新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

豪雪と自衛隊

2021年01月20日 | 地域

秋田の湯沢は豪雪が続いている。前回ブログ「キノコ大豊作」を書き始めたのが12月13日でリリースしたのが15日だった。それまで標高444mの鍋釣山、587.2mの国見岳の中腹辺りまで降雪があったが平地まで降雪はなかった。昨年は近年まれにみるほどの小雪。屋根の雪下ろしは一回もせずに終わったので、天気予報での降雪情報等はそれほど大事になるとは想像もしていなかった。

平地の初雪になった12月14日朝の降雪は24㎝あった。道路から自宅玄関まで除雪機での排除に小1時間かかる。平地に降った雪に初日から除雪機登場は近年記憶にはない。排雪は日課になり、防寒着にメジャーは常備し作業始まりには計測するのも定着してしまった。

14日夜半から降り出した雪はその後続いた。朝の降雪15日45㎝、16日43㎝、17日30㎝になったら早い人は屋根の雪下ろしを始めた。18日30㎝、19日20㎝、20日50㎝。月曜から日曜の7日間で合計242㎝の降雪量。10年前の2011年の豪雪と似てきた。

 積雪量とは降っても除雪したり踏み固めたりせずに自然の状態、地面から積もっている雪の深さを測った量。降雪量とはある時間内に積もった雪の深さの量。降雪の雪は時間の経過で圧縮されるので雪の深さが違ってくる。

                           12月20日 第一回雪下ろし 車庫兼作業場

雪降り一週間後の雪下ろし時の雪の量は上記の写真となる。雪下ろしの道具はアルミスコップと鉄平型スノーダンプ。スノーダンプの柄まで長さは116㎝ある。上記の写真で屋根の雪の深さが約170㎝あった。一週間の降雪でこの深さの積雪量は近年にはない。10年前の2011年に匹敵する。

                  12月22日 本屋と土蔵

上記は22日住宅と土蔵の屋根、テレビアンテナも隠れて受信不可能の状態。

                12月23日 ハウス倒壊

育苗ハウスの崩壊。雪の前に支柱を立て雪害予防の対策はほとんど効果がなかった。降り出しから5日で壊れ始め10日間で上記の状態になってしまった。

一時的に猛雪は21日から30日までほとんどなかった。時々晴れ間もあり各家で雪下ろしは順調に終わった。大型経営奨励の農家で農地を他者に依存の傾向が高まり、労働人口が極端に減ってしまった。雪下ろし作業員が極端に少なく、かつては自家の雪下ろし後、集落には何組かの雪下ろしのチームがあったが現在ほとんどない。自家の雪下ろしが精一杯の状態。各地から雪下ろし要請で作業員が確保できないとの業者、仮に要請があっても10日か2週間待ちだとの情報が入っている。

1月6日に2回目の雪下ろしを始める。我家の住居は本屋と台所等90坪と土蔵60坪で計約150坪。さらに車庫兼作業舎30坪、農機舎18坪。計198坪。土蔵の屋根は急傾斜なので屋根雪は自然落下する。138坪ほどの屋根雪は人の手で下ろすことになる。下ろした雪は排雪が必要なので延べ3日間は必要だ。

                   1月6日 車庫兼作業場2回目の雪下ろし

上記の写真も一回目同様、スノーダンプで深さを測ってみた。一回目よりやや低い。それでも150㎝あった。下の記事は秋田魁新報の秋田県内各地の積雪深さ。湯沢市川連町の東部は横手市の積雪の10%は多い。

                               1月6日 秋田魁新報引用

湯沢市では、雪による事故防止対策に取り組むため、令和2年12月20日午前8時00分に総務課長を室長とする「湯沢市雪害情報連絡室」を設置した。1月6日(水)午前10時10分、市長が湯沢市内の現状を県知事報告するとともに、自衛隊の派遣について要請。同日、湯沢・雄勝管内の羽後町、東成瀬村も自衛隊派遣要請した。

尚横手市は前日の5日に県に報告、自衛隊派遣要請している。湯沢市で7日、活動を始めた。陸自秋田駐屯地の隊員70人が6班に分かれ、倒壊の恐れがある高齢者宅などの雪下ろしにあたった。1月10日(日曜日)午後2時30分、湯沢市における大雪に伴う自衛隊の災害派遣活動が終了しました。4日間で延べ300人余りの隊員が活動した。

                1月6日自衛隊による雪下ろし 横手市栄小学校 秋田魁新報 引用                  

1月8日雄勝地域、稲川地域において高齢者世帯等の14軒の家屋の雪下ろし作業。我が集落の一人暮らしの90歳 Eさん宅が自衛隊の手で雪下ろしが行なわれたという。当日の夜半は強い風。昼も小雪が舞って寒い一だった。自宅の前を通ったという自衛隊の車を見過ごしてしまった。

                 1月8日 白鳥の群れ 

8日夜半の強風でテレビアンテナがとんでもない方向に向いてしまった。業者に調整依頼していたら住居の上空を白鳥が2回ほど舞って南に向かった。越冬地が近くにあるのだろうか。それとも白鳥ではなく別の鳥だろうか。 

12月20日から約10日間降雪が0の日が4日、降っても2、3㎝ほどで朝の除雪機排雪がなった。それが年越しの31日、この冬第2波の大雪が新年にかけてやってきた。31日朝降雪32㎝、夕方までプラスの31センチ。12月14日から31日まで362㎝を記録した。1月1日から1月10まで263㎝。11日から20日までは73cmこの冬12月14日から1月20日まで合計698㎝になった。 12月14日から31日まで降雪0が6日、5㎝以下が4日。1月1日から20日まで降雪0が6日、5センチ以下が2日。12月14日のこの冬初雪から大寒の1月20日まで38日間で降雪0の日が12日、5㎝以下が6日あった。

屋根からの雪で住宅の中は暗くなってしまった。今日は大寒。第三波、第四波と新型コロナ禍なみに雪降りが続くのだろうか。現在2回目の雪下ろし後屋根の雪は70cm程度、大寒過ぎ天気は落ち着くとの予報。暦の上では立春に向かっているのだが、、、。    

 


キノコ大豊作

2020年12月15日 | 地域

秋は「きのこ」の季節。今年の当地方は梅雨には比較的雨が多く日照不足で作物は低調な成育。8月に入ってから比較的好天が続き、作物は例年並みだったが収穫時期は遅れ気味だった。そんな中で平年より半月以上も遅れて「キノコ豊作」の報が入ってきた。

近年各地で熊の出没情報が多発。2020・1・25「秋田魁新報」に次の記事があった。「24日午前9時ごろ、秋田県湯沢市川連町川連の市道にクマがいるのを、付近の10代女性が見つけ、市役所を通じて湯沢署に届け出た。人や物への被害は確認されていない。県内でクマの目撃情報が警察に寄せられたのは今年初めて。県警地域課によると、県内で1月にクマが目撃されたのは2018年以来2年ぶり」。さらに7月八坂神社にある小社がクマに小破された。ミツバチの巣があったらしい。

こんな背景が重なると村に住む住民は山菜、きのこ採り等で里山にも出入りすることが少なくなった。私も裏山に出向くことはいつもよりは少なくなったが、それでも時々住宅近くの山には出入りしている。

10月の中旬、クリタケとヤマブシタケにぶつかった。ほとんどがナラ枯れに枯死したミズナラの樹。クリタケはともかくヤマブシタケを地元ではウサギタケと言い珍しいキノコ。私も年に一、二個採った程度だったが今年はそのヤマブシタケが連なって生えていた。

            ヤマブシタケ、ヤマブシタケ下面

Wikipediaには「日本名の由来は、子実体の外観が、山伏の装束の胸の部分についている梵天(丸い飾り)に似ているためといわれる。中国ではシシガシラ(猴頭)猿の頭の意ともいう。食感は海鮮類に似ているが、特別な香りや味はないため、スープなどの汁物として味を含ませて用いることが多い。中国では四大山海(他はフカヒレ、ナマコのいりこ、熊の掌)の珍味の一つとされ、宮廷料理用の食材として珍重された。」とある。

私がこのヤマブシタケを知ったのは20年ほど前、友達と松の木峠散策で見つけた。友人に地元ではウサギタケと言い、珍しいキノコと知らされた。その後15年前国見岳の峰、そして2年前は地元の里山。せいぜい見つけても一個。それが今年は十個近くに遭遇。採った方がビックリの状態。一般のキノコのイメージが全く違う形なので、自然の山でであっても見過ごす確率が高い。近年血糖値を低減、マウス実験で抗腫瘍効果等話題となり原木や菌床栽培が可能になりスーパーで見かけられるようになった。

                              左クリタケ、右ナラタケ

クリタケとナラタケもナラ枯れのミズナラの木に今年初めて出てきた。クリタケは初め饅頭形でのちに平らになる。探してみてもこの木一本だけだった。クリタケ、ナラタケは当地ではサワボタシやサモダシと呼び最もポピュラーなキノコになる。

ナラタケの表面は帯黄色で中央部に放射状の線がある。このナラタケは3年前ナラ枯れで薪に伐採した切り株と周辺に発生。今年はここだけにしか発生しなかった。数年前は杉林にも大発生。旺盛なナラタケ菌は古木や土だけではなく生えている樹の表面にも生えていた。

ナラタケ菌はオニノヤガラやツチアケビのような無葉緑ランに内生木菌根をつくる。この場所の近くの杉林に毎年オニノヤガラが出てくる。今年は発生がいつもより少なく丈も短かった。

              ナメコ        

11月になって、昨年までムキダケが生えてきたミズナラの枯れ木にナメコが生えてきた。今年のムキダケはいつもよりは少なかったがそれでも10月から11月にかけて堪能した。はじめわずかな発生だったので来年に期待などと思っていた。11月の末になって昨年までムキダケだらけのミズナラの枯木におびただしいナメコの発生。株元から4、5mの高さまで、ナメコタワー化ししばらく呆然として見とれた。高いところは持参の鉈で柴枝伐り、臨時の長枝でかき落とした。晩秋ゆえレジ袋等入れ物なしでの入山。想像以上大量の発生。とっさに着用ていたヤッケを脱ぎ、胴部分を紐で括ったら大きな入れ物になった。帰宅で計量したら14㌔もあった。

       広げた新聞紙2枚分の量のなめこ

雪のなかった12月も昨日と今日で雪降りの天気、昨日の朝の積雪は27cmだったが今日は45cmもあった。予報は明日も大雪予報。この冬初めての除雪車が稼働した。ニュースで奥羽本線真室川から横手、北上線が不通。

雪降りの直前、裏山の「なめこ」は前回の半分、約10Kの量になった。さらに老菌になった「なめこ」タワーのミズナラの枯れ木は4、5本もあった。

                    ナメコタワー ミズナラの枯れ木

私のキノコ採りはほとんど自宅の山中心で、山名人のように深山にはいってのマイダケやマツタケ等とは縁はない。自宅からせいぜい1Kほどの集落中心の裏山。天然のナメコは初めての体験で豪華な晩秋だった。


第44回雄勝野草の会写真展

2020年12月10日 | 地域の山野草

第44回雄勝野草の会山野草写真展は11月19日(木)から27日(金)まで湯沢生涯学習センターで開かれた。会員7人が山野草の写真66点を展示。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。              湯沢生涯学習センター 玄関

今回の写真展に合わせて、「コロナ」禍で先送りしていた総会と写真展会場で出展会員のそれぞれの写真について説明が行なわれた。          出展会員の解説

 私はこの写真展に7点出展した。①オクモミジハグマ(山谷 西山公園)、②キツリフネソウ(川連 黒森)、③ヒメシャガ(増田 真人山)、④エゾニュー(川連 黒森)、⑤オオバナノエンレイソウ(仙北 抱返り)⑥ムラサキサキゴケ(川連 田屋面)⑦ヒメハギ(山谷 西山公園

オクモミジハグマ(奥紅葉白熊)(山谷 西山公園)

 オクモミジハグマと葉

「オクモミジハグマ」は山谷 西山公園で数年前、見つけたが名は知らないでいた。昨年秋、「雄勝野草の会」会長の鈴木氏を案内で「オクモミジハグマ」の名を初めて知る。遊歩道の一角に株立ちになっていた。種が落ちたのか少し離れて所に別の株もあった。今年になって付近をさらに捜してみると10数メートル離れて数株見つかった。山谷にはまだ他の場所にもありそうだ。

「オクモミジハグマ」の葉は「モミジ」に似ている。ハグマ(白熊)とは中国産の「ヤク」という動物の白いの尾。毛を染めて、武将の采配、仏具の払子(ほっす)や槍、兜などの飾りにつかわれた。花の形が似ていることからこの名がついたとされる。筒状花冠の裂片はよじれたり巻く形にあって特長がある。木陰に生え高さが70㎝ほどあった。

キツリフネソウ(黄釣舟草)川連 黒森 

           キツリフネソウ

「キツリフネソウ」は自家の畑で撮った。山際の畑は何も作付けしないでいたので荒れ放題。数年前まで年に数回トラクターで耕起していたが近年それもやめた。「キツリフネソウ」は急激に増えてきた。花の姿が帆掛け舟を吊り下げたような形に見えることから名がついた。「ホウセンカ」と同じ仲間といわれ、熟した果実に触れるだけで種を勢いよく弾き飛ばす。「ツリフネソウ」の花は葉の上に咲き、花の後ろに伸びる距の先が巻くと垂れる。「キツリフネソウ」の花は葉の下に咲き、距が巻かれていない。鹿児島では絶滅危惧種だそうだが私のところでは群生している。荒れ放題の畑の「キツリフネソウ」、一輪だけ強調してみると何とも言われない親しみが増してくる。

ヒメシャガ(姫射干)増田 真人山

         ヒメシャガ

「ヒメシャガ」はアヤメ科アヤメ属の多年草。過去のブログに「真人山のヒメシャガ」(2015.9.5)を書いた、増田の真人山には麓の公園から山の頂上付近まで「ヒメシャガ」群生してる。

「ヒメシャガ」は秋田県で環境庁のレッドリスクに準絶滅危惧(NT)となっている。準絶滅危惧(NT)とは「現時点では絶滅危険度は小さいが、生育条件の変化によっては絶滅危惧集種に移行する可能性のある種」となっている。地域の人にとっては極めて日常的な光景かもしれないが、真人山の「ヒメシャガ」の群落は地域の財産と思える。保護、育成を重視して草刈機での刈り取りは控えることも必要なことかも知れない。「ヒメシャガ」(姫射干)の花期は普通5月から6月、遊歩道側が「ヒメシャガ」で覆いつくされる姿を想像する。

我家には古くから坪庭にあった。花言葉は「反抗・友人が多い」。綺麗な見た目からはちょっとイメージしにくい花言葉。反抗という花言葉は葉の形が剣のように鋭いこと、友人が多いという花言葉は、どんどん横に広がっていく性質が由来となっている。

このヒメシャガは5月の小雨の中で撮った。少々ピンボケだが濡れて花びらが美しくヒメシャガの特徴が良く表れているように見える。

エゾニュウ(蝦夷丹生)川連 黒森

         エゾニュウ

「シシウド」、「ハナウド」等名が混乱していた。雄勝野草の会事務局の佐々木さんは「エゾニュウ」といわれたのでその名を使わせてもらっている。秋田では「エゾニュウ」を「サク」と言って塩漬けにして食用にしている。

写真展が終わって私の撮ったのを地元では食用とはしないことに気づいた。「エゾニュウ」ではなく「オオハナウド」に近いものかもしれない。今後も注意していきたい植物。「オオハナウド」はアイヌ文化では若芽を食用・薬用とし「神の野草」として重要視された地域もあるそうだ。茎の高さが1.5~2mにもなる。茎は太く中空。

オオバナノエンレイソウ(大花延齢草)仙北市 抱返り

        オオバナノエンレイソウ

「オオバナノエンレイソウ」は仙北市「渓風小舎」さんの案内で撮った。北海道と北日本の一部に分布している。北日本の青森が南限とされていたが近年秋田でも多くみられるが限られているという。仙北市の刺巻湿原では群生しているが草丈が小さめだ。

「オオバナノエンレイソウ」は草丈が30~70㎝もあり、5~7センチの白い花弁をつける。この写真は少し小ぶりだが雨つゆで濡れた葉もすばらしい。北海道では各地に群生し、北海道大学の校章にも採用されている。近くの山に普通の「エンレイソウ」は花が濃紫色、葉の形状は丸みを3枚の菱形。湯沢市役所前の中央公園には葉が5~10枚の「エンレイソウ」がみられる。近年車道を整備で少なくなったが少しづつ車道整備前に戻りつつある。

ムラサキサギゴケ(紫鷺苔) 川連 田屋面

        ムラサキサギゴケ

「ムラサキサギゴケ」は花が鷺に似ていることからこの名がついたといわれる。コケの名がついても、苔の仲間ではなく地面を這うように横枝を出して増えることが苔のようであることからが由来。

近年我家の田んぼにも増えてきた。白い花はただ「サギゴケ」とよばれる。5年ほど前まで皆瀬川堤防筋の田んぼ10アールの田んぼに紫花の「ムラサキサギゴケ」と、白花の「サギゴケ」の群生は見事なものだった。現在は田んぼが復活して見られない。5月田んぼの耕起ごろから田植え期まで咲き誇る。稲作作業で田んぼに通うのが愉しみになる。

ヒメハギ(姫萩)山谷 西山公園

        ヒメハギ

「ヒメハギ」は山谷 西山公園の一角にある。遊歩道の日当たりの良い場所に生える常緑の多年草。長さがせいぜい15~20センチ前後の小さい。花が紫色でハギの花に似ている。5月から6月にかけて咲く、12月のこの時期にもよく見られるが全体が小さく見落としてしまいやすい。


「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」の「減反詩集」

2020年07月20日 | 足跡

このほど「文遊社」から「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」三浦倫平・竹岡暢 編著が出版された。帯に「あの街は変わった」ーーーそれは本当だろうか? 「沖縄の基地都市、東京の下町・歌舞伎町、下北沢、渋谷の大規模開発、さいたま、丸の内・東京駅、多摩ニュータウン、、、、目にみえる「変容」と「不変」を疑い、その背後に何が起きているかを問う。

この本に『「村の記録」のなかの都市ーーーテレビドキュメンタリーに描かれた農村の変容』が収録されている。

「序」で三浦・竹岡氏は「執筆者の選定に当たっては「日本のある特定の場所について 都市/街/風景の変容 というテーマで、事実を積み重ねた記述によって論じることが出来る」という基準を採用し多様な専門分野からの参加を得られるように心がけた。、、、必ずしも「都市」そのものを直接取り上げている論考ばかりではない。捉成保志ほか『「村の記録」のなかの都市』は農村から都市を相対化する視点を提供しており、都市を見る私たちの想像力を大いに刺激してくれるだろう。と記している。

総ページ数383の大作の中で『「村の記録」なかの都市』は349ページから378ページまでの29ページにある。

349ページ

そして『「減反詩集」はどのように作られたか』363ページから378ぺージの15ページの詳細な書かれている。

363ページ

約47年前のNHkの放送記録。その記録は私の20代頃からの小さな歴史の一端に踏み込んでいた。読ませてもらって猛烈に懐かしさが込み上げてきた。

375ページ

映像の「減反詩集」の背景をつぶさに追跡した姿に格別ともいえる共感を持った。特に「山脈の会」への記述は圧巻だった。20歳前後に「農業秋田」誌に出てくる「鈴木元彦」氏の発言に注目。秋田魁新報の詩壇、詩誌「密造者」に出てくる鈴木元彦の詩等にくぎ付けになっていた。

月刊「農業秋田」は、農業技術の普及雑誌で、国や県の農政の重点施策などを農家に伝えるとともに、農業技術などの情報提供にあたってきた。 
昭和二十三年、農業技術の普及と農村生活の改善の指導に当たる農業改良普及員制度が設けられた。約百六十余人にのぼる普及員は、農家のよりよい助言者となるため、相互の連絡を密にして研究錬磨に努めようと、秋田県改良普及員協会を二十五年に結成。同年七月に、会員の機関紙を兼ねて全県の農家を対象とする月刊誌『農業あきた』を創刊したのである。

翌二十六年四月号から現在の名称になり、三十六年八月号からは同協会が組織する「農業秋田友の会」が発行している。雑誌の内容は生産技術、経営技術や農家の生活改善など広い分野に及び、技術普及に力点が置かれていたが農業の取り巻く情勢に立ち向かう姿勢を暗示させる記事もあった。

私は20歳前からこの情報誌を知っていて、農業技術はもとより鈴木元彦氏の蘊蓄に富んだ投稿を常に心待ちして読んでいた。そして当時、伯父のところに「鶴田知也」氏が時々来ており、伯父は我家にも鶴田知也氏を連れてきた。

昭和20年5月、鶴田知也氏は伊藤永之介氏を頼って横手町に疎開。鶴田知也氏は昭和11年8月、「コシャマイン記」で第3回芥川賞を受賞。鶴田知也氏は伊藤永之介氏が上京(昭和23年)のあとも横手にとどまり、酪農指導などで農村文化活動をしていた。鶴田知也氏との出会いは私の立ち位置を明確にし、その後の生き方に大きな影響を与えた。

そして、農民文学や農民詩のつながりで鈴木元彦氏を知り、白鳥邦夫氏主宰の「山脈の会」、「無名の日本人」を知る。白鳥邦夫著「無名の日本人」(1961)を探しに約10キロの雪道を歩いて湯沢の本屋に出向き店主に頼み込んで求めたのは1963年ころだった。1964年仲間10人で「農業経営をよくする会」を設立。67年に「稲川農業問題研究会」の名称変更。1970年の「第7回稲川農業問題研究会」に初めて鈴木元彦氏に出席要請、県北能代から駆けつけてくれた。これが私と鈴木元彦氏との初めての出会い。その後鈴木元彦氏と晩年まで交流が続いた。この顛末記はいずれ振り返ってみたい。

この度、文遊社出版の「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」の中で、「村の中の都市」の項がどういう位置づけになるのか等は私的には少し複雑な想いもある。第三者の評価があれば今後の糧としたい。

捉成・船戸・武田・加藤の⒋氏が自宅を訪問調査は2015年。長期に分析調査し今回「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」に取り上げていただいたことに感謝したい。


川連 三大絵師・画人 2 滕亮昌

2020年03月07日 | 村の歴史

川連の江戸の絵師「亮昌」は謎に包まれていた。昨年まで絵師「亮昌 」、「チセン」についての詳細はほとんど手がかりなしできた。2019年暮れ稲川文化財保護協会顧問T氏との懇談で「日野亮昌」の名が出てきた。「稲川町史」資料篇 第八集で松迺舎 佐藤信敏「稲庭古今事蹟誌」稲庭画工家ノ事、「佐藤信成ノ事」に「寛保3年(1744)生、宝暦10年(1757)14歳に川連村の人日野亮昌に隋て学ぶ」とあった。川連の「日野亮昌」の消息を尋ねられた。   

とっさに姓の「日野」ではなく「亮昌」の名にくぎ付けとなった。自家に「亮昌」の掛軸があったからだ。隣家「キエモン」(喜右衛門)宅で「鍾馗」の掛け軸が話題となり比較したことがあった。「キエモン」(喜右衛門)宅訪問は2015年春、豪雪で壊れた内沢の「山神社」の修復で募金活動していたら「山神社」の建立時の古文書が出てきた。その後慶長19年の「大舘村検地帳」、「妙音寺」の盛衰と聞き書きを「妙音寺を偲ぶ 1」(2015.12.19)2(2016.4.7)「400年前の大舘村の名請人」(2018.4.27)等、ぶろぐ「新河鹿沢通信」で報告してきた。

隣家は「キエモン」(喜右衛門)は慶長7年(1602)、水戸から佐竹一族と秋田にきて代々肝煎を務めてきた。肝煎の役柄一時経済的な困窮があった後、家を新しく建て替えたのが現在の住宅。今から2百数十年前、(宝暦?)、家を建て替えた時に村の絵師「チセン」が襖絵、掛軸等を描き、さらに作庭もしたという。見事な襖絵、掛軸等の中に「鐘馗」様があった。

                                                            鍾馗様 左 自家 滕亮昌行年63歳畫 右 キエモン 亮昌 

「キエモン」(喜右衛門)宅の「鍾馗」の掛軸と同じものが自家にあったことに気づき、帰宅後改めて比較してみると、「鍾馗」の絵に向きの違っていたが自家の「鍾馗」の軸に「滕亮昌行年六十三歳畫とあった。しかし、「キエモン」(喜右衛門)の当主がいう「チセン」ではなかったのでしばらく頓挫していた。

                                         襖4枚の絵 

話によれば襖絵、掛け軸は「チセン」は「カンノジョウ」(勘乃丞)の絵描きが書いたと話された。「カンノジョウ」は我家と同じ長里一族。現「カンノジョウ」の当主は先祖に絵師がいたことは聞いたことがないという。「キエモン」(喜右衛門)の鍾馗様軸と我家の軸は、図の向きが違うが同じ号名。「チセン」と「滕亮昌」は同一人物なのか詳細は判断できないでいた。

「キエモン」(喜右衛門)宅を再訪問調査で、自家と「キエモン」の鍾馗の軸で「滕亮昌」を再確認。「鷹」の軸に「寶十午滕亮昌行年七十六歳書」とあるものを見つけた。「寶十午」は宝暦10年(1761)76年歳、生年は貞享2年(1685)ということが判明。さらに「滕亮昌」、「滕北濱」、「チセン」は「日野亮昌」の号名であることが確認できた。

                                           鷹のかけ軸

稲川広報昭和54年3月10日号「城下町 川連(六)歴史散歩」に「カンノジョウ」(勘乃丞)の当主、熊太郎氏が森古の稲荷神社は「京都伏見稲荷神社から、寛政9年(1797)に分社として求められた」ことが書かれていた。「授与之状」に別当「日野孫左衛門」とあったこと手掛かりに「カンノジョウ」(勘乃丞)との対談したら次のような結果がわかってきた。

「チセン」は「カンノジョウ」説は日野の姓が判明したので急速に進展した。現「カンノジョウ」屋敷は元「日野孫左衛門」屋敷だった。「マゴザエモン」は「ニザエモン」(栗林)の分家。栗林家「ニザエモン」は日野「マゴザエモン」を分家とした。「マゴザエモン」屋敷、畑は約3反ほど分家屋敷としては広い。「ニザエモン」と「マゴザエモン」との関係は今のところ不明。

約200年前、隣家「ブエモン」(長里)が「マゴザエモン」屋敷の一部を習得。その土地に「ブエモン」が「カンノジョウ」を分家を置いた。「カンノジョウ」が「マゴザエモン」と懇意となり後に一体化したようだ。その後「日野孫左衛門」の名がわかったので菩提寺「神応寺」住職に過去帳調査を依頼した。

「日野孫左衛門」家の過去帳調査で文政12年(1829)「夢覚了中信士」が判明した。詳細は不明ながら、文政12年以降「マゴザエモン」屋敷は「カンノジョウ」屋敷になった。近年まで位牌を「カンノジョウ」が約200年近く管理していたことがわかった。さらに「マゴザエモン」の神応寺墓地は、本家「ニザエモン」(栗林)一族と一緒の場所にあった。そして「マゴザエモン」家がなくなった後の墓地所に現在「カンノジョウ」が入っている。「亮昌」、「チセン」は「カンノジョウ」の絵かきと「キエモン」の話はこのことに起因があったことが判明した。

さらに神応寺の調査で「日野孫左衛門」家の最後の人の戒名は、「夢覚了中信士」文政12年(1829)、その前が「智勝棟工信士」川連 孫十郎 安永3年(1774)没が確認された。屋号は先代亡き後その子がその屋号を名乗ったのは江戸時代多くあったことから、「日野孫左衛門」家は3代以上続いたと思われる。「日野亮昌」の生年は貞享2年(1685)であることから戒名「智勝棟工信士」、孫十郎が「日野亮昌」と同一人物なのかその子なのかは判断できない。

「ニザエモン」(栗林)宅でこの経過はついて知る人はいなかったが「日野亮昌」の軸が二点が現存していた。               

                       七福神 北濱75歳画                                                

                                                                  方位神 歳徳神 と八将神 亮昌

七福神は「キエモン」(喜右衛門)にも同じものがあった。方位神には歳徳神 と八将神(大歳神、歳破神、太陰神、豹尾神、黄幡神、歳殺神、歳刑神、大将軍)が描かれている。九星術で得られた方位の上を毎年十干や十二支に従って移動する神々のことで、吉神と凶神に分けられ、その年の方位神の位置は、市販の暦の初めの方のページにある「方位吉凶図」に書かれている。軸の絵に歳徳神 と八将神の名が朱で書かれていた。

下の軸に号名と年齢があり左に軸には「寶十午」宝暦10年(1761)があった。

                          亮昌 号名 滕亮昌 滕北濱 滕亮昌 年齢                                       左 宝暦10年(1760)76歳   中 宝暦3年(1754)74歳  右 延享4年(1747)63歳

日野亮昌」は江戸時代にしては長寿だった。80歳前後まで「キエモン」(喜右衛門)家に逗留して絵を描き、作庭もしたという。藩のおかかえ絵師ならともかく、一般的には地方の民間絵師は「一描一食」ともいわれ生活が苦しかった。そんな中で「チセン」、「滕亮昌」の有力なパトロンとして肝煎「キエモン」(喜右衛門)の存在が大きかったと推察される。

稲庭の佐藤信成14歳が「日野亮昌」に弟子入りしたとされる宝暦10年(1757)は「亮昌」76歳の高齢になっていた。「信成」26歳の「明和5年(1769)、江戸に出て狩野深信に学び、安永元年(1772)京都の円山応挙の門に遊し、晩年菅江真澄と交わる」と稲川町史資料集にある。調べてみると「佐藤信成」が江戸に出たころには狩野探信(守定)、(守道)はいなかった。狩野派に弟子入りは確実にしても資料集の記述は間違いかもしれない。       

江戸に「狩野探信」は二人いた。「狩野探信」(守定)は承応2年(1653)~享保3年(1718)江戸時代の中期に活躍した狩野派の絵師。「狩野探幽」の三男で江戸幕府御用絵師の「鍛冶橋狩野家」の2代目。「狩野探信」(守道)は天明5年(1785)~天保6年(1836)で江戸後期の狩野派の絵師。「鍛冶橋狩野家」の7代目。「信成」26歳の明和5年(1769)に「狩野探信」がいない。「佐藤信成」の入門は「狩野探幽」派門下の別の人物と思われる。        

江戸時代の身分制度で絵師になるには世襲制。武士の子であれば誰でも入門できたが、多くは狩野派の弟子続きの子弟。弟子続き以外は藩主の紹介が必要とされた。さらに入門にあたって当主や絵所弟子頭に貢物が必要されたという。このことから「日野亮昌」の弟子が江戸の狩野派の門下生になることができたのは「日野亮昌」が狩野派との深い繋がりを予測できる。

「狩野定信」は秋田狩野派の祖、二代秋田藩主佐竹義隆のおかかえ絵師で、藩内の画壇を支配した画家とされる。妻は現湯沢市雄勝町院内の出。その弟、子等に引き継がれ大舘、角館、横手、湯沢の支城に及んだとされる。「日野亮昌」はこれらのつながりが大きかったことが伺われる。 

今回「マゴザエモン」一族の聞き取り調査で絵師、大工説が有力な情報。「亮昌」が大工、絵師。その子または一族が大工だと以下の記述が成り立つようだ。年代順の記録に、宝暦10年(1761)稲庭の金華山神社に大舘村棟梁、日野孫〇〇、日野孫〇之進とある。明和6年(1769)神応寺本殿建立棟梁孫太郎(稲川郷土史資料編 第七集 町内曹洞宗八寺院)。寛政9年(1797)森古稲荷神社別当、日野孫左衛門等。

                        森古 稲荷神社     京都伏見稲荷本宮璽授与之状 

安永3年(1774)戒名「智勝棟工信士」孫十郎。神応寺本殿建立棟梁への敬意を込められているように思える。孫太郎、孫十郎の名前は違っているが間違いもあるかもしれない。大工説が正しければ、「日野孫左衛門」と「ニザエモン」(栗林)、「キエモン」(高橋)との濃密な関係が明らかになってくるが今のところ詳細は不明だ。        

 秋田魁新報社は昭和37年4月から38年12月まで、旧藩時代から明治までの「秋田の画人」を連載した。紹介された絵師、画人は約200名。昭和39年に本として出版された。「日野亮昌」の名はない。この本に旧稲川町から明治の画人として「井上松治、沓澤利瓶、東海林恒吉」の3人が紹介されている。その中で。「井上松治」は川連の出身、「井上松治」明治3年(1870)~昭和19年(1944)は明治21年上京し、勤王画家の「松本楓湖」に学び、23年(1890)に洋画に転じた。帝展に出品するのは明治44年(1907)京都師範に移ってからと「秋田の画人」にある。いずれ「井上松治」号名は「知海」を調べてみたい。隣家の出身で集落には多数「知海」の軸が残ってる。明治23年(1890)、洋画に移る前の日本画がほとんどと言われている

 

 


川連 三大絵師・画人 続 「源尚元」

2020年02月11日 | 村の歴史

源尚元 源光 後藤彦四郎? 天保11年~明治後期(1840~19--?)                    

江戸後期の絵師、源尚元の生没年は今までほとんどわからないできた。前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」の後、「ニザエモン」宅から新しい掛軸「十三仏」に「源尚元行歳六十一画」とあった。絵師が描いた絵に年齢を記しているのは少ない。この「十三仏」は私が拝見できた源尚元の絵の中で特筆すべき輝きに見えた。さらに自家から一点、発見できたので前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」、「続 源尚元」として紹介してみる。

十三仏の軸の裏側に明治34年7月吉日とあった。換算してみると明治34年(1901)61歳の生年月日は天保11年(1840)であることが分かった。前回のブログで「後藤逸女」と「源尚元」の軸に逸女62歳とあり逸女の62歳は明治8年、源尚元36歳となる。

                          十三仏 源尚元 61歳 明治34年7月吉日

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏、正確には(仏陀と菩薩)。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏。(ウィキペディア引用)

十三仏は現在もお盆や年回法要等に使われている。

養蚕の作業図        

                                       養蚕作業

この軸はわが家の掛け軸。絵には猫が描かれている。この軸には源尚元の落款だけで号は書かれていない。養蚕農家は、実に大切に手をかけて蚕を飼育していた。そんな中で、ネズミに蚕を食い荒らさられる被害に悩まされた。天敵の猫を飼って防御にしたことから作業風景の軸に猫が描かれた。各地の養蚕神社には狛猫が鎮座している。この軸の猫はそのことをあらわしている。この軸は前回も見てきた軸と何か趣が違うに思える。

ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社のご祭神で豊穣の神として有名です。そんなお稲荷様とも ...ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)という神様は女神ともされる説が多くある。

前回ブログの画と、この2点の軸を比較して少し相違点があるように見える。源尚元の描画にはより緻密さが加わり、養蚕作業画には写実に近い。我が家では江戸後期から明治後期まで「染物」業をしていた。養蚕は昭和20年(1945)代まで続いていた。源尚元の掛軸は前回ブログ紹介の「養蚕大神」と今回の「養蚕作業」の二軸は大切にしてきた。「養蚕作業」画に号は無く落款だけ、イメージとしての源光(源尚元)描画と違うように見えていたので見逃していた。今回改めて落款を注視、かすかに「尚元」とあった。

源尚元は明治34年(1901)61歳「十三仏」の軸を描いたころは、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)へと突っ込んでいった端境期である。日本は明治33年(1900)北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。さらに明治35年(1902)の「足尾台風」はこの地に甚大な被害をもたらした。そして日露戦争に突入した。日露戦争前後、源尚元は北海道に渡ったと思われる。その後の状況を知る人はいない。

前回のぶろぐ発表のあと二つの軸が見つかり源尚元の生年、天保11年(1840)が判明したので「川連 江戸の絵師 1 続「源尚元」とした。次回は「川連 江戸の絵師 2 滕亮昌」を予定だが「川連 江戸の絵師」のタイトルは、「川連 江戸期、明治の絵師」とすべきかもしれない。

次回の「滕亮昌」は貞享元年(1684)生まれ、源尚元より約156年前に生まれ、同じ集落で活躍し源尚元にも影響を与えた絵師。

 


川連 三大絵師・画人 1 「源尚元」 

2020年01月31日 | 村の歴史

川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。

源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く、私は「狛犬」絵を神応寺以外では拝見したことはない。

神応寺狛犬 

産土の八坂神社、八幡神社にも大きな掲額がある。

                   八坂神社 石清水                                                                                                                                          

八坂神社の絵は寛治元年(1087)後三年の役で金沢の柵が八幡太郎義家によって落とされた。義家の軍勢が国見岳の麓を通った。水を求めて弓矢に祈願をこめて岩を窺ったら、不思議にもこんこんと清水が湧いて兵士も軍馬も勢を得た。岩清水という名は源義家が名付けた。絵はその様子を描いたものと伝えられている。八幡神社の掲額は義家の騎馬上の勇姿。

「源尚元」は地元では「源光」さんと呼んでいるが生い立ち等は多くの人は知らないできた。今回平成3年「稲川公民館」の調べを拝見することができた。この調査は川連上野の関亀吉さん(調査当時86歳)からの聞き取りで由緒、沿革、その他参考文項の欄に次の記述がある。

「画家尚元について聞いてみても何故かはっきりしたことがわからない。川連出身であり現在彦四郎屋敷というところがあり、其の處が尚元の生地という。何時の頃からか家も子ども達もわからなくなったと古老達はいう、北海道の親類を頼りに行ったようだと86歳の亀吉氏、彦四郎は尚元の家の名のようだ。今この家の墓は後藤元吉氏がまもっている。源光さんの軸は多く残っている。また神応寺須弥壇両脇の狛犬の絵は源光のものである」。

この度聞き取り調査で「後藤彦四郎」屋敷が少しわかってきた。その場所は川連町上野旧酒井〇〇家付近。隣地の「キロク」の本家と分かった。酒井家は明治中後期酒井孫右衛門から分家し、「後藤彦四郎」家が北海道に渡った屋敷に入ったものと思われる。旧酒井〇〇家がすべて彦四郎屋敷だったのかはハッキリしていない。現在は別の住人が住んでいる。平成に入って旧酒井〇〇家屋敷は人手に渡り、さらに不動産業者へ移転。旧酒井〇〇家の立派な池を配した庭園は庭石と共に埋められ更地状態になっている。もしかしたらあの日本庭園は「後藤彦四郎」屋敷当時からの遺産だったことも考えられる。詳しい事情を知る人は村にはいない。

下左の軸は「若歌三神図」を源光が描き、後藤逸女が柿本人麻呂(古今和歌集)の若歌を書いたもの。上野「ブザエモン」宅から見つかった。「ブザエモン」も後藤の姓で「後藤彦四郎屋敷」の側にある。彦四郎宅との直接の関係はないという。この軸は曽祖父が求めたらしいこと以外わからないという。曽祖父は歌を詠んでいたことから逸女の影響もあったのかもしれない。

                                     和歌三神と古今和歌集 逸女と源尚元                                                   後三年合戦

右の絵は麓の「カクザエモン」宅所有。八坂神社の掲額は烏帽子だったがこの額は兜をかぶっている。源義家後三年の役参戦を描いたものと思われる                                  

下は私宅「養蚕大神」の掛け軸。毎年新年を迎える年越しに床の間に飾る。我家ではこの軸を飾るのは長男の任務と教えられ中学生のころから私の担当になっている。私の子供のころ養蚕もしていたがやめた以後も農業の神様として現在も続いている。

養蚕大神(金色姫)は天竺に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたとの伝説。金色姫が右手に桑の木、左手に蚕種を持っている。

                                           養蚕大神

この軸のように「養蚕大神」に日の神、月の神が描かれたのは珍しいとされる。守護神は天照大神は太陽。太陽の方は一方を照らせば一方を陰にしてしまう昼は明るく照らすけれども、夜になるとかくれてしまう。大日如来さまは、どこもかしこも陰にすることなく明るく照らし、昼夜の区別なくいつでもその慈悲の力を発揮する点で、太陽よりはるかに優れていることから「大」とつけられた。軸の一つは月ではなく、夜も照らす太陽を表しているのだろうか。

江戸の絵師は絵には描かれた題材に大きなメッセージが読み取れる。そこには神仏、歴史、和歌等にも精通していた。多くの軸や掲額にふれると絵師の偉大な人物像が浮かび上がってくる。源尚元の軸は集落にまだ収納されているらしい。かつては大晦日に掛け軸を飾り、新年を迎えた。近年時代の移り変わりでこれらの行事はすたれてきた。団塊の以下の世代になると昔から家にあった掛軸等に関心は薄れてきている。源尚元(源光)の存在を知る人は年々少なくなってきている。

 

 


後藤逸女 教子 井上常松

2020年01月21日 | 村の歴史

2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催 湯沢市観光物産協会、共催 稲川文化財保護協会、後援 湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。

今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。

「愛日蘆」

明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹義理は親しくその家を訪ねて「愛日蘆」の軸と家族一人5合扶持の沙汰を与えた。

                                                   愛日蘆と逸女の肖像画(川連の画家後藤恵一の油絵)

慶応2年7月15日の日付、前句会で詠まれた歌を逸女が記録した。杉板に逸女特有の筆使いで書かれている。この額は昭和47年本堂工事の屋根工事で外された以外、他所に貸し出され外されたことがなかった。

                                              神應寺 本堂前句掲額

今回井上常松について少し私論を述べてみる。 

井上常松は逸女の書には教子と書かれている。教子とは日本語大辞典(講談社)によれば「教えをうけた人。生徒、弟子」とある。一般的には弟子と呼ぶことが多い。ちなみに弟子とは同じ日本語大辞典(講談社)に「教えをうける人、門人、門弟」とある。「教えをうけた人、教えをうける人」等教子、弟子という呼び方に微妙な違いがあるが地元で「井上常松」は逸女の弟子で通っている。

後藤逸女には多くの門人、弟子がいたことが多くの資料に書かれているが「井上常松」が弟子であったことを知る人は地元以外に少ない。集落では「柴田民也」も弟子だったとの説もある。

井上家には逸女の晩年、弟子の常松に送った書が掛け軸となって数多く残っている。特に有名なのは「若菜」、今でも井上家の床の間に飾られている。

                                                                                                              井上家の床の間 

六十八齢 逸女とある。逸女は明治16年に70歳で亡くなっているから68歳は、明治14年逸女晩年の書となる。変体かな文字を駆使して描かれた歌の解読には中々苦労する。

変体かなは、平仮名のの字体のうち、1900年(明治33年)の小学校令施行規則改正以降の学校教育で用いられていない。平仮名の字体の統一が進んだ結果、現在の日本では変体仮名はあまり使用されなくなった。看板や書道、地名、人名など限定的な場面では使われている。異体仮名とも呼ばれる。

いづれにしても短歌の世界に疎いものとしては別世界に見える。昭和44年11月、あきた(通巻90号)「人・その思想と生涯」に稲川公民館長、稲川文化財保護協会副会長、高橋克衛氏は逸女三千首 にこの「若菜」の歌が記されている。この記述に「一連の春の風物を詠んだ歌は、逸女自筆の歌集「酉とし詠藻」に載っている。

高橋克衛書「後藤逸女年譜」には昭和45年、稲川町史 資料集第六号に天保八年、逸女24歳の項に「酉とし詠藻」は湯沢市湯の原佐藤善助家の所蔵で、紙数49枚、歌の数550首の一冊、とあるが「若菜」は逸女24歳の時の歌とは言い切れない。「酉とし詠藻」中には「澄み切った老の心境をを読み上げた歌の数々がある」と高橋克衛氏は後半に記述がみられる。

若菜

を利多知(りたち)て いさ(ざ)やつ万ヽ(まま)し 者川王可奈(はつわかな)

浅澤水乃(あささわみずの) ぬるむあ多り耳(あたりに)

                        六十八齢 逸女

明治14年亡くなる2年前にこの「若菜」を書にして教子、井上常松に贈った背景が偲ばれる。「若菜」の書を逸女から譲りうけたのが明治14年、常松25歳前後と推定される。逸女がこの歌「若菜」を晩年も愛し、弟子の常松に託したようにも想える。明治16年の横手の沼田香雪にあてた手紙に

暁の風にまたたく灯のいつかいつかまで消え残るべき

がある。高橋克衛公民館長は、この歌を逸女の辞世の歌といえると「後藤逸女年譜」に記されている。

逸女が69歳の時に教子、常松に贈った「鶴、亀」は高橋克衛公民館長のいう辞世の歌とともに逸女の夢と常松に託した面影が偲ばれる。

「鶴、亀」の2軸   

                                                                     鶴亀二軸 後藤逸女展 今昔館

この2軸には教え子「井上常松」に贈ったことが示され、鶴亀に託して晩年の逸女の思いが込められてる。

教子井上常松 鶴の哥可(うたたか)きてよとあるのに

 春(す)みよしと む麗(れ)ゐて多つも 遊ぶらし                          

  家の可勢(かぜ)尓盤(には) なミ堂(た)ヽ(た)須(ず)して

                         六十九老 伊津女 

井上常松 亀乃(かめの)う多書天(たかきて)よと称(ね)支(ぎ)の万(まま)に〱(まに)

 よ呂(ろ)津代(づよ)耳(に) 満(ま)多予(たよ)ろ都(づ)世(よ)とい者(は)ふ也(なり)

 嘉(か)米(め)に子可免(こがめ)野(の) 歳(とし)をかさ年傳(ねて)

                                                          六十九老 伊津女

この二軸が離れ離れになったことがあった時、災いがあったのでその時以来井上家では「鶴亀」の軸として大切にしている。69老 伊津女署名、亡くなる前の年に、鶴の軸「、、、家の風には波たたづして」、亀の軸「、、、亀に子亀の年を重ねて」に弟子常松に託した想いが込められている。

逸女の晩年は順風ではなかった。明治11年母ハルが83歳で逝去後、同15年七山邦彦依嘱の「逸女史真筆」に

「、、、とし手のわななきて書たるは病悪しき日々らぬは少しよろしき日とり乱書きちらしたるは老て倦たるなりしかみそなはし給へかし七山邦彦君まゐらす六十九老逸女」

と「後藤逸女年譜」にある。上記の「若菜」と「鶴亀」の軸に微妙な違いを感じ取れる。六十九歳になって書いた軸が「伊津女 老」になっている。

教子「井上常松」は昭和7年74歳(?)前後で亡くなるまで逸女の弟子として活躍し、逸女の弟子「井上常松」の集落には定着していた。高橋克衛氏の「後藤逸女年譜」に明治7年(1874)逸女61歳の時の事項に弟子の井上常松の母にあてた手紙の中に「、、、そろばん習はせ度と母様、御中に御座候年内は道よしからす。正月中御出可然存候、、、」と逸女は歌の道だけでなく、その他の教育を教えたとの記述がある。川連に「年貴志学校」ができたのは明治9年9月、その前に「常松」の母が逸女に教えを頼んでいた。この背景か「井上常松」の誕生は明治初年と分かる。逸女の亡くなった明治16年は常松は25歳前後。69歳の逸女が鶴亀の署に託した背景の奥深さを感じてれる。

この手紙を「井上常松」の息子、栗林友次郎氏が掛け軸として所蔵と「後藤逸女年譜」に記されている。今回、栗林家を訪問したがこの軸は見つからなかった。栗林家には「井上常松」の軸が床の間にあったので今回の「後藤逸女展」にお借りした。

                                                                           井上常松の軸 (栗林家所蔵)後藤逸女展 今昔館

左の軸の 逸女教子井上常松70齢との名がある。逸女が亡くなった明治16年以降、逸女の弟子「井上常松」によって集落では後藤逸女の評価が広く伝わり、歌や書に親しむ人が多く出たといわれている。逸女や常松の軸を所持している家にその傾向が強いようだ。

                                                                                                                        井上家過去帳             

井上常松は昭和7年に74歳前後で亡くなった。菩提寺28世神應寺住職は戒名「逸学院常松翁書居士」を与えた。さらに住職は井上家の過去帳に「川連町野村孝婦後藤逸女教子井上常松」と添え書きしてある。逸女と常松の深い子弟関係は菩提寺も集落でも認知の関係だった。

新年になって故井上常松の軸が「安兵衛」宅から見つかった。栗林家の軸と同じものだった。まだほかにも集落では井上常松、後藤逸女の書や軸が眠っているようだ。

※井上常松の年齢は推定。                                               ※井上常松の年齢判明 昭和7年 74歳没  秋田魁新報「後藤逸女之伝記」 昭和4年12月 川連小学校長 佐々木栄治 に逸女の見習い弟子14、5人から30人、存命中の人井上常松(71)、樋渡尾上(76)、佐藤なつ(79)とある。(稲川町史 資料編 第五集) 令和5年3月追記


細沼の「オゼコウホネ」

2019年12月05日 | 地域の山野草

オゼコウホネ(尾瀬河骨)は昭和12年、尾瀬で新種のコウホネ(浮葉植物)として見つかったのでオゼコウホネの名がついたといわれている。尾瀬、山形月山、北海道空知、宗谷等限られた場所にしか生えていないとされてきた。そのオゼコウホネが湯沢の細沼に群生している。尾瀬より早く発見されていたらホソヌマコウホネの名がついていたのかもしれない。

数年前、福島県の桧枝岐村から始まる尾瀬を散策した。オゼコウホネは地塘(高層湿原にできる池)の主役などと言われているが生育場所は尾瀬でも限られ木道散策等では見ることはできない。山形県の月山のオゼコウホネは八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。無数の地塘のある中で、広さがせいぜい100㎡に満たない地塘に生育している。湿原の木道を数分歩いてたどり着く。地塘なので立ち入りはできない。6月中旬に散策したときは地塘の中心部に一本オゼコウホネが咲いていた。山形野草園にはかなりの本数が植えられていた。

一般的に池塘には「ミツガシワ」、「ヒツジグサ」、「オゼコウホネ」の3種類の植物が混生している。この3種類の植物は池塘の水深により棲み分けをしている。水深75㎝がミツガシワ、125㎝ヒツジグサ、150㎝オゼコウホネといわれている。

池塘ではない細沼にオゼコウホネが群生していることを数年前から聞いていた。今年9月末、「雄勝野草の会」秋の観察会で初めて細沼のオゼコウホネを観察できた。

 細沼のオゼコウホネ (2019.9.28)

細沼の標高は307ⅿの地点にある。水深約4m。貝沼は細沼の北側で水深約10m、鯉、ヘラブナ、ワカサギ釣りの名所として全国の釣り人によく知られた沼。30数年前、私も子供たちを連れてワカサギ釣りに通った。当時は細沼のワカサギの方が貝沼より少し大きく良く釣れた。

この写真では右側の大きい方が貝沼、左の小さい方が細沼。上方の山は奥宮岳。皆瀬ダムの入り口の反対側に道路がある。国道398号線から600ⅿ程で沼に着く。

貝沼と細沼 (引用)

細沼は、その名の通り細い形をした沼。上空からの風景は貝沼と細沼の間の陸地が島のような形になって見える。水の流入口は見えない。周辺の山から自然の流れと湧き水で沼面が保たれているのだろうか。貝沼にはカラス貝が生息していることから貝沼の名がついた。カラス貝は30cmを超える個体も見られる大型の淡水貝で、湖や池、沼などに主に生息しているといわれているがそれほど大きな貝を私は見たことはない。細沼にもカラス貝は生息している。

細沼にオゼコウホネの群生がある。オゼコウホネの漢字表記は尾瀬河骨。スイレン科コウホネ属。

細沼のオゼコウホネ(2019.9.28)

細沼は水深4ⅿともいわれ、オゼコウホネは細沼の両突端にまとまって生育していた。今年は梅雨に極端に雨の量が少なく、細沼の沼面は例年より1ⅿ以上も低くなっていた。例年だと水の量が大きく、オゼコウホネの生育場所に近づくことができない。今年は水量が極端といえるほど少なく、一部の生え際近くまで近寄ることができた。

水中に生える多年草で根茎は深く泥の中、長い葉柄を伸ばし水の上に葉を広げる。葉は円心形で長さが10㎝前後。裏面に細い毛が密生している。花は黄色、直径が2~3㎝、花弁状の萼片は5枚。中心にある柱頭盤は深紅色。

拡大の花弁(2019.9.28)

多くのオゼコウホネ愛好者も真上からの写真を撮りたいと願っているようだがなかなか機会がないらしい。こんな見事な写真は雨の少なかった今年の天候のおかげだ。そして、水際で撮れたのは偶然な出来事だった。

細沼のオゼコウホネは「昭和46年(1971)8月、湯沢高校の教師、望月陸夫氏が生育を確認している。6月に木地山高原の谷地沼、7月に五才沼で確認と「植物研究雑誌 第47巻第3号 昭和47年(1972)3月」で発表している。その記事によれば「「山形県月山のものと比較し検討 したところ、全体がやや大型であること、 葉裏の毛が少ないこと以外は特に差異はない。オゼコウホネと同定される植物であった」とある。

さらに、「植物研究雑誌 第 80 巻第1 号 平成17 年2月」に 「短報 オゼコウホネ(スイレン科)の 新品種(高橋英樹、山崎真実、佐々木純)  日本固有とされる現在まで に、尾瀬(三木 1937)、山形県月山(佐藤 1964)、秋田県谷地沼(望月1972) 、北海道 雨竜沼(伊藤・梅沢 1973)、キモマ沼(伊藤 1967 、 1967) などから報告されており、角 野 (1994) では尾瀬、月山、雨竜沼の 3ヶ所 が確かな産地」とある。

コウホネ属は北半球の温帯を中心に20種、日本では4種およびいくつかの変種が知られる。しかし変異の幅も広く、その区別はなかなか難しいとされれる。

オゼコウホネは昭和12年(1937)にネムロコウホネの変種として発見されてから92年になる。植物は進化と退化の途上にある。さらに変種の位置づけはどう推移していくのだろう。


第43回雄勝野草の会山野草写真展

2019年11月20日 | 地域の山野草

第43回雄勝野草の会山野草写真展は12日(火)から21日(木)まで湯沢生涯学習センターで開かれています。会員7人が山野草の写真66点を展示しています。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。主に今年自然観察会や深山、里山等で撮った写真。66点の中には同じ名の山野草もみられる。各会員の感性による表現に触れるとより山野草の奥深い豊さ発見してしまう。一枚一枚の写真に感謝を込めたい。

私は今回次の写真、サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)、オオヤマオダマキ(川連町黒森)、オゼコウホネ(皆瀬細沼)、アケボノソウ(仙北市抱返り)、ツリガネニンジン(皆瀬ダム)、キンエノコロ(川連町田屋面)、ムラサキセンブリ(湯沢市山谷)の7点を出展しました。

サンカヨウ(湯沢市 つぶ沼)

 

サンカヨウの漢字表記は「山荷葉」。花言葉は「親愛の情」という。花期は5月から7月。茎の先に直径2㎝ほどの白い花を数個つける。大小2枚の葉は成長するとフキに似ている。花は小さい葉の上に乗っているように見える。花びらが雨に濡れると透明になる。花びらが水分に触れるとその水分を吸い込み、光を吸収してしまうからと言われているが科学的に証明されてはいない。花びらが乾燥すると白い色に戻る。山荷とは蓮の葉のこと、5月の柔らかい陽を浴びて葉っぱがより美しかった。

オオヤマオダマキ(川連 黒森)

漢字表記は「大山芋環」。岩手県岩泉町の早坂高原にオオヤマオダマキの群生地があった。ビジターセンターの広場は「牛追の道」の碑があり「南部牛追歌発祥地」の標柱がある。6月下旬周辺を散策するとオオヤマオダマキに出合える。我家の坪庭にも昔から居座っている。開花後種が落ちて増えている。あまりにも多く増えて持て余している。

この写真は自家の杉林の林道で撮った。6月9日午前9時頃、ナラ枯れ被害にあったミズナラの伐採作業をしていた。薪ストーブの材料でこの作業は欠かせない。この林道にでオオヤマオダマキがみられるようになったのはつい2,3年前からだ。もともとこの場所にあったのか、それとも他から人や車で種が運ばれてきたかのかよくわからない。

杉林の隙間から陽の光で、鮮やかな姿に思わずシャターをきった。花びらの表面が独特な高級感を漂っている。写真を拡大してより印象を強くした。花の径は3㎝ほどで紫褐色の花、花弁は黄色。

 オゼコウホネ(皆瀬 細沼)

オゼコウホネの漢字表記は「尾瀬河骨」。尾瀬ケ原に生えるコウホネで夏の尾瀬を象徴する水草といわれている。尾瀬の他に月山にも生えているが数が減ってきているといわれる。コウホネの柱頭は黄色。尾瀬、月山に自生しているのは赤いのが特徴。数年前月山のオゼコウホネに合ってきた。月山八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。広さがせいぜい100㎡に満たない地塘にあった。氷河時代からの遺物とされるが季節が6月下旬だったので花は一輪だけ。地塘なので立ち入り禁止。カメラは望遠でやっと一枚。

細沼のオゼコウホネの群生。沼の水際付近でオゼコウホネの生えている場所に近づくことができた。花の真上から写真を撮れる等とは今まで想像すらできなかった。今年は例年になく雨が少なく、沼の水量は比較にならないくらい少ない。そのためにオゼコウホネに近づくことができた。マクロ機能のデジカメ、花の姿に魅了された。

アケボノソウ(仙北市 抱返り)

アケボノソウの漢字表記は「曙草」。花冠の斑点を夜明けの星空に見立てたことに由来する。リンドウ科センブリ属の分類されて花はセンブリと似ている。和賀山塊の仙人、渓風小舎さんの案内でたどりついた。アケボノソウは抱返りの杉の伐採地に固まって咲いていた。草丈が80㎝ほどの2年草。長さ1~5㎝の花柄。裂片に直径1.5mmの黄緑色の蜜腺溝が2個あって、裂片に濃緑色の斑点が多数ある。斑点の数は花弁それぞれ違うようだ。密腺にアリなどがエサとして群がり受粉の役に立っている。

多数のアケボノソウの中に花冠に斑点のないフナシアケボノソウ(班無し曙草)が混じっていた。この場所は平坦な杉伐採2年後の場所。杉林の中では花も草丈も弱々しかったが伐採後、十分な陽の光でアケボノソウ は旺盛な姿になっていた。 

ツリガネニンジン(皆瀬ダム)

ツリガネニンジンの漢字表記は(釣鐘人参)。花期は8月から9月。10月下旬の写真でほとんど花は終わっていた。一株残っていたツリガネニンジン数段に分かれて咲く。この写真はあえて一輪の花にした。

 キンエノコロ(川連 田屋面)

 

キンエノコロの漢字表記は「金狗尾」。イネ科エノコログサ属の一種で、一年生植物の草。穂の形がエノコログサとよく似ているが、穂にびっしり生える毛が、黄緑色のエノコログサと異なり、黄色である。その黄色が光を受けるさまを金色と見たのが名の由来である。

稲刈り直前のキンエノコロ。朝日を浴びて映える。排水路の土手にこの姿が50ⅿ近くも続くと壮観な眺めになる。「あきたこまち」の登熟を後押しているような気がする。

 ムラサキセンブリ (稲川 山谷)

ムラサキセンブリの漢字表記は「紫千振」。千回振っても苦いといわれるセンブリ、ゲンノショウコ、ドクダミは日本の三大薬草といわれる。

ムラサキセンブリの生息地は日本列島に関東以西とされる。私の撮ったセンブリをムラサキセンブリとしたのに、単なる色変わり説等異論もある。

ネット検索で秋田からの記事はない。岩手に生育場所が確認されているという。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種に指定されている。茎も葉もムラサキ、写真展に出展したの開花後の姿。この写真は話題提供としてムラサキセンブリの出展した。花の終わったムラサキセンブリから少量の種子が採れた。来春蒔いてみる予定だ。