醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  897号  白井一道

2018-10-31 07:25:06 | 随筆・小説


  季語「涼しさ」を探る


句郎 夏の季語「涼し」を詠んだ芭蕉の句を検討してみたい。
華女 芭蕉が「涼し」を詠んだ有名な句は何なのかしら。
句郎 「涼しさをわが宿にしてねまるなり」。『おくのほそ道』、尾花沢で詠んだ句が知られている。
華女 羽黒山でも詠んでいるような印象が残っているわ。
句郎 あぁー、そうだった。「涼しさやほの三日月の羽黒山」だったかな。
華女 その句よね。句郎君はどちらの句が好きなの。
句郎 私は尾花沢で詠んだ句の方が好きかな。
華女 「涼しさを」の句の何がいいの。
句郎 涼しさというものの本意を見事に表現した句が「涼しさをわが宿にしてねまるなり」だと思う。
華女 「涼しさ」の本意とは何なのかしら。
句郎 それは夏の涼しさを心の底から味わう人の気持ちが詠まれている句が良い句なんだと思う。
華女 「涼しさ」そのものが詠まれているということなのね。
句郎 炎天下、歩いて旅する人にとって、木陰で休んだ時の涼風はまさに天国に上ったような気持ちになるのじゃないのかなと思ってね。
華女 体験した人にとっては身の染みて感じることなんでしよう。
句郎 そうなんだ。経験、体験に基づいて詠まれている句には力があるのじゃないのかな。
華女 読者に対する説得力があるということなのね。
句郎 「昼顔に米つき涼むあはれ也」。貞享4年、芭蕉44歳の時に詠んだ句がある。十七世紀前半の江戸時代には米つきを生業にしていた人が人がいたのじゃないかと思う。昼顔の咲く屋敷内で雇われている米つき人が一休みしている。その疲れ切った雇われ人が涼風を満喫している姿を芭蕉は詠んでいる。厳しい労働に従事している人こそが涼しさの有難さがわかる人なんだと芭蕉は考えていたのじゃないかと思う。そこに人間が生きていく哀れを芭蕉は見ていた。
華女 農民や町人などであってもより下層に生きる人々にも優しい眼差しが芭蕉にはあるのね。
句郎 そうなんだ。だから「涼しさをわが宿にしてねまる也」。この句は立派な文学作品になっているということが言える。だが高浜虚子の句に「女涼し窓に腰かけ落ちもせず」がある。私はこの句に文学があるとは思えない。だからそれほど有名な句でもない。季語「涼し」が軽薄なものとして表現されている。季語「涼し」は芭蕉によって文学として極められてしまった。結果として季語「涼し」は芭蕉以後文学になった句は存在しえないのかもしれない。
華女 芭蕉以後の俳人と言われている人々の句は文学になっていないということを句郎君は言いたいの。
句郎 そんなことはないよ。「涼し」という季語で表現される句が文学と言われるようになるのは極めて困難なのではないかということが言いたいだけなんだ。
華女 確かに虚子の句は女を揶揄するようなところがあるわね。
句郎 ちょっと軽薄な女と笑っているようなところがあるように感じるからね。
華女 女を笑う男、虚子はそういう人だったのかも。


醸楽庵だより  896号  白井一道

2018-10-30 15:50:06 | 随筆・小説



  涼しさを我宿にしてねまる也  芭蕉 元禄二年



 上手い。木陰で休んだ。これだけのことをこのように表現したことに技ありと、感じた。この私の解釈がいいと思う。このような解釈ではないと、岩波文庫の「奥の細道」には次のような解釈が出ている。「他人の家であることを忘れ、涼しさを一人じめにして、のんびりとくつろぐことであるの意」。
また芭蕉は尾花沢の紅花問屋の豪商・鈴木道祐、俳号・清風の宅に招かれ、心ずくしのもてなしに対するお礼の一句だと長谷川櫂は「奥の細道」を読むのなかで説明している。
清風への挨拶の句だという解説は文学史的には正しいのだろう。しかし俳句は読者のものである。この俳句をどのように読むかは読者の自由である。俳句の自由な読みに俳句の楽しみがある。曽良旅日記によれば旧暦の五月二十一に芭蕉たちは清風宅に泊まっている。この日を太陽暦に換算すると、七月七日になる。七月初旬の頃になると山形県尾花沢のあたりでも暑かった。三日前の昼間、寺にて風呂をもらったことが曽良旅日 
記に書いてある。徒歩での旅である。風呂は日記に書く事項だった。木陰での一服は心を癒した。道野辺の木陰で旅の疲れを癒した。その涼しさを表現した。私は自分の解釈に満足なのだ。
 テキストに沿って見ると違うという意見が聞こえてくる。その理由の一つが「ねまる」という言葉だ。
「ねまる」とは尾花沢地方の方言である。尾花沢地方だけではなく日本各地に「くつろぐ」というような意味を表す言葉、「ねまる」がある。この言葉は古い言葉で元禄時代の江戸ではもう使われてはいなかった。平安時代ごろには都のあった京都では使われていたのだろう。都で使われていた言葉が時間の経過とともに地方で使われるようになる。それと同時に都では使われなくなる。昔、都で使われていた言葉が方言となって地方に残っている。この言葉を芭蕉が用いている。その理由は清風への心遣いである。こう考えれば萩原恭男や長谷川櫂の解釈が妥当性をもつ根拠になるでろう。俳句とは挨拶である。挨拶とはその場での即興である。この即興性に俳句の特徴が
ある。和やかな挨拶にはユーモアがあると一層親しみが増す。諧謔、ユーモアが「ねまる」という尾花沢で使われている言葉、方言にはある。この言葉を使っていることによってますます「涼しさを我宿にしてねまる也」という句は挨拶句であるという理由になる。私もそう思う。
 しかし道野辺の木陰で旅の疲れを癒したという解釈の方がこの俳句は力を持つ。道野辺の木陰を我宿にして旅の疲れを癒し、くつろいだ。この解釈がいい。
 一箇所に命を懸ける一所懸命の農民とは違って旅に生き、旅に死ぬ漂泊の詩人芭蕉は道野辺の木陰を我宿にした。その方が俳句に深みがある。
 道野辺の木陰を我宿にする。ここには一箇所に留まって生活する者ではない漂泊の人生に生きる詩人の魂がある。このような解釈をしてこそ芭蕉の心に近づくことができる。
 木陰で休む一筋の風に生きる喜びを知る。それが漂泊の詩人だ。それは厳しい旅をしている者だからこそ知る喜びなのでろう。この句は漂泊に生きる喜びを詠んでいるのだ。

醸楽庵だより  895号  白井一道

2018-10-29 10:09:02 | 随筆・小説


  「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」  芭蕉  元禄二年


句郎 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」。『おくのほそ道』に載せてある知る人ぞ知る句の一つかな。
華女 「尿」の字の読み方に歴史があるんでしょ。
句郎 高校生の頃は、「尿」を「しと」すると読んでいたように思うな。
華女 そうでしょ。いつごろからか、「尿」を「ばり」すると読むようになったのよね。
句郎 『日本古典文学全集』には次のように書いてあるそうだ。「『おくのほそ道』曾良本に「ハリ」と振り仮名。「ばり」と読む
説もあるが、本文の「尿前」を「しと」と読んで、同字をすぐ「ばり」と読むのは不自然。芭蕉は推敲のたびにだんだんおとなしい形に直すのが常だから、初案はともかく、『おくのほそ道』中では「しと」がよい。奥州地方の農家は母屋内に馬を飼っているので、人馬同居する風俗に興じたもの」とね。
華女 今から二、三十年前に出版されているのかしらね。私も高校生の頃は、「尿」の字を「しと」と読んでいたように記憶しているわ。
句郎 後に『新潮日本古典集成』では「蚤や虱に食われて眠られぬに、更に馬がいきなり小便を枕もとで放つといった辺土の寝苦しい旅寝である。当時獣類の小便を「ばり」と言う。それを「尿」と漢字表記して地名の「尿前(しとまへ)に掛けた」と説明している。
華女 「読み」にも歴史があるということね。この句は「尿前(しとまえ)の関」で詠まれているのよね。だから「尿前(しとまえ)」に掛けて「尿(しと)する」と読むのが自然かなと思っていたわ。
句郎 そうだよね。文芸評論家にして小説も書いた臼井吉見が著書『日本語の周辺』の中で次のようなことを書く。「蚤虱馬の尿する枕もとー『おくのほそみち』の中の句ですが、尿はバリとこの地方の俗語で読むべきでしょう。曾良本にハリとルビがふってありますが、これもバリのつもりでしょう。尿前(しとまえ)の関の句だから、それに合わせて尿(しと)すると読むという考えもありましょうが、ここはぜひともバリと読みたいところです。シトは和歌的連歌的用語ですが、バリは鄙びた俗語であって、いまならションベンとでもいうところでしょうが、この句は蚤や虱など伝統的な和歌や連歌からはねのけられたものを受け入れて、和歌・連歌にひけをとらない美の世界を開拓した俳諧の面目からしても、バリと読んだほうがぐんと効果的だと思います」とね。
華女 「しと」は和歌の言葉、「ばり」は俳諧の言葉。納得しちゃうわね。俳諧を芭蕉は詠んでいるのだから、「尿」は「ばり」と読むべきなのね。
句郎 確かに和歌の言葉の世界を芭蕉は拡大し、農民や町人が用いた言葉で新しい美意識を表現した。その一つが「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」だった。
華女 農民の日常の真実が表現されていると思うわ。
句郎 農民や町人の真実を表現するには、農民や町人が普段用いる言葉でなければ、農民や町人の気持ちや心は表現できない。
華女 農民の言葉には農民の魂が籠っている。魂の籠った言葉でこそ農民の真実が表現できる。

醸楽庵だより  894号  白井一道

2018-10-28 12:15:00 | 随筆・小説

 
  五月雨のふりのこしてや光堂  芭蕉  元禄2年


句郎 「五月雨の降のこしてや光堂」。『おくのほそ道』に載せてある句の中の有名な句の一つだ。
華女 平泉中尊寺で芭蕉が詠んだ句よね。
句郎 高校生の頃、この句の解釈について試験問題に出されてことを覚えているな。
華女 どんな内容の問題だったのかも覚えているの。
句郎 覚えているよ。時間的な解釈と空間的な解釈がある。その違いを述べよ。このような問題だったかな。
華女 半世紀も前の問題をよく覚えていたものね。
句郎 私は成績が良くなかったからね。覚えているのかもしれない。
華女 時間的な解釈と空間的な解釈とは、どのようなものなのかしら。
句郎 時間的解釈とは、五百年間もの間、よくもまぁー、雨風に曝されながら光り輝いていることよと、いう解釈かな。このような解釈に対して空間的な解釈とは、中尊寺光堂の霊験が雨風から空間的に五百年間守り通したと、いう解釈かな。
華女 芭蕉が平泉中尊寺を訪れた時には、大きなお堂の中に光堂はあったの
よね。光堂は五月雨や風に曝されていたわけじゃないのよね。
句郎 事実としてはそういうことかな。
華女 五月雨を詠んだ芭蕉の句の中でも有名な句の一つなんでしょ。
句郎 「五月雨を集めて早し最上川」。この句の方がもしかしたら人々によく知られている句かもしれない。
華女 「五月雨を集めて早し最上川」。確かにこの句の方がよく知られているのかもしれないわ。今でも梅雨の頃になると新聞記事に「五月雨や大河を前に家二軒」、蕪村の句と比較して芭蕉の句を書いているコラム記事を読むことがあるわね、
句郎 芭蕉は雨が好きだったのかもしれないな。芭蕉忌のことを時雨忌と云うくらいだから。
華女 芭蕉は元禄七年(1694)十月十二日(新暦十一月二八日)に亡くなっているからだけじゃなく、時雨が好きだったのよね。
句郎 五月雨も好きだったのかもしれない。「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」。この句も芭蕉の五月雨を詠んだ名句の一つかもしれない。
華女 瀬田の大橋はもう芭蕉の時代にはあったのね。この句も良いわ。
句郎 「五月雨を集めて早し最上川」に匹敵する大井川を詠んだ五月雨の句「五月雨の空吹き落せ大井川」、この句に漲る力は最上川を詠んだ五月雨の句に匹敵するように感じるよね。
華女 今思い出したわ。芭蕉は近江が好きだったのよね。「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」。この句も五月雨を詠んだ芭蕉の句でしょ。この句も俳句を趣味している人は誰でも知っている芭蕉の句の一つなんじゃないかしら。
句郎 『おくのほそ道』に載せてある有名な句「象潟や雨に西施が合歓の花」も五月雨に濡れた合歓の花を詠んだ句なのじゃないのかな。
華女 思い起こすと五月雨を詠んだ芭蕉の句には名句があるということに改めて気が付くわね。
句郎 旅に生きた芭蕉はきっと雨に降られた何回もの経験から雨を厭うのではなく、肯定的なものとして受け入れて行こうとした結果なのかな。

醸楽庵だより  893号  白井一道

2018-10-27 07:35:12 | 随筆・小説


  夏草や兵共が夢の跡 元禄二年 芭蕉


句郎 「夏草や兵共が夢の跡」。『おくのほそ道』に載せてある句の中の有名な句の一つだ。
華女 高館で芭蕉が詠んだ句ね。
句郎 いつだったか、金子兜太がテレビで言っていた。この句は大変有名な句だが私は良くないと思う。「夢の跡」が良くないと言っていた。
華女 戦いとか、戦争を肯定するようなイメージを「夢の跡」という言葉に感じたのかもしれないわ。
句郎 金子兜太の青春時代は日本が中国侵略から日米戦争へ向かっていく時
代だったからな。
華女 日本の暗い時代に青春を送った人々にとっては青春を返せと言いたいような気持があったのかもよ。
句郎 金子兜太の句に「夏の山国母老いてわれを与太(よた)と言う」があるでしょ。この句を社会学者の鶴見和子が評価し、笑ったと書いている文章を読んだことがある。
華女 鶴見和子さんと言えば、才能に恵まれた日本を代表するような女性の学者様という感じの人よね。
句郎 鶴見俊輔のお姉さん
だからね。
華女 「夏の山国」とは、秩父のことでいいのかしら。
句郎 金子兜太は秩父出身の人だから。「霧の村石を放らば父母散らん」という句があるでしょ。「霧の村」とは、ゆはり秩父、山国を言っているんじゃないかな。
華女 「山国」という言葉に古さがあるように思うわ。
句郎 そうでしょ。兜太は幼少の頃から、お母さんに「俳句だけはやってはダメだ、あれは与太のやることだからね」と言われて いたと言うからね。
華女 私の親の世代の人たちは俳句に親しむ人たちを与太者として見なすような視線があったということなのかしら。
句郎 短歌に親しむ人は高尚な人、俳句に親しむ人は車夫馬蹄の輩というような意識があったのかもしれないな。
華女 戦争になるとまず最初に犠牲にされるのが車夫馬蹄の輩、下層国民よ。
句郎 下層国民を代表して金子兜太は芭蕉の代表的な句「夏草や兵共の夢の跡」、この句に戦争、戦いを懐かしむ、源氏政権内の内紛によって滅亡した義経を美化している。ここに危険性があるのではないかと金子兜太は警告しているのかもしれないな。
華女 特攻隊を美化するような風潮が今あるから、金子兜太の意見は貴重な発言かもしれないわ。確かに芭蕉の句には戦いを美化するようなところがあるようにも感じるわね。
句郎 芭蕉の句で好きな句は何と、聞くと一つが「夏草や」の句ともう一つが「むざんやな甲の下のきりぎりす」だという人が多いという話を聞いた。
華女 「夏草や」の句と「むざんやな」の句は鎌倉時代の戦いを確かに美化していると言えるようにも思うわ。
句郎 知らず知らずの内に戦争を美化するような気持ちがつくられていくというようなことが進んでいるのかもしれないな。
華女 「夏草や」の句を読むと茂る夏草に騒乱に明け暮れた男たちの姿に心惹かれるからね。
句郎 「むざんやな」の句も芭蕉は「きりぎりす」の鳴き声に今は亡き武士を偲んでいる。

醸楽庵だより  892号  白井一道

2018-10-25 14:26:35 | 随筆・小説


 あやめ草足にむすばん草鞋の緒 元禄二年  芭蕉



「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加右衛門と云ものあり。聊(いささ)か心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく 露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す」と『おくのほそ道』に書き、「あやめ草」の句が載せてある。
 『曽良旅日記』によると芭蕉と曽良が名取川を渡り、仙台に入ったのは旧暦の五月四日(新暦六月二十日)、その日は国分町大崎庄左衛門宅に泊めてもらっている。翌五月五日、端午の節句の日、俳諧師大淀三千風を曽良は訪ねるが逢うことはできなかった。しかし三千風の門人で画工の加右衛門と知り合うことができた。その日を加右衛門は待っていたのか、一日芭蕉と曽良とを連れ仙台の名所、歌枕を案内してもらっている。その一つが歌枕「宮城野の木の下」である。「みさぶらいみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(お付きの人よ、(ご主人に)「御笠をどうぞ」と申し上げてください。この宮城野の木の下に落ちる露は雨以上に濡れますから)」。古今集にある詠み人知らずの歌の一部を芭蕉は紹介している。
 あやめ草、菖蒲はその香りによって邪気を払うと思われていた。大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌、「昨日までよそに思ひしあやめ草今日わが宿のつまと見るかな」が『拾遺和歌集』にある。きのうまで無縁なものと思っていたものが今日は我が家のつま(端)になっているんだなぁー。我が家を守ってくれているんだという感慨を詠んでいる。    
 また、あやめ草(菖蒲)には霊気がある。「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」古今集にある恋の歌である。ホトトギスが鳴き、あやめ草が生い茂ると訳も分からず人は恋に落ちる。人にそのような気力を与えてくれる草があやめ草だ。
 端午の節句の日には風呂の湯にあやめ草、菖蒲を入れる。軒にあやめ草を家の軒に刺し、家内安全、家族の無病息災を願う風習が定着し、江戸時代からは男の子の成長を祝う日としての行事が定着していった。菖蒲は尚武(武事・軍事を尊ぶこと)になる。端午の節句は男の子を祝う祭事へなっていった。
 あやめ草にはいろいろな人の思いが詰まっている。芭蕉はあやめ草の霊験、旅の安全を願い、旅の目的が全うできることを願った句が「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」である。

醸楽庵だより  891号  白井一道

2018-10-25 14:26:35 | 随筆・小説


 笠島はいづこさ月のぬかり道 元禄二年  芭蕉

「鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過、笠島の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄、今にありと教ゆ。此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと」と、『おくのほそ道』にある。その後にこの句が載せてある。また「藤中将真方(とうのちゅうじょうさねかた)のつかは、ミちのく名取郡かさしまといふ処(ところ)にありとかや。枯野の薄とよみ侍る西上人のうたさえ、今かなしびのかずにくははりて、あはれに覚え侍れば、ゆきてみむ事しきりなれども、この比降つづきたる五月雨に、道いとあしきなれば、わりなくてすぎぬ」とてう文章も伝わっている。
 西行を慕っていた芭蕉は笠島で西行が詠んだ歌を諳んじていた。「朽ちもせぬその名ばかりを留め置て枯野の薄形見にぞ見る」。西行は藤中将の塚の前でこの歌を詠んでいた。西行の時代にはすでに藤中将の伝説は「枯野の薄」になっていた。
『山家集』にあるこの歌には次のような前詞が載せてある。「西行の陸奥の国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申は是が事なりと申ければ、中将とは誰がことぞと、又問ひければ、実方の御事なりと申ける、いとかなしかりけり。さらぬだに物哀に覚えけるに霜枯れの薄、ほのぼの見えわたりて、   のちに語らんも言葉なきやうにおぼえて」とある。
「笠島」は歌枕だ。歌枕「笠島」を訪ねて行ったが、「笠島」を遠くに見てその場所に行くことができなかった。芭蕉は歌枕「笠島」にどのようなイメージを描いたのだろうか。ただ「枯野の薄」があるだけの普通のどこにでもある風景を思い浮かべていたのだろうか。里山の風景を思い描いていたのかもしれない。しかしその場所で西行が歌を詠んだ場所だと思うだけで感動することができたのだろうか。
「笠島」は『万葉集』にも詠まれている。
草陰の荒藺(あらい)の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ  万葉集  
この歌に詠われている「笠島」が現在の宮城県名取郡笠島だと考えると「草陰の荒藺(あらい)の崎」、この地名を解明する必要がある。「草陰」を「荒藺(あらい)の崎」にかかる枕詞として理解しても、「荒藺(あらい)の崎」が不明である。ここで一つの仮説がある。「荒藺(あらい)の崎」が葬所、万葉の時代、死者を葬った場所だという仮説である。この防人の歌は都に連れ去られていった夫を詠んだ妻の歌になる。解釈は「あの世に旅立たれてしまわれた貴方を、私たちは葬所である笠島の地に丁重に葬り終えました。貴方の亡骸が眠るその荒藺の崎の笠島を、遙か上空から眺めやりながら、貴方は死出の山路をたった一   人で今現在、越えていらっしゃるのでしょうか。私たちは、海の彼方にあるという黄泉の世界に、貴   方が無事にたどり着かれることをただ願い、祈るばかりです」。このような鎮魂の歌になるというのだ。
防人として出兵することは死を意味した。「笠島」とは、墓所、死者を鎮魂するところ。それは枯野の薄、藤中将実方の魂を鎮めるところ、そのような認識が芭蕉にはあったかもしれない。
「笠島はいづこ」、古人の魂が彷徨っていることはないだろうか。五月雨によって道がぬかるみ、探すことができず、供養できないのが残念でならない。このような万葉の歌人、藤中将実方、西行を偲び詠んだ句が「勝島はいづこさ月のぬかりみち」だったのかな。

醸楽庵だより  890号  白井一道

2018-10-24 11:20:27 | 随筆・小説

  
  「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」芭蕉 元禄二年


句郎 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」。元禄二年芭蕉四十六歳『おくのほそ道』しのぶもじずり石で詠んだ句として知られているのかな。
華女 「しのぶもじずり石」はなぜ有名なのかしら。
句郎 河原左大臣、源融が詠んだ和歌「みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにし我ならなくに」によって有名になったんじゃないかと、考えているんだけど。
華女 その文字摺石は今では観音となり、祭られているのでしょ。
句郎 百人一首の歌と芭蕉
の『おくのほそ道』によって福島市の有名な観光スポットになっているみたいだよ。
華女 福島市は芭蕉に感謝しなくちゃ罰が当たるわ。
句郎 源融にもね。彼の詠んだ歌によって伝説が生まれたようだからね。
華女 それはどんな伝説なのかしら。
句郎 福島は当時、信夫の里と言われていた。その信夫の里の長者の家に「虎女」という美しい娘がいた。ある日、都から、陸奥出羽按察使(あぜち)として赴任して来た源融が、虎女の家に泊まった。
源融は美しい娘、虎女に目をとめ、虎女もまた、都の貴公子の姿に目を奪われた。源融と虎女は、いつしか結びあったのも束の間、都から源融に帰任せよとの知らせが来る。やがて源融は信夫の里から去っていった。源融の去ったあと、虎女はもう一度、源融に会いたい、と文摺石に百日の祈願をかけた。毎日、麦の穂を文字摺石にこすり、この面に恋しい源融公の顔があらわれることを祈った。
満願の百日目。石の面は鏡となり、不思議にも、その面には、恋いこがれた源融の姿があらわれ、虎女は岩にすがり、泣きくずれた。虎女は病の床についた。都では、このことを知った源融が、絹の織物に添えて一首の和歌を送ってよこした。
「みちのくのしのぶもちずりたれゆえにみだれそめにし われならなくに」
虎女はこの歌を抱きながら、息をひきとった。
 それから文字摺石は青麦の葉でこすると意中の人の顔が浮かんでくると言う説話が生まれた。文字摺石は鏡石となり観音になってパワースポットになった。
華女 源融は実際、信夫の里に行ったとがあるの。
句郎 いや、行ったことはないようだよ。
華女 源融は行ったこともない所にある大きな石の表面の模様を写し取った布地があることを知り、想像力を働かせ、歌を詠んだのね。
句郎 そう、その結果、文字摺石は歌枕になり、芭蕉はその歌枕を訪ね、伝説に促され信夫の里を探し求めて訪ねたんだ。
華女 そして芭蕉は文字摺石を訪ね、詠んだ句が「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」だったのね。
句郎 しのぶ摺の巨石を眺め、早乙女たちが早苗を取り、田植えする姿が心に浮んだじゃないのかと思っているんだ。
華女 布地の草木染をする乙女と田仕事をする乙女の姿を思い浮かべたということよね。芭蕉は女好きの男だったのね。
句郎 そんな感じがする。
華女 するわ。当時の身分の高い男たちが農婦の女に恋することはなかったんじゃないかと思うのよ。だって、ちっとも髪振り乱して働く女が綺麗なはずないでしょ。そうでしょ。身分の高い男が身分の低い女を遊びものにすることはあっても、恋することはないと思うわ。
句郎 まぁー、そうだろうね。

醸楽庵だより  889号  白井一道

2018-10-23 11:44:22 | 随筆・小説


  トランプアメリカ大統領の対日政策は変わったのか


 先日テレビを見ていたらコメンテーターに宮家邦彦氏が出演していた。テレビでは北朝鮮問題を取り上げていた。
「朝鮮戦争の終結宣言について、宮家さんはどのように考えておりますか」と司会者が質問した。「トランプ大統領が何を考えているかは、分かりませんが私は朝鮮戦争の終結宣言については良くないと思っています。朝鮮戦争が終結し、韓国に駐留米軍がいなくなるような事態になったら大変なことになる。東アジアの状況に悪い影響がでてくると考えています」とこのような発言をしていた。
 私は宮家氏の発言を聞いて驚いた。正々堂々と朝鮮戦争の終結に反対だと述べる人間がいることに驚いた。戦争を支持する人間が知識人として公共の電波であるテレビで発言する時代になっていることを確認した。70年間も休戦状態が続いていることを一刻も早く終わらせようというのが平和を願う外交官のすることじゃないかと私は考えている。
 宮家氏の発言を聞き、日本の指導層の中には、戦争態勢を準備しておくことが日本の安全保障だと真面目に考えている人々がいることを知った。
 国々が互いに平和友好条約を結び、政治的、経済的、文化的交流を深めることによって平和を実現しようとしている人々が外交官だと私は考えていた。
 諸国の中に平和友好が実現しないと考える理由は敵がいるということなのであろう。日本にとっての敵とは北朝鮮、中国、ロシアということなのだろうか。このように考える理由はこれらの国々が社会主義国、または元社会主義国ということなのであろう。現実的に北朝鮮や中国、ロシアは日本国に対して敵対的な行為をしているのだろうか。これらの国によって日本は侵略されているのだろうか。北朝鮮は確かに日本人を非合法的に拉致した。この不幸な出来事は朝鮮戦争が休戦状態、半ば戦争状態が続いているからだと私は考えている。朝鮮戦争が終結し、日本との間に平和友好条約が結ばれていたならば、このような不幸な出来事は起きなかったのではないかと考えている。日本国民を拉致する。このような「犯罪」を行うのが戦争である。戦争は人殺しだ。戦争を終わらせる。これが一番大事なことだ。朝鮮戦争を終わらせることが最終的に日本人拉致問題の解決になる。北朝鮮に戦争状態を強いることによって、どうして拉致問題が解決するのだろうか。北朝鮮は小国だ。世界最大の軍事大国アメリカに脅されて震えている。最貧国、北朝鮮は自国の存続を願っている。軍事的にも経済的にも豊かなアメリカ合衆国にテロ支援国家として名指しされ、攻撃される恐怖に70年間曝されている。この緊張感はきっと想像を絶するものがあったのではないだろうか。北朝鮮は自国の安全確保のために核兵器の開発をしている。核兵器をもつことが戦争を阻止する。安全を確保すると北朝鮮政府も国民も考えている。朝鮮戦争の終戦宣言をすることが北朝鮮の非核化を実現する。なぜ宮家氏はそのように考えないのか、北朝鮮の脅威を日本政府は必要としていると考えているようだ。
 だから日本政府もまた北朝鮮への圧力を強化することによって北朝鮮の非核化が実現できるかのような発言を安倍総理はしていた。宮家氏も北朝鮮への圧力強化には賛成していたようだ。北朝鮮の脅威を日本政府は必要としている。そのようにしか考えられない。北朝鮮の脅威は必要だが、現実に北朝鮮と戦端を開くことには反対のようだった。宮家氏の意見も北朝鮮と戦争をすることには反対のようだ。
 北朝鮮情勢は目まぐるしく変化している。トランプアメリカ大統領はアメリカの世界支配体制を維持するということではなく、自分自身のへのアメリカ国民の支持を高めること、次期アメリカ大統領再選を確保するための外交、政治を行っている。だからなのだろう。宮家氏もトランプ氏が何を考えているのか、分からないと発言している。
 パックスアメリカーナ、アメリカを中心にした世界支配体制を維持存続していく。アメリカの強力な軍事力によって世界を秩序する。このような政策をアメリカ政府はしていないのでトランプ氏は何を考えているのか分からないと宮家氏は言っているのかなとテレビを見ていて思った。
 トランプ氏は東アジアから軍事力の撤退を考えている。なぜならお金がかかってしょうがない。日本にはアメリカからの武器を買ってもらって独自に自国の安全保障をしてもらいたい。今までアメリカは日本のためにアメリカ国民の税金を使ってきたのだから、これからはアメリカ国民のために日本はアメリカの軍需品を中心にいろいろな物資を購入し、アメリカ国民のためにお金を使ってもらいたいと考えているようだ。
 孫崎享さんの話を聞いているとアメリカは中国とことを構える気持ちはないようだ。中国を攻めてアメリカを滅ぼすような愚かなことをするはずがないと孫崎さんの話を聞いて思った。米中貿易戦争はアメリカ政府にとってはマイナスかもしれないがアメリカ国民のトランプ氏への支持は高まるようだ。
 アメリカファーストということは、アメリカはアメリカだけの利益を求めて行くということであり、パックスアメリカーナとは大きく違っているということだ。アメリカは同盟国の盟主として世界を支配していくというのが今までのアメリカだった。このような外交政策をトランプ大統領はやめたということなんだと思う。

醸楽庵だより  888号  白井一道

2018-10-22 11:51:01 | 随筆・小説



  ツワブキが咲いた



 今朝、庭に出た。大きく背伸びし、深呼吸をした。普段、目をやることのない庭の隅に黄色の花を見つけた。ツワブキだ。ツワブキを眺めていると句が湧いた。
 ツワブキや私はいます庭の隅
 一クラス40人、八クラスの授業を担当していた。週に二回、それぞれのクラスの授業に出向く。毎回同じ内容の授業を八回していた。初回の授業は毎回、思うような内容でなかったと研究室に帰り、検討していた。三回目か、四回目かの同じ内容の授業になるとそれなりに自己満足のいく、内容になったとうぬぶれていた。
一週間に二回、新しい内容の授業を展開しなければならない。私が担当した科目は「世界史」だった。高校の教員になって20年間ぐらい、毎日毎日が苦しかった。教材研究に追われていたのだ。一コマの授業をするのに準備する内容は無限にあった。この授業で生徒たちに伝えなければならないことは何か、ということを見つけることが大変なのだ。
 例えば、単元「産業革命」を何駒で行うかを決める。これが大変なのだ。私は三コマに割り振りし、授業していた。一回目の授業はなぜイギリスで産業革命は始まったのかということ。二回目は労働者の出現。資本の原始的蓄積。三回目は資本主義経済が誕生したということ。というように割り振りをして授業をしていた。
 新しい単元での初回目の授業は板書の内容に気を取られ、生徒の顔を見回す余裕などなかったような気がする。
 四回目ぐらいの授業になると徐々に余裕が出てくる。余裕が出てくると生徒の顔が見えてくる。40人の生徒の顔を見渡す。生徒一人一人の顔を見る余裕が出てくる。
 あーあー、私の授業に飽きてきているんだなぁーと生徒の顔を見る。私と目を合わすことはない。うつむいたまま、ただじっと椅子に座っているだけである。あー、何を考えているのかな。私は今、産業革命について話しているのになぁー、私の声は耳に入らず、睡魔に襲われているのかなと教師の私は想像する。そのような生徒を見て、怒る教師がいる。授業に集中しなさいと、厳しく叱責する教師がいる。私は自分の高校時代の頃を思い出し、生徒を叱責することはなかった。私の授業がつまらないからだと反省した。しかしすべての生徒が私の授業、「産業革命」に興味を持って聞いてくれるとは限らない。だから強制して授業を聞かせる必要もないだろうと私は考えていた。寛容ということが大切だと考えていた。
 そうだ。宗教改革後「ドイツの死亡証書」といわれた三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約によってドイツにおける宗教戦争は終わりを告げた。カトリックもプロテスタントも自己の主張の正義、正しさを主張せず、互いに相手を認め合うことによってドイツの平和は実現した。
 教室の平和を実現するには、生徒に教師の主張の正しさ、正義を強制しない。一人一人の生徒にはそれなりの気持ちがあり、主張があるのだろう。その生徒の気持ちを認めよう。そんな気持ちだったのか、それとも生徒を叱責するのが面倒だったのか、わからないが私は生徒が居眠りをしていても叱責することはなかった。トレランス、寛容が大切だと自己弁護してやり過ごしていた。
 私の授業を聞いてくれている生徒を探すべく、教室中を眺め渡しているといるじゃありませんか。真面目にノートしている生徒がいる。何人もいるじゃありませんか。ありがとう。ありがとう。こんなつまらない授業をしてごめんねと静かに授業を進めていく。あー、教室の隅に目を輝かして授業を聞いてくれている生徒がいるじゃないか。先生、私、先生の授業を聞いていますよっと、言ってくれているじゃないか、これらの生徒が一人でも多くなるよう頑張らなくちゃならないなぁーと励まされ、研鑽を積もうと背中を押されて教室から出てくる。
 今まで、一度も見向きもしなかった生徒の中に私の授業を受け入れてくれている生徒がいるじゃないかと気づいた時のうれしさは格別のものだった。
 基本的に生徒は優しい。生徒の人格を受け入れる。無条件に受け入れることが大事なんだと私は生徒から教えられていた。生徒に学ぶのではなく生徒に否が応でも学ばされているのだ教師たちは。
 
ツワブキや私はいます庭の隅