醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1141号   白井一道

2019-07-31 13:00:27 | 随筆・小説



   稲妻や顔のところが薄の穂   芭蕉  元禄7年



句郎 「稲妻や顔のところが薄の穂」元禄7年。『續猿蓑』。この句には前詞がある。「本間主馬が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを描きて、舞台の壁に掛けたり。まことに生前のたはぶれ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」。
華女 この句は画賛なのかしら。
句郎 大津の能太夫、本間主馬亭の床の間に骸骨どもが笛・鼓を持って能を舞う絵が架けられていた。
華女 稲妻が光り、骸骨の顔のところに薄の穂が垂れている絵だったのかしら。
句郎 青と黒の世界が表現されていた。
華女 「死の舞踏」の絵ね。
句郎 「死の舞踏」というとヨーロッパ中世世界を想像してしまうよ。
華女 日本にも同じような話があるのじゃないかしら。
句郎 小泉八雲の『怪談』かな。
華女 『耳なし芳一』の話は一種の「死の舞踏」と同じ世界の話じゃないのかしら。
句郎 日本の近世社会もヨーロッパ中世社会も死者が身近な存在だったからね。
華女 戦争が身近なものだったということね。
句郎 「死の舞踏」の時代は英仏百年戦争下であった。高熱を出し、真っ黒になって次々人々が死んでいく。人々はいつしか黒死病というようになったペストが大流行した。当時は「商業の復活」と言われた時代でもあった。その結果、インドの風土病であったペスト菌が帆船に乗ってヨーロッバに侵入した。死の舞踏は、死の恐怖が人々を半狂乱にして踊り続けるという話だよね。
華女 サンサーンスの交響詩『死の舞踏』を聞くと感じるものがあるわ。
句郎 死は人々を平等にするからな。生前は王族、貴族、僧侶、農奴などの異なる身分に属しそれぞれの人生を生きていても、ある日訪れる死は身分や貧富の差をなくし、無に統合する。死はこの世に苦しむ人々を解放する。
華女 死の恐怖は同時に解放でもあったのね。
句郎 ヨーロッパではペストの大流行から百年の時間をかけて「死の舞踏」
いう絵画や音楽が創作されるようになった。
華女 『耳なし芳一』の話が流布するのは源平合戦が終わって数百年後のことよね。
句郎 耳なし芳一は盲目の琵琶法師だった。平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であったと言われている。
華女 芭蕉が生きた元禄時代も街道には生きずりの死者が転がっていることがあったということね。
句郎 本当に死者が身近な存在だった。
華女 死への恐怖の時が去ると死を受け入れる時がくるということなのね。
句郎 死はすべての人に間違いなく平等に訪れる。
華女 「かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」とは、芭蕉の死生観の表明でもあったのね。
句郎 「人間の生前の営みすべて、髑髏の舞と異なるところはない、と観ぜられる折しも、稲妻が一閃してその瞬間、この座の人々も骸骨と化し、その顔のあたりに薄が生い出て穂が揺らいでいる幻影が、さっと過(よ)ぎ     ったことだ」。芭蕉が敬慕した荘子の言葉だ。恐怖としての死ではなく、受け入れられるものとしての死を芭蕉は思っていたのではないかな。
華女 「顔のところが薄の穂」という言葉には優しさを感じるわ。
句郎 小野小町の髑髏の眼の穴から薄が生え、和歌を詠んだという伝説があるという話を聞いた。芭蕉もこの伝説を知っていた。いつしか人間は再生するということを芭蕉はもしかしたら信じていたのかもしれない。仏教思想の根本は輪廻転生だからね。仏の存在を芭蕉は信じていた。

醸楽庵だより   1142号   白井一道

2019-07-31 13:00:27 | 随筆・小説



   芭蕉の句と『徒然草』Ⅱ



 『徒然草』を芭蕉は読んでいた。41歳になった芭蕉は旅に生き、旅に死ぬ覚悟を決め、『野ざらし紀行』に旅立った。「千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入ると 云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也」と書き出している。冒頭の句が有名な「野ざらしを心に風のしむ身哉」である。
  箱根越えを次のように書いている。「関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり」。箱根越えの句が「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」である。東海道・箱根越えをする旅人にとって富士山は心に焼き付く山である。芭蕉が敬愛した歌人、西行も富士山を詠んでいる。「風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬわが想ひかな」である。万葉歌人山部赤人の歌を改作した『新古今集』にある歌「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」である。芭蕉は西行の歌も定家の編纂した『百人一首』の中の一首、山部赤人の歌も知っていた。富士山をどう詠むかを芭蕉は考えていたに違いないが、箱根を越した日の富士山は霧に隠れ何も見えなかった。霧に隠れた富士山を芭蕉は詠んだ。その美意識を創造してくれたのが兼好法師の『徒然草』であった。
  『徒然草』第137段には次のようにある。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
 万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし」。このように兼好法師は述べている。
  満開の桜を見るのが花見なんだろうか。満月の月を愛でるのが月見なのだろうか。雨の降る夕べお月さまを見たいという思いや霞が立ち込めて春の日はどうなるのだろうという思いを持つことに情緒があるのだ。この梢には花が咲く。桜の花が散った後の庭にこそ見所というものががあるのだ。
  すべての事は、はじめと終わりにこそ面白みがあるのだ。男女の仲もそうだ。実際に出会い、むつみ合うことなんだろうか。逢えない辛い思いをすることに情愛というものがあるのだ。これが本当の色好みというものだ。
  芭蕉は兼好法師の言葉を思い出し、箱根越えで富士山を仰ぎ見たい気持ちを持つことの大事さに気付いた。霧が立ち込め、小雨がぱらついている。全然富士山が見えない。眺めることなどできるはずがない。そうだ、それでいい。この現実を否定的にではなく、肯定的に受け入れよう。そこに本質的な富士を愛でる情緒というものが私の心の中に創られていくに違いない。そのような認識を得た芭蕉は「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」と詠んだ。







醸楽庵だより   1140号   白井一道

2019-07-30 13:16:17 | 随筆・小説



   蓮のかを目にかよはすや面の鼻   芭蕉  元禄7年



句郎 「蓮のかを目にかよはすや面の鼻」元禄7年。『真蹟短冊』。他に異型の句が二つ伝えられている。「蓮の香に目をかよはする面の鼻」。「丹野が仕舞の教談に」と前詞を置き「蓮の香や目より潜(くぐり)て面ンの鼻」である。
華女 この句は「ひらひらとあがる扇や雲のみね」を詠んだ本間主馬亭で詠まれている句なのかしら。
句郎 大津の能太夫、本間主馬、俳号は丹野の屋敷で詠まれている。この句の他に「稲づまやかほのところが薄の穂」がある。
華女 そうすると芭蕉は元禄7年6月に大津の本間主馬亭で三句詠んでいることが知られているのね。
句郎 芭蕉研究は進んでいる。芭蕉読者がいるから芭蕉研究が進んでいるということかな。
華女 芭蕉のすべての句が文学かと言えば、そうではないように思うけれども芭蕉の作品は文学なのよね。
句郎 「蓮の香」を「目」に通わすのか、「蓮の香」に「目」を通わすのか、芭蕉は推敲し、「蓮の香を目に」通わすとした。
華女 蓮の香に目を通わすとした方が普通よね。そうでしょ。蓮の香が漂ってきた。蓮の花が咲いていることに気が付く。どこに蓮の花が咲いているのかと周りを見渡すのよね。あそこの池に蓮が咲いていることに気が付く。蓮の香を目に通わすとはどういうことなのかしらね。
句郎 「蓮の香を目にかよはす」とは、蓮の香に気が付き、蓮の花はどこに咲いているのかと庭に蓮の花を探したことを言っているのじゃないかな。
華女 実際は本間主馬が演じる舞台を見て芭蕉はこの句を詠んでいるのよね。
句郎 本間主馬の演技に芭蕉は蓮の香を想像したのじゃないのかな。
華女 能の演技は観客の想像力を刺激することなのね。
句郎 ハスの香を嗅いだ記憶が芭蕉にはあった。だから本間主馬の能の演技を見て、芭蕉は蓮の香を嗅いだような気持ちになった。
華女 本間主馬の演技に芭蕉は感激していたということね。
句郎 芭蕉は蓮の花が好きだったのじゃないのかな。水辺に咲く蓮の花は綺麗だからね。とても綺麗な花が咲くのに関東に生活する人々はあまり蓮の花を愛でる習慣がないように感じるな。
華女 仏像は蓮弁の台の上に鎮座しているわね。
句郎 古代インドの人々は蓮の花の咲く所に浄土を想像したのではないのかな。
華女 仏教世界では仏を囲む花が蓮の花なのよね。
句郎 ハスの花に日本を想像する西洋の人々がいる。水蓮で有名なフランス印象派の画家、クロード・モネはフランスに日本庭園モネの池を作り、水蓮を植えた。蓮の花を毎日眺めては何枚もの水蓮の絵を描いた。
華女 フランスのジャポニスムよね。蓮の花には日本を象徴するようなものがあるのね。それなのに現代の日本人の中には蓮の花を愛でる人は少ないように感じるわ。
句郎 芭蕉の生まれ育ったところは伊賀上野だ。そこは関西文化圏。蓮の花を愛でる文化の中で芭蕉は育っている。
華女 蓮は夏の季語になっているわ。夏を愛でる花が蓮の花なのね。
句郎 蓮の花には涼しさがあるように思うな。この涼しさに美しさがあるように思う。
華女 芭蕉は主馬の演技に蓮の香を想像したのよね。そのような演技が名演技と言われる所以なのね。
句郎 お面を付けた演技だった。芭蕉はお面の表情に蓮の香を想像した。
華女 お面そのものに表情を与えるのも演技なのよね。明かりと影の織り成す光が無限な表情をお面に創り出すということね。
句郎 そうなんだろうな。琵琶湖に吹く風の中で芭蕉は主馬の演ずる舞台を見て、蓮の香を想像している。この句は本間主馬への挨拶の句だ。挨拶するということはこういうこと。相手の存在を肯定的に受け入れること。

醸楽庵だより   1139号   白井一道

2019-07-29 14:26:29 | 随筆・小説



   ひらひらとあぐる扇や雲の峰   芭蕉  元禄7年



句郎 「ひらひらとあぐる扇や雲の峰」元禄7年。『笈日記』。「本間氏主馬(しゅめ)が亭にまねかれしに、太夫が家名を稍して、吟草二句」と前詞を置いて、この句が詠まれている。
華女 本間氏とは、能役者だったのかしら。
句郎 大津の能太夫(のうたゆう)だったようだ。俳号は丹野(たんや)と名のった。
華女 芭蕉は俳諧を通していろいろな人と知り合いになっていったのね。
句郎 俳諧は人と人とを結びつけた。そうした人の輪が芭蕉の生活を支えた。
華女 人は人を助け、人に助けられ生きているということなのね。
句郎 芭蕉にとって俳諧を編むということは生きること以外の何物でもなかった。俳諧がなくなったら生きることができなかった。
華女 芭蕉にとって俳諧を編むことは命がけだったということね。片手間の遊びではなかった。
句郎 近江に芭蕉がやって来ているという噂が広がると芭蕉を訪ねて来る人、芭蕉を我が家へ招待する人々がいた。
華女 元禄7年にはそれほどの有名人に芭蕉はなっていたということなのね。
句郎 本間氏亭には能舞台があった。招かれた芭蕉は本間氏の舞台を見せていただいた。その後、歌仙が巻かれた。その俳諧の発句が「ひらひらと」の句だと思う。
華女 一曲能を鑑賞したあと、お酒と肴が出され、俳諧を楽しんだのではないかと想像してしまうわ。
句郎 きっと、そうなんだと思う。
華女 本間様が扇をひらひらと徐々に上げていくのを見ていると扇の先には雲の峰が見えてくるような印象がありますねと芭蕉は本間さんの芸を褒め称えたということね。
句郎 招いてくれた亭主への挨拶をしたということかな。
華女 挨拶を交わすとは相手を受け入れるということね。
句郎 芭蕉は本間氏の芸を受け入れ、褒めたたえた。これは追従ではない。
華女 俳諧とは人と人との輪を作り上げていく営みのようなものね。
句郎 残念なことだが芭蕉のこの発句に亭主の本間氏、俳人丹野は何と付けたのかが知られていない。
華女 客人、芭蕉と亭主、丹野とで一つの世界を詠み、更に次の俳人とで新しい世界を詠み継いでいくのが俳諧よね。
句郎 どのような展開をしたのか、それは分からないが、この俳諧の発句、「ひらひらと」の句を独立した俳句として読むことは可能だ。
華女 そうね。大津と言えば琵琶湖よね。山国育ちの芭蕉は琵琶湖が好きだったのよね。
句郎 芭蕉の墓がある義仲寺は琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)にあるからね。
華女 芭蕉は確かに近江が好きだったのよね。その理由は非業の死を遂げた木曽義仲への追慕というものがあったとも言われているわ。
句郎 芭蕉は木曽義仲への強い思いがあったので木曽義仲の葬ってある義仲寺に葬ってもらったようだね。
華女 芭蕉が木曽義仲を好きになった理由は元禄時代の民衆の気持ちと同じだったのじゃないのかしら。
句郎 そうかなのかもしれない。木曽義仲は平家討伐のため挙兵したが、源頼朝・義経に追討を受け非業の死を遂げた。義仲を憐れんだ大津の村人たちが、墓を建て弔った。村人たちがお墓を建てたのち、一人の尼が墓前に草庵を結び、弔った。その尼が愛妾であった巴御前であることを知り、巴御前が死んだ後に、村人は草庵を「無名庵」と呼ぶようになった。義仲寺は源義仲を弔うために巴御前が草庵を結んだのがその始まりだと言われている。
華女 「ひらひらと」の句を芭蕉は大津で詠んでいるということを思うと「雲の峯」は想像上のものだから琵琶湖の空に浮かぶ入道雲よ。日に輝く大きな雲の峰ね。

醸楽庵だより   1138号   白井一道

2019-07-28 15:12:40 | 随筆・小説



   さら鉢もほのかに闇の宵涼み   芭蕉  元禄7年



句郎 「皿鉢もほのかに闇の宵涼み」元禄7年。『笈日記』。
華女 この句を鑑賞した文章をネットで読んだわ。
句郎 良い鑑賞だった。
華女 「もてなしの皿鉢が、宵闇の中に溶け込みながらも、ほのかに白く浮いて見える。そのほとりで、宵涼みを心ゆくまで楽しんでいることだ」。このように鑑賞していたわ。
句郎 分かり合った仲間は話す必要がなかった。黙ったまま静かに暮行く時間を楽しんでいる。
華女 灯を点けてはいないのよね。このようなことを武士はきっとしないのではないかと思うわ。
句郎 灯を点けない宵を楽しむのは町人にしかできない遊びなのかもしれないな。
華女 武士の家だったら灯も点けずに食い散らかした皿鉢をそのままにしておくようなことはしないのじゃないのかしら。
句郎 食べ物を盛った皿鉢が汚れたまま部屋に残し、闇の中で夕べの涼しさを楽しむ。これは新しい町人たちの文化だったのかもしれないな。
華女 このゆったりした安心感に満ちた時間は町人が新しく獲得した時間だったのかもしれないわ。
句郎 この静かな時間というものは今までになかった新しい時間だったのかもしれない。
華女 芭蕉のこの句を読んで思い出した句があるのよ。
句郎 誰の句なの?
華女 原石鼎の句、「秋風や模様のちがふ皿二つ」よ。
句郎 表現されている世界は違うように感じるけどね。
華女 共通する世界として静かさがあるように思うのよ。
句郎 名句と言われるものには皆、静かさのようなものがあるように感じるけどね。
華女 放浪の詩人という共通点があるように感じているのよ。
句郎 芭蕉と原石鼎とでは全然違う世界に生きた人というイメージかな。
華女 それは分かるような気がするわ。
句郎 芭蕉は能動的に生きた詩人だった。江戸の身分制社会を受け入れ積極的に生きた。生前名を成し、俳諧師として生活を成り立たせることができた。稀有な例ではないかと思う。
華女 腹石鼎は旧制中学卒業後、受験失敗を繰り返しているわね。芭蕉だったら、こんなことをしないかもしれないわね。その後、京都医学専門学校に入学しても、2年続けて落第し放校処分になっているわね。腹石鼎は現実社会を上手に生きる術を持たない詩人だったことは間違いないわね。
句郎 原石鼎は尾崎放哉や山頭火と同じような破滅型の詩人だったよね。芭蕉はどちらかというと鎌倉で優雅な生活をおくった高浜虚子のようなタイプの詩人だったのじゃないのかな。
華女 確かに芭蕉は虚子と同じように多くの弟子がいるわね。芭蕉も虚子も生活力旺盛な詩人ね。
句郎 そう、芭蕉は生活力旺盛な詩人だった。「皿鉢もほのかに闇の宵涼み」。この句のどこにも暗さのようなもがない。しかし原石鼎の句「秋風や模様のちがふ皿二つ」。この句には暗さがある。寂しさがある。寂しさに耐える孤独がある。
華女 私も納得するわ。でも暮行く暗さの中にほの白く浮き上がる皿鉢のイメージと模様のちがふ皿二つのイメージに共通するものがあるように私には感じられるのよ。
句郎 そうなんだ。私には何も共通するようなものはないように感じている。俳諧を通じて分かり合った充実した人間関係の満足し合った時間を芭蕉は表現しているように感じているんだ。
華女 確かに芭蕉の句には淋しさのようなものは何もないわね。宵涼みの充実時間よね。
句郎 そうなんだ。その充実した時間が元禄時代に生きた裕福な町人たちの心境だった。ここに寂しさや孤独感といったものは何もない。未来を約束された町人たちの充実した生活感がある。

醸楽庵だより   1137号   白井一道

2019-07-27 12:04:02 | 随筆・小説



  飯(めし)あふぐ嬶(かか)が馳走や夕涼み   芭蕉  元禄7年/strong>


句郎 「飯あふぐ嬶が馳走や夕涼み」元禄7年。『笈日記』。この句には前詞がある。「曲水亭に遊ぶとて、『田家』といへる題を置きて」とある。
華女 「飯(めし)」とか「嬶(かか)」とかいう言葉を元禄時代の町人や農民は使っていたのね。
句郎 町人や農民の言葉で表現してはじめて町人や農民の生活の詩が表現できるということなんじゃないかな。
華女 芭蕉は元禄時代に生きた農民や町人たちの詩人だったということなのね。
句郎 農民や町人たちの生活の中に詩を発見した詩人が芭蕉だった。
華女 熱い湯気が上がっている。その湯気を扇ぐようにお釜から飯べらにご飯をよそい、お櫃に移しているのよね。昔の農家の主婦は体を休める暇がなかったわ。
句郎 ご飯が炊きあがったばかりのお釜の縁は熱かった。竈から釜敷の上に釜を下ろし、重い蓋を開けると熱い蒸気が上がった。子供だった頃の台所の風景が瞼に浮かぶな。
華女 私の母も狭い台所を走っていたような印象が残っているわ。
句郎 多分、そうだったのじゃないかな。
華女 父も田圃から上がってくると縁側に寝転がっていたわね。その姿は至福のいっときのような顔をしていたような記憶が残っているわ。
句郎 昭和30年代までの日本の庶民の生活は元禄時代の庶民と大きく変わることのない生活だったのかもしれないな。
華女 時代の変化の速度が新しくなるにしたがって速くなってきているのじゃないかしら。
句郎 そうなんだろうね。夕暮れてくると父が田圃から上がってくる。母は幾分早く田圃から上がり、夕飯の支度を始める。子供たちも夕飯の支度を手伝う。こんな生活だったんだろうな。
華女 子供たちは風呂焚きが仕事だったように思うわ。
句郎 江戸庶民の生活の中に高貴な文化があるとは誰もが思わなかった。その中にあって芭蕉自身もまた自分の身の回りにある日常生活の中に詩があると意識することはなかったが、芭蕉が俳諧に詠めることは自分の身のまわりにあるものしか詠むことはできなかった。
華女 今も昔も同じなのね。今だった自分の身のまわりにあるものや出来事に高貴な文化のようなものがあるとは思えないもの。
句郎 芭蕉は自分が見たものや経験したことを俳諧に詠んだ。芭蕉の身分は農民だった。武士身分の者の指示に従うことが良いこと、当たり前の社会に生きていた。高貴な文化生活をしていると誰もが思っていた公家や武士の生活を芭蕉は経験したことがない。誰もが江戸庶民の生活の中に高貴な文化があるとは思わなかったが、芭蕉の句を詠んだ町人や農民が喜んだ。元禄時代、裕福になった農民や町人たちの中に芭蕉の俳諧を楽しむ人々が増えて行った。
華女 下々の人々の生活の中に高貴な文化があることに気づいていったということなのね。
句郎 芭蕉自身が自分の俳諧が高貴な文化としての文学であるということを生涯自覚することなく亡くなっているのではないかと思う。
華女 そうかもしれないわ。三百年後の日本人、いや世界の人々に受け入れられている文学だということを知ることなく芭蕉は亡くなっていると私も思うわ。
句郎 飯(めし)とか、嬶(かか)といった言葉を使った句が高貴な文学になるということを自覚することなく芭蕉はこれらの言葉を使って俳句を詠んだ。
華女 芭蕉は無意識過剰な詩人だったということなのね。
句郎 そうなのかもしれないな。無意識に詠んだ句が新しい文学地平を創造しているということを自覚することなく俳諧を仲間と一緒に楽しんでいた。
華女 「飯あふぐ嬶が馳走や夕涼み」。この句は新しい文学になっているのね。

醸楽庵だより   1136号   白井一道

2019-07-26 12:42:51 | 随筆・小説



    夏の夜や崩れて明けし冷し物   芭蕉  元禄7年



句郎 「夏の夜や崩れて明けし冷し物」元禄7年。『続猿蓑』。この句は元禄7年6月24日付、杉風宛書簡にある句である。前詞に「曲水亭」とある。
華女 曲水さんも芭蕉の門人であったのかしら。
句郎 近江、膳所(ぜぜ)藩の重臣、晩年奸臣を切って自らも自害して果てた人だった。近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援者でもあった。
華女 芭蕉は農民身分にしては法外の弟子、武士身分の門人がいたのね。
句郎 俳諧師というのは芸能人だったから身分外として扱われていたのじゃないのかな。
華女 俳諧の場だけの付き合いだったということなのかしら。
句郎 そうなんじゃないのかな。だから芭蕉が曲水亭に招かれ、正式な座敷に通されることはなかったと思うよ。
華女 俳諧の時だけ同じ部屋の中で膝を交えたいうことなのかしら。
句郎 多分、そうだったのじゃないかな。
華女 曲水亭に仕える使用人が使用している部屋で俳諧という遊びをしたということなのね。武士も下々の遊びを楽しんでいたということね。
句郎 元禄7年6月16日曲水亭に芭蕉は招かれ、俳諧を楽しんだ。その俳諧の発句が「夏の夜や崩れて明けし冷し物」だった。
華女 曲水亭には何人が集まり、俳諧を楽しんだのかしら。
句郎 芭蕉、支考・維然・臥高・曲水が集まり、歌仙を巻いた。
華女 酒肴を同時に楽しんだということなのね。「夏の夜や崩れて明けし冷し物」と芭蕉が詠んでいるくらいだから夜が明けるまでお酒を飲み、歓談したということね。
句郎 人の卑しむ遊びに芭蕉は人生をかけて取り組んだ。その結果、俳句という文芸を文学にまで高めることができた。
華女 確かに元禄時代、俳諧をしていると胸が張れるようなことはなかったということなのね。俳諧師として世の中に認められるなんていうことはなかったのでしょうからね。
句郎 芭蕉は本当に稀有な例だったと思うな。現代にあっても俳人として生活できる人なんて極少ないのではないかと思うな。
華女 最近、テレビの『プレバト』が人気で俳句を楽しむ人が増えているという話を聞くわ。
句郎 夏井いつきさんも生活できるようになるには大変だったようだから。
華女 「夏の夜や崩れて明けし冷し物」。この句の中で「崩れて」という言葉がこの句の柱になっているように私には思えるのよ。
句郎 夏の夜を一晩中、お酒を飲み、歓談し、句を吟じる。中には下ネタの話も出たのじゃないかと想像してしまうよね。
華女 年のいった男五人でしょ。節度をわきまえ、上品に遊んだように私には思えるわ。
句郎 俳諧を楽しむ夏の夜をこの句は表現しているように思うな。
華女 夜更かしをする夏の夜の楽しみは三百年前も今と同じということね。
句郎 人間は変わらない。昔も今も。時と場所が違っていても変わらない。そのようなことを感じるな。
華女 夏の夜を一晩中遊んだという経験を私はしたことがないので分からないわ。でも朝日が指し始めるころになると部屋の中は散らかり、会話も途切れがちになっていくような印象があるわ。
句郎 そう、だから夏の夜は崩れていく。出された冷やし物のおつまみも散らかってしまっている。そのように部屋の中が想像できるよね。
華女 「冷し物」とは、具体的にどのようなものだったのかしらね。
句郎 膾(なます)とか冷ややっこみたいなものだったのじゃないのかな。
華女 お酒のおつまみね。芭蕉は俳諧の発句にこの句を詠んでいるのよね。整然と並んだおつまみやお酒を眺めて、夜が明けるころは乱雑になっていることだろうとね。

醸楽庵だより   1135号   白井一道

2019-07-25 12:44:20 | 随筆・小説



    朝露によごれて涼し瓜の泥   芭蕉  元禄7年



句郎 「朝露によごれて涼し瓜の泥」元禄7年。『笈日記』。この句には異型の句が伝えられている。「朝露によごれて涼し瓜の土」『続猿蓑』。「朝露や撫でて涼しき瓜の土」『杉風宛書簡』。岩波文庫『芭蕉俳句集』では、「朝露によごれて涼し瓜の泥」を成案としている。
華女 私も「瓜の土」より「瓜の泥」の方がいいように思うわ。
句郎 「瓜の土」というと湿っている土が瓜についているようなイメージがあるよね。
華女 そうなのよ。「瓜の泥」だと乾いた茶色になった泥が瓜についていて触ると綺麗に落ちてしまうイメージよね。
句郎 この瓜は「まくわ瓜」ではないかと言われている。
華女 私たちが子供だった頃、食べたまくわ瓜ね。黄色い横長の瓜よね。井戸に垂らしておいたものを引き上げて食べた思い出があるわ。
句郎 最近はほとんど見なくなってしまったな。スーパーで見かけたことがないよね。
華女 そうね。今じゃ、農家も作らなくなってしまったんじゃないのかしら。
句郎 今は瓜は瓜でもメロンが中心みたいだからな。
華女 子供だった頃、果物屋に行くと桐の箱に入ったメロンが飾ってあったのを思い出すわ。誰が食べるのかと想像したものよ。
句郎 芭蕉はまくわ瓜が大好物だったようだ。
華女 冷たく冷やした夏の果物といったらまくわ瓜が一番のだったのじゃないのかしらね。
句郎 畑になっているまくわ瓜を見て芭蕉はこの句を詠んでいる。この句はまくわ瓜を詠んでいる。芭蕉はまくわ瓜を見て涼しさを感じた。井戸で冷やされたまくわ瓜を想像して涼しさを思った。
華女 私もそのように思うわ。まくわ瓜を汚しているものが泥なのよね。土より泥とした方が俳諧になると芭蕉は思ったんじゃないのかしらね。
句郎 瓜の泥に芭蕉は俳諧を発見したということかな。
華女 そうなんじゃないのかしらね。そもそもまくわ瓜は農民や町人たちが好んで食べた果物だったのじゃないのかしら。
句郎 まくわ瓜を詠んだ和歌というものはないのじゃないかな。
華女 まくわ瓜に芭蕉は俳諧を発見したということなのね。
句郎 まくわ瓜が季語として俳人たちに受け入れられていった句の一つがこの芭蕉の句であったのではないかと思うな。
華女 もしかしたらそうのかもしれないわよ。今でいえば、この句は季重なりの句よね。「瓜」は夏の季語になっているでしょ。「涼し」も夏の季語になっているわよ。
句郎 元禄時代はまだ「瓜」も「涼し」も俳諧師の間で季語としての認識が出来上がっていなかったのじゃないのかな。
華女 この句には夏の季節感が表現されているわね。夏は涼しさを表現することによって季節感が表現されるということを実作をもって表現しているわ。
句郎 芭蕉は瓜の泥に涼しさを発見したということかな。
華女 とにかく、日本の夏は湿度が高く、気温も高いのよね。蒸し暑いのが日本の夏なのよ。だから夏は誰もが涼しさを求めているのよね。
句郎 夏の早朝は涼しい。「朝露に」で半白の切れがこの句にはあるように感じるな。「朝露や」では、強すぎる。朝露に濡れた畑の瓜を眺めていた芭蕉は涼しさを感じた。「朝露に」ということによって瓜畑を眺めていた時間を表現している。畑の泥のついたまくわ瓜を見つけた。
華女 この句は夏の早朝の涼しさをも表現しているということなのかしら。
句郎 確かに夏の早朝の瓜畑を眺めて詠んだ句なのではないかと思っている。
華女 この句は嘱目吟なのよね。夏の早朝、まくわ瓜の畑を芭蕉は眺めていたのよね。泥のついたまくわ瓜を見て、俳諧を発見したわけね。


醸楽庵だより   1134号   白井一道

2019-07-24 12:52:17 | 随筆・小説



    夕顔に干瓢むいて遊びけり   芭蕉  元禄7年



句郎 「夕顔に干瓢むいて遊びけり」元禄7年。『杉風宛書簡』。
華女 読んですぐわかる句ね。俳句初心者の詠んだ句のように感じる句ね。
句郎 芭蕉にもこのような句があることに安心するというか、芭蕉も我々と同じような人間だったんだと感じる句かな。
華女 私だったら、「夕顔の干瓢むいて遊びけり」と詠んでしまいそう。そんな感じがするわ。
句郎 「夕顔の干瓢むいて遊びけり」と詠みそうなものを「夕顔に」としたところに芭蕉らしさがあるのかもしれないな。
華女 「夕顔に」とすることによって「干瓢むいて遊びけり」との間に少し間ができるのね。
句郎 この句は「夕顔に」で切れている。「夕顔に」と「干瓢むいて遊びけり」との間に半白の間ができている。
華女 「夕顔の」としたなら「干瓢むいて遊びけり」との間に切れはないわね。
句郎 単なる散文になってしまう。「夕顔に」とすることによって韻文、俳句にすることができている。
華女 「夕顔に」とすることによって間を設け、暫し夕顔の実に見とれていた時間があったことを読者に感じさせることができているということね。
句郎 芭蕉は夕顔に遊んだと言っている。そのことを読者に伝えている。
華女 夕顔に何して遊んだのかというと夕顔の皮をむいて遊んだということなのね。
句郎 そうなんじゃないのかな。
華女 干瓢作りはすでに元禄時代に出来上がっていたのね。
句郎 歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』、水口宿(現在の滋賀県甲賀市)の絵に干瓢を干す姿が描かれている。この浮世絵から分かることは江戸時代の干瓢の産地は滋賀県だったということがわかる。すでに元禄時代には干瓢の作り方は完成したいたのかもしれないな。
華女 干瓢というと下野の国の特産という印象があるけれども当時は関西が干瓢の産地だったということなのね。
句郎 寿司屋の符牒に干瓢巻きのことを「木津巻き」という。その由来の一つが、摂津国木津が干瓢生産の発祥の地といわれ、また干瓢生産が盛んであったから。また山城国から木津川を下り摂津の木津へ運ばれ、そこで干瓢巻が誕生したから。大正時代から昭和にかけて大阪の市場では山城の木津干瓢はブランドとなっていた。故に、関西では干瓢のことを木津とも呼ばれていた。更に正徳二年に近江国水口藩から下野国壬生藩に国替えになった鳥居忠英が、干瓢の栽培を奨励したことが、今日の栃木県の干瓢生産の興隆につながっているという。
華女 藩主の国替えによって干瓢の産地が近江国水口藩から下野国壬生藩になったという話ね。
句郎 干瓢は繊維質豊富な食べ物のようだから体にいいものなんじゃないのかな。
華女 便秘する若い女性が多いと聞くから干瓢はきっといい食べ物なんでしようね。
句郎 芭蕉自身は「夕顔に」の句を良い句だとは思っていなかったようなんだ。
華女 私も芭蕉の句にしてはどうかなと感じていたわ。
句郎 芭蕉は許六宛書簡の中で次のように述べている。「愚句、他へもらし成さるまじ候。(中略)殊の外草臥候の条、先(まず)筆を留め申し候」。このように門人に手紙を書いているようだからね。
華女 芭蕉自身が「夕顔に」の句は良くないと思っていたということなのね。確かに俳句初心者の句のように感じるわね。
句郎 私自身、この句について調べてみて感じることは、芭蕉は自分自身に対して厳しい人だったということかな。手紙にこの句を書いて送ってしまってから後悔しているみたいだからね。手紙を書いた後、この句は駄目だと感じたのだろう。ではないかな最初は「夕顔の」でなく「夕顔に」としたことに満足していた。

醸楽庵だより   1133号   白井一道

2019-07-23 14:37:00 | 随筆・小説



    涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹   芭蕉  元禄7年



句郎 「涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹」元禄7年。『泊船集』。異型の句「涼しさを絵にうつしたり嵯峨の竹」が伝えられている。京都、嵯峨野の野明(やめい)亭での作。
華女 京都嵯峨野、芭蕉の門人、野明亭で詠んだ句が「大井川浪に塵なし夏の月」、「清滝の水汲ませてやところてん」も京都、嵯峨野の野明(やめい)亭での作だったわね。
句郎 元禄7年6月24日付け杉風宛書簡にある句のようだ。
華女 芭蕉は凄いわね。今から3百年も前に江戸に住んでいながら京都に親しい知人、門人がいるのよね。凄いわ。
句郎 人に認められた芸を持った人は人間の幅が大きくなるということなのかな。
華女 芭蕉の俳句は多くの人々によって受け入れられていたということなのね。
句郎 俳諧を楽しむ。俳諧は遊びだった。遊びであるがゆえに俳諧を楽しむ人々がいた。
華女 芭蕉は俳諧に人を遊ばせる技を持った芸人のような人だったのかしらね。
句郎 俳諧は一種のお座敷芸の一つだったのかもしれないな。
華女 江戸時代の花魁は俳諧を楽しむ技を持っていたという話を聞いたことがあるように思うわ。
句郎 歌舞伎役者も芸者、幇間、別名太鼓持ち(たいこもち)なども俳諧を楽しんだようだからね。今でも歌舞伎役者、芸者、太鼓持ちは俳句を勉強しているようだからね。
華女 元禄時代、お金持ちになった町人がお座敷で楽しむ俳諧が流行したということなのね。
句郎 生活を楽しむ遊び、俳諧を文学にしたのが芭蕉なんじゃないのかな。
華女 今じゃ、バレリーナと言えば舞踊家、芸術家ということになるけれども、19世紀、フランスで活躍した画家、エドガー・ドガの名画「エトワール」に描かれているバレリーナは売春婦だったというじゃない。男に女を売る見世物がバレーだったらしいわよ。
句郎 庶民が楽しむ遊びが磨かれていくとそれが芸術というものになるのかもしれないな。
華女 楽しいものだから人が集まってくるのよね。俳諧も楽しいものだったということなのよね。
句郎 それは今も変わらない。楽しむものだから句会に集う人がいる。
華女 「涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹」と「涼しさを絵にうつしたり嵯峨の竹」。「うつしけり」と「うつしたり」とではどちらの句がいいと芭蕉は考えていたのかしら。
句郎 延宝8年(1680)、芭蕉は「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」という句を詠んでいる。この句も「けり」と「たり」の違いかな。芭蕉は野明亭に招かれ、嵯峨野の竹藪の中を吹いてくる風の涼しさに浸っていた。竹藪の中はこんなに涼しいのかとはっと気が付いた。嵯峨の竹を見ているうちに涼しさに気が付いたということなんじゃないのかな。助動詞「けり」には過去と回想の働きがあるようだから、芭蕉は「涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹」がいいと考えたのじゃないかと思う。
華女 「涼しさを絵にうつしたり嵯峨の竹」の場合はまるで涼しさを絵にうつしたような涼しさだということね。それでは句が死んでしまうということなのね。
句郎 芭蕉は部屋に招き入れられ、竹藪に見入っていると突然涼しい風が入ってくることに気が付いということだと思う。
華女 「絵にうつしけり」と表現しているということは、嵯峨の竹との間の切れをより深く言い表しているということね。
句郎 「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」。この句の場合も芭蕉は秋の暮に浸っているとはっと枯枝に烏が止まっていることに気が付いたということだと思う。「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」とした場合は枯枝に烏がとまっている秋の暮だなというだけの句になってしまう。