2023年 多くの人が逝ってしまった。7月からの猛暑は9月まで続き、日本列島は「春秋」が極端に短く「日本の四季」がなくなった等とも呼ばれた。稲川野は列島を襲った猛暑は直撃したが梅雨の季節に雨はなく、台風の大風もなかった。
稲をはじめリンゴ等の生育、成熟に大きな影響がみられた。コメの一等米比率は近年にないほど低く、リンゴの着色は例年とは比較にならないほどノリが悪かった。
こんな気象が影響したのだろうか。多くの知人、友人を亡くした年になった。 cx
2023年 多くの人が逝ってしまった。7月からの猛暑は9月まで続き、日本列島は「春秋」が極端に短く「日本の四季」がなくなった等とも呼ばれた。稲川野は列島を襲った猛暑は直撃したが梅雨の季節に雨はなく、台風の大風もなかった。
稲をはじめリンゴ等の生育、成熟に大きな影響がみられた。コメの一等米比率は近年にないほど低く、リンゴの着色は例年とは比較にならないほどノリが悪かった。
こんな気象が影響したのだろうか。多くの知人、友人を亡くした年になった。 cx
集落と国道398号線を結ぶ道路が約50年ぶりに舗装されることになった。8月の盆前、朝の「田めぐり」で知る。事前に広報等で発表されていたこととは思ったが見逃していた。看板を立てられた直後、担当になった業者があいさつに来た。道路側耕作者には直接、集落全体にはチラシで通知するという。
道路舗装の看板と道路の状況
この道路は昭和49年圃場整備事業で新しくなった。集落と国道398号線を結ぶ道は主要な道路で交通量も多く、子供たちが学校に通う通学路でもある。
旧道は、集落からやや北西に進んで隣集落に向かっていた。新しい道路は圃場整備事業で造成され、集落から真西に進んで隣集落へは途中で直角に曲がって入るようになった。新しい道路はすべて元は田んぼ、水路、土手の上となった。
整備の終わって間もなく道路は毎年のように穴ぼこになった。写真のように道路の表面は常に「亀甲」状態。幾度となく再舗装の要望を当局に出したていたが、穴あきが進むとその部分を補修工事で過ごしてきた。
平成17年合併で湯沢市が誕生。旧稲川町から広域合併で市町村が大きくなると住民の要望はなかなか当局には届かなかった。
舗装前の道路は亀甲模様状態
春になると至る所にアスフャルトがめくれアナボコ状態が続いた。写真にみられるような道路表面の亀甲模様は、かなり早くから見え始めていた。写真の亀甲面に囲まれた真っ黒の面は今年補修された場所。軽自動車のタイヤは小さくこの穴ぼこの道の運転は常に要注意だった。穴ぼこが多いのでまっすぐに走行できなかった。さいわい大きな事故はなかった。
道路が新しくなったのは圃場整備事業によってできた。下記は昭和46年農家に配布された計画概要
上記の計画書が昭和46年に配布され、私の地域は稲川2区(五ケ村)に入り昭和48年に工事実施地域に入り工事始まった。大型のブルトーザーがうなり声をあげ工事の始まった田んぼは異様な光景に見えた。
工事風景 現スーパーよねや付近 雄長子内岳 大館集落
にぎやかな重機の作業音は集落内をに響いていた一方で、集落内は大きな喧騒下にあった。喧噪の工事後の来年度作付けのために割り当てられる田んぼの「一時利用地」設定が大きな関心ごとで揺れていた。
「一時利用地」は工事終了後の「本換地」め前の作業だった。圃場整備事業に当たって作業後の耕作地の「本換地」に当たって、集落内では協議により。圃場前の農地の等級設定のための「評価員」、評価後の換地のための「換地員」が耕作者から選ばれ作業に当たっていた。作業が進むと「農地評価」、来年度作付けの「一時利用地」の設定不満が続出し、集落内は異様な空気に包まれていた。
一部から工事方法に不満が出ても土地改良区を中心に当局は「県営事業」だから問題ないと繰り返すのみだった。
喧噪の集落内で私はある日、ブルトーザー唸り声の田んぼを回って工事のやり方に驚いた。一角30アールの田んぼの畦畔、さらに道路、農道はほとんどが今まで耕作されていた表土、水路は水が流れてをそのままにブルトーザーに押し出された土で水しぶきが上がっていた。田んぼは「宅地造成方式」で造成されていた。積み上げられた表土中心の道はとフカフカの状態。仮に道路造成で転圧されても今まで耕作されていた表土の中心の地盤はに大きな不安が残った。
完成されたとする圃場は工事当時危惧した欠陥が露出した。面工事重視の圃場には想像されない欠陥が続出した。学習会を頻繁に開いていた私たちグループは、昭和49年8月前年工事地域を含めた稲川町17集落から170名が終結し、「稲川町圃場事業を良くする会」を結成した。活動の詳細は別の機会に回したい。 詳細は 講座/日本農民 1「現代の農民一揆」「官製欠陥田はゆるさない」たいまつ社刊編薄井清(1978.7)
2023年9月、49年ぶりの道路の再舗装が終わった。
舗装された部分
出来上がった道路は市道「野村・川連線」1699.4ⅿ、幅5.72ⅿ中田んぼの部分約450ⅿにあたる。本格的な路床工事ではなく、元のアスファルトの除去した後の路盤を整地し、自走式の建設機械で整地、転圧した簡易的な工事にみえた。
穴ぼこ道路に辟易しながら数年たち、今回再舗装の知らせは明るいニュースには違いがなかったが、村の人々から大きな拍手があったわけではない。亀甲模様の穴ぼこ道に長年悩まされてきた姿から急激には脱却は出来ないでいる。
工事業者は公共工事の予算が少ないので比較的な改修工事という。村の評価は位置的でも改修工事を評価しつつも、亀甲「穴ぼこ」道路になるのも時間の問題だとの声も上がっている。
湯沢市川連町は川連、野村、大舘、久保の4地区で構成され、川連に麓、川連、上野の3集落が入っている。川連地区は川連城の城下町として形成されてきた。川連城が築かれたのは、寛治年間(1089~1093)といわれ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。菩提寺の神應寺は1050年頃から存在する古い集落。
現在全国的に空き家が急増している。総務省調査では空き家は全国に849万戸、長い間人の住んでいない空き家が349万戸と報道されている。
今回これらの状況の中で集落内の住居の動向を振り返ってみた。今回私の持っている資料と「人口ピラミットPlus」を参考にした。下記の表は私が調査し集計した年代ごと増えた戸数と減った戸数の一覧。
麓集落の戸数の推移(明治3年~令和5年)
手元の資料で麓集落戸数の一番古いもので明治3年(1870)36戸、これは古地図に記載されていた。詳細はブログ「二つの古地図 川連村・大舘村」(2014.06.30)。
大正14年(1925)は45戸、当時集落内で部落山林の所有権を巡る争いがあり集落全員の住所、戸主の名が書かれた資料があった。
平成12年(2000)に減った戸数と新たに加わった戸数を昭和20年(1945)中心にして分類した。集落に保管されていた総会議事録を精査。明治、大正、昭和30年前は不確かなものしかなかった。比較的整理された集落総会議事録は昭和30年以降(1955)でその議事録を参考とした。
その結果、昭和20年(1945)以前減った戸数8戸、増えた戸数9戸で計46戸。昭和20年(1945)以降平成12年までの55年間での増えた戸数16戸。減った戸数4戸で12戸増え集落戸数計58戸だった。一時的に集落戸数59戸の時期があったが詳細は不明だ。
戦後増えた戸数16戸の内、集落内からの分家等が9戸、他集落からの移入7戸。他集落は行政区を異にする隣集落が主。他の市町村からの移入はない。昭和から平成にかけて麓集落戸数57戸は定着していた。減少が見えてきた外の地区同様、バブル崩壊以降で近年加速されそうな傾向にある。
平成22年(2010)には53戸。現在令和5年(2023)は平成22年(2010)から3戸減り1戸増えたので51戸が集落の戸数。令和5年現在、集落には3戸の空き家がある。3戸は横手市、秋田市、長期入院となっている。2戸は確定される状態だが1戸は流動的だ。
集落内には長年解体されない「空き家」が一戸ある。昭和60年頃に千葉県へ移住したとされるが実態はわからない。崩壊の危険が危惧され、再三対応を行政機関に訴えても持ち主とも連絡が取れずに現在に至っている。
崩壊した住居 K(H) 宅
平成12年以降集落から離れ、他地区へ移転し解体された住居を追ってみた。
空き家状態の2戸が令和4年(2022)の9月中旬から11月下旬まで、解体作業が連続して行われた。重機のウナリ音は集落内や取り囲む周囲の山に響き渡った。解体の重機の音はどことなくもの悲しさが漂う。2ケ月も連続しての住居の解体の音は在りし日の交流と惜別の哀しさの宣言にもみえた。
左 G(T)宅 右 T(M)宅
G宅は家主が住居を大仙市に移し、お盆等不定期に帰ってきていたが空き家状態が20数年続いていた。T(M)宅は6年前に湯沢市の移り空き家状態が続いていた。両宅は昨年秋9月から11月にかけて解体した。T(M)宅の写真は解体作業で重機搬入直前の状態。
2010年以降、上記の2戸の解体前の住居6戸を、振り返ってみた。一部はgoogleマップから拝借した。
左 K(S)宅 右 T(M)宅
K(S)宅は10数年前から秋田へ移転、定期的に帰ってきていたが6年ほど前に解体。T(M)宅は玄関正面、6年ほど前湯沢市へ移転、昨年10月解体。
左 T(K)宅 右 G(T)宅
T(k)宅は20年ほど前に横手市へ移転、10年ほど前に解体。G(T)は平成に入ってから大仙市に移転、毎年のように盆等には帰ってきていたが昨年9月に解体。
左 I(A)宅 右 S(H)宅
I(A)宅は施設に入っていたが亡くなり4年前に解体。S(H)宅は施設に入っていて亡くなったという。10年前は車庫等残っていたが大雪のため倒壊し解体された。
現在集落内に空き家が3戸ある。その他、麓集落から他地区へ移転等で過去に解体された住宅地は2ヶ所。現在一か所は畑にもう一か所は市の管理地になっている。
現在集落内戸数48戸、1人世帯が8戸、2人が19戸、3人が9戸、4人が5戸、5人以上の戸数が7戸となっている。若い世代は生活拠点を他の地域に移して生活している。今後も麓集落内の住宅の減少は続く可能性は高い。
麓集落世帯人員 2023.1
全国的に長期間人の住んでいない空き家が349万戸、住宅の総数に占める割合は5.6%、特に高知、鹿児島、和歌山、島根では10%を超えが報道されている。
新築の場合、住宅ローン減税などの優遇措置が取られてきたが、住宅の「終活」への政策が圧倒的に少ない。現在家財道具の整理や住宅解体費用は平均的な住宅で200~300万、他の地域の旧家で500万の見積もりがあったので放置しているとの話もあった。
政府は空き家放置対策として、税制優遇の対象から外す範囲を広げることを検討している。倒壊の危険等の有害となるおそれのある「特定空き家」について、「空き家対策特別措置法」の対象外とする規定を設けている。実質増税策で平成27年5月に施行されたこの法律にどれほど効果があったのか実態調査を急ぐべきだ。
人口減少、空き家が増える経済状況の政策転換を確立すべきだ。その対策を希薄した状態での「空き家放置対策」は本末転倒と言える。
朝日新聞は1月21、22の両日、世論調査を実施した。岸田首相の経済政策に「期待できる」は20%で、「期待できない」の73%が大半を占めた。少子化対策には「期待できる」が20%で、「期待できない」が73%にのぼった。
「政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです」等と1月23日の通常国会の施政方針で述べた。
重要政策を閣議決定で勝手に決め、いまさらながら何事もなかったかのようなふるまい。増税を前提とした軍拡、次世代原発の建て替えを含めた原発回帰にはやる気満々で、少子化対策は「次元の異なる少子化対策」と言い換えただけで、その具体策については何も語らない。
少子化は空き家の増加と衰退を加速させる。麓の戸数減少は今年令和5年(2023)で100年前の戸数45戸に近づき、数年後は150年前の明治初期の戸数36戸に向かっている。
尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。
下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。
昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。
大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。
そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運動に驚かされた。米どころを自賛する秋田の昭和40年、41年の反収は454㎏、441㎏。「新佐賀段階」運動の佐賀県は昭和40年、反収512㎏、41年、542㎏の驚異的な収量を上げていた。秋田で反収500㎏を超えたのは昭和42年からだった。
その佐賀に住む、「山下惣一」さんを朝のNHKテレビ「あすの村づくり」で知った。当時山形の「やまびこ学校」の「佐藤藤三郎」さん、その著「25歳になりました」で「木村廸夫」さんに出会い、後に有機米運動の先駆者の「星 寛治」さんも知ることになった。
テレビで向き合う「山下惣一」さんはある種の強烈の思いで接してきた。「海鳴り」や「減反神社」等で農民作家の称号が定着し、書籍も60数点も発行、国内での講演数は軽く1000は越え、世界60か国も訪問したという。したたかなエネルギーはどこから生まれ、どんなところで暮らしてきたのだろうか等と想いながら接してきた。ネット社会に割と早めに接してきからgoogleのマップを通して、「唐津市湊」を意識してきた。
私の読書スタイルは著者の描きだした背景を近づくために、表現されている場所に立ってみること重要なスタイルになっている。山下さんの住む「唐津市湊」地区の山や畑、田圃風景をデスクトップに映し出し、ページをめくる。時には集落内やみかん山等道路をマウスで巡ってみる。「ああ、、」山下さんはこの道路を軽トラで走っていたのか等と想いをはせながら彼の書籍に入ってしまう。
佐賀県唐津市湊地区全景
唐津市湊は農業集落の「岡」と漁業集落の「浜」が各300戸計600戸の大きな集落という。初めてこの風景に接したとき今までイメージしていた農村とは大きく違うと思った。唐津の湊は600世帯で農と漁が大きなつながりを持って形成されている。600世帯の集落は各地に存在するが多くは100世帯以下、50世帯以下が圧倒的なのが東北の農村の姿。
人間形成の中で多くの人は生まれた環境と、接してきた人間関係が大きく作用してくる。生い立ちが私と似通っていたからより親しみがあったのかもしれない。
家の光協会発行の月刊誌「地上」誌のエッセイ「農のダンディズム考」は、1994年から2021年まで、約30年にわたって連載してきた。このエッセイで山下さんの並外れた感覚と思考のしたたかさを毎号楽しみにしてきた。
山下惣一さんを知った1970年以来、直接会ったのは12年前の2010年になる。気さくな山下さんは書籍やエッセイで発信している姿そのまま、約40数年のブランク等なかったような感覚で話していた。不思議な出会いでもあった。
2022年7月10日、「山下惣一」さんは逝ってしまった。
偲ぶ会の追悼小冊子に特別寄稿の依頼があった。そうそうたるメンバーの中に自分が入っているのに驚かされた。この頃文章を書くなどということはほとんどない。ささやかなブログを時たま書いているが全く気ままなもの。テーマも期限もないある種のわがままさを自認しているものにとって、締め切り日やテーマ等を与えられると金縛りになってしまう。今回締め切りギリギリで1000字の文章を送った。
山下さんとのひと時
「ところで今も秋田でツツガムシ病はあるのか」と山下さんは言う。「あるよ」というと誰でも知っている童謡「つつがなしや友がき、、、」を口ずさみジィーっと北上川の川面を眺めて無言となった。
10年ほど前、岩手県北上市で「TPPに反対する人々の運動」の会合に首都圏や、置賜百姓交流会の仲間等20数名が集まった。
北上の展勝地にあるレストハウスで会食は賑やかなものだった。展勝地レストハウスは北上川の辺にあって、近くに「北上夜曲の碑」や「サトウハチロー記念館」がある。
しばし談笑の合間にレストハウスの外、小さな丘のようになっていた場所で「山下」さんと二人で北上川の緩やかな流れを見ていた。秋田ではツツガムシ病をケダニ病と呼び、県南の雄物川流域に発生が多い。昔から全国的に発生する風土病とされる。
私の農業従事は1960年前後。「農業基本法」が制定され「緑の法律」等などと言われ、多くの人が翻弄されていた時代。「青年会」に入り、仲間と「農業問題研究会」等を組織した。運動の過程で「やまびこ学校」の山形の佐藤藤三郎さん、木村迪夫さんを知る。同時に山下惣一さんを当時NHKテレビ「明日の村づくり」で知る。
1972年11月、国交回復直後中国政府の招待で中国訪問。15名の中に佐藤藤三郎さん木村迪夫さんがいた。私の「農に定着」のためには偉大な二人と親交のあった、「農の立場を主張」する山下惣一さんは大きな存在になっていた。
私が山下惣一氏と出会ったのは2010年12月、「反TPP集会IN東京」の集会からだから日は浅い。1960年代から多くのエッセイや書籍に共通する、洒脱で豊富な知識に裏打ちされた表現に多くの人が喝采し育てられてきた。初対面も長い空間の時を感じさせない親しさが山下さんにはあった。
「東北の人間は嫌いだ。まじめすぎる、、、」と。彼は会話の冒頭によく私に言った。その度に張り詰めた「ベルト」を思い浮かべながら、「うーん、、、」と言ってそれ以上の発言はしないできてしまった。
数分前までレストハウスにぎやか懇談会。二人で見つめた北上川の川面。山下さんは玄界灘の海面を思い出していたのだろうか。訃報を聞いた時からこの時間が脳裏から離れない。
激動の今、山下さんに「やすらか」には似つかわしくない。あの軽妙な語りはいつまでも、、、との想いは消えない。
山下さん、ありがとうございました。
「山下惣一さんを偲ぶ会」を終えた2022年暮れ、「百姓は越境する」No.41号誌が送られてきた。
私の拙い追悼文も掲載されている。限られた1000字で印象深かった「山下惣一」さんとのひと時を振り返った。会話がほとんどないわけではなかったが合えて、「つつがなしや、、、、」を切り取ってみた。今までとは別の「山下惣一」さんに会えたこのひと時、私にとって極めて貴重な時間となった。
先の参議院選挙に突如参入してきた参政党。オーガニック右翼とも揶揄される「農と食」に大きな違和感を持っていた。この度「声明」発表に賛同し、呼びかけ人の一員になりました。
「声明」を全文を紹介します。賛同していただける方は下記にメール、電話、FAX等でご連絡いただければさいわいです。
「私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します 」
私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。
私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように、消費者生活者としての運動をつみあげてきました。それこそが農と食の民主主義だと私たちは考えます。
7月の参院選は食と農をめぐって、排外主義的な農業でも良しとするのかという問いを私たちに突き付けました。
はじめて選挙に登場した参政党が、大量の候補者を立て、当選者を出し政党要件を獲得するという出来事がありました。同党は三つの主要公約の一つに「化学的な物資に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求」を掲げ、有機農業や食の安全に関心をもつ人たちの中に小さなブームを巻き起こし票を集めたのです。
同党は綱領の第一に「天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」を唱え、主要公約の一つに、「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」「外国人労働者の増加を抑制し、外国人参政権を認めない」を掲げています。国家主義・排外主義の色彩が極めて濃い政党です。
有機農業運動はこれまで一貫して国際交流を大事にし、海外の実践に学び、日本の経験を分かち合いながらその思想や技術を発展させてきました。食の安全を求めて運動している消費者生活者は、世界中誰もが安心して食べられる世界をめざしています。国家主義・排外主義は私たちのこうした思いや実践と相いれません。いま日本では、国民の危機意識を煽りながら軍備の大拡張に動き出しています。そのために邪魔になる憲法の改定が具体的な政治日程に上がっています。あらゆる分野で「安保優先」の動きが強まり、国家による監視と統制、排外主義が持ち込まれようとしています。農と食という生命の再生産をつかさどるもっとも人間的で自由でなければならない分野も、例外ではあり得ないと私たちは懸念します。
『私たちは、農民、消費者生活者が取り組む農業生産活動、有機農業や食の安全をめざす運動が、国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します。』そのことを言いたくて、この声明を発します。
世界人権宣言や国際人権規約に明示されている「食料への権利」は、人は誰でも、いつでも、どこに住んでいても、心も体も健康で生きていくために必要な食料を作り、手に入れることができる、すべての人が生まれながらにもっている権利として位置づけられています。私たちは、この声明の出発点を「食料への権利」に置きたいと考えます。この声明に賛同いただける個人・団体を募ります。ぜひご一緒に
2022年8月11日
<呼びかけ人>
天笠啓祐(ジャーナリスト)
伊藤幸蔵(山形 米沢郷グループ代表 百姓)
大野和興(農業記者)(事務局)
菅野芳秀(アジア農民交流センター代表 百姓)
纐纈美千世(特定非営利活動法人日本消費者連盟事務局長)
小関泰弘(置賜百姓交流会世話人 百姓)
近藤康男(TPPに反対する人々の運動世話人)
坂本華祥(僧侶)
榊田みどり(ジャーナリスト)
﨏川宏子(歌人)
佐藤藤三郎(山形、百姓)
鴫谷幸彦(新潟、上越有機農業研究会)
菅原庄市(置賜百姓交流会世話人 百姓)
西沢江美子(秩父雑穀自由学校主宰、ジャーナリスト)
土本満智子(北海道 農民)
高橋寛・山形大学名誉教授
谷山博史(沖縄 日本国際ボランティアセンター顧問)
天明伸浩(新潟、百姓)(事務局)
徳野貞雄(熊本大学名誉教授、九州小農学会副代表)
中村易世(『土と健康』編集委員)
長里昭一(秋田 百姓)
原村政樹(映画監督)
疋田美津子(しらたかノラの会)
堀井修(新潟、百姓)
堀純司(国際有機農業映画祭運営委員)
牧野時夫(北海道 有機農園えこふぁーむ代表)
村上真平(三重 自然農法実践、農の学びの場づくり)
八重樫真純(岩手、百姓)
山岸素子(特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク事務局長)
吉岡香・照充(神奈川 百姓)
山本伸司(鹿児島、パルシステム生協連合会顧問)
渡部務・美佐子(高畠 有機農業実践者)
◆事務局担当 ・大野和興 ・天明伸浩
◆お問い合わせ・連絡先
(賛同いただける個人・団体は下記にご連絡ください。)
メールアドレス rural@kind.ocn.ne.jp
電話 050-3569-8757
FAX 0494-25-4781
田下畑上(たじりはたがみ)とは田んぼや畑の境界を表す言葉。田下(たじり)は畦畔法面の下が境界。田んぼの畦畔は水を貯めることや農作業の通路で極めて需要。
畑上(はたがみ)とは畑の法面の上が境界となる。これらが平坦な土地なら中心線になるだろうが畑地は傾斜地が多い。
私の地区では土地の境界は、田下畑上と昔から呼ばれてきた。そして境界にはお互いの承認で目印になる木を植えた。それが境界木と呼ばれる。山林の境界は多くは大きな石や沢、境界木として多いのはカラマツが多い。境界木は道路と屋敷などにも植えられアブラチャン、モッキ(ムクゲ)、エゴノキ、スギ、ヤマモミジ、サクラ、カツラ、スギ等がある。
境界木についてはあまりにも日常的な光景で特に関心などなかった。昨年の暮れ、土蔵の冬囲いをしていた時に集落の「k」君が見知らぬ人を連れてきた。
我が家の屋敷は南北と長く、住宅と土蔵は一体化している。南側に位置する土蔵との境は他家の畑で、他の人が来ることなどめったにない場所だ。「ちょっと」声をかけられビックリし慌てて振り向いたら見知らね若い人と「k」君が立っていた。
初めて会う青年は「つくばの農研機構」から畑、屋敷、道路の境界木調査で秋田に来たという。
集落の道路際や畑の境界に多くあった、アブラチャンが目にとまったのだろう。私の屋敷と畑の境界の木を指さして名前を知りたいという。その木はアブラチャンだと答えた。秋田の県南では通称はジサキ。
ジサキ(アブラチャン)の花は黄色で雪消え時に咲く。私が通称名ジサキの名がアブラチャンと知ったのは所属している「雄勝野草の会」の自然観察会。里山でのジサキはそれほど注目される木ではない。畑境界等の木は耕作放棄地の拡大で見事な灌木に育っている。早春のアブラチャンは黄色の花を咲かせる。早春の自然木で黄色の花はマンサクが最も早く、アブラチャン、クロモジが続く、豪華な花はアブラチャンだ。
アブラチャン開花 22.4.18 川連町麓
それにしてもアブラチャンとは変わった名だ。アブラともかくとしてチャンとつく名は珍しいが、「アブラちゃん」ではない。
調べてみるとジサキ(アブラチャン)(油瀝青)はクスノキ科クロモジ属の落葉低木。アブラは油、チャンは瀝青のこと指し、木全体が油分が多いことが名の由来とされる。チャン(瀝青)はアスファルトを敷く前に散布する石油精製品名の中国語読みからきているという説。クスノキ科の特有の芳香がある。
冬道を歩く「かんじき」には軽くねばりがあって折れことがなく、雪のつかない材のアブラチャンが使われた。材のしなりとねじれに強いことを利用し、縄の代わりに茅葺屋根の材結束の際のネリソ(ネソ)や、柴を結束することに使われた。昭和40年ころまでに燃料用の薪木、柴切には結束用に使った。通称「ネジリ木」と呼び「アブラチャン」の他、「クロモジ」、「マンサク」等が良くつかわれた。
かつてその子実は多量の油を含み燈火用に、樹皮、枝葉に精油を含みたいまつにも使用されたという。生活には欠かせない木だったといわれている。
各地方でアブラチャンの呼び名はムラダチ、ズサ、ヂシャ等多様だ。呼び名が多いのはそれだけ生活と密着した樹木だったからといえる。
アブラチャン 満開 22.4.23 川連町麓
我が家の畑、屋敷の境木にはアブラチャンの他にマユミ、スグリ、コウゾ等大きくならない灌木。大きくなるトチ、ケンポナシがある。大きくなる木は境界中心から少し離れて植えられている。他家の境界木にスギ、エゴノキ、キリ等がある。
ケンポナシ(玄圃梨)は地元の呼び名はアマゴジ。ネット検索では「肥前地方で、ケンポコナシと呼ぶ。その名はドイツ人シーボルトは日本名計無保乃梨(ケンポニナシ)、別名を漢名シグとしたとある。
果柄の肉厚に太っている様、さらにゴツゴツと折れ曲がっる様が手の指のように見える様、ナシのような味がすることなどから「点棒梨」(テンポナシ)が転訛してケンポナシ(玄圃梨)となったとの説もある。
実の付け根分は甘みがあって食べられる。子供ころはよく口にした独特な甘みが忘れられない。枝葉や実から抽出されるエキスは二日酔い防止に効能があるという。材はケヤキに似て木目がきれい。我が家のケンポナシは直径が50㎝ぐらいある。約60年前に屋敷木としてあまりにも大きくなったので先代が高さ5ⅿほどのところで切りつめてある。途中で伐られても側枝がにぎやかに出てくるが2、3年毎に伐り落とすので近年は花も実もつけることがない。
ケンポナシ 22.4.22 川連町麓
大雪の続いた近年、境界木や庭木の被害が甚大だった。大きくなる木は伐り倒されている。生活習慣が大きく変わり、屋敷木や庭木等の関心が薄くなってきている。生活と密着していたこれらの樹木が切り倒される姿は、何かと寂しく時代の変化がみられる。
時代が変遷しても畑、屋敷の境界は残る。アブラチャン等境界木はそれぞれの場所で役目を担っていくに違いない。
近年農地価格が暴落傾向にある。住宅地内の畑、かつての樹園地は伐採され耕作放棄。家庭菜園以外、たばこ、枝豆、アスパラや野菜直売所向けの栽培も限定的で多くの畑地に作物は栽培されていない。
2020春、衝撃的なニュースが入ってきた。近くの集落で十数代続く旧家が集落を離れ、近くの町に引っ越すという。近年若い世代の生活様式が変わり通勤、通学の便利な場所に引っ越すという家が出てきている。山間地の集落の過疎化は至るところで見受けられる。「農地すべてを手放しての離農」を予定したが農地の引き受け手がいない」ということだ。
典型的な挙家離村型。すべて処分ということで集落を覆う山の杉、雑木の伐採等チェンソーのエンジン音が鳴り響いた。田んぼや畑がその後どうなったのかはわからない。
家族農業を主としない農業政策は「規模拡大策」中心。規模拡大農家にも陰りが見えてきた。旧稲川町の大規模経営農家が規模を縮小しているニュースが流れてきたのは2、3年前からだ。規模80haから一気に1/3も減らし、この秋には半分の40ha以下になりまだ縮小傾向という話だ。米の値段が低下し規模拡大農家を直撃している。耕起、田植え、収穫作業の機械以作業以外の管理労働が限界になってきたことが大きな要因と言われている。
規模拡大志向の「S農場」は今から25年ほど前まで大型コンバインをトラックに積み、8月の末頃から約一ケ月新潟県へ稲刈り作業を繰り返していた。当時は効率的な大型機械の活用とされてきた。
昭和50年ごろから規模拡大一辺倒の国の農業政策は、昭和60年代には「農地の流動化促進政策」を推進。当時稲川町で離農農家の農地は急激に発展していた「仏壇業者」等に集積していた。「S農場」は「仏壇業者」の農地の請負耕作で急激に規模が大きくなった。
近年「S農場」も世代交代期になり、さらに米価下落傾向の近年規模拡大のメリットは下がる一方との情報だ。米価急落のこの秋、情報ではさらに縮小し最盛期の半分以下をを目指しているという。
私の住む川連集落(麓、川連、上野)の水田面積は約90ha。この内麓集落は32ha。今年(2021)春、集落の「N」君が「約6反歩の農地」を買ったと噂になった。この土地は30数年前に集落を離れた「K」の田圃25a、「G」の田圃37aの2ヶ所計62a。
この田圃は2ヶ所は約30年数前に「仏壇業者」に渡っていた。当時負債を抱えていた農家は駆け込み寺のごとく、稲川地域で隆盛を誇っていた「仏壇業者」に農地が集まっていた。その面積は一説によると20~30haもあったといわれていた。近年の米価の暴落で農地所有のメリットは無くなっていたので農地転売の始めたのは2、3年前からだ。
今回の取得価格は10a当たり40万円との噂がある。米価安の現況では農地価格の暴落は収まらず一説に10aあたり15~25万との話もある。今回の農地の移動は集落内の土地だったことにある。
この土地は約30数年前、仏壇業者に渡っていた当時の10a価格は150~250万だった。現在の価格は当時の約1/5前後に暴落している。トラクター、田植え機、コンバイン等農機具を完備していても近年の米価安の現状では採算が合わない。まして主要な農機具がなく、作業委託するようだと完全な赤字となる。状況調査で最盛期の1/5~1/10以下まで農地価格が下落している。
ネットに「農地価格ドットコム」があり、農地の売買価格相場を全国平均と都道府県別に分けて紹介している。それによれば、
「湯沢市の水田・畑の取引は平成19年から令和2年まで534件、取引されております。最新のデータは令和2年10~12月分となります。 尚、住宅売却の取引は個人・法人間の取引のだけではなく、不動産業者の査定よる買取、調停・競売等の取引も含まれその為、必ずしも土地の相場に見合った、適正な価格で取引されてるとは限りません。取引の行われた状況・条件などにより、価格が異りますので参考値としてご利用下さい」とある。
その中で、「湯沢市川連町の農地(水田・畑)取引価格、水田・畑の取引は全部で約6件が売却、又は購入されております」との記述があった。
年 | 住 所 | 面 積 | 1反/合 |
2020 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 3.1畝 | 44万円 |
約3.1畝14万円 | 310㎡ | 14万円 | |
2017 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 3.6反 | 35万円 |
約3.6反が130万円 | 3600㎡ | 130万円 | |
2011 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 2.3畝 | 29万円 |
約.3畝が6万円 | 230㎡ | 6万円 | |
2009 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 9.2畝 | 64万円 |
約9.2畝が60万円 | 60万円 | ||
2009 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 5反以上 | |
約5反以上が800万円 | 5000㎡ | 800万円 | |
2008 | 秋田県湯沢市川連町水田・畑 | 8.3畝 | 59万円 |
約8.3畝が50万円 | 830㎡ | 50万円 |
この欄で2009年の水田・畑は5反(5000㎡)以上800万が特筆される。実際の面積は10反(10000㎡)以上との説もある。推定になるが10a価格が80万とも聞こえてきた。比較的面積の少ない土地は田んぼなのか畑地なのかはわからない。
「土地の価格はバブル期以降下がり続け、近年は横ばいから僅かに上昇傾向の地域も見られるところ、農地の売買価格は下がり続けています。 その主な理由は、農地の買い手が少ないことや担い手不足、米を始めとする農産物の価格が下がっていることに起因しますが、買うよりも借りたほうがコスト的には安いことも、売買の需要が増えない原因だと思われます。 この記事では、農地の売買価格相場を全国平均と都道府県別に分けて紹介しており、全国平均の対象は、純農業地域と都市的農業地域にある農用地区域内の農地です。 都道府県別ではもう少し詳細に、区域ごとの売買価格相場を掲載しています。 都市計画法による線引きがされていない市町村の中で、農用地区域内の農地です。 都市から離れた農村部をイメージしましょう」。 (引用)
さらに「日本不動産研究所調査」には次の記述がある。「農地価格の下落に歯止めがかからない。不動産に関する調査などを手掛ける日本不動産研究所によると、2020年3月末現在の10アール当たりの価格は、田が68万9080円で前年比1.8%安、畑が42万4921円で1.2%安。ともに30年近く下がり続けている。担い手不足で農地の買い手が見つからないことが価格下落の背景にあるとみられる」。
「田の価格は1993年から28年連続の下落。ピークだった92年の約119万円から42%も安い。畑の価格も同様に92年から29年続けて下がり、ピークだった87年の約68万円からは38%下がった。どちらも1976年の水準まで下落した」、農地の賃借料も同様に下落傾向で、田は10アール当たり8791円と前年比1.4%安、畑は5014円で同0.8%安だった」。
同研究所が市町村などに田の価格が下落した理由を尋ねたところ、「農業後継者の減少」(21.6%)が最多で、「高齢化」(20.7%)が続いた。畑も同様だった。ここ数年安定していた米価が20年産で下落傾向に転じたことから、同研究所は「農地価格は今後さらに下がる可能性が高い」と見通す。(引用)
2021冬の累計降雪量は1026㎝。冬になり降雪があると毎朝、除雪機で道路から玄関まで排雪が日課となる。除雪機始動と同時にメジャーで降雪量を測る習慣になって数年になる。降雪量とは雪が降った量、積雪量とは雪が積もった状態をいう。降った雪にさらに雪が積りある一定の時間で降った雪の深さで積雪量と表現される。我が里は積雪量は最大で220㎝にもなった。
このブログは毎朝の降雪の記録。この冬の豪雪には近年に経験したことがない特徴があった。雪が降ったのは12月14日から21日までと12月31日から1月6日までの集中降雪。約一週間、休みなく降り続いた。1月中旬以降2月は例年の降り方だった。3月は2日が5㎝、3日が2㎝の計7㎝の降雪だけで例年と比較して3月はほとんど降雪なしで終った。以下はこの冬の記録。
豪雪の被害は12月14日初雪から1週間と正月の1週間降り続いた大雪で住宅の被害、リンゴ等の被害、ハウス等の崩壊被害が起きた。以下豪雪被害の状況を振り返ってみる。
秋田県湯沢市で雪の影響で倒れたとみられる電柱などがスキー場に通じる市道をふさぎ、19日夜から利用客と従業員合わせて44人が孤立状態となっています。警察によりますと全員が休憩所で待機していて、今のところ体調不良を訴えている人はいない」とNHKの
稲川スキー場孤立(テレビ報道)
テレビはもとより地元の秋田魁新報、全国紙やロイターでも報道された。12月14日から降り続いた降雪で、稲川スキー場は19日に営業を始めた当日だった。多くの住民はこの報道に戸惑いを感じた。全国各地から報道で知ったと安否とお見舞いの電話が殺到したという。稲川スキー場は国道398号線からせいぜい1Kⅿ入った極小さなスキー場。この冬の豪雪でにわかに有名になった。
昨年は記録的な小雪。屋根の雪下ろしはなしだった。この冬も12月になっても雪の兆候はなく、連続の雪の少ない年になりそうだと多くの人は思ったはずだ。それが12月14日の朝24㎝の降雪。初雪状態で除雪機が登場。
14日の初雪状態から休みなしの降雪が21日まで続いた。累積量が287㎝。スキー場が孤立した20日の朝までの降雪量は242㎝もあった。21日以降降雪はほとんどなく、この冬2回目の豪雪は12月31日から1月6日まで連日降雪。この一週間の降雪量は259㎝となった。下記のグラフは日毎の降雪量、単位は㎝。
12月14日から1月15日まで毎朝の降雪量 単位 ㎝
下記のグラフは12月14日から2月28日までの5日ごとの降雪量。赤はその月の降雪量の合計。
12月14日から2月28日まで5日毎と月別の 降雪量
12月の降雪量327㎝、1月が389㎝、2月が310㎝ 合計降雪量は1026㎝ となった。 2月も累計で310㎝の降雪があったが例年並みで推移した。ハウス、果樹の被害は12月14日と12月31日から、それぞれ休みなしに降り続いた豪雪の被害。
大雪で折れたリンゴの木 2021.3.23
ブドウ棚の崩壊、無残なリンゴの木、雪消えが進むと被害の実態が明らかになってきた。この写真の木の折れた部分は直径25㎝もあった。駒形の大倉集落のブドウ棚は全倒壊らしいとのニュースが1月に入ってきた。この冬の被害は10年前の2011年豪雪被害よりも大きいとみられ果樹栽培の縮小、撤退が進むとの観測もある。
無残な水稲育苗ハウス 2021.3.19
育苗ハウスは2011年災害より大きい。JAこまち管内でハウス被害は軽く1000棟以上あるとの報道がある。
各地で住宅の被害が大きい。3月になって大工、板金業者に雪害被害の復旧依頼が殺到。復旧見積等、保険業者や行政への提出書類で忙しさがが10年前の豪雪被害より多いという。3月中は道路わき積み上げられた雪の排雪は連日業者の重機と大型ダンプで進められた。4月に入って畑の雪は30㎝ほど、田んぼは畦畔が出てきた。家の周りは屋根からの雪で場所によっては3ⅿもある。10年前豪雪時よりははるかに少ない。当地では「清明」になれば湯の雨が降ると昔から言い伝えがある。暦の上での「清明」は4月の4日。
雪消えと同時に倒壊ハウスの片づけ、果樹被害木の整理等超多忙の毎日が続いている。
「知海」は本名「井上松治」。明治3年~昭和19年(1870~1944)川連生まれ、屋号は「宇吉」。「松治」は井上家十代当主、初代当主は「及左衛門」。
「松治」は明治17年(1884)14歳で秋田市の「神沢素堂」の私塾にはいり、3年間にわたって関学を学んだ。「素堂」の塾は当時秋田第一と言われ、多くの逸材を出したと「秋田の画人」昭和39年4月 秋田魁新報社刊にある。
さらに「秋田の画人」によれば「松治」は絵の才能を見せ、師に期待された。「素堂」も「平福穂庵」と交わり日本画(秋田蘭画)を描いていた。明治21年(1888)18歳で上京、勤王画家として名のあった「松本楓湖」について本格的に絵を学び歴史画を得意とした。明治23年(1890)20歳でに洋画に転じ、「小山正太郎」の不同社や白馬会研究所に通った。明治31年(1898)28歳で図画科の中学教員免状を得て福井中学、岩手遠野中等の教論となって赴任明治35年(1902)32歳、私立東京宏文学院教授となった。
明治38年(1905)35歳から6年間「黒田清輝」に師事した。東京文化財研究所によれば「黒田清輝」(1866~1924)は近代日本の美術に足跡を残した画家で、教育者で美術行政家「近代洋画の父」といわれた。「松治」が帝展に出品するのは明治44年(1911)41歳で京都師範に移ってからという。
下の画は帝国美術院第三回美術展覧会出品の「夏の夕日」アンテーク絵葉書。
夏の夕日
帝国美術院第三回美術展覧会は大正10年「松治」52歳。「夏の夕日」は湯沢市三梨町羽龍からの雄長子内岳、東鳥海山。羽龍集落には「松治」の長女が嫁いでいる。あきた県民文化芸術祭2015・参加事業、平成27年度 第3期コレクション展「横手・ゆざわの洋画家たち」に県立近代美術館の所蔵の「雨上がり」が展示された。「井上松治」は帝展洋画 大正十二年帝国絵画番付_807086と東京文化財研究所のデータベースにある。
雨 上がり
現在生家の地元で「井上松治」の洋画を知る人は少ない。数戸に所蔵されているのは「掛軸」雅号は「知海」。明治23年(1890)20歳で洋画に転じた後も日本画を描いていた。
下の軸は生家の床の間に飾られている「松治」の代表作品「雪の金閣寺」。
雪の金閣寺
京都の学校では図書教育者として優れた功績をあげ、多くの表彰を受け昭和2年(1927)57歳に京都府視学となり、高等官六等に任じられたと「秋田の画人」にある。
次の軸は昭和12年(1937)67歳の時、本家十代当主「井上松治」が別家六代当主「井上周蔵」へ贈ったもの。享和3年(1803)本家及左衛門(現 宇吉)が別家助太郎(現 安兵衛)に「別家譲物覚」として残したことが記されている。本家と別家の関係書として珍しい。
別家譲物覚
軸には本家十代「井上松治」が、別家六代「井上周蔵」の依頼で描いたとある。この軸には正七位とある。
下の軸は昭和18年(1943)「松治」73歳、激しさを増してきた太平洋戦争へ供出した安兵衛屋敷の「夫婦杉」。掛け軸「夫婦杉讃」。
夫婦杉の讃
昭和18年戦局は激しさを増し、アッツ島の日本軍玉砕学徒動員が発令。3月に金属回収にとどまらず国家的見地から、より価値の高い用途へと「特別回収」が食料や山林木、屋敷木等の供出令が発布された。「安兵衛家」では7代目の長男が出征中。親の六代目「井上周蔵」は屋敷の樹齢約140年、「夫婦杉」の供出に応じた。
伐採前に本家十代「井上松治」に依頼しできたのが「夫婦杉讃」の掛け軸。軸に文化10年(1813)双樹、百尺周8尺、供養」(柿葉庵)撰󠄀とある。「知海」の絵は「夫婦杉」伐採の一抹の哀しさと、明日への希望を与える豪快なタッチで描かれて、観る人に大きな感動を呼び起こす。そして軸を描いた翌年、昭和19年(1944)「知海」(井上松治)逝去。享年74歳。 「秋田の画人」引用
※
「川連 江戸の絵師」で以下の三絵師、画人を追跡した。掲載順序が調査時判明順なので正しくはなかった。三絵師、画人は以下。
滕亮昌 (日野亮昌) 貞享2年(1685)~安永3年(1774)?
源光、源尚元(後藤彦四郎)? 天保11年(1840)~明治後期 ?
知海 (井上松治) 明治3年(1870)~昭和19年(1944)
このシリーズはかねてから川連集落出身の「源光」さんの情報が少なく、神応寺や八坂神社の絵、自宅の掛け軸等からの調査から判明分の記録から始まった。
タイトル「川連 江戸の画人」として続けたが、調査で「源光」よりはるか以前に画人「滕亮昌」が狩野派との関わりが判明。その後明治生まれの「知海」を取り上げた。「知海」を「川連 江戸の絵師」とした違和感はあったがシリーズのタイトルだったのでそのままとした。
湯沢市川連町は川連、野村、久保、大舘の4つの集落から成り立っている。川連集落には麓、川連、上野の三行政区、一部には根岸川連ともいわれている。この「川連 江戸の絵師」は川連集落に限ったものだ。戸数三行政区合計140戸。比較的小さな集落で「滕亮昌」以降の「源尚元」、「知海」が活躍する。「滕亮昌」以降の画人、絵師にはその作風に影響があったことは想像できる。
「源尚元」から始まったのでシリーズ、「江戸から明治、大正、昭和」に活躍した絵師、画人も「川連 江戸の絵師」ではなく「江戸からの絵師」か「川連 三大画人」が適切かもしれないことを付記する。
※ 2021.2.19、タイトルを「川連 三大絵師・画人」に変えることにした。(2020.1.31 源尚元1、2020.2.11 続 源尚元 2020.3.7 3 滕亮昌も含む)