私がS問題を見て、要するに「信じさせれば教義なんて何でもいい」と度々書いた。
内容が素っ頓狂だとか、オカルトだとか、コロコロ変わるといっても、要は信じさせればいいのだと。
Sはそれをわかっているから、素っ頓狂でもコロコロ変えるも平気でやっているのだと。
これが未だにわからない人は、今回の騒動を見てみればわかるのでは?
「コロナは怖い。でも自粛すれば感染を封じ込められる。そうすることで亡くなる人を助けらます」と信じられた人は、こんなインチキに、お金も労力も時間も喜んで差し出した。
「喜んで」までいかなくても、希望をもってそれを引き換えにできたし、その人の中ではそれが「正しくて真実」になった。
強信した人は、信じない人を侮辱して、折って伏せてでも強要した。
ね?信じればこのくらいやるんですよ。
私はダメだった。
「コロナが怖い。でも自粛すれば感染を封じ込められる。そうすることが亡くなる人を助けられる」なんていうのは、イワシの頭でしかなかった。
倫理的とも合理的とも思わなかった。
信じられない人に
「イワシの頭のために何十万も出しなさい、仕事をやめなさい、学校もダメです。そうすればこれが解決します。さもないと地獄をみます」
と言われたようなものだった。
「そんなの信じません、嫌です」と言ったのに、無理やり正座させられて、来る日も来る日も何時間も題目をを強制されるようなものだった。
マスコミを始め、誰がやったのか知らないけど「信じさせるテクニック」はアルアルだったなあ。
脅しが基本というか。
それでも信じる者は救われたのだろうか?
まるで私の方が洗脳された異端教徒にされた気分だったけど、私の信じるものは今回のようなものじゃない。
自分の感覚というものが改めてわかった騒動だった。