遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『日蓮』   佐藤賢一   新潮社

2024-05-19 18:44:50 | 諸作家作品
 タイトルが目に止まり読んだ。本作は「パッション」という題で「小説新潮」(2020年6月号~2021年1月号)に掲載された後、2021年2月に「日蓮」に改題されて、単行本が刊行されている。
 表紙のカバーには、日蓮聖人御持物『妙法蓮華経』(池上本門寺所蔵)が使われ、本扉には、長谷川等伯筆『日蓮聖人像』(髙岡大法寺所蔵)が使われている。この日蓮聖人像はどこかで見たことがある・・・・。手元にある京都国立博物館での特別展「没後100年 長谷川等伯」(2010年)の図録を改めて見ると、通期で展示されていた一点だった。長谷川等伯が永禄7年(1564)に描いた作。重文。

 日蓮についての本は今まで読んだことがない。著者は関心をよせる作家の一人でもあり、よい機会だと思った。本作は伝記風小説というところか。
 日蓮の視点から日蓮の活動のプロセスを描き上げていく。焦点となる時期は、日蓮が十余年にわたる勉学を終えて「叡山帰り」をし、建長5年(1253)、安房の国の名刹・清澄寺において「説法」をする場面から始まる。この時点から、文永11年(1274)10月、来襲した蒙古軍・高麗軍が風雨により撤退するいわゆる文永の役に至る。日蓮はこの報を身延の庵室で弟子から聞くという場面で終わる。
 日蓮は貞応元年(1222)2月生まれなので、当時の年齢法でいえば32歳から53歳までの時期が描き出されている。ネット検索で得た情報を加えると、1253年の「説法」場面は、日蓮の「立宗宣言」に相当する。一方、最後の場面は、日蓮が身延(山梨県)に入山した年になる。(資料1,2)

 本作は<第一部 天変地異>、<第二部 蒙古襲来>の二部構成である。
<第一部 天変地異> 建長年(1253)~文永4年(1267)
 「一、朝日」は、まず日蓮が仏法・真理を学んだ経緯を簡潔に記す。そして、「叡山帰り」をした1253年に17日の籠山行を行い、その直後に、得度により是聖房と称してきた己の名を、日蓮と自ら改めたという。「日」は法華経如来神力品第21、「蓮」は従地涌出品第15より引いたということを、この小説で初めて知った。
 「二、説法」から始まる場面が、日蓮の信念とスタンスを如実に描き出していく。人々が救われるのは法華経に依拠するときだけであり、法華経には全てのことが記されているという日蓮の信仰・信念・思想が表明される。それゆえ、後に「立宗宣言」と称されるのだろう。日蓮は既存の他宗派を悉く否定する立場を明確にする。その槍玉に最も挙げたのは浄土宗の念仏「南無阿弥陀仏」の否定である。さらに禅宗、天台宗、真言宗等の否定である。
 清澄寺は天台宗、比叡山横川流の末寺であった。その天台宗で行われていた念仏すら否定した。そして、「南無妙法蓮華経」を唱えよと主張する。唱題の勧めである。
 結果的に、日蓮は師の道善房から破門されて、清澄寺を去り、鎌倉に向かう。

 第一部で、日蓮は辻説法により唱題を勧めり。経典に依拠して、論理的に他宗派の思想・法論の誤謬を論破していく行動を積極的に推し進める。いわゆる「折伏」である。日蓮は法華経を基盤に、他の諸経典類を援用して、己の論理を構築していることに、よほどの自信があったことをうかがわせる。
 正嘉元年8月23日に発生した「鎌倉大地震」(正嘉の大地震)が地獄絵を引き起こす。その地獄絵の状況から人々を救済するために、日蓮は再び一切経に立ち返って行く。駿河国岩本にある実相寺において、拠るべきは釈迦が述べた言葉であり、無謬の仏に尋ねるべきだという信条のもとに、一切経に立ち返り、考究を重ねる。日蓮は、『金光明経』『大集経』『薬師経』『仁王経』などから、仏の予言に気づくと著者は記す。
 日蓮の経典探求が『立正安国論』の著述として結実する。日蓮は、宿屋光則を介して、北条得宗家の当主、最明寺入道(北条時頼)にその勘文を届けた。この小説で知ったことは、その後も、日蓮は北条得宗家に対して『立正安国論』を繰り返し進言していることだ。己の信念を貫き通すという日蓮の凄さが見えてくる。
 日蓮に帰依する人々が増えて行く。一方で日蓮の他宗派排斥の折伏の継続が軋轢を生む。日蓮の庵があった松葉ヶ谷が強襲される結果となり、日蓮は逃亡せざるを得なくなる。そして、遂に日蓮は断罪を受け、伊豆に配流の身となる。法難である。だが、この配流には、最明寺入道の配慮があったようである。そこは興味深い点でもある。
 第一部は、日蓮の活動が徐々に帰依者を増やし、清澄寺は日蓮が安房で弘法した際の拠点となっていくまでを描く。

 この第一部において、日蓮の考えは、次の引用箇所に集約されていると思う。
「なすべきは法華経の弘法と決まっていた。やってきたことを、やり続けるしかない。この国の仏法を正しい道に戻せたならば、王法も自ずから盤石となるからだ。やり続けるしかない。相模守時宗を支えるに、それに勝る助けはないのだ」(p150)

<第二部 蒙古襲来> 文永5年(1268)~文永11年(1274)10月
 蒙古の牒状と添付の高麗の国書が鎌倉に届いたという知らせが日蓮に届く場面から始まるが、この第二部は、蒙古襲来そのものの状況を描いている訳ではないところがおもしろい。牒状が届き、実際に蒙古襲来が起こるまでの時期に、日蓮が何をしていたのかを克明に描いていく。
 興味深いことは、日蓮が蒙古という大国の存在を知っていたわけではないこと。経典に記された「他国侵逼難」を予言として確信していただけであることだ。だが、その知らせを聞き、日蓮は『安国論御勘由来』を柳営に進言する。だが、日蓮の進言は無視される。 文永8年(1271)5月には旱魃が発生する。鎌倉の柳営は極楽寺の良観忍性に雨乞いの祈祷を命じるが効果なし。日蓮の主張と他宗派との軋轢が高まっていく。7月、名越松葉ヶ谷の日蓮に『行敏難状』が届けられることに進展する。それが因となり、日蓮は奉行人と対決することになり、日蓮は捕縛されることになる。さらには、「竜の口」の法難、「佐渡」への流罪という法難に進展していくことになる。
 第二部の主題は、日蓮の法難の経緯を描くところにあると言える。
 その根底には、日蓮と他宗派との間に、法華経の解釈、読み解き方の差異もあるようだ。また、鎌倉の柳営は、現存する仏教諸宗派の存続を前提とする政治的方針を変えない。政治の次元と宗教の次元の相容れない局面がここに表出しているとも言えそうである。
 この第二部の要は、竜の口の法難において、日蓮が寂光土を感得し、地湧の菩薩の中に現れる四人の導師の中の上行菩薩が己であると開眼し、それ以降、日蓮が上行菩薩としての生き方、人々の教導をめざしたというところにあるように受け止めた。佐渡の流罪はその過渡期といえようか。
 佐渡への流罪は、大仏宣時の一存による下文よる沙汰であったという。下文は本来は執権が下す、あるいは了解して下すものなので、相模守北条時宗は先の下文を怒り、取り消して、日蓮を赦免にする。日蓮に科なく、主張も空言ではないとしたという。
 文永11年(1274)2月に赦免された日蓮は、3月下旬に鎌倉に戻る。だが、日蓮は甲斐国身延に引き籠もる選択をし、5月17日に身延に着いた。身延につき従う弟子もいた。
 日蓮は、身延にて文永の役の事実を知る。

 このストーリーを読み終えて、思ったことがいくつかある。
1.鎌倉幕府の政治的文脈で考えると『立正安国論』は取り上げられなかった。
2. 日蓮の主張が通らなかったので、日蓮は蒙古調伏の祈祷を実行していない。
3. 身延に引いた日蓮と日蓮の弟子たちとの関係は、その後どのように維持されたのか。
4. 日蓮が既存の他宗派の問題点として指摘した事実を各宗派はどのように受け止めた
  のだろうか。

 後半の2点は、私にとっては、新たに考えるべき課題になった。

 本作は、私にとり、日蓮という宗教家を掘り下げていく上での出発点、考えるための材料を得られる機会になった。起点ができたことが大きなプラスである。
 
 ご一読ありがとうございます。


参照資料
1. 日蓮大聖人の御生涯(1) :「SOKAnet(創価学会公式サイト)」
2. 日蓮正宗略年表     :「日蓮正宗」

補遺
大本山 清澄寺  ホームページ
清澄寺  :ウィキペディア
日蓮聖人の生涯  :「日蓮宗 いのちに合掌」
日蓮の手紙  100分 de 名著  :「NHK」
日蓮の足跡を訪ねて  :「さど観光ナビ」
日蓮宗   :「コトバンク」
日蓮宗とは  仏教ウエブ入門講座 :「日本仏教学院」
日蓮宗   :ウィキペディア
日蓮宗総本山寺院ページ一覧  :「日蓮宗 いのちに合掌」
『立正安国論』を読む :「鷲峰の風」

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