珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

抜け落ちたもの

2020-07-12 | 日記
コロナの感染者が一日、何百人超え…特に「彼女」がイスに座っている東京都が。
もはやこれ自体が疑わしくなってきたわ。
確かに政府が発表しているグラフには数字は載っている。

でも、いつかのベッド所有率も、かの卒業証書も政府が公式に発表してたことだもんね( ̄∇ ̄) 
申し訳ないけど数々のミステリーを見てしまったせいで「政府の公式発表だから、血の一滴まで真実」と信じるわけにはいかなくなってしまった。

2月3月に活発な冬型の風邪ウイルスが、この高温多湿の東京の下で、同じかいやそれ以上に猛威をふるって蔓延しているんだよね?
そんなミステリーも「そういうウイルスなのよ。ははは」と、実にあっさり盲信してくれる人が多くてよかったですね。

死者数が首をかしげるほど増えていないけど、本当に同じウイルスなのかなあ?
PCR検査って、新型コロナウイルスだけに正確に反応してくれるのかなあ?
いやそもそも陽性自体がホントなのかなあ?
一人10万円でそういうことにされていたりしてね( ̄∇ ̄) 

そんなビックリすることでもないでしょ。
誰もかれも札束を見せられると「アッと驚くくらいに」豹変しちゃうみたいだから。

一ついえることは、ウイルスは金では買収されない。
自然界は嘘はつかないのである。
「金をやるから、この夏にまた活発に動いて第二波をやってくれよ」とはいかないよね。

「そういう話は建設的ではありません。さあグラフをとくとご覧ください!!」(バーンとグラフを出す都知事。
デジャブ?

疑惑を捻じ伏せても、既成事実はまことしやかに作ることができる。
細部まで抜け道なく、完璧に塗り固めることも。
彼女はそれに成功したのだろうか?

私は「隙間」から、信頼というものがすっぽり抜けてしまったけどね。
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初体験の話

2020-07-12 | 日記
小学校の時、学研の学習、科学という月刊誌があって私は「学習」の方を定期購読していた。

その中で何年生か忘れたけど
「北極の氷が全部解けたら海水はどうなるでしょう?」
という問題があった。
①「水面が上がって地球が大洪水になる」
②「海水の高さは変わらない」
の選択肢があって、答えは②と書いてあった。
コップに氷を入れた写真でその説明があって、なるほどそうなんだと、私はずっとそう思っていた。
ところが大人になってからテレビで「北極の氷が全部解けたら、当然海水面は上がって大洪水になる」と教えていたのでびっくりした。

ええええ???
学研の「学習」は子供相手だと思って嘘を教えたの?と混乱した。

が、そののち、嘘を言ったのはテレビの方だったと知った。
今もテレビは相変わらず、いろんな嘘やいい加減なことを言っているけど、変な話、慣れてしまったなあ。

初めてテレビでデタラメを聞いた時のショックは、今思うと初々しかった(笑)
どうでもいいけど、ふと思い出した「初体験」の一つである。


ちなみに学習、科学は付録も楽しみだった。
思い出の付録を書いてみると、「リットルポットとデシリットル升」「地図拡大機」「3年生チャンピオンブック」(この時の科学の付録は「磁石セット」)「ローマ字ネームパンチャー」、それから「ドレミトロン」「ピコレット」「オカリナ」(これらは楽器)
夏休みの「読み物特集号」もよかったなあ。(「傷のある茶碗」「なみだちゃんバンザイ」「ジニーと人形の謎」「君はダックス先生がきらいか?」などなど…)

ますますどうでもいい話でしたね( ̄∇ ̄) 
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未知

2020-07-12 | 思うこと
未だに教義論争をしている一部に思う。
一体この人たちは、その幸福の正体が「教義の中味」ではなくて「自分がそれを正しいと思う確信」だということにいつ気づくのだろうか。

ズバッというと「Sは詐欺」なんてことも、ふつうに考えて、他人のやっていることを詐欺なんていうネガティブな話が愉快なはずがない。
友人や家族と楽しいひと時を過ごすとか、美味しいものを食べるとか、充実感のある仕事を終えたとかの方が愉快に決まっている。
が、そんなことはさし置いてでも、一日の大半を他人の批判やダメ出しに費やすのことの方にずっと夢中になってやめられないのは、それに関しては絶対的な迷いのない、確信があるからである。

普通は、なかなかそこまで確信のもてることに出会うことなんてない。
私だって自分の言っていることにそこまで確信などもてないし、いつ何時気が変わるかもしれないと思っている。
夫や娘がいつまでも元気で、自分の満足のいくようにあってくれるなんて考えたこともない。
明日には一切の価値観が変わって、今あるものも失うかもしれないと思っている。

もし、絶対とか永遠なんて確信がもてたら、それが理想なんだと思うけど、そこまで強信するものなんて今はないなあ。

何度も書いているけど、宗教の救いの正体は「わからない、未知、迷い、不安に対して確信を持てること」と思う。
言い換えれば宗教じゃなくても「これは絶対××だ」という、宗教なみに強信できるものがある人は救われるんだと思う。

「迷える子羊」とはうまく言ったもんだと思う。
昨今も、人は何より未知というものに迷って怖がって、確信を探しては救いを求める、ということをまざまざと見る。
「予断」ができたら脅えないのである。

改めて私はこればかりを強く思うけどね。
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