資本主義経済はいかに生まれて来たのか 9
イギリスで綿布生産が始まった
18世紀までヨーロッパの人々の基本的な衣類の素材は毛織物であった。イギリスやアルプス以北のドイツやフランスは寒冷な地域であった。この寒い地域に住む人々の衣類は暖かい毛織物であった。ジョン・ケイが発明した飛び杼も毛織物を織る道具の一種として発明された機器であった。
17世紀のイギリスは、身分制社会であった。一般庶民は貴族が身に着けるような服を身にまとうことが許されなかった。服装によって身分の違いが一目瞭然に分かる社会であった。貴族の服装はさまざまな毛織物の布地をふんだんに使ったファッション性の豊かなものであったが、庶民は毛織物や麻の布でできたシンプルな服をボロボロになるまで着まわしていた。平民の商工業者が富を得ても貴族の服装を真似することすら許されなかった。
清教徒革命から名誉革命にいたる一連の市民革命の結果、貴族の服を作っていた職人たちが職を失い、市民の住む街中に洋服屋を開店した。富を得た市民たちは貴族の服装を真似たものを身に着けるようになった。特に市民に人気を得た服がインドから輸入されるようになったキャラコで作った服であった。
キャラコとは、インド産の綿布のことである。それまでの服装によく使われていた毛織物に比べて安価で耐久性も高く、洗濯もしやすいキャラコは、庶民にとって理想的な布であった。さらにインド独特の染色技法によるカラーとデザインは鮮やかで、民衆の心を奪うには十分すぎるほど魅力的でした。このキャラコの普及によって、民衆の服装は劇的に変わる。それはまさに従来の服飾概念を「解体」し、ファッション革命となるような衝撃的な出来事であった。
この市民の味方ともいえるキャラコに対して、イギリス国内では反発も起こる。従来の毛織物業者にしてみれば、キャラコは強力な競合相手であった。
キャラコ輸入の反対デモなどが行われ社会問題になった結果、1700年にキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法が制定されるが、しかし、このときにはすでに後戻りできないほど、キャラコはイギリス民衆に深く根付いていた。キャラコの輸入が国内の製造業者を圧迫するなら、国内でより安く大量に生産すればいい。そう考えた人々が、キャラコの国産化に向けて綿織物の生産技術を研究し始める。
1733年にジョン・ケイは、織物の横糸を通すときに用いる道具であるシャトルを飛ばすことで効率化させた「飛び杼(とびひ)」を発明した。手でシャトルを動かす必要がなくなり、よりスピーディに布を織ることができるようになった。この発明を皮切りに、織り機や紡績機の技術が格段に進んでいく。
昔から、植物の繊維や動物の毛から糸を作り、布を作るという作業が行われてきた。それら天然繊維は、採取したまま布を作れるほど長くは無く、太くも無い。そのため、人々は天然繊維を撚って(=細長くねじって)糸にした。この作業が紡績である。後に糸車を使うようになった。
1767年、ジェームズ・ハーグリーブスは複数の糸を同時に撚ることができる装置、ジェニー紡績機を発明した。効率は大きく向上し、細い糸を作るのにも適した装置だったが、太い糸を作るのには不向きだった。また、ジェニー紡績機は手動であり、仕組みも手作業の手順をそのまま装置化したようなものだった。18世紀中頃、リチャード・アークライトは、馬力を利用した馬力紡績機を発明し、次いで馬力カード機を使って毛の方向を揃える仕組みを開発した。これは動力源を人力から変えた画期的なもので、設置費用も安かった。カード機のアイディアは優れていたが、紡績部分が複数の滑車を使って糸を強く引っ張る仕組みだったので、太い糸を作ることはできたが細い糸は切れてしまい作れなかった。当時の織機は強い縦糸と細い横糸の両方が必要であり、ジェニー紡績機、アークライトの紡績機共に不完全だった。また、アークライトは1766年には水車を動力とする水力紡績機を作った。
この織物の技術発達は多方面にも大きな影響を及ぼし、社会全体が工業化への道へ進んでいく。19世紀に入るとイギリス国産の綿織物は、従来の毛織物を上回り重要な輸出品にすらなっていました。
このようにキャラコ国産化への動きが、織物生産技術の進歩と工業化に繋がり、イギリス産業革命の「創造」へ向けた大きな原動力になった。
インドからイギリスに輸入されたキャラコは、従来の服飾文化を「解体」し、一般庶民にファッション革命を起こした。その服装の変化や民衆の欲求が織物技術の向上を促し、産業革命になっていく。