以前いた教団をやめた人の圧倒的多数の声。
教えはデタラメだった。
唯一正しいと習ったけど、とんでもない大嘘だった。
騙された。
そんなデタラメをいう教祖も教団も信じられない。
信者は『ボンクラ』または『可哀想な人』である。
それ以外は認めない。
私も最初はそう思ったけど、それは違うと思う。
まず、教えにデタラメも正しいもない。
強く信じれば何だって力になる。
実際、全く同じ教え、同じ曼荼羅が絶対に正しいと信じたら祈りは叶った。
少なくとも、叶ったと思わせる力があった。
「叶わなくても、その方がよかった」と思うことができた。
それはつまり、「祈りは叶った」「そんな力が実際にあった」ということ。
教えに「すごい」や「デタラメ」が存在するなら、そこまで信じられる教えというのが「すごい教え」と思う。
「これしかないと信じさせる」=「唯一力のある教えを布教している」になると思う。
実際、同じ教えが「デタラメだった」と信じられなくなった途端、叶っていたことが叶わなくなった。
正体は「信じるか、信じないか」
曼荼羅や教義そのものなんか、何だっていいのである。
信者を、宗教ビジネスの「カモ」というのは確かに一つの側面である。
宗教ビジネスの運営者はとてつもない報酬をもらっている。
企業のトップというのは、その辺のサラリーマンより景気がいいのは当然と思う。
それは違いないのだけれど、それがすべてで「それしかない」わけじゃない。
例え、傍からみておかしいと思っても、何かを信じて純粋に祈る。
そういう人を「騙されている」「貢いでいる」の一本やりでバカにしてはいけないと思う。
彼らは「信じている」のであって「信仰している」のである。
私は、ああいう教団の極アンチである。
アンチを否定しているわけでも嫌いなわけでもない。
そんなことあるわけない。
だからむしろ堂々と言える。
言えなかったらそれは危険と思う。
こういう考え方も以前からあったけど、だんだん芽生えたのかもしれない。
人の気持ちは変化するし、この先も変わるかもしれない。
こういうことを「アンチ」が書くと、少なからず反論される。
でも言いにくいとか波風が立つから言わないと、「無い」「相手にされない少数意見」にされる。
私はそれはやりたくない。
「ガンバレ、少数意見」である。
極アンチの少数意見である。
教えはデタラメだった。
唯一正しいと習ったけど、とんでもない大嘘だった。
騙された。
そんなデタラメをいう教祖も教団も信じられない。
信者は『ボンクラ』または『可哀想な人』である。
それ以外は認めない。
私も最初はそう思ったけど、それは違うと思う。
まず、教えにデタラメも正しいもない。
強く信じれば何だって力になる。
実際、全く同じ教え、同じ曼荼羅が絶対に正しいと信じたら祈りは叶った。
少なくとも、叶ったと思わせる力があった。
「叶わなくても、その方がよかった」と思うことができた。
それはつまり、「祈りは叶った」「そんな力が実際にあった」ということ。
教えに「すごい」や「デタラメ」が存在するなら、そこまで信じられる教えというのが「すごい教え」と思う。
「これしかないと信じさせる」=「唯一力のある教えを布教している」になると思う。
実際、同じ教えが「デタラメだった」と信じられなくなった途端、叶っていたことが叶わなくなった。
正体は「信じるか、信じないか」
曼荼羅や教義そのものなんか、何だっていいのである。
信者を、宗教ビジネスの「カモ」というのは確かに一つの側面である。
宗教ビジネスの運営者はとてつもない報酬をもらっている。
企業のトップというのは、その辺のサラリーマンより景気がいいのは当然と思う。
それは違いないのだけれど、それがすべてで「それしかない」わけじゃない。
例え、傍からみておかしいと思っても、何かを信じて純粋に祈る。
そういう人を「騙されている」「貢いでいる」の一本やりでバカにしてはいけないと思う。
彼らは「信じている」のであって「信仰している」のである。
私は、ああいう教団の極アンチである。
アンチを否定しているわけでも嫌いなわけでもない。
そんなことあるわけない。
だからむしろ堂々と言える。
言えなかったらそれは危険と思う。
こういう考え方も以前からあったけど、だんだん芽生えたのかもしれない。
人の気持ちは変化するし、この先も変わるかもしれない。
こういうことを「アンチ」が書くと、少なからず反論される。
でも言いにくいとか波風が立つから言わないと、「無い」「相手にされない少数意見」にされる。
私はそれはやりたくない。
「ガンバレ、少数意見」である。
極アンチの少数意見である。