遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『蘭医繚乱 洪庵と泰然』  海堂 尊   PHP

2024-12-26 15:27:42 | 海堂尊
 江戸時代末期の文政8年(1825)から明治5年(18772)の期間を背景に、蘭方医として活躍した二人のライバル、東の猛鷲・和田泰然と西の大鵬・緒方洪庵を中心にストーリーが織りなされていく。緒方洪庵の生きざまに比重を置きながら、洪庵と目指す目的は同じでも、違うやり方をとった泰然を対比的に描いていく。洪庵と泰然を描く伝気風歴史時代小説である。江戸時代末期に蘭学を学んだ蘭方医を中軸としながらも様々な分野で躍の場を見出し、蘭学の成果を繚乱と咲かせていった一群の人々が存在した。その状況を洪庵・泰然の行動の波紋の広がりとして捉えていく。

 奥書によれば、本書は「WEB文蔵」(2020年12月~2024年3月)に連載された後、大幅に加筆・修正され、改題されて、2024年10月に単行本が刊行された。

 本書は、「第一部 氷点」「第二部 融点」「第三部 沸点」という見出しの三部構成。簡略に言えば構成は次の通り。
 第一部は大坂と江戸、それぞれに住む二人の青年が、オランダ医学を学ぶために長崎に留学し、足かけ4年間修学する。出立までの背景・経緯及び長崎で蘭医の基礎を修得するプロセスでの二人の修学と日常生活のスタイルの違いを織り交ぜて、彼らが長崎を去る時点までを描く。
 一人は、備中足守藩大坂蔵屋敷の初代大坂留守居役、佐伯惟因の息子、惟彰。惟彰は蘭学の師となる中天游の勧めで緒方章と改名し、さらに長崎留学中に洪庵と改名する。もう一人は、江戸の中堅旗本伊奈家に仕えた佐藤藤佐の息子、昇太郎。昇太郎は長崎にて、泰然と改名する。二人が改名したのは奇しくもほぼ同じころだった。
 長崎を除けば、蘭方医は各地で点的に活躍し、根づき始めているが、世間の大勢は未だ漢方医の時代。それ故に、蘭医は氷点の時代である。
 文政8年(1825)~天保9年(1838)の期間が背景となる。

 第二部は、洪庵が大坂で「適塾」を創設し、医院を営みつつ、身分にかかわらず広く門弟を受け入れ蘭学を基礎から学ぶ環境を作る。洪庵の方針は、「来る者は拒まず」と蘭学学習は実力主義。一方、泰然は江戸の両国・薬研堀に蘭医塾「和田塾」を開設する。ともに私塾である。「西の適塾、東の和田塾」が覇を競う時代が到来する。
 この第二部は、天保9年(1838)~安政2年(1855)の期間が背景となる。
 彼ら二人が開塾した直後、天保10年5月には、渡辺崋山が江戸伝馬町の揚屋入りとなり「蛮社の変」が始まっていく。蘭学抑圧が始まる時機に、適塾・和田塾が始まっている。泰然は、和田塾を娘婿に任せ、己は佐倉藩主・堀田正篤の所領に移り住み、「佐倉順天堂」を創設する。この時期から、父の姓を使い佐藤泰然と名乗る。余談だが、現在の順天堂大学の淵源である。
 この第二部で、洪庵は、あらたに「除痘館」を設立し、ここを拠点に、現在の用語で言えば天然痘を撲滅する実践活動を推し進める。牛痘を子供に接種させる予防接種、種痘事業を邁進していく。この経緯がストーリーの中軸となる。泰然は洪庵から瘡蓋を入手し、関東での種痘事業を推進する。
 嘉永6年(1853)6月、アメリカの黒船襲来が時代を大きく変えていく。医学よりも軍事面での蘭学の知識の需要が高まり、政治面でも蘭学が需要される時代が到来する。融点の時代に転換していく。

 第三部は、蘭学へのニーズが沸点を迎える時代に移っていく。江戸には「蛮書調所」が、長崎には「海軍伝習所」「医学伝習所」が設置される時代へと転じていく。安政3年(1856)7月には、日米和親条約に基づき、下田にタウンゼント・ハリスが初代総領事に着任する時代に入る。安政3年(1856)~明治5年(1872)が時代背景となる。
 「安政の大獄」の顛末を経て幕末動乱期となり、明治維新へと移っていく。激変する時代の動きを描きつつ、洪庵がどのような立場に身を投じて行ったかを描く。洪庵は大坂のコレラ騒動に蘭医として対処・奮戦する。その後、江戸に出府し、西洋医学所頭取を引き受ける立場になっていく。江戸城の奥医師に組み込まれていく。
 本書を読み始めて知ったのだが、洪庵が昇天したのは文久3年(1863)6月10日。徳川幕府が滅びる5年前。一方、泰然が大往生を遂げたのは明治5年(1872)4月。この第3部の終点である。

 このストーリー、「そんなふたりの想いは、現代の日本に脈々と流れているのである」という一文で終わる。

 この小説が私の関心を惹きつける特徴がいくつかある。
1.洪庵と泰然という蘭医をめざした二人が対照的な性格の逸材であり、両者の関りが対比的に描きあげられていく。洪庵は内科を領域とし、己はオランダ医書を翻訳し、知識を広めることに重点を置く。適塾はオランダ語を修学する場で、能力があれば身分を問わず入塾を認め、人材を育成する場づくりをめざした。
 泰然は外科の領域に尽力し、蘭学自体は実務に役立てば良しとする。蘭医の逸材を見つけ、活躍の場づくりをする方に尽力していく。いわばオルガナイザー的な行動人となる。一方で、佐倉藩主・堀田正篤の相談相手として行動し、常に国内政治の動向と、蘭学を手段として世界の趨勢に目配りする活動を行う。洪庵との交信は絶やさない。
 対照的な二人の生涯の関りが実に興味深い。

2.洪庵の適塾が蘭学修得の拠点となる。適塾は、熟生が切磋琢磨し、青春の一時期をここで過ごした。適塾は後に様々な分野で活躍する人材を輩出する孵化器になっていく。それは蘭学という視点から、塾生を介して江戸時代末期と幕末動乱期を展望することにつながる。
 例えば、村田蔵六(後の大村益次郎)、伊藤精一(慎三)、武田斐三郎、橋本綱紀(左内)、佐野栄寿(常民)、長与専斎、池田謙斎、箕作秋坪、福沢諭吉などが適塾に足跡を残し、歴史に名を残していく。

3.洪庵と泰然を介して、あの時代の蘭医、蘭学者たちのネットワークと蘭書の翻訳文化を知ることができた。私にはほとんどが初めて目にする翻訳書名である。
 江戸時代末期、長崎の出島とオランダという窓を通じて、世界をどのように認識していたかがわかる。

4.江戸城の奥医師という漢方医の牙城に、江戸時代末期に徐々に蘭方医が食い込んでいく様子、その勢力関係が垣間見える。さらに、蘭方医の世界の中にも、力関係が大きく渦巻いていた状況も見えておもしろい。泰然はその力関係を読み切り、その中に入っていく存在であり、洪庵は勢力関係とは極力関係しない立場をとる存在だったようだ。

5.天然痘への予防接種思想の導入と実践、コレラ騒動への医療対策に、洪庵をはじめ蘭医たちがどのように立ち向かっていったかを知ることができる。これも歴史の一ページを知ることになる。学校の授業ではそこまで触れることのない側面だから、歴史が無味乾燥になりがちなのだろう。

6.シーボルトとともに、「シーボルト事件」がどういうものだったかを具体的に知る機会となった。事件のことは多少知っていたが、その対処法も含めてさらに細部を知ることができた。

7.「安政の大獄」を断行した悪名高い井伊大老について、彼の生涯における行動の二面性を著者は指摘している。「悪名高い」を留保して、「実は柔軟な考えを持つ人物で、ねじれた運命に翻弄された悲運の士だったとも考えられる」(p325)と述べているところも興味深い。
 これは人物像を如何に描き出すかに大きくかかわっている視点である。
 
 江戸時代末期の蘭医繚乱の様子を感じ取ることができ、幕末動乱期を武士の視点とは違う視点から楽しめる伝記風歴史時代小説である。おもしろい。


補遺
適塾   :ウィキペディア
大阪大学適塾記念センター  ホームページ
  洪庵について
  適塾とは
第17話 緒方洪庵  :「関西・大阪21世紀協会」
緒方洪庵  :ウィキペディア
大坂救った発信力 洪庵、感染症と闘った不屈の医師  :「日本経済新聞」
W600XH900 虎列刺(コレラ) 急激に死へと進む   :「エーザイ株式会社」
学祖 佐藤泰然   :「順天堂大学」
江戸日本橋薬研堀の蘭医学塾「和田塾」  :「順天堂大学」
佐藤泰然  :ウィキペディア

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