醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  842号  白井一道

2018-09-30 15:37:25 | 随筆・小説


  杉田水脈議員の「LGBT差別」についてのyou tubeを見て


 アメーバTVの番組、「"LGBT差別" 杉田水脈議員擁護派の小川榮太郎氏が生出演」をyou tube で見た。その後、新潮社は問題の雑誌「新潮45」の休刊を決定した。「新潮45」を休刊に至らしめた問題の特集号に執筆した自称文芸評論家小川榮太郎氏の発言と鈴木賢明治大学教授の発言、論争を聞いた。私は小川榮太郎氏の書いた文章を読んだことはないし、読みたいと思ったこともない。鈴木賢先生の文章も読んだことはない。ただインターネットテレビでの発言を聞いただけである。テレビでの両者の発言を聞き、感じたことだけで言うと小川榮太郎は実に無礼な人間だということだ。小川榮太郎に「氏」という敬称をつけて書くことを私はやめる。
 小川榮太郎の発言は凝り固まった主観でしかない。鈴木先生の反論の正当性に小川榮太郎は頭を下げることができれば救いはあるように思うがどうだろうか。小川榮太郎よ。基本的人権というものをしっかり学んでほしい。
 私が鈴木先生の発言の中ではっと驚くことがあった。それは同じ討論の場に参加していたジャーリスト堀潤氏が日本は古来、性に関しては寛容な社会であったというような発言をした。この発言に対して直接鈴木先生が反論したわけではなかったが「日本は性に関して寛容な社会」であったことについてそうではないと発言していたことだ。同性愛を昔の日本は許容していたことはないと発言した。この発言に私ははっとした。昔の日本人は同性愛について寛容だったという理解を私は持っていた。この私の認識を覆す発言だったからである。
 私は嵐山光三郎氏の著書『悪党芭蕉』を読んだことがある。この著書の中で芭蕉は両刀使いだったと書いている。芭蕉には杜国という男の愛人がいた。また芭蕉と杜国との関係は師と弟子という関係以上のものがあるというようなことを書く芭蕉学者や小説家がいることを嵐山光三郎氏の著書を読んだ後、知った。たとえば芥川龍之介は著書『芭蕉雑感』の中で書いている。「われもむかしは衆道好き」という芭蕉の書いた『貝おほひ』の中の言葉を紹介している。また神奈川大学教授復本一郎氏は『江戸俳句夜話』で「江戸時代、男色は、決してタブーではなかったのである。タブーでないばかりか、武士道の形式美の中にあっては、女色と拮抗し、女色を凌駕し得るものであったのである。(中略)芭蕉の時代、男色は、決して忌避されるべきものでなく、命を賭してのその精神性は、こぞって賛美されたのであった」。このように学者も書いている。芭蕉は異性愛者であり、同時に同性愛者でもあったという理解をした。がしかし、江戸時代同性愛者はいなかったと述べ、同性間の性行為のみがあっただけだという発言を鈴木賢先生はした。
 芭蕉と杜国との関係は同性愛の関係ではなかった。が衆道ではあった。衆道と同性愛とは違うということなのだろう。封建的な身分制社会における男色、衆道と現代社会における男色、同性愛、ゲイというものは本質的に違うものなのだということに私は鈴木先生の話によって気づいた。
 You tuber 青木歌音の動画を見ると「昔男の子だった青木歌音です」と自己紹介する。どう見ても色白の可愛い女の子以外の何物でもない。人体改造をして男から女に性別を変更している。男から女に人体改造をした人と男との恋愛を同性愛ということはできない。この関係は男と女の恋愛であろう。こんな関係もあると聞いた。男から女に人体改造をしたニューハーフが女と恋愛をする。これを同性愛、レスビアンということができるのだろうか。自然人としての女が女と恋愛するのが同性愛のように思う。豊胸手術を施し、去勢手術はしていないが女の服装をしている男が男と恋愛するのが同性愛なのだろうか、疑問に思う。人体改造を一切していない男同士が恋愛するのが同性愛、ゲイ本来の同性愛なのかもしれない。
 自然人としての男と女の関係が自然だという主張を絶対的なものとして強制しているのが現代日本社会のようだ。このような社会の在り方に対して人体改造をし、女になった元男と自然人の男との恋愛・結婚も自然なものだとして認めて行こうという社会の動きが出てきたということのようだ。自然人として生まれた男が自分の身体を自然なものと受け入れることができない。そんな男が女性ホルモンを飲む。豊胸手術をする。去勢する。人工的に作った人体として女が自分の自然な身体として受け入れられる人がいる。当たり前な普通の身体として受け入れることができる。そのような少数者がいるという現実がある。この現実を常識として受け入れよう。これが基本的人権の尊重ということなのだと理解した。

醸楽庵だより  865号  白井一道

2018-09-29 11:16:26 | 随筆・小説


  
  「たんだすめ住めば都ぞ今日の月」芭蕉二四歳 寛文7年(1667)


句郎 若いころの芭蕉はこんな句を詠んでいた。
華女 「たんだすめ」とは、何を言っているのかしら。
句郎 何の意味もない擬音語、オノマトメのような言葉だと思う。
華女 「たんだすめ」とは、「ただ住むだけ」ということを強調しただけということでいいのね。
句郎 そうだと思う。当時、「たんだ振れ振れ六尺袖の しかも鹿の子の岡崎女郎衆」とか、「たんだ振れ振れ六尺袖のしかも鹿の子の振袖模様」と言った俗曲、端唄の歌詞に「たんだ」という言葉が使われていたようだ。町人たちの間で使われていた流行り言葉を借用して芭蕉は句を詠んだということだと思う。
華女 「梅は咲いたか、桜はまだかいな」と言ったような流行り言葉だということなのね。
句郎 「たんだ」という言葉に芭蕉は俳諧を発見したつもりになって詠んだ句なのではないかと考えているんだ。
華女 今でいうと流行語大賞になったような言葉を用いた句が俳諧だと若い芭蕉は考えたということなのね。
句郎 公家や武士が用いていた言葉ではなく農民や町人が使っていた言葉で句を詠むことが俳諧だと芭蕉は考えていた。更に「たんだすめ」の「すめ」、「住めば」の「住め」は「今日の月」が「澄めば」の「澄め」を読者に連想させる。このような言葉遊びが俳諧だと芭蕉は考えていたということなのかな。
華女 掛詞を使って笑わせる句が俳諧だったということなのね。
句郎 紀貫之らが編纂した『古今和歌集』に俳諧歌がある。その冒頭の歌が次のようなものなんだ。「梅の花 見にこそきつれうぐひすの ひとくひとくといとひしもをる」。華女さん、どうですか。
華女 平安時代の花見は桜ではなく梅だったのかしら。
句郎 天平時代の奈良での花見は確かに梅の花だったようだけれど平安時代になって国風文化が自覚されるようになると花見の中心は梅から桜に変わった。この歌は次のように読む。「梅の花、見にこそ来つれ、鶯の人来人来と、厭ひしもをる」。梅の花が咲いたと聞いたので来てみると鶯が人が来た、人が来たと嫌がっている。ただこれだけの歌なんだ。鶯はホーホケキョと鳴く。そのように今の私たちには聞こえる。がしかし平安時代の人々には「ヒトクヒトク」と鶯の鳴き声は聞こえたようだ。梅見に人が来ることと鶯の鳴き声を掛けて笑いを取ることが俳諧歌だった。    
華女 掛詞の芸を競い合う遊びが俳諧だったということなのね。
句郎 和歌の世界は平安末期から鎌倉時代にかけて連歌という遊びが公家や武家の間に普及していくでしょ。
華女 連歌とは上の句と下の句とを別々の人が詠み継いでいく文芸の遊びよね。
句郎 その連歌の遊びが興じたものが俳諧の連歌だった。俳諧の連歌の中から俳句というものが生れてきたようだ。
華女、『水無瀬三吟百韻』だったかしら。飯尾宗祇が編纂した連歌集よね。短大のときに習った記憶があるわ。
句郎 宗祇は芭蕉が敬愛した歌人だった。その前に松永貞徳の貞門派の俳諧があり、西山宗因の談林派の俳諧の中から芭蕉の俳諧、蕉風の俳諧が生れてくる。
華女 芭蕉も歴史の子だったということね。
句郎 「たんだすめ住めば都ぞ今日の月」。このような句が生れてくるには長い俳諧の連歌の歴史があったということなのかな。俳諧の連歌の成果の一つが芭蕉のこの句だった。
華女 言葉遊びと笑いの俳諧、談林派の影響下にあった芭蕉の句の一つが「たんだすめ」の句だったということね。
句郎 蕉風俳諧開眼への道を歩み始めた初期芭蕉の句の一つと言うことだと思う。     
華女 しかし芭蕉の句には晩年に至るまで談林派俳諧の影響は残っているという話を聞いたことがあるわ。
句郎 そうだよね。『おくのほそ道』に載せてある最後の句、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」。この句には言葉遊びがあるよね。「蛤のふたみ」には「蛤の二身」と二見が浦の「二見」が掛詞になっているよね。ここには談林派の俳諧が残っている。

醸楽庵だより  864号  白井一道

2018-09-28 06:31:17 | 随筆・小説



 「うかれける人や初瀬の山櫻」芭蕉二四歳 寛文7年(1667)



句郎 俳諧の発句まだまだ初心者だった芭蕉にとっては、なかなか技巧的な句だと思わない?
華女 「うかれける人や」と中七の中の言葉を「人や」と切っていること。
句郎 そうそう初心者としてはこのような句を詠むのは難しかったのではないかと思うけどね。
華女 そうよね。この句は写生の句ね。芭蕉は花見の名所初瀬に行ったのよね。初瀬といえば奈良県桜井にある長谷寺にお参りを兼ねて花見に行ったのかしら。
句郎 花見の名所初瀬の歴史は古いようだね。当時の花見は山桜だった。ソメイヨシノは江戸末期から明治初年頃に品種改良された品種のようだから、芭蕉が見た桜は正真正銘の山桜だった。
華女 江戸時代の中ごろになると町人や農民と一緒になって武士や公家も花見を楽しむようになっていたのね。
句郎 武家奉公人だった芭蕉はきっと仕えていた武士に同行して初瀬の花見に行ったということだと思う。「初瀬にて人々花見けるに」という前詞があるから。
華女 芭蕉のこの句には先行の和歌があるのよね。
句郎 百人一首にある和歌かな。
華女 そうよ。源俊頼の歌よ。「憂かりける人を初瀬のやまおろしはげしかれとは祈らぬものを」という歌ね。この歌も男が詠んだ恋の歌よ。平安時代に生きた貴族の男というのは女々しいのよ。女に思いを告げても振り向いてもくれない。初瀬から吹いてくる山おろしよ。そんな激しく吹いてくれとは祈っていないのにと、いう歌よ。
句郎 相思相愛というのはいつの時代も難しかったのかな。
華女 そうじゃないわ。女の現実は厳しかったのよ。平安時代に生きた貴族の女性の一生はとても厳しいものだったと思うわ。だからとても臆病だったのよ。そう簡単に男を受け入れるわけにはいかなかったのよ。男女不平等の社会にあっては、男にとっても恋は難しく、厳しいものだったと思うわ。
句郎 「憂かりける」を芭蕉は「浮かれける」ともじった。ここに俳諧を芭蕉は発見した。     
華女 俳諧とは、どういうことなのかしら。
句郎 「憂かりける」は和歌の言葉だと思う。和歌が幽玄なもの、優美なものを表現する言葉だとしたら俳諧は日常卑近なものを表現する言葉で高雅なものを表現するのが俳諧だからね。
華女 「うかれける人や初瀬の山櫻」。この句が高雅な世界を表現しているとは言えないような感じがするわ。この句が表現していることは、「花より団子」の世界が表現されているように私には思えるわ。
句郎 「浮かれける」という言葉は和歌の世界の言葉ではない。日常生活を楽しむ町人や農民の言葉だと思う。日常生活を楽しむということの中に町人や農民の現実がある。この現実を否定するのではなく、全面的に肯定する。家族や仲間と花の下でお酒を飲み、ご馳走をいただき、楽しむ。この楽しみが浮かれるということだと思う。
華女、謹厳実直、静謐であることは町人や農民の世界ではないわね。歯を見せることすら武士や貴族の世界では忌み嫌われることのように思うわ。
句郎 お酒を飲み、ご馳走を花の下でいただき、会話を楽しむ。この無礼講を表現した言葉が「浮かれける」という言葉だと思う。無礼講でなくては酒宴は楽しめないし、浮かれることもできない。
華女 芭蕉の句は「浮かれける」ことを肯定しているということね。
句郎 「浮かれる」ことは、無礼講だということ。無礼講でなければ「浮かれる」ことはない。「浮かれける」ことを肯定することは身分制を少しづつ崩していく働きがあるように思う。
華女 俳諧の流行が元禄時代から始まり、現代にいたっているということは「浮かれける」現実を肯定して生きてきているということね。
句郎 「浮かれける」現実の中に美を、真実を発見する営みが俳句を詠むという営みなのかもしれない。     
華女 「浮かれける」人々の中に美を発見した芭蕉の功績は現代まで引き継がれてきているということね。
句郎 芭蕉はただ無意識的に俳句を詠んだだけだ。

醸楽庵だより  863号  白井一道

2018-09-26 12:48:45 | 随筆・小説


  「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」  芭蕉21歳 寛文2年(西暦1667年)


句郎 「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」という芭蕉二一歳の時の句が知られている。西暦一六六四年の作。私はこの句を読み、芭蕉は若かったころから旅への憧れがあったのかと想像した。この句は全くの想像しただけの句ではないかと思う。
華女 芭蕉には旅の経験がまだなかったのかしら。
句郎 江東区芭蕉記念館が出している芭蕉年譜によると寛文2年、芭蕉19歳前後に藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎良精(よしきよ)の嫡子良忠に武家奉公人として芭蕉は仕
えている。芭蕉が仕えた藤堂良忠が蝉吟(せんぎん)という俳号を持つ俳人だった。二歳年上の主君蝉吟から芭蕉は俳諧の手ほどきを受けた。
華女 耳学問でいろいろ俳諧についての知識を得たということね。
句郎 芭蕉の主君蝉吟の師が京の北村季吟だった。蝉吟の句を携え芭蕉は伊賀上野から京の季吟の下へ向かったことが度々あったと考えている。伊賀上野から京までは案外近い。強行軍をすれば、日帰りできる距離のようだ。
華女 伊賀上野というのは三重県よね。そんなに近かったかしら。
句郎 山一つ越えると京都のようだよ。芭蕉は京へ行った帰り道月明かりを道標として伊賀上野への道を急いだんじゃないのかな。
華女 「月ぞしるべ」とは、月明かりが道標だったということね。
句郎 街道筋の旅籠の女将から「お宿いかがです」というような言葉をかけられている風景を若かった芭蕉は見た経験があったのかもしれない。
華女 芭蕉自身も呼び込みの言葉をかけられた経験があるんじゃないのかしら。
句郎 身なり、出で立ちを見をみられて芭蕉はどうだったのかと思うとなかったように思っているんだけど。
華女 そんな旅籠への呼び込みを受けてみたいなぁーという気持ちを詠んだ句だということなの。
句郎 旅籠への呼び込みを見て、薄暗くなっていく心細さのような気持ちをどのように表現すべきか、混沌とした心の中を整理することなしには、表現できないことに芭蕉は気が付いたのではないかと思う。
華女 人間の気持ちというのは整理するとなしには自分の気持ちを表現することはできないわね。
句郎 整理され、秩序立てられた言葉を芭蕉は謡曲の台詞に発見した。
華女 当時、謡曲というのが流行していたのね。
句郎 下級武士たちの慰みとして楽しむことができた。芭蕉も武家奉公人として謡曲に接する機会があったんじゃないかと思っているんだ。
華女 どんなものに題材をとった謡曲があるのかしら。
句郎 一つは源平合戦を題材にしたものとかが流行っていたんじゃないのかな。だから芭蕉は義経や木曽義仲が好きになった。そんな謡曲の一つに義経の幼少期牛若丸を表現した謡曲『鞍馬天狗』がある。その中の一節に「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべなる。此方へ入らせ給へや」がある。この言葉を借用して「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」と詠んだ。
華女 芭蕉は謡曲の台詞を使って句を詠んだのね。

醸楽庵だより  862号  白井一道

2018-09-26 12:48:45 | 随筆・小説


  「秋風の鑓戸の口やとがり声」  芭蕉24歳 寛文7年(西暦1667年)


句郎 「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」という芭蕉二四歳の時の句が伝わっている。西暦一六六七年の作のようだ。私はこの句を読んだ時、雨戸の戸袋で女将さんが怒鳴る高い声を想像した。使用人を怒るとがり声かな。ゴミゴミした下町の街角に聞こえる狭い路地が想像された。
華女 「とがり声」という言葉が町人を想像させるのよね。なぜか男じゃなく、痩せた中年の女の声なのよね。
句郎 「とがり声」が表現する人は女の人であり、生活経験のある女性というイメージだよね。この女性は武家の女性でもなく、ましてや公家の女性では絶対ない。町人の女だよね。
華女 和歌が表現する女性は公家の女性じゃないのかしらね。
句郎 百人一首「あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな」。和泉式部の歌が表現している女性は公家の女性だよね。平安時代の平民が女性がこのような歌を詠むはずがない。当時の庶民は文字を読めなかっただ
ろうし、もちろん文字を書くことなどできなかった。
華女 公家の女がとがり声を発することはないでしょう。静かに心の中にある気持ちを赤裸々に言うことはないように思うわ。
句郎 「とがり声」は赤裸々な気持ちを表現する言葉だよね。
華女 赤裸々に気持ちを表現する言葉に芭蕉は人間を発見したのかもしれないわ。
句郎 気持ちを内に秘める言葉に美しさを見る公家の美意識に対して赤裸々な気持ちを表現する言葉に芭蕉は美を発見したからこそ、「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」という句が生れたんだろうね。
華女 元禄時代になり、町人たちの経済力が武士をも凌ぐようになると公家や武士と同じように町人にだった高貴な心があるという気持ちが生れてきていたということなんでしょうね。
句郎 町人にも時間的な余裕が生まれたということなんじゃないのかな。
華女 平民というか、庶民に余暇が生れたということが俳諧を楽しむ町人出てきたということなのね。
句郎 古代ギリシアは奴隷制社会だったと言われている。だからポリスの市民には余暇があった。生産的な体を動かす仕事はすべて奴隷にさせていたからね。
華女 大学に入ったころかしら、school の語源は古代ギリシアの言葉schola余暇からきている教わったことを覚えているわ。
句郎 江戸時代の一部町人や豪農に余暇が生れたことが自分たちの文芸として俳諧を発展させたということなんだと思う。単なる笑いの文芸に過ぎなかった俳諧を文学にまで高めたのが芭蕉だったと考えているんだ。
華女 二四歳の若者であった芭蕉は公家や武士の文芸であった俳諧の連歌から俳諧を独立した文学にまで高めたということなのね。
句郎 余暇を創って勉強をして俳諧の連歌を学び、俳諧を詠んだ。俳諧が文学へと生成していく過程の句の一つが「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」なんだと思う。この句には人間の表現がある。

醸楽庵だより  961号  白井一道

2018-09-25 12:47:17 | 随筆・小説


  沖縄知事選

 「誇りある経済的自立路線」か。それとも「新基地容認で金を引き出す中央依存路線」か。



侘助 沖縄知事選挙佐喜真候補は「対立からは何も生まれない」、「対立よりは話合い」と言っているが、話合う相手は安倍政権ということになる。話し合って辺野古に米軍の新基地を建設することを沖縄県として受け入れるということだよね。ノミちゃんはどう思う?
呑助 そりゃ、安倍政権の言うことを聞き入れれば、沖縄振興予算がたくさんもらえるとか、「携帯電話四割値下げ」を実現するとか、いいことがあるということなんじゃないですか。
侘助 このような主張に対して沖縄県民の中には「金は一時、基地は永久」というように思っている人たちがいるようだよ。
呑助 そりゃそうですね。昔から札びらで頬を叩いて、住民の土地を買い上げたり、住民が嫌がることを受け入れさせたりすることは権力者がよくやるやり方ですよね。
侘助 そうなんだ。沖縄振興予算の配分、決定は財務省ではなく、内閣府によって決定されているようなんだ。だから政府の意向に沿う知事がいる県にはいろいろ多めに配分され、内閣の意に沿わない知事の県には配分しないというようなことがあるみたいだからね。
呑助 そうなんですか。世の中とは、そういうものなんでしようね。自分の意に沿ってくれるものは大事にする。自分に反するものを冷遇する。これって人情っていうもんなんでしよう。
侘助 「長いものにはまかれろ」、「寄らば大樹の陰」なんて言うからね。力の強い者には従った方が得策だということなんだよね。
呑助 そうですよ。これが処世術というものですよ。
侘助 個人の処世術としてはいいけれども県知事としてはどうかと思うな。そうでしょ。県知事になる佐喜真さんと彼の仲間はいいでしょ。しかし県民にとっていいのかというとそうじゃないように思うな。
呑助 そうかもしれませんね。政府の意向に沿った県政をしてくれたということで佐喜真さん本人と仲間たちは恩恵を受けることはあるでしよう。しかし県民にはいろいろ被害がでることはあるでしようね。被害を被る人がいるから根強い反対運動が七十年間も米軍沖縄占領以来続いてきているんでしょうからね。
侘助 「沖縄振興予算」が沖縄の子供の貧困を生んでいると主張する沖縄の大学の先生がいる。
呑助 誰なんですか。そんなことを言う先生は。
侘助 琉球大学教育学部島袋純教授だ。彼は主張している。子供の貧困とは家庭の貧困ということだよね。「沖縄振興予算」というのはあくまで「沖縄振興」だからね。福祉予算にすることができないんだ。沖縄振興をすればするほど一部の沖縄県民の懐は豊かになるけれども、一方貧しさから抜け出せない人々も多数出てきてしまうということなんじゃないのかな。
呑助 そうなのかもしれませんね。いつの時代もどこの国でも一部の人が豊かになり、他方には貧しい人々が置いて行かれてしまうということはあるのでしようね。
侘助 佐喜真候補の選挙対策は「新基地容認で金を引き出す中央依存路線」ということなのかな。このように佐喜真候補の選挙対策を述べたのはフリージャーナリストの横田一氏だ。私は横田さんの主張は正しいと思っている。
呑助 佐喜真候補に対して玉城デニー候補の選挙対策はどんなものなんですか。
侘助 「誇りある経済的自立路線」だと横田一さんは述べている。
呑助 「沖縄振興予算」などの増額要求と言うようなことではなく、沖縄独自の経済振興を図っていこうということですか。でも政府の支援を得ることなく、そんなことができるんですかね。
侘助 中央政府からの補助金というものは厄介なもののようだ。使い道に制約があったりしてね。だから独自の政策を実施することが難しいということがあるんじゃないのかな。玉城デニー候補の政策は安倍政権にすり寄るのでは沖縄独自の経済振興政策を取るということなんだと思う。辺野古に米軍の新基地建設はさせない。普天間米軍基地は無条件で返還してもらう。なぜならそこはもともと沖縄県民の所有地なんだからね。沖縄への観光客は今やハワイを抜いているようだよ。しかし、滞在日数ではハワイに負けているようだがね。
呑助 佐喜真候補は沖縄を基地とカジノの島にと、いうことか。

醸楽庵だより  860年  白井一道

2018-09-24 11:39:21 | 随筆・小説




二〇一八年九月例会 唎酒した冷おろしお酒

A、越後秀山 巻機 純米吟醸 限定生詰原酒ひやおろし  720ml 1750円 
  新潟県南魚沼市    高千代酒造    
  酒造米:新潟県産米の一本〆  精米歩合:53%精米  アルコール度数:17~18度
  日本酒度:+5 酸度:1.5 アミノ酸度:1.3  酒販店、季節限定のお酒です。
「ひやおろし」の語源とは
江戸の昔、冬にしぼられた新酒が劣化しないよう春先に火入れ(加熱殺菌)した上で大桶に貯蔵し、ひと夏を超して外気と貯蔵庫の中の温度が同じくらいになった頃、2度目の加熱殺菌をしない「冷や」のまま、大桶から樽に「卸(おろ)して」出荷した酒。

B、水芭蕉 純米吟醸ひやおろし  720ml 1400円
  群馬県利根郡川場村    永井酒造株式会社
  酒造米:兵庫県産山田錦 精米歩合:60% アルコール度:15度 日本酒度:+3  季節限定酒
  秋に一番の飲み頃をむかえる酒。純米吟醸酒特有のお米の旨みがしっかりと表現され、辛口に仕上がっています。飲み飽きの来ない味わいです。

C、浦霞 純米酒ひやおろし 生詰  720ml 1300円  宮城県外のみの流通限定の季節商品
  宮城県塩竈市市    株式会社佐浦
  酒造米:まなむすめ 精米歩合:65% 日本酒度:+1 酸度:1.5 アルコール度:16~17度 
  ひと夏越えてほどよく熟成した、米の旨味と酸味が感じられる純米酒です。もっとも美味しいと言われる時期のお酒を加熱殺菌せずに生詰めし、蔵出しそのままの旨さがお楽しみ頂けます。

D、高千代 純米酒 秋あがり 無調整生原酒(無調整とは、無濾過ということ) 720ml 1200円
  新潟県南魚沼市  高千代酒造
  アルコール度:16~17度 酒造米:美山錦 精米歩合:扁平精米65%  日本酒度:+19 
酸度:1.5  アミノ酸度:1.5
  
E、紀伊国屋門左衛門 純米酒限定ひやおろし 720ml 1180円  
 和歌山県海南市    中野BC株式会社   
  詳しい情報は特になし。秋の夜長を楽しむお酒。
 
酒塾のしをり  第三二号。
 毎年のことです。九月、十月例会のお酒は「冷おろし」のお酒です。「冷おろし」のお酒を「秋あがり」といったりしています。呑ン平の歌人若山牧水は秋の夜の酒を「白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」と詠んでいます。昔の人は清酒のことを「白玉」と呼んでいたようです。
 牧水の友人であった石川啄木は『悲しき玩具』の中で「しっとりと酒のかをりにひたりける脳の重みを感じて帰る」と詠っています。お酒を飲むと生きる哀しみが胸に迫り、頭の重みを感じたのかもしれません。明治に生きた歌人の哀しみに対して昭和に生まれた恋の歌人、『サラダ記念日』で脚光を浴びた二〇代前半だった俵万智は「コップ酒濱の屋台のおばちゃんの人生訓が胃に沁みてくる」と詠んでいます。若い女が一人、浜の屋台でコップ酒を楽しんでいる。時代は変わっても若者が生きていくのは昔と変わらず、生き難いものがあるのだろう。
 快い海風に吹かれてコップ酒を若い女が楽しむようにはなっても生きる哀しみは変わらない。

醸楽庵だより  859号  白井一道

2018-09-23 12:07:03 | 随筆・小説


  「春は曙そろそろ帰ってくれないか」櫂未知子
  

句郎 櫂未知子の句「春は曙そろそろ帰ってくれないか」。華女さんはどう思う。
華女 「春は曙」、清少納言『枕草子』冒頭の言葉ね。古歌に詠われた後朝の別れを櫂未知子の句の「春は曙」は読者に想像させるわね。
句郎 後朝の別れを詠んだ歌と言うとどのような歌があるのかな。
華女 有名な歌と言うと百人一首の中の歌になるんじゃないのかしら。
句郎 どんな歌なの。
華女 権中納言敦忠が詠んだ歌よ。「逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」。男の人が詠んだ歌よ。
句郎 どんなことを詠んでいるの。
華女 「逢ふ」という言葉が意味することが分からなければ、この歌の意味を理解することができないわ。「逢ふ」ということは、男女が契りを結ぶということなのよ。
句郎 当時は妻問婚だったからなのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。今のように婚姻関係が法的にも慣習的にも定着していなかったし、圧倒的に男女間の差別は
大きかったから男が女のところに通わなくなったら婚姻関係は無くなったも同然だったのよ。
句郎 貴族の男にとっては不倫のし放題ということだったんだ。
華女 「原始女性は太陽だった」と平塚らいちょうが述べた有名な言葉があるじゃない。でもあの言葉は嘘よ。男女差別の歴史は農耕、遊牧の始まりから延々続いてきていることなのよ。
句郎 生活力旺盛な男は絶えず一夫多妻であったということなのかな。
華女 そうなんじゃないのかしらね。だから男も可哀そうなものなのよ。強い男はいいけれど、弱い男は女にありつけなかったのよ。男女平等はとてもいいことなのよ。男にとっても女にとっても平等に男は女を娶ることができるし、女も男を得ることができるのよ。
句郎 ロマンのない話だな。
華女 ロマンなど女と男の間にはありゃしないわ。「逢ひ見ての後の心に」というのは女は強かなのよ。男をやっと受け入れてやったということよ。男は喜び、有頂天になったということなんじゃないの。
句郎 受け入れてもらえなかった頃の苦しみなど物の数にも入らないものに思えるということでいいのかな。
華女 そうなんじゃないの。男は女への強い欲求があるでしょ。その欲求が男の弱みなのよ。男の女への強い欲求が満たされない苦しさと欲求が満たされた時の喜びが歌になったということだと思うわ。
句郎 後朝の情というのは、朝、男は女といつまでも寝ていたい気持ちを絶ちがたいということかな。
華女 そうなのよ。でも女は昔も今も現実主義者なのよ。いつまでもだらだらと男が家にいてもらっては胡散臭くてたまらないのよ。
句郎 同衾の喜びというものは女にもあるんじゃないの。
華女 そうね。男によるわ。自分さえイッテしまえばいいというもんじゃないでしよ。男にはそんな男が多いのよ。
句郎 だから櫂未知子の句「春は曙そろそろ帰ってくれないか」という句に現実味が出てくるということなのかもしれないな。



醸楽庵だより  858号  白井一道

2018-09-22 14:40:21 | 随筆・小説


  芭蕉の追善句「塚も動け我泣声は秋の風」二度目の評釈


句郎 『おくのほそ道』にある句「塚も動け我泣声は秋の風」について鑑賞してみたい。
華女 芭蕉が金沢で詠んだ句として知られているものね。
句郎 そう、曽良の『俳諧書留』に「一笑追善」として載せてある。一笑のお兄さんが追善句会を開き、その発句がこの句だったのかな。
華女 金森敦子の『曽良旅日記を読む』によるとこの追善句会には二八人もの俳人が集まったみたいよ。
句郎 元禄時代の金沢俳壇というのはかなり隆盛していたんだね。
華女 この芭蕉の追善句は一笑を慟哭する句ね。
句郎 そのような解釈が一般に流布しているようだね。「激しい悲しみの情を述べた」と穎原退蔵は角川文庫の『おくのほそ道』で書いている。
華女 生前、芭蕉は一笑に会っていたのかしら。
句郎 一度も芭蕉は一笑とあって話をしたこともなければ手紙のやり取りもしたことはなかったようだよ。
華女 それなのに芭蕉はどうしてこんなにも激しい悲しみの追善句を詠んだのかしら。
句郎 芭蕉は金沢に自分を慕ってくれている俳人がいるという情報を持っていたんじゃないのかな。
華女 芭蕉の追善句というと「なき人の小袖も今や土用干し」、「数ならぬ身とな思いそ玉祭り」、「埋火(うずみび)もきゆやなみ煮る音」が知られているわね。
句郎 とても静かな整えられた気持ちが表現されているね。
華女 ちょっと「塚も動け」の句とは違っているわね。
句郎 山本健吉は次のように鑑賞している。「折から吹いてきた秋風の響きが、さながら自分の慟哭の声かと聞きなされるのである」とね。
華女 穎原退蔵の鑑賞に比べてすこし落ち着いた鑑賞ね。
句郎 「秋風」が持っている意味というと、どんなことかな。
華女 「秋風」には哀しみが籠っているように感じるわ。
句郎 肌に冷たさを感じるのが「秋風」だよね。この冷たさというか、寒くはないがこれからますます寒くなっていくんだという気持ちが哀しみを誘うのかな。
華女 秋風と言うと額田王の歌を思い出すわ。「君待つとわが恋ひをればわが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く」。待つ女の哀しみを秋風として表現しているように私は感じているのよ。
句郎 一笑は芭蕉が金沢に会いに来てくれるのを待ち焦がれていた。その一笑に気持ちに応えることができなかった。申し訳ないという気持ちを詠んだくが「塚も動け」の句なのかもしれない。
華女 この句は「塚も動け」で切れているわよね。だから「我泣く声は秋の風」との取り合わせの句よね。でもこの句を何回か読んでいると「我泣声」と「「秋の風」との間にも半白の切れがあるようにも感じるわ。
句郎 この句は「塚よ動け」ではなく、「塚も動け」になっている。この「も」はもう一つの「も」を連想させている。それは「我泣声も」の「も」だと思う。塚も私の泣く声も一緒に秋の風になって悲しんでほしい。そのような願いを詠んだ句なのかも。

醸楽庵だより  857号  白井一道

2018-09-21 10:21:35 | 随筆・小説
 

 『発酵道』寺田/啓佐 著 を読む


 冬の芽や 光のめぐみ 玉となる   一道

 寺田さんのご著書「発酵道」を読み、このような句ができました。寺田さんは今日も酒造りに忙しい日を送っておられることとお喜び申し上げます。
 私は千葉県野田市で「日本酒に親しむ」という日本酒愛好家の集まりをしております。もともとは県立高校の学校開放講座の一つとして私が開講しました。主に造りの勉強と利酒を行いました。その延長です。現在では単なる飲み会になってきていますが、蔵元さんに来ていただいて造りの話なども聞いたりしています。
十四・五年前に「五人娘」を近所の酒販店で買い求め、飲んだところ、きれいで、軽快、切れのよいお酒だなという印象をもちました。それ以来「五人娘」という銘柄は脳裏に焼き付きました。その後、「吟醸酒を飲む会」の人が五・六人で寺田本家さんの蔵見学を行い、蔵の縁の下に炭が敷き詰められていたという見学記を読んだことがあります。「発酵道」を読み進むうち、炭を家の下に敷き詰めた理由を知りました。私が「発酵道」という本を知ったのは、「週刊鉄学」というテレビ番組を通してです。テレビ画面で見た寺田さんは私と同世代の方だと思いました。それでなんとなく近しい印象を受け、手紙を書こうと思い立ったわけです。
私は千葉県立高校を定年退職して三年目です。まだ、再任用ということで、県立高校で働いています。本物のお酒をいただいているお陰で元気にしています。寺田さんのご著書を読ませていただき、酒蔵は学校と同じだと思いました。生徒間の競争を煽るようなことをすれば、学校は腐っていきます。消毒を徹底的に行えば、学校は学校としての生命活動が停滞するように思います。火落ち菌のような生徒が学校には確かにいます。だからそのような生徒の影響が蔓延しないよう、対策を取ります。その最終的な対策は退学処分です。最近はなかなかそのような処分をだすことが難しくなってきていますので、停学と徹底的な事後指導です。そのような生徒の人格や存在を無視するようなことをおこなえば、学校は腐っていくように感じています。酒造りと同じだと思いました。
微生物たちは「自分好き」という項目があります。学校も同じです。一人一人の生徒が自分を好きであるような学校がいい学校だと思います。ところが現実はそうではありません。そんなに欠席が多いと卒業できないよと言っても、何の反応もしない生徒がいるんです。授業中、何もしない生徒がいます。教科書を開かなければ、ノートも取りません。自分で自分を教室の中で無き者にしているんです。ほっといてくれ。そんな感じです。これは生徒の生命活動の活力を教師たちが奪っているからだと思います。消毒のし過ぎだと思います。その結果、一人一人の生徒が教室の中で役割を果たせない状況をうんでいるように感じます。
寺田さんがおっしゃるように微生物たちはそれぞれの役割をもち、役割を果たすとバトンタッチしていく。そのようなことが学校では行われていないのです。一人の教師の力には限界があります。三増酒だけを造っている酒蔵のような学校が多いのです。結果だけを求め、自分の成績を上げることにのみ力をそそぐ管理職や管理職になろうとする職員が増えているのです。こうすることがいいことだと県は考えているのかもしれません。職員同士が管理職目指して競争することが学校を活性化するのだというのです。哀しいことです。こんなことをしていれば、学校が腐っていくに違いありません。
私は寺田さんのご著書からいろいろ学ぶことができました。そう思いまして、「醸楽庵だより」を書き仲間のみんなに配布しました。その結果、寺田本家さんの蔵見学をしようということでまとまりました。

   今から十年ほど前、蔵見学と寺田さんの話を聞こうと仲間と話しあいました。その時、仲間に配布したものです。