きょっぽ
他者がわからない
「のりこえねっとtv」が戦後70年スペシャル「千円札に伊藤博文が登場」というテーマで田中宏さんの話を放送した。田中宏さんは岩波新書『在日外国人』の著者だ。読後感は清々しいものであった。どんな話をするのか、期待をした。話は期待を超える内容の話だった。自らの経験に基づく、他者を理解する難しさを指摘するものであった。
田中さんは大学卒業後、日本に来る留学生を支援する公的団体に就職した。そこでの経験をもとに話し始めた。台湾から日本に留学してきた学生から聞いた。伊藤博文という人はアジア諸国に大変な迷惑をかけた人である。朝鮮人の怒りをかって、中国のハルピンで射殺された人である。我々アジアの人間にとって伊藤博文という人は思い出したくもない人である。その人の肖像が千円札になっている。千円札は毎日のように使う。千円札を使う度に伊藤博文の肖像画を見なければならない。我々の国を植民地にした人の肖像を毎日見せつけられているようなものだ。それがどんなに嫌なものであるのか、日本人にはわからないのだろうか。こういう話を田中さんは台湾からの留学生から聞いた。それ依頼、田中さんは伊藤博文の千円札を財布に常時入れている。この留学生から聞いた話を忘れないためにと話していた。
また、ベトナム戦争中、南ベトナムから来た留学生の話をした。東京大学というのは日本のもっとも程度の高い大学だと聞いているが、とんでもない大学だ。学生たちがフランス語で話しかけてくる。我々ベトナム人にとって、フランス語は無理やり強制されて覚えさせられた屈辱の言語だ。こんな言葉を使いたくないベトナム人の気持ちがちっともわかっていないとベトナム人留学生がぼやいていたという話だった。さらに当時日本共産党機関紙『アカハタ』に掲載された広告について話をした。その広告にはフランス語を学んでインドシナ諸国の人々との交友を深めようというフランス語学習会の広告であった。ベトナム語ではなく、フランス語を学ぼうという広告にベトナム人留学生が日本の左翼の限界を感じたということであった。『アカハタ』を作っている誰もが問題を感じなかったに違いない。ここに問題の深さがあると田中さんは指摘していた。
朝鮮を植民地支配した日本は朝鮮人に日本語を強制した。きっと朝鮮人にとって日本語を使うということは屈辱以外何物でもないに違いないが、その朝鮮人の気持ちが日本人にはわからない。日本語で小説を書く在日韓国・朝鮮人作家がいるがその屈辱感を私はなかなか理解できないような気がする。
ヤン・ソギルは在日朝鮮人の作家である。日本で生まれ育った在日朝鮮人二世のようだ。私は彼の小説が大好きである。面白い。だから好き。彼の小説を読み、日本語で小説を書く屈辱感のような倦厭感を彼の文章から感じたことがない。この文章の裏にはきっと日本語でしか小説を書くことができない哀しみや屈辱のようなものがあるのかもしれない。がしかし、私には分からない。
言語は人間の心をつくる。日本語を話す人が日本人だ。母から学んだ言語がその人間の民族を決める。言語を奪うことはその人間存在そのものを奪うことなのかもしれない。現代の日本人は日本語を奪われた経験を持たない。だから言語を奪われた哀しみや苦しみを知らない。が今、TPPによって日本語が壊されそうになっている。日本語が非関税障壁として英語が強制されようとしている。英語を自由に操れる人が評価されるような時代が来ようとしている。だからこそ、英語を使うことに抵抗感を持たない人々が増えていくことに危機感をもたなければならないだろう。英語を学ぶことを否定しているのではない。英語を学ぶ以上に日本語を大切にすることが今、日本人として大切なのではないかと私は思う。
他者がわからない
「のりこえねっとtv」が戦後70年スペシャル「千円札に伊藤博文が登場」というテーマで田中宏さんの話を放送した。田中宏さんは岩波新書『在日外国人』の著者だ。読後感は清々しいものであった。どんな話をするのか、期待をした。話は期待を超える内容の話だった。自らの経験に基づく、他者を理解する難しさを指摘するものであった。
田中さんは大学卒業後、日本に来る留学生を支援する公的団体に就職した。そこでの経験をもとに話し始めた。台湾から日本に留学してきた学生から聞いた。伊藤博文という人はアジア諸国に大変な迷惑をかけた人である。朝鮮人の怒りをかって、中国のハルピンで射殺された人である。我々アジアの人間にとって伊藤博文という人は思い出したくもない人である。その人の肖像が千円札になっている。千円札は毎日のように使う。千円札を使う度に伊藤博文の肖像画を見なければならない。我々の国を植民地にした人の肖像を毎日見せつけられているようなものだ。それがどんなに嫌なものであるのか、日本人にはわからないのだろうか。こういう話を田中さんは台湾からの留学生から聞いた。それ依頼、田中さんは伊藤博文の千円札を財布に常時入れている。この留学生から聞いた話を忘れないためにと話していた。
また、ベトナム戦争中、南ベトナムから来た留学生の話をした。東京大学というのは日本のもっとも程度の高い大学だと聞いているが、とんでもない大学だ。学生たちがフランス語で話しかけてくる。我々ベトナム人にとって、フランス語は無理やり強制されて覚えさせられた屈辱の言語だ。こんな言葉を使いたくないベトナム人の気持ちがちっともわかっていないとベトナム人留学生がぼやいていたという話だった。さらに当時日本共産党機関紙『アカハタ』に掲載された広告について話をした。その広告にはフランス語を学んでインドシナ諸国の人々との交友を深めようというフランス語学習会の広告であった。ベトナム語ではなく、フランス語を学ぼうという広告にベトナム人留学生が日本の左翼の限界を感じたということであった。『アカハタ』を作っている誰もが問題を感じなかったに違いない。ここに問題の深さがあると田中さんは指摘していた。
朝鮮を植民地支配した日本は朝鮮人に日本語を強制した。きっと朝鮮人にとって日本語を使うということは屈辱以外何物でもないに違いないが、その朝鮮人の気持ちが日本人にはわからない。日本語で小説を書く在日韓国・朝鮮人作家がいるがその屈辱感を私はなかなか理解できないような気がする。
ヤン・ソギルは在日朝鮮人の作家である。日本で生まれ育った在日朝鮮人二世のようだ。私は彼の小説が大好きである。面白い。だから好き。彼の小説を読み、日本語で小説を書く屈辱感のような倦厭感を彼の文章から感じたことがない。この文章の裏にはきっと日本語でしか小説を書くことができない哀しみや屈辱のようなものがあるのかもしれない。がしかし、私には分からない。
言語は人間の心をつくる。日本語を話す人が日本人だ。母から学んだ言語がその人間の民族を決める。言語を奪うことはその人間存在そのものを奪うことなのかもしれない。現代の日本人は日本語を奪われた経験を持たない。だから言語を奪われた哀しみや苦しみを知らない。が今、TPPによって日本語が壊されそうになっている。日本語が非関税障壁として英語が強制されようとしている。英語を自由に操れる人が評価されるような時代が来ようとしている。だからこそ、英語を使うことに抵抗感を持たない人々が増えていくことに危機感をもたなければならないだろう。英語を学ぶことを否定しているのではない。英語を学ぶ以上に日本語を大切にすることが今、日本人として大切なのではないかと私は思う。