稲妻や顔のところが薄の穂 芭蕉 元禄7年
句郎 「稲妻や顔のところが薄の穂」元禄7年。『續猿蓑』。この句には前詞がある。「本間主馬が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを描きて、舞台の壁に掛けたり。まことに生前のたはぶれ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」。
華女 この句は画賛なのかしら。
句郎 大津の能太夫、本間主馬亭の床の間に骸骨どもが笛・鼓を持って能を舞う絵が架けられていた。
華女 稲妻が光り、骸骨の顔のところに薄の穂が垂れている絵だったのかしら。
句郎 青と黒の世界が表現されていた。
華女 「死の舞踏」の絵ね。
句郎 「死の舞踏」というとヨーロッパ中世世界を想像してしまうよ。
華女 日本にも同じような話があるのじゃないかしら。
句郎 小泉八雲の『怪談』かな。
華女 『耳なし芳一』の話は一種の「死の舞踏」と同じ世界の話じゃないのかしら。
句郎 日本の近世社会もヨーロッパ中世社会も死者が身近な存在だったからね。
華女 戦争が身近なものだったということね。
句郎 「死の舞踏」の時代は英仏百年戦争下であった。高熱を出し、真っ黒になって次々人々が死んでいく。人々はいつしか黒死病というようになったペストが大流行した。当時は「商業の復活」と言われた時代でもあった。その結果、インドの風土病であったペスト菌が帆船に乗ってヨーロッバに侵入した。死の舞踏は、死の恐怖が人々を半狂乱にして踊り続けるという話だよね。
華女 サンサーンスの交響詩『死の舞踏』を聞くと感じるものがあるわ。
句郎 死は人々を平等にするからな。生前は王族、貴族、僧侶、農奴などの異なる身分に属しそれぞれの人生を生きていても、ある日訪れる死は身分や貧富の差をなくし、無に統合する。死はこの世に苦しむ人々を解放する。
華女 死の恐怖は同時に解放でもあったのね。
句郎 ヨーロッパではペストの大流行から百年の時間をかけて「死の舞踏」
いう絵画や音楽が創作されるようになった。
華女 『耳なし芳一』の話が流布するのは源平合戦が終わって数百年後のことよね。
句郎 耳なし芳一は盲目の琵琶法師だった。平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であったと言われている。
華女 芭蕉が生きた元禄時代も街道には生きずりの死者が転がっていることがあったということね。
句郎 本当に死者が身近な存在だった。
華女 死への恐怖の時が去ると死を受け入れる時がくるということなのね。
句郎 死はすべての人に間違いなく平等に訪れる。
華女 「かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」とは、芭蕉の死生観の表明でもあったのね。
句郎 「人間の生前の営みすべて、髑髏の舞と異なるところはない、と観ぜられる折しも、稲妻が一閃してその瞬間、この座の人々も骸骨と化し、その顔のあたりに薄が生い出て穂が揺らいでいる幻影が、さっと過(よ)ぎ ったことだ」。芭蕉が敬慕した荘子の言葉だ。恐怖としての死ではなく、受け入れられるものとしての死を芭蕉は思っていたのではないかな。
華女 「顔のところが薄の穂」という言葉には優しさを感じるわ。
句郎 小野小町の髑髏の眼の穴から薄が生え、和歌を詠んだという伝説があるという話を聞いた。芭蕉もこの伝説を知っていた。いつしか人間は再生するということを芭蕉はもしかしたら信じていたのかもしれない。仏教思想の根本は輪廻転生だからね。仏の存在を芭蕉は信じていた。