遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『折れない言葉 Ⅱ』  五木寛之  毎日新聞出版

2023-09-10 22:32:29 | 五木寛之
 8月半ばに『折れない言葉』を読み、その読後印象を記した。このエッセイ集の第二弾が出ているのを知り読んでみた。『サンデー毎日』(2015年5月~2023年1月)に連載されたものをまとめて、今年(2023年)の2月に、新書サイズの単行本として刊行された。

 形式は第1作と同様に、見開きの2ページで、エッセイの一文がまとめられている。冒頭に「折れそうになる心を支えてくれる言葉」を掲げ、それに続けて著者の考えや思いがエッセイとして記されている。知っている名言や章句もあれば、全く知らなかった人の言葉もあり、バラエティに富んでいて、また少し視野が広がった思いがする。

 「まえがき」の次のパラグラフが、この手の本の本質を語っている。
「ギリシャ、ローマの古典にも、CMのコピーにも、どうでもいい歌謡曲の文句にも、折れそうになる心を支えてくれる言葉はある。同時にくだらない格言、名言も多い。しかし、その言葉を生かすも殺すも、たぶん受け取る私たちの側の姿勢にかかっているのではないだろうか。」(p3)
 取り上げられた言葉とその言葉について考える著者のエッセイ。著者の視点を参考にして、己に有益なものがいくつかでも得られれば読む意味は十分にある。私にとっては、今まで知らずにいた言葉、役立ちそうな「折れない言葉」をかなりゲットできた。また、知らなかった事柄を知る機会にもなった。
 たたえば、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というのは知っていたが、第1章に出てくる「危ない橋も一度は渡れ」(p18-19)という言葉は知らなかった。この章に出てくる、「昔からカマキリのメスは交尾を終えたあと、オスを食い殺すと言われている」(p30)ということも初めて知った。ほう、そうか・・・・、という感じ。ソクラテスの「人生の目的は魂の世話をすることだ」(第2章、p72-73)も本書で知った。著者が、そこに、「私はもう一つ考えることがある。それは『人生の目的は体の世話をすることだ』ということだ」(p73)を付け加えている。これは人生百年時代を反映していておもしろい。第5章では、「人のふり見てわがふり直せ ことわざ」を取り上げている。だが、ここの本文ではこの言葉からの連想なのだろうが、「うぬぼれ鏡」を題材にしたエッセイに終始している。「うぬぼれ鏡」という言葉自体、私は初めてここで出くわした。こんな調子でいろいろ楽しめた。

 この第2集は、次の5章で構成されている。各章に少し付記する。
第1章 やるしかないか
 「漠然とした不安は立ち止まらないことで払拭される 羽生善治」が取り上げてある。(p22,23) 著者は、末尾に「金縛りに遭って自失するより、まず動くことを推める。立ち止まらない。実戦に裏づけられた現代の至言といえるだろう」と記す。章題はここに由来すると受けとめた。孫子から3つの章句が取り上げられ、なるほどと思う問題提起を著者がしている。「転石苔を生ぜず ことわざ」では、著者は「私はこれまでずっと反対の意味に解釈していたのである」と記し、この諺の意味を語る。エッセイ文には触れられていないが、調べてみると、もとはイギリスのことわざのようだ。

第2章 どうする、どうする
 最初の言葉が、「どうする、どうする」で、これは明治の若者たちのかけ声だという。知らなかった。明治30年代に「どうする連」という若者、学生の生態が注目を集めたとか。末尾で著者は「時代は変わり、世代は変わっても、『どうする、どうする』の声は消えない」と断じている(p57)
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い ことわざ」に対して、現在の世界情勢に触れ、坊主と袈裟の区別、冷静な対処の必要性を説く。
 現代の日本社会に警鐘を発する言葉が多く取りあげられている。多々考えさせられる。 たとえば、「逃げるが勝ち ことわざ」に対するエッセイの末文は、「しかし、逃亡の道を持たない島国の民はどうすればいいのか。『逃げるが勝ち』は、大陸の論理かもしれないと、あらためて思う」(p61)と。

第3章 悲しい時には悲しい歌を
 この章の最後に、「寂しい音楽からも力はもらえる 田中宏和」に続くエッセイの最後で少年時代の外地での難民生活体験に触れる。その時から「『悲しい時には悲しい歌を』というのが、私のモットーとなった」(p147)と記す。章題はここに由来するようだ。
 「歌は世につれ 世は歌につれ ことわざ」に続くエッセイでは、童謡「里の秋」の背景が語られている。この童謡は知っていたが、その背景を初めて知った。歌詞の三番、四番は改作されているが、元は戦時色をおびた歌詞だったのだ。元の歌詞が紹介されている。この名歌はまさに「歌は世につれ」の通り、歌詞が改作されていたのだ。
 「喪失と悲嘆の記憶力が力となる 島薗進」に続くエッセイの中で、著者は次のパラグラフを記している。戦後史を通覧していく上で、重要な観察視点であると思う。
「しかし、1970年あたりを節目にして、望郷とナショナリズムの色をたたえた悲哀の感情が、次第に変化していく。数々の大災害と地方の喪失は、幻想の悲しみをリアルに乗り越えはじめたのだ」(p143)

第4章 何歳になっても進歩する
 冒頭の言葉は「私もまだ成長し続けています 天野篤」であり、これに続くエッセイの見出しに「人は何歳になっても進歩する」が使われている。章題はここに由来する。
 二女優の言葉が取り上げられている。「やっぱり好奇心。それがなくなったらやめたほうがいい 奈良岡朋子」「ちょっとだけ無理をする 八千草薫」この二人の名前を読み、イメージが浮かばない世代が増えているかもしれない・・・・。
 「還暦以後が人生の後半だ 帯津良一」に続くエッセイは「人生の黄金期は後半にあり」という見出しを付している。著者はこのエッセイの末尾を「私たちを力づけてくれる言葉もまた、医学の重要な技法なのだ」の一文で締めくくる。
 「朝起きて調子いいから医者に行く 小坂安雄」という『シルバー川柳8』の冒頭に載るという句も取り上げられていて、楽しい。

第5章 それでも扉を叩く
 本書の最後は「開カレツルニ 叩クトハ」という柳宗悦が晩年に書いた『心偈(ココロウタ)』の一つで締めくくられている。この言葉に付されたエッセイは、なぜ柳宗悦この偈を詠んだかを簡潔に著者が読み解いている。イエスの言葉、「叩けよ、さらば開かれん」を踏まえた柳宗悦の対比思考と、イエスの言葉の解釈を深める思考プロセスを論じる。その上で仏教の立場から簡潔に考え方をまとめている。この柳宗悦の言葉を理解するのに大変役だった。なるほどと思う。心偈が章題と呼応している。
 「陰徳あれば必ず陽報あり 淮南子」を、著者はエッセイの中で、「<陰徳あればまれに陽報あり>とすればなんとなく穏やかな気分でいられるのではあるまいか」(p197) と記しているのもうなずける。
 「君子豹変す ことわざ」についても、その本来の意味と使われ方の変容を簡潔に説明してくれている。そこには著者が本来の用法ではない使用体験例も織り交ぜて語っていて、興味深い。

 最後に、その言葉に付されたエッセイを読まないと、ストンとは腑に落ちない言葉を幾つか列挙しておこう。この言葉だけを読み、エッセイの内容が類推できるなら、たぶん貴方は相当に論理的思考力とひらめき力に優れている方でしょう。私はエッセイを読み、なるほどと・・・・。
   衰えていく、とうことは有利な変化である   椎名誠
   認知症は終末期における適応の一様態と見なすことも可能である  大井玄
   お坊さんは「ありがとう」とは言いません   中村元
   質屋へ向かう足は躓く   不肖・自作 ⇒ 著者五木寛之の言葉
   かぶってましたか?    泉鏡花
   人生は散文ではない    鎌田東二
   人間のこそばいところは変わらへんのや    桂枝雀

 エッセイは読みやすい文で記されている。そこに今回も読ませどころとして煌めくフレーズが盛り込まれている。エッセイの冒頭の言葉の意味の理解を深めるのに役立っている。貴方にとって役立つ折れない言葉を見つけていただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
倍賞千恵子「里の秋」  YouTube

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『折れない言葉』  毎日新聞出版
『百の旅千の旅』  小学館

ブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下     講談社
『親鸞 激動篇』上・下 講談社
『親鸞 完結篇』上・下 講談社

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