醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1314号   白井一道

2020-01-31 16:09:40 | 随筆・小説



    徒然草 第139段 家にありたき木は



原文
 家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様(ことやう)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜(おそざくら)、またすさまじ。虫の附きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅。一重なるが疾(と)く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧(けお)されて、枝に萎(しぼ)みつきたる、心うし。「一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾(と)く、をかし」とて、京極入道中納言は、なほ、一重梅をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋(や)の南向きに、今も二本侍るめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓(わかかへで)、すべて、万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも、木はもの古り、大きなる、よし。草は、山吹・藤・杜若(かきつばた)・撫子。池には、蓮。秋の草は、荻(をぎ)・薄・桔梗・萩・女郎花(をみなへし)・藤袴・紫苑(しをに)・吾木香(われもかう)・刈萱(かるかや)・竜胆(にんだう)・菊。黄菊(きぎく)も。蔦(つた)・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、さゝやかなる、墻(かき)に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくゝ、花も見馴れぬなど、いとなつかしからず。

現代語訳
 自宅に植えておきたい木は松と桜。松は五葉松も良い。桜は一重の花が良い。八重桜は奈良の都にのみあるのはこの頃のことだ。世間には増えてきている。吉野の桜、宮廷の左近の桜、皆一重のものだ。八重桜は異様なものだ。とてもごたごたしていて、曲がりくねっている。植えなくともいい。遅桜はまた時期がしっくりしない。桜の木には虫のつくのが嫌味だ。梅は白か、薄紅梅がいい。一重の花がいち早く咲き、更に紅梅の薫りが優しく、すべてに趣きがある。遅咲きの梅は桜の花と一緒に咲き、見映えが劣り、桜の花に圧倒され枝に萎み付いている様子が心苦しい。「梅は一重であるが、まずいち早く咲き、散るのことに特徴がある」と言い、京極入道中納言は、一重の梅を家の軒近くに植えられている。京極入道中納言の家の庭には南向きに、今も二本の梅が植えられている。柳の木もまた趣きのある木だ。卯月の若葉が美しい若楓、すべての花は紅葉にも優るめでたいものだ。橘、桂、いずれも木はどことなく古びた大木であるのがいい。草は、山吹・藤・杜若・撫子がいい。池には蓮の花がいい。秋の草は、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑(しをに)・吾亦紅・刈萱(かるかや)・竜胆(にんだう)・菊。黄菊(きぎく)も。蔦(つた)・葛・朝顔。いづれも丈が高くなく、こじんまりした垣根に繁茂しないのがいい。この他の世に珍しいもの、中国風の名の聞きにくい見慣れぬ花など、全然懐かしみがない。

原文
 大方、何も珍らしく、ありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。

現代語訳
 おおよそ、何も珍しく、めったにない物は、教養に欠けた人が楽しみ興ずるものである。そのような物は無くてもいいものだ。

 桜について    白井一道
 芭蕉の句に「四つ五器のそろはぬ花見心哉」がある。この句には次のような前詞がある。「上野の花見にまかり侍りしに、人々幕打ちさわぎ、物の音、小歌の声さまざまなりける傍らの松陰を頼みて」。元禄7年3月に芭蕉はこの句を詠んでいる。元禄7年10月に芭蕉は51歳で亡くなっている。この句は芭蕉の最晩年の句の一つである。満足な食器も揃わぬ上野の山で周りからは小唄の声が聞こえてくる中、松蔭の静かな場所で芭蕉の仲間は花見を楽しんでいる。元禄時代に生きた江戸庶民の花見文化を芭蕉の句は表現している。
自宅の庭に桜の木を植え、花を楽しむのが平安末期に生きた貴族の楽しみだったのが江戸元禄時代になると上野の山に庶民が集まり、それぞれ酒と肴を持ち寄り花を楽しむようになっていたことを芭蕉の句を読んで知ることができる。花見文化が庶民のものになったことを芭蕉は表現している。

醸楽庵だより   1313号   白井一道

2020-01-30 10:58:32 | 随筆・小説




   徒然草138段 『祭過ぎぬれば』



原文
 「祭過ぎぬれば、後の葵不用なり」とて、或人の、御簾(みす)なるを皆取らせられ侍(はんべ)りしが、色もなく覚え侍(はんべ)りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(すはうのないし)が、
かくれどもかひなき物はもろともに
みすの葵の枯葉なりけり
と詠めるも、母屋の御簾に葵の懸りたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさして遣(つか)はしける」とも侍(はんべ)り。枕草子にも、「来しかた恋しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語にも、「玉垂(たまだれ)に後の葵は留(とま)りけり」とぞ書ける。己れと枯るゝだにこそあるを、名残なく、いかゞ取り捨つべき。

現代語訳
 「賀茂神社の祭が過ぎてしまうと後に残った葵は不用だ」と、或る人が御簾に懸けてある葵をすべて取り払わられましたが、情緒が無くなってしまうなと思われましたが、見識ある人がなさることなのだから、このようにするべきことなのかと思われたけれど、周防内侍(すはうのないし)が、「かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり(いくら掛けても掛け甲斐のないものは御簾と一緒に見ることはない葵の枯葉なりけり)」と詠まれたのも、母屋(もや)の御簾(みす)にかけてある葵の枯葉を詠まれたわけのようで、周防内侍(すはうのないし)の歌集に書いてある。古い歌の詞書に「枯れた葵の葉にさしてこの歌をおくられた」とも伺っている。枕草子にも「昔の恋しかったもの。それは枯れた葵」と書いている事こそ、特に懐かしく思われる。鴨長明が四季物語にも「美しい御簾に賀茂祭後の葵が残っている」と書いている。自然に枯れていくことにさえ惜しまれるのに、名残なくいかに取捨てることができようか。

原文
 御帳(みちやう)に懸(かか)れる薬玉(くすだま)も、九月九日、菊に取り替へらるゝといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮(びはのくわうたいこうくう)かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ根をなほぞかけつる」と辨(べん)の乳母(めのと)の言へる返事に、「あやめの草はありながら」とも、江侍従が詠みしぞかし。

現代語訳
 御帳(みちやう)に懸けてある薬玉も、九月九日に菊に取り換えられるというのなら、菖蒲は菊の節句までもあるべきだと枇杷皇太后宮(びはのくわうたいこうくう)が亡くなられた後、古い御帳(みちやう)の中に菖蒲・薬玉などの枯れているのを見て「季節外れの根が今なお掛けられている」と辨(べん)の乳母(めのと)が言った返事に「あやめの草はありながら」とも、江侍従がよんで居る。

 葵祭について    白井一道
 石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行われ、にわか雨に濡れることが多い。
葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。
    『ウィキペディア(Wikipedia)』より

醸楽庵だより   1312号   白井一道

2020-01-28 10:45:52 | 随筆・小説



   徒然草137段 『花は盛りに』



原文
 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

現代語訳
 桜の花は満開の時に、月は満月の時にのみ愛でるものなのだろうか。雨を見て月を想い、春雨に閉じ込められて春の行方がおぼつかないのも、なお哀れの情が深いものだ。咲きかけの桜の梢、桜の花の散り萎れた庭などにこそ見所は多い。和歌の歌書にも「花見に行ってみると早く散り過ぎているので」とも、「都合が悪くて花見に行けなかった」などと書いてあるのは「花を見て」と書いてあるのと比べて劣っているのであろうか。花の散り、月の欠けていくのを慕う習いは当然のこととして、殊に頑固な人は「この枝、かの枝の花は散ってしまった。今は見るものがない」などと言っている。

原文
 万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。

現代語訳
 万の事も始めと終わりにこそ面白みがある。男女の情も、偏に逢い見ることだけを言うのだろうか。逢うことができない哀しみを思い、儚い契りを嘆き、長い夜を一人で過ごし、遠くに浮かぶ雲に思いを寄せ、浅茅の生い茂る荒れ果てた家で昔を偲ぶことこそが色好みというものだ。満月の隈なきを千里離れた所から眺めているよりも、明け方近くまで待って出てくるのが、とても心に深く青いように見えて、深山の杉の木の梢に見えている木の間の月の光やさっと時雨れているむら雲にちょっと隠れたほど月のようすがこの上なくしみじみと心に沁みる。椎柴・白樫などの濡れているような葉の上にきらめいていることこそが身に沁みて、心ある友がいたくれたらなぁーと、都が恋しく感じられることだ。

原文
 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本(もと)には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。

現代語訳
 およそ月や花はそうむやみに目だけで見るものなのだろうか。春は家の中にいても、月の夜は閨の中にいても月を思い描けることこそがとても頼もしく興味深い。桜の花のよい鑑賞者は一途に好いているようにも見えず、桜の花を見て興ずる様子も普段と変わらない。片田舎の人こそが色濃く大騒ぎをして興ずるようだ。桜の花の傍に近寄り、顔を赤らめることもなく酒を飲み、連歌を楽しみ、果ては大きな木の枝を心なく折り取る。泉には手足を浸して、雪の上には下り立ちて跡付けなど、いろいろな事を遠くから見ることがない。

原文
 さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰(きもつぶ)るゝやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾(すだれ)張り出でて、押し合ひつゝ、一事も見洩(みもら)さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。

現代語訳
 そのような人々の加茂祭見物の様子はとても珍妙なものだ。「行列の来るのが遅いよ。行列が来るまでは桟敷にいてもしょうがない」と、奥の部屋に戻り、酒を飲み、肴をつまみ、囲碁・双六などの遊びをして、桟敷に置いて来た人が「行列が出て来た」という時には、各々肝をつぶすかのように争い走り桟敷に昇り落ちそうなところまで簾を張り出し、押し合いつつ一つも見逃さぬよう血眼になり「ああだ、こうだ」と出し物ごとに言い、行列が通り過ぎると「また行列が来るまで」と言って、下りてくる。ただ出し物だけを見ようとしている。都の人の奥ゆかしげな振る舞いは居眠りなどしていて見ない。若い下々の者は宮仕えのように立ち居振る舞い、主人の後ろに控えているのは、見た目も悪いようなことはせず、無理に見ようとするような人はいない。

原文
 何となく葵(あふひ)懸(か)け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

現代語訳
 何気なく葵の葉の掛け渡してあるのがあでやかで美しく、夜が明けてくるにしたがって、静かに寄せて来る牛車などのゆかしさを、それは誰のものであるのかと、それもこれもと思いいたすと、牛飼いや下部の者などに見知れるものがいる。興味深く、きらびやかであり、想像はさまざまに行き交う。見ていて飽きることがない。日が暮れてくるにしたがって、立ち並んでいる牛車ども、立錐の余地なく並んでいる人も、どこに行くのか、ほどなく疎らになり、牛車などの帰りを急ぐ慌ただしさがなくなると簾、畳も取り払われ、目の前が寂しくなっていくことほど、世の例も思い知られて哀れ深い。都大路を見てこそ、賀茂祭を見たと言えるのだ。

原文
 かの桟敷の前をこゝら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻(ひさ)く者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(しご)なり。今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(しば)しも世をのどかには思ひなんや。継子立(ままこだて)といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜(かれこれまぬ)き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石(すゐせき)を翫(もてあそび)びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。

現代語訳
 この桟敷の前を行ったり来たりするたくさんの人の中に見知った人が数多くいることで分かることがある。世の中の人はそれほど多いというわけではない。これらの人々が皆、いなくなった後、私が死ぬと決まっていたとしても、程なく私は死ぬことになろう。大きな器に水を入れて、小さな穴をあけたとしたら滴る水は少しかもしれないが、途切れることなく水漏れしていくならやがて水は無くなる。都には多くの人がいるが、人が死なない日はない。日に一人や二人ではない。鳥部野・舟岡、更に野山にも人を送る日はあるが、人を送らない日はない。だから棺桶を商う者、棺桶を作って置いておく間もない。若くても、強い者でも思いもかけずに来るものが死期というもの。今日まで死から逃れてこられたのは有難い不思議なことだ。いっときもこの世を長閑に先の長いものと思えようか。継子立(ままこだて)という遊びを双六の石で作り、並べている間はどの石がとられるのかは分からないが数え当て、一つの石を取り上げると、その他の石は取られるのを逃れられたと思えるが、またまた石を数えるなら、かれこれ石が抜かれていくとどの石も逃れることはできない。兵が軍に出兵されるのは死が近いことを知って、家族をも忘れ、自分をも忘れる。世を遁れた草庵では静かに泉水や庭石を眺めて、死が忍び寄っていることを他人事のように思っているのは実にはかないことである。静かな山の奥にも無常という敵が競いやって来ている。その死に臨めることは軍の陣中を進めていることと同じである。

醸楽庵だより   1311号    白井一道

2020-01-27 12:27:01 | 随筆・小説



   徒然草136段 『医師篤成、故法皇の御前に候ひて』



原文
 医師篤成(くすしあつしげ)、故法皇(こほふおう)の御前に候ひて、供御(ぐご)の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草(ほんさう)に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府(ろくでうのこだいふ)参り給ひて、「有房(ありふさ)、ついでに物習ひ侍らん」とて、「先(ま)づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏(へん)にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏(どへん)に候ふ」と申したりければ、「才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみに成りて、罷り出でにけり。

現代語訳
 典薬頭(てんやくのかみ)、和気篤成(わけのあつしげ)は故法皇(こほふおう)の前に伺い、故法皇のお膳が持ってこられたときに、「今、持ってこられたお膳の品々の名称と効能を尋ね下さり、更に申しあげれば、薬草の書籍を開き、お調べになられた。一つも誤ったことを言われなかった」とおっしゃられた、ちょうどその時、源有房右大臣がお見えになり、「有房(ありふさ)、ついでに教えてもらいたい」と、「まず『しほ』という文字の偏は何偏でしたか」と、問われた時に「土偏でございます」とおっしゃられたので「才能のほどがすでに明らかになった。もう結構でございます。もう知りたいことはございません」とおっしゃられると、一座の者たちは大笑いとなり、医師篤成(くすしあつしげ)は帰ってしまった。

  
 万能薬であった塩    白井一道

 昭和44年(1969)に編集された「塩俗問集」(渋沢敬三編)に塩水、塩油、塩茶を飲めば、胃腸によい。便通にも下痢にも良い。泥酔や宿酔にも良いと言い伝えられている。
関東や東北地方では、塩で傷口を洗うと化膿しないや、毒虫に刺されたとき塩で洗うと良い。子供の頃、口の中の傷や喉の悪いとき塩水でうがいをしなさいとも書かれています。
塩療法には焼いたり煎ったりして使う方法や熱した塩を布や袋で包み、冷えるところや痛むところに置いたり、腹痛や腰痛などの患部にあてると効果があり「塩温石(じゃく)」と呼び、湯たんぽや懐炉のように使われていたそうです。塩は万能であった時代があった。

塩は波の花
長野県では苦汁(にがり)のまじっていない塩を「真塩・ましお」と呼んだり、高知県では海水を「大潮」というのに対して、塩を「コシオ」と称したり、山梨県の身延町では塩を「海の実」と呼んだりします。また栃木県では「キヨメ」、静岡県韮山地方では「ウチマキ」などと呼ぶところもあります。
花柳界では塩を「波の花」と呼びますが、「塩俗問答集」によると夜間の忌(い)み言葉として「波の花」と呼ばせたそうです。古くは夜間に塩の名を口にするときには、ヤマイヌやオオカミなどに気付かれないように心配りをし「波の花」といい換えたのだそうです。
また“しおれる”を嫌ってともあります。冬の日本海の強風で波の荒い日に岩に打ち寄せた波が、白い泡となって雪のように舞う情景から「波の花」とも呼んでいます。この「波の花」は、冬の風物詩となっています。

塩を知らずに生きる人
台湾山地のタイヤル族は塩を知らず、塩分は食塩を添加するのではなく、他の食品中に含まれる物で摂り塩味が欲しいときは、山にある植物の実や葉から得たり、魚や獣の内臓などで漬けた“なれずし”を作り、獲物の中のミネラルを100%、利用したとあります。
日本では、アイヌの人々は塩を必要としなかったと、瀬川清子の「村の女たち」に書かれています。粟に坐禅草(トレブ・ブクサ)を鍋に入れ、鹿の肉を少し入れて煮ることで塩がなくてもよかったと記されています。
また、塩の入らぬ昆布だしばかりで肉も魚も塩なしで食べていたともありますが、浜の漁場で和人が塩をつけるのを見て、川にのぼってきた鮭を塩したり干したりして塩を知ったと、書かれています。
  東京ソルト株式会社「塩コラム」から


醸楽庵だより   1310号   白井一道

2020-01-26 10:09:56 | 随筆・小説



  徒然草135段 『資季大納言入道とかや聞えける人』



原文
 資季大納言入道(すけすゑのだいなごんにふだう)とかや聞えける人、具氏宰相中将(ともうじのさいしやうちゆうじやう)にあひて、「わぬしの問はれんほどのこと、何事なりとも答へ申さざらんや」と言はれければ、具氏(ともうじ)、「いかゞ侍らん」と申されけるを、「さらば、あらがひ給へ」と言はれて、「はかばかしき事は、片端(かたはし)も学び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごとの中に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉らめ」と申されけり。「まして、こゝもとの浅き事は、何事なりとも明らめ申さん」と言はれければ、近習の人々、女房なども、「興あるあらがひなり。同じくは、御前にて争はるべし。負けたらん人は、供御をまうけらるべし」と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、「幼くより聞き習ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう』と申す事は、如何なる心にか侍らん。承(うけたまは)らん」と申されけるに、大納言入道、はたと詰りて、「これはそゞろごとなれば、言ふにも足らず」と言はれけるを、「本(もと)より深き道は知り侍(はんべ)らず。そゞろごとを尋ね奉らんと定め申しつ」と申されければ、大納言入道、負になりて、所課(しよくわ)いかめしくせられたりけるとぞ。

現代語訳
 資季大納言入道(すけすゑのだいなごんにふだう)とかと申されている人が具氏宰相中将(ともうじのさいしやうちゆうじやう)に向かって、「あんたが疑問に思っていることなら何事であっても答えてつかわすぞ」と言われたので、具氏(ともうじ)は、「さぁーどういたしましょう」と申したところ、「それなら言い争いはどうか」と言われて「本格的な学問のことは満足に学んでおりませんのでお尋ねできるわけもありません。なんということもないつまらないことの中のはっきり分かっていないことをお尋ねしたいと思います」とおっしゃった。「ましてや、私の教養の不十分さは、何事についても明らかでございます」と言われると、お付の人々、女房などにも「興味深い質疑応答である。同じように天皇の前で質疑応答された方がよろしい。負けてしまった人はご馳走を準備するべし」と約束して、天皇の前に呼びだされたところ、具氏(ともうじ)は「幼き頃より学び習っておりますけれどもその意味が分かっておりません。『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう』と言われていることは、どのような意味なのでしようか。お教え下さい」と申されたところ、大納言入道ははたと困り「これは些細なことなので説明するまでもないことだ」と言われたところ、「もとより深い意味を知っているわけではない。些細なことをお尋ね申し上げると決めてお尋ね申した」とおっしゃられたので大納言中将は負けになり、約束の供御、ご馳走を振舞われたと言う事だ。


大王製紙107億円を超えるスペイン公爵家3590億円お家騒動
創業者の孫の前会長・井川意高氏(47)が107億円もの借り入れをし、結局辞任することになった『大王製紙』。子会社から前会長への無担保貸し付けが始まったのは2010年5月。記録にはカジノ関連会社(米・ラスベガス)への直接振り込みもあったという。前会長はこれを否定しているが、今後は東京地検の捜査に委ねられる。しかし、世界にはもっとまさに桁違いなニュースがあった。
スペインでは、40以上の貴族の称号を持つアルバ公爵家の当主であるアルバ公爵夫人(85)はふたりの夫と死別、年下の公務員・アルフォンソ・ディエスさん(61)との3度目の結婚を望んだが、6人の子供は「金目当ての結婚だ」と大反対。女公爵が全財産3590億円を家族に生前贈与することで決着し、15世紀に建てられた館(セビリア)で10月5日、無事挙式した。
フランスの大手化粧品『ロレアル』創業者のひとり娘で、世界富豪ランキング15位のリリアーヌ・ベタンクールさん(89)。「母は認知症だ」との長女・フランソワーズさん(58)主張が認められ10月17日、長女とふたりの孫を1兆円超の資産管理の成年後見人にすることを裁判所が認めた。「私は正常だ」と母親は主張していたが…。

※女性セブン2011年11月17日号より

醸楽庵だより   1309号   白井一道

2020-01-25 10:44:22 | 随筆・小説



   徒然草134段  『高倉院の法華堂の三昧僧、』



原文
 高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、或時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくゝ、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

現代語訳
 高倉上皇の法華堂で法華三昧の修行をする何某の律師とかいう僧侶がある時、鏡を取り上げ顔をつぐくと見て、わが顔の醜く見っともないことがあまりにも辛かったので鏡までも遠ざけたく思い、その後長い間、鏡を恐れて手にさえ取らず、更に人と交わることがなかった。法華堂での勤行ばかりに精進し、籠っていると聞いた事ほど好ましいと思ったことはない。

原文 
 賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理あるべからず。されば、己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず。心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず。行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外(ほか)の譏(そし)りを知らず。但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退(しりぞ)かざる。老いぬと知らば、何ぞ、閑(しず)かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、茲(これ)を思ふこと茲にあらざる。

現代語訳
 賢そうな人も人の身の上ばかりを推し量り、自分のことが分かっていない。自分を分かっていないのに人の事がわかるという道理はない。だから自分を分かっている人を物知れる人というべきだ。自分の顔かたちが醜いのも分からないし、心が愚かであるのも分からないし、芸がまずいのも分からないし、自分の存在が身の数にも入らないのも分からないし、年老いているのも分からないし、病に侵されているのも知らないし、死が近づいているのも分からない。仏道修行が未熟であるのも分からない。我が身の欠点が分からないとなると、いよいよ他人の我が身についての悪評が分からない。ただし、顔かたちは鏡で見えるし、年は数えれば知ることができる。我が身の事を知らないわけではないけれども、知っていても何をしたら良いのかが分からなければ、知らないのと同じことだ。顔つきを改めろ、年を若くしろと言っているのではない。自分が拙い存在だと言う事が分かれば、どうして退こうとしないのか。老いたと分かればどうして静かに過ごし、安楽しようとしないのか。修行がまだ未熟だとわかるならどうして修行に集中できないのか。

原文
 すべて、人に愛楽(あいげう)せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくゝ、心おくれにして出で仕(つか)へ、無智にして大才(たいさい)に交はり、不堪(ふかん)の芸をもちて堪能(かんのう)の座に列り、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚(こ)ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪(むさぼ)る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命を終ふる大事、今こゝに来れりと、確かに知らざればなり。
現代語訳
 何もかも人に受け入れられないまま人中に出るのは恥ずかしいことだ。姿かたちが醜く、思慮に欠け、智恵もなく優れた人と交わり、下手な芸をもって優れた仲間に加わり、白髪頭をして人気のある人と並び、況や、自分の芸が及ばないことを思い、自分の望みがかなわない事を残念だと思い、決して自分には拍手喝采が来ることがないのにくることを待ち、人を恐れ、人に媚びることは、人から与えられる恥じとは思わず、拍手を貪る気持ちがいっぱいになり、自ら恥をかくことになる。かなわぬことを願う気持ちが無くならないのは命を失うほどの大事だ。現状が確かに分かっていないからだ。

醸楽庵だより   1308号   白井一道

2020-01-24 12:30:36 | 随筆・小説



   徒然草133段  『夜の御殿は、東御枕なり』



原文
 夜の御殿(おとど)は、東御枕(ひがしみまくら)なり。大方、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首(こうしゅ)し給へり。寝殿のしつらひ、或は南枕、常の事なり。白河院は、北首(ほくしゅ)に御寝(ぎょしん)なりけり。「北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拝(えうはい)
は、巽に向はせ給ふ。南にはあらず。

現代語訳
 天皇の夜の寝所の枕は東である。大方は東を枕として自然の動き出す気を受けるために孔子も枕を゜東側に置かれた。寝殿の造作、或いは南枕が一般である。白河院は寝間を北枕にしていた。「枕を北に置くことは避けるべき事だ。また伊勢は南にある。伊勢の皇大神宮の御方角に足を向けるのはいかがなものであろう」と、人が言っている。ただし、皇大神宮の遥拝は東南に向かって行う。南向きではない。


 大安吉日に天皇制はある   白井一道
 「大安吉日がある以上、天皇制はなくならない」と、日本史の先生が話したことを鮮明に覚えている。その意味を当時の私は理解することができなかった。大安吉日と天皇制とがいかなる関係にあるのか、私には理解できなかった。
 『資本論第一巻』の中に「商品の呪物性と崇拝」について論じている部分がある。この部分を読み、「大安吉日がある以上、天皇制はなくならない」という言葉の意味が理解できたように思ったことがある。マルクスは商品に呪物性を発見した。資本主義社会に生きる人間は商品の呪物性に縛られて生きている。同じように天皇制下に生きる日本人は天皇制という呪物に縛られているから天皇制はなくならない。天皇を呪物として日本人は千年以上も崇拝し続けて来た歴史がある。天皇が人間宣言をしてからまだ70年ほどの歴史しかない以上、まだまだ我々日本人の天皇崇拝は続いて行くのではないかと思う。天皇制とは一種の呪物崇拝に基づいたものであることを端的に述べた言葉が「大安吉日」の存在ということなのだ。「大安吉日」とは呪物崇拝の賜物なのだ。仏滅の日に結婚式と披露宴をする者はほとんどいないという。中には仏滅の日の結婚は安くできるのでわざわざ仏滅の日を選んでに結婚式をする若者がいるという話を聞いたことがある。大安吉日の呪物崇拝から解放された若者なのであろう。
 「日を見る」、「方角を見る」、このようなことが一種の呪物崇拝であるということについて気付いていない。呪物崇拝に従うことが心を安定させることだと考えていると言う事なのであろう。

醸楽庵だより   1307号   白井一道

2020-01-23 10:44:28 | 随筆・小説



   徒然草132段  『鳥羽の作道は、』



原文
 鳥羽の作道(つくりみち)は、鳥羽殿建てられて後の号(な)にはあらず。昔よりの名なり。元良親王(もとよしのしんわう)、元日(ぐわんにち)の奏賀(そうが)の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部王(りほうわう)の記に侍るとかや。

現代語訳
 京都市下京区九条の四つ塚から上鳥羽・下鳥羽に通ずる大道は、鳥羽殿が造られて後の名称ではない。昔からの名称である。元良親王(もとよしのしんわう)の元日の奏賀(そうが)の声が甚だ殊勝にして大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるという。李部王(りほうわう)の記に書いてあるとか。
      
 「公金私物化は「桜を見る会」だけじゃない!? 安倍家の故郷、日本海側の過疎地・長門市を貫く巨大橋梁「安倍道路」! 下関市では安倍関連企業が次々に公共事業を落札! 」2019.12.6    iwj
(取材・文:ジャーナリスト横田一)
 安倍首相主催の「桜を見る会」へ自身の後援会850人を招待したことで「公的行事の私物化」「税金の流用(目的外使用)」といった批判が噴出している安倍首相(山口4区)だが、地元への公共事業優先的配分もまた不公平なアベ政治の一つといえる。

 山口県内を東西に横切る高速道路には「山陽自動車道」と「中国自動車道」があるのに、三本目となる「山陰自動車」(山口県下関市〜鳥取市)が建設中など、他の地域に比べて突出したインフラ整備が進んでいるのだ。
 しかし日本海側の過疎地域を通る「山陰自動車道」は費用対効果が低く、山口県内の全長115キロのうち、開通区間は「萩三隅道路」(長門市~萩市)と「俵山道路」(長門市)の20キロのみ。残りの約8割の90キロ以上で建設が進まなかった理由は、安倍家の故郷・長門市を走る「安倍道路」とも呼ばれる両区間(萩三隅道路と俵山道路)を走ると一目瞭然。一帯は人口も交通量も少ない山間部で、巨大な橋梁やトンネルが続くため、建設費は20キロ強で約950億円(キロ当たり約46億円)にも達する。
 安倍首相は長門市で「山陰自動車道は必要でしょうし、インフラ整備、基礎的な基盤をつくっていくも政治家の大きな使命」と公言したが、未開通区間95キロを建設するために推定で4千億円以上の税金投入が必要になるのだ。
 「安倍道路」から開通した山陰自動車道だけではない。安倍首相の地元・下関と麻生太郎財務大臣の地元・福岡県北九州市を結ぶ「下関北九州道路」(第二関門橋)の別名は、「安倍麻生道路」。
 参院選で落選した塚田一郎・元国交副大臣(新潟選挙区)が忖度をして調査費をつけたことで一躍有名になったが、推定総事業費は橋梁で約2000億円、関連道路を入れると約3000億円にも及ぶ。「山陰自動車道全面開通」と「下関北九州道路」の両事業をあわせて7000億円以上の税金が投入されようとしているのだ。

 安倍首相が就任以来、山口県の公共事業は膨らみ続け、2016年には民主党時代の3倍、全国平均や人口が倍異常の隣の広島県を大きく上回っている。

醸楽庵だより   1306号   白井一道

2020-01-22 12:25:31 | 随筆・小説



   徒然草131段 『貧しき者は』



原文
 貧しき者は、財(たから)をもッて礼とし、老いたる者は、力をもッて礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。

現代語訳
 貧しい者は財貨を出すことが礼だと心得、老いた者は力仕事をすることが礼だと心得る。己の分際をわきまえ、出過ぎたと思ったときは直ちに止めることが賢いということであろう。受け入れ難いことは人の間違いだ。分をわきまえず無理して励むことは己の間違いだ。

原文
 貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。

現代語訳
 貧しいにもかかわらずに分相応のことをしないでいると盗みをするようなことになるし、老いて力が衰えているにもかかわらず力仕事をしていると病気になる。

  自画像を描く画家、ゴッホ   白井一道
 ファン・ゴッホは10年ほどの画業の中で、パリに移住して以降約37点の自画像を描き残している。ゴッホが自画像を描いた理由として、「彼がモデルを雇う金がなかったため、手っ取り早く自身を描くことにしたというものと、まず自画像を描くことで他人の肖像画を上手く描けるようになるための習作としたという理由が考えられている。また、パリ移住以前の自画像がないのは、像が映るほどの大きさの鏡を持っていなかったためとされている」と『ウィキペディア(Wikipedia)』は説明している。この理由は外的理由に過ぎない。ゴッホが自画像を描いた理由は自分を知りたいためであった。いくら描いてもゴッホは自分を知る事ができなかった。描けば描くほど自分の存在が分からなくなった。だから37点もの自画像を描き残した。
 絵を描かずにはいられない自分とは何なのか。なぜそんなに絵を描きたいのか。俺の顔には何が表現されているのか、それを知りたい。俺は今、端正なものを求めているのか。俺の顔もなかなか端正なものじゃないか。薄暗い光の中でパイプを咥え、煙草を吸っている俺の顔の中にある真実とは何なんだ。それが知りたい。この薄暗い光の中では私の顔の真実は表現できていないな。俺はもっと明かりを求めている。明かりだ。明かりだ。明るい太陽の光の入る部屋で絵を描く俺の顔には何があるのか。部屋の明りの中で、その明かりに太陽の光を感じているのか、太陽の明り、いや光を探し求めている俺の顔がある。その明かりを得た。この自画像に表現されているのは明かりだ。ああ、今俺が探し求めているものは光なんだ。この光を表現したい。
 ガス灯の明りの中で「ジャガイモを食べる人々」の顔に当たる明かりには人間の生きる喜びがあるな。あの明かりではない太陽の光の中に人間の真実があるように感じる。太陽の光だ。太陽の光の中に人間の真実はあるに違いない。もっともっと太陽の光を求めているのが俺の顔なんだ。俺の目は何をじっと見ているのか。目が輝いているじゃないか。この目だよ。この目を表現したいのだ。俺は太陽の光を求めている。光を求める目をしている。この目なんだ。
 「黒いフェルト帽を被る自画像」だ。太陽の光があたる俺の左側の顔には生気が宿っているが顔の右側には深く沈んだ気持ちが表現されているじゃないか。光は人間の心を表現する。光だ。光を求めて南仏に行こう。日本の浮世絵のこの明るさはなんだ。太陽の光がこのような絵を生んだに違いない。日本にある太陽の光を求めて南仏に行こう。
 冬の光と夏の光では柔らかさが違うな。太陽の光がその真価を発揮するのは夏の太陽の光だ。夏の太陽の光を求めて南仏に行こう。太陽の光を表現できるものは「ひまわり」だ。ヒマワリを描こう。ひまわりを描くには夏だ。夏の太陽の光を描きたい。夏の太陽の光に当たる俺の顔を描こう。夏の太陽の光を表現したい。夏の太陽の光に人間が求めるものがあるに違いない。人間は誰でもが夏の太陽の光を求めているのだ。夏の太陽の光の中にいるとじっとしていることができない。描かなければならない。今、この光を描かなければならない。光は絶えず移ろうものだ。この光を求めて止まない俺の顔を描いておこう。
 己を知るためゴッホは自画像を描いた。

醸楽庵だより   1305号   白井一道

2020-01-21 11:25:47 | 随筆・小説



   
  徒然草130段『物に争はず、』



原文
 物に争はず、己れを枉(ま)げて人に従ひ、我が身を後にして、人を先にするには及かず。

現代語訳
 物事を争うことなく、言いたいことを控え人に合わせ、自分を後にし、人に譲るに越したことはない。

原文
 万の遊びにも、勝負(かちまけ)を好む人は、勝ちて興あらんためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更に遊びの興なかるべし。人に本意(ほい)なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背けり。睦(むつま)しき中に戯るゝも、人を計り欺きて、己れが智のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これみな、争ひを好む失なり。

現代語訳
 あらゆる遊びで勝ち負けを好む人は、勝ち誇るためだ。自分の芸が優れていることに喜ぶ。だから負けて喜べないことがまた分かっている。自分が負けて人を喜ばすのかと思うと更に遊びに面白さがない。人に嫌な思いをさせ、自分だけ楽しい思いをすることは人の道に背いている。親しい仲で楽しく遊んでいる最中に人を計り欺いて自分の智謀の優れていることを楽しむ。これはまた礼に背いている。だから初めは楽しい付き合いであったことが長い間には恨みになることが多いようだ。これは皆、争いを好む欠点だ。

原文
 人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐(ほこ)らず、輩(ともがら)に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ、学問の力なり。

現代語訳
 人より勝ろうと思うなら、ただ学問をして学んだことを人にも学んでもらおうと思うことだ。人の道に従うなら自分は善いことをしているというような事を誇らず、仲間と争うような事をしてはならないと言う事に気付きべきなのだ。大事な職をも辞し、利殖を求めない事ができるのは学問の力である。

 真実を求めるということ  白井一道
 2020年1月3日、米軍無人機、ドローンがバグダッド国際空港近くでイラン革命防衛隊コッズ部隊のカセム・ソレイマニ司令官らを殺害した。ワシントンでテレビゲームをしているかのようにドローンを飛ばし、イラン革命防衛隊ソレイマニ司令官を爆殺した。アメリカ政府は人道に反する殺人を正々堂々白昼の犯罪を犯した。イラン政府は当然のこととして反撃、報復を宣言した。
 1978年から始まったイラン・イスラム革命以来、アメリカとイランとの間では緊張状態が継続している。1979年にはイランアメリカ大使館人質事件が発生した。アメリカ政府はイラン・イスラム政権を倒すべく、イラクを支援して1980年から1988年まで戦争をした。がしかし、イラン・イスラム政権を打ち倒すことはできなかった。イラクのサダム・フセイン政権はアメリカ政府の意志に反し、1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これを契機に湾岸戦争からイラク戦争へと継続していく。基本線はイラン・イスラム政権をアメリカ政府は打倒することであった。
 しかし、イラン・イスラム革命以来、40年間、現在に至るまでアメリカ政府はイラン・イスラム政権を倒すことができずにいる。いよいよアメリカ政府軍が中近東地域から撤退せざるを得ない状況になってきたというのが現実のようだ。
 イラン政府はイラクアメリカ政府軍基地にミサイルを撃ち込む報復攻撃をした。イラク政府はアメリカ軍のイラクからの撤退を議決した。アメリカ政府はイラクから軍を撤退させないと言っているが、イラクのアメリカ政府軍司令官は撤退を指示しているようだ。孫崎享さんの話によるとアメリカ軍兵士たちはイランからのミサイル砲撃に恐れ慄き、打ち震え、兵士として使いものにならない状況にあるのではないかと話していた。トランプ大統領は逆にイラン政府がアメリカ軍を恐れていると言っている。