N003の実事求是な日々

基本はゲームの事、後は気になったニュースとか人生観とか
自分の病気の事とか実事求是な記事を書きたいと思っております

「笑顔」こそが良質な人間関係を繋ぐ最も分かりやすく確かなモノ(補足追加)

2019-08-14 10:32:42 | 大切なこと
一緒に居て笑顔が絶えない
少なくとも他の人より笑顔の時間が長い
そういう人と一緒に居る事って凄く大事だと思う
簡単なことだが意外と気付かないこと

補足

ちなみにどちらかだけ笑ってる関係とか、心から笑ってないのはダメです(´・ω・`)
かなりダメです(´・ω・`)

相手が心から笑ってるかどうかは「目元」「口元」「声のトーン」この3種類を見分けるしか無いです
何に対して笑うのかっていうのは性格とか人生観とか相手との関係性とかがかなり大きな要素だし
自分が相手をどれだけ理解しているかっていうのも関係してきますしね

つまり人間関係における他人の助言ってほぼ無意味に等しくて
結局自分で何とかするしかないんですよね

人間関係を占ってもらうのって正直かなりダメだと思う
「自分で何とかしよう」って思えない時点でかなりダメだと思う
自分では絶対にどうしようもない状況ってそんなにないと思うんだよね(あることはある)
思考停止するのが人生において一番終わってると思うから

人生が変わる時って他人の影響が殆どなのかもね

2019-07-28 10:32:23 | 大切なこと
人間一人でできる事なんてたかが知れている、どんなに頑張っても限界がある
出会いは偉大だなあ、と思った

よく恋愛で「運命の出会い」って言葉を聞くけど
恋愛に限らず運命の出会いってのは結構存在する

何十億人(日本国内だけで言えば1億数千万だが)も居る人達の中から
特定のの人と出会い仲良くなる確率ってのは限りなく0に近い(出会った後では100%になってるけど)

あの時あれがこうなってこうなって、別のあれがああなったから今こうなってる
みたいなのを思い出していくと、大体奇跡的な関係で今繋がってる事が多い(同級生や同僚を除く)

特に失敗したからとか間違ってとかそういうネガティブな事が原因の出会いってのはマジで奇蹟
そういう意味では悪い事も悪くはない(時もある)ので人生は不思議なものだ

黒柳徹子さんは俺の中でマザーテレサと同格

2019-07-16 00:31:52 | 大切なこと
ユニセフの番組を見ると、本当に黒柳徹子さんは凄い事をしているなと毎回思う
そして、そういう番組を見るたびにいつも思う事がある
 
「俺の悩みなんてクソだ、悩みの内にはいっていない」
 
生まれた瞬間に目が無い状態で生まれてくる赤ちゃん
目の前で両親を残虐な殺し方で殺され、両腕を切断された子ども
「将来の夢はご飯をおなか一杯に食べる事」と言っていた子ども
 
そんな映像を見たら、俺の悩みは悩みじゃないって思う
 
むしろ今の俺の現状は幸福の絶頂期にすら思えるレベル
そんな程度のやつが悩みを語るんじゃねえ
 
こういう番組を見ないとそういう事を思い出せない俺はバカだ、大馬鹿者だ

どうやら俺の生きがいは「他者の人生のレールを増やす事」らしい

2019-06-27 00:10:21 | 大切なこと
最近レールの話をしていたと思うが、つまり「選択肢」の事だ
俺と知り合って、またはブログを読んで貰ったことにより「そういう風な考え方もあるのか」と
思った瞬間に「選択肢」が増えている(増える選択肢は1つとは限らない)

俺が生きていると実感できる時って「ゲームしている時」と「それ」の2つしかない

一人用のゲームは自分の潜在能力を高める、もしくは引き出す為、そして今の能力が劣化しない為にプレイしている事が多い
友達とゲームをプレイしている時はこれまた特殊で「どうやったらその人に最大限楽しんでもらえるか」ばっかり考えながらプレイしている
「それって自分は楽しいの?」って思うかもしれないが、俺は「俺と遊んでくれる人が楽しんでくれることが楽しい」のだ
なので完璧なWINWINである

という事を今日悟った

自分を知るのって案外難しい事だと思う
だって普通自分の事って考えないでしょ、他人の事ばっかり考えて生きてるからね
風呂に入ってる時だけは完全に自分の世界に入るから、見えてくるものもあるんだなと思う

四日市公害原告最後の生存者、野田之一さんが亡くなられました・・・

2019-01-26 23:44:00 | 大切なこと
実は俺は5、6年前に四日市公害語り部の運転手をしていた
故・澤井喜朗さんと、故・野田之一さんを乗せて1年ほど各小学校を回っていた

そして実はその時に、野田さんに眼鏡拭きの様な布を貰いました
それから何となく捨てれず、ずっと財布の中に入れてあったのですが
遂にそれが形見になってしまった

そして亡くなったと報告を聞いて野田さんの意思の様なものが俺の中に芽生えた気がする

俺の夢がまた一つ増えました

唐突に自己紹介

2018-07-07 21:55:02 | 大切なこと
閲覧数(BOT含む)が大台に乗ったので記念に
まあね、BOT含まれてるから微妙なんだけど
某国のPVが何億再生とかで再生数だけ稼ぐ為に連打してたとかそんなのに比べたらマシでしょうw

年齢31歳
身長171cm
体重58㎏前後
A型

日本の真ん中ぐらいで生まれる
親は二人とも元教師(もう二人とも70代なので、父親は来年80ですがw)
姉が二人(8歳と10歳違い)

保育園の時、体を使った競技は全て1位だったらしい
この時既に、
十、百、千、万、億、兆、京、垓、秭(し)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)
恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)
を言えた(今でも言える)
とにかく大きい数字が好きだったが、これを知ってからは特に興味が無くなった

小学6年の春休みの時に友達と3人で40kmぐらい離れたイオンのゲームセンターに2週間入りびたる
その時の友達の一人の親がなんかの社長で、親の口座の暗証番号を知っていたらしく、毎日8万位おろして
2週間で100万位使い込んだという(そのうち俺は5万位おごってもらった)過去がある
ちなみにその財布を親に見つかるとヤバいので俺が預かっていた(その財布から1円も盗んでいない)
もうこの頃からお金に興味がない性格が身についていたらしい

中学生になりサッカー部に入ったが、オスグッド病という骨の病気になって半年で辞めた
友達の半分ぐらいが喫煙を始めるが、俺は1本だけ吸って「無理」って言って終わった
近くにサティ(昔のイオン系列デパート)ができて、友達が3万のジャケットとかを万引きする手伝い(見張り)をしていた
同じ友達と近くにある中型バイクを盗む手伝いも1度だけした
失敗して追いかけられたけど何とか逃げれた

友達の親の金でどうのこうのというのを中学になって先生にチクられて
おごって貰ってまだ形が残っているものは全部返した、そしてその友達とは疎遠になる
今はその友達とは一切の連絡を取っていない

中学を卒業する頃まで善悪の概念が無く、悪い事をしているという実感は無かった

高校は4~5流の高校で、中学校よりレベルが低かった
中学2年の時に高校を卒業したらゲームプログラミングを勉強する専門学校に行くことが決まっていたので
高校なんてどうでもよかったし、勉強は嫌いなので丁度良かった
一番最初の学力テストで数学の1問目が「8 + 4 =」だったのは今でも覚えている

高校に入ってすぐ携帯をトイレに落としてしまったので、ここで同じ高校以外の中学校の友達との関係がすべて消える

1年目でクラスが2つ消えた( ゚Д゚)(1年目の退学者が50人ぐらいいたので)

1-2年は特に何もなく、3年になるとRO(MMO黎明期に日本で一番流行っていたMMORPG)を本格的に始めた(その前からやってたけど)
3年生の1学期だけで欠席数が28日もあって「これ以上休むと卒業できない」と言われた
なのでサボってROをするのは止めた(RO自体は止めていないが)

高校生になった時に母親に実は離婚しているという話を聞かされ、出ていくと言われた
更に父親はこの時に広島大学の大学院で学位を取るからと言って広島に行ってしまった
つまり俺は高校生の時は一軒家で一人で住んでいた
母親は気を使って俺の通学路のアパートを借りていたので、学校に行く前そこで朝ご飯を食べて弁当を貰った
晩御飯はどういう感じだったか覚えていない

修学旅行でディズニーシーに行ったが8割位ベンチで一人で寝ていた
最初一緒に行くメンバーが4人ぐらいだったのだが、そこに何故かどんどん人が集まってきて
10人ぐらいになってしまった
俺は多人数で居るのは楽しくない(自分を引っ込めてしまう)ので1人ではぐれてベンチで寝てた
そしたら別のグループの友達が俺を見つけて「一緒に行こう」と誘ってくれた
別にこの時はネガティブな感情は無かったと思う、トラウマになってもいないし
別に誘ってもらってうれしかった記憶も無い
実際この記事を書いていて途中まで忘れていて書き足した位
家でずっと一人で暮らしていたので一人に居る事に慣れてしまったのだろうか

専門学校に入る前に親に1000万円渡された
「これで学費(専門学校の)とか生活費とか全部自分でなんとかして」という事らしかった
高校卒業したばっかりの時の1000万は「これで一生暮らせるんじゃないか」という錯覚に陥った

専門は2年制
1年目も2年目もほぼ夜の8時(残れる一番最後の時間)までずっと勉強していた
途中で作曲の授業が1か月あって、とても楽しかった、1日1曲新曲を作っていた
今でもちゃんとした作曲の勉強をしてみたいなという気持ちは5%ぐらいはある

行きたいゲーム会社など無かったので適当に7つ受けた
今思えばそこで「俺は社会不適合者」なのだという事を知った(まだ本人は自覚していない)
簡単な数学や物理の問題が出るが勉強してないので、ほぼ白紙
2進数と16進数の変換とかは楽しかったのでできたけど
「わが社を応募した理由は何ですか」という問いに一応答えるけど、嘘をついているのでそこが嫌だった
しかし「ありません」という事も言えず、面接が嫌になった
作品選考は7社中7社受かっていたのでプログラマーとしての技術は新卒採用してもいいレベルはあったのだと思う、自分でも自信はそこそこあったし
しかし、面接とテストが終わっていたので7社とも落ちた(当たり前だが)

一応3年目(研究生という形)を受けたが、夏休み前に学校に行かなくなってしまった

小中の記憶が専門の時のある事件で吹き飛んでしまったので、小中は強烈なイベントしか覚えていない
俺の勘違いだったのだが、俺が勝手に裏切られたと思ってしまったのだ
その時は景色が白黒に見えていたほどの衝撃だった

そして母親が暮らしている場所に戻った、ここから(21歳)が引きこもり人生の始まり

引きこもりって家に居るだけじゃまだ中度だと思う、だってインターネットやってたら一応情報はあるし
俺はインターネットもせずにひたすら毎日半年間AOE3(もうすぐAOE4出るよ!)というゲームをオフラインでやっていた
つまり本当の意味で外界と遮断していたのだ
しかしそこで初めて自分との対話ができるようになった気がするし
俺というアイデンティティが誕生したのもその時だ
それまでの俺はまだ形ができておらず、フワフワしていたと思う

そしてこの頃(23歳ぐらい)貯金がほぼ無くなった(学費と家賃と食費で500万ぐらい消えていたが)
1000万がたったの5年で消えたのは衝撃だった
(年収200万程度と考えれば何ら不思議てはないが)
なので働かなければならなくなった

実家の近くで農業(米)の仕事を始めた
親子(親方と息子)でやっていて、俺は息子に仕事を教えて貰っていた
将来親方が止めた時にその息子と二人で切り盛りしていく右腕的存在として働いて欲しいと言われた(息子に)
なので俺も結構頑張った
しかし、11月12月合わせて出勤したのは2日しか無かった(月給制なので満額もらっていたが)
後々聞いた話によるとその親方が俺に仕事を教える気は無かったらしく
その田んぼ(300反以上あったが)も息子に継がせる気は無かったらしい
「自分の代で全て築いたものを他人(息子も含め)にあげる気はない」という人だった
更に息子は夫婦で手伝っていたのだが、途中から奥さんが来なくなった
聞いてみると親方と息子夫婦の3人で暮らしていたらしいのだが
家で親方にDVを受けて精神病院に通わなければならない程らしかった
親方に奥さんが居ないのも多分そういう事なのだろう
そして息子も止めてしまった、当然だが
息子から電話がかかってきて「〇〇くんも止めた方が良い、あの人(親方)教える気無いからそこにいても使い捨てられるだけだよ」と
なのでどうやって辞めようか考えた挙句、母親が介護が必要になって仕事ができなくなった(事にした)
それを親方に言ったら「そんなん本人の問題やでお前は関係ないやろ」と言われた
自分で出来ないから介護が居るのに本人の問題ってこいつ頭おかしいわ
と、その時思った
そして無理くり言ってそこを辞めた(働いたのは半年)

ちなみに終わった後、なんか俺に何とか制度の登録をしていたらしく
息子にとある用紙を貰ってそこに3か月間の事を書いて欲しいと言われた
「折角であったんだから、ここで終わりじゃなくてたまにはご飯でも食べに行こう」と言われたのだが
俺が「それより、用紙書いたんですけどいつ渡せばいいですか?」と言ってしまったので
それから連絡もこなくなって用紙も渡していない
俺としては全く深い意味は無かったんだけど、相手がそう捉えてしまったのでは仕方がない
俺はここで言葉とは発した人の気持ちは関係なく、受け取った人の気持ちが全て」だと悟った

次は引っ越しの仕事を始めた
その頃はまだ車を持ってなかったので原付で片道45分かかる場所に行っていた
しかも7時出勤なので毎日朝の5時30分ぐらいに起きてた(今では考えられないが)
給料は(バイトにしては)良かったので、半年で100万位貯金がたまった
というか俺は本当に基本お金使わないので勝手に溜まる
そこで二人鬱陶しい奴がいたが、気づいたら二人とも左遷されていた(しかも一人は九州)
最後は足のケガで止めた(働いたのは半年)

次はブックオフに入った
店長は女性だったのだが語尾に「ナリ」を付ける人で
コロ助って実在したのかよ・・・と思った
そこでの仕事で自分が手先が器用だという事を知った(上司に言われたので)
しかし数か月した頃に異変が起きた、仕事にはいろうとして喉にタンがある感じがしたので店長に
「トイレに行ってきます」といってトイレでタンを出したら「血」だった
店長に報告すると「はよ病院行け」と言われた
そしたら「肺炎」と診断され「即入院して」と言われた
原因はレジ、ここで俺は自分は接客業ができないという事を理解した
ただ、最後の一撃はお金の札を間違えて受け渡しをしてしまったこと
相手が1万を出したのに俺は5千と勘違いして会計をしてしまった
相手の人は余程金持ちなのか、5千円マイナスされて戻ってきても何も言わず
後で気付きもしなかったらしい(クレームの電話も無かったので)
しかしこれのせいで俺は「ミスをしてはいけない」「次もするかもしれない」という重圧で自分を追い込んでしまったのだ
この辺も社会不適合だと思う

1か月の入院と療養が終わって2日バイトをしたらまた血が出た(*´Д`)

次は療養を長めにして2か月にしたのにまた直ぐ血が出た(*´Д`)

なので俺は「これ以上迷惑をかけれないので辞めます」と言って辞めた

これの件のせいで俺は仕事が怖くなって、仕事ができなくなってしまった
だって働いたより出ていく(治療費)の方が多いんだもの、やる意味がない
勿論接客業に限った事だけなのかもしれないが、自分の中では仕事=恐怖の対象になってしまった

ちなみに俺が働いた引っ越し会社とブックオフは両方とも潰れていた

この時点で25歳ぐらい、どうしていいのか分からなくなった
2度目の引きこもりの時期
しかし母親の脛をかじり続けるのも俺のプライドが傷ついていった
この時は海のそば(歩いて2分ぐらい)に住んでいたので、何百回海を見に行ったか分からない
死のうと思ったことは無いが、自分が何の為に生きているのか分からなかった
「親に迷惑をかける為だけに生まれて、親が死んだらのたれ死ぬのか?」という事実で押し潰れそうになった
それから2年程、ずっと脛をかじって生きていた

27歳になる事、とある場所に通っていた
この頃から「迷ったらやら(行か)ない」から「迷ったらやる(行く)」に気持ちが変わっていった
迷うっていうのは、やり(行き)たくないから迷うんだ、と思っていたが
迷うっていうのは、やり(行き)たい気持ちがあるから迷うんだという風に変わっていった

そこでとある人に出会った、ここで俺の運命が変わった
他人に頼らずに自分で生きる方法というのを教えてくれた人と出会ったのだ
しかも都合の良い事にその条件を俺は全て満たしていた

まだ完全に一人では生きていけないが
いつか必ず一人で生きれるようになるし(ならなきゃいけない)
今度は誰かの為(まずは会社を作る事)に生きたいとも思う
そしてその過程段階に居るのが今の俺です

長くなりましたが自己紹介でした
中学の部活を半年で止めて、3つの仕事も全部半年で辞めて(ブックオフは働いた時間が半年、入院含めると1年)
俺って半年で辞めてばかり・・・今の仕事は4年続いてるけどね

最近心の中から出てくる事を書くことが少なくなった

2018-07-01 00:26:40 | 大切なこと
昔はそういうことばかり書いていた気がする
でもあの時は何もなかった
何もないからこそ自分の声がよく届いたのかもしれない
今は外からの情報が多すぎる

自分の声が聞こえない人はとても浅い
何故なら他人からの情報で塗り固められているから自分の声が聞こえないのだ
自分というモノを持っていない
たまには自分の心の声を聞いて、人の声ばかり追わないで

他人と隔絶された環境でひとりでボーッとしていると自分の中から声が聞こえてくる
それが出来ない人は他人に依存している人だと思う
ネット依存って要は自分の中に何もないから、他人の存在を認めることによって自己を間接的に確認していると思うんだけど
本性かどうかも分からないネット上の他人なんて何の価値も無い、本当の人格で話している人が一体どれだけ居るか分からないのだから

現代人はヒトリになる時間が少なすぎるのだ

ネット(他人)の情報は可能性であり真実とは別のモノ

2018-07-01 00:19:32 | 大切なこと
ネット(他人)の情報に関して思ったこと
タイトルが全て

情報とは丸呑みするモノでは無く、噛み砕いて自分の一部にするモノ
何を必要として何を不要とするか
何が真で何が嘘か
それを決めるのは全て自分
真実は自分の中にしか存在しない
自分が真実と思ったことは全てが真実で
自分が嘘だと思ったことは全てが嘘

だから他人からの情報は鵜呑みにしてはいけない
それはタダの可能性の1つなのだ

安室奈美恵さんも同じ様なことを言っていた

2018-01-11 22:29:46 | 大切なこと
安室奈美恵さんがHNKの「告白」という番組で言っていた言葉

安室奈美恵がどういうものなのか分からなくなった

と言っていて「楽しむことを忘れていた」と言っていた
あまり詳しい事は言っていなかったが、俺はこう解釈した

会社からは利益の事を言われ、ファンには望むものを提供しなければならない
その中で自分が何で歌手をしているのか、何のために誰の為に歌ってるのかが分からなくなったんじゃないかなと
そして、もがく中で「楽しむことを思い出した」と言っていた
それからテレビにも殆ど出なくなり、コンサートもMCをしなくなった
つまり、自分のやりたい事だけやって自分もファンも満たされるようになったのだと思う

何が言いたいのかというと、俺がこの前
「再生数や閲覧数ばかり気にして本当に自分が楽しめているのか」
と言ったことが、ここに当てはまるのだ

勿論安室さんは俺と違ってプロなのでそりゃ利益が出なければ意味が無いし
ファンの希望にこたえるのも仕事の内だ
しかし、自分が楽しくないのにそれを続けることに疑問を感じていたのだと思う

ファンの方がもし居たらすいません(*´・ω・`*)
これは俺が勝手に言っている事なので大した意味は無いです!

後なんかあの番組見ていてちょっと泣きそうになった
別に俺はファンでも何でもないんですけど
本物の言葉は心に沁みるね

大好きなさっちゃんへ

2017-06-09 23:26:21 | 大切なこと
俺とさっちゃんが出会ったのは2年半前、親しくなったのはもっと後の話で、さっちゃんのニャン生18年の中ではそこまで長いつき合いではなかったね。
それでも玄関に入ると迎えてくれたり、くれなかった時もまずはさっちゃんに挨拶に行くのが恒例になってたよ。
2週間二人きりで過ごしたこともあったよね。
家の主だったさっちゃんの幻がまだ家の何処に居ても見えるよ。
直ぐ後を追いかけることはできないけれど、さよならは言わないよ。
俺にとってさよならは2度と会わない相手に使う言葉だから。
いつか俺もそっちに行くことになるからその時にまたいっぱいマッサージしてあげる。
さっちゃんとの時間は本当に楽しくて幸せだった。
こっちの世界でもっともっと遊びたかったよ。
出会ってくれてありがとう。

さっちゃんの専属マッサージ師より


この家の何処に居ても、さっちゃんとの思い出がある

2017-06-05 10:18:24 | 大切なこと
ベランダに和室にキッチンにお風呂に廊下に玄関に寝室にパソコンルームにフィッティングルーム
その何処かにさっちゃんは絶対にいた
たまに居なくなって探すととんでもないところに居たことが何度もあった
でも、探したら絶対に居た

それなのに今はもう何処を探しても居ない

この家の主だったさっちゃんは居るのが当たり前だったのに、おなか空いたってわめき散らして来たのに
まださっちゃんの残像がこの家のありとあらゆる場所に残っている
未だに信じられない、もう二度と声が聞けないなんて

一睡もできなかった

2017-06-05 05:49:14 | 大切なこと
結局、一睡もできなかった
まぶたを閉じると思い出が溢れてきて、とても寝れるような状態ではない

幸せは大きければ大きいほど失う時の損失が比例してでかくなる
そういう覚悟を持って生きなきゃ潰れてしまいそうになる

過去に2代目アルファ(犬、今は3代目)と祖母を亡くしているが
何度目であろうとも死というものは心に計り知れない損失をもたらす
生きている限り自分の周りで命が失われていくのを見続けなければならない定めなのだ
自分の命が消えるその時まで

人間は知恵を貰ったと同時に悲しみや苦しみも貰ったのだ
知恵の実は悲し実や苦し実とも言えるのかもしれない

しかし、だからこそ人間の記憶は少しずつ薄れていくように設計されていくのではないだろうか
そうでなければ生きるのが辛すぎるからだ
常に今起こった出来事のように全ての記憶を蘇らせることができる人が居ると聞いたことがあるが

一体どれ程の、、、

最後のプレゼント

2017-06-05 03:46:32 | 大切なこと
亡くなる少し前に飼い主の人が少しさっちゃんを移動させようとしたときに
嫌がって本気で噛みました、今までそんなに強く噛まれたことが無かったそうで
指の表と裏側両方から血がドバドバ出ていました

さっちゃんがこの世界に存在したという確固たる証明の最後のプレゼントでした

猫が亡くなりました

2017-06-05 03:30:17 | 大切なこと
俺が飼っている猫ではないけど、このブログにちょいちょい出ていたさっちゃんが1時間ほど前に亡くなりました
偶然俺が泊まる日の出来事で、数日前からご飯を食べないし大好物も見向きもしないし異変が起き始めていました

18年という長い猫生(にゃんせい)の中で俺とは2年ほど前からしかつき合いがないけど
その間に写真を100枚以上、動画も10以上撮るほど仲良しでした

幸せな18年間だったと思います、きっと
また会おう、数十年後にそっちで