季節は春の梅ではじまり、秋の菊で終わる。「菊」は「鞠」とも書く。この字は「窮」に通じる。物事の究極、最後を意味する。つまり菊は今年「最後の花」になる。だから菊の花を惜しんだ。
華女 慈鎮和尚に「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」という歌があるそうよ。
句郎 この歌を芭蕉は知っていた。菊の花が終わるのを惜しむのは歌人の皆さんです。私たち庶民にとって菊の花の時期が終わることを残念に思う人はいませんよ。菊の花を愛でることができる方たちはお腹を満たしているからですよ。私たち庶民はいつもお腹を空かしています。菊の花が終わることになると大根が食べごろになる。嬉しい限りだ。皆喜んでいますよ。
華女 菊の花が終わるのを惜しむ歌人たちに対して俳諧に親しむ庶民は大根が食べごろになるを楽しみしているということを芭蕉は詠んだということなのかしら。
句郎 そうなんじゃないの。この句はパロディだ。

醸楽庵だより   1171号   白井一道

2019-08-30 11:37:21 | 随筆・小説



    猿引は猿の小袖を砧哉   芭蕉  元禄間年



句郎 「猿引は猿の小袖を砧哉」。元禄間年。『続有磯海』。
華女 猿引というのは日本の代表的な放浪芸の一つよね。
句郎 猿引には長い歴史があるみたいだ。若かった頃、村崎義正著・筑摩書房『歩け、飛べ、三平』を読み、教育の原点を教わった記憶がある。,
華女 芭蕉は放浪芸人、猿引に優しい視線を持っていた人なのね。
句郎 元禄時代というのは江戸徳川幕藩体制が安定した時代だった。五代将軍綱吉は文治主義を徹底した。その結果、身分差別を強化し、秩序が安定した。
華女 放浪芸猿引はどのような身分にされていたのかしら。
句郎 全国各地の城下町や農村に「猿引で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業を行っていた。猿引の一部は賤視身分にされ、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわしは旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地のや猿飼の家に泊まらなければならなかった。新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和もしくは京の者、幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていたようだ。猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった。
華女 猿引は被差別民として江戸幕府から規制されてしまったということね。
句郎 社会秩序を整えるということは支配する者の都合だからね。
華女 本来、人間を支配するなんてことはできないものなんじゃないのかしらね。
句郎 話し合いをして合意を互いに築いて社会ができていくというのが自然の在り方だよね。
華女 元禄時代に生きた人々の猿引に対する視線には賤視があったということね。
句郎 元禄時代に京でお俊伝兵衛(おしゅんでんべえ)心中事件と四条河原の刃傷事件に伴って、親孝行の猿回しが表彰された事件があった。この事件が後に『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)』という浄瑠璃義太夫節になり、歌舞伎にもなった。このような出来事に敏感だった芭蕉は猿引などの放浪芸人に対して同じような放浪の俳諧師として親しみを感じていたのかもしれない。
華女 俳諧師も一種の芸人のような存在だったということね。
句郎 芭蕉の生活を支えてくれたのは支援者からの援助だった。まったく猿引と同じような放浪芸人だったといえると思う。
華女 芭蕉は自分を客観的に見ることができる人だったということね。
句郎 猿引を見て芭蕉は自分の方がマシだなとは思うことはなく、共感する。砧を打つ音に自分の生活の侘しさを感じたのかもしれない。
華女 砧を打つ音の響きが秋の夜の肌寒さと侘しさを感じさせるものなのよ。
句郎 私の祖母が嫁だったとき、家族は皆寝ているのに嫁一人砧を打つことが嫁の勤めだといって夜なべをさせられたことを聞いた。
華女 砧を打つ音には女の哀しみが籠っているのよ。
句郎 李 恢成の小説に『砧をうつ女』がある。女の哀しみを書いた本だった。秋の夜の砧を打つ音には人間の哀しみが籠っているように感じるな。
華女 現在は砧を打つ音を聞くこともなくなってしまったから、砧と言っても知らない人が多くなっているのじゃないのかしら。
句郎 猿引は猿に着せる小袖に砧を打っている。女の仕事を秋の夜長に男が猿の小袖に砧を打っている。妻もまた砧を打っている。秋の夜を芭蕉は表現した。

醸楽庵だより   1170号   白井一道

2019-08-29 10:38:22 | 随筆・小説



    鶏頭や雁の来る時なほ赤し   芭蕉  元禄7年



句郎 「鶏頭や雁の来る時なほ赤し」。元禄7年。『続猿蓑』。
華女 鶏頭のことを「雁来紅(がんらいこう、かまつか)」と言うのよね。
句郎 雁来紅とは、葉鶏頭の事を言うようだ。鶏頭と葉鶏頭とは、違う植物みたい。
華女 『枕草子』にある「かまつかの花らうたげなり。名もうたてあなる。雁の来る花とぞ文字には書きたる」とあるのは鶏頭の花ではなく、葉鶏頭のことだということなのかしら。
句郎 雁が渡って来る頃、葉が赤く発色するのが葉鶏頭だ。「かくれ住む門に目立つや葉鶏頭」と永井荷風が詠んでいる。鮮やかな葉鶏頭が瞼に浮かぶ。芭蕉が詠んだ「鶏頭や」の句の「鶏頭」は、葉鶏頭なのではないのかと思う。
華女 もしかしたら、芭蕉は葉鶏頭を雁来紅ということを知らなかったのかもしれないわ。
句郎 そうなのかもしれない。鶏頭と葉鶏頭とを間違い、葉鶏頭を雁来紅ということも知らなかったのでこのような句を詠んでいるのかもしれないな。


 雁来紅を詠んだ句を評釈した清水哲男氏の文章を紹介したい。


「雁来紅弔辞ときどき聞きとれる」池田澄子
             
雁が飛来するころに葉が紅く色づくので「雁来紅」。「かまつか」の読みも当てるが、掲句ではそのまま「がんらいこう」と読ませるのだろう。葉鶏頭のこと。故人とは特別に親しかったわけでもないので、作者は参列者の末席あたりにいる。「雁来紅」が目に写るということは、小さな寺で堂内に入れずに、境内に佇んでいるのかもしれない。こういうことは、よくある。したがって、弔辞もよく聞こえない。こうした場合、普通は「よく聞きとれぬ」と言うところを、同じことなのだが「ときどき聞きとれる」とやったところに可笑しみが出た。物も言いようと言うけれど、掲句の「言いよう」には俳句での年季が感じられる。「聞きとれぬ」と「聞きとれる」では、葬儀そのものへの感情的距離感がまったく違ってしまう。「聞きとれぬ」は悲哀に通じ、逆に「聞きとれる」は諧謔に通じる。作者は、そのことを十二分に承知している。「雁来紅」はいよいよ鮮やかに目に沁み、いわば義理で出ている葬儀はなかなか終わりそうもない。『ゆく船』(2000)所収。

醸楽庵だより   1169号   白井一道

2019-08-28 11:12:20 | 随筆・小説



    春の夜は桜に明けてしまひけり   芭蕉  元禄年間



句郎 「春の夜は桜に明けてしまひけり」。元禄年間。『俳諧翁艸』。
華女 俳句は読者のもの。解釈によって名句になる。この句を読んで感じるわ。
句郎 鶏頭論争で有名な子規の句「鶏頭の十四五本もありぬべし」を思い出すな。
華女 子規の「鶏頭の」の句、解釈した人が名句に仕立て上げたのよね。
句郎 「鶏頭の十四五本もありぬべし」。この句を読んで名句だと言う人は少ないだろうな。ただ名句だという理由を聞いてなるほどねと、いう句なのだろう。
華女 何年にもわたって論争が続いたのよね。
句郎 俳句に興味関心のない人にとっては、どうでもいいような論争だった。
華女 芭蕉の「春の夜は」の句、とても分かりやすい句よね。夜桜を愛でているうちに夜があけたと、いう解釈じゃ、単純すぎるように感じるわね。でもどうかしら。
句郎 この句は桜を詠んでいる。桜の花の美しさに魅入られたことを詠んでいる。
華女 子規の「鶏頭の」の句も鶏頭の艶やかさのようなものを詠んでいるのでしょう。
句郎 子規が「鶏頭の」の句を詠んだのは1902年のことだ。初めは誰も評価する人はいなかったようだ。
華女 初めて高く評価したのは小説『土』を書いた長塚節だったのでしよう。
句郎 そうらしい。最初にこの句に注目したのは、長塚節が斎藤茂吉に対して「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったと言われている。その後斎藤茂吉はこの句を、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作として『童馬漫語』、『正岡子規』などで喧伝し、この句が『子規句集』に選ばれなかったことに対して強い不満を示している。
華女 芭蕉の句を凌駕しているとまで斎藤茂吉は述べているの。ちょっとそれは言い過ぎじゃないの。
句郎 茂吉は芭蕉の句をそれほど読んでいなかったのかもしれないな。芭蕉が亡くなって以来、現在に至るまで俳句として芭蕉を超えるような作品を詠んだ俳人はいないと私は考えているから。
華女 それもちょっと言い過ぎなんじゃないの。
句郎 全然言い過ぎじゃないよ。俳句が文学としてなし得ることすべてを芭蕉はしてしまったと私は考えている。芭蕉以後の俳人たちの句は文学として認められるのか、どうか、疑問だと思っている。
華女 芭蕉以後の俳句は文学ではなく、習い事のようなものになったということを言いたいのね。
句郎 陶器や磁器、漆器などの芸術作品があるように俳句にも芸術に値する作品があることは認めるが芭蕉の作品を超えることはできない。なぜなら文学として俳句ができることはすべてすでに芭蕉がしてしまっているからね。そのように私は考えている。
華女 茂吉は子規の「鶏頭の」の句を芸術、文学作品として評価したということなのよね。
句郎 山口誓子は、鶏頭を「鶏頭の145本もありぬべし」と捉えたときに子規は「自己の”生の深処”に触れたのである」と『俳句の復活』(1949)の中で句の価値を強調している。また西東三鬼も山口の論を踏まえつつ、病で弱っている子規と、鶏頭という「無骨で強健」な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比に句の価値を見出している。
華女 子規の「鶏頭の」句は名句として認められているのよね。
句郎 俳句の評価は読者が決めるものだからね。芭蕉の「春の夜は」の句も読者が名句だと思う読者が増えれば、名句として認められるようになると思うけどね。
華女 桜の夜明けがあるのは春ね。
句郎 そうなんだ。桜の夜明けは春の夜だということを芭蕉は詠んでいると思う。
華女 さすが芭蕉ね。

醸楽庵だより   1168号   白井一道

2019-08-27 11:32:18 | 随筆・小説



    木曽の情雪や生えぬく春の草   芭蕉  元禄年間



句郎 「木曽の情雪や生えぬく春の草」元禄4年か。『芭蕉庵小文庫』。
華女 「木曽の情」とは、何を芭蕉は言いたかったのか知しら。
句郎 木曽義仲の源氏勢力への強い気持ちを言いたかったのじゃないのかな。
華女 芭蕉は源義経や義仲への強い思い入れがあったのよね。
句郎 天皇を中心にした公家の政権を倒し、武家政治実現のため源頼朝に協力した義経や義仲は後に政権中枢から頼朝によって排除され、滅亡していく。そのことへの思い入れのようなものが芭蕉に限らず日本人の心の中に強く残っているのかな。
華女 義経と弁慶の物語は歌舞伎になって江戸時代、江戸庶民の人気を博したことが影響しているのじゃないのかしら。
句郎 歌舞伎十八番『勧進帳』があるな。
華女 判官贔屓(ほうかせんびいき)ね。
句郎 義経や義仲の悲劇に対する深い同情と言うようなものが芭蕉にあったということだと思う。
華女 芭蕉のそのような気持ちというのは当時の江戸庶民一般にみられたものなのかしら。
句郎 芭蕉が歌舞伎の『勧進帳』を見たというようなことはないと断言できる。
華女 芭蕉が生きていた時代には歌舞伎『勧進帳』はなかったということね。
句郎 そうなんだ。能に『安宅』という演目がある。この演目を歌舞伎の『勧進帳』が継承しているようなものなんだ。安宅関で弁慶が勧進帳を読む件がある。この場面が能の『安宅』にある。
華女 芭蕉は能の『安宅』を見て感動した経験があったのかもしれないということね。
句郎 17世紀後半に生きた江戸庶民の心性が芭蕉の気持ちだったのではないかと思う。
華女 元禄時代に生きた江戸町民や農民の気持ちが芭蕉の気持ちだったということね。
句郎 芭蕉には源義経や木曽義仲への熱い思いがあったということかな。
華女 芭蕉は「木曽の情」の句をどこで詠んでいるのかしら。
句郎 湖南の義仲寺で詠んでいる。
華女 義仲寺というのは芭蕉の亡骸を葬った寺よね。
句郎 木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことに義仲寺はじまると伝えられる。義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。ここに芭蕉の墓はある。
華女 芭蕉は義仲が好きだったのね。
句郎 芭蕉と義仲は霊界で仲良くしているのかもしれない。
華女 芭蕉は江戸の大衆の一人だったということね。
句郎 ごく普通の庶民だった。芭蕉の句を読むと当時の庶民の気持ちのようなものを代表していると言えると思う。
華女 どんなに優秀な人であっても時代の制約を受けているということね。                   
句郎 新春の頃、雪の中から草が萌え出る草の生命力の強さは義仲の強さの顕れのようだと芭蕉は感じたということかな。
華女 雪の中から草が生えだしてくることに芭蕉は感動しているのよね。

醸楽庵だより   1167号   白井一道

2019-08-26 11:29:38 | 随筆・小説



    芭蕉と『徒然草』Ⅲ


芭蕉は『徒然草』を読み、刺激を受けたので
はないかと、考えられている箇所がある。その箇所は第四一段である。
「五月五日、賀茂の競(くら)べ馬を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
 かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
 かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず」。
 鎌倉時代にも競馬は人気のスポーツだった。京都、加茂神社で行われる競馬には大勢の見物人が集まった。兼好法師も庶民に混じって競馬見物に出かけた。すでに馬場には人垣ができて、前に出ることができない。ふと気づくと楝(あうち)の大木によじ登り、枝に腰掛け、競馬を見物しようとしている法師がいる。この法師はまだ競馬が始まらないと知ると居眠りをしている。木から落ちそうになると目を覚まし、また安定を得ると居眠りし始める。そのようなことが何回かあった。その法師を見ていた人々があざけり、軽蔑するように「愚か者よ。あんな危ない所で居眠りしているよ」と言うのを聞いた兼好法師はふと気づいたことがあった。我々はいつ死ぬか誰にも分からない。その時が今かもしれない。それなのに暢気に競馬を見て日を過ごそうとしている。愚か者は私たちかもしれませんよと、兼好法師が言うと確かにそうだと言う。前の方にいた人々が振り返り、手招きをして兼好法師を前の方に呼び入れてくれた。人間は木や石じゃない。胸に落ちる言葉を聞けば
人は変わる。
 芭蕉は元禄元年(1688)、姥捨山の月見に出かける。それが『更科紀行』である。
「更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの」。
 この『更科紀行』の中に『徒然草第41段』の影響を受けている文章があるという。その文章が次のものである。
「只あやうき煩(わずら)ひのみやむ時なし。桟(かけ)はし、寝覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。歩行(かち)より行くものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波(あは)の鳴戸は波風もなかりけり」。
芭蕉は寝覚(ねざめ)、たち峠、猿が馬場峠を通り姥捨ての里の月見をして善光寺に向かっている。
たち峠には現在トンネルができている。峠道の石畳が現在残っている。猿が馬場峠(さるがばんばとうげ)は善光寺参りの街道における麻績宿(おみじゅく)と桑原宿の間にある最難関の峠道である。この猿が馬場・たち峠などの四十八曲がりや九折重なる雲路をたどる心地する道を馬にまたがり居眠りをする奴僕を見て、芭蕉は『徒然草第41段』の文章を思い出し、居眠りする馬に乗った奴僕を笑えないと思った。後ろから見ていると危ないこと限りないが笑えないと自戒している。この世の我々を仏さまは危ないことをしているなと思っていても決して何も言うことはしない。奴僕のしていることに余計な心配はいらない。芭蕉は奴僕を対等な人間として見なしている。

醸楽庵だより   1166号   白井一道

2019-08-25 10:26:01 | 随筆・小説



    物いへば唇寒し秋の風   芭蕉  元禄年間か



句郎 「物いへば唇寒し秋の風」。『芭蕉庵小文庫』。「座右之銘 人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」と前書がある。
華女 思ったことをそのまま発言して、しくじった経験が芭蕉にはあったのね。
句郎 芭蕉に限らず、誰にだって後悔した経験があるのじゃないのかな。
華女 黙っていることが安全だということなのね。
句郎 「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という諺がある通り、競争社会に生きる男たちは厳しい社会に生きているということなのかな。
華女 女の社会も人間関係は難しいと思うわ。黙ってばかりいるわけにもいかないでしょ。
句郎 身分制社会に生きた芭蕉は人間関係における礼儀をわきまえることが大事なことだと考えていたのじゃないのかな。
華女 「口は災いの元」という諺があるように不用意な発言は自らに災いをもたらすということを芭蕉は身に沁みて感じていたということね。
句郎 芭蕉は礼をつくすことが豊かな人間関係を作るということを若くして知っていたのじゃないのかな。
華女 芭蕉は自慢する人ではなかったということね。
句郎 「己が長をとく事なかれ」と芭蕉は自分に言い聞かせていたということだと思う。
華女 そうよね。誰だって他人の自慢話を楽しく聞くことはできないわ。失敗した話なら楽しく聞けるわね。
句郎 芭蕉は他人の気を引くためにわざと失敗話をするような人ではなかった。
華女 芭蕉が人気俳諧師になった理由の一つが人柄が良かったということなのね。
句郎 他人が嫌な気持ちになるようなことをしたり、言ったりすることはなかったと思う。
華女 身分制社会にあっては現代社会に見られるような競争社会じゃなかったのよね。
句郎 そうだよね。武家に生まれれば生涯武士身分を奪われることは基本的にはなかったわけだから。
華女 農民の子供がどんなに武術に優れていたとしても武士に取り立てられることはなかったのでしょ。
句郎 ただ戦国時代のような社会にあってはそうではなかった。豊臣秀吉がような農民の子が太閤秀吉になることがあった。
華女 戦国時代は社会の秩序が崩れた時代だったということなのね。
句郎 芭蕉が生きた17世紀後半の時代は江戸時代の幕藩体制が安定し、社会秩序が整った時代だった。身分制が強固になった時代だった。
華女 競争がなくなった時代になったということね。
句郎 身分秩序の安定が求められた時代だった。
華女 芭蕉は生まれながらにして農民の子として生きていくことが運命付けられていたということね。
句郎 芭蕉は江戸幕藩体制下の身分秩序を受け入れ、その中で精いっぱい生きた。
華女 社会秩序に抵抗するようなことはなかったといことね。
句郎 芭蕉は礼を大事にしたが上の身分の者にへつらうことはなかった。
華女 武士の前に出てもおどおどすることはなかったということね。
句郎 身分制社会にあっては、武士は農民を自由に打擲し、打ち殺すことができた。だから農民たちは武士の前に出るとおどおどし、恐れた。だから武士の前に跪き、道に額を擦り付けてお辞儀をした。その中にあって一茶は「づぶ濡れの大名を見る炬燵かな」と詠んだ。一茶には強い反権力の意志があったが、芭蕉にはそのような意思はなかった。
華女 一茶は家の奥に炬燵に入ったまま、通りを参勤交代の行列が過ぎ去っていく姿を見ていたということね。
句郎 芭蕉は現実社会をそのまま受け入れ、その中で自分の出来る範囲で俳諧を詠んだと言うことだと思う。


醸楽庵だより   1165号   白井一道

2019-08-24 11:10:20 | 随筆・小説



    旅に病で夢は枯野をかけ廻る   芭蕉  元禄7年



句郎 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」 元禄7年。『笈日記』。『枯尾花』に、「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、~旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」(其角) とある。
華女 芭蕉の辞世の句だと高校生の頃、教わったような記憶があるわ。
句郎 高校の授業で唯一記憶に残っている芭蕉の句というとこの句かな。
華女 私はその他にもいくつか記憶に残っている句があるわ。
句郎 僕もあるかな。「野ざらしを心に風のしむ身哉」。この句も印象深い句だったように思うな。
華女 『おくのほそ道』に載せてある句を勉強したのよね。「夏草や兵どもが夢の跡」。この句も記憶に残っている句よね。
句郎 「五月雨の降り残してや光堂」。平泉、中尊寺光堂を詠んだ句も記憶にあるな。
華女 心に沁みた句は「閑さや岩にしみ入蝉の声」ね。真夏の森の中の静かさには神が宿っている。このような気持ちを抱いたわ。
句郎 「象潟や雨に西施が合歓の花」。雨に打たれた眠っている美女のイメージが瞼に浮かび、張り付いてしまった。
華女 「荒海や佐渡によこたふ天河」。7月7日、七夕、離ればなれになった織姫と彦星が年に一度天の川を渡り、逢う。 荒海に隔てられた織姫と彦星の話に空想が膨らんだ記憶があるわ。
句郎 芭蕉に興味を持ったのは高校の頃の古典の授業を通してからかな。
華女 高校の授業もまんざらでもないわね。
句郎 高校を卒業し、40年近く、芭蕉の俳句を読むこともなかったが、定年退職後芭蕉の俳句を読む楽しみを与えてくれたように思うな。
華女 『モーロク俳句ますます盛ん』という本を坪内捻転氏が書いているわよ。俳句はモーロク老人の脳を活性化するのいいのかもしれないわよ。
句郎 17文字が世界を創り出すからな。楽しみになる。でもほとんどは自己満足に終わってしまう。だからどうしても句会が俳句には必要なんだろうね。
華女 句会なしに俳句は成立しない文芸なのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は偉大だ。芭蕉以後の日本人に俳句を詠む楽しみを新しく創り出したということだからね。
華女 芭蕉は西暦1694年元禄7年10月5日、久太郎町御堂ノ前、花屋仁右衛門貸座敷に移ったと今栄蔵『芭蕉年譜大成』は書いているわ。10月12日、申(さる)の刻(午後4時)に亡くなったのよね。
句郎 遺言によって芭蕉の遺体は湖南の義仲寺に納めるため、その夜、淀川の河船に乗せ伏見まで登った。河船には去来、其角、乙州、支考、丈草、惟然、正秀、木節、呑舟、二郎兵衛の10人が付き添ったと『芭蕉翁行状記』にあるそうだ。
華女 10人もの弟子が付き添って湖南の義仲寺まで行ったのね。
句郎 当時あっても芭蕉の死は社会的事件であったということだと思う。
華女 芭蕉の存在は孤高ではあっても社会的存在になっていたということね。
句郎 それだけ元禄時代にあって、俳諧という文芸が江戸だけではなく、京にあっても大坂、名古屋、近江など各地において文化的影響力のあるものになっていたということなのかな。
華女 芭蕉は名もなく貧しく美しく生きた人ではなく、世俗の中で名を成し、世俗の生活を十分楽しんで亡くなった人であったということね。
句郎 今でいうなら、有名な芸能人の死に匹敵するような死であったということだと思う。
華女 芭蕉には家族もなく奥さんも子供もいない人ではあったが多くの弟子に囲まれていたのね。


醸楽庵だより   1164号   白井一道

2019-08-23 11:26:41 | 随筆・小説



    秋深き隣は何をする人ぞ   芭蕉  元禄7年



句郎 「秋深き隣は何をする人ぞ」 元禄7年。『笈日記』に「明日の夜は芝柏(しはく)が方にまねきおもふよしにて、ほつ句つかはし申されし」と史考の前書があり、この句が出ている。9月28日の記事である。『陸奥鵆(むつちどり))』には「大坂芝拍興行」、『六行会』には「ある人に対し」の前書があり、句形は上五が「秋深し」であるが、誤伝どあろう。このように井本農一は『日本古典文学第28巻 芭蕉』角川書店の中で述べている。芭蕉は上五を「秋深し」ではなく、「秋深き」と詠んでいる。
華女 「秋深き」と「秋深し」、一文字違うことによって句の意味するものが大きく違ってくるのかしら。
句郎 「秋深し」とした場合、「深し」で切れる。「秋深し」と「隣は何をする人ぞ」、この二つの言葉は別々の言葉として響き合うことになる。「秋深き」とした場合、「深き」は連体形だから「隣は何をする人ぞ」につながる言葉になる。
華女 「秋深し」と「隣は何をする人ぞ」との取り合わせの句なのか、それとも「秋深き隣は何をする人ぞ」という一物仕立ての句なのかということなのね。
句郎 そういうことなのかな。島崎藤村はこの句を「秋深し隣は何をする人ぞ」と取り合わせの句として理解していたという話を聞いたことがある。
華女 「秋深し」と理解すると都会の孤独を表現しているということになるわね。
句郎 三百年前の元禄時代にはすでに現代社会の都会の孤独を芭蕉は表現していたということになりそうだ。
華女 この時、芭蕉は体を病んでいたのよね。
句郎 芭蕉は元禄7年9月29日以後病床が立ち上がることができなくなった。
華女 芭蕉は元禄7年9月28日まで連日句会に参加していたのね。どこに宿をとっていたのかしら。
句郎 9月26日には清水で「この秋は何で年寄る雲に鳥」を詠んだの句会に参加し、翌27日には園女亭で「白菊の目にたててみる塵もなし」を詠んでいる。28日には畦止亭で恋の句「月澄むや狐こはがる児の供」を詠んでいる。29日が芝拍亭での句会が予定されていたが芭蕉は参加することができなかった。芝拍亭に届けられた句が「秋深きと隣は何をする人ぞ」であった。それまで芭蕉は大坂の酒堂邸で世話になっていたのではないかと志田義秀は述べている。
華女 志田義秀とは、芭蕉学者なのかしら。
句郎 戦前の芭蕉学者だった。芭蕉の門人、酒堂邸の隣が芝拍亭であった。芭蕉は酒堂も芝拍も旧知の仲であった。
華女 「秋深き」の句を芭蕉はどこで詠んでいるのかしら。
句郎 酒堂邸で芭蕉は「秋深き」の句を詠んでいると志田義秀は推測している。この推測を井本農一も継承している。
華女 そうすると隣人の芝拍と芭蕉は知り合いだったと言うことになるわね。
句郎 そう、だから「秋深し」とするとおかしい。知り合いの芝拍は今頃何をしているのかなと、いう句が「秋深き隣は何をする人ぞ」という句の意味になる。
華女 なんか、人情というか、ほんわかした人と人との温もりのようなものを感じてきたわ。
句郎 軽い人情の機微のようなものを表現した句が「秋深き」の句のようだ。
華女 ちょっとした人情の機微のようなことを表現した句を「軽み」というのかしらね。
句郎 この句は「軽み」の句のようだ。芭蕉の句にも造詣の深い俳人の長谷川櫂氏もこの句は「秋深き」でなければ句にならないと述べている。
華女 句郎君は長谷川櫂氏を尊敬しているのよね。
句郎 私が芭蕉の句や紀行文を読み始めたのは定年退職後からだからね。私は長谷川櫂氏の著書を読んで芭蕉の勉強を始めた次第だからね。

醸楽庵だより   1163号   白井一道

2019-08-22 10:45:13 | 随筆・小説



    月澄むや狐こはがる児(ちご)の供(とも)  芭蕉 元禄7年



句郎 「月澄むや狐こはがる児の供」 元禄7年。『其便』。『芭蕉翁追善之日記』に「畦止亭にうつり行、その夜は秋の名残をおしむとて七種の恋を結題にして、おのおの発句しける。其一 月下送児」とある。
華女 この句は題詠の発句なのね。題詠は恋なのよね。それなのに月下に児を送るとあるわ。
句郎 児は児であってもこの児は美童、「男色」相手の児のようだ。
華女 男同士の大人と児の恋が江戸時代にはあったということなの。
句郎 どうもそのようだ。今では考えられない恋愛というか、恋があったということだと思う。
華女 どうして江戸時代に男色が恥ずかしいものとしてではなく、俳諧の会で題詠するような恋として認められていたのかしら。
句郎 芭蕉が詠んだ恋の句は男色の句ではない。当時、恋とは大人の男と美童とのものであった。精神的な結びつきが重視されていた。
華女 大人の男と美童との間に性的な関係はなかったの。
句郎 身体的な性的関係が全然なかったのかというとそうでもないが、身体的、肉体的な性的関係より精神的な結びつきの方が重視されていた。
華女 全然分からないわ。大人の男と美童との精神的な恋なんてあり得るのかしらね。
句郎 江戸時代は身分制社会だったからね。公家や武士の社会では男女の間に恋愛というものは成り立たなかった。男女差別が当たり前の社会だったから。
華女 武士は女に恋をすることはなかったの。
句郎 武家社会の女は一人前の人間として扱われていなかった。男は女を一人前の人間として接することをしなかった。男女は対等な存在ではなかった。男にとって女は自分と同じ存在だという認識を持っていなかった。そのような存在の女に男が恋することはなかった。女は子供を産む存在に過ぎなかった。精神的な結びつきなどあり得なかった。
華女 武家社会では男女の恋愛はなかったということなの。
句郎 遊郭において男女の恋愛があったようだ。
華女 身分制社会というのは不思議な現象を生み出したということね。
句郎 差別されていた農民や町人の世界において男女の恋愛が生み出されていった。
華女 庶民の世界においてごく自然な男女関係が生み出されていったということとね。
句郎 芭蕉は農家の次男だったから家を持つことがもともとできなかった。嫁とりができる状況になかった。生涯家を持つことはなかったし、嫁を持つこともなかった。
華女 江戸時代というのは残酷な社会だったのね。
句郎 家も家族も持たず無責任に生きることができた。
華女 芭蕉は俳諧に自分の生きる道を見つけ、そこに自己の存在を築くことができたということね。
句郎 芭蕉には武家社会に対する仄かな憧れのようなものがあったのじゃないのかな。そのあらわれが「月澄むや狐こはがる児の供」と言う句に表れていると考えている。
華女 美童と月下をデイトすると喜びを詠んでいるということ。
句郎 美童がキツネが出てくるよと怖がるのを守ってあげる喜びかな。
華女 衆道というのでしょ。
句郎 衆道といったようだ。男色じゃない。
華女 衆道の精神性が徐々に薄れ、時代が下ってくるにしたがって町人の間にも衆道を語った陰間茶屋のようなものも生まれて行ったということね。
句郎 商業の隆盛がそのような商売を生んだのかもしれない。そのような中で衆道の男色化が進んでいったのかもしれない。
華女 高貴な精神性を求めた衆道が快楽を求める男色に変化していったということ。
句郎 基本的に江戸時代には男色はなかった。