醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  16号   聖海   

2014-11-30 12:32:48 | 随筆・小説


 風流の初(はじめ)やおくの田植うた   芭蕉

 陸奥(みちのく)に来て初めて風流な田植えうたを聞いた、という意味なのか、それとも陸奥の田植えうたを聞き、風流の初め、その源、原形が偲ばれた、という意味なのか、読者が自由に読めば、それでいい。
芭蕉は陸奥の田植えうたを聞き、そこに風流なものを感じたことは間違いない。
 現代に生きる私たちは田植えうたなど聞く機会を持たない。人が手で田植えする姿さえ、滅多に見ない。田植えうたを直接、今まで聞いたがない。私の経験でいえば「七人の侍」という黒澤明監督の映画の終わりの方のシーンで農民たちが太鼓を叩き、笛を吹き、歌を歌い、娘たちが田植えする場面で田植え唄を聞いたことがある。それだけである。
農民たちが田植するシーンを見ていて、そこに風流なものを感じたかというと感じない。そのシーンに感じたものは農作業する農民たちの労働の明るさと朗らかさのようなものである。
芭蕉が田植え歌に感じた風流なものと現代に生きる私たちが感じる風流なものとは違っているのではと感じる。ちなみに広辞苑を引き「風流」の項を調べて見る。風流とは前代の遺風、みやびやかなこと、俗でないこと、美しく飾ることなどと説明している。風流という言葉から私が感じることは世俗から離れ、里山の自然に生きる生活、そのようなことである。季節によって移り変る暑さや寒さに、風の強さや光、木々の葉の色の変化などに美を見出し、そこに楽しみや生きる喜びを発見する。これ風流という言葉から私が感じることは世俗から離れ、里山の自然に生きる生活、そのようなことである。季節によって移り変る暑さや寒さに、風の強さや光、木々の葉の色の変化などに美を見出し、そこに楽しみや生きる喜びを発見する。これが風流な生活と思う。
 芭蕉が陸奥の田植え唄に感じた風流なものとは、室町時代から江戸時代にかけて上方を中心に流行した風流(ふりゅう)踊り(おどり)に合わせて歌う唄のことではなかったのかというのが私の主張である。このようなことを言っている本を読んだことはないが、田植えうたと風流というものは結びづきづらいと感じるのは私一人であろうか。風流という日本の美意識はいつごろ成立したものなのだろうか。確信をもって言えることではないが、室町時代であるようにおもわれてならない。世阿弥の「風姿花伝」、謡(能)によって確立した美意識が風流というものなのであろう。
「風姿花伝」に次のような言葉がある。「古きを学び、新しきを賞する中にも、まったく風流をよこしまにすることなかれ。ただ言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきをや」。この中で述べられている風流という言葉の意味は伝統ということのようだ。幽玄とは、奥深く、真実であるということ。うけたる達人とは、神から技を授けられた天才的な演者のことをいう。
 芭蕉が陸奥の田植えうたに感じた風流とは現代の盆踊りの原形になったといわれている風流踊りであった。その鄙びた素朴な唄に日本人の美意識である余情の深さや簡潔さ、不規則性、はかなさを感じたのであろう。この美意識は万葉の時代から継承されてきて本居宣長によって唱えられ、完成した「もののあわれ」を表すものが風流というものなのであろう。

  

醸楽庵だより   15号  聖海

2014-11-29 10:19:35 | 随筆・小説

  北千住の居酒屋に芭蕉を偲ぶ
 
 夕暮れて狭い路地に赤提灯が灯ると仕事を終えた男たちが集まってくる。
赤いネオンのロケーションに昭和レトロの雰囲気が漂う。北千住の飲み屋
街には庶民の温もりが残っている。
「奥の細道」に旅立った千住の街に芭蕉を偲び、一人酒を飲みに来た。目
的地がはっきりしている男たちは自宅の玄関の戸を開けるがごとくに居酒
屋に消えていく。私も細い路地の奥にある五・六人も入れば満杯になる居
酒屋の戸を開けた。夕暮れ時の居酒屋は男たちのオアシスである。
 日光街道筋の宿場町として繁盛した北千住には、往事の庶民の俤を偲ぶ
よすがないが、土地にしみついた人情が夕暮の気配に漂っている。狭い路
地、赤提灯を灯した小さな居酒屋の数々、猥雑な賑やかさに昔は小便の匂
いが漂っていたのかもしれない。
 「奥の細道」に旅立つ芭蕉と曾良を見送る一行は、元禄二年三月二十日、
現在の暦に換算すると一六八九年五月九日深川、小名木川沿いにあった芭
蕉庵から舟に乗り、隅田川をさかのぼった。現代の電車が江戸時代の水運
だった。曾良旅日記によると巳の下刻(午前十一時ごろ)千住に上がった。
およそ一時間ぐらいの舟であったろう。
 日和を見ると、この日は仏滅である。千住に上がった芭蕉たちはここで
大安の日がくるまでの日和を見ては水杯をかわした。水杯ならぬ酒を飲ん
では芭蕉は住む家を人手に渡した決死の思いを曾良と語り合い、気持ちが
充実するのを待った。見送る一行は泪を流し酒を飲んでは陸奥への思いを
述べた。路上に死ぬ覚悟を芭蕉と曾良は暗黙の裡に確認しあった。陸奥へ
の旅に気持ちが集中するのに七日間という日数が必要だった。ここに元禄
時代の時間があった。ゆっくりした時間は経過は強く堅い気持ちを築いた。
 ゴールデンウィーク後の夕暮、勤めの帰り東武伊勢崎線北千住駅に途中
下車した。駅前を出ると自動車道路の上が広場になっている。電車で北千
住駅を通過したことは数えきれないくらいあるが下車した経験は数回しか
ない。友人の一人が馴染している居酒屋に一人でむかった。その居酒屋は
細い路地の行き止まりにある。暖簾をくぐると口開けだった。七人が腰掛
けるといっぱいになってしまうカウンターだけのそれはそれは狭く小さな
居酒屋である。一度、友人と二人で来たことのある。馴染の客しかこない
店である。あやじは私の顔を忘れていた。私はOさんといつぞや一緒にき
た者ですと、挨拶をした。「あっ、そうですか。それはそれはどうも」。
あやじは返事をしてくれたが何にしますか、という問いをしない。私は新
潟塩沢の地酒「巻機」を注文した。「口開けの時間、生ビールの中ジョッ
キ一杯はサービスですよ」とおやじがぼそっと言う。「自分で注いで下さ
い」と言った。私は慣れない手つきでジョッキを持ち生ビールのコックを
捻った。泡の多い生ビールになってしまった。私の後に入ってくた客がお
やじと挨拶を交わすや勝手にジョッキを取り上げては樽からビールを注い
でいる。午後六時までに入った客は、中生一杯が馴染みさんへの出血サー
ビスのようであった。
 新しい客が入ってきた。新参の客が店にいる客に挨拶をかわした。おや
じは黙って下を向いて包丁を動かしている。その客もまた自分で生ビール
の中ジョッキを取ると独りで生ビールを注いだ。「今日はいい天気だった
ね」、「ビールが旨い」。男たちは、自宅にいるような気安さで話し始め
た。職場の人間関係から解放され、父親から解放され、夫からも解放され

た男たちは、ただ一人の男としてここにいる。この空間に居心地の良さを
発見した男たちが集まってくる。一人で行くことができる。そこにはそこ
だけの仲間がいる。日常の会話を楽しむことができる。酒はその話の潤滑
油である。
 一人づつ、客が入ってくる。「Kさん、今日はそっちに座っているの」。
「うん、今日はなんとなくね、いつもと違った席もどうかなと思ってね」
馴染さんには指定席があるようだ。六時間際になると店は客でいっぱいに
なった。それでも七人である。その中の二人が地図を取り出し、話しこみ
はじめた。温泉旅行の話のようだ。この居酒屋の客だけでいく温泉と酒と
蕎麦を楽しむ会のようだ。候補地を酒を飲みながら探すことが楽しくてし
ょうがない様子だ。これが酒のつまみになっている。
 私は生ビールに喉癒したあと、「巻機」を楽しんだ。新参の私には話の
相手になってくれる人がいない。私は独り、地酒を傾け「奥の細道」へこ
の地から旅立った芭蕉の気持ちを思っていた。

醸楽庵だより  14号   聖海

2014-11-28 09:59:08 | 随筆・小説

「座の文学とは」 句郎(くろう)と華女(はなこ)のおしゃべり

句郎 俳句は「座の文学」だと言われるけれど、それはどんな意味なのかな。
華女 句会があるから句を詠むのよ。句会がなければ、句を詠む楽しみはな
   いわ。仲間がいるから句が詠めるのよ。仲間で創作して文学になるこ
   とがある文芸が俳句かしらね。文学になってない俳句がいっぱいある
   のよ。だから「座」なのよ。座とは笑い楽しむ所なの。笑いとは仲間
   がいてこそなのよ。そうした笑いの中から生まれた文芸が俳句なんじ
   ゃないの。
句郎 庶民はいつの時代も笑いに飢えている。笑いを求めて人が集まってく
   る。笑い合える仲間たちができる。笑い合う仲間が創作した文芸が俳
   句ということなのか。
華女 そうなんじゃない。俳句は共同で創作しても作者がはっきりしている
   のよね。ここが面白いわ。
句郎 そうなんだよね。個人が創作したものであると同時に仲間たちが創作
   したもの。ここに「座」というものの特徴があるのかな。
華女 「座」とは仲間たちが作ったものなのに、その「座」が一人一人にの
   参加者たちに俳句を詠ませる力を生むのね。「座」とは凄いわ。
句郎 「座」とは、座るという意味だよ。
華女 漢字の意味としては「座」は確かに「座る」という意味ね。
句郎 昔、貴族の位階を表す言葉に公爵とか、侯爵、伯爵、子爵、男爵とい
   うのがあったじゃない。
華女 今でもイギリスやフランスには伯爵令夫人なんていう人がいるんでし
   ょ。お城みたいなところに住んで、良いわね。
句郎 貴族の位階を表す「爵」という字のもともとの意味は大きな盃を表す
   言葉だった。古代中国では王様を中心して酒盛りをした。燕をかたど
   った大盃・爵で酒を回し飲む。位の高い者から順に爵(大盃)で酒を
   飲む。王様に近い所に座る者は位が高い。遠くなるに従って位が低く
   なる。
華女 分かったわ。座る場所が貴族の位階を表すようになったってわけね。
句郎 そうなんだ。盃だった「爵」が貴族の位階を表す言葉になった。座敷
   に座る者、板の間に座る者、廊下に座る者、庭の白砂に座る者、どこ
   に座るかがそのものの位階から身分をも表すようになった。だから
   「一座」とは同じ身分・位階の者たちが同じ場所に座る者という意味
   なんだ。
華女 日光・東照宮を拝観した時、嫌な思いをしたことがあったわ。説明役
   の禰宜が皆様の今座っている場所は十万石以上の大名でなければ座れ
   なかった場所ですと侮蔑されたように感じたことがあったわ。
句郎 封建制社会は身分制だったからね。今でもこのような身分意識は強固
   に残っているようだよ。例えば、位の高い国会議員は位の低い議員と
   公的な場では同席しないとか、ということが不文律として今でも残っ
   ているようだよ。
華女 へぇー、そうなの。そういえば、お茶会なんかに行くとそんな雰囲気
   があるわね。
句郎 強固な身分制社会であった江戸時代、俳諧に遊ぶ者は公的な姓を名乗
   らず、名だけを唱えて、身分の違った人々とも同席した。これが「座」
   というものなんだ。同じ座敷に座る。これが仲間の創作意欲をかきた
   てた。「座」には活気があふれていた。
華女 その「座」での遊びが俳諧だったわけね。
句郎 そうなんだ。柳田國男が発見した「ハレ」と「ケ」で世界を分ければ、
   俳諧とは「晴」の世界で詠まれた遊びの文芸ではなく、「褻」の世界
   で詠まれた遊びが文芸になった。俳諧の「座」とは仲間ではあるが、
  「褻」の世界での仲間なんだ。「晴」の世界に出て来ると個人になる。

醸楽庵だより 13号    聖海

2014-11-27 10:30:06 | 随筆・小説

 
  草の戸も住み替る代ぞひなの家  芭蕉

「今日は私の人生で一番若い日なのよ」と施設に入所している老女が言った。
誰にとっても今日という日はその人の人生にとって一番若い日であるに違い
ない。今日という日は永遠に二度と巡ってくることはない。毎日、毎日、時
は過ぎ去っていく。
 月日は旅人だ、と芭蕉は言う。そうだ。月日は旅人なんだ。月日が旅人だ
から、人生は旅のようなものだ、ということになる。常なるものなんて何も
ない。無常。常無し。この無常の中に私たちは生きている。
 若かったとき、未来が輝いていた。体に力があふれ、この溢れた力の置き
所に困ったくらいだった。それが今、昔の若さはどこにいってしまったのだ
ろう。
 私に熱いまなざしをおくった男の子たちはどこに行ってしまったの、と昔
スーパースター、今もスーパースター、駅前に開店したスーパーの宣伝にや
ってきた往年のアイドル歌手は唄の合間にこんなことを言った。常なる若さ
を願っても若さは移ろい行ってしまう。常なるものを願いながら永遠に常な
るものはかなえられることがない。ここに生きる哀れがあると芭蕉は言う。
薔薇の花は魅惑的な香りを発し、華やかな色に今盛りなりと主張している。
この薔薇の花びらはボロ雑巾のようになって或るものは枝に付いたまま枯れ
果て、或るものはハラハラと散っていく。命あるもののあわれがここにある。
 人生とは無常なもの、この無常を歎くのではなく、この無常の中で無常を
生きる。これが芭蕉の旅というものであった。旅に生きるとは、無常に生き
ることであった。
 そんな芭蕉に手本を示した昔の人がいた。西行や宗祇である。空を見上げ
ると雲の千切れにも西行や宗祇が誘ってくれているように芭蕉は感じた。旅
立ちたくて、いてもたってもいられなくなってしまった。隅田川のほとりに
ある寓居を取り払い、旅立ちの準備に取りかかった。
  草の戸も住み替る代ぞひなの家  芭蕉
 私の住んでいた草庵にも誰か、知らない人が移り住み、三月が巡ってくる
と雛飾りをすることだろう。月日は無常そのものだ。
 無常に生きるために芭蕉は奥の細道への旅に出た。当時、今から三百年前
に東北への旅をするということは世捨て人がすることだという見解がある。
この見解は間違っている。芭蕉は世捨て人ではない。無常の世の中に無常を
受け入れて生きる世の道を芭蕉は選んだ。深く、深く無常の世の中を心に刻
む生き方をした。
 江戸時代、徳川幕府五代将軍綱吉の時代を深く、深く生きたのだ。お犬様
の時代である。人間より犬が尊ばれた。この時代を芭蕉は深く、深く胸に刻
んで生きたのだ。この時代を、この時代の社会を世捨て人として生きたので
はない。世捨て人として芭蕉が生きたのであれば、このように永く三百年後
のわれわれに訴えてくる力のある文章であるはずがない。
 かなえられることのない常あるものを求めることが平安・無事の一カ所に
留まる生活である、とするならそれは消極的な生き方である。それに比べて
芭蕉の生き方は積極的に世の中を生きるということであった。積極的に生き
たからこそ芭蕉はその時代を、社会を深く深く生きることができたのである。




醸楽庵だより   12号    聖海

2014-11-26 09:26:30 | 随筆・小説


侘輔 樽から搾った酒を杉の升で飲むのはなかなか乙なものだね。
呑助 どこで飲んで来たの。
侘助 うん、この間、落語を浅草に聞きに行ったんだ。演芸ホー
   ルに行く前にちょうど昼時分だったから藪蕎麦に寄ったんだ。
呑助 藪の「もり」は笊が盛り上がっているんじゃないの。
侘助 そうなんだよ。箸で三回も掬うと終わりなんだ。周りを見渡
   すとオヤジたちはみな「もり」を二枚注文していたよ。
呑助 それでワビちゃんも「もり」を二枚注文したわけね。
侘助 うん、そうなんだ。見渡すと樽がデンと据えられ、木の栓を
   抜いて杉の升に注いでいるじゃないの。升を乗せた皿にお酒
   がこぼれている。
呑助 酒飲みの情緒にワビちゃんは刺激されちゃったわけね。
侘助 うん、そうなんだ。「もり」が来る前に一杯と言う気持ちに
   なってね。それが二杯になっゃたわけなんだ。
呑助 もちろん、皿にこぼれた酒を升に注ぎ、舐めるようにして樽
   酒を飲んだわけね。俺も飲みたいな。
侘助 うん。みんな皿にこぼれた酒を升に注ぎ飲む。これが酒飲み
   の作法というもんだよ。
呑助 皿にこぼれた酒があると少し豊かな満足した気持ちになるよね。
侘助 そうだよ。それが男のロマンだと言った男がいたよ。
呑助 店の客に対する優しさのようなものが皿にこぼれた酒にあるよ
   うに感じるのかも知れないね。
侘助 確かに客がその店を好きになるきっかけになるように思うね。
呑助 日本の文化なんて言っちゃ大げさ過ぎちゃうように思うけど、
   かっちりしているのが欧米の文化だとしたら、日本の文化はす
   こし遊びがある。この遊びが皿にこぼれた酒にはあるように思う。
侘助 ノミちゃん、凄いことを言うもんだね。この皿にこぼれた酒を
   日本で見たイギリス人が国に帰り真似をしたのではないかとい
   う話を聞いたことがあるよ。
呑助 皿の上にコップを置き、溢れるばかりにウイスキーをコップに
   注いだの。
侘助 いや、違う。イギリス人の嗜好品は紅茶だろう。紅茶のカップ
   は受け皿のソーサーの上に乗せて注ぐ。日本人はソーサーにこ
   ぼれないように紅茶をカップに注ぐけれどもイギリス人は紅茶
   をカップに注ぎ、ソーサーにこぼす。
呑助 小皿にこぼれた紅茶を日本人のようにカップに戻して飲むの。
侘助 そうじゃないんだよ。カップに注がれた紅茶をソーサーに空け、
   そのソーサーに口を付けて紅茶を飲むようだよ。
呑助 へぇー。本当ですか。紳士の国、イギリスでそんな無作法な紅
   茶の飲み方をしているんですかね。
侘助 日本の文化では無作法でもイギリスでは無作法ではないのかも
   しれない。イギリスには二つの国民がいるというね。働く国民
   と働く者を管理する国民がいる。この二つの国民は交わること
   決してない。イギリスに留学した角山榮という歴史学者が「辛
   さの文化・甘さの文化」という本の中でイギリスの労働者たち
   の紅茶の飲み方を見て、紹介している。
呑助 なるほどね。

醸楽庵だより   11号       聖海

2014-11-25 11:17:00 | 随筆・小説
 
 忍ぶれど色に出にけり盗み酒    詠み人知らず

「お酒飲んできたの」
「いや、飲んでいないよ」
「今日は、事務連絡だけだったよ」
「誰と飲んできたの」
「だから飲んでいないと言ったじゃないか」
「駅前の飲屋ね。一人で飲んできたの」
「うん、赤提灯に誘われてね、ついふらふらと暖簾をくぐったんだ」
「何杯、飲んだの」
「軽く、一杯だよ」
「つまみは何を注文したの」
「おでんを二つぐらいかな」
 家を建てた頃、こんな会話を家内としたことがある。家内は今でも千円札一枚を持ってスーパーに行ったというような話をする。私も持ち金がなく、飲み会を断ったことがある。不思議と惨めではなかった。

 論語孟子を読んでは見たが酒を飲むなと書いちゃない  詠み人知らず

 アルバイトの金が入るとあらかた使って二日酔いになった。試験の前日でも友だちがいると酒を飲んだ。酒を飲んでは政治と哲学を語った。最後は堕ちた話になった。政治や哲学の話には何のリアリティーも無かった。ただ互いに解ってもいない知識を披瀝しあっただけだった。ただ妙に堕ちた話は現実的だった。友だちと張り合ったガード下の飲み屋の娘とデートしたというような話を聞くと悔しかった。どこまでしたんだとしつこく問い詰めた。

 酒飲みは如何なる花の蕾やら行く先毎にさけ、さけ、という

若かったころ、職員旅行に行った。東海道新幹線に乗って京都に行った。新幹線に乗ったと同時に早速酒盛りが始まった。周りには酒を飲んでいる人は一人もいなかった。六人掛けのところは特に賑やかだった。私もその中の一人として缶ビールを飲み、その後、一升瓶から酒をついで飲んだ。車窓から朝日に映える富士山を眺めながら酒を飲んだ。京都に着き、南禅寺で豆腐を食った。その時も酒を飲んだ。街中の旅館に入り、風呂に入って宴会をした。宴会が終わると初めて先斗町のバーにいった。そこではウイスキーの水割りを飲んだ。先輩職員が職員研修旅行の下見で開拓したところだと言っていた。その同僚は帰り際、ホステスさんと軽いキスをした。畜生、面白くねぇー。持てない男同士で飲み直した。翌日、朝食が終わると解散だった。私は一人奈良に向かった。中学時代の友を訪ねたが会うことはできなかった。

腹がたつときゃ 茶碗で酒を 飲んでしばらく寝りゃ直る

 言うこととすることが違う同僚先輩に指導されたときほど腹が立ったことはない。言い返せなったことが悔しくて同輩と二人、飲み屋に繰り出し、茶碗酒など飲んだことがある。ママさんがよく話を聞いてくれた。それで一晩寝れば元気になった。毎日、毎日、勉強に忙しかった。苦しかった。人の前に立ち話をして、初めて何も知らないことを知った。漢字も満足に書けないことが分かった。いつになったら楽になるのか、皆目検討が付かなかった。十年が過ぎても仕事は少しも楽にはならなかった。

醸楽庵だより  10号    聖海

2014-11-24 12:29:51 | 随筆・小説

 小林多喜二が表現した現実社会の地獄とは何か         聖海

 はじめに

 定年後、初めて小林多喜二全集七巻を私は読み通した。資本主義社会の矛盾が
社会の最底辺に赤裸々に現れる。そこに生きる人々の世界は生き地獄である。
 小林多喜二はマルクス主義を学び、この世の地獄を発見した。

 1

 二〇〇八年、白樺文学館多喜二ライブラリーは「私たちはいかに『蟹工船』を
読んだか」という「蟹工船」エッセーコンテスト入賞作品集を発行した。大賞を
受賞した「二〇〇八年の『蟹工船』」を書いた山口さなえさんは書いている。

  小林多喜二が描いた時代から遥か遠くにいるというのに、現代の日本社会の
不気味な搾取構造は変わっておらず、(中略)多喜二が描いた世界は、…「終わ
った歴史」であるのに、汚物の生臭さが漂ってくる労働現場、拷問が繰り返され
る労働、…、私が日々目にし、耳にしているソレに違いなかった。(二九ページ)

 蟹工船の世界は現在の派遣労働者、特に原発派遣労働者の中に日々再現、拡大
している。新自由主義を唱える国、政府は蟹工船の世界を拡大・普及させている。
日本国は弱者の中に「もう一つの日本」を作り出し始めた。富者・強者の日本と
貧者・弱者の日本である。
 ゲートに守られた街に住む富者と原っぱに追い立てられる貧者たちである。
 多喜二エッセーコンテストに応募した笹井良太さんは「社会主義の『翻訳者』」
の最後で「時代はかわったが、多喜二の理想は死なない。まだまだ多喜二の役割
は終わらない」と書いている。多喜二の精神は貧者・弱者の心に沁みていくのだ。

 2

 小林多喜二は「蟹工船」を次のように物語り始める。

 「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」

 「蟹工船」の世界は地獄である。地獄に日本の国民が追い立てられていく。
多喜二はどのような世界を地獄だと考えたのだろう。定本 小林多喜二全集 
第十二巻にある小樽高等商業学校の校友会々誌の編集後記のみを集めた「編纂
余禄」の(五)に次のような文章がある。

  学校は地獄である。
  ―地獄とは、現在を過去からの連なりであると考えるということである。
人の考えを自分の考であるとすることである。

 これは多喜二の一九二四年三月発行第三二号の編集後記である。
 創立間もない小樽高等商業学校は当時の最先端の学問を学ぶ高等教育機関で
あった。学校には自由が満ちていた。その学校を地獄だと多喜二はいう。多喜
二はマルクス主義を学び学校は学生を支配の道具にする機関であることを見抜
いた。学校は生徒の心を殺し、国や政府の考えを自分の考えにするところであ
ると多喜二は実感したのだ。
 学校とは学生に教養を身につけさせ、人間性を養い、人格を磨くところでは
ないことを見抜いたのである。
 今も学校は生徒・学生にとって地獄であることに変わりはない。一九七五年、
十二歳になった作家・高史明の子息が自殺した事件があった。その後、小学生
や中学生の自殺事件が数多くある。学校が地獄であるからこそ小・中・高生の
自殺事件が起きる。子供たちが自分で自分を殺しているのだ。学級が崩壊する。
授業が成り立たない。小学校でさえ、授業が成り立たない。中・高にあっては
教育困難校という言葉がまかり通っている。高校や大学にあって授業中、お化
粧する女子生徒や女学生の姿は普段の風景になっている。
 生徒・学生たちは授業・講義を拒否している。教室が生徒・学生にとって地
獄なら、教師にとっとてもまた地獄である。

 3

 小説「瀧子其他」の中で遊郭に来た客同士が次のような会話を交わす。

「所が、君の、その男の性慾のNecessaryevilというのが、実のところこの今の
社会制度のもとではNecessary evilであることを知らないんだ。」
「だが、君、どの本にだって、淫売がギリシアの昔から今迄何千年も続き、 
又これからもなくならないだろう、と書いてあるよ」
「が、そこだよ。それはそれらの社会のそういうのを生まなければならなかった
根拠を見ないからさ。 ―今迄の搾取と貧窮を土台として立っているこの社会制
度が撤廃されたら、その時こそ、歴史の所謂全前史はその幕を閉じることになる
んだ。そして本当の自然な、自由な社会がくる。あらゆる旧来のものはでんぐり
返りをやる。」(定本 小林多喜二全集第二巻六一頁~六二ページ)

 「男の性慾のNecessary evil」とは男の自然には必要悪があるということか。
男の自然が悪であるのは「今の社会制度のもと」に男の自然が歪められているか
らだ。その結果、男の自然が悪になっているのだ。こう多喜二は言う。
「淫売がギリシアの昔から今迄何千年も続」いているから「これからもなくなら
ない」。男の性慾が自然なものである以上これからも存続していく。男の自然が
現在の社会制度の下で歪められ、男の性慾が悪となっているから淫売は存在し続
けている。ここに問題がある。男の自然が悪になっているところに多喜二は女の
「地獄」をみる。「男の性慾のNecessary evil」が淫売を生む。この現実は今の
社会にあっては合理的な説明である。がしかし今迄の搾取と貧窮を土台として立
っているこの社会制度が撤廃」されたら「男の性慾のNecessary evil」、男の自
然が自然そのものになる。男の性慾は「Necessary evil」ではなくなる。だから
淫売はなくなる。これが多喜二の主張なのだ。
 「現実的なものは合理的なものである。合理的なものは現実的なものである」。
ヘーゲルは「法の哲学」の中でこう述べている。こう述べることによって今、現
実に存在しているものを合理的なものであるとして肯定する。このヘーゲルの主
張に対してエンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で今までの哲学者は世界を
解釈したが大事なことは世界を変革することだと主張した。
「―今迄の搾取と貧窮を土台として立っているこの社会制度が撤廃されたら、そ
の時こそ、歴史の所謂全前史はその幕を閉じることになる」という遊郭に来た客
のこの言葉はマルクスの「経済学批判序説」にある言葉、「ここに人類の全前史
は終わり、本史が始まる」と同じである。
 多喜二は一九二八年三月二日に「瀧子其他」を書き終わっている。その一年前
の同じ日の日記に多喜二は「マルクスの資本論を読み出している」と書き、三月
八日の日記には「『資本論』はあまり難解なので、マルクスの『経済学批判』の
方にとりかかったが、やっぱりわからないところが沢山ある。『序説』の『経済
学の方法』という処には参った」と書いているが、驚いたことに三月十三日の日
記には「資本論の第一篇を読了」と書いている。資本論第一篇「商品と貨幣」の
ところを十日余りで読了したとは凄い集中力だ。さらに四月二十七日の日記には
「エンゲルスとマルクスの『フォイエルバッハ論』を読了した。エンゲルスのも
のに得るところが多々あった」と書いている。多喜二は資本論第一篇、経済学批
判序説、フォイエルバッハ論をすでに読んでいたのだ。
蔵原惟人は「小林多喜二の現代的意義」の中で書いている。

 小林多喜二は、この解放の道をマルクス・レーニン主義のうえにたつ革命運動
のうちに見出し、みずから身をもってその運動の中にはいってゆくとともに、文
学の中にそれを実現しようとしたのである。この意味で彼ほど思想的な文学はこ
れまでの日本の芸術文学の中にはなかったということができる。

 小林多喜二の文学は思想的な文学なのだ。思想的な文学であるがゆえに二十一
世紀の現在にあっても力のある文学になっている。
 文学作品に限らず現在芸術作品と言われている過去のあらゆる芸術作品は大衆
に何かを伝える手段として機能した。仏教にあって仏像が作られるようになった
のは仏教の教えを広めるための手段だった。
 多喜二は奈良に志賀直哉を訪ねたことについて江口渙と話をした。その時の話
を江口渙は証言している。志賀直哉は多喜二を博物館へ案内した。仏像を見なが
ら多喜二が、時代のイデオロギーの違いによって仏像の表現形式も違ってくるの
だというと、志賀直哉はイデオロギーというのはそういうものかと考え込んでし
まったという。(『蟹工船』の社会史、一五〇~一五一頁、浜林正夫著)
 奈良の国立博物館に行くと興福寺の天平時代の仏像、阿修羅像がある。これら
の天平仏と運慶らの鎌倉仏では支配思想としての仏教が大きく違う。その違いが
仏像表現に出ていることを多喜二は感じた。仏像はすべて仏教思想を表現したも
のである。その中に芸術作品になっているものがある。
 文学もまたすべて何かの思想を表現したものであろう。その思想には政治的な
主張が隠されている。多喜二の文学は政治的主張を持った思想的文学である。
小林多喜二は志賀直哉を尊敬していた。志賀直哉を真似て小説を書き始めたとも
言えるようだ。その多喜二が一九二六年十月九日の日記に書いている。

 志賀直哉の(中略)何度読んでもいゝ。然し俺は(書いている自身だ)断然、
いゝかい断然だよ!、志賀のカテゴリーのうちから、出ることだ。俺が志賀らし
く書けば、あくまで志賀より出れないんだ。ところが、俺は志賀以上、ストリン
ド以上、ドスト以上になろうと思う、その俺が一志賀の下にいることは断然、勿
論断然!、のがれなければならない。

 多喜二は志賀直哉の文学を越えた新しい文学を創造しようとしていた。さらに
一九二七年七月十二日の日記には次のように書く。
 志賀直哉の「山科の記憶」を全部読んでみたが、心を打たれるようなものがな
かった。形式と内容は「文芸」に於いては不可分離にあるものだ。志賀直哉の超
社会性は、その文芸的基礎を乾す結果になることを意味し証明しているようだ。
「志賀直哉の超社会性」とはどのようなことを意味しているのか、判然としない
が、現実の社会から遊離しているということだろうか。現実から遊離した世界を
描いていると「その文芸的基礎を乾す」すなわち描いている世界が干からびたも
のになる。このような意味だろうか。多喜二は日々移り行く生き生きとした現実
を描きたい。人民が日々何を食べ、どのような所で生活し、いかに生活費を得て
いるかという具体的現実の中に人間を表現したいと考えていた。志賀直哉のいつ
かは干からびるリアリズムではなく、プロレタリア・リアリズムを実現すること
が目的であった。

 4

 短編「人を殺す犬」の印象が強烈だ。多喜二は一九二七年三月二日の日記に書く。
 高商の校友会々誌に出した「人を殺す犬」は、あまり残酷なので出せない、と占
部教授が云ったそうだ。これを出す出さないなんて、些々たることだ。出したから
って、出さないからって、「現実にある」事実をどうする積もりだ。
 多喜二はこの小説を後に「監獄部屋」として改作している。この監獄部屋とはタ
コ部屋のことである。この現場を多喜二は見て知っていた。小樽・若竹町の多喜二
の自宅のそばにタコ部屋があった。三浦綾子は小説「母」に書いている。大正五・
六年ごろ、多喜二が子供だったころ、タコ部屋から逃げ出した土工が助けを求めて
多喜二の家に来たことがあった。タコ部屋から逃げ出した土工が棒頭に捕まると言
葉に絶する折檻を受ける。その悲鳴をあげる声を多喜二は聞いていたのだ。最後に
見せしめとして土工たちの目の前で血だらけになって逃げていく土工に獰猛な土佐
犬をけしかける。タコ部屋を逃げ出した土工は犬に食い殺される。このような現実
が一九二〇年代の小樽にはあった。多喜二は怒りをこめて書いている。「『現実に
ある』事実をどうする積もりだ」と、「人を殺す犬」が校友会々誌に掲載されなく
ともこの現実をなくすることはできない。
 タコ部屋のような存在は北海道だからこそあるのだという認識が一九二六年の多
喜二にはあった。北海道は日本の中心地東京の植民地だからタコ部屋があるのだと
気づく。多喜二は「蟹工船」の中で書いている。
 内地では、労働者が「横平」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓され
つくして、行き詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鈎爪をのばした。其
処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白いほど無茶な「虐使」が
出来た。
 「内地では、労働者が『横平』にな」る。権利を主張する。その結果、歴史は不
均等に発展する。人間の権利が伸長する中心部がある一方で権利が奪われる周辺部
がある。
 自由民権運動は中心部の一部の者に市民的自由を実現するが周辺部の植民地にあ
っては古い前時代的制度が復活・強化されていく。北海道の開発や鉄道敷設、開港
はタコ部屋奴隷労働の普及であった。
 北海道のタコ部屋制度は囚人労働から始まり、前貸金によって労務者を縛る出稼
ぎ労働と前時代の奴隷制度が合体して復活したものだった。タコ部屋は地獄である。
自分を日々殺すような生き方しかできなかった。地獄を作り出すことが北海道の開
発であった。
 資本主義が侵入してくる北海道に暮すということは地獄の周辺部に生きるに等し
かった。この一九二〇年代の北海道の現実を表現したものが多喜二の文学なのであ
る。

 5

 大正十五年九月九日の小樽新聞には次のような記事が掲載された。
 蟹工船博愛丸の虐待事件この世ながらの生き地獄、ウィンチに雑夫を吊し上げて
嘲笑ふ鬼畜にひとしき監督 眞に聖代の奇怪事
 「蟹工船」に描かれていることが現実にあった。多喜二は次のような嗜虐的な暴
力は描いていない。脱脂綿を労働者の肌に貼り、そこに点火する、ロープで縛って
ウィンチに長時間吊るす、頭部・耳部を鉄製磁石で強打するなどの残酷な暴力であ
る。多喜二が「蟹工船」で表現したかったことは悲惨な労働現場を表現することで
はない。このような暴力を辞めさせるために立ち上がった労働者たち、母港に帰っ
た労働者たちが監督らを訴える運動を共に闘うために多喜二は「蟹工船」を書いた。
一九二九年九月 雨宮庸蔵宛手紙に多喜二は次のように書いている。
 小作人と貧農には、如何に惨めな生活をしているか、ということが問題なのでは
なくて、如何にして惨めか、又どういう位置に、どう関聯されているかが、(彼等
自身知らずにいることであり)それこそ明らかにしなければならない第一の重大事
であると思う。
 蟹工船に働く労働者がいかに惨めな生活を強いられ、残酷に管理されているかで
はなく、なぜ、どうして、惨めな生活を強いられ、残酷に管理されねばならないか
を労働者本人が分からないことを表現しようとした。それは北海道・国内植民地に
おける搾取の典型を表現しようとしたのである。だから「蟹工船」の最後は次のよ
うな文章で終わる。

   ――この一編は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

 多喜二は植民地について強い関心を抱いていた。「東倶知安行」の中に次のよう
なシーンがある。

 春と秋――冬、北海道の大抵のどの汽車の中でも、私達は十人、二十人の朝鮮人
の群を見ることができる。プロレタリアは故郷を持たない。その標本が朝鮮人だっ
た。そして更にそこに民族的な**関係が入り込んで、文字通り彼等は「故郷」の
代わりに「風呂敷包」一つを何時でもブラ下げて移り歩いている。しかも、労賃が
日本の労働者よりも安いところから、日本のプロレタリアは朝鮮人に団結の手を差
出す代りに「敵」だとさえ感ずる。アメリカの労働者が日本の移民を敵視したよう
に。
 日本の本土で生活できなくなった農民たちが開拓民として北海道に渡った。多喜
二の両親も奥羽鉄道が開通するまでは日銭を稼ぐことができたが、鉄道の開通によ
って商品経済が侵入すると今迄自然経済で成り立っていた生活ができなくなる。や
むなく故郷の農村を捨て、北海道・小樽に仕事を求めて移って行くことになった。
 日本では日清・日露の戦争を通して産業革命が進み、商品経済が普及していった。
多喜二が生まれたのは一九〇三年である。その直後の一九〇四年に日露戦争が始ま
り、〇五年に終わる。当時の日本では重工業が成立しつつあった時代である。この
時代は農村を追い出された人々が都市に集まり、スラムが形勢されていった時代で
もある。
 マルクスは都市に労働力を売る以外に生活することのできない人々が出てくるこ
とを「資本の原始的蓄積」といっている。労働者の誕生のことである。
 明治政府は北海道拓殖銀行という半官半民の銀行を作り、北海道に資本主義経済
を普及した。その結果、北海道は日本の植民地になった。植民地に働く人民は地獄
の中に抛り投げられた。地獄の中で植民地の開発は進んだ。その植民地の開発が同
時に資本主義の侵入である。マルクスは資本論第一巻の中で「資本は血と汚物にま
みれて生まれてくる」と言っている。まさに「蟹工船」の世界である。蟹工船の労
働者は血と汚物にまみれて働いている。こうして労働者は生まれてくる。
資本主義という経済の仕組みは絶えず植民地を作り出していく。生物学者のヘッケ
ルが「個体発生は系統発生を繰り返す」という生命反復説を唱えたように資本主義
の発展は植民地を絶えず作り出す。二十一世紀高度に発達した日本資本主義は日本
国内にフクシマという植民地を作った。開沼博は「フクシマ論」の中で述べている。
 戦後政治が地方を服従させることによって復興・高度成長・GNP・GDP伸長
を計画した当初から、福島はフクシマに向かって、中央の「原子力村」は地方の「原
子力ムラ」を弄ぶことに向かって、一種の国内コロニアリズムのようなものが始まっ
ていた。 
 貧しい、痩せた農地の福島は東京に電力を供給する植民地になっていった。「原
発をおきたい中央と原発をおかれたいムラが共鳴し強固な原発維持の体制をつくっ
た」。中央は地方の自治的な組織を解体し、中央の意向を受け入れるムラをつくっ
た。このムラは植民地以外の何ものでもない。そこに働く労働者は原発ジプシーと
呼ばれ、原発から原発に渡り歩く。放射線という地獄の中で働いている。現在の福
島原子力発電所はまさに現代の「蟹工船」である。
  「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」
 と、今のフクシマ原発に働く労働者たちは言っている。どのくらいの労働者が死
んでいるのか、労働者たち自身も知らされることがなく、今日もまた原発労働者た
ちは宵越しの金を持たずに昨日の酔いの残った体で福島原子力発電所の事故現場に、
命を削る地獄にむかって、「おい、地獄に行くとするか」と下請け会社のバスに乗
る。


醸楽庵だより   9号     聖海

2014-11-23 12:46:35 | 随筆・小説
 
 歌手 浅川マキ死亡記事を読み、2010年2月13日に書く。

 かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。浅川マキの歌声が耳に残っている。
 浅川マキの死亡記事が新聞の三面記事に小さく載った。まだ歌っていたんだ。
「夜が明けたら、一番早い電車に乗るから、切符をちょうだい」。私が学生だっ
た頃、心に沁みた歌だった。窓を開けたまま着替えする女に胸の内を明かすこ
とができない。その女の部屋のドアを叩いた男がいた。成り上がりの男は胸い
っぱいのバラを抱えて女の部屋のドアを叩いた。嫉妬に狂った男は女の胸に真
っ赤な血の薔薇を咲かせた。かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。石川県白山
市近傍の漁師町で実際にあった話を浅川マキは歌ったのかもしれない。歌を聴
いたとき、私はカルメンのような妖艶な浮気な女に恋をした悲しい男を想像し
た。その男の哀しみが胸に沁みたのかもしれない。そんな人間の哀しみを黒い
服をまとい黒い帽子を被りハスキーな声で軽く歌った。軽快な低い声に心がこ
もっていた。
 夜が明けたら、この街を出て行こう。一番早い電車に乗って、あの街はいい
街だから。 
 こんな日本にいたくない。ヨーロッパに行こう。そこは良いところだから、
船に乗って日本を出て行こう。こんな気持ちが当時の若者にはあったように思
う。一九六八年、七〇年安保闘争が燃え上がっていた頃、浅川マキは「かもめ」
「夜が明けたら」という歌でレコードデビューした。
 その頃「書を捨て街に出よう」という本を書いた人がいる。寺山修司である。
この本が私の仲間たちの間で評判だった。私は読まなかったが友人の批評が心
に残った。「寺山は書を捨て街に出よう、と云っているけど街で何をしたらい
いのか、何も言っていない」。勉強を止して街で何して遊んだらいいのか分か
らない。大学解体を叫んだ学生たちがいた。大学を解体して何をしようという
のか、分からなかった。寺山修司もその流れの人だと感じた。だから私は興味
も関心も寺山修司に抱かなかった。がしかし、この寺山修司に浅川マキは見出
され、歌手になった。私は職を得て、しばらくたって、新聞の「折々の歌」欄
で寺山修司の短歌を知った。「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの
祖国はありや」。この短歌を読み、寺山氏への印象が変わった。「祖国」とい
う言葉に権力を私は感じた。「祖国」を自分のものにしたいと思ってもその
「祖国」は海の霧が深くてつかの間見えてもすぐ見えなくなってしまう。そう
だ。まったくそうだ、と感じた。寺山修司と浅川マキ、私が学生だった頃、若
者の心を捉えた人だった。浅川マキは享年六七歳だった。前日まで名古屋で演
奏会に出演し、最終日の前日、投宿していたホテルで心不全のため亡くなった。
湯船に顔半分つけたままだったという。

 みんな夢 木枯し吹いた 独りの夜   聖海
   
 70年安保、全共闘が暴れまわった時代はすべて夢のような出来事だった。本
当に馬鹿なことをしたもんだ。私は一人、哲学書を毎日、毎日少しづつ読み進
め、論文を書く準備をしていた。その頃、独りっきりだった。浅川マキの死は
その頃のことを思い出させた。暗闇の思い出だ。




  

醸楽庵だより  8号   聖海

2014-11-22 14:20:01 | 随筆・小説
 俳諧の「軽み」とは

  道のべの木(む)槿(くげ)は馬に食われけり  芭蕉


 「野ざらし紀行」に載っている句の一つである。この紀行文の最初の句が有名な「野ざらしを心に風のしむ身かな」である。旅に死ぬ私の髑髏(されこうべ)が野ざらしになっていることを想像すると心の中に吹く秋風が冷たく寒い。旅に生き、旅に死ぬ覚悟を詠んだ句である。時に芭蕉四十一歳、貞享元年(1684)、元禄時代の直前である。こんなに重い覚悟の句の直後に芭蕉は馬上吟の句、「道のべの木槿は馬に食われけり」と詠んでいる。この句が「軽み」を表現した句である。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」、この句はとても重い。死ぬ覚悟ができると心が軽やかになったのであろう。すべての柵(しがらみ)から解放され、後ろ髪引かれるものが無くなったのであろう。日常普段に眼にするものをそのまま表現する。卑近なものであっても卑俗にならない。ここにこの句が軽みを表現していると言われる所以がある。モーツアルトの音楽の軽快さに共通するものがある。
 芭蕉と曽良、他の門人たちは深川の芭蕉庵から隅田川をさかのぼり千住で船をあがる。門人たちは芭蕉と曽良の後姿が見えなくなるまで見送ってくれた。そのときに詠んだ句が「行春や鳥啼魚の目は泪」である。なんと後髪の引かれる思いであったことでろう。門人たちは皆、目に泪をたたえ、別れを惜しんでいる。それはもう二度とまみえることがないだろうという不安を抱えていたからである。芭蕉たちもまた振り返ることもなく足早に後姿が小さくなっていった。
 このような重い別れであったのに比べて「奥の細道」最後の句「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」、大垣に駆けつけてくれた門人たちとの別れを詠んだ句はなんとも軽い。大きな旅を無事終えた芭蕉にとっては身も心も軽くなっていたことでろう。そんな気持ちの軽さが表現されている。ここにも軽みがある。
 将来を背負ったときには荷の重さが心を占める。人生の歩みが始まってしまえ
ば心は軽くなるものなのかもしれない。忙しい毎日が過ぎていく。その忙しさに人間は楽しみを見出していく。歩く足裏の痛みもいつしか笑いの種になる。日射しの暑さに咽の渇きを覚えることがあったても井戸水で咽を潤す喜びがある。風の音に秋の訪れを感じる寒さがやってきても迎え入れてくれる門人たちのぬくもりに癒される。雨に濡れる冷たさはあっても見飽きることのない景色を心にとどめていく楽しさは今、生きているという実感があったであろう。
 テクテク歩く旅を通して芭蕉は人間の本質を究めた。その人間の本質とは重く悩み苦しむことではなく、生活を楽しむ軽さにあると気づいたのである。
 生きる苦しみにではなく、生きる楽しみに人間の本質はある。老いの苦しみに老いの本質があるのではなく、老いの楽しみに人間の本質はある。
 死ぬ危険性をたたえた旅を真正面から受け入れたとき、実感をもって知った人間の本質であった。この現実を肯定的に受け入れることによってこの現実を変える力を得るのだ。

醸楽庵だより  7号(短編小説)    聖海

2014-11-20 14:34:42 | 日記
一振の夜   
                  聖海
 1 古池や蛙飛びこむ水のおと
 貞享三年弥生(西暦1686年4月20日前後)の名残が残る小名木川の川辺には蕗の薹が頭をだし、タラの芽を青葉がおおっている。堤には鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂り、その中に人が踏みならした一本の細い道が続いている。その道に小糠の雨が降りしきっている。
笠を被り、蓑を着た仙化はその道を足早に歩いていく。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな家が望める。そこが仙化の訪ねる先である。そこは小名木川と土地の者が大川と呼びならわしている隅田川とが合流する場所の手前にあった。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に芭蕉は挨拶をした。
「師匠から蛙を季題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかとのお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたからね」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさいくらいでした」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めましたね。農民にとって春は一刻を争う時節ですからね」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。仙化は目で其角と挨拶を交わし、其角の隣に座った。そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。
座布団に座った仙化を見て芭蕉はいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける』ですからな」
「われわれ俳諧をする者にとっては蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはいきません」
仙化は芭蕉の言葉に応えた。
「確かに、確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか決まらなくもがいているところです。上五に苦しんでいます」
 芭蕉の話を聞いていた其角が突然いった。
「師匠が先ほどいっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょう」
 其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら静かに言った。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですね。山吹では私の俳諧にはならないように思うのです。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。京の井出の玉川で鳴く河鹿蛙を詠んだ歌だったと思い起していた。玉川とはどんな山間(やまあい)の川なのだろう。京に行ったことのない仙化は想いめぐらした。山吹が川の上におおいかぶさり透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)を思い浮かべ、川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴くという河鹿蛙を思った。誰が詠んだのか、忘れてしまったが古今集にある歌を思い出そうと心を籠めていた。すると芭蕉がいった。
「仙化さん、古今集の歌を思い出そうとしているのですか」
「そうです。『ゐでの山吹……』という言葉は出てきたのですがね……」
仙化の言葉を聞いた芭蕉はいった。
「『かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにおはまし物を』でしょうかね」
「そうです。そうです。蛙と山吹を詠んだ歌でした」
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』では俳諧ではないですね」
 仙化の言葉に芭蕉はいった。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声ですけれども、私が詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるのですよ」
 すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』、芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まずにいることはできませんからな」
と、其角はニヤリとして句を読んだ。仙化はまだ句が詠めていなかった。芭蕉は静かに決まった言葉を発見したかのようにいった。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』。みなさん、いかがでしよう」
 仙化は師匠が詠んだ句を心の中で繰り返し、気になったことを師匠におずおずと尋ねた。
「古池」と「水」、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしようか」
 芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、ただ一言、「や」は切字ですとのみ応えた。仙化は去来に芭蕉が述べたという言葉を思い出していた。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」。こう芭蕉は去来に述べたと伝え聞いていた。こういわれている以上、仙化はさらに問うことをためらった。仙化は自分が詠まなくてはならない句に没頭した。師匠の句を聞き、突然睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだ。「いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉」。仙化はさらさらとこの句をしたためた。
 芭蕉は切字「や」の働きを弟子たちに教えなかった。これは教えるものではない。弟子たち一人一人が句を詠み、自分のものにしなくてはならない。
其角はこの「蛙合」で詠んだ芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水のおと」を味わい、師匠は風雅の誠を詠むことに成功したのではないかと漠然と感じていた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)がある。このことに其角は気が付いた。「古池」と「蛙飛びこむ水のおと」とは全く別次元の言葉なのだ。二つの別次元の言葉ですよと言っている言葉が切字「や」なのだと其角は悟った。「古池」と「水」、同じような意味をもつ二つの言葉ではあるが「古池」と「水」はそれぞれ別の次元での言葉であるから同じ言葉を重ねていることにはならないのだ。このように其角は納得した。この句は「古池に蛙が飛びこみ水の音がした」という句ではないのだと、其角は漠然と思っていたが、切字「や」の働きに気付いてからははっきりと「古池に蛙が飛びこむ水の音」という句ではないと其角は考えるようになった。師匠の芭蕉は芭蕉庵の部屋の中にあって蛙が水に飛びこむ音を聞いた。このとき、実際には何匹もの蛙が水に飛びこむ音を聞いたはずだが、「古池や」と詠んだ瞬間、飛びこんだ蛙は一匹にちがいない。水音はポチャンと一つきりなのだ。それが切字「や」の働きなのだ。この音に刺激された師匠の心に昔見たような古池の姿が浮かび上がった。「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句は閑寂な師匠の心象風景を表現した句なのだとわかるようになった。
数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角にいった。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしよう」
「それは面白い企画ですね」と其角は応える同時に仙化に問うた。
「仙化さん、師匠の句『古池や蛙飛びこむ水のおと』は何を詠った句だとおもいますか」
「古池に蛙が飛びこみ水の音がしたというだけでは師匠の句にはならないように感じているのですがねー」
仙化が其角に応えると其角は胸を反らし、いった。
「そう思うでしょう。仙化さん、師匠のいう切字の働きが分かりましたよ。師匠は切字とは切ることと言っているのです。切字の働きとは間(ま)を設けることだといっているのですよ」
「あっ、そうですか。それで分かりました。其角さん、ありがとうございました」
「分かりましたか」
「はい、分かりました。芭蕉庵に一人でいる静寂な心内を師匠は詠んでいるのですね」
「そうですよ。そうなんです」
と其角は仙化に応えた。


一家に遊女も寝たり萩と月  芭蕉

 芭蕉庵で蛙合をしてから三年後の元禄二年三月二十七日(西暦1689年5月16日)、千住から芭蕉と曾良は「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、越中路にさしかかっていた。七月十二日(西暦1689年8月26日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能生川に至った。能生川は徒歩(かち)歩きで渡る。水量は多く、水勢は強く、早い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩歩きの早川が間近に迫ってきた。山間から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまってすまないね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉は言った。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまいました」
「何か、新しい風雅があるように感じているのですか」
「何か、生まれてきているように思うのですよ。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますよね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。平易な我々が日常使っている言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと私は考えています」
「曾良さん、そうなんですよ。その風雅が寂びの心であり、侘びの心でしょうか」
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしようか」
「何か、そのような風雅のあり方があるように感じられるのですよ」
「古池やの句で詠まれた風雅をさらに深めた風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
「そうだといいのですがね。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参りましたからね」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのですよ。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのですよ」
「なるほど。一振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですね」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのですがね」
 曾良と話しながら、天和二年十二月二八日(西暦一六八三年一月二五日)に起きた江戸の大火を芭蕉は思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」貞享三年(西暦一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。年も押し迫った十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。この大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに芭蕉は励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものが俳諧だと芭蕉は感じていた。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは笑っていた。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅あることを見つけ始めていた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
 芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
 断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。夕飯も早々、疲れ切っていた芭蕉と曾良は枕を並べて早々に床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に若い女二人のすすり泣くような声がかすかに隣の部屋から聞こえてきた。何を話しているのかわからないが若い女二人の声に誘われて尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向っていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見ていると眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は一振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かに言った。
「よろしゅうございます」
 年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くとそれは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。言われたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のようにあたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身をひさぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけて生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
 朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
 一家に遊女も寝たり萩と月
 昨夜の出来事は夢幻のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
 「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わかりません。女二人だけでは心細くてしかたがございません。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうございます。どうか、お許しくださいませ」
 芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
 「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃいます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私どものような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけのうございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきとうございます」
 涙を落とし、すがるように女は言う。女の願い事を聞いている芭蕉に変わって曾良が答えた。
 「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまた言った。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)が俳諧なのだと芭蕉は感じ始めていた。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと芭蕉は心の中で遊女たちに言っていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきましたよ」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんですとも」
 こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれまたね。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節を私は思い出していたのですよ」
「そうですか。だから、浮世を生きる人に問うているのですね」
「そうなのですよ。『猿を聞く人』と問うてみたのです。この世を見なさいとね」
「なるほど、猿の鳴き声ほど悲しく、哀れなものはないですからな」
「小猿を殺された母猿の腸は破れていたという故事があるほどですからね」
「師匠はまず浮世の人に問い、さらに古人に問い、自分に問うているのですね」
「曾良さんはそんなふうにこの句を読んで感じてもらえましたか」
「自分に問うて、江戸町人のように大火に焼け出されても、誰を怨むことなく笑って生きていく姿に風雅の目指す道があるように感じているのですがね」
「師匠のおっしゃる通りです」
「そうなのです。私どもにゃ、何もできゃしません。この世の春を謳歌する唐の詩人たちや、古人の歌人たちにこの世の無慈悲さを問うことしかできません」
「この世に生きる歓びを詠う詩人や昔の歌人に問うことは今の自分に問うことなのですね」
「そういうことになりますかね」
「師匠はそれだけではなく、今日の自分の昼飯を投げ与えたじゃありませんか」
「私はね、捨てられた子の天命を信じているのですよ」
「わしも信じといます。師匠が詠んでいるように、母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「この世が浮世でないはずがない。そうじゃないですか。曾良さん」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの天命も信じているわけなのですね」
「もちろん、そうですよ」
「わしは師匠の気持ちが分かったものですから遊女たちの願いを断ったわけです」
「ありがとう。本当にありがとう」
 曾良は「野ざらし紀行」の富士川の畔の件(くだり)を読んだときに震えるような感動をお覚えていた。このことを曾良は芭蕉には話さなかった。話せなかった。生きることは苦しみ以外のなにものでもない。苦しみもがき、生きている自分を遠くの自分が自分を見て笑う。富士川の畔の件は芭蕉が捨て子に言った言葉ではない。芭蕉は自分に問うたのだ。こんなことを自分が自分に言って笑いたいと思っている。そのように曾良は芭蕉の句を、言葉を分かったつもりになっていた。芭蕉はちっとも三つばかりになる捨て子にたいして自分は無慈悲だとは思っていない。無慈悲にならざるを得ないと思っているのだ。生きるとは無慈悲さの中で無慈悲さを見つめ、その無慈悲な中を平気に生きていく。こう思っていたのだ。曾良もまた無慈悲さの中にいた。だから曾良は富士川の一節を読み震えるような感銘を受けたと言えなかったのだ。目の前の現実に打ちのめされていては風雅を詠むことはできない。曾良は芭蕉が風雅をどのように考えているのか興味が湧いてきた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしてきたのです。浮世とは出会いと別れですね」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当ですな」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思うのですがね。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない。こんなことになりますからな」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽さが表現できないかと思うのです」
「師匠、おっしゃるとおりです」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めをくいました。その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのですよ。今、思うととても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。切れがいい。こんなふうに思うのですが、曾良さん、いかがですか」
「軽いですな。師匠。本当に軽い」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事と気付いたのが市振の宿だったように思うんですよ」
「なるほど、軽みですか」
 芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は柿本人麻呂の歌を思い出した。
 たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 柿本人麻呂
 有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。ここで恋句を詠んではならないのだ。そう、芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
 わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
芭蕉は有磯海をこのように詠んだ。芭蕉にとってこの句は軽みを表現しようと思い詠んだ最初の句になった。

芭蕉は「古池や蛙飛びこむ水のおと」を詠み、蕉風に開眼し、「おくのほそ道」の旅で蕉風を完成する「かるみ」の精神を発見した。

参考文献
おくのほそ道、菅菰抄、俳諧書留(芭蕉)
笈の小文、去来抄、曾良旅日記、三冊子
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)芭蕉紀行文集(中村俊定校注)