醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1454号   白井一道

2020-06-30 15:07:53 | 随筆・小説


   出家の記  2 
 


 伯父の仕事に来ていた人が我が家によく出入りするようになった。その男の人を私はアンちゃんと呼んでいた。母は裏の家の婆さんと仲良く付き合っていた。突然その裏の家の婆さんの家に連れていかれ、昼ご飯をよばれることがあった。その時の事が未だに鮮明に記憶に残っている。そのおトク婆さんが私に何回も明日からアンちゃんをお父さんと呼ぶんだよと言われたことが記憶に残っている。私は特に抵抗を覚えることもなくアンちゃんをお父さんと呼び習っていった。その「お父さん」の思い出で最も古いものは自転車のハンドルと座椅子との間の鉄棒に私は尻を乗せ、ハンドルに捕まった記憶だ。私は恐ろしさのあまり、ハンドルを強く握りしめると「お父さん」は強く私を叱責した。そんなに強くハンドルを握られると運転できないと強く怒った。その言葉に優しさのようなものを私は感じなかった。そのうち「お父さん」は家からいなくなり、一月に一度くらいしか返って来なくなった。「お父さん」は母の縁故を頼り、横浜に仕事を求めて出て行ったようだ。母が私の手を引き、近所の人と横浜と日光の二重生活だから大変だと言うようなことを話していたことが記憶の底にある。いつも「お父さん」は手土産を持って帰って来た。ある時、手ぶらで帰ってきたことがある。横浜で買い求めたお菓子を電車の網棚に乗せ、偶然知り合いと乗り合わせ、世間話に夢中になり、日光駅に着いた時、網棚のお土産の菓子箱は無くなっていたとしょんぼりして帰ってきたことがあった。
 私は日光市立清滝第二小学校に入学することになった。小学校の門を入ると二宮金次郎の石像が立っていた。背中に薪を背負った金次郎は手には本を開いた石像だった。その石像の脇を通り、グランドに「お父さん」と並び、校舎を眺めていた記憶が残っている。姉が私の教室にやって来て、時間割を書き、その紙を私に渡した。その一年生の時のことだった。ある日の事、私は小学校の便所に入り、大便をする勇気がなかった。とうとう我慢できなくなり、教室で漏らしてしまった。担任の女性の先生に私は憧れていた。その井上先生は私を便所に連れて行き、私のお尻に水道の水を流し、パンツとズボンを水洗いして下校していいと言った。私ははしゃぎまわり、恥を隠そうとしていた。
 小学校の二年生になった。運動会になると街の人が皆、莚を持って小学校の校庭に集まるお祭りだった。しかし私の母や「お父さん」が来ることはなかった。それでも寂しかった記憶は残っていない。家に帰ると私は祖母のいる離に行くことが習慣化していた。長火鉢の後ろにいる祖母にお祖母ちゃんと言うと出て来て五円くれた。その五円を持って駄菓子屋に私は行った。
 ある時、私は従妹と庭で遊んでいた。私が何か悪さをしたのかもしれないが何をしたのか、記憶はない。ただ伯父が出て来て私を捕まえ、お前は男の子なんだぞと、道の真ん中で大声で怒られた。私は大声でただ泣くばかりだった。人垣ができ、その中で長い時間怒られ続けた。周りの人々が興味深げに眺めていた。私は家に帰り、台所の隅でいつまでも泣き続けていた。母は一切私を弁護することはなかった。「男の子なのにいつまで泣いているの」と、怒られた。ただ何となく男の子は泣いてはいけないのだという気持ちが湧きあがって来た。それ以来、私はどんなに泣きたい気持ちに駆られても泣かなくなったような気がする。それでも泣いた記憶がある。私は風をひき、学校を休んだ。学校に登校すると算数の試験があった。今までは+の記号しか教わったことがない。それまで見たこともない記号-があった。どうすればよいのか分からず、足し算をして提出したら、すべて✖になっていた。その解答用紙を貰い、母に出した時に私は泣いていた。本当に心の弱い子供だった。通知簿を貰ってもそこに何が書いてあるのかも充分理解することなく、学校生活を楽しんでいた。
 小学校の二年生の秋、我が家は横浜に転居することになった。新しい転居先は横浜市港北区の農村地帯にある大きな農家の一室を間借りすることになった。駅からは歩いて30分くらいかかる農村であった。港などどこにあるのか全然分からなかった。母と私たちは電車で行った。日光駅を東武電車で出発するとき、近所にいたお姉さんが日光駅の売店にいた。そのお姉さんが私たちを見送ってくれたことが記憶に残っている。浅草駅近くになるとお化け煙突があることを母に教えてもらった。電車が進むに従って煙突の数が変わっていく。不思議に思った記憶が残っている。東横線大倉山駅に何時ごろ着いたのか記憶はない。

醸楽庵だより   1453号   白井一道

2020-06-29 17:03:31 | 随筆・小説


  出家の記  1



 気づいた時、私には父がいなかった。それが当たり前のことであった。私は母の実家の家作にいた。大きな門構えのある母屋の周りにある一軒家に住んでいた。その家にはお店と呼んでいた部屋が道路に面して土間があり、昔はそこで何かの商売をしていた場所だったのかもしれない。
 家の前を通る道路は中禅寺湖に通じる唯一の道のように私は思っていた。東武日光駅から中禅寺湖に向かう途中の清滝町で私は生まれた。生まれたのは1945年である。まだ戦争は終わっていなかったと聞いている。父は兵隊検査を受け、丙種合格で入隊したが結核を発病し、除隊となり、当時住んでいた東京、雑司ヶ谷の借家に帰り、母の実家に疎開することになったと聞いている。1945年3月10日の大空襲を私は母の腹の中で経験しているようだ。身重の母は肺病を病んだ父を支え、2歳上の姉を抱え、大変な思いをして日光の実家へ疎開し、そこで男の子を出産した。戦争はまだ続いていた。6月に私が生れ、8月に日本軍は敗戦した。空襲警報、灯火管制という放送が耳の底に今でも残っている。父は12月に20代の若さで亡くなった。私には父の顔を見た記憶がない。
 父は新潟県佐渡島出身の人であるという話を聞いた。子供のころ、父の実家に行った記憶はない。私が生れた時にはすでに祖父という人は亡くなっていたようだ。祖母は生きていたようだが生前逢ったことはない。祖母の記憶は私がごく幼少の頃、何かを贈ってくれたことがある。母がお祖母ちゃんからだよと言った言葉だけが耳に残っている。何が贈られてきたのか、記憶は何もない。
 父の家も母の家も一時は豊かな頃もあったようだが、父が旧制中学を卒業するころ、祖父の事業が行き詰まり、倒産している。父は伯母の嫁ぎ先の支援を得て東京の大学に進学し、卒業したようだ。母の実家も豊かな時があったようだが、母が高等小学校を卒業するころは祖父の事業が経営不振に陥り、母は進学を諦め、東京に出て今の三井記念病院の前身三井慈善病院の看護婦養成機関に入り、そこを出て看護婦になった。その頃、母は中野のアパートに新聞記者をしていた伯父と一緒に住んでいたようだ。そのアパートで父と母は知り合い、結婚したようだ。母の方が1、2歳年上で、戦時下のもと結婚生活が始まった。戦争は激しくなり、本土空襲が度重なる中、父と母は母の実家のある日光へ疎開し、そこで私が生れ、父は肺結核が重病化して死亡する。
 母の実家には跡をとった伯父が土建屋をしていた。母屋の後ろには土方が寝泊まりする飯場のような家が2軒建っていた。伯父が大きな声で土方を怒鳴りつけている声がよく響いて来た。祖父が私を可愛がってくれたことをうっすらと記憶に残っている。夕方になると祖父は一人御燗をしてお酒を楽しんでいる姿がうっすらとした記憶がある。私のお酒を飲まり、酔っぱらったことを祖父が楽しんでいると母が厳しく祖父を怒ったようだ。この祖父が生きているうちは母も実家で生活することにそれほど気苦労することもなかったようだが、祖父が亡くなると母は実家で生活が息苦しいものになった。伯父が仙台の方の仕事を請け負い、家を出ていた時は良かったが、その伯父が仙台から妻ともう一人の女性を連れて家に帰って来てからが地獄だった。その女性が女の子を生んだのだ。さらにその女性には女の子の連れ子がいた。祖母は伯父が女性に産ませた女の子を育てろと言ったようだが、叔父の妻はそれを断り、怒り抜き家を出て行った。伯父が仙台から連れて来た女性が妻になった。母は自分の兄がしたことを生涯許すことはなかった。伯父が仙台から連れて来た女性を母は嫌っていたし、またその女性を許すこともなかった。母と義理伯母が仲良く話し合う姿を見たのは伯父が亡くなり、母が80歳を過ぎてからのことであった。
 母は遺産分けが済むと祖父が所有していた家作の一つが母の家になり、お店と言われた家を出て新しい家に引っ越した。その家には風呂がなかった。母の実家の風呂に入りづらくなったのか、銭湯に通うようになった。真冬の日光清滝町の銭湯に行き、家に帰り着くと手拭いが凍った。帰り道夜空を仰ぎ、あれが北斗七星、あれが北極星、星空を仰ぎ見る楽しみを知った。
 母は星空を子供と共にどのような思いで見ていたのだろう。これからの生活を思うと真っ暗闇の中、どう生きて行けばいいのか、どうして子供を育てて行けばいいのか、途方に暮れていたのかもしれない。寒いと感じることもなく私は元気にはしゃいでいたのかもしれない。真冬の日光の星空の美しさだけが私の脳裏に残っている。

醸楽庵だより   1452号   白井一道

2020-06-28 12:44:11 | 随筆・小説


   方丈記 17



原文
  抑(そもそも)、一期(いちご)の月影かたぶきて、余算の山の端(は)に近し。たちまちに、三途の闇に向はんとす。何の業(わざ)をかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣(おもむき)は、事にふれて執心(しふしん)なかれとなり。今、草菴を愛するも、閑寂(かんせき)に著(ぢやく)するも、障(さは)りなるべし。いかゞ、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。しづかなる暁(あかつき)、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく。世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人(ひじり)にて、心は濁りに染(し)めり。栖(すみか)はすなはち、浄名居士(じやうみやうこじ)の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特(しゆりはんどく)が行にだに及ばず。若(もし)これは貧賎の報のみづからなやますか、はたまた、妄心(まうしん)のいたりて狂せるか。そのとき、心、更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根(ぜつこん)をやとひて、不請阿弥陀仏(ふしやうのあみだぶつ)両三遍申てやみぬ。
 于時(時に)、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これをしるす。




現代語訳
 そもそも、人間の一生の後半生は残っている寿命の山の端にいるようなものだ。たちまちにして三途の川に向かおうとしている。今さら何を言うことがあろうか。仏が教えていることはどのような事にも執着してはならないという事だ。今、私は草庵を愛しみ、閑寂にいることに執着しているのかもしれない。これ以上、何の役にも立たない楽しみを述べて、残り少ない時間を過ごそうとしているのか。静かな夜明けの時間に、この道理を観想し、我が心に問うている。世俗を離れ、山林の中に入ることは、心の修養と戒めを守るうとすることである。なぜなら私の姿は聖人の格好をしているが心は汚れていた。住家は正に浄名居士維摩の方丈に似せてはいるが、その修行はあの愚鈍な周利槃特(しゆりはんどく)にも及ばない。これはもしかして貧賤の因果の応報か、はたまた煩悩ゆえに狂ったのか。その時、心は何の反応もなかったのか。ただ自堕落に口を動かし、不精な阿弥陀仏を二、三弁唱えてそれで終わった。
 時に建暦二年三月末ごろ、僧侶の蓮胤(れんいん)、山の中の庵にてこれを書く。


 読み終わっての感想  白井一道
 人間の一生も終わってみればあっけないもののようだ。そうした蟻の集団のような人々の集団の一人一人がそれぞれの生活を営み、終わっていく。そうした人々の生活の営みが歴史を創っていく。大河の流れになって大海へとそそがれていく。
 800年前に生きた人も現代に生きる人も気持ちは同じだということを『方丈記』を読み実感した。800年前の日本には災害が多かった。その災害の規模が今では考えられないくらいに大きなものであった。この日本の災害は変わることなく、現代にあっても毎年、災害が襲い来る。特に大きな災害は2011年に起きた「東日本大震災」であった。この地震による津波が原子力発電所を襲い、地震によって破損した原子力発電所が破壊された。絶対安全だと云われていた原子力発電所がちっとも安全なものではなかったことが明らかになった。原子力発電所の立地していた地域に住む人々は故郷を奪われた。このような災害は昔はなかった。災害が過ぎれば元に戻ることが可能であったが永遠に土地を奪われてしまった。決して人間が住むことができない地域ができてしまった。空前にして絶後の大災害が科学技術が発展した国において起きてしまった。
 鼻高々と科学技術文明を誇っていた人間の鼻をへし折ったのは自然を痛めつけた人間への自然からの復讐だった。もっと自然に対して謙虚になれと人間へのメッセージであった。自然と折り合う以外に人間は生きていけない。自然に耳を傾け、自然を謙虚に受け入れる以外に人間は生きていくができないということを教えてくれたのが2011年に起きた大災害、「東日本大震災」であった。この災害の後遺症は永遠に残り続けるようだ。数万年の単位でしか、放射能を無害化することはできないようだ。
 人間の一生とは自堕落に口を動かし、いい加減な阿弥陀仏を唱えるのが精一杯のようだ。

醸楽庵だより   1451号   白井一道

2020-06-27 12:39:11 | 随筆・小説


 方丈記 16



原文
 夫(それ)、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねむごろなるを先とす。必ずしも、なさけあると、すなほなるとをば不愛(あいせず)。只、糸竹(しちく)・花月(くわげつ)を友とせんにはしかじ。人の奴〈やっこ〉たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきをさきとす。更に、はぐくみあはれむと、安くしづかなるとをば願はず。只、わが身を(ぬひ)とするにはしかず。いかゞとするとならば、若、なすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりやすし。若、ありくべき事あれば、みづからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますにはしかず。今、一身をわかちて、二の用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。身心(しんじん)の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。物うしとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、つねにありき、つねに働くは、養性なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らん。人をなやます、罪業なり。いかゞ、他の力を借るべき。衣食のたぐひ、又、おなじ。藤の衣、麻のふすま、得るにしたがひて、肌をかくし、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじはらざれば、すがたを恥づる悔いもなし。糧ともしければ、おろそかなる報をあまくす。
 惣て、かやうの楽しみ、富める人に対していふにはあらず。只、わが身ひとつにとりて、むかしと今とをなぞらふるばかりなり。
 夫、三界は只心ひとつなり。心若(も)しやすからずは、象馬(ざうめ)七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今、さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから、都に出でて、身の乞匈(こつがい)となれる事を恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)する事をあはれむ。若、人このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、其心を知らず。閑居の気味(きび)も又おなじ。住まずして、誰かさとらむ。
現代語訳
 普通、人が友にし、豊かな人を大事にし、細心の心遣いをする。必ずしも人情が篤く、気持ちがいい人を友人にするわけではない。だから、管弦や花、月を友にした方が良い。召使という者は賞罰にあからさまで、優しくしてくれる人を大事にする。更に受け入れ情をかけると穏やかに静かにしていることを願わない。ただ我が身を召使にした方がよいくらいだ。如何に召使にするかというと、もししなければならないことがあるなら、自分で行う。疲れてだるくないわけではないが、人に命令し、情をかけ世話するよりも気楽だ。もし歩かなければならないなら自ら歩いていく。苦しいけれども馬・鞍・牛・車と心を配る程のことではない。今、我が身を割いて二つの用をする。手と足、良いように我が心を満足させるだろう。体が心の苦しみを知るなら、苦しい時は休み、忙しい時は動かす。使うと言っても使い過ぎる事とはない。ものぐさくても心までものぐさくなることはない。どういうものか、常に歩き、常に働くことは健康に良い。どうしてのんびり休んでいられようか。これが人を悩ます煩悩というものだ。いかに仏の力が必要かということだ。衣食の類もまた同じようなものだ。藤の衣や麻の夜具など手に入ったものを身にまとい、野辺のおはぎ、峰の木の実でどうにか命をつなぐばかりだ。人に交わることがないなら、我が身を恥じる悔いもない。食べ物が侘しいのであれば、それを我が身の報いとして敬えばいい。
 すべてこのような楽しみは富める人に対して言っているのではない。ただ我が身一つにとって、昔と今とを比べてみているだけなのだ。
 そう、三界と言われる人間世界は心のもちようだ。心がもし安定していないと像や馬、大切な宝物も大切なものとも思われず、宮殿や楼閣を敬うこともなくなる。今、寂しい住まい、一間の庵、私はこれを愛しんでいる。都に出て行き乞食(こつじき)になることが恥ずかしくもあるが、都から帰りこの庵に居る時は、都の汚れにまみれることを恥ずかしく思う。もし、他人がこの事を疑うなら魚や鳥の生きている姿を思い浮かべてほしい。魚は水の中で生きることに飽きることがない。魚にならなければ魚の気持ちは分からない。鳥は林の中にいることを喜んでいる。鳥にならなければ鳥の気持ちは分からない。閑居の気持ちもまた同じようなことだ。閑居することなく閑居する者の気持ちは分からないであろう。

醸楽庵だより   1450号   白井一道

2020-06-26 13:19:29 | 随筆・小説



   人身売買報告で日本格下げ 米国、技能実習生など問題視      朝日新聞デジタル 2020.6.26



 米国務省は25日、世界の人身売買に関する年次報告書を発表した。日本については、外国人技能実習制度や児童買春の問題を取り上げ、「取り組みの真剣さや継続性が前年までと比べると不十分だ」として、前年までの4段階のうち最も良い評価から、上から2番目の評価に格下げした。
 今回不十分と判断したのは、人身売買の摘発件数が前年より減ったことなどを考慮したためという。報告書ではこれまでも日本の技能実習制度を問題視してきたが、今回は「外国人の強制労働が継続して報告されているにもかかわらず、当局は一件も特定しなかった」とし、「法外な手数料を徴収する外国の仲介業者を排除するための法的措置を、十分に実施していない」と改善を求めた。
 人身売買問題を担当するリッチモンド大使は記者会見で、「技能実習制度の中での強制労働は長年懸念されてきたことで、日本政府はこの問題にもっと取り組むことができるはずだ」と指摘した。(ワシントン=大島隆)

 現代日本社会に奴隷的存在の人々が現存している。そのような人々の存在を日本政府は制度として認めていると米国国務省が年次報告書で発表している。アメリカ国内にあっても有色人に対する差別が半ば公認されているようなことがあるようだから、日本をそれほど批判できる国でもないようだ。アメリカ国内にあっては1960年代の公民権法の成立まで黒人差別が制度として存続していた。アメリカ合衆国が黒人奴隷制を廃止したのは南北戦争の最中のことであった。
 「南北戦争の激烈な戦いが3年目に突入したとき、エイブラハム・リンカーン大統領は連邦軍の兵士たちに新たな戦争を意味する決定を下した。1863年1月1日、リンカーンは奴隷解放宣言に署名、それは合衆国に公然と反旗を翻している州の奴隷たちを解放する効果があった。南北戦争は急速に、連邦を保持する闘いのみならず、すべての米国人に自由を浸透させるための大義となった。直近に開放された奴隷たちの多くが連邦軍や海軍に加わり、他の奴隷達のために勇敢に闘った。
 奴隷解放宣言はボストン、ニューヨーク、ワシントンDCをはじめ各地で大歓迎された。しかし宣言が現実のものとなるには、さらに多くの戦闘を必要とした。1865年に南北戦争が終結するまでに、ほぼ20万人にのぼるアフリカ系米国人が連邦軍の戦闘に連なった。同年12月、米国憲法が修正され、米国のあらゆる地域に暮らすすべての奴隷が自由の身となった。合衆国憲法修正13条は、奴隷解放宣言が端緒となったその作業を完結させ、米国のすべての奴隷制度は終焉を遂げた。」
アメリカ国務省文書より
 リンカーン大統領は徹底したリアリストであった。大統領リンカーンはあくまでもアメリカ合衆国の大統領であった。アメリカ南部がアメリカ合衆国から分離独立することを許さなかった。このことが第一義的なことであった。1850年代ストウ夫人の書いた小説『アンクル=トムの小屋』がベストセラーになるとリンカーンは奴隷制廃止に理解を示したが、南部諸州が合衆国に留まり、北部諸州に奴隷制度が広まることがなかったら南部諸州の奴隷制度存続を認めていた。リンカーンは奴隷制度そのものを否定する考えを持っていたわけではない。現実のあるがままのアメリカを受け入れていた。この現実が存続することを望んでいた保守政治家であった。高い理想を掲げる政治家ではなかった。
 19世紀後半、アメリカ合衆国にあっては確かに1863年の南北戦争最中に「奴隷解放令」を発布したが、これは「奴隷解放令」を発布した方が南北戦争を北部が有利に展開できると判断したからこそリンカーンは黒人奴隷の解放を実現した。であるが故に黒人奴隷解放は不十分なものにならざるを得なかった。その後100年たっても黒人差別は基本的になくなっていない。
 社会の進歩は少しずつしか進まない。移民の国、アメリカ合衆国には、「ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント」、WASP(ワスプ)を頂点とする階層性社会が存在している。この階層性社会に対する抵抗運動か起き。アメリカ社会はより自由で民主的な社会を目指して変わろうとしている。この階層性社会を打破しようとする人々の運動が今アメリカでは起きている。日本でもまた技能実習制度を改革していこうとしている人々がいる。

醸楽庵だより   1449号   白井一道

2020-06-25 07:34:36 | 随筆・小説



   思いやり予算増額要求



 アメリカ政府は日本政府に対して在日米軍駐留経費の増額を要求している。次のような新聞報道があった。
ボルトン氏回顧録「在日米軍駐留経費 年80億ドル要求」明かす

2020年6月23日 5時14分トランプ大統領
アメリカのトランプ大統領の元側近、ボルトン前大統領補佐官が回顧録を出版し、この中でボルトン氏は、在日アメリカ軍の駐留経費の日本側の負担を大幅に増やし、年間80億ドルを要求するトランプ大統領の意向を日本側に説明したことを明らかにしました。ボルトン氏はアメリカ軍の撤退も示唆して交渉するよう大統領から指示を受けたとしています。
トランプ大統領の元側近、ボルトン前大統領補佐官は、日本時間の23日、みずからの回顧録「それが起きた部屋」を出版しました。
この中でボルトン氏は、去年7月に日本を訪問し、当時の国家安全保障局長だった谷内氏と会談した際、在日アメリカ軍の駐留経費の日本側の負担を大幅に増やし、年間80億ドルを要求するトランプ大統領の意向を説明したことを明らかにしました。
80億ドルは、日本側が現在支払っている額の4倍余りで、日本政府はこうした金額が提示されたことをこれまで否定してきましたが、ボルトン氏は提示したと主張しています。
また、ボルトン氏は、韓国に対しても韓国側の負担を現在の5倍にあたる50億ドルへ引き上げるよう求めるトランプ大統領の意向を伝えたとしています。
そのうえで、ボルトン氏は、トランプ大統領が「日本から年間80億ドル、韓国から50億ドルを得る方法は、すべてのアメリカ軍を撤退させると脅すことだ。交渉上、とても有利な立場になる」と発言したとしていて、アメリカ軍の撤退も示唆して交渉するよう指示を受けたとしています。
駐留経費をめぐっては、トランプ政権は韓国とは去年9月から交渉していますが、アメリカ側が大幅な増額を求めて協議は難航していて、ことしから交渉が始まる予定の日本に対しても増額を求めていく構えです。

現在日本には次のような巨大な米軍基地が存在している。
本土最大の米軍基地は青森県三沢市にある三沢米空軍基地である。東京都には航空自衛隊と米空軍が利用する横田基地が福生市にある。トランプ大統領が日本に来るときはこの横田基地から入国する。横田基地は米国の一部になっている。このトランプ大統領の態度は日本をアメリカと対等な国として認めていない実に横柄な態度であると私は感じている。日本政府を代表する首相はこのようなアメリカ大統領の態度を何とも感じないのだろうか。
在日米海軍司令部をはじめ、横須賀基地司令部、海軍施設技術部隊などが神奈川県横須賀市にある横須賀海軍基地である。この横須賀米海軍基地が第7艦隊の母港になっている。第7艦隊は、原子力空母「ロナウド・レーガン」と艦載される第五空母航空団を戦闘部隊とする戦時には50〜60の艦船、350機の航空機を擁する規模となる。人的勢力も6万の水兵と海兵を動員する能力をもつ。平時の兵力は約2万。アメリカ本国の反対側に当たる地球の半分を活動範囲とし、アメリカ海軍の艦隊の中では、最大の規模と戦力を誇っている。
また軍用機の展示や、航空ショーも行われる山口県岩国市にある岩国海兵隊基地がある。沖縄県嘉手納に極東最大の米空軍基地がある。3700mの滑走路2本を有し、約100機の軍用機が常駐する在日米空軍最大の基地である。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。
思いやり予算とは、沖縄をはじめ日本にある米軍基地で働く人たちの給料(本来はアメリカが負担する)や、労務費・施設整備費・米軍の訓練移転費などの予算です。このような予算は日米地位協定では日本が支払う義務のないお金です。日本政府はアメリカ政府を思いやり在日米軍駐留経費を支払っている。その中には米軍兵士が楽しむお酒代もあるという話を聞いたことがある。
沖縄県民の少女や女性が米兵に暴行を受ける被害が多発している中でこのような日本人にを思いやる気持ちや予算を計上することなく、米軍を思いやる日本政府は本当に日本国民のことを考えている日本政府だといえるのかどうか、疑問である。

醸楽庵だより   1448号   白井一道

2020-06-24 15:13:42 | 随筆・小説



  河井克行・案里夫妻の逮捕について



 検察は「ルビコン川を渡った」と元特捜検察官の郷原信郎氏は「日本の権力を斬る」の中で述べている。検察が国会議員・河井克行・案里夫妻を公職選挙法違反容疑で逮捕した。この事を郷原氏は検察が「ルビコン川を渡った」と述べている。
ルビコン川は古代ローマの時代、アルプス以北のガリアとイタリア半島本土との境界をなしていた。紀元前1世紀、ローマ帝国内には有力な将軍が並立していた。ガリアの地を平定し、その地の将軍として君臨していたユリウス・カエサルが我が軍隊を引き連れてルビコン川を渡り、イタリア半島本土の中心都市に向けて軍隊を差し向けた。当時、軍隊を引き連れてローマ帝国の中心都市ローマに入ってはいけないという厳しい掟があった。ルビコン川を渡るとは宣戦布告を意味した。
当時、ローマには有力な将軍ポンペイウスが君臨していた。軍隊を引き連れてルビコン川を渡った以上カエサルはポンペイウスとの戦端を切ったということを意味している。負ければ反逆者として殺される内戦をカエサルは決断した。「賽は投げられた」。ローマ帝国元老院が決裁した法を破りカエサルはポンペイウス軍との内戦を決断した言葉が「ルビコン川を渡る」である。
紀元前後、ローマ帝国内では有力な将軍たち間の内戦の結果、内戦を勝ち抜いた将軍が最終的に皇帝として君臨する政治体制になっていく。こうして古代ローマの政治体制が共和制から帝政へと変わっていく過程で生まれた有名な言葉の一つが「ルビコン川を渡る」である。
ひき返すことはできない。突き進むしか道がない。「ルビコン川を渡った」以上、失敗すれば法令違反者として断罪される道を検察が選んだと郷原氏は述べている。
公職選挙法違反として断罪されるのは今まで通常においては選挙直前に票をお金で買うような行為をした時であった。しかし今回の河井克行・案里夫妻の公職選挙法違反にあっては、選挙地盤培養行為として行った政治資金の支出を買収として断罪している。このようなことを今まではしてこなかった。選挙地盤培養のための資金は政治金の支出であり、選挙の買収ではないと今までの検察は扱ってきた。この今までの慣例を破り、選挙地盤培養のための支出を単なる政治資金の支出としてではなく、あくまで票の買収行為として扱っている。検察は今までの慣例を破っている。これはひき返すことができない。カエサルがルビコン川を渡り、ローマに向けて軍を進め、ポンペイウスとの戦いに突き進んだように検察はローマに向けて軍を進めることになると郷原氏は述べている。ローマとは安倍政権を意味していると私は理解した。安倍政権を倒す。これが最終的な検察の目標であろうと郷原氏は言っていると私は思う。
一億五千万円もの大金を一気に選挙区内にばらまく事なんてできない。少しづつ少しづつ広島県内の県議や市議などにお金をばらまき、案里氏の選挙地盤を培養していった。野党議員の選挙地盤にお金を使うことは無駄金になる可能性どころか、或る意味危険ですらある。選挙違反として訴えられる可能性だってあるかもしれない。野党議員の選挙地盤に選挙資金をつぎ込むことは効率がすこぶる悪いように思う。だから自民党議員の選挙地盤に資金をつぎ込み、河井案里候補に寝返ってもらった方が効率的だ。参議院五回当選している参議院自民党長老格の溝手 顕正元議員の地盤に河井氏は選挙資金をばら撒き、河井案里氏の応援を依頼した。河井案里氏は自民党から交付された一億五千万円の資金を使い切って参議院議員に初当選した。
第一次安倍晋三内閣が瓦解したとき、安倍晋三氏を「過去の人」として切って捨てた溝手顕正元参議院議員は返り討ちに合い、落選した。選挙資金が溝手氏は千五百万円、河井案里氏は一億五千万円、十倍の軍資金の差があった。河井案里氏は一億五千万円で参議院議員という職を得た。がしかし検察がこの出来事を許さなかった。国会議員という職はお金で買えるものではないと検察は国民に言った。お金では買えないものをお金で買おうと自民党本部はしたが結果的には買うことができなかった。自民党本部が参議院議員という職をお金で買おうとしたこと自体が間違っていたのだ。またその動機が安倍晋三氏の個人的怨念であったとしたらなおさらである。
選挙という神聖な国民の審判をお金で買おうとした政権は瓦解し、新しい政治体制が生れようとしている。古代ローマ帝国内の戦いが終わった時、共和制から帝政へと政治体制が変わったように。

醸楽庵だより   1447号   白井一道

2020-06-23 12:20:30 | 随筆・小説


   
   方丈記 15



原文
  おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。仮のいほりも、やゝふるさととなりて、軒に朽葉ふかく、土居に苔むせり。おのづから、ことの便りに都を聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたび炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮りのいほりのみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。かむなは小さき貝を好む。これ事しれるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人をおそるゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。事をしり、世をしれれば、願はず、わしらず、たゞしづかなるを望とし、うれへ無きをたのしみとす。惣て、世の人のすみかをつくるならひ、必ずしも、事のためにせず。或は妻子・眷属の為につくり、或は親昵(しんぢつ)・朋友の為につくる。或は主君・師匠、および財宝・牛馬の為にさへ、これをつくる。
 われ、今、身の為にむすべり。人の為につくらず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。縦、ひろくつくれりとも、誰を宿し、誰を据ゑん。

現代語訳
 おおよそ、ここに住み始めたころは、ほんの少しの間と思っていたけれども、今すでに五年もたってしまった。仮の庵もやや住み慣れた住まいになり、軒には落ち葉が降り積り、土台には苔が生えてきた。何気に風の便りに都のことを聞くと、この山に籠って後に高貴な方が亡くなられたという。なおのこと、数にも入らぬ方は数えることもできないほどだ。度々の火事で亡びた家はまたどのくらいになるものかわからいほどだ。ただ仮の庵のみ長閑に暮らし心配がない。確かに狭い庵ではあるが夜休む床もあり、昼いる場所もある。私一人が暮らすのに不足はない。やどかりは小さい貝を好む。これは危険なことがある事を知っているからだ。ミサゴは荒磯にいる。これは人が恐ろしいからなのだ。私もまた同じことだ。恐ろしいことが起きることを知り、世の中を知るなら、大きな家など願うことはないし、あくせくすることもないし、ただ静かに暮らすことを望み、愁うことのないことを楽しみとしている。すべて世の人の住まいを作る慣習は必ずしも恐ろしいことを予定してはいない。或いは妻子・従僕のためにつくり、或いは親しい人や友人のために造る。或いは主君や師匠、および財宝・牛馬にさえ、宿を造る。
 私も今自分のために庵を造った。他人のために造ることはない。どうしてかといえば、今の世の習い、この我が身の有様は一緒に住む人もなく、助けてくれる人もない。ただ広く造ったとしても誰を宿し、誰を据えようと言うのか。


 アッシジの聖フランチェスコ  白井一道
 
 1210年、早春のある日のことである。中世ローマ法王権の歴史にかつてない権勢の一時代を画した法王イノセント3世は、ラテラノ宮の奥深い一室で、みなれぬ一人の訪問者と話し合っていた。この訪問者は、やせぎすの中背、やや中高の細面、平たく低い前額の下には一重の黒目がのぞき、鼻と唇はうすく、耳は小さくとがり、頭髪もひげもうすい。変哲がないというより、むしろ貧相なこの訪問者を特徴づけていたのは、しかし、そのやわらかな物腰と、歌うようなこころよい声音であった。だが、その風態は少なからず変わっている。長い灰色の隠修士風のマントは、腰のあたりで荒縄でしばられており、裾からとびだしている足は裸足であった。
                                            堀米庸三『正統と異端』より
 
 フランチェスコは1182年、中部イタリア、アッシジで、富裕な織物商人の子として生まれた。しかし不肖の子で、南イタリアのおもむき、ドイツの神聖ローマ帝国を二分したホーエンシュタウフェン家とゲルフ家の戦争に参加。捕虜になり、熱病にかかり、肉体の苦痛から回心を経験、20歳で修道士になった。アッシジの近郊で祈祷と廃寺の修復、癩患者の看病を続けるうち、「主の家」を再建せよという神の声を聞き、マタイによる福音書にある三カ条だけを会則とした修道会を発足。はじめはフランシスの説教を聞いた二人だけが会員だった。これがフランチェスコ会の始まりである。その後、フランチェスコ会が托鉢修道会として認められ1226年にはフランチェスコは死を迎える。『世界史の窓』より

醸楽庵だより   1446号   白井一道

2020-06-22 11:35:44 | 随筆・小説



   「コロナ失業」冷酷に切り捨てられる人々の叫び 長期自粛のダメージが長く広い範囲に及ぶ
                                          風間 直樹 2020/06/22

「私たちはこれまでジムの会員に寄り添って話を聞き、一緒に頑張って手助けするように言われてきました。でも今回の扱いをみると、会社にその精神があるとは到底思えませんでした」
スポーツジム業界の最大手、コナミスポーツでインストラクターとして働く40代の女性は、会見で涙ながらに訴えた。3人の息子を育てるシングルマザーのこの女性は、アルバイトながら、これまで週4日、1日8時間とほぼフルタイムで勤務し、月収にして約20万円を稼いで生活していた。だが、新型コロナウイルス対策として、3月からレッスンが休止され収入が激減。さらに翌月、緊急事態宣言が発令されるとジムは完全に休館となり、女性も休むよう指示された。
 労働基準法では会社の都合で従業員を休ませる場合、平均賃金の6割以上の休業手当の支払いを義務づけている。ただ女性は休業時の補償について事前に説明を受けていなかった。
 不安を覚えて社員であるマネジャーに尋ねると、「緊急事態宣言の要請による施設の使用停止だから、休業手当の支払い義務はない」の一点張りだった。それを聞いた女性は、「今、私たちを見捨てておいて、再開時に生き残っていた人だけまた働こうよ、そう言われたとしか思えません」と憤る。
 収入がなくても、家賃や食費、光熱費など3人の子供との生活費は普通にかかる。「仕事柄ケガも多く、子供のためにある程度貯金をしていました。心苦しいけど、今はそれを取り崩して生活しています」という。女性は同僚と個人加盟できる労働組合「総合サポートユニオン」の組合員となり、会社に休業手当の支払いを要請。同社は給与全額の休業手当をアルバイト全員に支給すると発表した。
サービス業で休業者急増
 『週刊東洋経済』は6月22日発売号で、「コロナ雇用崩壊」を特集。外出自粛で弱者にシワ寄せが及び、大失業時代が訪れようとしている現実を、多角的に描いている。
 このインストラクターの女性のような「休業者」のかつてない増加は、リーマンショック時には見られなかった、今回のコロナ雇用危機の最大の特徴だ。総務省が5月末に発表した4月の労働力調査では、完全失業率は前月比わずか0.1ポイントの上昇にとどまった一方、休業者数は前年同月の177万人から過去最多となる597万人まで、一気に420万人も増加した。リーマン時には就業者の2%強にとどまったのに対し、今回は1割近くが休業していることになる。
 産業別の濃淡もはっきりしており、宿泊、飲食、小売りなど、新型コロナの影響が直撃しているサービス業で休業者が急増している。サービス業では一般に、製造業などと比較して女性比率、非正規比率とも高い。実際、5月31日と6月1日に各地の労組やNPOなどが共同開催した電話相談では、相談者の6割超が女性で、7割超の雇用形態が非正規だった。会社都合による休業とその補償に関する相談内容が最も多かったという。
 こうした状況に対して、政府も対応を進めている。6月12日に成立した約32兆円の2020年度第2次補正予算は、働き手の支援に相応に配分されている。
 その柱となるのが、休業手当を支払った企業にその費用を助成する、雇用調整助成金(雇調金)の拡充だ。新型コロナの感染拡大を受け、これまでも条件緩和を進めてきたが、1人当たりの日額上限を8330円から1万5000円に引き上げ、対象労働者に雇用保険の被保険者以外も加えるなど、大幅に拡充する。
 後に助成されるとはいえ、資金難で休業手当の持ち出しができない中小企業を想定し、従業員が国に直接申請して支援金を受け取れる新制度も設けられた。月額33万円を上限に、賃金の8割を払う形で制度設計が進められている。
深刻化する相談内容
 ただこうした支援策はあくまで雇用維持のための一時的なものだ。緊急事態宣言が解除され、「失業予備軍」である休業者が、今後元どおりの仕事に戻れるのかがポイントとなるが、決して楽観はできない。
 感染拡大前に多くの産業が深刻な人手不足に陥っていたこともあり、コロナ禍が早期に収束に至ることを見込んで、従業員に休業を求めている企業は多そうだ。だが、感染拡大の第2波、第3波が発生したりして企業活動の停滞が長引けば、企業が非正社員の雇い止めや正社員の解雇に踏み切る懸念は強い。
 労働相談を受けている現場からも同様の声が上がる。「当初は『アルバイトのシフトが削減された』といった相談から、『休業要請されたのに手当が支払われない』といった内容が続き、今は雇い止めや解雇の相談が寄せられている。日を追うごとに相談内容が深刻化している」(全労連の仲野智・非正規センター事務局長)。厚生労働省によれば、新型コロナ関連での解雇、雇い止めは見込みも含め、6月中旬に2.4万人を超えた。
 名物の「うどんすき」で知られる日本料理店「美々卯」(みみう)を関東で展開する「東京美々卯」は5月下旬、新型コロナの影響で事業継続が困難になったと判断して、全店を閉鎖。約200人の従業員に退職合意書に署名するよう求め、応じなかった社員は解雇を通告された。
 「確かに経営が厳しい時期もあったが頑張って切り抜けてきたので、新型コロナも乗り越えられるだろうと思っていたからショックだ。十分な説明や従業員への補償もなく閉店することには、納得できない」。同社で30年以上働いてきた50代の店長は心境を語る。同社従業員が加盟する全労連・全国一般労組は、解雇が不当労働行為に当たるとして、東京都労働委員会に救済を申し立てた。
 「退職金はおろか引っ越し代すら出ないのに、寮から退去するよう求められて途方に暮れている」。入社3年目のホール主任の女性(21歳)は話す。女性は高卒後に九州から上京し、同社で働き始めた。「長年の常連客も多く、上司も面倒見がよい働きがいのある職場だった。事業を継続してほしい」。
寮住まいの期間工や派遣社員は仕事も住居も失う
 リーマンショック時には雇用の受け皿となったサービス業が激震に見舞われる中、当時リストラの嵐が吹き荒れた製造業の雇用の見通しはどうなのか。経済産業省が5月末に発表した4月の鉱工業生産指数は現行基準で過去最大の下げ幅となり、業種別では自動車が前月比33%減と大きく落ち込んだ。
 自動車産業は裾野が広いうえ、生産ラインでは正社員のほか、期間工や派遣社員など多くの人材を活用している。「自動車向けは4月から600人の増員が決まっていたが、新型コロナですべて白紙になった。全体で2500人程度の待機人員(休業)が生じる見通しだ」。ある製造派遣大手の経営者は厳しい見通しを示す。別の製造派遣大手幹部も、「トヨタ自動車は本体こそ派遣の雇用も守る方針だが、下請けになると厳しい。ある程度の待機人員の発生は覚悟している」と話す。
 生産ラインで働く期間工や派遣社員は、メーカーや派遣会社が提供する工場近くの寮に住む場合が多い。雇い止めに遭うと、仕事と住まいを同時に失うことになる。
 失職し生活困窮に陥った人への目配りは欠かせないはずだが、ここでも新型コロナが暗い影を落とす。5月1日、全国的にメーデー開催が自粛された中、三重県の労組「ユニオンみえ」はメーデーを実施。食事提供や生活相談を行う「派遣村」を開催した。
 「住まいを失い蓄えも尽き、もう6日間も食べておらず死ぬことばかり考えていた。たまたまラジオで知ったことで、ここまでたどり着くことができた」。元内装業の50代の男性は安堵の表情を見せた。男性は労組の支援を受け、今は健康を取り戻したという。
 他人と十分な距離を取る、多数で集まらないなどの新型コロナの感染予防対策が、支援の手が届きにくい環境を生み出しているのは間違いない。その中でどう小さな声を拾い、命をつないでいくのか。今回のコロナ雇用危機への対応には、複雑な連立方程式を解くことが求められている。

醸楽庵だより   1445号   白井一道   

2020-06-21 12:32:57 | 随筆・小説



   方丈記 14



原文
又、ふもとに一の柴のいほりあり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。ときどき来たりてあひとぶらふ。若、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、そのよはひ、ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花(つばな)を抜き、岩梨(いはなし)をとり、零余子(ぬかご)をもり、芹(せり)をつむ。或はすそわの田居(たゐ)にいたりて、落穂を拾ひて穂組(ほぐみ)をつくる 。若、うらゝかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地(しようち)は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩みわづらひなく、心遠くいたるときは、これより峰つゞき、炭山をこえ、笠取を過ぎて、或は石間(いわま)にまうで、或は石山ををがむ。若はまた、粟津(あはつ)の原を分けつゝ、蝉歌(せみうた)の翁があとをとぶらひ、田上河(たなかみがわ)をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。かへるさには、をりにつけつゝ、桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実をひろひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づととす 。若、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿のこゑに袖をうるほす。くさむらの蛍は、遠く槙のかゞり火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老のねざめの友とす。おそろしき山ならねば、ふくろふの声をあはれむにつけても、山中の景気、をりにつけて、尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。

 現代語訳
 また麓に一つ、柴の庵がある。すなわちこの山守がいる所である。そこに子供がいる。時々来ては話などした。もし退屈しているときはその子供を友として散歩する。子供は10歳、私は60、この年差はことの外ではあるが、心が慰むことは同じである。或いは茅花を抜き、岩梨をもぎとり、零余子(ぬかご)を拾ったり、芹を摘む。或いは山裾にある田の際に行き、落穂を拾い、穂組(ほぐみ)をつくる 。もし、天気が良ければ、峰によじ登り、遥かに見える故郷の空を眺め、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を眺める。景勝地には主がいないので心を慰むるに支障はない。草臥れることがないなら遠くの方まで行ってみたいときは、峰を歩き続け、炭山をこえ、笠取を通り過ぎ、或いは醍醐寺に詣で、石山を拝む。もしまた粟津(あはつ)の原を通り越し蝉丸の翁の跡を尋ね、宇治川の上流の田上河(たなかみがわ)を渡り、猿丸大夫の墓を訪ねる。帰る際は季節の折々に桜の花を愛で、紅葉の色づきを楽しみ、蕨を抜き、木の実を拾い、かつ仏に供え、更に家への土産にする。もし、夜が静かであるなら、窓から射す月の光に故人を偲び、猿の鳴き声に泪をぬぐう。草むらの蛍は遠く氷魚を捕るかがり火のようで、明け方の雨はまるで木の葉を吹く嵐のようだ。山鳥が鳴く声を聞いても父か母かと思い、峰の鹿が馴れて近くにいるのにも世から遠ざかっているのを感じる。或いはまた、埋み火をかき起こして老人の寝覚めの友として温まる。恐ろしい山ではないがフクロウの鳴き声に哀れを感じるのも山の中の風流だと思い、感じることに尽きることがない。もちろん深く分かってくれて、更に深くいろいろ知りたい人にはこれ以上のものがあることであろう。

 中国の竹林の七賢人   白井一道
 中国の竹林の七賢人と言われる人々は清談をしたという。世俗を離れ老荘的談話を楽しんだ人々を竹林の七賢人と言われている。この七賢人たちが話し合ったことを清談といった。時代は後漢帝国が崩壊し、三国時代が始まっていた。三国の中では魏の国がもっとも強大であった。なぜなら魏は黄河の中流域、中原(ちゅうげん)を支配したのが魏であった。魏が滅亡していく頃に出現したのが竹林の七賢人である。後漢から魏、魏から晋へと興亡相次いだ乱世にあって、儒教に忠実であること、世俗に関与することが政治的な身の危険に繋がったという時代背景に出現したの七賢人である。遁世者である事に変わりはないが七賢人はお酒を楽しみに生きたようである。七賢人は儒教思想を論じたのではなく、老荘思想を論じ合った。古い礼教を論じた儒教思想ではなく、老荘を論じ合った。