醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1395号   白井一道

2020-04-30 12:07:50 | 随筆・小説


   
 徒然草第221段建治・弘安の比は



原文
 「建治・弘安の比は、祭の日の放免(はうべん)の附物(つけもの)に、異様(ことやう)なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心(とうじみ)をして、蜘蛛の網(い)書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志(だうし)どもの、今日も語り侍るなり。
 この比(ごろ)は、附物(つけもの)、年を送りて、過差(くわさ)殊(こと)の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。  

現代語訳
 「建治・弘安の比は、賀茂祭の日の放免たちの衣装の飾り物に紺の布地四、五反で奇怪な馬を作り、尾や鬣(たてがみ)は燈心で作り、それらを蜘蛛の巣を描きつけた狩衣に付けて、和歌の心などをがなって歩いた事など常に見かけたことなどが面白かった」と、老いた検非違使庁の道志たちの語り草に今もなっている。
 この頃は、飾り付けるものが年毎に殊の外、過度になり、すべて重いものをたくさん付け、左右の袖を人に持たせ、自らは鉾をさえ持っていないのに息づき、苦しむ有様は見ていて実に見苦しいものだ。

 祭と言えば葵祭  白井一道
 京都三大祭り(きょうとさんだいまつり)とは、葵祭(5月)、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭り。牛車・浅敷の御簾などを葵かずらで飾ったことが名前の由来と言われている。
祇園祭(7月)、八坂神社で行われる祭り。山鉾巡行や宵山が中心となっている。
時代祭(10月)、平安神宮で行われる祭りである。
 石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭である。平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。葵祭(賀茂祭)は葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名である。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行われ、にわか雨に濡れることが多い。
 葵祭の歴史は古い。古墳時代後期にまで遡る。凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、欽明天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。
 祭の当日(5月15日)、内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべてに葵鬘(あおいかずら)を飾ったことから葵祭というようになった。使用される葵はフタバアオイで、葵鬘は葵(あおい)を桂(かつら)の枝に絡ませた髪飾り。諸葛(もろかづら・もろかつら)あるいは葵桂(あおいかつら、きっけい)とも呼ぶ。
 装束の着付け、調度など平安期の文物風俗を忠実に保っている。本来、勅使が下鴨、上賀茂両神社で天皇の祝詞を読み上げ、お供えを届けるのが目的の祭りで、天皇が京都にいたときは、行列の飾り馬と出立の舞を見学したりしていた。行列は路頭の儀といい、長さ約1キロにも及ぶ。行列が上鴨神社、下鴨神社に到着すると、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納など社頭の儀が神前で行われる。
 平安時代中期には、「祭り」といえば葵祭をさすほど隆盛を極めたが、鎌倉、室町時代には衰え、戦乱期に入ると行列は姿を消してしまった。江戸・元禄期に再興されたが、明治2年の東京遷都で行列は中止となった。政府の京都活性化策として明治17年に復活したが、第2次大戦で中止され社頭での神事だけが続けられていた。戦後、行列が巡行するようになったのは昭和28年からである。
現在、葵祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての葵祭の歴史は、それほど古いものではない。長い葵祭の歴史の中で、16世紀はじめの室町期と、19世紀中ごろの幕末、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年に祭が途切れたことがある。この戦争中から戦後にかけての中断から、1955(昭和28)年に復活し、1956(昭和31)年になって斎王代が登場している。
長い歴史の記憶が現代社会の中で息づいているのが京都の葵祭なのであろう。

   

醸楽庵だより   1394号   白井一道

2020-04-28 10:07:53 | 随筆・小説




    徒然草第220段何事も、辺土は賤しく



原文
「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(わうじきでう)の最中(もなか)なり。寒・暑に随ひて上(あが)り・下(さが)りあるべき故に、二月涅槃会(にぐわつねはんゑ)より聖霊会(しやうりやうゑ)までの中間(ちゆうげん)を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり」と申しき。
 凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺(さいをんじ)の鐘、黄鐘調(わうじきでう)に鋳(い)らるべしとて、数多度鋳(あまたい)かへられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出されけり。浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。

現代語訳
 「どのようなものであっても都から遠く離れた所は下品で粗野であるけれども天王寺の舞楽だけは都のものに引けをとらない」と云う。天王寺の演奏者の言っていることは、「当寺の舞楽はよく十二律の調子に合わせていることは他よりも優れている。この理由は聖徳太子の時の調子が今に引き継がれ、それを基準にしている。世間で広く言われている六時堂の前の鐘であり。その鐘の音程は黄鐘調(わうじきでう)にぴったり一致している。寒・暑に従って上がり・下がりがあるので、二月の涅槃会より聖霊会までの期間を基準にしている。これが大切なことである。この六時堂前の鐘の音程を用いてどのような音程の調子にも合わせている」と言っている。
 多分、六時堂の金の音程は黄鐘調(わうじきでう)なのであろう。これは無常の調子、祇園精舎の無常院の音程だ。西園寺の鐘の音程は黄鐘調(わうじきでう)に鋳造されるよう何度も鋳造し変えられても出来なかったことを遠くの地方の方から尋ねられた。
浄金剛院の鐘の音程がまた黄鐘調(わうじきでう)である。

 梵鐘の音は騒音か   白井一道

最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音だと寺や警察に梵鐘を撞くことをやめてくれるよう苦情が来るという。また撞き手がいない寺が増えている。そのためか除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。がしかし、梵鐘の音に日本の音楽の源があるようにも思う。
梵鐘の日本への渡来は仏教の渡来と共にある。京都・妙心寺の梵鐘は国宝に指定されている。この梵鐘の内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている。兼好法師が述べている浄金剛院の鐘は浄金剛院が廃絶されて後、梵鐘は妙心寺の塔頭退蔵院に移され、現存している。この妙心寺退蔵院の梵鐘は昭和48年まで毎年「行く年来る年」の冒頭を飾っていが、これ以上撞くとヒビが入る可能性があるとされ今はその役目を終え法堂の中に収納されているという。この鐘は撞座と呼ばれる鐘突のスイートスポットも高い点に特色があり、日本で制作年のハッキリしている鐘の一番古いものである。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
 京都妙心寺の梵鐘がいかに貴重なものであるかという事が分かる。この梵鐘は黄鐘調(わうじきでう)の鐘の音を出すという。今に伝えられている雅楽の起源は梵鐘の音にあるのではないかと想像する。梵鐘の音に美しさを感じて竹で拵えた笛や笙で梵鐘の音を真似したのが雅楽の始まりなのではないかと想像してしまう。兼好法師が述べているように梵鐘の鐘の音が黄鐘調(わうじきでう)という音程を生み、合奏を可能にした。それが雅楽なのではないかと、私の想像は膨らむ。
 もともと日本にあった風景が都市化によって失われてくると日本音楽の起源にすらなった寺の梵鐘の音が騒音として認知されるようになる。都市化による自然破壊は人間の心も破壊するのかもしれない。

醸楽庵だより   1393号   白井一道

2020-04-27 07:46:06 | 随筆・小説



   
 徒然草第219段 四条黄門命ぜられて云はく


原文
 四条黄門命ぜられて云はく、「龍秋は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊(いささ)かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干(かん)の穴は平調(ひやうでう)、五の穴は下無調(しもむでう)なり。その間に、勝絶調を隔てたり。上(じよう)の穴、双調(さうでう)。次に、鳧鐘調(ふしようでう)を置きて、夕(さく)の穴、黄鐘調(わうじきでう)なり。その次に鸞鏡調(らんけうでう)を置きて、中(ちゆう)の穴、盤渉調(ばんしきでう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんでう)あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。
他日(たじつ)に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しやう)は 調べおほせて、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎に、口伝の上に性骨を加へて、心を入るゝこと、五の穴のみに限らず。偏(ひとへ)に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律(りよりつ)の、物に適はざるは、人の咎なり。器の失にあらず」と申しき。

現代語訳
 四条中納言隆資がおっしゃっておられることによると「豊原龍秋は、笙の専門家としてとても優れた人である。先日やって来て言うことによると『極めて考えが浅く、甚だ口はばったいことですが、横笛の五の穴は、ほんの少し気がかりな所があるように密かに思っているところです。そのわけは干(かん)の穴は平調(ひやうでう)、五の穴は下無調(しもむでう)である。その間に勝絶調がおいている。上の穴は双調(さうでう)である。次に鳧鐘調(ふしようでう)を置き、夕(さく)の穴、黄鐘調(わうじきでう)である。その次に鸞鏡調(らんけうでう)を置いて、中(ちゆう)の穴は盤渉調(ばんしきでう)、中と六との間に神仙調(しんせんでう)がある。このように穴と穴との中間毎にどこにも一調子が省かれているのに、五の穴だけが次の上の穴の間に一調子も置かれていず、しかも穴と穴との間隔が他の所と同じなので、その音声は快いものではない。だから、この穴を吹く時は必ず口を離して吹く。十分に口を離すことをしないと調子が合わなくなる。吹きこなせる人は少ない』とおっしゃっている。よく考えられたものだ。実に考え深いものがある。先輩が後輩の将来への成長を畏敬するとはこのことだ」ということでした。
 他日、景茂(かげもち)がおっしゃられたことは「笙は調律を終えて手にするものだからただ吹くだけである。笛は吹きながら、息をしながら調べを整えていくものだから、穴毎の口伝えの教えを踏まえ、工夫を加え心を言い表すこと、五の穴だけではない。ただ偏に龍秋が言うように一概に口を少し離して吹くだけだとも決められない。吹き方が悪ければ、どの穴を吹いても快いものではない。上手な人はどの穴を吹いても調子が整っている。音の調子が楽器に合わないのは吹く人の問題であり、楽器の欠点ではない」とおっしゃった。

 演奏者と楽器   白井一道
 五年に一度、ショパン国際ピアノコンクールがポーランドの首都ワルシャワで開催される。今年、2020年に第18回大会が四月から始まり、本選が10月20日に終わり、優勝者が決まる。本選入場券が2019年10月1日に発売されると3時間で完売したという。購入した人の半数が日本人であったという。このショパンコンクールには演奏者だけではなく、ピアノ楽器メーカーの調律師たちが自社の楽器を演奏者に採用してもらうため集まってくるようだ。日本からもヤマハ、カワイが最上級のピアノを調律師と共に持ち込み、ヨーロッパの伝統的な楽器ピアノと格闘するテレビを見た。
 楽器メーカーによってピアノの音は違うのかと、いうと違うようだ。演奏者が好む音があるようだ。同じピアノであってもメーカーが違うと微妙に音が違うようだ。私には分からない音の違いがある。

醸楽庵だより   1392号   白井一道

2020-04-26 10:32:51 | 随筆・小説




   
 徒然草第218段 狐は人に食ひつくものなり



原文
  狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。

現代語訳
 狐は人に食いつくものだ。堀川殿では、寝ていた舎人が足を食われた。仁和寺では、夜、本寺の前を通った下法師に三匹の狐がとびかかり食いついたので、刀を抜いてこれを防いでいる間に狐二疋を突いた。一疋は突き殺した。二疋は逃げた。法師は数多食われながら事故にはならなかった。

  狐と稲作と稲荷信仰   白井一道
 「天照大御神(アマテラスオオミカミ)は命じました。 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(トヨアシハラノチアキナガイホアキノミズホノクニ=葦原の長く長く幾千年も水田に稲穂のなる国=日本)は、わたしの子供である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ命)が統治すべきだと言い、天から降りることになりました」と『日本書紀』にあるそうだ。稲作を日本に伝えたのは渡来人ではないかと考えられている。大陸から押し出され逃げて日本にたどり着いた人々は野草の中に野生の原始的な稲穂を見つけ出し、品種改良をしてジャポニカ種と言われる米の栽培に成功し、これが徐々に普及していったのではないかと私は想像している。そうして人々の中の有力者の一族に秦氏がいた。
日本に稲作が普及した時代が弥生時代である。この稲作を可能にしたものが新石器という道具類であり、新しい土器、水が漏れることのない土器、弥生式土器であった。新石器と弥生式土器、ジャポニカ種の稲作が同時に普及した時代はまた、新しい信仰が生れた。稲作の普及に伴って鼠が繁殖した。鼠が繁殖すると同時に鼠を食べる狐や狼が繁殖していった。稲作に精を出す人々にとって狐や狼は益獣として受け入れられていった。柳田國男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。
 8万社もあるという日本の神社のなかで、もっとも多い神社の一つが狐を祀るお稲荷さんだ。稲荷神社の総本宮は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。この伏見稲荷大社は秦氏の氏神であった。秦氏と稲作、稲荷信仰は一体のものであった。
お稲荷さんはその字が示すように、稲の豊穣を守る神様だ。稲のような食物を司る神を古くは「御饌津神(みけつがみ)」と言った。この神名に「三狐神(みけつがみ)」の字をあてたので、いつしか狐が稲荷神の使いになったという。
じつはこうした伝承はいくつもあって、狐は穀物を食べる野ネズミを襲うので、狐が稲の守り神になった。
縄文時代に生きた狩猟民たちは山の狼(おおかみ)を神の使いとしていたが、稲作の定着とともに狼は山に追いやられ、代わりに里にすむ狐が稲の神の使いとなった。稲作文化の定着が日本列島に住む人々に稲作と狐を祀る稲荷信仰を深めて行った。その結果、それまでの古くからあったオオカミ信仰は日本各地に点在していたが、稲作の発達によりオオカミ信仰はキツネの稲荷信仰(いなりしんこう)に取って代わられていった。
オオカミ信仰といえば、いまは埼玉県秩父郡の三峰神社(みつみねじんじゃ)や東京奥多摩の大嶽神社(おおだけじんじゃ)などが名高い。祭神は大口之真神(おおぐちのまがみ)、たんに真神ということもある。大嶽神社のオオカミ像は非常にシンプルで、ペット犬のような愛らしさがある。
オオカミ信仰をいわば理論化したのは、山奥で厳しい修行をする修験者(しゅげんじゃ)とされている。彼らの説によると、三峰神社にイザナギ、イザナミノ尊(みこと)を祀(まつ)ったとき白いオオカミが神の使いとして現れたという。また日本武尊(やまとたけるのみこと)が山火事にあったとき、オオカミが救ったという。
日本のオオカミは明治になって絶滅した。イノシシやニホンジカなどが繁殖し畑や森林が荒らされるのは、オオカミが絶滅したためとする説がある。
人間に幸せをもたらしてくれる動物を神様として昔の人々は祀った。その一つが稲荷信仰のようだ。

醸楽庵だより   1391号   白井一道

2020-04-25 10:10:04 | 随筆・小説


   
 徒然草第217段 或大福長者の云はく



原文
 或大福長者の云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫(しばら)くも住すべからず。所願は止む時なし。財(たから)は尽(つ)くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得(う)べからず。所願心に萌(きざ)す事あらば、我を滅すべき悪念(あくねん)来れりと固く慎み恐れて、小要(せうえう)をも為すべからず。次に、銭を奴(やつこ)の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く畏れ尊(たふと)みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒(いか)り恨(うら)むる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火の燥(かわ)けるに就き、水の下(くだ)れるに随ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲(えんいん)・声色(せいしよく)を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。
 そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟(おきて)は、たゞ、人間の望みを断ちて、貧を憂(うれ)ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如(し)かじ、財なからんには。癰(よう)・疽(そ)を病者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧・富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。

現代語訳 
 或る大富豪が言っている。「人はまず何をさしおいても金を獲得しなければならない。貧しくては生きている甲斐がない。豊かな人だけが人である。富を得ようと思うなら、是非ともまずその心遣いを学ばなければならない。その心というのは他でもない。世の中は変わりないという考えに落ち着けて、仮にも無常だと思うことがあってはならない。これが第一に用心すべきことである。次にあらゆる用事を思い通りに果たしてはならない。自他につけて願うことは限りなくある。その欲に支配され思い通りにしようとするなら百万の金があったとしてもたちまちなくなってしまう。欲が治まることはない。富には尽きる時がある。限りある富なのに、限りない欲望に支配されるなら富を得ることはできない。欲が心に起きて来ることがあるなら、これは我を滅ぼす悪い気持ちだと堅く慎み恐れてお金を使うことをしてはならない。次にお金を使用人のように使えるものだと考えていると、いつまでたっても貧苦から免れることはない。君子のように神様のように畏れ尊びて心置きなく使うことがあってはならない。次に恥ずかしいという事があっても怒ったり、恨んだりすることをしてはならない。また、正直に約束は堅く守るべきだ。この義理を守り、利を求めようとする人には富がくることは、火が乾いた所に向かって燃え広がり、水は低い所に向かって流れて行くように当然のことである。お金が溜まり、尽きることがなくなっても、酒盛りや音楽、女色に溺れる事をせず、住まいを飾ることをせず、願いを実現してもいつまでも変わることなく質素に楽しく生きることだ」とおっしゃっている。
 そもそも人間は欲望を実現するために富を求めてる。お金を富みとすることは、願いを叶えるためである。欲望はあるけれども叶えることをせず、お金はあっても使うことをしない人は全く貧しい人と同じだ。何を楽しみとしているのか。この戒めは、ただ人間の望みを絶ち、貧しさを憂いてはならないと言われているようだ。欲望を実現して楽しむよりは欲望がなく、富がない方がいい。悪いできもの、癰(よう)・疽(そ)を病む者、水で洗って何とかしようとしている者より病むことがない方がいいに決まっている。ここに至っては貧しい者と富んだ者との区別はつかない。行き着いたところは同じ。欲望に満ちていることは無欲である事に似ている。








醸楽庵だより   1390号   白井一道

2020-04-24 06:37:33 | 随筆・小説



   
 徒然草第216段 最明寺入道



原文
 最明寺入道(さいみやうじのにふどう)、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道(あしかがのにふだう)の許へ、先づ使を遣(つかは)して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様(やう)、一献(いつこん)に打ち鮑(あはび)、二献〈にこん〉に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正(りやうべんそうじやう)、主方(あるじがた)の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調(てう)ぜさせて、後に遣(つかは)されけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

現代語訳 
 最明寺入道(さいみやうじのにふどう)が鶴岡八幡宮にお参りしたついでに足利左馬入道(あしかがのにふだう)のもとに、まず使いをやり、立ち寄ったところ、主がおもてなしをなさった様子は一献にのしアワビ、二献に海老、三献は蕎麦掻であった。その席には亭主夫婦と隆辨僧正(りやうべんそうじやう)、主方(あるじがた)の人がおられた。さて、「年ごとに給わる足利の染物が待ち遠しいものだ」とおっしゃられたので、「用意してございます」と言って、色々の染物三十を前にして、女房どもに小袖を仕立てさせて後に送り届けさせた。
その時見かけた人が最近になって話してくれたことである。

  一献の酒の文化とは  白井一道
 私たちは今や市民会館になっている旧社長宅に集まり、酔いの楽しみを求めて、唎酒に集中していた。その時である参加者の一人が発言した。今、我々は唎酒に集中しているため、静かにしているけれど、向こうの部屋では、夫婦そろって『断酒の会』をしていますよ。静かに一人、一人がつぶやくように話し合っていますよ。とても暗い雰囲気ですよ。我々の静かさとは全然違いますよ。奥さんは泪を流し、夫が酒を飲み始めると人が変わり、私を怒鳴り散らした日々があったというような話をポツリポツリと話していますよと、言った。
 酔いの楽しみを求めて静かにお酒を味わっている者たちの会と家族が潰されていくようなお酒の哀しみの断酒の会が同時に部屋は違うのが行うのは悪くないかということで曜日を変えてはどうかということになり、実施する週を変え、曜日を変えたことがある。
 酒は百薬の長と言われる一方でお酒は人間の心と体を壊す働きもする。そのような二面性のある飲み物である。一献の酒が一夜のお伽になるためには、飲酒文化が成熟する必要があった。飲酒文化が文化として成熟するためには、禁酒の思想なしにはあり得ない。特にイスラム教徒が啓典の民として受け入れたユダヤ教徒とキリスト教徒は同じ一神教を信ずる民であった。ムハンマドがメッカのカーバ神殿に入場し、偶像を破壊し、神は唯一だと主張したとき、神から授かった戒律の一つが禁酒であった。神との契約の書『旧約聖書』をイスラム教徒は聖典の一つとして受け入れている。ユダヤ教徒やキリスト教徒にもイスラム教徒と同じような禁酒の思想が共有されていた。西洋世界にあって、飲酒は神との約束を破る行為である。秘蹟としての聖餐(ディナー)はパンとワインのみである。こうしてワインがキリスト教に受け入れられていった。同様に仏教にあっても「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず)と言われている。お酒は、心を静め清めるための修行のじゃまになるので、 寺の中に持ってはいることができない。このような禁酒の思想があってこそ、飲酒を慎む心情が少しずつ培われ、酔いを楽しむ文化がつくられていった。
 鎌倉時代以降になると寺院で積極的にお酒が造られるようになり、火入れの技術などは経験的に獲得された技法のようだ。いわゆる低温殺菌法である。
西洋にあっても中世にペストの大流行を契機にドイツにおいてビール醸造が積極的に僧院で行われるようになっていった。ビールを飲み、生水を飲んでいない人々はペストにかからなかったからである。ビールが飲み水の代わりになった。それが安全な飲み物になった。日本にあってもヨーロッパにあってもお酒やワイン、ビールが民衆の飲み物として定着していく中で酔いの楽しみという飲酒文化培われていった

醸楽庵だより   1389号   白井一道

2020-04-23 10:17:21 | 随筆・小説


   
 徒然草第215段 平宣時朝臣、老の後



原文
 平宣時朝臣(たひらののぶときあつそん)、老の後、昔語に、「最明寺入道(さいみやうじのにふどう)、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様(ことやう)なりとも、疾(と)く』とありしかば、萎(な)えたる直垂(ひたたれ)、うちうちのまゝにて罷(まか)りたりしに、銚子(てうし)に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそく)さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

現代語訳 
 平宣時朝臣(たひらののぶときあつそん)は老いての後、昔語りに「最明寺入道(さいみやうじのにふどう)が或る宵の間に呼ばれたことがあった際、『やがて参ります』と言いながら、直垂(ひたたれ)が見つからなくてぐずぐずしていると、また使いが来て『直垂などかまわない。夜の事なので格好はどうでもいいから、早く来てくれ』というので、よれよれの直垂を付け、家にいる格好をして罷ったところ、銚子に土器の皿を添えて持ち出して『この酒を一人で飲むのが寂しくてたまらないので、言っておきたい。酒の肴はないんだが、家人は寝てしまっているだろうから、適当なものがあるか、家探ししてくれ』とおっしゃられたので、紙燭(しそく)を灯し、隅々まで探したところ、台所の棚の小皿に味噌が少し付いているのを見つけ、『これを見つけましたよ』と申したところ、『これで満足だ』と快く数杯をあけ、愉快になられました。あの頃、このようなことがあったなぁ」とおっしゃられた。

 酔いの楽しみを詠んだ芭蕉の句   白井一道

 二日にもぬかりはせじな花の春 貞享5年45歳
 「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」と前詞がある。芭蕉は故郷、伊賀上野に帰っていた。芭蕉は江戸に出て、三度目の里帰りである。この時、芭蕉は実兄から母が大切に保存してくれていた芭蕉の臍の緒を見せてもらった。母への思いがつのり涙が頬をつたった。その感動を詠んだ句が「旧里や臍の緒に泣くとしの暮」である。忘年会だと言って旧友の俳諧仲間が集まり、盃を交わした。したたかに酔いを楽しみ、寝過ごしてしまい、初日の出を迎えることができず、正月の餅を食いはぐってしまった。『三冊子』に次のようにある。「この句は、元日ひるまでいねてもちくひはずしたりと前書あり。此句の時、師の曰、等類気遣ひなき趣向を得たり。此手爾葉は、二日には、といふを、にも、とは仕えたる也。には、といひてはあまり平目に当りて聞なくいやしと也」。二日もまたこのような不始末はしたくないという意味ではないかと芭蕉の弟子の土芳は述べている。

 御命講や油のような酒五升 元禄5年 49歳
 御命講(おめいこ)は、日蓮の命日(弘安5年1282年11月21日・陰暦10月13日)であるから何れにしろ10月13日の御会式のこと。日蓮は、池上本門寺で亡くなっている。「油のような酒五升」という形容が酒好きの気持ちを良く言い表している。この静かさに酒の旨さが詰まっている。御下がりの直会が見えている。芭蕉は酒好きの男であると同時にお酒に義理堅く、だらしない所のない人であった。

 鰹売りいかなる人を酔はすらん 貞享4年44歳
 「目には青葉山ほととぎす初鰹」と芭蕉と同時代を生きた山口素堂が詠んでいる。江戸庶民にとって初鰹は高値の魚であった。そのような魚である鰹も昔、公家と言われる人々は食べることがなかった。『徒然草』119段に書いてあった通りに鎌倉時代から室町時代にかけて関東地方に住む人々から食べ始め、江戸元禄時代になるともともと庶民しか食べなかった肴が江戸庶民には手の届かない肴になっていた。この憧れの魚、鰹を肴に酒を酌み交わす人々はどのような人なのであろう。鰹売りの声を聞き、想像する。初鰹を酒の肴にして楽しむ人々が町人の中に生まれて来ていた。

醸楽庵だより   1388号   白井一道

2020-04-22 10:23:29 | 随筆・小説

   
 徒然草第214段 想夫恋といふ楽は



原文
 想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)は、女、男を恋ふる故の名にはあらず、本(もと)は相府蓮(さうふれん)、文字(もんじ)の通(かよ)へるなり。晋(しん)の王倹(わうけん)、大臣〈だいじん〉として、家に蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の楽(がく)なり。これより、大臣を蓮府(れんぷ)といふ。
 廻忽(くわいこつ)も廻鶻(くわいこつ)なり。廻鶻国(くわいこつこく)とて、夷(えびす)のこはき国あり。その夷(えびす)、漢に伏して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。

現代語訳 
 想夫恋(さうふれん)という雅楽の曲は女が男を恋うという文字が意味するようなことではなく、もともとは相府蓮(さうふれん)という文字が意味することである。中国の晋王朝の王倹(わうけん)は大臣として家に蓮の花を植え愛した時に楽しんだ雅楽の曲である。この時から大臣の邸を蓮府(れんぷ)と言うようになった。
 廻忽(くわいこつ)という国は廻鶻(くわいこつ)だ。廻鶻国(くわいこつこく)と言い、野蛮人の恐ろしい国がある。その野蛮人の国は漢帝国に征服されて後に都に来て廻鶻国(くわいこつこく)の楽曲を演奏したものである。

 注釈
 想夫恋(そうぶれん) とは雅楽の曲名。相府蓮、想夫憐とも表記する。 唐楽に属する平調(ひょうぢょう)の曲で、現在は管絃によって奏される。本来の表記は相府蓮で、「丞相府の蓮」(じょうしょうふのはす/大臣の官邸の蓮)をあらわす。晋の大臣(丞相)である王倹の官邸の蓮を歌った歌が原曲であったが、「相府」と「想夫」の音が通じることから後に、男性を慕う女性の恋情を歌う曲とされた。

廻忽(くわいこつ)とは
初めウイグルは『魏書』や『北史』などで袁紇や韋紇と記されたが、『旧唐書』や『新唐書』からは迴紇,回紇と記されるようになった。そして貞元4年(788年)もしくは、元和4年(809年)に迴紇、回紇から迴鶻、回鶻に改称してからは、専ら迴鶻、回鶻の語を用いるようになる。
もともとは複数部族の連合体であり、彼等自身が残した碑文によれば、早期には九姓鉄勒(トクズ・オグズ)と呼んでいたが、回紇(ウイグル)部の首長氏族であるヤグラカル氏がこの部族集団の指導者となったため、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)全体が回鶻(ウイグル)と呼ばれるようになった。

晋(しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋とも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建康。南朝宋により滅ぼされた。
東アジア世界の音楽
古代中国では三分損益法・十二律・五声(五音音階)という音楽理論と、さまざまな打楽器と琴、横笛とオカリナの仲間からなる儒教の儀式用の合奏が確立した。そこに西域からさまざまな楽器(琵琶など)や音楽が伝わり、6~8世紀には代表的なものが整理されて宮廷で公式に演奏された。これは七部伎(後に拡大され、九部伎や十部伎となる)と呼ばれ、奈良・平安時代の日本や朝鮮半島に伝えられた。その後はそれぞれ独自の発展を遂げ、中国では劇音楽が発達し、民間の音楽の中心的な存在となり、現在では京劇という名で伝わっている。日本では大陸から伝わった雅楽や声明(仏教音楽)の影響の下、能楽や歌舞伎などの新しいジャンルが生まれた。朝鮮半島では仮面劇が発達し、パンソリ(唱劇ともいう。一種の歌劇)が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は三味線のもととなった。

こうした歴史から、楽器は共通のものが多い。また、五音音階をどの国でも好んで使っているが、含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。
 ウィキペディアより

醸楽庵だより   1387号   白井一道

2020-04-21 10:13:55 | 随筆・小説


   
 徒然草第213段 御前の火炉に火を置く時は



原文
 御前の火炉(くわろ)に火を置く時は、火箸して挟む事なし。土器(かはらけ)より直ちに移すべし。されば、転び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。
 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に、供奉(ぐぶ)の人、浄衣(じやうえ)を着て、手にて炭をさゝれければ、或有職(あるいうしよく)の人、「白き物を着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

現代語訳 
 天皇の火炉(くわろ)に火を入れる時は火箸で挟んで入れてはならない。土器の器から直接移さなければならない。さうして土器から火が転び落ちないように心得、炭を積むべきである。
 八幡(やはた)の御幸(ごかう)に付き従った人は浄衣(じやうえ)を着て、手で炭をついだのを見て、或る有職(あるいうしよく)の人が「白い衣服を着ている日は火箸を用いることは差し支えない」とおっしゃられた。

 火をめぐる文化と民俗信仰
 佛教大学教授八木 透
現代のように、ボタンひとつで点火や消火が可能になり、機械やコンピューターがすべてを制御するという時代に、私たちは火をどのように認識し、火といかに向き合ってゆくべきなのだろうか。
火をめぐる文化について考えるとき、まず確認しておかなければならないことは、すべての動物の中で、火を自在に操ることができるのは人類だけであるという事実である。人間以外の動物たちは火を扱うことができない。火を操れるか否かが人間と動物を区別する重要な基準であり、同時に「文化」と「自然」を分けるメルクマールでもある。人間がここまで高度な文化を築き上げることができたのは、すべて火を自在に操れたからであるといっても過言ではない。たとえば、火によってさまざまな食物を調理する、あるいは熱を加えるということが可能となる。また人間は火を扱えたおかげで、寒い季節に暖をとることが可能となった。さらに、火が人間に画期的な転換をもたらした事実として、金属を産むという火の特性である。鉄をはじめ、あらゆる金属を産むためには、火が不可欠である。さらに陶磁器を作るためにも火は欠かせない。火は自然の中に存在する土や金属を、人間が必要とする自在な状態や形状に変化させてくれる。この技術は、野生動物たちには決して真似することはできない。
火は貴重な恵みを私たちに与えてくれる、必要不可欠な存在ではあるが、一つ間違えると、くらしのすべてのものを焼き滅ぼしてしまう、恐ろしい力を持った魔物でもある。火は恵みと脅威という、相反する特性を併せ持った存在として、これまでの歴史の中で、人間の前にたびたび難題を突きつけてきた。特に前近代における“大火”と称せられた大規模な火災では、人間が火の脅威を目の当たりし、尊い命や文化が無残に失われた。たとえば近世の京都では、宝永・享保・天明という3度の大火が発生しており、中でも天明8(1788)年におきた大火では、京都の市中のほとんどの家屋が焼き尽くされたと伝えられている。歴史の中で火は何度となく人類に襲いかかり、甚大な被害をもたらした。このような火の脅威に対して、人々はいかなる神に祈り、またどのような対処を試みてきたのだろうか。
 昔の人々は、現在と比べて火の恵みや驚異をより深く認識していたであろう。火が私たちの日々のくらしの中で必要不可欠であったがゆえに、人々は火そのものを信仰の対象として祀った。火をめぐる民俗信仰の中で、何よりも切実な願いが「火伏せ」であったことは想像に難くない。京都の愛宕や遠州の秋庭に代表されるような、全国に伝わる火伏せの神は、このような人々の切実な祈りの依り所として、いつの時代も篤い信仰を集めてきた。
 火が一旦巨大化すると、もう人間が操れる範疇を超え、火はまさに魔物と化す。そうした火は止まることなく燃え広がり、あらゆるものを焼き滅ぼしてしまう。そうなれば、火はもう人知を超越した存在であり、尋常の方法では制御することが不可能となる。しかし人並みはずれた修行を積み、特別な霊力を身につけた宗教者だけは、魔物と化した火をコントロールすることができると信じられていた。その宗教者とは、まさに山岳で修行を積む修験者たちであった。このことが、火をめぐる信仰の多くが修験道と深い関わりを有する所以である。

醸楽庵だより   1386号   白井一道

2020-04-20 10:37:44 | 随筆・小説



    徒然草第213段
 

原文
  秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり。

現代語訳 
 秋の月は、限りなく美しいものである。どのような時であっても月とはこのように美しいものだと思い、そのように思えない人は実に残念なことである。

 
秋の月を詠んだ芭蕉  白井一道

月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 寛文4年21歳

芭蕉はまだ郷里伊賀上野で藤堂藩、藩主の嫡子藤堂良忠に仕えていた。藤堂良忠は俳諧に親しむ。俳号を蝉吟(せんぎん)と言った。蝉吟の詠んだ発句を京都の北村季吟の下に届け、添削をしていただいていた。芭蕉は蝉吟を通して俳諧に親しみ、学んでいった。伊賀から京への使いの道が発句を学ぶ道であった。その成果の一つがこの句である。旅の宿に泊まることなど、芭蕉にはできなかった。しかし旅籠からの呼び込みの経験があった。そんな旅の宿に泊まれたらどんなにいいだろうと願ったに違いない。そんな気持ちがこの句には滲み出ている。
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うが)ツ 延宝8年 37歳
夜密かに虫は月下の栗を食べている。静かな世界に月光が輝いている。この月の明りの静かさが実に見事に表現されている。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 貞享元年41歳
『野ざらし紀行』に載せてある句である。夜通し馬に乗って旅をしていた。夜明けごろ、うつらうつらと夢見心地で馬に乗っていたのだろうか。ふと気付くと月は遠く小さくなっている。有明の月はほの白く山にかかっている。ここは小夜の中山である。山里の民家の家からは湯を沸す白い煙がたちあがっているのではないか。このような旅を芭蕉はしていた。その旅は俳諧を求める旅でもあり、俳諧を広める旅でもあった。俳諧の発句を詠むことが旅であり、旅することが俳諧を詠むことでもあった。

雲をりをり人をやすめる月見かな貞享2年42歳
「終夜の陰晴、心尽しなりければ」と前詞がある。夜明かして月見を芭蕉は楽しんでいた。一晩中、月には雲がかかっては、消え、また雲がかかる。『真蹟拾遺』には「西行のうたの心をふまえて」とある。「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなすかぎりなりけり」『山家集』。時々、月に雲がかかるからこそ月見の楽しみがあると言うものではないかと気が付いた。芭蕉は西行の歌に刺激され、俳諧の発句を詠んだ。

名月や池をめぐりて夜もすがら 貞享3年43歳
江戸深川芭蕉庵にて月見の会を催した際に詠まれたものであろう。一晩中実際は芭蕉庵で酒を飲み、月見を楽しみ、俳諧をしていたのであろう。池を巡って月見を楽しんだことを芭蕉は思い出し、この句を詠んだのであろう。名月と心り中の池とを取り合わせて詠んだ句である。

月はやし梢は雨を持ながら 貞享4年 44歳
「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を 發せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるにゝたり。 あかつきの そら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、 いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷憺の人ならむかし。」『鹿島紀行』
雨が上がってきた。枝の先には雨粒が溜まっている。灰色の雲が勢いよく流れて行く。大空に広がる雲と月。身近な所の枝の先。表現ができている。

寺に寝てまこと顔なる月見哉 貞享4年 44歳
芭蕉は鹿島根本寺に世話になり、休ませてもらった。雨に降られて芭蕉は月見ができていない。月見ができない無念さのようなものを芭蕉は表現した。