醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1232号   白井一道

2019-10-31 11:53:39 | 随筆・小説



   徒然草60段『真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり』


 真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日(なぬか)・二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠(こも)り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

 仁和寺真乗院に盛親僧都(じょうしんそうづ)という立派な学僧がいた。里芋の親芋が好きでたくさん食べた。経典の講義の時にも大きな鉢に山盛りに盛り膝元に置いて、食べながら経典を読んでいた。患うことがある場合は、七日間、十四日間を治療と決め、療養の間は自室に籠り、思うように良い芋頭を選んで殊にたくさん食べて万病を癒した。人に芋頭を食べさせることはしなかった。ただ自分一人だけで食べていた。盛親僧都はきわめて貧しかったので師匠は亡くなられた時に銭二百貫と僧房の一室とを盛親僧都に譲ったところ、坊を百貫で売り、かれこれ三万疋を芋頭の銭にして、京にいる人に預けて十貫づつ取り寄せては芋頭を求め、芋頭が乏しくなることもなく、食べ続けた。また他にお金を使うこともなく、その銭はすべて皆芋頭にあてられた。「三百貫もの大金を貧しき身として受け取り、すべて芋頭にあてた。まことに珍しい道心者だ」ことと人々は言った。

 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

 この僧都は或る法師を見て、「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるり」とは何者かと人が問うと「そのような者を私も知らない。もしあったとしたならば、この僧の顔に似ていよう」と言った。

 この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈(ほふとう)--なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

 この僧都は顔立ちがよく、力持ち、大食漢で、字が上手で、学識があり、弁舌に優れ、人より優れ、真言宗の重鎮であるから仁和寺の中では重視されていたが、世間を見くびる曲者でもあった。勝手気ままで人の言うことに従うことがない。法会や仏事に出席して饗応の膳に着いた時も一同の前にすっかり膳が並べ終わるのを待たないで自分の前に据えられたなら、一人で食べ始める。帰りたくなれば一人立ち上がり帰る。僧として決められた時間の食事も、そうではない時の食事も人と同じように一緒にそろって食べるということがない。自分が食べたいときには夜中でも夜明けでも食べる。眠たければ昼間であっても自分の部屋に籠って寝る。いかなる大事があろうとも人の言うことを聞かない。目が覚めてしまえば、幾夜も寝ずに心を澄まし、詩歌を吟じ歩くなど尋常な状況ではないのに人には嫌われずにすべての事が許されている。これは僧都の徳が施行の域に達していたからなのだろうか。

 『徒然草六十段』を読み、漫画・映画『釣りバカ日誌・新入社員浜崎伝助』を思い出した。心底善人の人は皆から受け入れられるということか。

醸楽庵だより   1231号   白井一道

2019-10-30 10:24:09 | 随筆・小説



   徒然草59段  『大事を思ひ立たん人は、去り難く、』




 大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたゝめまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

 出家を思い立った人は、捨て去り難いしがらみや心に引っかかっていることをやり遂げることなく、そのままそれらの事を捨て去るべきだ。「しばし、この事をやり遂げて」、「同じように、かの事を途中のまましおきて」、「しかしかの事について人は嘲るかもしれない。行く末を難なくしたためた上で」、「何年も前からであればこそだろう、その事が実現することを待つことのほどじゃない。大騒ぎをしないように」などと思うことはこの世のしがらみを捨て去れないことが重なって、やらなければならない事が尽きる限りもなくなり、出家する日が来ることがなくなる。大方、人を見るに出家する気持ちのある方々は、皆、このような時期を経験することになる。

 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

 近所の火事で逃げる人は「ちょっと待て」などと言うだろうか。身を助けようとすれば、恥をも顧みずに家の財をもためらうことなく捨て去って逃げ去るじゃないか。命は人を待ってくれるものなのだろうか。無常なる時間は水や火が襲ってくるよりも速く逃れ難きものだ。その時、老いたる親、幼い子供、主君の恩、人の情など捨て難いからと言って捨てないでいることができるのだろうか。

 すがる娘を蹴落として西行は出家したと言われている。出家した西行は次のような歌を詠んでる。
 「世にあらじと思ひたちけるころ、東山にて、人人、寄霞述懐と云ふ事をよめる」と前詞が『山家集』にある。
 「そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思ひ立つかな」
 春の霞のように虚空になりたいこころが漂っている。わたしはこの世を出ようと思い立つのだ。
 「山家集の詞書に、「世にあらじと思立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と伝事をよめる」とあるから、西行が23歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかった。(白洲正子「西行」より)
 西行はこの世に存在している自分、この自分の存在それ自体が苦しみであった。生きることが苦しくて苦しくてたまらなかった。存在の苦しみからの解放が出家だった。滅び行く古代天皇制に仕えた者は生きること自身が苦しみ以外の何物でもなかった。自分の存在が誰からも受け入れられるものであったなら、きっと西行の苦しみはなかった。存在の否定を日々、これでもか、これでもかと否定され続ける時代が平安末期から鎌倉初期の時代である。この時代に西行は生きた。武家政権が古代天皇制権力に取って代わろうとしていた時代である。この時代、天皇制権力側に身を置く者にとっては滅ぼされ、存在を否定される者であった。そのことを敏感に感じていた西行はこの世の存在であることから逃れたかった。だから次のような歌を詠んだ。
 「よをのがれけるをり、ゆかりありける人のもとへいひおくりける」と書きて
 「世のなかをそむきはてぬといひおかんおもひしるべき人はなくとも」
 世の中に背き果てたと言っておこう。私の思いを知る人はいなくともと。

醸楽庵だより   1230号   白井一道

2019-10-29 11:56:13 | 随筆・小説



   徒然草58段  『道心あらば、住む所にしもよらじ』



 「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。

 「求道心があるなら、住むところにかかわりなく仏の道を求めることはできる。家にあっても、人と交わっていても、極楽往生が願い難いことがあろうか」というのは、極楽往生が分かっていない人の言うことだ。本当に、この世をはかなみ、必ず生死の惑いから抜け出たいと思っているというのに、何の面白みがあるのか、朝夕主君に仕え、家族の平安を願うことにやっきになっていることだろう。人の心は周りに影響されるものだから、静かなとこでなければ修行は難しい。

 その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羹(すいもの)、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き」。

 その器量が昔の人に及ばない以上、人里離れた山や林の中に入っても、飢えをしのぎ、風雨を防ぐ手段がなくては生きていけないので、やむなく世俗的な欲を貪るようなことが場合によっては、あるだろうが、それだからといって、「世に背いて遁世した甲斐がない。そうであるなら、なぜ遁世したのか」などと言うことは、全く話にならない。さすがに一度、修行の道に入り、世を厭った人は、例え欲があっても、勢いのある人の世俗的貪欲さに比べられるものではない。紙の寝具、麻の衣、一鉢の食事、あかざの吸い物、このくらいのことは世俗の人にどのくらい負担をかけるものなのか。だから求めるものは簡単に得られ、その心は満足できるものになろう。自分の僧形に恥じるところもあれば、そうは言っても、悪いことには遠ざかり、善いことに近づくことだけが多い。

 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。

 人間として生まれたあかしには、何としても俗世を逃れることこそが望ましい。偏に欲を満足させることのみにつとめ、悟りの道に入って行こうとしないのは万の畜類にかわるところがない。

 松尾芭蕉は遁世者だったのだろうか。芭蕉の文学は隠者の文学だったのだろうか。そのような偏見を持って芭蕉の句を読んできた。少し芭蕉について調べて見ると芭蕉は断じて遁世者ではなかった。芭蕉の文学は隠者の文学ではない。芭蕉の文学は俗世にまみれていた。元禄時代に代表される俗世にどっふむり漬かった中から生まれて来た文学が芭蕉の俳諧だった。
 俗世の欲望とは、美味しいものを食べたいと言うこと、冬は暖かい衣類に包まれていたいということ、日当たりの良い家に居住したいということ、女性に恵まれた生活がしたいということ、人から尊がられる人になりたいということなどが世俗的な欲望だとしたなら、それらの欲望をほぼ満足させる生活を芭蕉は送ったのではないかと私は思うようになっている。同時代を生きた僧侶の円空とは全く異なる人生を送った人であったように私は考えている。芭蕉とは異なった世界で円空もまた世俗の中に生きた孤高の僧侶であった。
 芭蕉は美味しいものが大好きであった。だから「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」、「鰹売りいかなる人を酔はすらん」、「飯あふぐ嬶が馳走や夕涼み」などの句を詠んでいる。またお酒が好きだった。「御命講や油のような酒五升」がある。また女性も大好きだった。
だから「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」の句がある。

醸楽庵だより   1229号   白井一道

2019-10-28 11:22:58 | 随筆・小説



   徒然草57段  『人の語り出でたる歌物語の、』



 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。

 人の話し出した和歌についての逸話で取り上げられている歌の出来が悪いのを見ると残念に思う。少しでも和歌を嗜んだ人であるなら、そのような歌は良くないと思い、取り上げることはあるまい。

 すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
 何事についても十分知っているとは言えないことを話している人の傍にいると聞き苦しい。


 歌川広重は近江八景の一つ、堅田で「堅田落雁」の浮世絵を残している。琵琶湖湖畔の堅田は落雁で有名な場所である。琵琶湖西岸のこの地で芭蕉は元禄三年、「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」の句を詠んでいる。また同時に同じ場所で「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」の句を残している。この芭蕉の句を俳諧の古今集と言われる「猿蓑」に入集すべきか、どうかを巡って編集に携わった芭蕉の弟子、凡兆と去来の話し合った経過が『去来抄』に載せてある。それは次のような文章である。
 「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑るいとゞハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也 と乞。去來ハ小海老の句ハ珍しといへど、其物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に兩句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などゝ同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり」。
 「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」 
 「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」
 どちらの句を入集すべきかを巡って凡兆と去来は話し合った。「病雁の」の句に対して「海士の屋」の句には「かけり」、趣向の鋭い働きがあり、素材の新しさに優れた素晴らしい句だと凡兆は主張した。この凡兆の主張に対して去来は「小海老の」句には珍しさは確かにあるが、小海老を見て、私が句を詠もうとするなら、私でも詠めそうな気がしますよと、主張し、「病雁」の句は格調が高く、趣きの品の良さがあるように思いますと主張している。凡兆と去来は話合い、この二句、両方ともに入集しましょうということになった。
 その後、芭蕉はこの話を聞いて「病雁」の句と「小海老」の句とを比べ、どちらの方の句が優れているかと凡兆と去来とが話し合った事を聞いた師の芭蕉は笑ったという。
 芭蕉は去来も凡兆も俳諧というものがまだ分かっていないと思ったということか。
 芭蕉が詠んだ俳諧の発句は文学である。「病雁」の句は文学である。しかし「海士の屋」の句は文学になっているといえるのか、どうか、疑問だと芭蕉は自分の詠んだ句であっても疑問を感じていたということなのだろう。芭蕉は自分が詠んでいる俳諧というものが文学であると言う自覚はなかったであろう。がしかし芭蕉の詠んだ句は文学になっている。芭蕉は文学という概念を持つことはなかったが文学と言うことを認識していた。文学である以上、人間が表現されていなければ文学ではない。人間に対する認識がなければ、文学ではない。人間に対する新しい発見、認識があって初めて句というものが文学になる。
 旅に生き、旅に死んだ人間としての芭蕉は旅に生きる喜びと同時に哀しみを詠った。ここに文学がある。旅に病む人生に人間があると芭蕉は認識していた。この認識を表現した句の一つが「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」である。この句には人間の人生が表現されている。だから文学である。しかし「海士の屋」の句には人生というものが表現されていない。文学という現実態として「海士の屋」の句は存在していない。文学への可能態として存在している。だから「病雁」の句と「海士の屋」の句とを「同じごとくに」論ずることはできないにも関わらずに去来と凡兆は「同じごとくに」論じたことを芭蕉は笑ったのである。
 去来も凡兆もまだまだだと芭蕉は考えていた。『猿蓑』の選を任せて大丈夫なのかとハラハラ心配して任せていたのかもしれない。それでも信頼して『猿蓑』の編集を通して去来もまた凡兆も俳諧師として成長していくことを芭蕉は信じていた。その結果、三百年後の今日、今でも『猿蓑』を紐解く人がいる。

醸楽庵だより   1228号   白井一道

2019-10-27 10:53:40 | 随筆・小説



   徒然草56段 『久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事』

 

 久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。

 長いことご無沙汰していた人と逢い、その人が自分の話を数々残りなく語り続けるのを聞いていることほどつまらないものはない。分け隔てなく親しくしていた人も間をおいて逢うと、遠慮することもなくなるのだろうか。教養や品性に欠ける人はついちょっと外出しても今日あったことを息つく暇もなく語り興ずるところがある。品性のある方のお話は、多くの人がいてもただ一人の人に向き合って話すようなところがあるので人も聞くようになる。よからぬ人の話は誰ともなく、人々の中にでしゃばり、見てきたようなことをまくしたてるので皆同じように笑い大騒ぎをする。やかましい限りだ。面白いことを言ってもそれほど面白がらないのと、趣きのないことを言ってもよく微笑んでいることにその方の人品が分かろうというものだ。

 人の身ざまのよし・あし、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。

人の容姿の良し悪しについて教養人が批評し合うことに、己が身を引き合いに出して口をはさむのは聞き苦しい。

 飲み会が盛り上がっていた。三十代と四十代の職員が大半だった。女性職員も五、六人参加していた。мが言った。Kさん、Iさんと引っ付いていますよ。言われてみるとмとIさんはмの左腕がIさんの右腕にぴったりくっついている。周りの職員がオカシイと発言するとどれどれと言ってのぞき込む者がいた。寿司屋の座敷に十数人が座り、反省会と称して飲み会を初めて二、三十分した時だった。Iさんは三十代の女性職員、体育会系のスタイルのいいさっぱりした気質の方だった。мは四十代のまとめ役をしている男性職員だった。
 Iさんははっきり言った。мさんだったら、私、何されてもいいわ。今日、付き合えと言われたらついて行くわ。
 мはすかさず言った。そーれ、見ろ。聞いたか。Iさんの言葉を、聞いたかと、発言した。
 今日はどこに行く予定ですか。予約は取れているんですかと、мと仲の良い職員が言った。
 盛り上がった座の中でмとIは肩を寄せ合うと軽いキスを交わした。俺、奥さんに電話しておくわと、мの仲間が言った。そこに参加していた他の女性職員は我関せずという雰囲気で静観している。
 二時間近く、飲み会が続き、お開きとなった。その後、мとIがどのような展開になったのか、わからないが、静かにそれぞれ夫や妻の待つ家に足早に帰ったことと私は想像している。
 このような飲み会がある一方、仲間の悪口を言い合って楽しむような飲み会もある。「私、野暮用がありますので、お先に失礼します」などと言い、飲み会から早く帰る職員がいると「アイツはいつもそうだな」と、発言する職員がいる。「彼は恐妻家なんですよ。小遣いにいつも不自由しているみたいだな」と知ったふうな発言する職員がいる。「いやいや、彼は年の割に子供が小さいので大変みたいだ」とか、「彼は酒が飲めないからなんじゃないか」、「住宅ローンの返済が厳しいみたいだ」、「実家が九州で親の介護の負担が大きいみたいだ」といろいろな話が出てくる。ひとしきり、早く帰った職員の話で盛り上がる。これといって楽しい話題があるわけではない。なんとなく、一緒に仕事をしている仲間として飲み会が催される。一体感をもって仕事に励むという目的で飲み会があるのかもしれないが、飲み会が終わった後には何もない。
 翌日は真面目な顔をした職員が昨日、あのようにふざけたことを言ったのが不思議なような顔をして、事務的に職務をこなしている。

醸楽庵だより   1227号   白井一道

2019-10-26 10:46:41 | 随筆・小説



   徒然草55段 『家の作りやうは、夏をむねとすべし』



 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。

 家づくりは夏を快適に過ごせるよう配慮すべきだ。冬はどのような所にも住むことができる。暑いころ、悪い住まいは堪え難いものだ。

 深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。

 底の深い川には涼しさがない。浅い川の流れには遥かに涼しさがある。細かな物を見るに、遣戸は蔀の間よりも明るい。天井の高い家は冬寒く、明かりが暗くなる。余裕のある造りをした方が見た目にも趣きがあり、いろいろな用にもたつと人は言っていますよ。

 家づくりを私は一年間勉強し、自分で建築確認申請を県の建築事務所に提出した。
 家づくりの基礎は土台がしっかりしていることだ。その土台を作ることが大事だ。鉄筋コンクリートの土台をつくった。大工さんと一緒に材木屋に行き、土台になる材木を見に行った。鉄道の枕木になっている木材は栗や桧葉、桧の木だと教えられた。特に青森ヒバは建築材料としては最上品だと教えられた。大工さんと相談し、その青森ヒバを土台の材木として採用することを決めた。自分の家ができていく気持ちが湧きあがってくる。次は柱だ。四寸角の桧を柱にすることを決めた。長さは一三尺、天井の高い家にすることにした。梁と桁の小屋組みになる木材は輸入物の米松にした。
 私は若い大工さんと知り合いだった。日曜日の度に家内と一緒に大工さんの家を訪ね、素人のできる範囲で手伝いをした。仕事場の掃除とか、昼食の準備や後片付けなどが中心だった。
 この木は何になるのかなと大工さんに質問する。それは小屋組みを支える棟束(むねつか)になる木材だと教えられる。何の木なのかなと質問する。それは杉だよと教えられる。母屋になる木、垂木の木、様々な部材になる材木を知るようになった。屋根は瓦になるからこのような材木でなければ支えきれないと教えられる。
 ラーメン工法の家づくりが始まっていくという実感が加工される材木を見ていると湧きあがっていく。この工法が従来からある日本の家づくりの基本なんだという認識が確認されていく。屋根の重量を柱と小屋組みで支えていく。これが通風と日当たりを重視する日本の風土にあった家造りだと確認する。日本の家造りは壁で屋根の重量を支える構造ではないことを知る。壁の厚さを重視するヨーロッパの家造りと違うことを認識する。ヨーロッパの家は壁の厚さ、頑丈さで屋根の重量を支えるため、日本のように通風や日当たりを重視しない家造りがあることを知った。南向きの家が日本では一般的であるがイギリスやドイツの民家では、そのようなこだわりがないことを本で読んで知っていた。壁工法の家とラーメン工法の家では、風土の違いが文化の違いになっていることを知った。
 日本の家は柱を大事にする。大黒柱という言葉があるがそのような名詞になっている言葉は英語にはないようだ。言葉にはその土地の文化が反映している。ドイツやイギリスのように夏、涼しくないのが日本の夏だ。日本の夏は湿度が高く、暑い。だから通風の良さを重視する。大きな壁があっては通風を妨げる。空が灰色に曇る毎日が続くイギリスやドイツの冬と違い、日本の冬には晴れた青空がある。この青空に日本の空があり、日本の家造りの基本がある。私は自分の家造りを通して日本の文化の特徴は日本の風土からつくられていることを知った。
 日当たりと通風が良い家、天井の高い家が私の理想だった。それを実現することができた。家が出来上がり、家具もそれほど整わなかったころ、夏になっても一日中涼しかった。風通りがよく、快適だった。しかし我が家の前に家が建ち、我が家の東側にも大きな家が出来上がってくるにしたがって、徐々に風通しも悪くなり、数年後にはクーラーを入れるようになった。我が家の東側にできた家は、壁工法の家だった。我が家は一年の時間をかけて家をつくったが隣の家は三か月ほどで出来上がった。一日で家の大枠が出来上がったのには驚いた。

醸楽庵だより   1226号   白井一道

2019-10-25 12:04:17 | 随筆・小説



   徒然草54段 『御室にいみじき児のありけるを、』



 御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたゝめ入れて、双(ならび)の岡の便(びん)よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。

 御室に可愛い稚児がいたのでなんとか誘い出し遊ぼうと企む法師どもがいた。知恵のある遊び上手な法師どもが語らい、しゃれたデザインの重箱のようなものをねんごろに作り、箱のように見えるものにしたためて、双(ならび)の岡の都合のいいところに埋めて置き、紅葉を散らしてかけ、思いもよらない状況にして、御所に行き、稚児をそそのかして出てきた。

 うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困(こう)じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩(す)り、印(いん)ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹立ちて帰りにけり。

 ようやく誘い出せたことをうれしく思い、ここかしこと遊びまわり、さきほどの苔のむしろに並んで、「ひどく草臥れてしまったなぁー」、「あぁー、紅葉を焚いてくれる人がいてくれたなぁー」、「修法の効験ある僧侶たち、試みにお祈りされよ」など言いながら埋めた木の下に向かって、数珠を念じて印を大げさに結び、もったいぶって木の葉をかきのけてみても何も出てこない。埋めた所を間違えたのかなと、掘り探したところもないほど隈なく山を探し回っても見つけられなかった。埋めているのを人が見て、法師どもが御所に行っている間にその人が盗んでいた。法師どもは言葉もなく、聞き苦しい口論をしたあげく、腹をたてて帰って行った。

 あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

 あまりにも趣向を凝らすと、かならず無様な結果になるものだ。

 市民文化会館を借り切って、県立K高校の合唱祭が予定されている。三年生の各クラスは優勝を狙って、趣向を凝らしていた。原則は制服で歌うことになっている。しかし頭や手、足に纏う物に特に規制はなかった。帽子や髪飾り、マフラー、テープを投げるなどは自由であった。そのような事を生徒たちがするとは教師たちも考え及ばなかった。そこを生徒たちが狙った。
 発表順はくじ引きで決まった。一年生のクラスの発表はクラスメート全員が制服を着て、コンダクターのもと、一所懸命に声を併せて、高校生らしい合唱曲を披露していく。言って見れば面白みに欠ける発表である。問題は三年生の発表である。三年生のクラスの発表になった。クラスの生徒全員がばらばらに舞台に駆け出してきた。舞台の上でも走り回り、一瞬にして清冽すると大声で歌いだした。女子は足を揃えて、動かし、手には花を持ち、ソプラノの独唱も入る。男子生徒たちは最後に客席に向かってテープを投げた。
 一年生の生徒たちはびっくりしている。見ている方も楽しんでいる生徒たちが大半だった。だが、燃えに燃え切っていた三年生の生徒たちが市民会館備え付けの備品を勝手に動かしたことに会館側から苦渋が来た。音のボリュームも最高に上げ、この事も会館側から指導があった。
 この行事終了後、合唱祭を指導した教師たちは職員会議で他の職員たちから批判をうけることになった。特に問題になったのは舞台からテープを投げることだった。その結果、来年度から合唱祭は本校の体育館で実施することになった。生徒たちの合唱祭実行委員会は市民会館での実施を強く要望していたが、それは認められなかった。職員たちは「高校生らしい合唱祭」がいいと多少欠伸や居眠りがあってもその方がいいという考えだった。

醸楽庵だより   1225号   白井一道

2019-10-24 12:47:08 | 随筆・小説



   徒然草53段  『これも仁和寺の法師』




 これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被(かづ)きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。

 これも仁和寺の法師の話、小僧が僧侶になる名残として、おのおの遊ぶことがあった。なかには酒に酔っぱらい、傍らにある三本柱の鼎(かなえ)を取り上げ、頭に被ったので、息が詰まり、鼻を押しつけて顔を差し入れ踊りだしたので、そこにいる者は皆大喝采だった。

 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、頚の廻り欠けて、血垂(た)り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へ難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くゞもり声に響きて聞えず。「かゝることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

 しばらく楽しく舞った後、鼎から頭を抜こうとしても抜けない。酒宴の楽しみが醒め、どうしたものかと困り抜いた。どうしたら良いものかと思っていると首のまわりが傷つき、血が流れだし、腫れあがり、息もできないほどなので、打ち割ろうとしても容易く割ることもできない。また割る打撃が頭に響き、耐え難いことこの上ないので、ほどこしようがないので、三本足の上の角に衣服をかぶせ、手を引き、杖をつかせて京の医師のもとに引き連れて行った。道すがら人が怪しみ見ること限りない。医師のもとに行き、対面したありさまはさぞかし異様なものであったろう。本人がものを言うのも声が内にこごまって響いて聞き取れない。「このようなことは医書にもないし、伝え聞いた教えにもない」と言うので、また仁和寺に帰り、親しき者、老いたる母など、枕元に集まり、泣き悲しんでみても、本人には聞こえているのかどうかもわからない。

 かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

 こうしているうちに、ある者が言うように「たとえ耳、鼻が失われようとも命ばかりは何としても失うようなことをしてはならない。ひたすら力を入れて引きに引きたまえ」ということで、藁の穂を首のまわりに射し入れて、金属と肌とを離して、首もちぎれるばかりに引いたところ、耳、鼻が千切れて抜くことができた。運よく命拾いをして、長い間患ったということであった。

 若者は愚かなことをする。2012年7月27日、隅田川花火大会の場所取りのために集まっていたサークルの飲み会で事故があった。その日、東京大学のテニスサークルはOBを含めた41人でコンパを開催していた。そこで行われていた「マキバ」と呼ばれるイッキ飲みの儀式で、当時21歳だった学生が、急性アルコール中毒で亡くなった。問題は「マキバ」という儀式だ。円陣を組みマイムマイムを歌い踊り、演奏が止まると中央にある大容量の焼酎ボトル(原液)を、コールがある間は飲み続けるというルールだ。東大駒場キャンパスで、40年以上続くサークルの伝統的な飲酒儀式のようだった。盛り上げ役であるコンパ長を任された学生は、誰よりも多く飲酒することが求められる。推定飲酒量は1.1リットル、アルコール度数は25度。午後9時頃から飲み続けた結果、その学生は失禁するほど重篤な状態に陥りましたが、他のメンバーはズボンを脱がせ、集団から離れた場所に横たえただけだった。その後4時間にわたり放置し、救急車を呼んだのは死亡後2時間が経過した午前2時過ぎ、その学生の体は死後硬直が始まっていたということだ。若者は愚かなことをする。愚かなことをする若者を許す社会もまたある。

醸楽庵だより   1224号   白井一道

2019-10-23 13:14:49 | 随筆・小説



   徒然草52段 『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、』



 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 仁和寺のある法師は、年取るまで石清水八幡宮にお参りすることがなかったので、心残りを覚え、ある時、思い立ちただ一人で歩いて詣でた。極楽寺と高良神社などを拝み、これだけと思って帰って来た。

 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 さて、後輩の僧侶に向かって、「年来思っていたことを果たすことができた。聞きしに勝る尊さであった。それにしても参る人が皆、山に登るのは何事があるのだろうかと、知りたかったが、神様に参ることこそが私の本意なのだと自分に言い聞かせ、山に登ることはしなかった」と言われた。

 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり

 このような些細な事であっても、先人の存在はあってほしいものだ。

 石清水八幡宮に行くということは、神様に参ることに本意がある。その本意を見失ってはならないということを兼好法師は述べている。我々世俗に生きる人間は本意を見失って本意を遂げることができないということが往々にしてある。
 松尾芭蕉は本意を遂げた人である。芭蕉が本意を遂げた証としての句の一つが元禄三年に詠んだ「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」という句であろう。この句について芭蕉の弟子、土芳は著書『三冊子』の中の「あかさうし」で次のように述べている。「この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也」とこの句は芭蕉の俳諧理念「軽み」を表現した句である。元禄三年以前にも「軽み」を表現している句はあるようだ。例えば貞享元年(1684)、芭蕉41歳の時の句「道のべの木槿は馬にくはれけり」がある。この句は『のざらし紀行』に載せてある句である。許六は「正風開眼の第一声」と称して、「談林の時俳諧に長じ、日々向上にすり上ゲ、終に談林を見破り、はじめて正風体を見届、躬恒・貫之の本情を探て始て、」この句が詠まれたと絶賛している。蕉風開眼の一句が「「道のべの木槿は馬にくはれけり」であるなら、蕉風俳諧の本意を大成した最初の句が「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」なのであろう。
 名句は軽快である。軽い。この軽さに名人芸がある。本意を極めると軽くなる。重いものは良くない。本当に美味しい日本酒は軽い。軽いお酒でなければ、楽しく飲むことができない。重いお酒はお腹に応える。草臥れてしまう。楽しむことができない。
 芭蕉がたどり着いた俳諧理念「軽み」には古今集以来の伝統的な詩歌の精神が継承されている。芭蕉は『新古今和歌集』の代表的な歌人西行に私淑していた。西行法師の歌「木のもとに旅寝をすればよしの山花のふすまを着する春風」、この歌の心を芭蕉は継承し、「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」と詠んでいる。また木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)の歌「閨(ねや)ちかき軒端の桜風吹けば床も枕も花の白雪」、この歌の伝統を継承し芭蕉は句を詠んでいる。
西行や長嘨子が詠んだ「花のふすま」や「花のしら雪」が伝統的な風雅の花であるとしたなら芭蕉の詠んだ「汁も膾も」は、元禄時代に生きた町人や農民の生活の中にあった日常生活の中の「汁や膾(なます)」に風雅を発見したものであろう。
そこに芭蕉は俳諧の本意を発見した。俳諧とは世俗の中のものに風雅を発見する文芸であった。その文芸を町人や農民たち自身が楽しんだ。俳諧は和歌の伝統を継承し、町人や農民の生活の中に風雅を見つけ出す営みだった。それは同時に俳諧の本意を極める営みでもあった。
芭蕉は俳諧の本意を求め続け、極めたものが「軽み」という俳諧理念であった。その俳諧理念を具体的に句として表現したものの一つが「木のもとに汁も膾も桜かな」と言う句であり、「此の道や行人なしに秋の暮」、この句に至って感極まる。

醸楽庵だより   1223号   白井一道

2019-10-22 11:21:06 | 随筆・小説



    徒然草51段 『亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、』



 亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたづらに立てりけり。

 後嵯峨上皇が造った仙洞御所の池に大井川(保津川)の水を引き入れようと、大井川沿いの住民に命令し、水車を作らせた。お金をたくさん使い、数日間水車を動かしてみたところ、ほとんど水車が回らない。いろいろ直してみたけれども、ついに回ることはなく、やむなくそのままにしたという。

 さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。

 そこで宇治の住民にお願いして水車をこしらえてもらうと、気持ちよく応じてくれて、思うように水車は回り、水を池に組み入れることが目出度くできるようになった。

 万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

 すべての事に言えることだ。その道に通じた者は大事な存在だ。

 
 一時期、毎年暮れになると姉の家に餅つきに行っていた。姉は前日から張り切って準備していた。もち米を張り、一晩置いていた。私が行くと部屋の中がすでに暖かだった。竈には薪がくべられ、竈の上の釜からは湯気が上がっていた。
 隣には臼が据えられ、杵が置いてある。臼の中は綺麗に拭かれていた。私が杵に手をかけると「じゃーいいかい」と姉は言うと、釜の上の蒸篭を一つ持ち上げ、臼の中に入れる。蒸篭を片付け、私の隣に来て、腰をかがめる。私は力を込めて臼を頭の上に持ち上げ、臼めがけて振り下ろす。臼を私が振り上げると姉は臼の中の熱いもち米をこね取りをする。また私は力を出して臼を振り上げ、振り下ろす。餅や竈、蒸篭の湯気で真冬だというのに、汗が額に噴き出てくる。
 一臼搗くのに20回ぐらい、杵を振り下ろす。もう少し多かったかもしれない。そのたびごとに姉は臼の中に手を入れて、こね取りをする。大変な労働だ。私の家の餅は一臼のみだ。私の餅つきは10臼続く。姉は当然のことだと言わんばかりに遠慮することなく、思う存分、私を使い切る。
 私はもともと頑健な身体の持ち主ではない。どちらかというと力は弱いほうだ。疲れ切ると少し、休ませてもらう。それでも姉は一時も休むことなく、体を動かし続ける。草臥れることがないのだろうかと不思議に思うほどである。
 7、8年、餅つきに姉の家に通ったが、甥っ子が私に代わって餅つきをするようになって、私はこの厳しい労働から解放された。甥っ子は私より頑健な身体の持ち主だった。私より遥かに楽々と餅つきをしているようだ。
 子供だった頃、餅つきは年間行事の一つだった。12月28日が餅搗きの日だった。台所には熱気があふれていた。男衆(おとし)さんが手伝いに来てくれた。私は大根おろしを手伝うのが習わしだった。搗き上がったばかりの餅を大根おろしの中に入れ、醤油をかけて食べるのが美味しかった。
 いつ頃からか、餅つきは年間の行事ではなくなり、私一人が姉の家に行き、手伝うようなっていた。搗いてもらう餅の方が安上がりになったと言うことかもしれない。そういうことから次のよう諺が生れたのかもしれない。
 「餅は餅屋に」頼む方が美味しい餅が食べられるということが常識になり、諺となり、江戸いろは歌留多に取り上げるまでに江戸時代にはなっていた。餅つきは準備が大変である。餅つきそのものが重労働である。後片付けが面倒である。餅には黴が生える。黴が生えないように水餅などにする。保存もまた面倒である。乾燥させた餅を油で揚げ、塩を振って、食べる。美味しいものだった。昔の人にとって餅はご馳走であるが故に餅に関する文化が生まれたくらいだ。だから餅屋が誕生した。「餅は餅屋」。専門家に任せたほうが美味しい餅が食べられるということがすでに江戸時代にはできていた。