徒然草序段を読む
「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
「ものぐるほし」の意味が分かったようで、分からない。することもなく、一日中硯に向かって、心に移り行くどうでもいいようなことを書き留めていると不思議なほど「ものぐるほし」になると兼好法師は述べている。「ものぐるほし」とは、どのような気持ちに兼好法師はなったのかな。
モンテーニュは『随想録』荒木昭太郎訳第8章「何もしないでいることについて」の中で次のようなことを述べている。「もし精神が、それを束縛し拘束する事柄に集中させられないならば、それは想像力の支配する広い野原のなかに規制のないまま投げ出され、あちらこちらとさまようことになる」。人間の精神、人の気持ちというものは事柄に束縛され、拘束されるから集中できる。しかし人間の精神、人の気持ちというものが事柄に束縛されることなく、拘束されることなく広い野原のなかに何の規制もなく、解き放たれたならあちらこちらと彷徨いだしてしまう。モンテーニュはこのように述べている。
何もすることのない自由な時間ほど苦しい時間はない。何もしたいと思うことのない自由な時間をどのようにしたらよいのか、人間の精神、人の気持ちはあちらこちらと彷徨いだすに違いない。それは「ちょうど病人の悪夢のようにさまざまな妄想が描き出される」とモンテーニュは『ホラティウス詩法』の言葉を引用している。「しっかりうちたてられた目標をもたない魂は、滅びてしまう。なぜならば、ひとの言うように、どこにでもいるということは、どこにでもいないということだからだ」とモンテーニュは述べている。
人は規制されている。人間の精神は束縛され、拘束されている。だから安心して自分の居場所にいることができる。人は人の子として生まれてくる。子は親を選ぶことなくこの世に生まれてくる。子は親に束縛さけ、拘束されているからここに存在することができる。自由な存在としてこの世に生まれてくるものではない。時間、場所、父母に規制されて子は出現してくる。人間の精神もまた時間、場所、父母に規制されて生れてくる。
だから人間の精神、魂は目標、目的に規制され、拘束され、束縛されることによって存続する。凧は糸に繋がれて初めて空を舞う。
だが、人は年老いるといろいろな制約からとぎはなたれてくる。モンテーニュも書いている。「最近、わたしは、自分に残されているこの少しばかりの余生を静かに人から離れて過ごすことにしよう。それ以外にはどのようなことにもかかずらうまいと、わたしにできるかぎりではあるが、心に決めて、自分の家に引退した。その時私には、わたしの精神を十分暇な状態のなかに放してやり、自分自身にかかりきり、自分のなかにとどまり落ち着くこと以上に大きい恩恵を、精神にたいしてほどこしてやることはできないようにおもわれたのであった。そして、わたしの精神が、時間がたつにつれていっそう重みを増し、一層成熟したうえで、このことを、いっそうたやすく行えるようになればよいと希望していた。しかし逆に暇はつねに精神を散らす。私の精神は離れ馬のようになって、ほかの人間に対して与えていた気遣いよりも百倍も多くの気ずかいを、自分自身に与えるものであるということがわかった。そして私の精神は、それほどまでに多くの幻想的な奇獣怪物を、つぎつぎに秩序もなく目的もなく生み出してくるので、そのばからしさ、奇妙さをゆっくり思いみようとして、それらを記録にとりはじめたほどだ。時間がたつにつれて、私の精神にそれらを恥ずかく思うようにさせようと期待しながら」と。
目標、目的に規制されない人間の精神は年老い、家のなかに引退してみても変わる事がない。生れてくるものは幻想的な奇獣怪物以外にはないという。
モンテーニュは16世紀後半に生きたフランスの哲学者、人文学者である。16世紀後半のフランスはいつ果てることなく40年近く続いたユグノー戦争、新旧キリスト教の戦いの時代だった。モンテーニュはトレランス、寛容を説いた哲学者であった。モンテーニュが説いた無為、何もしないということは兼好法師の「つれづれなるままによしなしごとをそこはかとなく」書く「ものぐるほし」を表現したものだいえる。朝廷勢力が武家政権によって最終的に倒された後の朝廷勢力側に生まれ育った兼好法師は隠遁者であり、歌人であった。
「代々をへてをさむる家の風なればしばしぞさわぐわかのうらなみ」。和歌を読むと貴族の血がゾクゾク騒ぐ隠遁者であった。