出家の記 2
伯父の仕事に来ていた人が我が家によく出入りするようになった。その男の人を私はアンちゃんと呼んでいた。母は裏の家の婆さんと仲良く付き合っていた。突然その裏の家の婆さんの家に連れていかれ、昼ご飯をよばれることがあった。その時の事が未だに鮮明に記憶に残っている。そのおトク婆さんが私に何回も明日からアンちゃんをお父さんと呼ぶんだよと言われたことが記憶に残っている。私は特に抵抗を覚えることもなくアンちゃんをお父さんと呼び習っていった。その「お父さん」の思い出で最も古いものは自転車のハンドルと座椅子との間の鉄棒に私は尻を乗せ、ハンドルに捕まった記憶だ。私は恐ろしさのあまり、ハンドルを強く握りしめると「お父さん」は強く私を叱責した。そんなに強くハンドルを握られると運転できないと強く怒った。その言葉に優しさのようなものを私は感じなかった。そのうち「お父さん」は家からいなくなり、一月に一度くらいしか返って来なくなった。「お父さん」は母の縁故を頼り、横浜に仕事を求めて出て行ったようだ。母が私の手を引き、近所の人と横浜と日光の二重生活だから大変だと言うようなことを話していたことが記憶の底にある。いつも「お父さん」は手土産を持って帰って来た。ある時、手ぶらで帰ってきたことがある。横浜で買い求めたお菓子を電車の網棚に乗せ、偶然知り合いと乗り合わせ、世間話に夢中になり、日光駅に着いた時、網棚のお土産の菓子箱は無くなっていたとしょんぼりして帰ってきたことがあった。
私は日光市立清滝第二小学校に入学することになった。小学校の門を入ると二宮金次郎の石像が立っていた。背中に薪を背負った金次郎は手には本を開いた石像だった。その石像の脇を通り、グランドに「お父さん」と並び、校舎を眺めていた記憶が残っている。姉が私の教室にやって来て、時間割を書き、その紙を私に渡した。その一年生の時のことだった。ある日の事、私は小学校の便所に入り、大便をする勇気がなかった。とうとう我慢できなくなり、教室で漏らしてしまった。担任の女性の先生に私は憧れていた。その井上先生は私を便所に連れて行き、私のお尻に水道の水を流し、パンツとズボンを水洗いして下校していいと言った。私ははしゃぎまわり、恥を隠そうとしていた。
小学校の二年生になった。運動会になると街の人が皆、莚を持って小学校の校庭に集まるお祭りだった。しかし私の母や「お父さん」が来ることはなかった。それでも寂しかった記憶は残っていない。家に帰ると私は祖母のいる離に行くことが習慣化していた。長火鉢の後ろにいる祖母にお祖母ちゃんと言うと出て来て五円くれた。その五円を持って駄菓子屋に私は行った。
ある時、私は従妹と庭で遊んでいた。私が何か悪さをしたのかもしれないが何をしたのか、記憶はない。ただ伯父が出て来て私を捕まえ、お前は男の子なんだぞと、道の真ん中で大声で怒られた。私は大声でただ泣くばかりだった。人垣ができ、その中で長い時間怒られ続けた。周りの人々が興味深げに眺めていた。私は家に帰り、台所の隅でいつまでも泣き続けていた。母は一切私を弁護することはなかった。「男の子なのにいつまで泣いているの」と、怒られた。ただ何となく男の子は泣いてはいけないのだという気持ちが湧きあがって来た。それ以来、私はどんなに泣きたい気持ちに駆られても泣かなくなったような気がする。それでも泣いた記憶がある。私は風をひき、学校を休んだ。学校に登校すると算数の試験があった。今までは+の記号しか教わったことがない。それまで見たこともない記号-があった。どうすればよいのか分からず、足し算をして提出したら、すべて✖になっていた。その解答用紙を貰い、母に出した時に私は泣いていた。本当に心の弱い子供だった。通知簿を貰ってもそこに何が書いてあるのかも充分理解することなく、学校生活を楽しんでいた。
小学校の二年生の秋、我が家は横浜に転居することになった。新しい転居先は横浜市港北区の農村地帯にある大きな農家の一室を間借りすることになった。駅からは歩いて30分くらいかかる農村であった。港などどこにあるのか全然分からなかった。母と私たちは電車で行った。日光駅を東武電車で出発するとき、近所にいたお姉さんが日光駅の売店にいた。そのお姉さんが私たちを見送ってくれたことが記憶に残っている。浅草駅近くになるとお化け煙突があることを母に教えてもらった。電車が進むに従って煙突の数が変わっていく。不思議に思った記憶が残っている。東横線大倉山駅に何時ごろ着いたのか記憶はない。