「生きていくのが嫌に」 解ります、愛息もいじめで中学校は1年の中頃から行けなくなりました。 そのときの彼は、障子は破る、テーブルはナイフで削る、等々すごくいらいらしてました。 学校の担任に報告して、担任と、主任先生と私と、子供であるラーメン屋で話し合いましたが、調べてみる、こんなことにならないようにと言うだけでした。何も具体的にはしてくれませんでした。 してくれたのは、いじめていた生徒を家に謝りに来させただけです。それらの子供の親御さんはなんにもしませんでした。学校の先生も来ませんでした。一人くらいの子供が学校へ行けなくなっても、この程度ですからね、いじめられ損です。 今度のことも、校長は「そのような話は聞いていない、無いと思う」といじめをされていることを否定していますね。そして後になって謝る、これが定番みたいですね。何処でも同じです。 我が愛息は、そのころ私が退職して家にいて、いじめのパシリの子供が学校帰りに、「学校休むな。でてこい・・・」などと毎日来ました、そのたびに愛息は震えていました。そのことも学校に知らせていたのですが。
でも、私がその場にいていつも寄り添っていたから、死まで行かなかったんだろうと思います。 もしそのとき共働きなどで誰もいなかったらと思うと身の毛がよだつ思いです。 いまいじめは、学校が解るようないじめ方はしないのです、たとえ他の子供がそれを知っていても、今度は自分がいじめられると思い学校には知らせないのです。少なくとも、父兄から知らせがあったのですから担任も含め学校がもっとその子に寄り添ってあげていればこんな事態にはならなかったと思います。
そのことが、人の命を大切にする教育になるのではないでしょうか。 事件が起きたら、学校は「知らなかった、調べてみます」 数日経って、「御免ない、教育委員会、地域の人と協力して・・・」これもいつものパターンですね。 これじゃ、いつまで経ってもいじめによる事件、事故はなくならないし、中学を出てからも同じように続くのです。 教育基本法を変えなきゃだめだ、等という前に、いま何が必要なのかを政治家も、学校当局も考える必要があるのではないでしょうか?
でも、私がその場にいていつも寄り添っていたから、死まで行かなかったんだろうと思います。 もしそのとき共働きなどで誰もいなかったらと思うと身の毛がよだつ思いです。 いまいじめは、学校が解るようないじめ方はしないのです、たとえ他の子供がそれを知っていても、今度は自分がいじめられると思い学校には知らせないのです。少なくとも、父兄から知らせがあったのですから担任も含め学校がもっとその子に寄り添ってあげていればこんな事態にはならなかったと思います。
そのことが、人の命を大切にする教育になるのではないでしょうか。 事件が起きたら、学校は「知らなかった、調べてみます」 数日経って、「御免ない、教育委員会、地域の人と協力して・・・」これもいつものパターンですね。 これじゃ、いつまで経ってもいじめによる事件、事故はなくならないし、中学を出てからも同じように続くのです。 教育基本法を変えなきゃだめだ、等という前に、いま何が必要なのかを政治家も、学校当局も考える必要があるのではないでしょうか?