醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1110号   白井一道

2019-06-30 12:39:19 | 随筆・小説



    はれ物に柳のさはるしなえかな  芭蕉 元禄七年



 この句には異型の句が伝えられている。「はれ物にさはる柳のしなえかな」である。「はれ物にさはる柳」か、それとも「柳のさはる」か、である。
 「さはる柳」か、それとも「柳のさはる」か、で芭蕉の弟子たちは論争している。この論争の経過が『去来抄』に載せてある。芭蕉の弟子、浪化(ふうこ)が編纂した『有磯海』には「はれ物にさはる柳のしなえかな」とある。浪化、支考、条件付の丈草、許六らは「さはる柳」を支持している。これに対して「是ハ予が誤り傳ふる也。重て史邦が小文庫に柳のさハると改め出す」と師、芭蕉は弟子の浪化が間違って伝えていると述べ、史邦は小文庫に「柳のさはる」と間違いを修正していると去来は『去来抄』に書いている。
 「はれ物に柳のさはるしなえかな」と「はれ物にさはる柳のしなえかな」ではどのような違いがあるのだろう。「はれ物に柳のさはるしなえかな」とは、はれ物に柳が触るかのようなという比喩になるが、「はれ物にさはる柳のしなえかな」とすると直接柳の葉が腫れものに触っているということになる。この句は比喩を表現していると去来は主張している。師・芭蕉が表現した句は比喩の句だと去来は主張している。

醸楽庵だより   1109号   白井一道

2019-06-29 11:49:26 | 随筆・小説



    琉球新報社説に共感



  米軍が東アジアから撤退することが東アジアに平和をもたらす。ベトナム戦争に米軍は敗北し、東南アジア地域は平和になった。在韓米軍が撤退すれば、朝鮮半島に平和が訪れる。日本から米軍が撤退すれば日本に平和が訪れる。トランプ大統領が「日米安保条約」を破棄したいというのなら日本政府は堂々と受け入れればいいと思うが日本政府にはその度胸がないようだ。残念なことだ。

<琉球新報 社説>米大統領「安保破棄」 安全保障を考える契機に                                  2019年6月27日

 トランプ米大統領が日米安全保障条約を破棄する考えを側近に漏らしていたと米ブルームバーグ通信が報じた。米軍普天間飛行場の移設についても「(米軍の)土地の収奪だ」として、日本政府に金銭的補償を求める考えを示していたという。
 米国が本当に破棄を望むのなら、沖縄の米軍基地を平和につながる生産の場に変えることも可能だろう。辺野古の新基地建設も不要になる。政府はむしろ、これを奇貨として対応を検討すべきだ。
 菅義偉官房長官は「報道にあるような話は全くない。米国の大統領府からも米国政府の立場と相いれないものであると確認した」と述べ、打ち消しに躍起になっていた。
 米国政府の立場はその通りだろう。だが予測不能といわれるトランプ氏だ。このような発言をしたとしても一向に不思議ではない。だからこそ事実ではないかという憶測が一時、外務省内でも広がった。
 本当だったとしても、個人的見解の域を出ず、現実に安保を破棄する事態は起こらないとの見方が強い。貿易交渉を有利に進めるための取引材料として持ち出す可能性はあるかもしれない。
 報道によると、トランプ氏は「日本が攻撃されれば米国が援助することを約束しているが、米国が攻撃された場合に日本の自衛隊が支援をすることは義務付けられておらず、あまりにも一方的だ」と不満を示したとされる。
 日本政府は在日米軍関係経費として毎年巨額の予算を計上している。防衛省の公表資料によると2019年度は基地従業員の労務費、施設借料を含め、駐留に関連する経費だけで3888億円に上る。それ以外にSACO関係経費(256億円)、米軍再編関係経費(1679億円)もある。
 トランプ氏は日本が負担する経費をどこまで理解しているのだろうか。普天間飛行場を巡る認識に至っては、事実を百八十度ねじ曲げている。
 飛行場のある場所は戦前、集落が点在する農村地帯だった。住民を収容所に押し込んでいる間に土地を奪い、戻った時には立ち入りができないようにした。敵国の領土で私有財産の没収を禁じるハーグ陸戦条約にも違反している。
 米大統領がこのような自明の事実さえ理解していないのだとすれば、基地問題の解決などおぼつかない。日本政府はトランプ氏の啓発に努めた方がいい。
 在日米軍専用施設面積の7割が集中する沖縄は日米安保体制の重荷を最も多く背負わされている。基地から派生する事件・事故は後を絶たず、軍用機がまき散らす騒音は我慢の限度を超える。
 米軍の権益を維持・拡大してきたのが安保の実態であり、その不平等性は日米地位協定に端的に表れている。
 今回の報道を契機に、安全保障への関心が高まり、安保を巡る国民的な議論が深まるのならいいことだ。

醸楽庵だより   1108号   白井一道

2019-06-28 08:10:00 | 随筆・小説



    差別について



 天皇のばばを競って探した農民がいた。明治天皇は奈良県において実施された陸軍大演習を閲兵した際、下痢していたため、現地で用を足した。その噂が広がり奈良の農民たちが天皇のウンコを競って探した農民たちがいた。
 小説『橋のない川・第一巻』の初めに出てくる話である。天皇崇拝が農民たちに起こした悲喜劇の一つである。天皇崇拝は呪物崇拝、フェテシズムであることを作家、住井すえは表現している。天皇崇拝があるから被差別に対する差別があることを表現している。明治維新後の被差別の存在は天皇制にあることを住井すえは見抜いていた。
 明治維新前の江戸時代にあっては、差別が当たり前の身分制社会であった。人間には身分という差別があって当たり前の社会であった。なぜ、人類は身分という差別を人間社会に作り上げたのか。
 平塚らいてうは、雑誌『青鞜』の出発にあたって、創刊号に次のような文章を書いた。
 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。/さてここに『青鞜』は初声を上げた。/現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。/女性のなすことは、今はただ嘲りの笑を招くばかりである。/私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。」
 男女差別の歴史は古い。平塚らいてうは「原始女性は太陽であった」と書き、原始時代にあっては男女を差別することはなかったという歴史認識だったようだが、事実は違っている。狩猟採集の時代に男女差別の起源はあるというのが現在の歴史認識のようだ。なぜなら男が狩猟採集社会にあっても大きな力、役割を持っていたからだというのが大きな理由のようだ。人間の生存を支える大きな役割、力が差別を生んだ。
 男と女、単なる身体の違いに過ぎないものが差別になっていく。区別が差別に転化していく。区別がなぜ差別に変わっていくのか。例えば、白人と黒人、黄色人、単に皮膚の色が違うという区別に過ぎないものが差別になっていく。単なる人種の違いに過ぎないものが差別になっていく。同じ白人であってもドイツ人とユダヤ人との間には大きな隔たり、差別が生み出された歴史がある。イギリス人やドイツ人、フランス人とイタリア人、スペイン人との間には大きな言語の違いがある。民族の違いがある。この違いが差別になる。中国人、モンゴル人、朝鮮人、日本人は、みな同じ黄色人種であるが民族が違う。言語が違う。この違いが差別になっていく。区別が差別に転化していく。
 区別が差別に転化していくには、それなりの理由がある。人間の生存に必要なものを獲得するうえで大きな役割をするものが敬われる。この当然なことが身分として定着すると単なる区別に過ぎなかったものが差別になっていく。父親が有能な政治家であったからその子供が政治家として尊敬を受けるようになるとこれは差別の始まりだ。誤解される恐れがあるが、書いてみる。現在本当に有能な政治家は少ないという。なぜなら現在日本で政治家になるには、今までのキャリアをすべて捨てなければ政治家になることはできない。だから二世議員が増えていくという話を政治学者が話していた。有能な政治家の子供が有能な政治家になる素質を持っているとは限らない。北朝鮮の最高指導者の存在は封建社会の専制制度のようだ。差別制度そのものだ。
 単なる区別に過ぎなかったものに意味を与えると区別は差別に転化していく。例えば、血筋に意味を付与すると単なる人の違いが差別になる。あの人は血筋が良いとか、悪いとか、血筋に意味を与えると区別は差別になっていく。姓という血筋によって奈良時代の支配層の人々は差別されていた。もちろん、被支配層の人々は対等な人間として扱われることはなかった。
 現代社会にあっても絶えず単なる区別に過ぎないものが差別に転化していくことがある。しかし、それが差別として制度化されることはない。ここに前近代社会と現代社会の違いがある。現代社会にあっても職業の違いが差別であるような対応の違いがある。例えば医者とか、学者とか、弁護士とか人から敬われる職業人がいる一方、人から軽く見られるような職業の人がいる。職業には貴賤があるからこそ職業に貴賤はないといわれているのだろう。ただ今は父の職を息子が継いでも父と同じような扱いをうけるとは限らないのが現代であろう。丸山眞男が言うように現代は「・・である社会」から「・・する社会」に代わっているから。

醸楽庵だより   1107号   白井一道

2019-06-27 11:57:16 | 随筆・小説



 今日の新聞記事から「差別に苦しめられる人々」

 
 差別は人間を殺す。人は人の中でしか生きることができないにも、かかわらず人は人の中で差別を生み、人を殺す。日本最初の人権宣言である宣言が1922年に出されてからおよそ百年近くになるが未だに差別に怯え続ける人々がいる。今なお宣言を読み、この精神を学び、継承していかなければならない。
 宣言
全國に散在する吾が特殊民よ團結せよ。
長い間虐(いじ)められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等(なんら)の有難い効果を齎(もた)らさなかった事實は、夫等(それら)のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎(つね)に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際(このさい)吾等(われら)の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かつごうしゃ)であり、實行者であった。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價(だいか)として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦いたわる事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。
は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。
— 1922年3月3日、京都市・岡崎公会堂にて宣言

「父は死んだ」隠し続けた兄弟の苦悩  神戸新聞社 - 神戸新聞NEXT - 2019年6月26日

 親父(おやじ)は死んだ。本当は生きているのに、うそをつき、ごまかして生きてきた。
 今年2月、大阪市内で開かれた集会で、徳島県に住む柊木(ひいらぎ)博史さん(71)、茂さん(68)=いずれも仮名=が半生を振り返った。
 兄弟そろって、ハンセン病家族訴訟の原告に加わった。父、母、兄弟3人。山村で鶏を飼い、野菜を育てながら暮らした。貧しかったが、食卓はにぎやかで幸せだった。
 父の体に異変があり、1959年5月、高松市の国立療養所大島青松園に収容される。以来、一家の人生が大きく変わった。博史さん小学6年、茂さん小学3年のときだった。
 周囲の態度は一変。友達に避けられ、学校でのけ者にされた。2年後、自宅が台風の被害に遭ったのを機に引っ越した。2人は「心底ほっとした」という。母に諭され、この頃から周囲に「父は死んだ」と話すようになった。
弟の茂さんは就職しても親の話題を避けた。「病気がばれたら、たちまち仕事を失う」。恐怖感と隣り合わせだった。妻にも隠して結婚した。「隠し続けることが本当につらかった」と語る。妻には一緒に療養所を訪れたとき、打ち明けたが、妻の両親には言い出せなかった。今も妻の実家の墓参りに行くたびに、手を合わせ、うそをついていたことをわびる。
 85年、長男の博史さんが二世帯住宅を建て、父を引き取った。だが、病気は絶対に知られてはいけない。父は近所づきあいをすることはなく、2階で過ごした。住民票は大島青松園のままだった。住所を移して、役所の人に病気がばれてしまう恐れがあるからだ。
 病気になっても我慢し、受診が必要なときは、車と船を乗り継いで療養所に向かった。2005年、父は体調を崩し、大島青松園で他界する。87歳だった。
 父は遺体となって、車で帰ってきた。車に大島青松園の文字はなく、博史さんはほっとすると同時に、感謝した。
 最後まで父の病気を隠し通した。「一番つらかったのは、もちろん親父。でも家族も同じように偏見差別に苦しんできた」。博史さんは自分も死ぬまで背負っていかなければならない、と思っている。
 弁護団の大槻倫子弁護士(兵庫県弁護士会)は、家族の病気が知られ、崩壊してしまったケースをいくつも見てきた。差別被害は今日に続き、若い世代にも連鎖していると実感する。
 昨年12月、熊本地裁でこう意見陳述した。「結婚後に親の病歴が知られ、たちまち離婚に至るケースが後を絶たない。予想をはるかに超えた現実だ」
 対する国は、隔離政策による家族への被害を否定する。家族561人が国に謝罪と賠償を求める訴訟の判決は28日、熊本地裁で言い渡される。(中部 剛)

醸楽庵だより   1106号   白井一道

2019-06-26 13:35:17 | 随筆・小説



   梅が香にのつと日の出る山路哉   芭蕉 元禄七年



 芭蕉は五一歳になった。この年の十月十二日午後四時ごろ亡くなった。旅先の大坂で病にやられた。
 元禄七年春、芭蕉は野坡と両吟歌仙を興行した。その発句である。『俳諧炭俵集』の巻頭の句である。
 『三冊子』には、この句と「なまぐさし小菜葱(こなぎ)が上の鮠(はえ)の腸(わた)」を並べ「この二句、ある俳書に、梅は余寒、鮠のわたは残暑也。是を一体の趣意といはんと、門人のいへば、師、尤とこたへられ侍ると也」とある。
 「梅が香に」の句には山路の余寒が表現されているということか。
 誰でもが普段に目にしている景色の中に余寒の真実を芭蕉は発見した。重大な発見であるにも関わらずに実に軽く表現している。ここに「軽み」と芭蕉が言った俳諧理念があるのだろう。
 「のっと」という言葉に俳諧を芭蕉は表現している。「のっと」という言葉を磨いて日常の俗語を雅語にした。「のっと日の出る」と諧謔がこの句にはある。
 「軽み」と「諧謔」とを表現した芭蕉名句の一つと言える。今でもこの句を口ずさむ俳句愛好家がいる。うなずけるわけだ。三百年前に詠まれた句が今も新鮮に読むことができる。

醸楽庵だより   1105号   白井一道

2019-06-25 12:08:30 | 随筆・小説



  東アジアに平和を

 『琉球新報』2019.6.25日付社説を支持したい。

 琉球新報 <社説>
 朝鮮戦争勃発69年 終結に向け環境づくりを  2019年6月25日

 1950年に北朝鮮と韓国が朝鮮半島の主権を巡り衝突した朝鮮戦争の勃発から25日で69年となる。
 東西冷戦を背景に、西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側諸国の支援を受ける中国人民義勇軍が参戦し、3年間の戦争で数百万人の死傷者を出した。
 国連軍と北朝鮮人民軍、中国人民義勇軍の3者は53年に休戦協定に署名し休戦に至った。終戦はいまだ実現せず、平和条約も締結されていない。北緯38度線付近は軍事境界線として残り、朝鮮半島の民族の分断は続いたままだ。
 朝鮮戦争には東西のイデオロギー対立が色濃く反映された。しかし89年のベルリンの壁崩壊などにより東西冷戦は終結した。冷戦の遺物でもある朝鮮戦争の完全な終結は、当時戦争に関わった米国、ロシア(旧ソ連)、中国などにも責任がある。世界的な課題だ。
 冷戦崩壊後も、北朝鮮がミサイル開発や核実験を繰り返すなど、緊張が高まった時期があった。しかし近年は米朝首脳会談が実現し、北朝鮮が「完全な非核化」を約束したほか、昨年は南北首脳が「朝鮮半島を恒久的な平和地帯とする」とした共同宣言を発表した。今月には中国の習近平国家主席が北朝鮮を訪れ、朝鮮半島情勢を好転させるために金正恩委員長と会談した。
 これらの動きを止めてはならない。日本も含めた関係国は北東アジアの新たな平和秩序を築くためにも、さらなる努力を続け、取り組みを加速させてほしい。
 朝鮮半島の恒久平和の実現は、沖縄の過重な米軍基地負担の軽減にもつながる。沖縄の米軍基地は、常に朝鮮半島の危機と連動して存在してきた。在沖海兵隊は絶えず朝鮮半島情勢に注目し、有事に備えている。緊張が高まった際には激しい訓練を繰り返してきた経緯がある。
 名護市辺野古の新基地建設計画も、朝鮮半島に海兵隊を投入する米軍のシナリオの延長線上に位置付けられる。
 さらに、嘉手納基地や普天間飛行場、ホワイトビーチ地区といった米軍基地は朝鮮戦争で使用される国連軍基地でもある。朝鮮戦争が終結すれば、在沖米軍基地は国連軍基地ではなくなり、北朝鮮の攻撃対象から外れるだけでなく、在沖米軍基地の存在価値を低下させる。そうなると政府が「抑止力の維持」を理由に進める辺野古新基地建設の名分も説得力を失う。
 今、北朝鮮と韓国の当事国をはじめ、米国、中国、ロシア、日本などの関係国も、「脅威」や「緊張」を前提とした朝鮮半島政策を転換する時機に来ている。対話によって紛争の火種を除去する外交戦略こそが求められている。
 それによって南北の融和を一層深め、朝鮮戦争終結宣言や平和協定締結を実現する環境をつくるべきだ。日本政府による辺野古新基地建設は、そんな環境づくりに逆行する愚策と言うほかない。

醸楽庵だより   1104号   白井一道

2019-06-24 14:31:40 | 随筆・小説



   有明も三十日にちかし餅の音   芭蕉 元禄六年



 この句には「月代や晦日に近き餅の音」という異型の句が知られている。この句が発案の句か。路通が著した『芭蕉翁行状記』には「今は夢、師去年の歳暮に、ことしかぎり成べき教なるべし」とある。また、土芳の『三冊子』に「此句は兼好、有とだに人にしられて身のほどやみそかにちかき明ぼのの月、とある本歌を余情にしての作なるべし」とある。
 兼好法師の「ありとだに人に知られぬ身のほどやみそかに近き有明の月」を本歌して芭蕉が換骨奪胎した句が「有明も」の句のようだ。
 有明の月が細くなってきたなぁー、いよいよ三十日に近くなったわけだ。餅つきの音が聞こえてくるようになった。ひとり者の芭蕉にとって餅つきは他人の家のこと、自分には関係がない。故郷の家族を芭蕉は思っていたのだろう。
 江戸に出てほぼ十年、三十八歳になった芭蕉は小名木川のたもとの芭蕉庵に一人住まっていたころ、餅つきの音を詠んだ句がある。「暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉」である。侘びて住む芭蕉には、浮世の人々がする正月を迎える餅つきに縁は無い。餅搗きの音がひとり者をわびしくさせる。
 餅搗きをしない、いやできない家があった。餅搗きをする家は恵まれた家であった。餅搗きをしない者は独り者だけではなかった。大半が餅搗きなどできない家であった。餅搗きの音は憧れでもあった。

醸楽庵だより   1103号   白井一道

2019-06-23 13:10:40 | 随筆・小説



   分別の底たたきけり年の昏   芭蕉 元禄六年



 岩波文庫『芭蕉俳句集』には元禄6年に詠まれたものとして載せられている。
 芭蕉が生きた元禄時代は貨幣経済が普及していた。貨幣経済は商品経済社会が定着していたことを意味している。商品経済社会が成立していたから芭蕉の江戸深川での生活が成り立った。定期的に収入のある生活ではなかったが、俳諧の宗匠としての収入があったので生活が成り立った。食料も水も買って芭蕉は生活していた。衣類も生活用具もすべて自分で作ることなく購入するか、援助を受けることによって芭蕉の生活は成り立っていた。それを一切清算するのが年の瀬だった。
 元禄時代、江戸下町に住む町人たちにとっと年を越すことの大変さを芭蕉は自分の生活を顧みて詠んでいる。
 「分別の底」を叩くことなく年が越せたのは武士身分の者と農民だった。農民はほぼ自給自足に近い生活をしていたので町人ほど厳しい年の瀬ではなかったのかもしれない。しかし武士身分の者の生活も商品経済社会の普及によって貧困化を生んでいた。商品・貨幣経済社会の普及発展は貧富の差を拡大していた。一方に豊かな少数者が生れることは他方に貧しい多数者が生れることを意味している。
 芭蕉の俳諧を受け入れたのは年の暮の厳しさを身に沁みて分かる人々だった。

醸楽庵だより   1102号   白井一道

2019-06-22 15:59:15 | 随筆・小説



   生きながら一つに氷る海鼠(なまこ)かな    芭蕉 元禄六年


 「生きながら一つに氷る」とは、半ば死んでいるということであろう。そのような人は世の中に数多くいる。その中にあって自ら「生きながら一つに氷る」人がいる。芭蕉と同時代を生きた仏教僧、円空である。六二歳になった円空は自分の死を自覚し、生きたまま自分で掘った穴に身を修め、水や食を断って亡くなったと言われている。生きて仏になった。生きながら一つに氷って円空は生涯を終えた。
 日々厳しい農作業を厭うことなく働き続ける寡黙な農民たちを見て芭蕉は「生きながら一つに氷る」現実を見ていた。山で働く人や漁業に働く人々を見て「生きながら一つに氷る」人々を感じていたのかもしれない。
 芭蕉は台所の桶の中で「生きながら一つに氷って」いるように見える海鼠を見て、そのまま表現した。海鼠は死んでいるように見えて生きているんですなぁーと、歌仙俳諧の発句に詠んだ。ここには俳諧の心、諧謔がある。

醸楽庵だより   1101号   白井一道

2019-06-21 11:54:10 | 随筆・小説



  芹焼や裾輪の田井の初氷   芭蕉 元禄六年


 「この句、師のいはく、ただおもひやりたる句也と也。芹やきに名所なつかしく思ひやりたるなるべし」。『三冊子』。
 「裾輪の田井」とは山の付け根の日陰の田圃のことか。『万葉集』に次のような歌がある。「筑波嶺の 裾廻の田居に 秋田刈る 妹がり遣らむ 黄葉手折らな」。筑波の嶺の山すそのめぐりの田んぼの秋の稲を刈る、愛しいあの子の所へ送るもみぢを手折ろう。高橋虫麻呂の歌である。
 芭蕉は元禄六年十一月上旬、大垣藩邸を訪れ、芭蕉、涼葉と三吟歌仙を巻いた。その発句。
 山すそを巡る田んぼの初氷の中に芹が生えている。その芹の料理だ。有難い。大垣藩邸で芹焼のもてなしを受けた。この芹焼きのもてなしに芭蕉は深い思いやりを感じた。 
芹やきとは、鴨の肉を芹や蓮根と共に醤油で味付けした料理。芹はにおい消しのために使った。または熱した石の上に芹をのせ、覆いをして蒸し焼きにした料理。冬、体を温める料理の一つだった。
芭蕉の体は冷え切っていた。だからなのだろう。大垣藩邸の皆さんに深い思いやりを芭蕉は感じて詠んだ句なのであろう。