徒然草第221段建治・弘安の比は
原文
「建治・弘安の比は、祭の日の放免(はうべん)の附物(つけもの)に、異様(ことやう)なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心(とうじみ)をして、蜘蛛の網(い)書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志(だうし)どもの、今日も語り侍るなり。
この比(ごろ)は、附物(つけもの)、年を送りて、過差(くわさ)殊(こと)の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。
現代語訳
「建治・弘安の比は、賀茂祭の日の放免たちの衣装の飾り物に紺の布地四、五反で奇怪な馬を作り、尾や鬣(たてがみ)は燈心で作り、それらを蜘蛛の巣を描きつけた狩衣に付けて、和歌の心などをがなって歩いた事など常に見かけたことなどが面白かった」と、老いた検非違使庁の道志たちの語り草に今もなっている。
この頃は、飾り付けるものが年毎に殊の外、過度になり、すべて重いものをたくさん付け、左右の袖を人に持たせ、自らは鉾をさえ持っていないのに息づき、苦しむ有様は見ていて実に見苦しいものだ。
祭と言えば葵祭 白井一道
京都三大祭り(きょうとさんだいまつり)とは、葵祭(5月)、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭り。牛車・浅敷の御簾などを葵かずらで飾ったことが名前の由来と言われている。
祇園祭(7月)、八坂神社で行われる祭り。山鉾巡行や宵山が中心となっている。
時代祭(10月)、平安神宮で行われる祭りである。
石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭である。平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。葵祭(賀茂祭)は葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名である。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行われ、にわか雨に濡れることが多い。
葵祭の歴史は古い。古墳時代後期にまで遡る。凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、欽明天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。
祭の当日(5月15日)、内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべてに葵鬘(あおいかずら)を飾ったことから葵祭というようになった。使用される葵はフタバアオイで、葵鬘は葵(あおい)を桂(かつら)の枝に絡ませた髪飾り。諸葛(もろかづら・もろかつら)あるいは葵桂(あおいかつら、きっけい)とも呼ぶ。
装束の着付け、調度など平安期の文物風俗を忠実に保っている。本来、勅使が下鴨、上賀茂両神社で天皇の祝詞を読み上げ、お供えを届けるのが目的の祭りで、天皇が京都にいたときは、行列の飾り馬と出立の舞を見学したりしていた。行列は路頭の儀といい、長さ約1キロにも及ぶ。行列が上鴨神社、下鴨神社に到着すると、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納など社頭の儀が神前で行われる。
平安時代中期には、「祭り」といえば葵祭をさすほど隆盛を極めたが、鎌倉、室町時代には衰え、戦乱期に入ると行列は姿を消してしまった。江戸・元禄期に再興されたが、明治2年の東京遷都で行列は中止となった。政府の京都活性化策として明治17年に復活したが、第2次大戦で中止され社頭での神事だけが続けられていた。戦後、行列が巡行するようになったのは昭和28年からである。
現在、葵祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての葵祭の歴史は、それほど古いものではない。長い葵祭の歴史の中で、16世紀はじめの室町期と、19世紀中ごろの幕末、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年に祭が途切れたことがある。この戦争中から戦後にかけての中断から、1955(昭和28)年に復活し、1956(昭和31)年になって斎王代が登場している。
長い歴史の記憶が現代社会の中で息づいているのが京都の葵祭なのであろう。