先の年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2 以降別の資料が出てきたので補足。(3)とした。(2)で以下のように書き留めたが間違いがあった。
「稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)
10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない
その後の調べで、根岸学校の火災は明治38年10月2日ではなく、明治37年11月2日だった事が判明した。当時村会議員だった曾祖父に火災のあった翌日に議会通知が届ていた。明治37年11月4日午後1時、急拠の案件「川連小学校充用家屋(根岸)焼失報告ノ件」議会開催の通知があった。火災報告とその後の対策が話し合われた。
そして明治37年12月3日の議会招集の通知、議案第45号案「川連小学校臨時充用校舎借入ノ件」が上程されていた。
議案第45号案
議案第45号案に「本村尋常小学校(根岸)充用校舎焼失ニ付本月ヨリ来ル明治38年3月限り川連村川連字野村59番建家借入レノ臨時充用校舎ニ充テルモノトス」とある。4月以降新校舎に移る明治38年10月23日までの校舎借入の詳細資料は見つかってはいない。
明治38年10月23日に野村に完成し、約30年続いた「根岸学校」は新しい「川連小学校に統合され幕を閉じた。今回新たに明治36年から38年頃までの経過が判明した。すべて議会通知からのもので校舎建設の詳細が分かった。統合された「川連小学校」は明治35年に計画されていた。
明治36年3月4日の議会案件
第九号 小学校新築事業繰延ノ件
要約すると「本村尋常小学校新築工事ワ客年7月ヨリ起工スベキトコロ、気候不順暴風災害、農産物ノ凶作ヲ受ケ生産力ノ達ヲ阻害、一般経済界ノ困難ヲ来シ到底事業ノ竣工ハ認メズ依ッテ本村小学校新築工事ノ繰延ハ止ムヲ得ザル37年度迄繰延スルモノナリ」とある。
客年7月起工予定とは明治35年7月のことになる。川連小学校の新築工事は明治35年に決定していた。繰り延べは「暴風被害等一般経済界の困難」となっている。
議案第10号に「明治35年年度○税○入出予算中剛削除ノ件」が上程されている。これによれば臨時費として「校舎新築、機材計6408円60銭」とある。
学校新築が繰延しなければならない「気候不順暴風災害」とはどのような事だったのか。稲川史資料集第8集2編、稲庭古今事蹟誌巻「明治35年9月28日風害調」佐藤黎明 にその詳細がある、それによると「明治35年9月28日、朝より雨風起こりて次第に烈しく正午頃に至りて大風となり、川は俄に洪水となり屋根の石を落とし、木羽杉皮屋根板垂木扉障子等を飛ばし屁子店(ママ)等は道に倒、人さえも倒されて歩行もならす、、、、、。三島神社の拝殿は大杉倒れて微塵になり、、。午後3時頃より風弱くなり、、、、」とある。
さらに「当地暴風の損害は左の如し」
明治35年9月28日風害調
「全半壊55戸、大破350棟、小破69棟、製糸場全壊、陶器場全壊、負傷者9名、神社境内風倒木99本、損害田150町、畑160町、樹木転倒26万本、損害見積高42万4700円。田んぼはほとんど倒れ、籾は田面一面に散布ものの如、半作以下。作物は倒れ葉の満足なもの一本もない」とある。
稲庭から約7㌔ほどしか離れていない川連村でも同じような被害は想像される。この年東北地方を中心に米が平年の半作で経済界も大打撃。この暴風雨は「足尾台風」ともいわれ、千葉から新潟、北海道北部を通過、主に関東から東北地方に大きな被害をもたらしたといわれている。暴強風で収穫前のモミが田んぼ一面に散布したように散乱した状態とは信じがたい被害。
政府は明治33年北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。1月に日露戦争を想定した軍事訓練、「八甲田雪中行軍」で210名が遭難、5月に199名の遺体が収容された。
明治35年~38年までの議会は混乱に満ちている。開催通知から主な議案は「東福寺村と川連村との入会林の裁判、学校建築、役場(借家)、病舎等の修理、久保下川原河川復旧」等で相次ぐ追加予算、明治36年の追加予算案で、税の戸数割が当初予算案の23%増等が見られる。結果的に延滞者が多く村では役場職員だけで対応が難しく各地区に区長を置くという案が審議されている。議会を招集しても欠席者が多く再召集の通知が見られる。
そのような情勢の中で明治35年村長が辞表を出している。さらに助役、収入役等の辞職。書記職員の退職等村の執行体制の混乱が見られる。その都度代理村長名、議会議長代理の助役名で議会通知等繰り返されている。
代理村長では埒が明かずと見えて、明治36年2月に村長に川連尋常小学校の校長、「後藤喜一郎」氏を就任させた。しかし、その後も選任された助役、収入役等が辞任、税収の不足、追加予算等の混乱のが続いていたとみられ、役場の職員体制(村長含めて6~7名)で税収徴収等に手がまわらず、各地区に区長を置く提案が見られる。
後藤喜一郎村長名の議会通知は明治36年6月までで、その以後は助役が村長代理名で議会通知を出している。校長職から激変した状況がしのばれる。そのような状況の中で就任一年にもならない明治37年1月、「後藤喜一郎」村長が急死している。事態の集約のために村長欠員選挙会開催の請願書が出された。5名の議員は全員川連(根岸)、亡くなった「後藤」村長も川連だった。
請願は村長代理助役山内梅吉は大舘出身。選出過程は承知しないが結果的に明治35年辞任した村長「酒井文吉」氏が代理就任等にも見受けられるが混乱は収まっていないと思える。その後も収入役の辞任、相次ぐ議会招集も欠席が多く延期開催等の通知がみられる。
今の所、明治36年度の村会で明治37年に繰延された、その後の川連小学校新築の経過の資料が見つかっていない。そんな中で明治37年11月2日午後2時に「根岸学校の火災」が発生し備品悉く皆焼失と稲川町史 資料集 第11集にある。
明治37年12月21日、川連村長代理「山内梅吉」で下記の予算案が見られる。
これによると臨時予算として教育費2285円55銭が計上されている。学校敷地2反8畝10歩 坪単価60銭計510円、校舎新築費1329円55銭、古校舎買上450円等がある。
村財政ひっ迫の中で明治37年起債額2000円の償還財源に戸数割、地価割り等の他に高等科併設として、生徒一人一か年2円として80人分160円が計上されている。しかし、この計画も予定通りは進まなかった中で、明治38年10月23日に「川連小学校」は「根岸学校」と統合されて発足した。発足した小学校も翌年、明治39年3月の予選案で334円93銭が工事費として追加計上されている。
高等科のない川連尋常小学校に、明治37年6月の議会に補習科設置の案件が見られる。ここに「高等科がないため尋常科卒業の児童が無益な遊戯していることは甚だ遺憾、本校に補習科を設置し教育上の発達を計る」と要約される。
明治37年6月議会案件 川連尋常小学校に補習科設立の件
わが国に公教育制度が完成したのは、明治5年の学制の発布から28年後の明治33年(1900)と言われ、この年に義務教育の授業料廃止が行われ、義務制、無料制、宗教からの中立の条件が成立した。そのような制度の中で川連尋常小学校に併設条件と思われる生徒一人年額2円、計160円の予算が遂行されたのかは確認できない。
当初計画された高等科は併設できず、高等科が出来たのは計画から約10年も経過した大正4年に開設され、川連尋常高等小学校に名前が改称されている。
旧稲川地区で高等科設置が早かったのは駒形小学校が明治25年、三梨小学校は明治30年、稲庭小学校は明治32年。大正4年まで川連尋常小学校の卒業生は高等科に進むためには駒形、三梨等の学校に進んでいた。
下記は明治30年に設置された三梨小学校の高等科へ転校するために、それまで通学していた駒形小学校に曾祖父が提出した「退桟届」の下書き。高等科3年は現在の中学校1年、高等科1年は小学校5年生にあたる。根岸学校の地域から駒形の学校までの距離は約5㌔以上、三梨の学校までは約3㌔。当時子供たちは知識を学ぶ生徒は当然としても需要な働き手だったので通学時間が短いことは何よりも学校に通う条件だったと思える。
駒形尋常高等小学校 退桟届
昨年11月29日「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」に始まり、今年1月12日 に2、そして今回その後の資料が出てきて「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」3とした。
学校発足の明治9(1876)年はから明治38年まで約30年間、川連小学校が新しく生まれて「年貴志学校」(根岸学校)が統合までの資料は見つからない。
文久2年生まれの曾祖父が、高祖父からの教えで「読み書きそろばん」から「百姓往来豊年蔵」から論語、孟子、大学、中庸等を10歳前後から学んでいたことが分かっていた。明治新政府はそれまでの寺小屋制度を廃止し小学校の新設を奨励した。集落に「根岸学校」が生まれたころは曾祖父は14歳になり、学校に設立に高祖父が一部関わっていたらしい。「根岸学校」は巷間語り継がれてきたが詳細はほとんど知らないできた。「川連学校」が明治9年5月に開校されたときのはすでに「根岸学校」があったということを「稲川町史」で知り関心が高まった。
昨秋自宅の土蔵から出てきた議会通知等の資料から「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」シリーズ1~3をひとまず終える。「根岸学校」の詳細にはほど遠い。今後も資料収集、聞き取り調査等で追っていきたい。終えるにあたって振り返ってみたら今年は「川連小学校」開校140年に当たっていた。
2017年1月8日
七草も終わり、寒入り4日目は朝から快晴。積雪は20㎝ほど。寒からず快適な新年。2017年1月8日早朝、田んぼから四方の風景を収めてみた。
北の八面神社の木立は幻想の世界。南は高松岳と山伏岳。東は鍋釣山。西には雄長子内嶽と雌長子内嶽。南東に国見嶽、朝靄の集落は日の出の朝を迎えました。1日の始まりです。
東 麓集落というより川連町の東の象徴。地元では鍋釣山とは言わず字名から小坂山と呼んでいる。
西 雄長子内嶽、雌長子内嶽とも川連町、かつては大舘村そして川連村。今は湯沢市になってはいる。
南 朝靄の三梨、稲庭の背。奥宮嶽、高松嶽が一足早く目覚めた。
北 天空の森に見える。八面、三又神社等の杉木立。朝霧に霞む独特な姿。
東南 国見嶽、国見の名のつく山は全国的に多い。戦国時代が彷彿される。
1月15日
稲川盆地。今日の東西南北とプラス1。
雨で明けた新年、5日に15cm、11日12cm、12日28㎝、13日45cm、14日10cm、15日28cmの降雪、今朝はマイナス11度の気温、除雪機から飛び出す雪煙は勢いが良かった。屋根の雪は約80cm。日曜の今日は日中の降雪はほとんどない穏やかな一日になった。
東 杉に雪の風景、どっしりとした姿はいつみてもいい
西 稲川のマッターホルン。雄と雌と鎮座、ウーンとの想いがしばらくつづく。
南 奥宮嶽、高松嶽、山伏嶽今日は見えない。
北 駒形方面。八面、三又神社の森。かつて戊辰戦争の時は戦場となった。
南東 今日の國見嶽は山麓の杉軍団に守られ、どっしりとシベリア嵐に立ち向かっている。
先のブログ「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」2016.11.29リリース後、その後に新たな事実に補足して年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2とした。
稲川町史「資料篇」の第一集は昭和40年3月3日に当時の稲庭川連町(昭和31年(1956)合併、稲川町 昭和41年(1966)に改称、平成17年(2005)湯沢市となる※)教育委員会から発行された。その後昭和51年3月31日の第十一集まで稲川町文化財保護協会が編集にあたった。この資料集を基に「稲川町史」が発行されたのは昭和59年3月31日だった。構想から約20年の歳月がかかった。稲川町史「資料篇」は一部しか保持していない。今回友人の好意で、第一集から第十一集まで読ませてもらった。この「資料集篇」で川連小学校について以下の関係する記事があった。
稲川町史「資料篇」第九集「伊藤政義文書」(その三)「高橋利兵衛家 初代から十代に至る記録」、八代高橋利平衛可寛の中に
明治8年 高橋岩吉家を借し学校を創設せり 後野村にに移し又大館にも写し根岸にも人家を借り小学校とせり
とある。さらに稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校(一)校地・校舎の変遷に
明治09年05月26日 創立 川連学校と称し、久保村字久保に設置(根岸学校不明)
15年09月23日 大館・野村に分校を置く
19年04月 分校を統合 野村分校を増築し川連小学校を置く
22年09月01日 大館に本校、根岸に分校を置く
38年10月23日 野村に新校舎落成し移転 根岸分教室を併合
伊藤政義文書には明治8年とあるだけで月日は記されていない。稲川町史「資料編」十一集の記述より前に学校が創設されていたことになる。町史編纂作業で上記の記述が反映されていないことになる。明治8年学校創設時に「根岸学校」ありとあるが詳細は記されていない。稲川町史「資料篇」十一集の川連小学校(一)校地・校舎の変遷にある「明治9年5月26日」川連学校創立との違いはどこから生じたのだろうか。
さらに稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)
10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない。
下記は稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校沿革・行事の概要のコピー。
長い間教育機関に縁のなかった村人には、授業料を負担する国民皆学の新教育制度に抵抗があったとされ、就学しても現在の一年生で退学してしまう者が多く、2年生以上に進学する者は3割に満たなかったといわれている。
明治19年4月、政府は教育令を改め、小学校令(小学校は尋常小学校4年斗高等小学校4年の二段階とし、尋常小学校4年を義務年限)を公布し、明治20年(1887)4月1日から施行した。
稲川地区で呼応して高等科を設置したのは駒形小学校が明治25年、駒形尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科は99名、高等科は49名。三梨小学校は明治30年で三梨尋常高等小学校と改称、尋常科108名、高等科53名。稲庭小学校は明治32年、補習科を廃し高等科(三年制)を設けて稲庭尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科251名、高等科43名。
川連小学校に高等科が設置されたのは大正4年。駒形に設置されてから24年後、稲庭尋常高等小学校に改称されてから16年後となった。高等科のなかった川連地区の児童は三梨、駒形尋常高等小学校へ通っていた。大正4年川連尋常高等小学校設立時の生徒数、尋常科449名、高等科25名。他地区と比べて高等科に進む生徒が少なかった。
各地区とも高等科が設置されても進学者は15~20%前後。この比率は昭和21年まで続いている。昭和22年3月31日、政府は学校教育法」公布、翌4月1日から施行され小学校6年、中学校3年の義務教育がスタートした。
※湯沢市 平成17年(2005)3月22日 湯沢市、皆瀬村、稲川町、雄勝町の合併で新湯沢
市が誕生した。合併によって旧稲川町の地区の名称は湯沢市〇〇町と昭和31年(1956)
合併前の稲庭、三梨、川連、駒形の町村名が復活した。
「イシカツラ」以外の「洞穴」は昭和61年豪雨の復旧工事で立ち入りが危険なため入り口が閉ざされた。川連の三ケ所の外に東福寺山の「桐沢」は東福寺と川連の入会山。終戦前後ここにも一ケ所掘られた場所がある。10代の頃この場所を訪れたことがあるが、現在は立木が鬱蒼と繁りその場所は良くわからない。
内沢で入り口を閉ざさないでいた一つの「洞穴」は湯沢市ジオサイトで平成23年度に「ジオサイト:稲川15」で紹介されている。この資料では坑道跡はいつの頃掘られてたのかわからないとある。
このジオサイト:稲川15によれば、「川連の鍋釣山周辺の地質は、中新世中期(2000万年前)の火山噴火によって形成された国見嶽層の安山岩質火山碎屑岩と輝石安山岩からなる。川連の坑道跡付近は、暗灰色~帯青黒色の玄武岩質安山岩で、シリカ脈を伴っている」とある。
稲川町史には『この付近は激しい海底火山噴出の中心域を物語る。さらに注には「この変動に続くマグマ熱水の上昇によって黒鉱等の金属鉱床が形成された」、国見嶽、鍋釣山等はその火山岩体から成る。激しい海底火山噴出は西黒沢期後期には活動を終え、この地域は凝灰岩から泥岩の堆積が示す深い海となった。そして、中新世末期の船川期には、褶曲、断裂等の変動を受けつつ陸化したものと思われる』とある。
川連の北には同じ地質時代の地層に鉱脈が形成され東福寺の白沢銅山が宝永6年(1709)、大倉鉱山が宝暦3年(1753)に開口されている。川連の内沢はこの地区と地層の類異性から古くから「カネヤマ」探しに関心が高かったと思われる。
明治新政府は、明治2年( 1869) 2月20日に「鉱山開拓之儀ハ、其地居住之者共故障無之候、其支配之府藩県へ願之上、掘出不苦候、府藩祭ニ砂テモ、旧習ニ不泥、速ニ差免可申事」(行政官布告177号)と布告、鉱山に対する政府の所有権と鉱業自由の原則を宣言した。そして試掘に地主の優先権を保障、自分の所有地以外で出願するときは地主の承認を要すると云うことになっていた。
このほどわが家からこの内沢の鉱脈探査に関係すると思われる資料が出てきた。この関係資料から内沢の「洞穴」は下記の資料から明治7年の試掘願書から始まったと推定される。
試掘願書 部分 明治7年
この「試掘願書」は明治7年に大館村「黒滝源蔵組合」の名で出された。願書には黒滝源蔵、高橋藤右エ門と大館村伍長総代小野寺藤左エ門、川連村伍長総代関 主助の名がある。どうしてこの書がわが家からでてきたのか不思議だったがこのほど手がかりが出てきた。試掘には相応の経費が必要になる。試掘願書出した明治7年7月22日に「長里久七良」あての「貸地證文事」(借用証文)。受合「高橋藤右エ門」、「井上久四良」。借主「黒滝源蔵」、「高橋藤右エ門」を含む8名。「長里久七良」は私の高祖父。不思議なのは借主の8名の中に年齢12歳の曾祖父の名があるが印はない。印があるのは6名で金10円借用されている。中心の「黒滝源蔵」氏は明治の廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺の最後の住職だった。
貸地證文事 明治7年7月22日
そして下の図はは6筆の桑畑と林を担保とした「書入れ金借用證文」で、金額は5円。「黒滝源蔵」を含む3名が川連村の「赤沢○○」当てに出され、高祖父は請合人になっている。請合とは今でいう保証人のこと。
書入れ金借用證文一部 明治8年3月27日
明治7年に「試掘願書」が出され、許可が下りて採掘がはじまったものと思われるがその経過についての書類は見つかってはいない。内沢の採掘坑道は深さが約15m程。坑道の入り口が狭く、それに水が流れ出ているので入るのが難しい。10m程進むと高くなっているで人は立てる。現在麓集落の有志が導水管で湧水を集落まで引いていて、数年毎に中に入って掃除をしている。
この2枚の証文からから推定して川連の内沢鉱脈探査の坑道は明治7年から始まったと思える。約15m掘り進むのにどれくらいの日数がかかったのかは知る由もない。当時の大工の日当は30~40銭、日雇いはその半分の16~20銭と言われている。二つの証文にある計15円は忽ち消えてしまったと思われる。その後の資金の手立てはどうだったのか、證文にある永代地の一部は現在私の家の持ち山になっている。
試掘坑道の隣地はわが家の所有地。当時は桑畑で「豆星平」と呼び、坑道のあるところは「イシカツラ」と呼ばれていた。ジオパークの資料に「石川連」とあるが、地元でかつて「イシカツラ」と呼ばれていた呼称が「石川連」なのかは判断が難しい。隣地の「豆星平」は樹齢100年過ぎた杉林、「イシカツラ」は岩の層で樹木が育たない。内沢はそのすべてが急峻な地形。「豆星平」や「桧平」等、平の付く場所が数ケ所あるが一般的な「平」のような場所ではない狭い場所。わが家の「豆星平」は所有面積は約30aあるが平の場所等はほとんどないに等しい。急峻な山は住む人々は広い場所への願望として、わずかな地にも「、、平」と名で読んだものと思われる。傾斜があるから山の畑は桑畑や萱畑等になっていた。
内沢は明治27年に大雨で集落は大水害に見舞われる。流失家屋11戸死亡者5人の村最大の被害。この記録によれば内沢のいたるところで土が流され沢が止まり堤が何十か所も生まれ、「大地波」となって集落を濁流が襲ったという。この内沢の「洞穴」の所、隣地のわが家の杉林は沢に向かって10数m崩れた場所がある。この場所から300m程上流、通称「狸岩」付近から推定15トンもある大岩が下流約600m流されたと記録にある。この大岩を集落では「雨乞石」として祀っていたが昭和61年の沢河川の工事で林道下の埋められてしまった。内沢水害についてブログ「川連村水害記」2013年9月3日に詳細。(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/75831607ad51e41678488ba17bce9809)
洞窟のある岩肌の「イシカツラ」はこの豪雨でさらに岩肌がむき出し、採掘された岩石はすべて下流に流されてしまったと思われる。明治7年「試掘願書」が出され、許可が下りて何年間内沢の山に挑戦したのか確実な資料が乏しい。各地の鉱石探しのノウハウを持っていたのは山伏や修験者だったといわれている。明治7年の「試掘願書」の代表が、廃仏毀釈で廃寺になった妙音寺住職「黒滝源蔵」氏だったことは大きな意味があった。妙音寺は祈祷寺で山伏・修験者のながれをくむお寺だった。「妙音寺」について昨年12月19日のブログ「妙音寺」1(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/e6c9c24fe38e59d0099ac8d7b218e505)に詳しい。
先のブログで紹介したように、広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」、「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。
日本では16世紀末から17世紀にかけて鉱山開発が頂点、国内のほとんどの地域が明治の初期にかけて鉱山開発が行われた。鉱山が見つかれば資金、技術、労働力が必要で江戸初期においては幕藩領主、近代においては財閥系の鉱山企業が乗り出している。
試掘許可や採掘許可が下りたとしても相応の経費がかかる。鉱山、鉱床発見の確率は極めて低かったはずだ。内沢と同じ地質時代の地層(玄武岩質安山岩)から鉱脈が開発された「白沢、大倉鉱山」は直線距離は3㌔弱の場所だったが鉱物は見つからなかった。明治の初期は、幕末から続く物価の高騰と税の金納に庶民は振り回された時代、固い岩山に挑戦した当時の熱いエネルギーが偲ばれる。
明治新政府は明治4年文部省を設置、翌5年学制で「自今以後一般の人民必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言。これまで府県が運営してきた学校を廃校し、新規の学校を設立するとの新しい学校教育制度の実施に着手した。この交付を受けて秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」、明治6年1月、すべての男女6歳から9歳までと10歳から13歳までの人名の調査報告を指示した。
皆瀬村史から引用 雄勝教育百年史(雄勝校長会発行)
初めての学校には授業料が必要だった。「年貴志学校」(根岸学校)の一月3.5銭、各地の10銭以下だがこの学費は当時の家庭にとって負担が大きかった。一年就学しても次の年度に進めず、就学断念が多かった。秋田県下の状況は下記。
表に見られるように秋田県の就学率は全国平均の半分程。明治9年は全県学齢者107522人中、就学者19395人は18.04%の就学率だった。「秋田県教育史」によれば現在の一年生から二年生に進むのは30%程度で一年で退学してしまう者が多かった。当時子供たちも重要な働き手で、授業料負担が大きかったことがあげられている。
ちなみに明治治9年(1876)大阪では、前年来の金融逼迫と豊作により前年1石7、8円であった米価が4円まで下がり、また、地租改正により地租が金納となるなど、納税者である農民は米価安に困窮していた。明治9年の米価は60㌔は1円18銭、前年の8年は2円8銭から約半値近い暴落。当時の米の平均反収は明治18年で180㌔、明治9年平均して60㌔で3俵以下。自作農はともかくとして小作農はこの収量から半分近くが小作料、小作地も持たない戸数が30%あった時代で就学しても途中退学が多かった。明治政府は明治22年第二次小学校令、明治33年に第三次小学校令で「尋常小学校の修業年限を四か年の義務制として統一し、就学については授業料を徴収しない」と交付した。
川連小学校の沿革について稲川町史には次のような記述がある。
創立当時の学校名 川連学校
創立当時の位置 久保村字久保
創立当時の職員数と氏名 熊谷成蔵 助訓(氏名不詳) 児童数40名
明治9年(1876)5月 川連学校開校、職員2名、学級数初年度八級。通学区は字野村、大 館、久保村とす。
明治15年(1882)9月 大舘と野村に文教室、12月根岸学校を統合し根岸分校とする。
明治19年(1886)4月 野村分教室を増築し大館、野村分教室を廃し川連小学校となる。
明治24年(1891)4月 三梨小学校に統合され、川連分校となる。
明治32年(1899)8月 三梨小学校川連分校を廃し川連小学校となり、分校を根岸に置く。
明治38年(1905)10月 新校舎を野村に新築、根岸分校を廃す。
昭和7年(1932)5月 現在地に新校舎落成移転する
川連学校(久保)は明治9年5月19日に創立(雄勝教育百年史)とあり、「年貴志学校」は明治9年9月27日開校とある。稲川町史には明治9年5月26日 川連小学校 創立 大館村久保 人家借用 根岸学校あり。との記述がある。久保にできた川連学校の創立前に「根岸学校」が開校されていたことになる。「秋田県教育史」、「雄勝教育百年史」の記録とは違ってくる。いずれにせよ根岸学校は明治9年頃から明治38年、川連小学校に統合されるまで約30年間存在していた。
下の図はわが家の土蔵から明治前後の諸書類と一緒のところからでてきたものだ。
川連学校資金 備品 請負人等詳細 明治9年8月29日とある。年貴志学校(根岸学校)開校の一ケ月前になる。
和紙に書かれた8ページの書は紙よりで閉じられている。1ページに資本金、利子等9月から12月まで毎月2円15銭の経費計81円99銭。学校病院資本金とあり、寺宿料、小使給料等が記されている。教員の給料は書かれていない。3ページから基材等器械、テイブル、ボウルト等。名札百枚、門札、炭入れ、塵取、拍子木等計29円20銭 請負人高橋藤左衛門、沓沢寅之助の名前がある。裏表紙の「癸酉五斗三ノ一」とは何なのか解釈はできないでいる。年号の癸酉とは明治6年(1873)で、この年に秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」した。解釈の一つとして川連では学校設立に動き出していたことになる。
この書には「川連学校」とあって、「根岸学校」ではない。日付は明治9年8月29日で稲川町史にある「川連学校」は5月19日に開校されている。雄勝教育百年史にある「根岸学校」の開校9月27日に合わせたものなら書かれた内容と照合する。
この書が我が家にあることは教育熱心な高祖父(長里久七郎)がなんらか形で関係していたと思われる。私から数えて五代前久七郎は安政の頃、横手市からわが家にきた。幼少の横手時代寺小屋に通い、息子の久治(私の曽祖父)へ教育も熱心だった。久治は明治5年前後から当時の寺小屋の「読み書きそろばん」から「百姓往年豊年蔵」、「商売往来」等明治8年13歳には論語、孟子等中国の古典が多く含まれている。明治4年、高祖父久七郎は9歳の息子に「太閤状」を書き記している。「太閤状」に「太閤様被仰出三拾ケ條」「御詠哥」2、「御掟」19があり、末尾に「三拾ケ條昼夜無差別被令拝読可被守掟もの也」とある。人として生き方、教訓が細かに書かれている。他に一年間の行事等への対応等往来形式の長文、一緒に小林一茶翁の勧農詞もあった。
明治政府が明治6年「学区の設定」し対象年齢6から9歳、10から13歳の調査の時が11歳で対象年齢に含まれていたが、「川連学校」もしくは「根岸学校」の開校時、明治9年曾祖父久治は14歳で対象年齢が過ぎていた。高祖父は40歳、明治の初期に「長百姓」をしていた書もあり、寺小屋から新しい学制に関わっていたようだ。
明治9年設立の「年貴志学校」(根岸)学校の教員に小川為也氏の名がある。村出身の後藤喜一郎氏は明治11年6月、根岸学校の訓道。15年12月川連小学校、21年に校長となっている。さらに36年には川連村長。門人一同崇敬のしるしとして、報恩感謝して大正八年、八坂神社鳥居の側に「後藤喜一郎先生碑」を建てている。
このほどの聞き取りで明治28年生まれの方が「根岸学校」で学んだ後、高等科は「三梨小学校」に入ったことが分かった。当時「根岸学校」に高等科はなかった。小学校初等科は4年で終わった。さらに上の高等科に進むために「川連小学校」か、約3㌔離れた「三梨小学校」に通った。
当時、根岸学校は「キゼン学校」とよんでいたという。「キゼン」は「喜左衛門」家のことで現在川連の「岩蔵」宅の場所。又根岸学校は現「友吉」屋敷のあったとの説もある。又上記の書に「寺宿料」とある。開校時はお寺だった可能性がある。集落にある神応寺、また明治政府の廃仏毀釈で廃寺になったお寺、妙音寺があった。村の中で学校が生まれてから学校の場所が変わったとしか思えない。そして「年貴志学校」(根岸学校)の名前は定着しないで「キゼン学校」等の名前で呼ばれていた。
推論だが上野、川連、麓集落を併せて「根岸」の呼び名は好まれていなかった。根岸の名はいつごろから生まれたのだろう。手元にある資料では明治初期の古地図に第16大区2区大館村に支郷根岸と記されている。現在の麓で旧川連城の城下を形成されていた。明治に入って麓集落だけではなく川連、上野を加えた三集落を「根岸」または「根岸川連」等の呼称になっていた。現在根岸の呼び名は高齢者以外死語になりつつある。地元住民の多くに「根岸」の呼び名に愛着はなかった。むしろ避けていた。特に「根岸衆」は他地区から蔑んだ呼び名で嫌っていた過去がある。明治の時代も変わりなかったのではないか。だからあえて「年貴志学校」の呼び名が生まれたのではないか等思える。現在「年貴志」の名を知っている人はいない。先の資料「川連学校」の日付から何らかの理由で「年貴志学校」(根岸学校)に変えられたとすれば資料と照合できる。ただし推論に過ぎない。川連集落に学校があったと語り継がれ約30年も続いてきた学校の詳細は記憶の中から消え去ろうとしている。さらに資料を探しだして行きたいと思っている。
下図は明治38年川連小学校の建築事委員調。
建築委員長村長の酒井氏以下4名、13名中5人が上野、川連、麓の通称根岸地区から委員。場所は野村の現在七山医院のあるところ、明治38年、約30年続いた「年貴志学校」(根岸学校)が統合されて「川連小学校」としてスタートした。
※ 「小野寺氏の源流と興亡史」小野寺武志編 東洋書院刊(昭和63年1月)小野寺氏の諸城に川蓮城落城の後、「古舘と地名が残り大館(麓)、川連、上野の三集落は根岸と呼ばれる領内であった」との記述がみられる。根岸の名は420年ほど前から存在していたことになる。
ブログが削除されてしまいました。ブログ始めて以来初めてのこと。原因はわかりません。パソコンの誤操作なのだろうか。ともかくわかりません。29日に再投稿を予定しています。訪問よろしくお願いします。11月28日19時
2016.9.22朝日新聞 天声人語
以下は天声人語全文
「俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉。詠んだのは63歳の秋。じっと動かないトンボに四角い顔を寄せ、何ごとかつぶやく名優の姿が目に浮かぶ▼先日、取材で訪ねた長崎県佐世保市で赤トンボをじっと観察した。県版レッドリストで絶滅危惧種に指定されたミヤマアカ。「深山茜(みやまあかね)」と漢字で書いても美しい。隣の佐賀県も含め生息数が減り、佐世保市では環境団体「ふるさと自然の会」が20年前から保存に努めてきた▼「休耕田が増え、苗にまく農薬が変わったのが急減の原因だと見ています」と川内野善治(かわちのよしはる)会長(68)。公務員として市役所で働くかたわら、地元の希少な動植物を調べてきた▼繁殖に欠かせないのは水の流れ。急流にはすめない。田でも水が漏れず農薬のよく効くところは向かない。最適なのは水がちょろちょろと流れ出る棚田とわかり、川内野さんは農家から棚田を借りた。食べるためではない。トンボを育てるためである▼会員の手を借りて田植え、ヒエ抜き、稲刈り、掛け干し、脱穀、精米。それでも、羽に白い印をつけて数えると、4年前に1622匹いたのが、今年は734匹どまり。「私らが棚田をやめたら県内ではもう絶滅が近い。責任は重大です」▼間近で見るとミヤマアカネはなかなか精悍(せいかん)である。お尻を太陽に向けてまっすぐ突き上げる姿など五輪の体操選手のようだ。実りの9月、棚田を歩きながらトンボと田んぼの行く末を案じた」。 引用
前回の「まぼろしの湿地と沼」で「ミヤマアカネ」のことを次のように書いた。
「日本で最も美しい赤トンボと言われる「ミヤマアカネ」(深山茜)が「ホソバオモダカ」に静止した。ミヤマアカネの特徴でもある翅の帯とピンクの縁紋(えんもん)がスッキリとしている。この縁紋は始めは白色で成長するとピンクに変わってくる。もう少し時間がたてば全体が鮮やかな赤色になる。日本の各地に生息していると云われるが、都道府県によっては絶滅が危惧されている」。極めて似たトンボ「ノシメトンボ」にはピンクの縁紋がない。長崎県は絶滅危惧Ⅰ類、東京都は絶滅危惧Ⅱ類。佐賀県、和歌山県等8県で準絶滅危惧類になっている。秋田県では全域で確認されている。
2016.9.6 湯沢市 まぼろしの湿原
赤トンボというトンボはいない。秋を代表するトンボをすべて赤トンボの名で呼ばれているが住宅や田んぼで見られるトンボの多くはノシメトンボ、アキアカネ、ナツアカネ等が主になっている。稲から一日で玄米に仕上がるコンバイン刈り乾燥機体系の作業と違って、昔ながらの自然乾燥で仕上げる「赤とんぼ乾燥米」作業は、赤トンボと少し会話ができるような錯覚に陥る。トンボの大きな目は個眼と呼ばれる小さな目が1~2万個も集まっての二つの複眼と三つの単眼持ち、視覚はほぼ360度。複眼でものの形、単眼で明るさを捉えられるといわれている。
7月に田んぼで羽化した「アキアカネ」は山に移動し、稲刈り時の田んぼに下りてくる。「ナツアカネハ」は山に行くことなく周辺にたむろしている。一斉に飛び交う赤トンボは「アキアカネ」と」「ナツアカネ」が交じっているのかもしれない。成熟するとアキアカネの雌よりも雄のほうが鮮やかな赤に変化し、山から下りてきた赤とんぼの仕事は子孫を残すことで、雌雄結合したまま行動する姿は壮観だ。
アキアカネの交尾 引用
交尾後もしもオスとメスが離れ離れになると、メスは他のオスと交尾してしまう。後から交尾したオスは、メスの体の中から前に交尾したオスの精子を掻き出して捨てるなどして、自分の精子のみが受精できるようにするするといわれ、産卵まで同行しないと自分の子孫を残してもらえない。交尾の後、連結して移動産卵まするまで、オスはメスの頭部をしっかり捕まえて離れないようにしている。
秋空を舞う連結のアカトンボ 2016.9.22 湯沢市川連町田屋面
そらいっぱいの雌雄連結の姿は交尾後ので産卵前の行動かもしれない。この光景は曇りよりも晴天の時に多く見られる。より好条件は雨上がりの後の日差しの時、稲の刈られた田んぼに水たまりができる。連結のトンボは一斉にこの水たまりに産卵を行う。
産卵 2016.9.24 湯沢市川連町田屋面
産卵は連結のまま、水面の上を移動しながら上下にメスが腹部先端で叩き、数個づつ産み落とす。この行動は「アキアカネ」で、「ナツアカネハ」の産卵は連結しながら打空産卵と呼び、稲刈り前の稲穂の上から卵を振り落すといわれる。産卵数は個体差があっても1000粒以上、メスは数日後新たな卵が作られ別なオスと交尾産卵を繰り返すといわれている。
産卵の終わった後は連結を解き、単独行動になる。ほとんどが午前中で終える。午後の田んぼで連結のトンボはあまりいない。私の稲つくりはコンバイン刈りではなくバインダー刈り。刈った後の稲はハサがけになる。トンボは稲杭が大好きらしい。100mで立杭が約65本、2本の倒伏防止用のクロスの杭が約12箇所で24本。計90本。30aの田んぼに2列になるから稲杭の総数は約180本。稲杭を立てると間もなく赤トンボが居住権を宣言する。そしてこの場所を死守する行動に出る。先端に止まっているトンボをめがけて他のトンボがやってくると悉く追い払い静止する。
2016.9.24 支柱の赤トンボ 湯沢市川連町田屋面
今回稲刈り作業の中で多くの赤トンボをデジカメに収めた。朝日新聞の天声人語で「ミヤマアカネ」を取り上げた。赤トンボの中で「ミヤマアカネ」は一番美しいといわれている。「ミヤマアカネ」は9月の始め幻の湿原で出会ったばかりだった。朝日新聞の天声人語で珍しく赤トンボの記事、稲刈りの赤トンボとクロスした。この記事で知った俳優のトラさんこと「渥美清」氏が俳人だったことを初めて知る。俳号を「風天」そのまま、多くの句は尾崎放哉を彷彿させる。
赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清
アカトンボが受精後雄雌連結しながら産卵、連結を解いて稲杭に静止している姿を見ると「じっとしたまま明日はどうする」の句は言い得て妙に思える。複眼と単眼の五つの目をもち360度のほぼ見渡せる赤トンボには、じっとしていても次への行動は決まっているのかもしれない。それに比べて「、、、、明日はどうする」の呼びかけは、どこかピントのずれている世情に無関心を装う者への問いかけでは等と独り言をいって苦笑(にがわらい)。
陽が西の山に傾いても支柱の赤トンボはじっと動かない。
近年各地に「農産物の直売所」が生まれた。新鮮さをキャッチフレーズに山菜や野菜の他に山野草も並ぶようになった。時々珍しい山野草が並ぶ。時々乱獲を彷彿される山野草に遭遇することがある。売店のレジに尋ねると地域の生産者が栽培していると答える。明らかに山採りをして栽培し、繁殖していることが想像される。中には種子から時間をかけて栽培繁殖している人もいるようだ。
「クマガイソウ」は秋田をはじめ全国的に絶滅危惧1類に指定されている。私の地区には昔から「クマガイソウ」(熊谷草)の群落があった。10数年ほど前、根こそぎ盗掘されてしまった。調べて見たら著名な人が混じったグループだったことを知り愕然とした思いがある。この盗掘された「クマガイソウ」は2年後近くの直売所に並んだ。他の直売所より安いことを宣伝したちまち売り切れたという。
この事件以来、山野草や湖沼は静かに見守ることにしている。今回の湿地も沼も多くの人には知られていない。歩道等整備し管理をしている湿原等各地にある。季節ごとの散策を楽しみにしている。管理が不十分な歩道の整備されていない湿地に多くの人が入り込むとたちまち踏み荒らされてしまうのを恐れる。
今回訪れた標高319ⅿの湿地には「サワギキョウ」(沢桔梗)が真っ盛りだった。ヨシに覆われて池塘の近くには黄色の花に交じって紅花と白花の「ミミカキグサ」(耳掻き草)が生えそろっていた。。
ミミカキグサ
日本では本州以南や、中国からマレーシア、オーストラリアに分布する。湿地の湿った地面か、ごく浅い水域に出現する。多くの都道府県でレッドリストに指定されている。秋田県では準絶滅危惧種に指定されている。長さが10㎝に満たない小さな植物で、花が咲いて初めて気づく。匍匐茎から泥や泥炭の中に地下茎をのばす。この地下茎と地上葉にも捕虫嚢をつけ、ミジンコなどのプランクトンを捕食する食虫植物。花が終わった後に果実を包むような姿が耳かきに似るのが名前の由来と云われている。
タヌキモとミヤマアカネ
池塘の水面から突き出して黄色の花があった。始めてみる植物だった。同行した雄勝野草の会鈴木房之助氏の調べで食虫植物の「タヌキモ」の名がわかった。根のように見える茎はフサフサでタヌキの尻尾ににていることから名がついたという。20㎝近いこんもりとした茎を水面に下げ浮遊している。この茎をくデジカメに収めることができなかったので下記のイラストで説明すると、大きさがまちまちだったが丸いのが捕虫嚢がある。ここからミジンコやカの幼虫のボウフラ、発生初期のオタマジャクシ等を捕獲するといわれ驚かせる。「タヌキモ」は牧野富太郎氏が明治33年(1900)に命名した植物。
引用
日本で最も美しい赤トンボと言われる「ミヤマアカネ」(深山茜)が「ホソバオモダカ」に静止した。ミヤマアカネの特徴でもある翅の帯とピンクの縁紋(えんもん)がスッキリとしている。この縁紋は始めは白色で成長するとピンクに変わってくる。もう少し時間がたてば全体が鮮やかな赤色になる。日本の各地に生息していると云われるが、都道府県によっては絶滅が危惧されている。
ミヤマアカネ
この湿地には大小15ケ所の池塘がある。小さいのはタタミ半分位、大きくてもせいぜいタタミ4枚ほどの大きさ。その中でヒルムシロが面白い形、タタミ一枚ほどの広さ。
池塘のヒルムシロ
この湿地から約20K離れた沼にむかった。初めての場所。両側から草に覆われて林道をひたすら走る。g00gleマップで調べた沼、数日前の大雨で林道で少々不安もあったが走っていたら忽然と沼が現れた。標高522ⅿ地点、面積は推定で1ha程だろうか。杉林の中の沼は集落や国道から離れ、物音ひとつしない神秘的な沼。
まぼろしの沼
約半分はヨシ等で覆われ一部に浮島のが見える。奥の方の杉林から入れそうに見えたがヤブだったので見合わせた。浮島よりの沼面に生えているのは「ジュンサイ」(蒪菜)と「ヒツジグサ」(羊草)だった。「ジュンサイ」は東南アジア、アフリカやアメリカ等に分布している。食用にしているのは中国と日本だそうだ。秋田県の郷土料理で三種町は生産量日本一として知られている。東京、埼玉、沖縄では絶滅したと云われている。浮島の足跡は誰かがジュンサイを取りにきたのかもしれない。
「ヒツジグサ」の名は、昔の未の刻(今の午後2時)に花が咲くことから名づけられたというが必ずしもそうでもないらしい。花は3日ほど咲いて、終わると花柄が曲がって水中にもぐり、実が熟されると敗れて種を出す。たねは空気を含んだ浮袋のような皮で包まれ、水面に浮き上がり移動し繁殖する。
ヒツジグサと波模様
浮島を歩くと静かに揺れる。ヨシに囲まれて「ウメバチソウ」(梅鉢草)が咲いていた。いつも見慣れた姿と違って茎が長く、花も小ぶりだった。側の「コバギボウシ」(小葉擬宝珠)の花は終りを告げていた。「ヒツジグサ」は照り付ける強い日差しの中で、沼面の小さな波に独特の表情があった。奥に回れば別の山野草が見られたかもしれない。
私が「ナラ枯れ」に初めて遭遇したのは2008年、山形県鶴岡市の友人を尋ねて国道47号線舟下りで有名な戸沢村走行中だった。最上川の対岸の山の所々が真夏なのに紅葉のような景観に戸惑った。山が茶褐色になる「松枯れ」は見慣れた光景だったが違った。「白糸の滝ドライブイン」に停車し、良く観察してみるとどうやら松の木ではなく広葉樹だった。当時「ナラ枯れ」等と云う名は知らなかった。
秋田県の発生は2006年由利地方で発生、2008年に湯沢地方に侵入していた。当時親戚の集まりで皆瀬地区の人たちと「ナラ枯れ」の話をしたが、見たことはない「ナラ枯れ」にそれほどの関心が示さなかった。湯沢市の東部旧稲川に進出してきたのは5年前の2011年、雄長子内嶽の南側の斜面に見られた。今年は6月の末頃から駒形地区大倉、東福寺。川連地区で確認されたのは8月に入ってからだった。
三梨町飯田 2016年8月27日
駒形町大倉 2016年8月27日
鍋釣山 遠矢の松付近 8月9日 自宅から望遠で
鍋釣山の通称、遠矢の松付近と小烏(コガラシ)に8月9日に確認。翌10日田んぼの見回り中南東の方角、国見嶽の麓に自家の山がある。字名は坪漆と云う。八坂神社奥の方に位置している。写真で中央より右側に赤茶けた木を見つけた。とっさに自家の山林のミズナラとわかった。
坪漆 2016年8月10日 田んぼから
根元の状況
根元にはカシナガに食害され根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉の混ざった「オカクズ」が散乱していた。このナラの木は樹齢100年程、ナラ枯れが進出してきたら一番最初だろうと数年前から想定していた。周囲を見渡すとさらに4本に被害があった。
2016年8月10日 川連町坪漆地内
現在集落から見える「ナラ枯れ」は上野から滝ノ沢3本、南沢3本、川連の鷹塒(タカトヤバ)3本、小鳥(コガラシ)2本、麓の鍋釣山3本、古舘1本、黒森1本、東天王1本、切崖1本の計18本。坪漆の4本は現場に行かなければ見えないので含まれていない。内沢に出向けばまだあるのかもしれない。
ナラ枯れ」は比較的高齢で大径の樹木が多い広葉樹二次林(旧薪炭林など)で発生することが多く特にミズナラが優占する森林で被害が激甚となりやすい。また、比較的低標高の森林での被害報告が多い。まだ詳細な検討はなされていないが、被害発生のピークはその年の気温や降水量によって変化すると思われる。また、高温小雨の年には被害量も多く、逆に低温多雨の年には被害量も少ない傾向がある。
「ナラ枯れの歴史は古く、文献で確認できる最古の被害は1930年代の宮崎、鹿児島両県の被害である。その後1980年代までの間、散発的に山形、新潟、福井、滋賀、兵庫、高知、宮崎、鹿児島の各県で被害が報告されている。この頃の被害は比較的短期間で終息することが多く、また地域的にも現在のように広域への拡大が生じることはなかった。現在のような被害の拡大が継続するようになったのは、1980年代末以降のことである」。(引用)
カシノナガキクイムシ通称カシナガは体長は4~5ミリ、移動範囲年間1キロにも及ぶ。直径1ミリ位の穴を開け侵入する。ナラの木を養分とし、食べつくし「ナラ菌を運ぶ」。 菌がカシナガに寄生し木の中いっぱいに菌糸を広げ増殖する。 虫が運んだ「ナラ菌」が木の中で
水を吸い上げる管を詰まらせる。その結果ナラの木は枯れる。
さらに枯れ木以外 全ての木に穴を開け虫が入り込む。その数は、多い木に数万匹との節もある。虫が入り込まれた木は、枝の葉が赤く枯れ根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉ような「オガクズ」を散らかし拡散する。
秋田県の「ナラ枯れ」状況は下記の図、美の国あきたネットから引用させてもらった。秋田県にナラ枯れが侵入してから10年、仙北市から県北の内陸市町村は今のところ侵されてはいないが昨年県北の八峰町に進出されたことから見ると、秋田県は全地域に「ナラ枯れ」が進むことになりそうだ。
美の国あきたネット (引用)
秋田県の状況と対策については下記のアドレスに詳しい。
http://pref.akita.lg.jp/www/contents/1334040533194/files/1.pdf
今のところ「ナラ枯れ」に強い森林の育成、カシナガの生息に適した大径木(高齢木)を利用(伐採)し、萌芽更新させることで小径林化を図る方法」等。今のところ決定的な対策は乏しい。
わが家の「ナラ枯れ」は現在ミズナラ5本、この量で一年の薪ストーブ用材は間に合う。他の大径木を伐採し、小径林化を図るとなれば大事業だ。ナラ類は、伐採してもその伐根から萌芽する能力を持っているが、おおよそ樹齢40年が経過してしまうと萌芽できずに枯死する株が出ると云われる。わが家のミズナラ樹齢80~100年だと萌芽はほとんど期待できない。すべてのミズナラを伐採しなければならないのかもしれない。この場所は昭和30年代に雑木林を伐採し杉林にし、一部を燃料確保で残した所だ。ミズナラ以外の樹種はヤマモミジ、ホオノキ、ブナ等がある。ブナには「ウエツキブナハムシ」で「葉枯れ」を引き起すが木は枯れないと云われてきたが、標高160mでは珍しいと云う樹齢100年のブナもミズナラの変化に対応したのか生気がない。
祝日として「海の日があって「山の日」がないのはおかしい等の意見は前々からあった。2013年4月に山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」(会長:衛藤征士郎)が設立された。当時9党のが祝日法の改正案を衆議院第186回国会に提出し、賛成多数で可決され、参議院本会議でも可決され2016年から8月11日が「山の日」となった。
休日のない「米と牛飼い」には「国民の祝日」にはほとんど無関係に過ごしてきた。近年とってつけたように祝日が増えてくるとますます関心が薄れてきていた。牛飼いから離れて数年になるが「祝日」の感は依然として鈍い。盆前の8月11日の祝日が「山の日」であることを知ったのはカレンダーからだった。
8月11日朝、某君が急遽「山の日」だから山に行こうと車で玄関前に来た。慌てて車に乗り込んで、「どこの山」と聞いたら「駒ケ岳」と云う。山菜やキノコ採りにしか山に関心のなかった某君が、「山の日」だから山に行こうと云うのだから「山の日」の祝日は効果大だったのかもしれない。総勢5人で出かけた。
アルパこまくさ登山バス停
6月~10月のマイカー規制中は、アルパこまくさ登山バス停で乗り換え、アスパこまくさには大駐車場は満杯状態。 アルパこまくさから羽後交通バス「駒ヶ岳線」八合目登山口まで25分かかる。バス切符売り場で聞くと平日の倍以上の出足と云う。
バスは満席
車のナンバーからほとんどが県外客らしい。初めての「山の日」制定で子ども達も多い。
バスの終点八合目の休憩所で昼食。標高1305ⅿ地点。緩やかな風もあって心地よい。某君等は登山歴はない。ひっきりなしに下山客がくる。登山準備はほとんどなしで8合目まで来たついでに、日窒の硫黄鉱山跡まで足を延ばした。いきなり見事な「ミヤマアキノキリンソウ」と色鮮やかな「アカモノ」と出会う。
ミヤマアキノキリンソウ (もしかしたらハンゴンソウ?)
アカモノ
しばらく歩くと薄紫のきれいな花「オクトリカブト」と「オニアザミ」。全部毒のトリカブトの妖艶な花。「オニアザミ」の花はアザ最大と云われているが、この「オニアザミ」は先月始めて目にした「ハチマンタイアザミ」より花は少し小さく見える。
オクトリカブト
オニアザミ
早朝から縦走してきたと云う人と、地元のボランティアの人と硫黄鉱山跡でしばし懇談。ここから頂上までの標高差は310ⅿ。8合目のバス停で下山する。アルパこまくさ登山バス停まで25分程。
時間も早く、その足で八幡平に向かう。八幡平アスピーテライン頂上駐車場は満車状態。さらに黒谷地湿原バス停に駐車して木道を通って黒谷地湿原に向かう。熊の泉で冷たい水をごちそうになり、黒谷地湿原展望台で休憩。途中「シロバナトウウチソウ」の赤花、「ウメバチソウ」そして見事な「エゾオヤマリンドウ」に遭遇。
ウメバチソウ
シロバナトウウチソウのベニバナ
花は白色で、ときに紅色を帯びると云う。名前がシロバナトウウチソウで紅花の呼び名、何か面白い。和名が白花唐打草、唐打とは「16本の糸で組んであり、各糸は二本浮き、二本沈む組織をしていて、芯糸のない組み目の細かい組み紐」とある。中国から来た絹糸の組紐からきた呼び名。
エゾオヤマリンドウ
登山人口は近年700万~800万人とも云われている。「山の日}制定で登山人口がさらに増えるのだろうか。今回偶然に「山の日」で駒ケ岳、八幡平の山の雰囲気を味わった。駒ケ岳8合目硫黄鉱山跡、標高1350ⅿ。八幡平黒谷地湿原、標高1445mを散策。山に関心のなかった某君、登山道でのすれ違い時のあいさつ、「こんにちは」が新鮮だったらしい。