遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『自白』上・下巻   ジョン・グリシャム    新潮文庫

2025-02-09 22:19:29 | 海外の作家
 私流に言えば、冤罪裁判闘争並びに被害者遺骨探索を扱うリーガル・スリラー小説である。邦訳タイトルとなった「自白」は、原題「The Confession」ズバリの翻訳。

 このストーリーで、「自白」は2つの意味で取り上げられている。一つは、ドンテ・ドラムが行った自白。テキサス州の人口4万人の街スローンの警察署において、長時間に渡る過酷な取り調べを行った刑事に誘導されるがごとくに、ドンテはニコル殺しを自白した。もう一つは、ニコル殺しの真犯人、トラヴィス・ボイエットの自白。

 本書は、平成24年(2012)11月に上下二巻として文庫版が刊行された。
 入手して以来長らく身近に積み上げた本の一冊になっていた。一時期、J・グリシャムの1900年代の作品を読み継いでいたが、ここ十年余離れていた。本書を契機に読み継いでいく作家の一人に復活させて、未読作を楽しみたい。

 事件の被害者は、ニコル・ヤーパー、17歳、白人。4年制スローン・ハイスクールのチア・ガールのリーダーだった。ドンテは幼馴染の同級生であり、学校や街では名の知られた黒人フットボール選手。ニコルが行方不明となり、捜査が進むが行方がつかめぬ状況の中で、ドンテの使っている車をニコル失踪の当夜彼女が駐車していた車の近くで見かけたという通報電話があった。任意同行で始まり、逮捕・取り調べに転換し、結果としてドンテは自白した形となる。1999年、19歳のとき、ドンテはニコルの拉致と強姦と殺害の罪により、有罪判決を受けた。刑務所に収監される。その時点でも、ニコルの死体は遂に見つかっていなかった。
 スローンの街で弁護士事務所を開設するロビー・フラックは、ドンテの無罪を確信し、ドンテの弁護を引き受ける。判決が決まった後も、無罪を主張し様々な裁判手続きを繰り出し、冤罪を主張し続ける。
 弁護士ロビー・フラックはドンテの自白を虚偽の押し付けと断じて、ドンテを救うために継続的に裁判手続・訴訟を推進する活動を行う、そのプロセスがこのストーリーの一つの太いストリームとなる。

 このストーリー、冒頭はカンザス州トーピカにあるセント・マークス教会に、トラヴィス・ボイコットという不気味な雰囲気の謎の男が訪ねて来て、受付で牧師に会いたいと告げるところから始まる。たまたまその日、主任牧師の妻ディナが代役で受付を担当していた。先客があったので、しばらく待機した後、トラヴィスは主任牧師のキース・シュローダーに面会する。トラヴィスは、トーピカの昨日(日曜日)の新聞の小さな記事を持ってきていた。今週の木曜日にテキサスで黒人の若者が処刑されるという報道記事だった。トラヴィスはその黒人の若者は無実であり、ハイスクールのチアリーダーを強姦して殺したのは自分だ。死体を埋めた場所も記憶している。と、トラヴィスはキーズに告白した。
 この瞬間からキースの苦悩が始まる。トラヴィスはキースに告白すると、教会を出ていた。キースがトラヴィスと面談している間に、ディナは、受付をした時の情報を元に、カンザス州矯正局の公式サイトにアクセスし、トラヴィス・ボイエットの人生履歴の情報を知る。彼は、性的暴行未遂や加重性的暴行で刑務所を4回出入りしていた。今は仮釈放中で、教会から数ブロック離れた社会復帰訓練所に滞在するよう命じられていて、市から出ることは禁じられている状況だった。トラヴイスには1月ばかり前に脳腫瘍が発見されていて、基本的に治療不可と言われていると言う。

 トラヴイスは口から出まかせを告白したのか。彼の語ったことに信ぴょう性があるのか。無実の若者が本当に死刑に処せられようとしているのか。キースは必死に情報収集行動に出る。トラヴィスとも連絡を取ろうと試みる。そして、トラヴィスの告白をおぞましいことだが真実と考え始める。検事や医師をしている友人にも相談する。牧師としての立場で懊悩する羽目になる。月曜日朝にトラヴィスが告白。新聞報道で刑の執行は木曜日。残されている時間は4日をはや切っている!

 コンタクトを撮れなくなっていたトラヴィスから電話連絡が来たことを契機に、キースは決断した。トラヴィスを己の車で、テキサス州のスローンまで連れて行き、事実を語らせて、無実の若者への死刑執行を阻止することに協力したいと。
 ここで、キース牧師とトラヴィスのテキサス行というこのストーリーの最初の太いストリームが進展していく。キース牧師の行動と、ロビーを含む法律事務所の一群の人々の行動が、パラレルに進行する。キースとトラヴィスのテキサス行にとり、さしあたりの目的地はロビーの法律事務所となる。
 もう2つ、背景的な動きが進展する。1つは、テキサス州の裁判所や警察など、ドンテの裁判に関わった一群の人々の動きである。もう一つはスローンの住民たちの間に沸き起こるドンテ裁判に対する不信と人種差別問題を根源とっする不満の湧出。スローンの街全体が人種対立の不穏な雰囲気に包まれていく。
 最後に忘れてはならないのが、ドンテの無実を信じる家族の存在。その一方で、ドンテが加害者であると信じるニコル・ヤーバーの家族の存在と彼らの動きである。

 このストーリーの構造には興味深い視点さいくつかある。
1. ストーリーは、テキサス州で発生した冤罪を取り上げていく。そこには、州の司法制度と法律の現状に目を向ける視点が織り込まれていく。以下の記述に関心が向く。
*地区首席検事は、検察官の中から選挙により選出される。知名度が大きい要素に。
*連邦最高裁判所の裁定により、警察には尋問中にさまざまな欺瞞を弄することが法律で認められている。ひらたくいうなら、警察は意のままに嘘をつけるのだ。 上・p157
*嘘発見機の結果は信頼できないことで悪名高く、法廷で証拠として採用されることはぜったいにない。  上・p158
*ビデオによる供述。  上・p168
*死体が発見できなくても犯人に死刑判決を下せるという実情。 上・p170
*刑務所の運営陣は、囚人を一日のうち23時間にわたって独房に閉じ込めておくことこそ、彼らを管理し、脱走と暴力沙汰を避けるための適切な手段だと考えていた。 上・p222
*裁判地変更を求める申し立てができる。  上・p237
*テキサス州は死刑制度の継続を認める州であり、薬物投与で死刑を執行する。
*死刑執行にあたり、州知事が声明を発表する。 下・p132
*死刑執行に被告側、原告側から限定人数の立ち会いが認められている。下・p133-140

2. 冤罪がテーマであり、一例として、その発生プロセスが明らかにされていく。冤罪が意図的に生み出されるものとして描き出されていく。そう受け止めた。

3. インターネットでの調査検索で、犯罪記録・裁判記録などについて、かなりの事実記録情報を収集できることがベースになっている。

4. 牧師の立場、その役割とは何か? それに対する問いかけが織り込まれていく。
 また、告白を受けた牧師の守秘義務と法規制との相克という視点も含まれている。

5. アメリカ合衆国の建国プロセスと大きく関わる人種差別問題が根底に横たわっている。それがどのような形で誘発され暴動化する可能性を秘めているか。その現象面を鮮やかに描き込んでいる。

 このストーリーの面白さは、その構成にある。
 全体は、< 第一部 罪 >、< 第二部 罰 >、< 第三部 雪冤 > の三部構成である。
 < 第一部 罪 > は簡略に言えば、ドンテが冤罪として「罪」を被せられる過程と、トラヴィスが「罪」を犯した過程を、パラレルに明かにしていく。
 < 第二部 > は、法律に基づき形成された「罰」がどのように執行されるかの経緯が描かれる。一方で、ドンテに対する冤罪の形成に対して、本来ならば誰が「罰」を受けるべきなのかが明らかになっていく。
 < 第三部 雪冤 > はタイトルに「雪冤」というちょっと難しい言葉が使われている。雪という漢字には「すすぐ。そそぐ」という意味がある。ここでは冤罪をそそぐという意味になる。我々の日常では「雪辱」という熟語が時折報道でも使われる一番身近な言葉ではないだろうか。
 この第三部の冒頭は、トラヴィスの告白を裏付けるために、ニコルの遺体を埋めた場所の特定と遺骨発見の経緯から始まる。遺骨の発見は勿論、トラヴィスの犯罪の立証になり、トラヴィスの逮捕に直結する。トラヴィスのその後は・・・・後に言及されていく。
 一方で、ドンテの冤罪が立証されたことにより、ニコル失踪事件の捜査に携わった刑事から裁判に関わった検事、知事たちまで、関係した人々の罪が問われ、それぞれの顛末が描かれていく。誰がどのように関与していたかが解明されていく。
 この第三部の進展プロセスに因果応報という四字熟語を連想してしまった。
 最後に忘れてならないのは、キース牧師夫妻である。トラヴィスの告白から始まったドンテの冤罪問題は、キースの人生に大きな転機をもたらす結果になる。どういう結果か? それは本書でお楽しみいただきたい。

 本作の末尾は、実に象徴的である。冤罪が発生した事実を認めても、テキサス州の法制度において、死刑制度を存続させるという根幹は揺るがなかった。リアルな現実で終わる。そこには著者のシニカルな視点も潜んでいるのではないかという思いが残る。

 著者は、カンザスの牧師キースに、テキサス州で思いを語らせている。
「いったいどこのだれが、人間たちに人間を殺す権利を与えたのか? 
 殺人がまちがったことなら、なぜ自分たちは殺人を許されているのか?」(下・p134)
キースを介して、著者は重い問いを私たちに投げかけている。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
アメリカの死刑制度   :ウィキペディア
アメリカ合衆国における死刑の存置州・廃止州一  :「日本弁護士連合会」
Death Penalty Information Center   ホームページ
我が国における死刑の歴史について 資料18 :「法務省」
死刑制度の存廃に関する主な論拠  資料4 :「法務省」
死刑に関する研究 死刑の実態を明らかにし具体的な論議へ :「Reed」(関西大学)
死刑執行方法の変遷と物理的/感情的距離の関係   :「立命館大学生存学研究所」
日本における死刑  :ウィキペディア
死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言 :「日本弁護士連合会」
報告書「首に掛けられたロープ~日本の死刑と精神医療~」 (要約・仮訳版)
                  :「法務省」
世界の極刑  :「東北芸術工科大学」

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