醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   77号   聖海

2015-01-31 10:15:47 | 随筆・小説

   寄り道した芭蕉  「閑さや岩にしみ入蝉の声」   文学とは

華女 尾花沢から日本海に出るには大石田に出て最上川を下ればいいいわけよね。
句郎 そうだね。尾花沢から最上川の船着き場、大石田は近いよね。
華女 尾花沢から山寺までは歩くと一日くらいかかるわよ。
句郎 「尾花沢よりとって返し、其の間七里ばかり也」と「おくのほそ道」に書いている。曾良旅日記によれば今の暦の七月十九日、午前八時四十分ごろ尾花沢を出発し、午後三時二十分ごろ山寺に着いている。天気は良かったみたいだ。芭蕉は馬に乗っている。
華女 「「とって返し」ということは戻ったということなのかしら。
句郎 芭蕉にとっては同じ道を「とって返し」て戻ったということではなかったが、気持ち的には戻るような気分になったということではないかと思う。大石田に出る道とは反対の道に歩を進めることになったのだからね。
華女 日本海にでる方向ではなく、山の中に入り込んで行ったということかしら。
句郎 そうだと思う。山寺は山の中にあったんだ。
華女 山寺は行脚の予定に入っていたのかしら。
句郎 山寺はもともと予定には入っていなかったのではないかと思う。
華女 どうしてそんなことが分かるの。
句郎 「おくのほそ道」に「一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて」とあるから尾花沢の清風さん初め、俳席を同じくした人々に一見する価値あるところですよと勧められて芭蕉は山寺に行った。
華女 山寺は歌枕ではなかったの。
句郎 旅の予定に入っていなかったことを思うと芭蕉としては古人を偲ぶ場所としては思っていなかったのではないかと思う。
華女 皮肉なものね。歌枕とはいえないところに芭蕉の有名な句があるなんて。
句郎 そうだよね。「閑さや岩にしみ入蝉の声」はまさに文学だよね。
華女 「閑さや岩にしみ入蝉の声」。この句が文学、文学とは何なの。
句郎 金子兜太は中学生の頃、この句を読み、ダメだと思ったと言っているのを聞いた。理由は岩に蝉の声がしみいることはないと思ったからだと説明していた。
華女 そりゃ、そうね。岩には絶対に蝉の声がしみ込むはずがないわ。
句郎 「岩にしみ入蝉の声」は嘘だよね。現実にはあり得ない話だ。しかし主観的には蝉の声は岩に染み入るんだと思う。心の中に想像する岩には蝉の声は染み入るよ。「岩にしみ入蝉の声」とは心の世界のことを表現しているんだ。心の世界をリアルに表現したものを文学というんだと思う。
華女 この句は心の世界の何が表現されたというの。
句郎 「閑(しずか)さや」と読者に語りかけているでしょ。「しずかさ」というものをリアルに表現しているということじゃないかと思う。
華女 山寺の森の中は蝉の声がうるさいわけよね。実際は。しかしその蝉の声が岩に沁み込んでしまうから静かになるっていうことなんでしょ。
句郎 現実にはあり得ないことを言って、現実の真実、それは静かだということ。山寺の森の中の静かさが表現それている。ここが文学になっているということなんじゃないかと思う。
華女 表現された句を読むと現実の世界がより深く新しい世界のように思うわ。

醸楽庵だより   76号   聖海

2015-01-30 10:59:54 | 随筆・小説

 ブログ原稿76号
  ある日の芭蕉 「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」

尾花沢を立ち立石寺に向うと紅花が咲いている。道端に立ち止り、じっと紅花を眺めていると追憶に芭蕉はひたった。あれはいつのことであったろう。歩きながらの白昼夢でもあった。
 目覚めると女の気配がある。薄目を開けて見回すと女は鏡に向っている。忙しなく女の肱が動く。女が眉に付いた白粉を掃いている姿が鏡に写っている。女の肱が動くたびごとに顔に生気が宿っていく。女に背を向け寝たふりをしていると女は静かに立ち上がると襖を開けた。冬の朝日が部屋に一直線に刺した。女は部屋を出ると階段を降りる足音がした。しばらく惰眠を貪っていると階段を上がってくる女の足音がする。芭蕉は起きると寝床に胡坐をかいた。
「お客さん、ようやすんでおりましたえ。お顔洗いますか。下に降りていくと右手に水場がありますねん。そこで洗ってきておくれやす」
 女は芭蕉に手ぬぐいを渡した。水場に降りた芭蕉は井戸水をくみ上げ、桶に水をあけ顔を拭った。井戸水は暖かった。褞袍をかき寄せ階段を上り部屋に入ると朝食の用意ができていた。
 芭蕉はふっと句が沸いた。「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」。紅花の影には花魁がいる。

醸楽庵だより   75号   聖海

2015-01-29 11:02:55 | 随筆・小説

 
  「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」  芭蕉は何を表現したのか

句郎 「菅菰抄(すがこもしょう)」という江戸時代に著された「おくのほそ道」の注釈書があるでしょ。
華女 江戸時代にすでに「おくのほそ道」の注釈書が出ていたの
句郎 安永七年(1778)に出ている。「おくのほそ道」を芭蕉が書いてからおよそ80年後に注釈書が出た。
華女 「おくのほそ道」は江戸時代にすでに有名な本だったのね。
句郎 越後塩沢で縮の仲買をしていた鈴木牧之(すずきぼくし)は天保8年(1837)「北越雪譜」という越後塩沢の民俗を紹介した書物を出版している。この本の中に芭蕉が越後路を旅したと書いているんだ。芭蕉は生前から俳諧を嗜む人の間では名を知られた人だったようだ。
華女 俳諧は江戸時代の町人たちが楽しむ文芸だったのね。
句郎 「菅菰抄」に「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」の注釈がある。
華女 誰がどんなことを書いているの
句郎 蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)という人がこの句の下には万葉集の歌があると言っている。
華女 へぇー、何という歌なの。
句郎 「朝がすみかひやが下になく蛙(かはづ)忍びつゝありとつげんとも哉」と岩波文庫の「おくのほそ道」の付録にある「菅菰抄」には載っている。万葉集巻10秋相聞は「朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも」となっている。また万葉集巻16は「朝霞鹿火屋かひやが下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも」になっている。
華女 この歌は何を詠んでいるの。
句郎 尾花沢には養蚕業があった。「かひや」とは蚕を飼う棚のある部屋のこと。「かはづ」は河鹿蛙(かじかがえる)のことをいう。鈴虫が鳴くようなきれいな声で鳴く蛙のことを云う。和歌が詠んだ「かはづ」は我々が田んぼで聞く蛙ではない。河鹿蛙(かじかがえる)のことである。養蚕室の下で河鹿蛙が鳴く声を聞くと彼がきてくれたのかなと思う。このような歌じゃないかと思う。少しづつ詠まれた内容は違っているがおおよそのところは同じだと思う。
華女 芭蕉は本当に万葉集を読んでいたのしから。疑問だわ。
句郎 そうだよね。いまだに解読されていない歌があるそうだからね。万葉仮名で書かれた歌の解読が進んだのは江戸時代、国学が興ってからだからね。
華女 万葉集の中のいくつか知られていた歌があったかもしれないから、そのうちの一つが蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)が述べている歌なのかもしれない。
句郎 平安時代の知識人たる歌人たちは万葉仮名で書かれた歌を読むことができた。しかし時代が進むに従い江戸時代になると万葉仮名で書かれた歌を読める人はいなくなってしまった。こういうことだと思う。
華女 芭蕉は万葉仮名が読めるような知識人だったのかしら。
句郎 芭蕉の出自は農民階層の出身だというのが多数意見のようだ。
華女 芭蕉は下層武士の出身だったのじゃないの。
句郎 どうも違うようだよ。芭蕉は伊賀上野の赤坂という字の出身というのが多数意見だ。赤坂は武家が住む字に近いようだけれども農民が集住する地域だった。芭蕉の上層の農民出身だった。だから字を読む教育は受けていない。万葉仮名はほとんど読めなかったに違いないからね。万葉集は読んでいないと思う。
華女 万葉集の相聞歌を下地にして「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」を読むと伝わってくるものがあるわ。
句郎 何が伝わってきたの。
華女 「ひきの声」って、蟇蛙のことでしよ。醜い大きな蛙よね。醜いから遠慮しているのよ。体が大きい割に気が小さいのよ。芭蕉は励ましているのよ。遠慮しなくてもいいよ。自分の気持ちを言ってもいいんだよとね。

醸楽庵だより   74号   聖海

2015-01-28 11:34:14 | 随筆・小説

 「涼しさを我宿にしてねまる也」が教えるもの

句郎 芭蕉は尾花沢で三句も詠んでいる。
華女 居心地が良かったのかしら。
句郎 「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず」と「おくのほそ道」に書いている。丁重なもてなしを清風さんはしてくれたたのだろう。
華女 清風さんは何をしていた人なのかしら。
句郎 尾花沢は紅花の産地として京・大坂に出荷していた。清風さんは紅花問屋を営むと同時に金融業も営んでいたようだ。
華女 元禄時代に栄えた豪商といっていいのかしらね。
句郎 そうなんじゃないかな。記録によると芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る四年前の貞享二年から江戸で芭蕉は清風さんと交流があったらしい。
華女 三百年前、山形の商人と江戸で芭蕉は友だちになったのね。
句郎 俳諧は友をつくった。それは俳諧の人脈でもあった。商人は知己を得ることが商圏を拡大した。人脈を通して情報を得た。今も昔も情報は富をもたらす。商業の発達が同時に俳諧の隆盛を招いた。
華女 元禄時代の商業の隆盛が芭蕉の俳諧を生んだわけなのね。
句郎 そうじゃないかなと思う。
華女 俳諧は町人の文芸なの。
句郎 そうだと思う。商品作物を栽培する農民を含めた町人の文芸だ。
華女 「涼しさを我宿にしてねまる也」の「ねまる」という言葉は土地の俗語のようね。
句郎 注釈にそのように書いてある。「くつろぐ」という意味のようだ。
華女 当時の農民や町人の言葉を使って句を詠んでいるのね。
句郎 そうなんだ。身分制社会にあっては身分や階層によって使われている言葉は違っていた。当時の庶民が使っていた言葉を使って芭蕉は句を詠んだ。ここに新しさがあったと思うんだ。
華女 その人の使う言葉にはその人の生活が滲み出ているものだと思うわ。
句郎 当時の農民や町人が使っていた言葉を使って句を詠んだ。これは一種の言文一致の始まりだと言える。
華女 言文一致で書いた小説というと二葉亭四迷だと高校生のころ、国語の授業で習ったように覚えているけど、違うの。
句郎 違っていないと思う。芭蕉が生きた時代から言文一致の動きが始まったということじゃないかと思う。「涼しさを我宿にしてねまる也」。現代文として読んでも簡明な文だと思う。涼しさがとても気持ちがいい。自宅でくつろいでいるような清風さんの家である。このような意味がすっと入ってくる。
華女 こういう句を一句一章というのよね。
句郎 一物仕立ての句ともいうようだ。
華女 気持ちよくくつろげる涼しいお宅ですねと、芭蕉は清風さんに挨拶した句なのでしようね。
句郎 そうだ。芭蕉は清風さんに挨拶をしたんだろうね。一物仕立てでさっと招いていただき有難うございますという気持ちを詠んだのだと思う。
華女 挨拶は出会いの始まりよね。挨拶って人間関係の始まりだから大事よね。
句郎 そうした人間関係の在り方の大切さを教えてくれるのが俳諧というものだったと思うんだ。


醸楽庵だより   73号   聖海

2015-01-27 11:39:11 | 随筆・小説

 
  「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」。芭蕉がこの句で表現したものは何か

句郎 芭蕉が尿前の関で詠んだ句はまさに俳諧だと思う。
華女 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」という句のことね。
句郎 この句には作意というものが何もない。
華女 そうね。一幅の絵になっていると思うわ。
句郎 戸が開けられた木賃宿の煎餅蒲団に朝日が射している。枕もとでは馬が小便をする。芭蕉は起き上がり、浴衣をはだけ、ぼりぼり蚤に食われた痕(あと)を掻いている。そんな風景かな。
華女 私は違うわ。夜じゃないかしらね。蚤や虱に苦しめられて眠れずにいるところに馬が小便する音の大きさに苦しめられている。そんな姿かしら。
句郎 蚤や虱など和歌は絶対に詠むことはないよ。優雅なものじゃないもの。
華女 私は綺麗なものが好きだから、蚤や虱など思い出したくもないものだわ。俳句は下層民が楽しんだものじゃないのかしらね。
句郎 そうでしょ。蚤や虱を詠む。庶民の生活に密着しているものを詠む。ありふれた日時生活のひとこまを詠む。それが俳諧だと思う。
華女 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」。名詞を並べただけの句よね。難しさが何もないわ。
句郎 今から三百年も前の句が何の抵抗もなくすっと現代の我々が読んですっと心に入ってくる。凄い。
華女 そうね。芭蕉の旅が偲ばれる句だと思うわ。
句郎 土芳は三冊子の中で「春雨の柳は全体連歌也。田にし取(とる)烏は全く俳諧也」と先師(芭蕉)は云っていると書いている。和歌の長い歴史の中で雅だと詠われてきたものを詠むのが歌であるとしたら俳諧は和歌が決して詠むことのなかったものを詠むのが俳諧だった。それは下層の庶民生活の日常を詠む。これが俳諧であったと思う。
華女 確かにそう思うわ。宮中の歌会始なんていうのは今でも続いている。俳句は庶民のものなのよね。
句郎 封建的な身分制社会の中で芭蕉は農民や町人の生活を詠む俳諧を文学にまで高めたというのは凄いことだね。
華女 うーん。私は雅なものが好きだから、短歌の方があっているかもしれないわ。
句郎 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」という芭蕉の句があるでしょ。僕はリアルな句だと思う。この句について三冊子の中で土芳は「心遣はずと句になるもの、自賛にたらずと也」と先師は云っていると書いている。句は作るものではなく、できるものだと言っている。句は自然と心から湧き出してくるものだから、自慢するに値しないという。
華女 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」。塩鯛の鋸のような歯が見えてくるわ。これこそリアルな句だと私も思うわ。この句も名詞の多い句ね。「心遣はずと句」になったのね。四苦八苦して私は歌を詠んでいるわ。それじゃダメなのね。どうしたらいいのかしらね。
句郎 三冊子の中の芭蕉の言葉に「句作に『なる』と『する』とあり。内をつねに勤めて物に応ずれば、その心の『いろ』句となる。内をつねに勤めざるものは、ならざる故に私意にかけてする也」。常にものをよく見ているなら、ある時はっと気づく発見がある。リンゴが木から落ちるのを普段見ていても何も感じない。ある時、突然、なぜリンゴは木から落ちるのかなと思う。ここに発見があった。何でもないこと普段のことに驚く、発見することがある。このことを芭蕉は心の「いろ」となると言っている。心の「いろ」に気付いた時、文学が誕生した瞬間ではないかと思う。
華女 普段、なにげなく物を見ていては発見は無いのね。普段見ている物に発見があったとき、句が生まれるのね。

醸楽庵だより   72号   聖海

2015-01-26 11:04:03 | 随筆・小説

  冬は燗酒が旨いね

侘輔 冬は湯豆腐に燗酒、日本人の情緒がでていいね。。
呑助 そうですね。夏でも昔は燗酒を飲むと日本人の情緒が醸されたんですかね。燗酒を夏でも飲む人がいたと聞きましたよ。
侘助 確かに、そんな人がいたことを覚えているよ。
呑助 暑苦しい夏の夕暮でも燗酒を飲むんですか。
侘助 そうだよ。結構、汗をかきかき飲む夏の燗酒もいいもんだったよ。汗をかいて涼しくなるんだ。
呑助 本当ですかね。
侘助 確かにね。俺はその当時、若かったからね。ビールの方が美味いと思ったけれどね。
呑助 やはり、夏はビールが良いですよね。
侘助 そうだね。でも冷やした生酒なんかもいいね。
呑助 生酒は冷やした方が美味しいと聞きましたがなぜなんですかね。
侘助 そりゃ、生酒と云うのは火入れと云う作業をしていない酒の事をいうんだろう。火入れしていないということは酵母が生きているということなんだ。更にもしかしたら雑菌が入っているかもしれない。だから冷やして雑菌の増殖を抑える。そうした方が安全だし、味が少ないから美味しいんだと思う。
呑助 味が少ないというのはどういうことなんですか。
侘助 冬になると大根のふろふきなんかが旨いよね。大根が煮えてくると大根の匂いと云うか香りと云うか、台所に漂うでしょ。飲み物でも食べ物でも温度が上がると匂いが出て来るしまた、味も出て来るんだ。
呑助 そうですね。
侘助 基本的には、煮たり、焼いたりした方が食べ物は美味しくなるんだ。さらに消化も良くなるしね。
呑助 高校のころ、人類の誕生という話で人間は火を使用する。ここに人間の特徴があるなんて聞いたような覚えがありますね。そういえば、
侘助 食べ物は火を通すと味が出て来る。だから美味しくなる。しかし酒は違うんだ。複雑な文化財だからね。燗酒は酒の温度を上げることによって味も香りもでて美味しくなるんだ。しかし過ぎたるは猶及ばざるが如し、というだろ、生酒を燗すると味が多くなり過ぎちゃうんだ。その結果、酒が口にもたついちゃって、滑らかに飲めなくなっちゃうんだ。
呑助 アルコール添加の火入れした普通酒のような酒はお燗した方が味がでて美味しくなるということですか。
侘助 まぁー、そうかな。
呑助 生酒は冷やしたままでも十分味の乗った酒だから燗はしない方が美味しく飲めるということですか。
侘助 そうだと思うよ。生酒を燗すると味が多く出てしまうからだと思う。
呑助 味が少ない方が軽快にすっきり飲めるということですか。
侘助 そうだね。だから、本醸造の酒なんかはどちらかと云うと燗した方が美味しく飲めるんじゃないかと思うね。
呑助 アル添の酒の方が味が整っているなんていう人がいるけど、なるほど、味が少ないからすっきりしているように感じるわけですね。
侘助 そうだよ。純米大吟の酒を燗する人はいないと思う。味の乗った酒を燗しちゃ、味や香りが多すぎちゃって、返ってまずく感じるからだと思う。
呑助 燗酒を楽しむ冬は経済的ですね。より安い酒が美味しく飲める。


醸楽庵だより   71号   聖海

2015-01-25 11:11:38 | 随筆・小説

 
 五月雨の降のこしてや光堂   芭蕉

句郎 「五月雨の降のこしてや光堂」。芭蕉が感動したことは何だと思う。
華女 この句の発案はどんな句だったか。知っている。
句郎 うん、調べたことがあるな。岩波の「芭蕉俳句集」には「五月雨や年々降も五百たび」とある
よ。
華女 五百年という年月の重みに耐えて今も光り輝く金色堂に感動したのじゃないの。
句郎 中尊寺にあるお堂に感動しているんだよね。この金色堂に祭られている仏様は何か、知っている。
華女 光堂という金色堂は知っているわよ。でもお堂に祭られている仏様は知らないわ。何が祀られているの。
句郎 平安時代の末期には末法思想が当時の人々の心をとらえた。末法の世に広がった信仰が阿弥陀仏信仰だったんだ。阿弥陀如来だよ。阿弥陀如来が祀られている有名なお寺というとどこだっけ。
華女 場所は京都よね。宇治の平等院・鳳凰堂かしらね。
句郎 定朝(じょうちょう)が造った阿弥陀様が祀ってある。西の平等院鳳凰堂に対して東の中尊寺金色堂。祀ってある仏様は阿弥陀如来だ。
華女 阿弥陀様と芭蕉の句に何か、関係があるのかしら。
句郎 僕は関係があると思うんだ。芭蕉は五百年という年月そのものに感動しているんだと思う。
華女 光堂を見た感動じゃないというの。
句郎 光堂を見て感動したのは光堂そのものではなく、五百年という年月の重さだと思ううんだ。
華女 五月雨とは今でいう梅雨のことよね。だから黴が生える。木を腐らせる。その五月雨に負けなかった光堂に芭蕉は感動したんだと私は思うわ。
句郎 阿弥陀如来の霊験が五月雨から光堂を救ったんだと阿弥陀如来の奇跡を光堂に芭蕉は感じて感動したんだと思う。芭蕉は阿弥陀仏を光堂の輝きの中に見たんだ思う。
華女 宗教くさい話ね。芭蕉は神秘的な宗教の世界に生きていた人なのかしら。
句郎 現代に生きる我々よりはるかに宗教的な世界に芭蕉は生きていたと思うよ。
華女 私にとって仏様というと父や母の位牌が祀ってある仏壇に手を合わせ、拝むくらいだから、とても信仰心があるとは思えないわ。
句郎 どこの国でも、今も昔も自分たちの先祖様を拝む習慣はあるんじゃないかと思う。先祖様をありがたく思う気持ちが宗教の始まりじゃないかと僕は考えているんだ。だから今より昔の人の方が生活が厳しかったから父母につながる先祖様をありがたく思う気持ちは強かったに違いないんだ。
華女 それはそうかもしれないわ。私の父は毎日のように仏壇の仏様に水をあげ、線香をあげていたものね。
句郎 芭蕉は五百年という年月に仏の奇跡を見た。その奇跡が光堂だった。阿弥陀仏の後光を詠んだ句が「五月雨の降のこしてや光堂」という句ではないかと思うんだけれどね。
華女 句郎君の解釈を聞くとこの句が神々しく感じられるような気もするわ。
句郎 そんな風に感じてもらえるとありがたいな。
 

醸楽庵だより   70号   聖海

2015-01-24 10:24:27 | 随筆・小説

 
  夏草や兵(つはもの)どもの夢の跡  芭蕉

句郎 平泉に行ったことある。
華女 もちろん、行ったことあるわよ。
句郎 印象に残っている所はどこ。
華女 そうね。毛越寺(もうつうじ)の浄土庭園が印象に残っているわ。
句郎 毛越寺には芭蕉自筆だという「夏草や兵(つはもの)どもの夢の跡」の句碑があったことを覚えているな。
華女 奈良・斑鳩にいるような景色だったような気がするわ。
句郎 僕もそんな気がしたことを覚えている。特に平泉駅のホームから眺めた景色が奈良に来たという感じがしたこ   とを覚えている。
華女 盆地のような印象よね。
句郎 そうなのかな。僕は毛越寺で思い切り梵鐘を搗いたことがあるよ。気持ちがすっきりした。
華女 へぇー、そんなことをしたの。周りにいた拝観者は迷惑したんじゃないかしら。
句郎 そんなことないと思うよ。拝観者は今、毛越寺にいると実感したんじゃないかと思うよ。
華女 芭蕉が「夏草や兵(つはもの)どもの夢の跡」と詠んだ気持ちが伝わってきるような景色を実感したわ。
句郎 芭蕉がこの句を詠んだ背景を何も知らなくとも誰でもが読んですぐ伝わる句だね。
華女 そう私も思うわ。でも平泉に来て、あゝここで義経軍が追討軍と戦ったところなんだと思うと芭蕉の思い入れが分かるような気もしてくるということかしらね。
句郎 いつだったか、テレビの俳句番組を見ていたら、金子兜太さんが出てきて、「夏草や兵(つはもの)どもの夢の跡」を挙げ「この句は有名な句だけれども私は良くないと思う」。このようなことを言っていたのを覚えている。
華女 何が良くないの。
句郎 金子兜太さんは「夢の跡」が良くないと言っていた。
華女 どうしてなのかしら。
句郎 「夢の跡」という言葉が醸すイメージが良くないということんじゃないかとおもうけど。
華女 あゝなるほどね。でも私は義経軍の敗北に涙した芭蕉の気持ちも分かるわ。
句郎 芭蕉は大変な義経ファンだったから、夏草だけが生茂る野原を見て、ここが古戦場だったのかという感慨があったんだろうね。
華女 そうなんじゃないかしらね。金子兜太さんはどのように添削するのかしらね。
句郎 「夏草」と「兵どもの夢の跡」は動かないと思うけど。
華女 源義経は映画や小説にはなっても高校の日本史の授業なんかではほとんど取り上げられることはないわね。
句郎 そうなんだ。講談のヒーローではあっても歴史上大きな役割を果たしたとは言えないようだ。
華女 そうなの。頼朝の方が大きな歴史的仕事をしたのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな。日本の封建社会の政治の仕組みを作り上げた人が頼朝らしいからね。
華女 芭蕉は読み物、講談の世界に生きた人なのね。
句郎 いや、文学の世界に生きた人なんじゃないかな。
華女 文学の世界に生きた人とは、どういうことなの。
句郎 談林派という笑いの俳諧から出発した芭蕉は俳諧を文学にしたということだよ。

 

醸楽庵だより   69号   聖海

2015-01-23 09:40:09 | 随筆・小説

  芭蕉はなぜ松島で句を詠まなかったのか

句郎 「夏草や兵(つはもの)どもの夢の跡」。この有名な句を芭蕉はどこで詠んだか知っている。
華女 馬鹿にしないで。知っているわよ。平泉でしょ。
句郎 芭蕉は仙台、宮城野で「あやめ草足に結ん草鞋の緒」と詠んでから平泉まで句を詠んでいない。どうしてなのかな。
華女 宮城野から平泉までの間に歌枕が無かったからじゃないの。
句郎 そんなことはないよ。宮城野を過ぎると「壺の碑」を通っている。「壺の碑」は歌枕だと思うよ。源頼朝が「壺の碑」を詠んだ歌が新古今集にあるよ。
華女 どんな歌なの。
句郎 「陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書きつくしてよ壺の石文」という歌なんだ。
華女 芭蕉は頼朝が嫌いだったかしらね。
句郎 「末の松山」でも句を詠んでいない。もちろん、「末の松山」も歌枕だ。古今集東歌に「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪もこえなん」という歌なんだ。
華女 松島でも句を詠んでいなの。不思議ね。だって、「おくのほそ道」の冒頭で「松島の月先(ま)ず心にかかりて」と書いているのに松島の月を詠んでいないの。変ね。
句郎 どうしてなのかなと思っていたんだ。「三冊子」(さんぞうし)を読んでいたらなるほどね、と思った文章に出会った。
華女 「三冊子」(さんぞうし)とは「しろぞうし」「あかぞうし」「くろぞうし」を合わせて「三冊子」というのでしょ。芭蕉が書いたものなの。
句郎 いや、違う。芭蕉の弟子、伊賀上野の服部土芳(はっとりどほう)が師の教えを説いた俳論書だ。
華女 土芳はどんなことを言っているの。
句郎 少し長くなるけれども読んでみるね。「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶(かなはず)、物を見て、取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事なり」。
華女 ようするに、なんだと言っているの。わかったようで、わからない。曖昧模糊としているわ。
句郎 素晴らしい景色を見ると心が奪われてしまう。その景色を見て感じたり、思ったりすることがあっても句ができないならば、感じたり、思ったりしたことを書いておくだけでいい。無理して句を詠むことはない。師が松島の景色を見て句がないのは当然のことなのだ。このようなことではないかと僕は思っているんだけれどね。
華女 松島で芭蕉が句が詠めなかったのは松島の景色に圧倒されてしまたからなんだということなの。
句郎 そうなのかもしれないな。そうは言っても、実は松島で芭蕉は句を詠んでいる。
華女 「おくのほそ道」には載っていない句ね。
句郎 そうだ。
華女 どんな句なの。
句郎 「島々や千々に砕きて夏の海」。曾良の「俳諧書留」にも載っていない。「蕉翁文集」にある句だ。
華女 芭蕉はその句を気に入らなかったのかしら。わかるような気がするわ。
句郎 確かに、島々の磯が表現されてはいるが、夏の海でなくともいいような気がするものね。
華女 そうね。
句郎 芭蕉は曾良の句を「おくのほそ道」に載せている。「松島や鶴に身をかれほととぎす」だ。
華女 曾良の句が表現したことは何なの。
句郎 松島には鶴が似合う。鳴き渡り飛ぶほととぎすよ、鶴に身を借りて飛んでほしい。果たせぬ願望の句だ。

醸楽庵だより   68号   聖海   

2015-01-22 11:31:10 | 随筆・小説
 
  あやめ草足に結ん草鞋の緒   芭蕉

華女 「あやめ草足に結(むすば)ん草鞋(わらじ)の緒」。「おくのほそ道」、宮城野で芭蕉が詠んだこの句はすっきり分かる句ね。
句郎 あやめ草を草鞋の緒にして足に結んだ。ただそれだけの句だものね。
華女 句として、どこが良いのか分からないわ。芭蕉が「おくのほそ道」で詠んでいる句だからいい。「おくのほそ道」に載っている句だ知らなければ、読み飛ばされていくような句だと思うわ。句会で私がこの句を詠んだとしたら誰も採ってくれないような句じゃないかしら。
句郎 そうかもしれない。芭蕉がこの句にこめた気持ちを読み説いてみたいと思う。
華女 芭蕉がこの句を詠んだ状況はどうだったのかしら。
句郎 草鞋の緒をあやめ草にして草鞋を作ったという意味じゃないよね。あやめ草は草鞋の緒にはならないよ。だって、すぐ切れてしまうんじゃないかと思う。草鞋の緒にあやめ草を巻き付けたんじゃないかと思う。
華女 どうして芭蕉はそんなことをしたのかしら。
句郎 あやめ草と芭蕉は言っているから、この草はお風呂に入れて菖蒲湯にするあやめ(菖蒲)の事ではないかと思う。あやめを漢字で書くと菖蒲と書く。薬効があると言われるお風呂に入れる菖蒲とあやめ、花菖蒲とは違う。綺麗な花が咲くあやめを想像してしまうけれどもそうではなく綺麗な花が咲かない薬効のある菖蒲、すなわちあやめ草を草鞋の緒に巻き付けた。
華女 じゃー、旅の安全祈願のためにあやめ草を草鞋の緒に巻き付けたのかしらね。
句郎 菖蒲には実際本当に薬効があるらしいよ。腰痛や神経痛を和らげる効果が期待できるらしいし、その他に菖蒲の根にある精油成分には血行促進や保湿効果の薬効があると言われている。
華女 菖蒲は漢方薬の原料になっていたのね。
句郎 菖蒲の香には悪疫を退散させるという民間療法があったらしいからね。またあやめの湯に入ると暑い夏を丈夫に過ごすことができると信じられてもいたらしい。
華女 無事健康に旅を終える事ができますよう元気に歩いてくれよと足に祈願したのね。
句郎 芭蕉は「名取川を渡つて仙䑓に入る。あやめふく日也」と「おくのほそ道」に書いている。宮城野に着いたのは旧暦の五月五日、あやめを軒に挿し、子どもの健やかな成長を祈願した日だった。ここで画工加右衛門という人と知り合いになる。加右衛門は事前に芭蕉が訪ねてくれるのを知り、芭蕉たちを案内する今では分からなくなっていた宮城野にある歌枕を調べていてくれた。
華女 江戸の俳諧師芭蕉の名は仙台にまで轟いていたのね。
句郎 元禄時代は商品流通が盛んになっていた。商品流通の隆盛が同時に通信を発達させていた。加右衛門に一日、ここが「御(み)さぶらひ御傘と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」と古今集東歌にある歌枕の「木の下」ですよと、また「とりつなげ玉田横野のはなれ駒つつじが岡にあせみ咲くなり」と源俊頼が詠んだ馬酔木の歌枕、玉田、横野、つつじが岡はここですと、芭蕉は案内された。
華女 いつも驚くことなんだけれど、芭蕉は本当にたくさんの歌を覚えていたということなの。
句郎 そうだよね。自動車があったわけじゃないんだから、全部覚えるしかなかったから覚えたんだろうね。加右衛門は芭蕉と別れるときに餞(はなむけ)に紺の染緒を付けた草鞋二足を贈った。
華女 分かったわ。「あやめ草足に結ん草鞋の緒」。この句は草鞋二足の餞別に対するお礼の挨拶の句だったのね。
元気に旅立ちます。本当にありがとうございました。この気持ちを詠んだ句のなのね。
句郎 そうなんじゃないかと思う。
華女 俳句というのは挨拶の気持ちを表現すれば句になるのね。
句郎 俳句は挨拶なのかもしれない。
華女 俳句は独りで詠むものじゃないのかもしれないわね。
句郎 俳句は句会があってこそ成り立つ文芸なのかな。
華女 対話ね。