醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  923号  白井一道

2018-11-30 12:40:05 | 随筆・小説



 こがらしや頬腫(ほほばれ)痛む人の顔    芭蕉  元禄3年



 街場育ちの句郎が赴任した高校は農山間部にある農業高校だった。学校に行って驚いた。学校の敷地の広さにこれが高校なのかと思った。
楽しかった夏が終わり、文化祭では、村の人々が学校にやってきた。生徒たちが育てた花を買い求める人の列ができるほどだった。学校、こんな楽しいところがあるだろうか。体育祭ではサッカー部の生徒たちと職員チームが対戦した。一対ゼロで職員チームがかろうじて勝利した時の生徒たちの悔しがりが楽しかった。瞬く間に冬になった。
リンゴの頬っぺの女の子の笑顔が可愛かった。都会育ちの句郎の顔はいつも青白かった。生徒が付けた綽名が平手 造酒(ひらてみき)だった。生徒にやさしい一面怒ると殴ることもあった。
句郎は女生徒たちから人気を博していた。句郎は用心深い男でもあった。決して生徒たちの間で人気のある綺麗な女の子に話しかけることはなかった。教室の隅でおとなしくしている女生徒にも気を配る教師だった。しかし句郎のまわりにはいつも女の子たちが纏わりついていた。特にいつもニコニコして句郎に話かけてくる元気なリンゴの頬っぺをした女の子に言った。
「まり子の頬っぺは可愛いな」。
それからである。廊下で出会ってもまり子は句郎に顔を背ける。遠くから句郎を睨みつけるまり子の視線に出会うことがあるようになった。気にすることもなく、時が過ぎまり子は進級し三年生になった。数学担当の句郎は授業でまり子のいるクラスを担当することもなくなった。
期末試験が近づいて来たとき、職員室に質問に来た女生徒が数人来た。問題を解き、丁寧に教えていた時、まり子と仲の良かった女生徒の一人に句郎は言った。
「まり子は元気か」。
 女の子は言った。
「先生に傷つけられたことは生涯忘れられないとまり子は言っているわ」
「俺、まり子を傷つけるようなこと何もしていないよ」
「先生、何もわかっていない。まり子は先生の事、好きだったのよ。その先生にほっぺが赤いと言われたと言ってまり子、泣いていたのよ」
「えっ、どうしてそんなことで泣くの」
「先生には、女の子の気持ちが分からないのよ」
「僕は赤いリンゴのほっぺがとても可愛いと思っていたんだけど」
「そこが違うのよ。まり子はリンゴのほっぺを気にしていたの。それが私たち年代の女の子の気持ちなのよ。まり子は今も先生のこと、大嫌いと言っているわよ」
「そんなに赤いほっぺをまり子は気にしていたのか。全然そのような女の子の気持ち、わからないよ。リンゴのほっぺ、いいじゃないか。俺は可愛いと思っているよ。今でも可愛いなと思っている」
「先生に赤いほっぺだと言われたことがまり子は凄いショックだったのよ。先生にはまり子の気持ちわかってあげてほしいわ」
 まり子の友だちは言いたいことを言いきったという気持ちなのか、姿勢がこんなにいつもいいかなと思えるようないい姿勢をして、静かに戸を閉めると職員室から出て行った。
 句郎は何気なく言った言葉が生徒を傷つけるということがあるということに気が付いた。女の子の場合は男の子より難しいようにも感じた初めての経験だった。
 都会では見かけることのなくなった赤い頬っぺの女の子。
 こがらしや
頬腫痛む人の顔
赤く頬が腫れあがった人の顔が元禄時代には江戸の町中にもいたのかもしれない。

醸楽庵だより  922号  白井一道

2018-11-29 13:30:38 | 随筆・小説


 
 11月28日  BS-TBS 報道1930を見る

 米中貿易戦争の背後にある“新冷戦”の正体
 
 APECで明るみになった中国の“孤立”と“逆風”

“米中逆転”は訪れるのか?経済・軍事で激化する覇権争い

「一帯一路」がテロの標的に・・・“アメリカ化”する中国


 このような内容の報道番組を見て感じたことは、中国は国際的に孤立化しているということ。また中国の台頭に周辺諸国は危機感を強めているということであった。更に米中逆転は難しいのではないかという印象を視聴者に与える内容であった。
 番組進行役松原氏が中国のGDPが2020年代後半にはアメリカを追い越すのではないかと言われていると述べていた。この発言を聞き、私は疑問に思った。ネット情報によると「2014年12月8日、OECD(経済協力開発機構)、IMF(国際通貨基金)など各種国際機関の中期予測によると、世界全体のGDP(国内総生産)に占める中国の割合は2014年の13%から24年には20%に拡大、「米国を抜き世界一の経済大国になる」という。米調査会社HISもこのほど、中国のGDPが2024年に、米国を追い越すとの見通しをまとめた。」また「2024年には中国のGDP35兆ドルに対してアメリカのGDP25兆ドル」という情報がある。
 後6年もすると中国のGDPはアメリカを追い越すとOECDもIMF、その他調査会社、アメリカのシンクタンクも中国がアメリカを追い越すと予想している。
 確実に米中逆転が数年後に起きると予想されているのにもかかわらず、報道のTBS
といわれた放送会社を背負った報道番組が誤報しているのではないかという疑問を視聴者に抱かせるとは、どうしたことなのであろう。
 今から数年ほど前、2014に購買力平価でいうならば中国のGDPはアメリカのGDPを追い越しているという話を孫崎享さんが講演で述べているのをyou tube で聞き、驚いたことがある。
 実質的に今、現在中国のGDPは世界一なのだ。アメリカと日本を合わせた自動車の市場より中国の市場は大きいと『中国経済の真相』の著者、田代秀敏氏は述べている。また全世界の超高速新幹線網の長さより中国の新幹線網は長いとも田代氏は述べている。
 2016年10月2日、ワシントン、世界銀行は、世界の貧困と繁栄の共有についての正確な推定値と動向を分析する初の年次報告書「貧困と繁栄の共有」によると、2013年、1日1.90ドル未満で生活する最貧困層の数は約8億人に上った。これは、2012年と比べると約1億人減少した事になる。極度の貧困撲滅は、主に東アジア、特に中国で進んだと述べている。
 「ツキュディデスの罠」に中国が嵌ることはないだろう。もうすでに中国とアメリカの勝負はついているのだ。貧困大陸アメリカにはますます貧しくなっていく人々が群れをなしている。同じように先進資本主義国といわれた日本においても貧困化する多数者と富裕化する少数者がいる。このような社会が経済成長し発展することはない。中国やインド、インドネシアなどのように貧しい人々が少しづつでも確実に豊かになっていく社会でなければ発展はしないであろう。私はこのような見解を持っている。
 元経産省の職員であった細川氏が述べていた。中国の価値観とアメリカを代表とするヨーロッパ、日本の価値観の対立が米中にはあると。自由、民主主義という価値観と国家独裁的な中国の価値観の対立がある以上、米中の対立は長引くだろう。この意見には一面の真実がある。しかし先進資本主義国の自由と民主主義というものが本当に自由と民主主義なのかというとそれは嘘だと私は考えている。先進資本主義国の自由と民主主義こそが国民大衆に対する徹底的な独裁主義だと私は考えている。中国には報道の自由がない。これは事実であろう。では日本には報道の自由があるのだろうか。国境なき記者団は日本の報道の自由度を世界で72位だと報じている。韓国63位。日本は韓国より報道の自由度が低いのだ。
 私は月曜から金曜日まで毎日「報道1930」を視聴している。金平さんに続く松原さんだと思っているのでこの番組発足当初より視聴している。
 私は定年退職者である。だから勝手なことが言える。私のように頑張る松原さんを支援する者が多数いることを知ってほしい。












醸楽庵だより  921号  白井一道

2018-11-28 13:13:01 | 随筆・小説



 きりぎりすわすれ音(ね)になくこたつ哉   芭蕉  元禄3年



 まだキリギリスが鳴いているな。こんなに寒くなったのに。どうしたことだ。今年は暖冬なのかな。
句郎はまた読書を始めた。このところ句郎はヘーゲルの『法の哲学』を読んでいる。読み始めて四、五日になる。定年退職後、読み始めたのである。三十年近く前に購入した本の一冊である。今まで「つん読」していたのだ。たまに背表紙を眺め、読むことはあるのだろうか、と思ったりして、読み始めることのなかった本の一冊である。どうした気持ちの変化が起きたのか自分にも分からず手に取り読み始めると面白い。このところ毎日読書する愉しみを味わっている。
 炬燵に入り読書すると若かった頃が思い出されて窓を眺めては空想に耽り、若かった頃と同じように鉛筆を持ちページをめくる。
 弱々しいキリギリスの鳴き声がする。まだ鳴いていることに気づいた。どうしたんだ元気がないな。
暑かった夏、せっせと働いていた蟻たちは巣穴にため込んだ食べ物に満足し、冬を乗り越えようとしているのに、キリギリスは食べ物のあふれた夏をきれいな声で鳴き、楽しんでしまったつけに苦しんでいる。イソップの童話を句郎は思い出していた。
 現実にあるものは合理的なものである。合理的なものは現実的なものである。『法の哲学』にある有名な言葉をかみしめた。
 月日の流れは速い。大河の流れはゆったりとしているが流れの中に足を入れてみると水の流れの速さに驚く。


醸楽庵だより  920号  白井一道

2018-11-27 16:13:56 | 随筆・小説


 しぐるゝや田のあらかぶの黒む程  芭蕉  元禄3


句郎 この句には「旧里(ふるさと)の道すがら」という前詞がある。
華女 『おくのほそ道』の旅を終え、元禄三年には故郷伊賀上野に芭蕉は帰郷しているのね。
句郎 「しぐるゝ」という冬の季節感のもつ情緒が表現されていると思うな。
華女 「目も見えず涙の雨のしぐるれば身の濡れ衣はひるよしもなし」と好古朝臣が詠んだ和歌が後撰和歌集にあるのよ。「しぐるる」という言葉と「濡れ衣」という言葉が合わ
さり、醸しだす情緒があるように感じるのよ。
句郎 しっとりへばりつくイメージかな。自分の力ではどうにもならない。ただじっと耐えていくということなのかな。
華女 「しぐるる」という言葉は京の都の言葉だったと思うわ。「しぐれ」とは、晩秋から初冬にかけて、晴れたかと思うと曇り、曇ったかと思うと日差しが出るような時に降ってはすぐ止むような雨を言うのよね。
句郎 北西の季節風に流された雲が日本海側から太平洋側へ移動する際に盆
地で雨を降らせる。京都盆地の北山に降る時雨が有名だった。また、時間帯によって朝時雨や夕時雨という表現もあったようだからね。
華女 京都北山に晩秋から冬にかけて降る雨を時雨といったのよ。きっとね。
句郎 京都北山に降る時雨の情緒が「しぐるる」という季語にはあるということなのかな。
華女 山頭火の詠んだ時雨の句にも和歌に詠まれた時雨の情緒や季節感が詠みこまれているように感じるわ。例えば「うしろすがたのしぐれてゆくか」「老いて死す一年一年時雨かな」、「旅人も貧しや時雨石の屋根」「旅人や小家をぬうて時雨かな」ね。
句郎 定めなき「しぐれ」に人生の無常迅速の美意識がこめられているということかな。
華女 「しぐるる」という言葉に籠めた古人の思いがあってこそ、「しぐるゝや田のあらかぶの黒む程」という句が文学になったということだと思うわ。
句郎 芭蕉が子供の頃見た古里の風景を発見したということかな。
華女 稲の新株を刈り取った後の株が雨に濡れて黒ずんでいるのを見て芭蕉は子供だった頃を思い出したんだと思うわ。
句郎 子供だった頃と変わらない古里の風景に感動していた。
華女 しぐれている刈り取った稲株がしっとりと濡れ黒ずんでいる。ここに芭蕉は時雨の美意識を発見したのだと思うわ。
句郎 子供の頃、見慣れていた黒ずんだ稲株に懐かしさを感じたのかもしれないな。
華女 私たちは三百年前に芭蕉が感じたことを今感じることができるということが凄いことだと思うわ。
句郎 句を詠み、書いて残すということを積み重ねることによって人間の心の世界が広がっていくということなんだと思う。
華女 芭蕉は和歌の世界が創造した言葉の世界を継承し、発展させ、それをまた現代の俳人にまで影響しているということは凄いことね。
句郎 安住敦の句「しぐるるや駅に西口東口」。この句にある「しぐるるや」の言葉には芭蕉が付け加えた意味も含まれていると思うな。

醸楽庵だより  919号   白井一道

2018-11-26 15:33:04 | 随筆・小説



 朝茶のむ僧しづかさよ菊の霜
 
 朝茶のむ僧静(しづか)也菊の花  元禄3年  芭蕉



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』には、この二つの異形の句が紹介されている。華女さんはどちらの句形の方がいいと思う。
華女 そうね。私は後の方の句形がいいと思うわ。
句郎 この句には「堅田祥瑞寺にて」と前詞がある。
華女 芭蕉は近江が好きだったのよね。
句郎 琵琶湖は美しいところだと子供の頃、よく大人たちが話していたことが耳に残っているな。
華女 なにか、琵琶湖に対する憬れのようなものが日本人にあるのかしら。
句郎 私も一度大津に行ったことがあるんだ。街を歩いて、ここに住んでみたいと思った街の一つだったかな。澄んだ空気観が気に入った。京都から近いということも気に入った理由の一つかな。
華女 芭蕉が膳所の義仲寺に葬られているところからも心が休まる所が近江だったということなのよね。
句郎 「朝茶のむ」。この句を読むと芭蕉が理想としていた生活とは、このよ
うな僧侶の生活だったのかなと思うな。
華女 朝の僧侶はまず何よりも勤行なんでしょ。
句郎 そうかな。まず朝起きると僧侶としての正装をする。袈裟を着け、経を持ち本堂にいく。燈明を灯す。真冬であっても戸をあけ放す。鐘を打ち、経をあげる。
華女 まさに勤行なのね。
句郎 勤行を通じて心の中が澄み渡っていく。本坊に帰り、掃除する。掃き掃除、拭き掃除、庭掃除、掃除が終わると朝食をいただく。その後、寺務所に行き、お茶をいただく。
華女 お寺でお茶をするのは、朝の一仕事が終わってからなのね。
句郎 寺によっていろいろ違うかもしれないが、和尚さんの場合は、これに近いと思うよ。
華女 禅宗のお寺は、ほとんど男だけの世界よね。
句郎 白粉の匂いのない世界かな。朝の勤行で迷いを吹っ飛ばし、掃除で心の穢れを掃き清め、お茶をいただく。
華女 「朝茶のむ僧静也」とは、浄土の世界にいるということが表現されているということなのかしら。
句郎 菊の花咲く浄土にいる心地を芭蕉は僧侶の姿にかんじたのかもしれないな。
華女 お茶をいただく僧侶の姿に静かさを芭蕉は感じたということね。
句郎 この世は穢土(えど)、喧噪と汚れに満ちている。掃き清められたお堂、塵一つない板の間、庭には菊の花。風の音がかすかにする。この静かさに芭蕉は浄土の世界を想像したのかもしれないな。
華女 現実の目の前の世界は静かな世界とは程遠いところにいても芭蕉の句を読み、心に静かな浄土の世界を想像することは可能なのよね。
句郎 文学とは、そのようなものなのだろうと思うな。目の前の現実から離れることができる。句を読むということによって。
華女 新たな心で汚れた現実に世の中を生きていくことができる。それが文学というものなのかもしれない。
句郎 芭蕉の句は文学になっているということなのかもしれない。
華女 文学になっていない句もあるということなのね。

醸楽庵だより   918号  白井一道

2018-11-25 15:37:27 | 随筆・小説






二〇一八年十一月例会 唎酒出品酒   

A、水芭蕉純米吟醸 直汲み 生原酒 720ml 1600円 
  群馬県利根郡川場村    永井酒造株式会社 
  酒造米:兵庫県産米山田錦  精米歩合:60%精米  アルコール度数:17度
  日本酒度:+3 酸度:1.5 
新酒のしぼりたての生原酒のガス感を残したまま直汲み瓶詰にしたお酒です。

B、会津中将 純米吟醸 夢の香 720ml 1500円
  福島県会津若松市  鶴の江酒造株式会社
  酒造米:夢の香  精米歩合:55% 日本酒度:+2 酸度:1.5
   昭和五二年に藩祖保科正之(徳川家光の弟)の官位にちなみ「会津中将」を発表。搾りには昔ながらの槽を使い、伝統的な製法で醸している。

C、別品川鶴 純米吟醸 生熟成原酒  720ml 1450円 
  香川県観音寺大町   川鶴酒造株式会社
  酒造米:国産米 精米歩合:55% アルコール度:17度 
  厳寒期に絞った生原酒を瓶火入れ後、5度Cで貯蔵、熟成。

D、福小町 号外編 特別純米生原酒 無濾過 限定季節商品 720ml 1350円
  秋田県湯沢市田町  木村酒造
  アルコール度:17.5度 酒造米:吟の精 精米歩合:55%  日本酒度:+0.5 酸度:1.3  酵母:協会1801
   お米は、吟の精&めんこいな使用。吟醸用酵母で醸した極上のもろみを圧搾。いっさい炭素濾過していない。酒本来の旨みが生きている。
猪瀬元東京都知事が2020年日本オリンピック招致選考委員らに振る舞った酒が福小町の大吟醸の酒だった。一時、地酒ファンの間で秋田湯沢の福小町が人気を博したことがあった。
E、谷川岳 吟醸しぼりたて 720ml 948円  
  群馬県利根郡川場村    永井酒造株式会社
  新酒しぼりたてのお酒。
 
酒塾のしをり  第三三号。今日は酒句を一つ。
 「酔ひてぐらぐら枯野の道を父帰る」。西東三鬼はこのような句を詠んでいる。きっと三鬼は自分のことを詠んでいる。真っ暗な冬の夜、デコボコの土の道をよろよろと高吟放歌して帰る自分をもう一人の自分が見ている。飲まずにはいられなかった。戦争中言論弾圧された悔しさを忘れることができなかったのかもしれない。
 「熱燗や討入りおりた者同士」。川崎展宏にも挫折の経験があったのだろう。討ち入りなど、バカバカしい。なんで主君のために俺が命を捨てなきゃならないんだ。俺は俺自身のために生きる。人のために生きるなんてこんなバカバカしいことはない。湯煙の向こうには脂ぎった赤ら顔が歪んでいる。
 「盃をうけてかえして余寒かな」。銀座のおでん屋、「卯波」の女将、鈴木真砂女の心には冷たい風が吹いていたのかもしれない。南房総の大きな料理屋の跡継ぎ娘であった真砂女は家を捨て、夫を捨て、恋に生きた。不倫の恋には体の中に冷たい風が吹くことがあったのだろう。
 「升買って分別かわる月見かな」。芭蕉は酒が好きだった。まぁー、今日は、そろそろと思ったがもう少し、月見を楽しもう。酒も買ってきたことだしなと、分別が変わるってこと、酒飲みにはありますなぁー。

醸楽庵だより  917号  白井一道

2018-11-23 11:36:23 | 随筆・小説


 『蟹工船』
 ―この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。




 この言葉は「蟹工船」の最後に小林多喜二が附記したものだ。句労君、なぜ日本国内の北海道が日本国の殖民地だという認識を多喜二は持っていたのか、わかるかね。
 なんとなく解るような気がします。戦前の北海道は未開地の自然がまだまだたくさん残っていたように思います。だからなんじゃないですか。
 確かにそうなんだ。自然を切り開き、荒れ地を耕地にする。そのような地域がなぜ日本国の殖民地なのかな。疑問に思わない。
 そうですね。でも開拓するために日本全国から北海道に移住した農民やその他人々がいたわけですよね。それらの人々は北海道に殖民したわけですから北海道は日本の殖民地と言っていいのではないでしようか。
 なるほどね。句労君、殖民地とはどのような所を言うのだと思う。例えば、戦前、朝鮮は日本国の殖民地だったよね。その朝鮮と北海道が同じような地域だったといえるかと言うとどうだろう。ちょっと違うだろ
う。そう、思わない。
 うーん。先生の言うこと、良く分かります。朝鮮と北海道は違っています。民族が違うじゃないですか。朝鮮にも未開の自然は残っていたのかもしれませんが、大半の地域は朝鮮人が古来から住んでいた。その地域を殖民地にした。日本人が朝鮮に移住し、その地の人々を日本人が支配した。朝鮮を開拓するために移住したわけではないですからね。朝鮮人を統治し、税金を徴収し、日本人が豊かな生活した。
 そうだね。北海道と朝鮮
は違うよね。しかし本質的なところで同じだったんだ。
なぜかというとね、北海道は未開の自然を開拓する。これは北海道を開発するということだね。朝鮮の場合も文明の進んだ日本人が遅れた未開の朝鮮人を指導し、文明化して開発すると、言ったんだ。だから日本人は朝鮮人から感謝されることがあっても恨まれたり、憎まれたりすることはない、そう主張していたんだ。
 先生、思い出しましたよ。イギリス人はインドを近代化し、文明化した。鉄道を敷き、学校を作った。だから、イギリス人はインド人から感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。こんな風にイギリス人はインド人について思っていた。そうでしたね。
 そうそう、良く覚えているね。文明化とは開発するということでもある。だから北海道も開発し、文明化する地域である以上殖民地なんだ。開発し文明化するということは別の言葉で言えば、資本主義化することだ。開発も文明化も同じように資本主義化ということだよ。北海道を開発することは資本主義が侵入することでもある。発達の遅れた地域に資本主義が侵入するとその地域は発達した地域の殖民地になる。それは現代でも同じなんだ。東京は文明の進んだ地域だ。東京に比べて福島は遅れた地域だった。だから福島の開発のため原子力発電所が建設された。福島が必要とする電力を作るためではなく東京に電力を供給するために原発ができた。このことによって福島は東京に従属する殖民地になった。福島は東京の殖民地になることによって一部の人々は豊かになった。が、大半の人々は苦しむことになった。

醸楽庵だより  916号  白井一道

2018-11-22 12:27:32 | 随筆・小説


  病鴈の夜さむに落て旅ね哉  芭蕉  元禄3年


句郎 この句は俳諧の古今集といわける『猿蓑』に載せられている。岩波文庫『芭蕉俳句集』は「病鴈」に「びょうがん」とルビを振っている。一方其角編の芭蕉追善集『枯尾花』にある「病鴈のかた田におりて旅ね哉」を載せ「病雁」を「びょうがん」ではなく「やむかり」と読ませている。
華女 「病鴈」の音読みと訓読みの違いね。
句郎 私は初め「病雁」を「やむかり」と読み、この句を覚えた。後に「び
ょうがん」と読む読み方を知った。「びょうがん」より「やむかり」の方が落ち着くように感じている。
華女 そうね。私も「やむかり」の方が大和の言葉、日本語っぽさがあっていいように思うわ。読み方のことで思い出すのは「蚤虱馬の尿する枕もと」があるわ。
句郎 「尿する」を「シトする」と読むのか、それとも「バリする」と読むのかということかな。
華女 そうよ。当時の東北に住む農民たちは馬が「バリする」と話してい
たということなんでしょ。
句郎 この句は確かに「バリする」と読んだ方が俳句になっていると感じるな。
華女 「シトする」じゃ、馬の尿の迫力が出ないわ。「シトする」じゃ、女の子のオネショになってしまうわ。
句郎 「病雁の」の句は芭蕉自身も自慢の一句のようだったし、また当時の弟子たちも現代の読者も秀句の一つとして受け入れている。
華女 この句を芭蕉は近江八景の一つ堅田で詠んでいるのよね。
句郎 「堅田にて」と前詞があるので、芭蕉は堅田で詠んでいるということだと思う。
華女 近江八景・堅田落雁は画題にもなる有名な風景なんでしょ。この「落雁」の風景を詠んだ句が「病雁の」の句ということなのよね。
句郎 「落雁」という和菓子の起源は堅田のこの風景なんだろうからな。
華女 日持ちの良い和菓子だったので人気が出たみたいよ。
句郎 中天から連なった雁の群れが舞い降りる姿は、晩秋の琵琶湖の絶景だった。「落雁」とは、雁が一列に連なって、ねぐらに舞い降りる様子を言う。晩秋から冬にかけての琵琶湖の夕暮時の風物詩であったことから堅田落雁は近江八景の一つになったのかな。
華女 広重も堅田落雁を描いているわね。描きたい気持ちにさせる風景なのよ。だから芭蕉にも句を詠みたくさせる風景なんじゃないのかしら。
句郎 列から離れる一羽の雁を見た芭蕉の想像力が働き、句が口から迸ったということなのかもしれないな。
華女 晩秋の夕暮れは一気に寒さが身に沁みてくるわね。
句郎 仲間と一緒に飛ぶことができなくなった。体の調子が悪くなったに違いない。晩秋の孤独感を表現した句が湧いたのではないかと思う。
華女 この句を芭蕉が詠んだ時、芭蕉自身体の調子を壊していたと言われているわ。
句郎 芭蕉は『おくのほそ道』の旅を終えてからというもの、自分の死を意識するようになっていたのではないかと思う。

醸楽庵だより  915号  白井一道

2018-11-21 07:58:55 | 随筆・小説



 こちらむけ我もさびしき秋の暮  芭蕉  元禄3年


句郎 この句には前詞がある。「洛の桑門雲竹、みづからの像にやあらむ、あなたの方に顔ふり向けたる法師を描きて、これに讃せよと申されければ、   君は六十年余り、予は既に五十年に近し。共に夢中にして、夢の形をあらはす。これに加ふるに、また寝言を以てす。」とある。
華女 「洛の桑門雲竹」とは、何なのかしら。
句郎 、「洛」とは、京都のこと。「桑門」とは、僧侶のこと。だから京(みやこ)の僧侶という意味だと思う。
華女 雲竹とは、お坊さんの名前ね。
句郎 そう。東寺観智院の僧侶のようだ。
華女 あなたの方に振り向けた顔を描いた絵に何か書いてくれと頼まれたのね。
句郎 あなたは六十、私はすでに五十、人生とはまるで夢の中にいるようなものですな。私の夢を形に表してみると、また寝言のようなものになってしまうかもしれません。
華女 芭蕉の寝言、それが「こちらむけ」の句だっ
たということなのね。
句郎 私の方に向き直ってくれませんか。暮行く秋を一緒に眺めませんか。
華女 私も一人、あなたも一人、寂しがっている者同士じっくりお茶でも楽しみましょうと、いうことなのね。
句郎 自分は一人なんだという気持ちをいつも芭蕉は持っていたのかな。
華女 女一人の秋の暮。それは寂しいものよ。子供を連れた女を見るとほんとに羨ましいものよ。
句郎 「こちらむけ」の句が表現した「寂しさ」には孤独があるように感じる。どうかな。
華女 孤独というと、どこか江戸時代のこととは違うような気がするわ。
句郎 そう、孤独というものは近代社会に生きる人間に固有な意識なのじゃないかという気がするよね。
華女 そうよ。封建社会に生きた人々は今より濃密な人間関係の中に生きた人々が多かったように感じるわ。
句郎 誰もが助け合わなければ生きていくことが難しかったということだと思う。だから濃密な人間関係があった。
華女 そうなのよね。働てとしての子供を必要としていたのよね。
句郎 子供がいるということ。この事が孤独を意識することがなかったのかもしれないな。
華女 子供を育てない人が孤独を感じるのじゃないかしら。
句郎 芭蕉は旅に生き、旅に死んだ詩人だといわれているから、妻を持ち、子供を育てることはなかった。だから元禄時代にあっても孤独のようなものを感じたのかもしれないな。
華女 そうなのかもしれないわ。夫も子供も持たない女の寂しさはほんとに深いと思うわ。だからなのよ。女にとって恋愛は男よりもプライオリティーが高いのよ。
句郎 芭蕉は俳諧師だった。江戸時代の俳諧師は、人の道をはずした人だった。と言われる人々の一人だった。
華女 歌舞伎役者はだったんでしょ。
句郎 封建社会の秩序から外れたとして生きた芭蕉だったからこそ、近代社会に生きる人間の孤独を感じた。

醸楽庵だより  号外4  白井一道

2018-11-20 12:21:19 | 随筆・小説


  徴用工問題について  平井久志氏の見解を紹介させていただきます。


 韓国の大法院(日本の最高裁判所に該当)は10月30日、日本の植民地支配の時期に日本本土の工場で強制労働をさせられたとする元徴用工4人が、新日鐵住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、控訴審判決を支持して同社の上告を退け、1人当たり1億ウォン(約1000万円)の支払いを命じた。
 安倍晋三首相は「本件については、1965年の日韓請求権協定によって、完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。日本政府として毅然と対応していく」と語った。
 日本国内では韓国への強い批判が起き、日韓関係の基盤を揺るがしかねない判決という指摘が出ている。韓国では日本企業を相手取って同様の訴訟が10件以上起きており、今後、相次いで原告勝訴の判決が出る可能性が高く、さらに新たに訴訟に踏み切る人たちが出てくる可能性もある。
 だが、韓国内の状況を考えれば、この事態は韓国の大法院が2012年5月、それまでの元徴用工関連の判決を棄却して審理を高裁に差し戻した時点から、「十分にあり得る」判決であった。この大法院判決を受けて、2013年7月にソウル高裁が新日鐵住金に、釜山高裁が三菱重工業に、それぞれ原告勝訴の賠償命令を下したが、両社ともその後上告した。
 韓国の最高裁はその後、審理、判決を先延ばしにしてきたが、2012年の大法院の判決を考えれば、判決の期日が決まれば原告側が勝訴することは確実と見られてきた。「その日」がやってきたということである。
 本稿では、できるだけ冷静に、客観的に、この判決の問題点を考えてみたい。なぜなら、この判決自体が問題でも、日韓のこれまでの歴史的事実が変わるわけでもなく、韓国がどこかに引っ越すわけでもない。われわれはこの状況を踏まえてどのように日韓関係をつくっていくのかを考えなければならないからだ。

個人請求権は消滅したのか
 日本のメディアでは、韓国側の請求権は日韓請求権協定で消滅した、ということがよく言われる。
請求権協定の第2条第1項には「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあり、「完全かつ最終的に解決された」とされている。冒頭で触れた安倍首相の談話も、この認識に基づいているものと思われる。
 しかし、実は日本の行政や司法は従来、この協定下にあっても、厳格な意味では、個人の請求権が消滅したとするものではないという立場を取ってきた。この事実と経緯を踏まえたうえで今回の判決を議論しなければ、問題の本質を見誤り、単なる感情論に流されてしまいかねない。
 1991年8月27日の参議院予算委員会で、当時の柳井俊二外務省条約局長は日韓請求権協定第2条などの規定について、「これらの規定は、両国国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させるものではないということは今までもご答弁申し上げたとおりです。これはいわば条約上の処理の問題でございます。また、日韓のみならず、ほかの国との関係におきましても同様の処理を条約上行ったということはご案内のとおりでございます」と述べている。
 つまり、厳密な意味での個人請求権は消滅しておらず、個人が、被害を受けた国に対して損害賠償などを主張することに対する外交保護権がない、ということである。
 この柳井局長の発言は、韓国からの個人請求権要求をどう理解するかということでよく引用される。
 日本政府がこういう立場に立った背景には、朝鮮半島に財産を置いてきた日本人への賠償問題があったと考えられる。それは、日本政府が日本人の財産を請求する権利そのものを否定するなら、日本政府が請求権協定を締結したことで、財産を朝鮮半島に残してきた日本人に対して政府が賠償するという問題が生じてしまうからだ。
 日本政府は、朝鮮半島に財産を残してきた日本人への補償責任を回避するためにも、外交保護権がなくなっただけで、その当該日本人が個人的に自身の財産権を主張する権利はある、とする必要があったのだろうと思われる。
 請求権協定には「完全かつ最終的に解決された」とあるが、一歩踏み込んで見ると、問題はそう簡単ではないのである。

最高裁の西松建設判決
 また、日本の最高裁は2007年4月27日、日中戦争中に強制連行され、広島県の水力発電所建設工事で過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者とその遺族計5人が西松建設に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、原告勝訴の二審広島高裁判決を破棄して請求を棄却した。
 請求権については、日本と連合国のサンフランシスコ平和条約は、「戦争状態を終了させるため、相互に個人賠償請求権も含めて放棄した」と指摘し、「日中共同声明の請求権放棄条項は個人を含むかどうか明らかとはいえないが、交渉経緯から実質的に平和条約で、サ条約と同じ枠組み」として、個人請求権を否定した。だが、「事後的個別的な裁判による解決を残すと、平和条約締結時に予測困難な過大な負担、混乱を生じる。請求権は消滅したのではなく、裁判上の権利喪失にとどまる」との解釈を示した。
 ここでは、個人請求権は消滅していないが、「裁判上の権利」はなくなったとしているのだ。
 またこの判決は、「日中戦争の遂行中に生じた中国人労働者の強制連行及び強制労働に係る安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償請求であり、前記事実関係にかんがみて本件被害者らの被った精神的・肉体的な苦痛は極めて大きなものであったと認められる」と、強制連行や強制労働の被害の大きさを認めた。
 その上で裁判官全員の一致した意見として、判決の最後に付言するかたちで「サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」とした。
 裁判所は、日中共同声明の請求権放棄によって元中国人労働者の損害賠償請求を認めることはできないが、当該企業は中国人元労働者の被った被害を考えて、被害の救済に努力すべきであるとの期待を表明したわけである。
 西松建設は訴訟には勝訴したが、最高裁のこの指摘を受け入れ、訴訟とは別に和解協議を始めた。同社は2009年10月に被害者に謝罪し、原告を含め360人の中国人労働者を対象に2億5000万円を信託し、被害救済のために基金を設立した。
 司法は日中共同声明での請求権放棄を理由に裁判上の損害賠償を認めなかったが、被害を認め、企業の自主的努力による問題解決を期待し、企業もその期待に応えて問題解決にあたったのである。

被害者である日本人としての視点
 ここまでの議論は、日本が被害者側から訴えられた際の議論である。日本人が被害者である場合の視点も必要だ。
 1956年の日ソ共同宣言第6項は、「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する」とある。
 日韓請求権協定において「請求権」そのものまで消滅したとする論理を援用するなら、日本と旧ソ連との間で行われた日ソ共同宣言により、シベリアに抑留された日本人はソ連に損害賠償請求ができないことになる。その代わり、日本政府がそうした請求権を放棄した以上、当該被害者に対して賠償責任を負うと考えるべきであろう。
 シベリア抑留問題では、日本政府は放棄した請求権とは「我が国自身の有していた請求権及び外交的保護権であり、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。ここに外交保護権とは、自国民が外国の領域において外国の国際法違反により受けた損害について、国が相手国の責任を追及する国際法上の権利である」とした(山本晴太弁護士「日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷」参照)。ここでは、シベリア抑留者への被害補償を避けるために、「放棄した請求権」は「外交保護権」だけであり、個人請求権は存在するという論理が使われている。
 こうした事例を見れば、日本の行政や司法のこれまでの判断は、日韓請求権協定で相互に放棄した請求権とは外交保護権や裁判訴追権であり、個人の請求権は存在していることを認めていると言える。個人の請求権を「完全かつ最終的に解決された」とし、「いかなる主張もできない」と決めつけるのは問題がある。
 日本の最高裁の2007年の判決は、司法の限界を示しながらも、「付言」の形で企業の自主的な努力に期待を表明することで問題を解決しようとした一例と言える。

全面公開されていない日韓外交交渉記録
 韓国政府は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2005年に、日韓国交正常化に関する外交文書を公開した。この外交文書公開は、韓国政府が進んで公開したわけではなかった。韓国の住民が韓国政府を相手に日韓基本条約の締結に至るまでの外交文書57件の公開を求めて提訴し、ソウル行政裁判所が2004年2月、うち5件の文書を公開するよう外交通商省に命じた。こうした圧力の結果、2005年に公開したものだ。
 韓国政府は保存している全部の文書を公開したとしたが、実際に外交文書を読んでみると、多くの文書が脱落していることは明らかだった。
 筆者は当時ソウル特派員をしていて、この膨大な文書をチェックすることになったが、ある文書で前の報告を指摘しているのに、その指摘した文書が存在しないということが数多くあり、韓国側の文書管理のずさんさを感じた。
 しかし、外交文書を公開した韓国政府はまだましで、日本政府は当時、国交正常化から40年が経過したのにもかかわらず、日朝交渉などを理由に文書の公開に応じず、その対応は今も続いている。韓国側が保管していた文書を「全部」公開した以上、日本側が秘匿するメリットはあまりないはずだ。おそらく、文書管理は日本の方がきちんとしていると思われるが、日本も不都合なものも含めて文書を公開すべきだろう。
 2005年1月に公開された外交文書では、日本の植民地支配に伴う補償などの請求権について両政府間で一括して解決するため、被害を受けた韓国国民への個人補償義務を日本政府ではなく韓国政府が負う、と確認していたことが明らかになった。韓国外務省は同国経済企画院の質問に答えた1964年5月11日付の公文書で、1962年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)中央情報部長(当時)と大平正芳外相(同)の会談により、「(個人請求権を含め)各請求項目を一括して解決する」とし、「(韓国)政府は個人請求権保有者に補償義務を負うことになる」と明言していた。日韓両政府とも、植民地支配による被害者の救済に寄り添うという姿勢は希薄だった。

徴用工問題を請求権協定対象と認定した「民官共同委員会」
 韓国では1965年の日韓基本条約と日韓請求権協定の締結後、1974年に「対日民間請求権補償法」が制定された。1977年6月までに91億8700万余ウォンの補償金が支払われたが、これは請求権資金3億ドルの約9.7%であった。そのうち、被徴用工の死亡者に対する補償金は、計8552件に対して1人当たり30万ウォン、総25億6560万ウォン(当時のレートで約37億2650万円)が遺族に支給されたが、負傷者ら生存者は対象外で、補償から除外された者も多くいたという。
 韓国の第2次世界大戦後の国内の政治的葛藤は、近代化勢力と民主化勢力のせめぎ合いとよく言われる。近代化勢力は、日韓国交正常化で得た日本の資金で「漢江の奇跡」を実現したが、その資金を本来受け取るべきであった被害者に配慮することはあまりなかった。
 一方の民主化勢力は、軍事政権打倒など政治の民主化に全力を集中し、戦後補償の要求を掲げることはあまりなく、植民地時代の被害者の救済に積極的に乗り出す政治勢力は不在であったと言ってよい。
 韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)政権、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権と軍事政権が続き、戦後補償問題で大きな声は上がらなかった。
 しかし、1987年の民主化運動で「6.29民主化宣言」が発表された。盧泰愚(ノ・テウ)政権は1988年のソウル五輪を成功させ、1990年代に入り、民主化されつつある韓国社会の中で慰安婦問題やサハリン残留韓国人問題、韓国人被爆者の問題が提起され始めた。だがこの時期でも、徴用工問題は「解決済み」という雰囲気が強かった。徴用工問題で裁判所への提訴の動きなどが顕在化したのは、1990年代後半になってからだろう。
 韓国政府は盧武鉉政権の2004年3月、日本の植民地時代の強制動員の被害の真相を明らかにすることを目的にした「日帝強占下強制動員被害真相糾明などに関する特別法」を制定し、強制動員に対する調査が行われた。その一環として、韓国政府は2005年1月に外交文書の一部を公開し、その後「韓日会談文書公開の後続対策に関する民官共同委員会」(民官共同委員会)が発足した。
 そして同年8月26日、李海瓚(イ・ヘチャン)首相の主宰でこの「民官共同委員会」を開催し、日韓請求権協定の効力範囲などについて協議した。
 この日の民官共同委員会では、「韓日請求権協定は基本的に日本の植民地支配賠償を請求するためのものではなく、サンフランシスコ条約第4条に基づく韓日両国間の財政的・民事的債権債務関係を解決するためのものであった」とした。その上で従軍慰安婦問題、サハリン残留韓国人問題、在韓被爆者の問題は「日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている」として、請求権協定の対象ではないとした。
 しかし、「請求権協定を通じて日本から受け取った無償3億ドルは個人財産権(保険・預金等)、朝鮮総督府の対日債権等韓国政府が国家として有する請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案さているとみるべきである」とし、「政府は受領した無償資金中相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任がある」とした。韓国政府が1975年当時に行った補償は、負傷者を対象から除外するなど、「道義的次元からみて被害者補償が不充分だった」とも指摘している。
 李海瓚首相は「強制動員被害者らの苦痛と痛みを治癒し、国民統合を図り、政府の道徳性を高めるためには、遅ればせながら彼らに関する支援措置が必要である」と表明した。
 この「民官共同委員会」の構成メンバーには、青瓦台(大統領府)の民情首席秘書官も含まれていた。当時の民情首席秘書官は、文在寅(ムン・ジェイン)現大統領であった。
 さらに韓国は、その「共同委員会」における議論の流れで2007年12月、「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」を制定し、死亡者に1人2000万ウォン(約200万円)、負傷者に障害の程度に応じて2000万ウォン以下の範囲で慰労金を支払い、生存者に年間80万ウォン(約8万円)の医療支援金を支給するなどの支援を決めている。
平井久志
ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。