遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『折れない言葉』  五木寛之  毎日新聞出版

2023-08-16 12:26:47 | 五木寛之
 かなり前の新聞広告でこの本のタイトルが目に止まった。その後も幾度か新聞広告で見ている。著者名を見て読んでみることにした。
 冒頭の「まえがきにかえて」にこんなフレーズが記されている。「心が折れそうになった時もある」「励ましの言葉」「心と体に効く」「大きな支えとなった言葉」。ここからタイトルの表現ができあがったのではないかと思う。
 本書は『サンデー毎日』(2015年4月~2022年1月)に「ボケない名言」と題して連載されたようだ。2022年3月に単行本が刊行された。新書版サイズより少し幅広の大きさのハードカバー本。単行本化にあたっての改題は成功だと感じる。

 「この一冊の本のなかには、私が実際に日々生きているなかで、大きな支えとなった言葉を自由に選んで感想を述べてみた」(p2)と記している。つまり、「大きな支えになった言葉」をお題にしたエッセイ集である。お題の言葉に対して、見開き2ページでまとめられたエッセイなので、読者としては読みやすい。ちょっとした時間で読み切れるというのメリットがある。ペラペラと開いてみて、気になった「励ましの言葉」の見開きページから読み始めるのもありだろう。
 本書は5章立てにして、テーマ分類した構成になっている。それぞれの章の最初と最後に取り上げられた「折れない言葉」を参考にご紹介する。
    第1章 明日を信じる
       今日できることを、明日に持ちこしてはいけない。 
                     ベンジャミン・フランクリン
       口笛を吹きながら夜を往け  コリン・ウィルソン

    第2章 青年と老年
       転ばぬ先の杖  ことわざ
       人は慣れると手ですべきことを足でするようになる  蓮如

    第3章 淋しくて仕方のない日には
       淋しい時には 淋しがるより仕方ない  倉田百三
       見るべき程のことは見つ   平知盛

    第4章 変化に追いつけない時に
       国破れて山河在り  杜甫
       深淵をのぞきこむとき 深淵もまたこちらをみつめる ニーチェ

    第5章 見知らぬ街で
       孤独は山になく、街にある   三木 清
       自分の経験しない事は、つまり不可解なのである  正宗白鳥

 著者が選んだ言葉に対して、著者は賛意を記す、一捻りした解釈を記す、思い出や体験を主体に記す、距離を置く考えを記す、対立に近い考えを記す、など、著者自身の思い、が綴られている。「歎異抄渾沌として明け易き 齋藤愼爾」を取り上げて、「この句の解釈は、私にはできない」(p139)と感想を記すものまである。尚、続けて「ただ、『歎異抄渾沌として明け易き』と声に出してつぶやく時、なにか大きなものを手でさわったような気がする・これを『俳偈』とでもよぶべきだろうか」の一文で締めくくっているのだが。
 「古代中国の思想家もいる。当代の人気アスリートのインタヴューでの感想もある。外国人の言葉もあり、日常的なことわざのたぐいもある」と「まえがきにかえて」に記されている通り、ここに選ばれた言葉は幅広い。
 たとえば、羽生結弦が語ったという「努力はむくわれない」を選んでいる。そのエッセイの中では、それに続く「しかし努力には意味がある」(p21) という発言も紹介している。
 私にとっては、知らない「折れない言葉」が多かった。そういう意味でも、興味深く通読した。通読してみて「前書きにかえて」の前半部に、読み返してみて少し矛盾がある表現と感じる箇所があった。まあいいか・・・・。私の主観かもしれないし、本文を読むのに影響はないので。
 読者として、欲をいえば、巻末に、ここに選ばれた言葉の索引を付けて欲しかった。本書に立ち戻るのには、その方が便利だから。

 さて、このエッセイ集、選ばれた「折れない言葉」そのものを「悩み多き人生の道連れ」として役立てることができるけれど、著者のエッセイそのものの中に、その言葉の鏡としてとらえられる箇所がある。それが読者にとり考える糧になる。併せて役立てるのが勿論プラスだろう。

 エッセイの中に、著者の実体験を通した思いの表明でキラリと光る、示唆深い箇所が沢山ある。そこから少し引用しておこう。他にもいろいろあるが・・・・。
 敢えてそれがどのページに記されているかは表記さない。本書を読みながら、ああ、ここかと見つけていただきたい。私にとっては、キラリと示唆深いが、そのエッセイを読んだ貴方がどう受けとめられるかは別だから。出会いを楽しんでいただければ・・・。

*「明日できることは、明日やろう」と、明日を信じて、私は今日まで生きてきたような気がする。

*五十歩百歩という考え方は、世界を平面的に視る立場だ。これが上下の階段となると、とてもそんなことは言っていられない、・・・・五十歩百歩は、慎重に受けとめるべきだ。

*「努力してもむくわれないのが世の中と決めているから、努力に結果を求めない。やりたいからやっているのだ、好きでやるのだ、と覚悟して生きてきた。これでは駄目だろうか。

*真実は必ずしも一つではない。いくつかの事実が重なり合って現実となる。・・・・
 「おまかせ」しない姿勢もまた大事にしたいと思うのだ。

*ブツダも、イエスも、矛盾した言動や行動を数多く残している。しかし、矛盾と対立は運動エネルギーの原点である。反撥と結合のなかから歴史は作られてきた。自己を信じることと、自分を疑うことの狭間に私たちは生きているのだ。 

*人は論理によって動かされるだけではない。・・・人の心を動かすのは感情のともなった条理である。

*蓮如の経説は、親鸞の思想の実践編である。世の中には理論ではそうでも、現実には通用しないことが多い。そこをどう通り抜けていくかが人間の器量というものだろう。

*表現というのは、伝えたいことを伝えるための行為だ。親鸞も道元も、どこかゴツゴツした直截な物言いが共通している。鎌倉新仏教の力強さはそこにあるのかもしれない。

*拡散のスピードが速ければ速いほど、事実は稀薄になっていく。 

*私たちは、どんな人でも二つの相反する気持ちを心に抱いているものだ。 
 人間は薬だけでなく、毒によっても生かされている存在なのだ。

*私は思春期に敗戦を迎えたせいか、世の中そんなにうまくいくものではない、という固定観念を抱いて生きてきた。
 踏んだり蹴ったりというのが、この世のならわしだと今でも思っている。 

*ことわざが通用するのは、その時代のあり方による。ことわざも永遠の真理ではない。 <時機相応>という発想が必要なのだ。   

*要するに人は己の欲することを選ぶのだ。その理由づけとして名言や諺を持ち出すのだろう。
 反対の言葉があればこそ、諺は長く生き続けるのだろう。 

*スキャンダルは、人間の魂の深淵だ。暗い亀裂の底に、見てはならないものがうごめいている。
 スキャンダルにも前年比がある。少しずつ濃度をあげていくことを読者は求める。

*人びととまじわり行動するなかで、私たちは自分が他の仲間とちがう独立した個性であることを知らされる。・・・それを感じるときに主体的な個人が見えてくる。

*人は励ますことによって励まされ、励まされてまた励ます力を得る。 

*人間は自分の思い出の持ち方次第で、現在を一層光にみちたものにすることも出来れば、恐ろしく暗い影のなかに包んでしまうことも出来る。

*自他の相剋のなかに人は生きるのだ。 

 己にとっての「折れない言葉」と出会うために、このエッセイを手に取るところから始めるのも良いきっかけになるかもしれない。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『百の旅千の旅』  小学館

以下はブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下     講談社
『親鸞 激動篇』上・下 講談社
『親鸞 完結篇』上・下 講談社

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