「立花宗茂残照」という副題に関心を抱き、本書を手にとった。
本書は2022年10月に単行本が刊行されている。尚、本作の原型となる作品が2021年、日経小説大賞最終候補作となったという。その原型に大幅な改稿を加えて、著者は本書にて作家デビューをした。
著者略歴によれば、1984年文藝春秋入社後、雑誌編集長、文藝書籍部長、文藝局長など、一貫して小説畑を歩み、2022年に退社。63歳で作家デビューするという異色さ。
さて、私は葉室麟さんの『無双の花』を読んで、立花宗茂という武将を知り、戦国武将の中で関心を抱く人物の一人になった。この作品の読後印象記を以前に拙ブログ「遊心逍遙記」に載せている。その時、「立花の義」ということがテーマになっていることと、追記で「『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される」と述べていた。
そこで、副題の「残照」という言葉が私の心のアンテナに感応した次第。
目次の次のページから、本書は登場人物について、多くの他書と比較すれば長文ぎみな紹介がある。だがそれは簡略かつ要領を得た人物プロフィールになっている。本作のストーリーの進展を考えると、豊臣秀吉の命令による朝鮮の役、東軍・西軍による関ヶ原合戦、德川家の初期の将軍継承、これらについての背景情報を読者に予め知らせる役割を兼ねているようだ。私はここを読まずに本文を読み始めたので、後で振り返ってみた印象の一つとして、まず記しておこう。
本作の中心人物は勿論、立花宗茂である。「登場人物」での紹介をまず引用しよう。
”豊臣秀吉から「西国無双」と讃えられた名将。「関ヶ原」では西軍に与して改易されたが、家康、秀忠からその能力を買われ、唯一、旧領を回復する。晩年は将軍家光に敬愛され「御伽衆随一」として重きをなす。左近将監。飛騨守。通称「柳川侍従」”
登場人物紹介は、これくらいのプロフィールが、この後、德川家光から始まり、加藤忠広まで、19人について列挙される。そして、その後に、「関ヶ原 周辺図」「関ヶ原の戦い 勢力図」が併載されている。この勢力図が本作では大きな意味をなしてくる。
本書のタイトルは、「尚、赫々たれ」。
「赫々」を辞書で引くと「(形動トタル)①光り輝くさま。②手がらや名声が際立つさま」(日本語大辞典・講談社)と説明されている。
本作は、立花宗茂が德川三代将軍家光の御伽衆として仕えている時期を扱っている。「西国無双」と称された宗茂の過去の有り様がまず大前提になっているので、文脈から言えば、②の意味合いといえる。しかし、そこに「尚、」が頭辞として付いているところに、重い意味がある。本作のテーマをこのタイトルが象徴しているなあ・・・というのが読後印象。将軍家光に向かう宗茂のスタンスをこの語句が示している。「西国無双」とまで言われた己の生き様、いわば「立花の義」を崩すことなく、かつ、泰平の世に向かう德川政権の時世の中で、旧領を回復して後の柳川藩と己がいかにサバイバルすることができるか。
本作では、家光を筆頭とした德川政権と立花宗茂との微妙な心理面での駆け引きが描かれて行く。そこにさらに、重要な人物が関係してくる。一人は毛利秀元、もう一人は天樹院である。
毛利秀元は、”長府毛利家の藩祖。「関ヶ原」では毛利一統を率いて南宮山に布陣したものの、戦況を空しく傍観して「宰相の空弁当」と揶揄された。その後、大国毛利の執政として本家の藩政を主導し、また将軍家「御伽衆」となる。甲斐守。通称「安芸宰相」”と紹介されている。本作では、秀元も御伽衆となっている。
天樹院とは、二代将軍秀忠の長女であり、千姫の名で知られる。家光の姉にあたる。
本作は三章構成で、「第一章 関ヶ原の闇」「第二章 鎌倉の雪」「第三章 江戸の火花」である。
第一章は、祖父である「神君」家康をことのほか崇敬する家光が、父・秀忠の「武断政治」を引き継ぎ、生まれながらにして将軍家の子孫として三代将軍に就く。宗茂は家光直々に、関ヶ原の話をせよと命を受けることになる。関ヶ原では、西軍の一将として参戦した宗茂である。德川政権が確立して以降、戦勝した東軍(德川方)の諸将は己の都合のよい解釈で関ヶ原を語り伝える部分がある。家光が宗茂に参内を命じてきた時期、大御所・秀忠は西の丸で病床にあった。諸藩の誰しもが大御所の死期の到来を思い、三代将軍家光に完全に政権が移れば、己等の存在・藩の存続はどうなるかについて、心中に疑心暗鬼をいだいている時期だった。そんな最中でのお召しである。宗茂が家光と対面する席に、家光は姉の天樹院を同席させるという。その場面から、このストーリーの実質が始まる。
家光の問いかけは、「天下を握る戦いで、東照神君はどこに一番、意を砕かれたのか、その叡慮に、わずかでも触れたいと願っている」(p31)「戦場を踏んだこともなく、神君からも大御所かrなお、親しく教えを受けることのなかった私に、それがどれほどの輝きをもつことかわかってほしい」(p33)
この家光の問いかけが、真に本音として何を宗茂から聞きだそうとしているのか。ここで宗茂が述べたことが、家光にどのように受け止められるか。後にどのように使われることになるのか・・・・。事は単純な昔話ではない。その発言内容が話中に登場する人々あるいは己に、谺が刃となり返ってくるかもしれないのだ。宗茂にとては、家光の本音を感受しながらの心理戦、駆け引きをも内包する対談の場になっていく。
関ヶ原を経験した武将ははや数少なくなっている段階である。それも西軍に加担していた生存者ではごく僅か。実経験者から実話を聞ける機会ももう最後という時期でもある。 そして、宗茂の関ヶ原話の行き着く先は、南宮山上に陣取った毛利一統の去就となっていく。それが、御伽衆の一人となっている毛利秀元に関わってくるのだ。宗茂は秀元と友に、家光に関ヶ原について語ることへと発展していく。それが関ヶ原合戦の闇を明らかにすることに・・・・・。この対談の経緯が読ませどころの一つとなる。
第二章は、家光から直に天樹院に引き合わされた宗茂が、天樹院に同行し鎌倉に行くことになるエピソードが描かれる。このエピソードは、宗茂が天樹院をより深く知る機会となる。さらに、鎌倉では、天樹院から、東慶寺において、豊臣秀頼の遺児、天秀尼に引き合わされることに。
この機会は、天樹院が宗茂という人物により信頼を深める機会となる。一方で、宗茂が天樹院に思いを寄せる契機にもなる。
本作においてはしばしのインターミッションのような役割を果たしていて興味深い。
第三章は、宗茂への天樹院の信頼感は、宗茂に難問を投げかける形になる。なぜか。
それは、天樹院と家光にとっては弟である德川忠長の甲府蟄居の問題に関連していた。 大御所秀忠の病状が年の瀬に向かなかで、ますます悪化していた。それ故に、天樹院は弟忠長の蟄居の赦免について、宗茂に家光への働きかけの助力を依頼してきたのである。 この天樹院の依頼に対して、宗茂はどのように対応していくか。御伽衆に過ぎない宗茂が、将軍家の内輪の問題にどこまで関与できるのか。下手をすれば己の身が余波を受けてしまうことになりかねない。さて、宗茂、どうする。どこが助力できる限界となるか。そこが読ませどころになる。
最後に、大御所秀忠が亡くなった直後の状況が描かれる。その中で、後に加藤家改易騒動と称される事態が発生する。それは情報収集合戦の様相を呈するようになる。その中で、毛利秀元は宗茂に協力を惜しまない。関ヶ原の回顧が彼らの絆を深める機会となったのだ。政権の変わり目の中での宗茂の思い、残照を描き上げている。
秀忠から家光への実質的な政権交代の転換期、さらには、戦国の残影から泰平の維持強化への移行期という社会状況が、立花宗茂という人物の生き様と絡めて描き出されて行く。立花宗茂の残照を描きつつ、その反面で德川家光の曙光を描いていることになる作品とも言える。
著者は、最後に宗茂の思い切れぬ胸の痛みを描写する。それが宗茂の残照として余韻を残す。
ご一読ありがとうございます。
補遺
立花宗茂 :ウィキペディア
立花宗茂 :「コトバンク」
德川家光 :ウィキペディア
德川家光 :「コトバンク」
千姫 :「コトバンク」
毛利秀元 :ウィキペディア
德川秀忠 :ウィキペディア
德川忠長 :ウィキペディア
德川忠長 :「コトバンク」
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本書は2022年10月に単行本が刊行されている。尚、本作の原型となる作品が2021年、日経小説大賞最終候補作となったという。その原型に大幅な改稿を加えて、著者は本書にて作家デビューをした。
著者略歴によれば、1984年文藝春秋入社後、雑誌編集長、文藝書籍部長、文藝局長など、一貫して小説畑を歩み、2022年に退社。63歳で作家デビューするという異色さ。
さて、私は葉室麟さんの『無双の花』を読んで、立花宗茂という武将を知り、戦国武将の中で関心を抱く人物の一人になった。この作品の読後印象記を以前に拙ブログ「遊心逍遙記」に載せている。その時、「立花の義」ということがテーマになっていることと、追記で「『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される」と述べていた。
そこで、副題の「残照」という言葉が私の心のアンテナに感応した次第。
目次の次のページから、本書は登場人物について、多くの他書と比較すれば長文ぎみな紹介がある。だがそれは簡略かつ要領を得た人物プロフィールになっている。本作のストーリーの進展を考えると、豊臣秀吉の命令による朝鮮の役、東軍・西軍による関ヶ原合戦、德川家の初期の将軍継承、これらについての背景情報を読者に予め知らせる役割を兼ねているようだ。私はここを読まずに本文を読み始めたので、後で振り返ってみた印象の一つとして、まず記しておこう。
本作の中心人物は勿論、立花宗茂である。「登場人物」での紹介をまず引用しよう。
”豊臣秀吉から「西国無双」と讃えられた名将。「関ヶ原」では西軍に与して改易されたが、家康、秀忠からその能力を買われ、唯一、旧領を回復する。晩年は将軍家光に敬愛され「御伽衆随一」として重きをなす。左近将監。飛騨守。通称「柳川侍従」”
登場人物紹介は、これくらいのプロフィールが、この後、德川家光から始まり、加藤忠広まで、19人について列挙される。そして、その後に、「関ヶ原 周辺図」「関ヶ原の戦い 勢力図」が併載されている。この勢力図が本作では大きな意味をなしてくる。
本書のタイトルは、「尚、赫々たれ」。
「赫々」を辞書で引くと「(形動トタル)①光り輝くさま。②手がらや名声が際立つさま」(日本語大辞典・講談社)と説明されている。
本作は、立花宗茂が德川三代将軍家光の御伽衆として仕えている時期を扱っている。「西国無双」と称された宗茂の過去の有り様がまず大前提になっているので、文脈から言えば、②の意味合いといえる。しかし、そこに「尚、」が頭辞として付いているところに、重い意味がある。本作のテーマをこのタイトルが象徴しているなあ・・・というのが読後印象。将軍家光に向かう宗茂のスタンスをこの語句が示している。「西国無双」とまで言われた己の生き様、いわば「立花の義」を崩すことなく、かつ、泰平の世に向かう德川政権の時世の中で、旧領を回復して後の柳川藩と己がいかにサバイバルすることができるか。
本作では、家光を筆頭とした德川政権と立花宗茂との微妙な心理面での駆け引きが描かれて行く。そこにさらに、重要な人物が関係してくる。一人は毛利秀元、もう一人は天樹院である。
毛利秀元は、”長府毛利家の藩祖。「関ヶ原」では毛利一統を率いて南宮山に布陣したものの、戦況を空しく傍観して「宰相の空弁当」と揶揄された。その後、大国毛利の執政として本家の藩政を主導し、また将軍家「御伽衆」となる。甲斐守。通称「安芸宰相」”と紹介されている。本作では、秀元も御伽衆となっている。
天樹院とは、二代将軍秀忠の長女であり、千姫の名で知られる。家光の姉にあたる。
本作は三章構成で、「第一章 関ヶ原の闇」「第二章 鎌倉の雪」「第三章 江戸の火花」である。
第一章は、祖父である「神君」家康をことのほか崇敬する家光が、父・秀忠の「武断政治」を引き継ぎ、生まれながらにして将軍家の子孫として三代将軍に就く。宗茂は家光直々に、関ヶ原の話をせよと命を受けることになる。関ヶ原では、西軍の一将として参戦した宗茂である。德川政権が確立して以降、戦勝した東軍(德川方)の諸将は己の都合のよい解釈で関ヶ原を語り伝える部分がある。家光が宗茂に参内を命じてきた時期、大御所・秀忠は西の丸で病床にあった。諸藩の誰しもが大御所の死期の到来を思い、三代将軍家光に完全に政権が移れば、己等の存在・藩の存続はどうなるかについて、心中に疑心暗鬼をいだいている時期だった。そんな最中でのお召しである。宗茂が家光と対面する席に、家光は姉の天樹院を同席させるという。その場面から、このストーリーの実質が始まる。
家光の問いかけは、「天下を握る戦いで、東照神君はどこに一番、意を砕かれたのか、その叡慮に、わずかでも触れたいと願っている」(p31)「戦場を踏んだこともなく、神君からも大御所かrなお、親しく教えを受けることのなかった私に、それがどれほどの輝きをもつことかわかってほしい」(p33)
この家光の問いかけが、真に本音として何を宗茂から聞きだそうとしているのか。ここで宗茂が述べたことが、家光にどのように受け止められるか。後にどのように使われることになるのか・・・・。事は単純な昔話ではない。その発言内容が話中に登場する人々あるいは己に、谺が刃となり返ってくるかもしれないのだ。宗茂にとては、家光の本音を感受しながらの心理戦、駆け引きをも内包する対談の場になっていく。
関ヶ原を経験した武将ははや数少なくなっている段階である。それも西軍に加担していた生存者ではごく僅か。実経験者から実話を聞ける機会ももう最後という時期でもある。 そして、宗茂の関ヶ原話の行き着く先は、南宮山上に陣取った毛利一統の去就となっていく。それが、御伽衆の一人となっている毛利秀元に関わってくるのだ。宗茂は秀元と友に、家光に関ヶ原について語ることへと発展していく。それが関ヶ原合戦の闇を明らかにすることに・・・・・。この対談の経緯が読ませどころの一つとなる。
第二章は、家光から直に天樹院に引き合わされた宗茂が、天樹院に同行し鎌倉に行くことになるエピソードが描かれる。このエピソードは、宗茂が天樹院をより深く知る機会となる。さらに、鎌倉では、天樹院から、東慶寺において、豊臣秀頼の遺児、天秀尼に引き合わされることに。
この機会は、天樹院が宗茂という人物により信頼を深める機会となる。一方で、宗茂が天樹院に思いを寄せる契機にもなる。
本作においてはしばしのインターミッションのような役割を果たしていて興味深い。
第三章は、宗茂への天樹院の信頼感は、宗茂に難問を投げかける形になる。なぜか。
それは、天樹院と家光にとっては弟である德川忠長の甲府蟄居の問題に関連していた。 大御所秀忠の病状が年の瀬に向かなかで、ますます悪化していた。それ故に、天樹院は弟忠長の蟄居の赦免について、宗茂に家光への働きかけの助力を依頼してきたのである。 この天樹院の依頼に対して、宗茂はどのように対応していくか。御伽衆に過ぎない宗茂が、将軍家の内輪の問題にどこまで関与できるのか。下手をすれば己の身が余波を受けてしまうことになりかねない。さて、宗茂、どうする。どこが助力できる限界となるか。そこが読ませどころになる。
最後に、大御所秀忠が亡くなった直後の状況が描かれる。その中で、後に加藤家改易騒動と称される事態が発生する。それは情報収集合戦の様相を呈するようになる。その中で、毛利秀元は宗茂に協力を惜しまない。関ヶ原の回顧が彼らの絆を深める機会となったのだ。政権の変わり目の中での宗茂の思い、残照を描き上げている。
秀忠から家光への実質的な政権交代の転換期、さらには、戦国の残影から泰平の維持強化への移行期という社会状況が、立花宗茂という人物の生き様と絡めて描き出されて行く。立花宗茂の残照を描きつつ、その反面で德川家光の曙光を描いていることになる作品とも言える。
著者は、最後に宗茂の思い切れぬ胸の痛みを描写する。それが宗茂の残照として余韻を残す。
ご一読ありがとうございます。
補遺
立花宗茂 :ウィキペディア
立花宗茂 :「コトバンク」
德川家光 :ウィキペディア
德川家光 :「コトバンク」
千姫 :「コトバンク」
毛利秀元 :ウィキペディア
德川秀忠 :ウィキペディア
德川忠長 :ウィキペディア
德川忠長 :「コトバンク」
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