醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 137号  聖海

2015-03-31 10:37:29 | 随筆・小説

    明日は檜だ。  アスナロ
      日は花に暮れてさびしやあすなろふ   芭蕉(貞享5年)

 芭蕉は俳文を書いている。「あすは檜の木とかや、谷の老木(おいき)のいへる事あり。きのふは夢と過て、あすはいまだ来たらず。ただ生前一樽(いっそん)のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終(つい)に賢者のそしりをうけぬ」
 「日は花に暮れてさびしやあすなろふ」の句を推敲したのであろう。
 さびしさや華(はな)のあたりのあすなろふ
 青年期の心情が伝わってくる。
Aさんは中学、高校、大学と野球をした。W大に進学したAさんは野球部に入部した。大学の4年間、一度も公式戦に出場したことはない。3年生になってもグランドの土ならしをするトンボを引いた。甲子園に出場した経験を持つ選手たちは一年生の時から公式戦に出場する。華やかな早慶戦を客席からユニホームを着て応援した。大学を卒業すると出身高校教師たちの応援を得て県立高校社会科の教師になった。
県立高校野球部の監督になった若かった頃、夢は甲子園野球大会出場だった。40キロの長距離走を野球部員全員と一緒に走った。互いに励まし合い、走り切った。その後、野球の練習を日の暮れるまでこなした。甲子園出場を心に誓っていた。甲子園野球県予選が始まった。一回戦を勝った。二回戦に進むとエースのピッチャーが試合前日に胃が痛いと言って来た。メンタルトレーニングが不十分だったんだ。心の底の方から後悔が疼き始めていた。試合当日、心の乱れがチームに漂っているのを感じた。監督の俺の気持ちが生徒たちに伝染しているのだ。試合を棄権したい気持ちにかられた。その気持ちを生徒に見せるまいと奮起する自分を自覚した。エラーをしたことのないチームの要、セカンドにエラーが出た。イレギュラーのバウンドをしたゴロの捕球に失敗したのだ。記録にエラーと出てしまった。いいところもなく負けてしまった。
大会が終わると三年生は野球部を引退した。二年生を中心にした新しいチームをつくり始める。今年のテーマはメンタルトレーニングだ。
 朝は誰よりも早く学校に登校する。グランドに出て生徒たちが出て来るのを待つ。怒鳴っても意味ないことを知り、生徒たちが自主的に練習し出すのを待っている。生徒たちは集まると二列縦隊となって声を合わせ走り始める。一緒に走る。走り終わると体操をする。生徒たちはキャッチボールを始める。一人一人の生徒のキャッチボールをしっかり見る。これで朝練は終わりだ。
 朝は6時に出勤し、夜は9時に退勤した。夏休みはお盆に一日休んだだけだった。お正月に生徒たちは年賀状配達のアルバイトを部としておこなった。郵便局から出て行く生徒たちを見送るため、元日は朝6時に郵便局に行った。郵便局長からは間違いのない真面目な配達だと毎年、感謝されていた。アルバイト代はすべて部費として集めた。野球にはお金がかかる。保護者の負担を少しでも軽くするため、保護者の理解を得て、年賀状配達のアルバイトを部として行った。アルバイトを禁止している学校内あって野球部の年賀状配達アルバイトを特例として職員たちに認めてもらった。明日は檜になるんだ。その気持ちを30年間持ち続けた。弱小チームを監督し、甲子園出場を夢見たが、県大会ベスト8が最高だった。
 さびしさや華のあたりのあすなろふ
 甲子園野球大会出場を夢見た県立高校野球部監督の人生のようである。

醸楽庵だより 136号  聖海

2015-03-30 10:46:20 | 随筆・小説

    古代日本人はお酒を楽しむ人々だった

     古人(ふるひと)の食(たま)へしめたる吉備(きび)の酒
病(や)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
             巻第四 554 賀茂女王(かものおほきみ)の歌

 昔の人が炊いた黍を噛み、醸した酒ですから悪くなっていたらどうしようもありません。そのときはやむを得ず貫簀(ぬきす)で酒を漉していただきますので貫簀(ぬきす)をいただけませんかというような意味である。貫簀(ぬきす)とは細い竹で編んだすだれをいう。
 当時の女性が詠んだ歌である。今から1250年くらい前、天平時代と呼ばれる時代に詠まれた歌であるが現代の女性と変わらない心得であろうか。女性がお酒を楽しむ文化がこの時代にはあった。人の気持ちは千年前も今も変わらないが、酒の造り方、飲み方は大きく変わった。
 若い女性が炊いた穀物を口で噛み、吐出し、それを甕に溜め、水を加え発酵を待つ。若い男が噛んだ酒は発酵しなかったという。唾液で穀物のデンプンを糖分に変える。その糖を空気中に存在する酵母が食べる。酸素のない所で生きる酵母はアルコールを吐出し、炭酸ガスを放出する。これが酵母の生命活動である。酵母が生きることがお酒を生成する過程でもある。出来上がったものが今でいう濁酒(どぶろく)である。この濁酒は食べることはできても水を飲むように飲むことはできない。古代日本人にとってお酒は飲む物ではなく、食べるものであった。
 現代の日本酒は古代の日本人が食べた濁酒に更に水を加え、蒸した米を加える。このことを「掛け」という。一般的には三回、「掛け米」をする。こうしてアルコール度数を上げたものを「醪(もろみ)」という。この醪を木綿布で絞ったものが清酒である。
 賀茂女王(かものおほきみ)が食べたお酒のアルコール度数は4~5%位のものであったろう。三段掛けの技法が発見されてからアルコール度数が20%近くに達するお酒が造られるようになった。
 万葉集の同じ巻に次のような歌がある。
 君がため 醸(か)みし待酒(まちざけ) 安の野に独りや飲まむ友無しにして  大伴旅人
 あなたがお出でなると聞きましたのでお酒を造って待っておりましたのに、あなたが見えませんでしたので一人でお酒を楽しんでおります。このような意味でしょうか。本当に人の気持ちは変わらないものです。酔いを楽しむ文化が万葉の時代にはあった。ところが、時代が下ってくると共にお酒を楽しむ文化が無くなっていった。
 8世紀聖武天皇が東大寺を建立し、鎮護国家の宗教として仏教に帰依するようになるとお酒が仏教の戒律に触れるということになる。10世紀初めに編まれた『古今集』になるとお酒を飲んで酔いを楽しむ歌は一つもない。仏教思想に影響を受けた禁酒の文化はなんと江戸時代中ごろまで続く。しかし仏教の禅宗に強い影響を受けた芭蕉は禁酒の思想を継承していない。酔いの楽しみを詠んだ句が芭蕉にはある。元禄時代にお酒の酔いの楽しみを味わっていたのは豊かになった町人たちであった。この町人の文化を詠んだのが芭蕉の俳句であったからである。
花にうき世わが酒白く飯黒し 花を愛で、酔いに親しむうき世万歳
扇にて酒酌むかげやちる桜   散るさくらの蔭にお酒が楽しめる
花に酔へり羽織着て刀さす女  酒に酔った女が刀を差して踊り始めたよ
酒のみに語らんかかる滝の花  滝の音を聞いて酒が呑める。あぁーいいもんだ
二日酔いものかは花のあるあいだ  こうして酒が呑めるのも花が咲いている間のことじゃないか
酔うて寝ん撫子咲ける石の上  あぁーいい気持ちだ。撫子が咲く石の上でひと寝入りだ
芭蕉は酔いの楽しみを詠んでいる。

醸楽庵だより 135号  聖海

2015-03-29 14:29:04 | 随筆・小説

   芭蕉、座右の銘
      ものいへば唇寒し秋の風   作句年不明(元禄4年?)

 調子に乗って軽口を叩いてしまった。見回すと沈黙が広がっている。空いた口が塞がらない自分に気付く。心の中に秋風が吹いていく。若いころ、こんな経験を何回したことだろう。黙っていようと思っても口がすべってしまう。あぁー芭蕉もそうだったんだ。身分制社会に生きる芭蕉にとって口は災いの元だったに違いない。見ない。聞かない。言わない。これが安全、安心に生きる術だったのだ。今もきっとそうなのだろう。テレビで辛口の時事評論するコメンテイターS氏が話していた。人の名誉を傷つけたと数千万円の慰謝料を求める裁判を起こされたと。
 芭蕉はこの句に前文を載せている。
「ものいはでただ花をみる友もがな」といふは、何がし鶴亀が句なり。わが草庵の坐右にかきつけけることをおもひいでて、
 黙って花を共に愛でる友がほしい。これをわが草庵の座右の銘とする。芭蕉庵を訪ねては発言の多い来客がいたのだろう。それらの来客に口がすべって痛い思いをしたことが芭蕉にはあったのだろう。出自が農民であった芭蕉には気を付けなければならないことが多かった。別の懐紙には次のような前文がある。
   座右之銘
 人の短をいふ事なかれ
 己の長をとく事なかれ
 延宝6年(1678)、35歳になった芭蕉は万句興行をし、俳諧の宗匠として立机した。俳諧宗匠として生活していくためにはお弟子さんを多数獲得しなければならなかった。芭蕉を慕って集まってきた人々の欠点を指摘するようなことをしては人は来なくなってしまう。自分が詠んだ句の自慢をすれば、飽きられてしまう。「ものいへば唇寒し秋の風」とは俳諧師匠の経営理念だったのだろう。口数少なく、弟子の存在そのものを受け入れる。弟子が詠んだ句を添削することはあっても、弟子自身が納得できるような手を加えることがあってもその存在を否定するような添削はしなかったのだろう。しかし、添削で生活する俳諧師匠の在り方は俳諧芸者に過ぎないと思い始めた芭蕉は深川芭蕉庵に隠棲した。
 商売人としての俳諧師匠の生活を止めた芭蕉の心の世界を表現して句が「ものいへば唇寒し秋の風」だった。「友なきを友とし、貧(まずしさ)を富りとして」と『閉関之説』で芭蕉が書いているように深川芭蕉庵での貧しい、友なき生活の中で芭蕉の文学世界が開花する。そのころの芭蕉の心の世界を表現した句が次のようなものであ。
  侘びてすめ月侘齋がなら茶歌
   茅舎ノ感
  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
   深川冬夜ノ感
  櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル夜やなみだ
 乏しい食事と寒さ、数少ない友。この生活を味わい尽くした結果が旅に生き、旅に死ぬ覚悟を決めた人生だった。きっと口数の少ない静かな生活の中で芭蕉の文学世界は展開していった。



醸楽庵だより 135号  聖海

2015-03-29 12:19:03 | 随筆・小説

   芭蕉、座右の銘
      ものいへば唇寒し秋の風   作句年不明(元禄4年?)

 調子に乗って軽口を叩いてしまった。見回すと沈黙が広がっている。空いた口が塞がらない自分に気付く。心の中に秋風が吹いていく。若いころ、こんな経験を何回したことだろう。黙っていようと思っても口がすべってしまう。あぁー芭蕉もそうだったんだ。身分制社会に生きる芭蕉にとって口は災いの元だったに違いない。見ない。聞かない。言わない。これが安全、安心に生きる術だったのだ。今もきっとそうなのだろう。テレビで辛口の時事評論するコメンテイターS氏が話していた。人の名誉を傷つけたと数千万円の慰謝料を求める裁判を起こされたと。
 芭蕉はこの句に前文を載せている。
「ものいはでただ花をみる友もがな」といふは、何がし鶴亀が句なり。わが草庵の坐右にかきつけけることをおもひいでて、
 黙って花を共に愛でる友がほしい。これをわが草庵の座右の銘とする。芭蕉庵を訪ねては発言の多い来客がいたのだろう。それらの来客に口がすべって痛い思いをしたことが芭蕉にはあったのだろう。出自が農民であった芭蕉には気を付けなければならないことが多かった。別の懐紙には次のような前文がある。
   座右之銘
 人の短をいふ事なかれ
 己の長をとく事なかれ
 延宝6年(1678)、35歳になった芭蕉は万句興行をし、俳諧の宗匠として立机した。俳諧宗匠として生活していくためにはお弟子さんを多数獲得しなければならなかった。芭蕉を慕って集まってきた人々の欠点を指摘するようなことをしては人は来なくなってしまう。自分が詠んだ句の自慢をすれば、飽きられてしまう。「ものいへば唇寒し秋の風」とは俳諧師匠の経営理念だったのだろう。口数少なく、弟子の存在そのものを受け入れる。弟子が詠んだ句を添削することはあっても、弟子自身が納得できるような手を加えることがあってもその存在を否定するような添削はしなかったのだろう。しかし、添削で生活する俳諧師匠の在り方は俳諧芸者に過ぎないと思い始めた芭蕉は深川芭蕉庵に隠棲した。
 商売人としての俳諧師匠の生活を止めた芭蕉の心の世界を表現して句が「ものいへば唇寒し秋の風」だった。「友なきを友とし、貧(まずしさ)を富りとして」と『閉関之説』で芭蕉が書いているように深川芭蕉庵での貧しい、友なき生活の中で芭蕉の文学世界が開花する。そのころの芭蕉の心の世界を表現した句が次のようなものであ。
  侘びてすめ月侘齋がなら茶歌
   茅舎ノ感
  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
   深川冬夜ノ感
  櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル夜やなみだ
 乏しい食事と寒さ、数少ない友。この生活を味わい尽くした結果が旅に生き、旅に死ぬ覚悟を決めた人生だった。きっと口数の少ない静かな生活の中で芭蕉の文学世界は展開していった。



醸楽庵だより 134号  聖海

2015-03-28 10:18:56 | 随筆・小説

   心には四月の朝陽満ちにけり  聖海 
             定時制高校に青春があった

 大衆食堂に私の大学があった。毎日、定時制高校の授業が終わり校門を出ると仲間と大衆食堂に行った。そこで政治や哲学、文学の話をした。1960年代はそのような時代だった。革新思想が大衆の心を捉えた時代だった。
 千葉県野田市市議会議員Fさんは昭和36年中学を卒業、K食品株式会社に入社した。当時、中学卒業と同時にK食品株式会社に入社できる人は選ばれた数少ない人だった。隣近所の人から羨ましがられた若者だった。
 K食品会社は中卒の従業員が高卒の資格が得られるよう援助していた。4時に仕事を終え、高校への登校を保証した。Fさんは4時半には高校の校門をくぐった。学校には優秀な生徒が数多くいた。勉強の好きな同窓には有名大学に進学した人がいた。
 定時制高校の授業が8時に終わると級友や先輩、時には先生と一緒に大衆食堂の暖簾をくぐった。夕食を兼ね、たまにはビールやお酒を飲むことがあった。今では考えられないことである。この夕食が楽しかった。ここで学んだことが本当の勉強だった。生きた学問だった。
 昭和37年、F村村長を経て、野田市市議会議員であったSさんがN市長に立候補した。それまで野田市の市長はK食品会社の関係者が市長をしていた。野田氏はK食品会社の企業城下町だった。SさんはK食品会社とは何の関係もない人であった。市民は誰もSさんが市長に当選するとは思わなかった。ところが投票開票が進むにしたがって市民の間に驚きが広がって行った。Sさんの票数がグングン伸び、市長に当選してしまったのだ。
 野田市助役経験者の対立候補を破り、社会党候補のSさんが市長に当選した。野田市民はこの選挙結果に驚嘆した。Fさんが定時制高校一年生の時の大きな出来事だった。革新市長誕生の熱気が校内に満ちていた。この熱気はまた1960年代の日本の熱気でもあった。Fさんは生徒会役員に立候補した。文化祭では定時制高校の在り方についての討論会を企画・運営した。勉強の在り方、学問の在り方について討論したかったのだ。食堂での夕飯は討論の場でもあった。遅くとも10時には終え、自転車で夜道を一時間かけて家路についた。木枯しが吹く向かい風を受けても心の中は寒くなかった。Fさんの未来は輝いていた。
 昭和41年の市長選が凄かった。Fさんは高校を卒業し、K食品会社労働組合青年部の役員になっていた。K食品会社はS市長の対立候補としてK食品会社重役経験者を立候補させた。会社を挙げて、打倒Sをめざした。K食品会社の労働組合は会社と対立してS候補支持を表明、応援した。FさんはS候補当選を目指し、奮闘した。会社と組合が全面対決した激しい戦いだった。野田市内の商店街、町内会が色分けされた。看板が立て替えられ、ポスターが剝され、張り替えられる。夜間にはそのため夜通し警備員が付いた。この活動を通じて政治活動としての選挙運動の洗礼を受けた。政治活動の面白さを実感した。
 Fさんは大衆食堂で学んだ社会学がその後の人生を決めたように感じている。10代の後半、実感として学んだこと、人々の生活向上のために働くことが自分の生きる目標になった。1960年代の時代の潮流が同時にFさんの背中を押した。Fさんは政治家への道を歩み始めた。K食品会社労働組合選出の市議会議員候補として立候補し、当選した。それから7期野田市市議会議員として活躍した。

醸楽庵だより 133号  聖海

2015-03-27 10:44:04 | 随筆・小説

   「が」と「の」は文章の中でどのような役割をするか
      「五月雨の降りのこしてや光堂」  芭蕉『おくのほそ道』中尊寺

 「五月雨の降のこしてや光堂」。中尊寺の光堂に参拝したときに芭蕉が詠んだ句である。この句は「金を打延たる如く」と芭蕉が去来に述べた一物仕立ての句である。句中の「や」で切れている句である。この句の「五月雨の」の「の」の意味が解りづらい。
この句が表現していることは「五月雨が」光堂を「降り残した」。散文で表現するなら、これだけでたりる。この散文に想いの丈を込めたものが韻文、俳句である。芭蕉は想いの丈を込めて「五月雨の」と詠みだした。
曽良旅日記によると芭蕉と曽良が中尊寺に参ったのは陰暦の五月十三日である。この日付を太陽暦に換算すると六月二十九日になる。この時期はまさに梅雨の頃である。この梅雨の時期の雨を「五月雨」という。ざぁーざぁー降る雨が五月雨なのだ。この強い風雨に何百年間もさらされて猶、光堂は金色に輝いていた。きっと光堂には雨を天の神は降らせなったに違い。このような解釈がある。また一方には長年にわたる風雨に耐え忍び光堂は金色に輝き続けているという解釈がある。キーポイントは五月雨にある。ざぁーざぁー降る強い雨だ。この雨「が」光堂を降り残した。これで文章は完結する。これに対してざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した。これでは気持ちがすっきりしない。文章が完結しない。ざぁーざぁー降る強い雨「の」降り残した光堂。これで気持ちがすっきりする。文章が完結する。
 「五月雨(が)降りのこしてや光堂」と「五月雨(の)降のこしてや光堂」。たった一字しか違わないが「の」の方が感慨が深い。芭蕉の想いが伝わってくる。
「が」では俳句にならない。意味は通じても芭蕉の想いが伝わらない。醸し出す余韻がない。なぜなのだろう。
「の」と「が」が表現する文法的な役割は同じなのだ。だから「の」を「が」に変えても意味は通じる。問題はなぜこの俳句の場合には「の」でなければならないのか。「の」の方が想いが伝わり、感慨が深くなるのだろう。
 「五月雨が降りのこした光堂」。「五月雨の降りのこした光堂」。両方とも文章としては問題がない。しかし意味に違いが出てくる。「が」の場合は五月雨が強調されるのに対して「の」の場合は光堂が強調される。「の」と「が」では意味合いが異なってくるのだ。芭蕉が表現したかったのは「光堂」なのだから「の」でなければならない。
 「の」も「が」も文法的には格助詞だ。この句の場合、主題を導く役割をしている。そのため入れ替えは可能なのだ。可能ではあるけれども意味合いに違いがでてくる。「君(が)代」は「君(の)代」とも表現は可能だ。意味も同じだ。けれども「君が代」は「君が代」でなければならない。こう表現しなければ私たちの気持ちはすっきりしない。この場合の「が」と「の」の働きは体言に付いて連体修飾語をつくる役割をしている。この場合も「君が代」の場合は君を強調するが、「君の代」の場合は代を強調する。だから「君が代」は君・天皇を讃える歌なのだ。天皇を讃える歌でなければならないから「君の代」であってはならない。「君が代」でなければならない。


醸楽庵だより 132号  聖海

2015-03-26 11:24:08 | 随筆・小説

 新聞購読をやめる

 新聞購読を止めて4・5年になる。新聞を読みたいと思わない。朝日新聞を40年間購読してきた。定年退職後、消費税増税を巡って国会論戦が行われていたころ、朝日新聞に電話した。消費税増税やむなしという朝日新聞の論調に嫌気がさし、電話したのだ。電話に出た読者係の職員は私と同じような定年退職後、再雇用されたような感じの年配の男の人だった。
「最近の朝日新聞は政府の広報誌のような記事ばかりですね」
「消費税増税なしにどうして社会保障費を賄うことができるのですか」
 朝日新聞読者係の職員は私に対して消費税増税必要論を説得する。この話を聞いて私は朝日新聞購読をやめる決心をした。早速、私は近所の新聞販売店に行き、新聞購読を止める旨、新聞販売店経営者に告げた。
「担当者は誰ですか」と新聞販売店経営者は私に問うた。
「知りません」
「誰が回っていますか」
「わかりません。私は40年間、契約することなく購読を続けてきました。手ぬぐいや、野球、落語などの見物無料券を一度も貰ったことがありません」
 新聞販売店経営者は慌てふためき、私の所番地、名前を確認すると近所の温泉無料入浴券を五枚くれた。後日、新聞販売店経営者は私の自宅を訪ね、今度は「読売さんですか、それとも毎日さんですか」と問うた。私はどこの新聞も購読するのを止めるのですと、答えた。「また、どうして新聞購読をお止めになるのですか」。「つまらない記事ばかりで読まなくてもいいかなと、思ったからですよ」
 新聞販売店経営者は怪訝な顔をしていた。朝日新聞社は新聞販売店経営者を集めて記事内容についての読者の反応などを聞く会を催すことはないのですかと、問うと、そのようなことは何もないという返事だった。この話を聞き、私は新聞社の驕りのようなものを感じた。
 2014年の後半、朝日新聞は他の新聞社を中心にメディアから従軍慰安婦問題や原発問題を巡って厳しく批判された。きっと購読者は減ったのではないかと思っていた。インターネットでニュースを得ている私は孫崎享さんのツイッター見て驚いた。2015年下期(9月~12月)朝日新聞の減紙44万部、読売新聞60万部、発行部数が減っている。朝日新聞より読売新聞は発行部数を減らしているのだ。読売、産経は先頭を切って朝日新聞を批判したが、両社とも発行部数を減らしている。このことは朝日新聞誤報問題が朝日から読者を引き離したということではないのかもしれない。全ての全国紙が読者の信頼を失っていっているのかもしれない。
 内田樹さんは講演会で話していた。新聞の読者層は5、6、70代の高齢者たちだ。若者は新聞を読まない。少子高齢化が進めば加速度的に新聞の読者離れは進むだろう。全国紙は無くなっていく。何百万部という発行部数を誇る新聞がなくなる日は近いというような発言をしていた。また、こんなことも言っていた。朝日新聞政治部の記者に良い記事を書く人がいた。首相動静欄を見たら、その記者が安倍首相と一緒に他の新聞やマスコミ関係者と共にお寿司を食べているの見つけたと。私はこの話を聞いた時、朝日新聞政治部部長S記者のことかなと思ったりした。
 若者は新聞を読まないばかりでなく、テレビも見ない。民放の番組制作費が減額されているので、お金がかかる番組は作れなくなってきている。このような話もしていた。
 安倍総理がマスコミ関係者に高価なお寿司を奢っても、思ったほどの効果があるのかどうか、疑問である。その結果がもうすぐ判明する。統一地方選挙で自民・公明両党推薦候補がどれだけ当選するのだろう。
 NYタイムズ東京支局長マーティンファクラーさんは言っていた。日本政府は国民を見くびっていると。そのつけが選挙結果に表れるに違いない。



醸楽庵だより 131号  聖海

2015-03-25 10:32:13 | 随筆・小説

  現在知られる芭蕉のもっとも古い句
       春や来し年や行きけん小晦日(こつもごり)   芭蕉19歳、寛文2年

句郎 現在知られている芭蕉が初めて詠んだ句を華女さん、知っている?
華女 知らないわ。何を詠んだ句なの。
句郎 「春や来し年や行きけん小晦日(こつもごり)」という句らしいよ。
華女 何を詠んでいるのか、さっぱりだわ。
句郎 「小晦日(こつごもり)」とは大晦日の前日を言うらしい。「春や来し」とは「春が来た」という意味かな。「年や行きけん」とは「新しい年が来た」ということ。
華女 全然わからないわ。何を言っているの。
句郎 寛文2年の12月29日は大晦日の前日、小晦日の日になるでしょ。この小晦日の日に寛文2年は立春が来てしまった。寛文2年の小晦日の日は春が来たと言うのか、それとも新しい年が来たというのかなと、言う意味のようだ。
華女 ただそれだけの句なの。
句郎 芭蕉19歳の時の句だからね。
華女 実際にそういうことってあったのかしら。
句郎 太陰暦の場合、そういうことが起こったんじゃないの。
華女 いまいち、良くわからないけど、わかったことにしておくわ。
句郎 『古今集』春歌の最初が在原元方の詠んだ歌、ふるとしに春たちける日によめると前書きして「年の内に春は来にけり一年を去年とや言はん今年とや言はん」とね。
華女 芭蕉はこの歌を下敷きにして詠んだというわけね。
句郎 そのようだよ。芭蕉のこの句の他にも北村季吟は『山之井』の中に「年の内へふみこむ春の日足哉」があるそうだ。更に「あだ花の春やまづたつ年の内」と言う句や「雲も霞も立つ春を去年とやいはん年の暮」とかね、同じような句があるようだよ。
華女 年の中に春が来るのを面白がって詠んでいるわけね。
句郎 手垢の付いた笑いなのかな。
華女 使い古されたオヤジギャグってところね。
句郎 芭蕉は笑いの好きな機知に富んだ青年だったというイメージが湧くよね。
華女 一緒にいると楽しい男の人という印象が芭蕉だったのかしら。
句郎 そうかもね。だからモテタんじゃないかな。
華女 芭蕉の周りには人が集まって来たんじゃないかしらね。
句郎 当時、笑いを楽しむ談林派の俳諧が大勢だったから、農民や町人でも楽しめる俳諧に興味関心を芭蕉は持ったのかもね。
華女 芭蕉は生涯にわたって、「笑い」を求める精神を持ち続けたんじゃないのかしらね。小説家なんかもその作家の精神は処女作に表れているなんて言うじゃない。
句郎 そうだよね。風雅の誠を追求する孤高の俳人というイメージが芭蕉にはあるけれども実際の芭蕉はそうではなかったんじゃないかという気がするね。
華女 案外、そうなんじゃないかしらと、私も思うわ。

醸楽庵だより 130号  聖海

2015-03-24 10:47:13 | 随筆・小説

  民主主義を問う「翁長沖縄県知事、ボーリング調査停止指示」について

 翁長沖縄県知事が上京し、安倍首相や菅官房長官、他の関係閣僚などに知事就任の挨拶をしたいと申し出たが、「日程が合わない」と断られた。知事が辺野古に米軍基地を移設することに反対しているので「会っても意味がない」と中谷防衛大臣は本音を漏らした。翁長沖縄県知事に対し、「もう少し国の安全保障や沖縄県のことを考えて頂きたい」と苦言を申し述べた。
 民主主義とは話し合いで問題を解決する。意見の違った者と話し合いをする。これが民主主義である。意見の違った者とは話し合いはしても無駄だという考えは民主主義を否定する。「もう少し国の安全保障を考えてもらいたい」ということは国の言うことを聞いてもらいたいということなのだろう。言うことを聞かない者とは話し合いをしない。これは民主主義を否定する独裁者の言うことだ。
 沖縄県知事選に臨んだ翁長候補は「民主主義の品格」ということを主張していた。元々自民党員であった翁長氏は自民党の民主主義を信じていた。「民主主義の品格」を尊重する政党が自民党だと信じていた翁長候補は沖縄県民の意志が辺野古に米軍基地を建設することに反対だと言うことであるなら、自民党はその沖縄県民の意志を尊重してくれるのではないかと考えていたのだろう。
 2015.3.23日、翁長沖縄県知事は県庁で緊急記者会見を開き、辺野古新基地建設に伴い、沖縄防衛局が海底に設置したコンクリートブロックがサンゴ礁を傷つけている蓋然性があると、沖縄防衛局側に対し、ボーリング調査などの海上作業を7日以内(3月30日)に停止するよう文書で指示したと発表した。また沖縄県はサンゴ礁破壊があるのかどうか調査したいと米軍が管理している臨時制限海域に潜水調査を求めたが、米軍側が拒否した。
 翁長知事は、「調査さえできないことは不合理極まりない」と発言していた。米軍が管理する海域に沖縄県行政機関が入ることができない。日本は独立国ではないのか。疑問を感じる。
 沖縄防衛局に対する翁長知事の指示に対して菅官房長官は「甚だ遺憾だ」と批判し、「文書の内容を精査した上で法令にのっとって対応する。一般論として、現時点において作業を中止すべき理由は認められない」と語り、県の指示に従わない意向を述べた。話し合いで解決したいとは述べない。一方的に国の意志を沖縄に押し付けようとしている。ここに民主主義の品格はないだろう。
 沖縄県民は心配している。沖縄に米軍基地ができることに心配している。米軍基地があるから攻撃されると心配している。米軍基地がなければ攻撃される可能性は低くなるだろう。生命・財産の安全が保障されなくなるから沖縄県民は米軍基地が沖縄にできることに反対している。中谷防衛大臣が沖縄県民に「もう少し国の安全保障を考えてほしい」と言うのは沖縄県民にとって本土のために犠牲になってくれということに他ならない。第二次大戦でも沖縄は犠牲を強制された。もうこりごりなのだ。
 辺野古への米軍新基地建設の費用はすべて日本国民の税金で作られる。米軍基地で働く軍人の住宅まで日本人の税金で作られる。仮想敵国は米軍基地のあるところをまず攻撃する。沖縄県民にとって自分たちが支払った税金で作られた米軍基地があるため犠牲にされる。こんなバカなことがあるだろうか。
 アメリカ合衆国はなぜ自分たちのお金で辺野古への基地を作ろうとしないのだろうか。本当に沖縄に基地が必要だと考えるのならアメリカ合衆国は自国の税金で基地を作るだろう。日本政府がアメリカ合衆国にお願いしているからなのではないだろうか。沖縄に米軍がいてほしいと日本政府がお願いするのでアメリカもその日本政府のお願いを聞いているのではないか。これがどうも現実なのではないだろうか。
 安倍政権とは日本国民を不安のどん底に落とし込む危険な政権だと言わざるを得ない。

醸楽庵だより 129号  聖海

2015-03-23 11:31:53 | 随筆・小説

   消費税増税を控えて

侘輔 いよいよ消費税10%時代がくるね。
呑助 1年後の2016年からですから、まだまだですよね。
侘助 そうらしいね。日本酒もじりじり値上がりだしてきたよ。
呑助 そんな感じがしますよ。
侘助 お酒は酒税を払った他に消費税が課けられるからね。
呑助 税金に税が課けられるんですね。酒造会社は文句を言わないんでしようかね。
侘助 うーん。酒造会社は税務署に弱いからね。なかなか難しいんじゃないかな。でも消費者のことを考えて税に税を課けるのは辞めてもらいたいと言ってもいいよね。
呑助 日本酒にはいくらくらいの税金が課けられているんですかね。
侘助 1キロリットル当たり12万円だから、1升瓶にすると252円になる。それに消費税が10%つくようになると、消費税25円と酒税を合わせると277円が税金ということになるかな。
呑助 ビールや焼酎はどうなんですか。
侘助 財務省は発泡性酒類と言っているがビールだよね。1キロリットル当たり、22万円だ。ビールの大びんは何リットル入っているか知っている。
呑助 1升瓶が1.8ℓだから、1ℓははいっていないなー。0.6ℓ位かな。
侘助 いい線いっているよ。厳密に言うと633ml。不思議な半端な数字だね。
呑助 不思議ですね。
侘助 おおよそ、ビール大瓶1本に付き138円の酒税ということになる。ヒールは一番酒税が高い。その酒税に10%の消費税が付くようになるから151円が税金ということになるね。
呑助 飲むなら、ビールより日本酒ですかね。でもどうしてビールは酒税が高いんですかね。
侘助 それはビールが一番売れているからじゃないかな。
呑助 一番税収が上がるからということですか。焼酎はどうなんですか。
侘助 焼酎も上がってきているらしい。1キロリットル当たり20万円だ。だから1リットル入りの焼酎だと200円が酒税になる。蒸留酒の場合、アルコール度数が一度上がるたびに1キロリットル当たり、1万円づつ酒税が上がっていくシステムになっている。だからアルコール度数の高い焼酎は高くなるわけだ。その上、酒税に消費税がかかるから更に高くなるね。
呑助 焼酎をお湯割りで飲むと税金の支払いは少なくなりますね。
侘助 低アルコールの焼酎にして飲むと確かに体にも懐にも優しい飲み方かもしれないね。
呑助 それにしても焼酎の酒税は日本史に比べて高いですね。
侘助 昔、焼酎を楽しんだ人々に比べて、今は中間層の人々が普段に飲むようになったから税金も少しづつ高くなってきたようだよ。
呑助 羊の毛を刈る良い職人は羊が啼かないように刈る。これが徴税吏の技だと財政学の先生が話していたのを覚えています。
侘助 ホントにそうなんだ。文句を言われずに取りやすいところから徴税する。これが政府の本音だろうね。だから消費税導入反対なんて言う人には厳しくマルサが入り、おとなしく賛成してくれる人には益税で優遇する。