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秋田駒ヶ岳の噴気活動と田沢湖

2017年09月20日 | 地域
9月15日秋田駒ケ岳に登った。登山開始の時間に丁度派遣された気象台の職員が観測を終えて下山してきた。テレビが待ち構えていた。8合目の駐車場には仙北市の消防車や県外からの登山者の車が10台ほどいた。焼森山を経由し横岳付近から女岳を望んだ。帽子が飛ばされるような強風、麓の天気とは打って変わって寒い状況だった。

写真は9月15日午後2時25分女岳の状況。紅葉の始まった駒ケ岳、田沢湖は神秘的な姿だった。噴気活動は強い風で山肌を下って見えた。下記は仙台管区気象台発表。火山性地震は16日以降終息に向かっている。

平成29年9月15日16時00分 
<噴火予報(噴火警戒レベル1、活火山であることに留意)が継続>
火山活動の状況
本日(15日)秋田駒ヶ岳で実施した現地調査の結果、女岳(めだけ)およびその周辺では噴気活動や地熱活動に特段の変化はありませんでした。秋田駒ヶ岳では昨日(14日)火山性地震を227回観測しました。昨日15時以降は少ない状況で経過しています。 本日は15時までに火山性地震を3回観測しました。

14日からの火山性地震の発生回数は以下のとおりです(速報値)。
14日 00時から24時 227回
15日 00時から15時 3回


直線距離で7~800ⅿ程。不気味さもかも出している。この場所に立っている自分の不思議さもあった。ある意味貴重な体験。この日は偶然な動機から遭遇でした。


旧火口が近くに見えた。後方の山は和賀山塊、真昼岳。


右側に田沢湖。雲の間からの陽の光で水面の色合いが刻々と変わって見えた。噴気活動とのコラボ。


「コミネカエデ」紅葉の始まった山の斜面と女岳、高温の噴気活動でかなりの場所の黒こげが強風で範囲が広がっていた。田沢湖が陽の光を浴びて輝いている。


下山中刻々と田沢湖の様子が変わって見えた。変わりようは何かしら火山活動と連動しているような感覚にもなった。幻想的な風景。

※9月15日のFB投稿に少し加筆した。
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異常気象 再「夏のない秋 実れ・あきたこまち」

2017年09月06日 | 足跡
今年の天気は例年と比べて今一つハッキリしない日が続いた、田植の終わった6月から低温が続き稲の分けつも少なく、秋田県農林水産部は6月13日作況ニュース3号で以下の状況を発表した。

「6月上旬この期間、低気圧や前線の影響で曇りや雨の日が多かった。寒気の影響で気温も低く、3日に角館で、4日に脇神、雄和、田沢湖、矢島で日最高気温の低い方からの6月としての1位の値を更新した。また、6日は、男鹿、阿仁合、雄和、東由利、にかほ、矢島、湯の岱で日最低気温の低い方からの6月としての1位の値を更新した。旬平均気温は低い~かなり低い。旬降水量合計はかなり多い。旬日照時間合計は少ない~かなり少ない。6月上旬で気温平均15.9度で平年差-2.1%、降水量102ミリで418%、日照時間28.5hrで44%と調査結果公表している。

東北各県の状況について8月31日河北新報の記事。

<コメ作況>東北4県「やや良」天候不順の影響小さく

拡大写真 東北農政局は30日、東北の2017年産水稲の作柄概況(15日現在)を発表した。太平洋側で続いた低温と長雨の影響は調査した時点では小さく、4県で「やや良」(平年比102~105%)、2県で「平年並み」(99~101%)の見通しとなっている。

河北新報オンライン 17.8.31

各県の作柄は図の通り。地域別では、8月に入ってから低温の影響を受けた青森県の南部・下北、7月下旬に大雨に見舞われた秋田県南が「やや不良」(95~98%)となり、他の地域は「やや良」か「平年並み」となった。7月の好天で生育が順調に推移した一方、登熟(もみの実入り)は出穂後の低温と長雨で進まず、青森、岩手、宮城は「やや不良」で、秋田、山形、福島は「平年並み」だった。登熟の良否は粒の張りに影響するほか、刈り取り時期も左右する。東北農政局の担当者は「登熟のスピードが緩慢になっており、品質、収量の上でも適期刈り取りが重要になる。今後の天候の推移を注視したい」と説明した。
 東北の地域別作柄は次の通り。
 【青森】平年並み 青森、津軽▽やや不良 南部・下北
 【岩手】やや良 北上川上流、北上川下流▽平年並み 東部、北部
 【宮城】やや良 南部、中部、北部、東部
 【秋田】平年並み 県北、県中央▽やや不良 県南
 【山形】やや良 村山、置賜、庄内▽平年並み 最上
 【福島】やや良 中通り、浜通り、会津

9月1日付けでJAこまち、JAうご、農業共済、湯沢主食集商組は「雄勝稲作情報」を全農家に配布した。これは8月20日現在の生育状況について、管内8地点の平均値を雄勝地域振興局の調査結果。これによれば㎡当たりの穂数は平年比の98%、着粒数も平年比98%で例年とほとんど変わりがないが地域、ほ場の格差が大きい傾向にあるとした。特に着粒数は標高200ⅿを超えると全平均値の70%前後となっている。調査8地点中の3地点、1地点は平均値の60%、標高160m地点に見受けられる。調査時点の8月20日は例年よりも1週間から10日遅れの出穂から10~15日後の調査結果。次期調査の9月15日の結果がまたれる。
雄勝稲作情報 №8 平成29年9月1日

現在のところ「河北新報」の報道で東北各地、湯沢、雄勝地区の稲作情報でも冷害への危機感は見られない。9月に入って天候はやや持ち直しているようにも思えるが、低温傾向が続いている。稲の登熟にどのような形になるのか心配される。気象庁は1日、今年の全国の梅雨入りと梅雨明けの時期を確定し、8月2日頃としていた東北地方の梅雨明け時期を「特定しない」に修正した。梅雨明けが特定できなかったのは、2009年以来。同庁は「冷たく湿った北風の影響が弱まらなかった」と分析している。1993年の大冷害の年も梅雨明けは特定されなかった。

このような状況で1993年(平成5年)の大冷害騒動が頭から離れない。私は1993年ハガキ「河鹿沢通信」で冷害状況を記録し友人、知人に送っていた。8月の「夏のない夏 八月のうぐいす」1~3に続いて9月に「夏のない秋 実れあきたこまち」1~4を発行した。異常気象傾向のこの時期、24年前の9月7日から21日まで4回の記事、「夏のない秋 実れあきたこまち」を再掲載し当時の状況を確認しておきたい。

「夏のない秋 実れ・あきたこまち」①1993.9.7 ②9.13 

「夏のない秋 実れあきたこまち」① 1993.9.7

河鹿沢通信19号、8月20日発行で仙台管区気象台は8月13日梅雨が明けたと発表したが、その後10日も降り続く雨に低温に「この夏は夏がなく梅雨明けがすぐ秋だ」と書いて送った。こともあろうに、仙台管区気象台は9月に入って6月2日といった梅雨入りも実は6月3日であったといい8月13日梅雨明けも修正し、特定しないと発表した。「梅雨明け」なしというのである。その結果、当初梅雨の期間が史上最高の72日間だったとの発表が、「梅雨明け」なしとの修正で期間がいつまでなのかわからない異例の事態となってしまった。9月早々の好天も3日ともつづかず、さらに日本列島を直撃する台風で雨、雨がつづいている。梅雨がまだつづいているのか、秋の長雨に突入してしまったのか。はっきり区別がつかない日がつづいている。秋田地方気象台によれば、8月上旬から中旬までの平均気温は平年を 3.5度も下回る21.3度で1951年の統計開始以来、下から3番目で真夏日もわずか5日間しかなかったと発表した。

8月後半の出穂の「あきたこまち」に、花の咲かない粒も多くみられたし、「茎が太く、大きな穂をしっかり稔らせるイネは出穂開花時がにぎやかで、えい花のオシベがきちんと6本そろっている」(薄井勝利著 豪快イネつくり)と比較してそのオシベが4本、5本であったり、中にはないものもあった。一穂の開花が天候不順で、まばらで6本のオシベがあっても気のせいかやや小さめで力強さをみることはなかった。日増しに実のつかない障害型の冷害はハッキリしてきたし、さらに出穂から登熟に必要な積算温度約40日間で 800~900 度は、先に秋田地方気象台発表した8月上、中旬の平均気温21.3度からみて不可能に近い。9月は8月と比較して確実に気温が下がり登熟に必要な積算温度は確保できないと考えるのが常識だ。
つまり 8月20日発行「河鹿沢通信」19号で指摘した障害、遅延の両方の「大型冷害」が確実となった。

麓地区は海抜約 140メートル地帯、有機米栽培の稲川町農協の中心地だ。その中で薄蒔きの健苗、3.3 m2あたり60株以下の栽培の稲は一般栽培との違いがハッキリし、成育は進んでいる。それでも平年の20%減で止まれば良い方か。海抜 160メートル以上、稲庭地区の成育が遅れ、イモチ被害等平年の30%以下の収量もありそうだし、中には皆無のところもでても不思議ではない状況がつづいている。

「夏のない秋 実れあきたこまち」② 1993.9.14

大型冷害が、さらに進行している。日増しにハッキリしてくる不稔、「あきたこまち」の出穂は8月中に終わったが、「政府米」用として登場した「秋田39号」の成育の遅れは想像以上だ。9月6日になって開花というのもある。8月末になって「大型冷害」の様相が決定的になると、秋田県を始め各市町村議会で対策論議が盛んとなり、でてきた「対策案」は決まって「稲熱病防除」のため薬剤費を助成するのだという。冷害予想が極度になりせめて「穂イモチ病」を徹底防除して減収を最小限で止める、ということにそのネライがある。各市町村、議会は目に見える対策として効果的かもしれないが、農家の立場からみたら必ずしも歓迎できるものではない。現在決まっている、町や農協あるいは県の防除費を、仮にプラスしてみても10アールあたり数百円ほどからせいぜい千円にも満たない。多くの農家の経営規模からみたらそれこそ晩酌の2 、3 本のビール程度の助成。大型の冷害予想からしたら、超ミニプレゼントとみるべきでないのか。

一方、財政規模の窮屈な市町村からみると、総額数百万から一千万円の防除費補助の財源負担は大きい。多くの農家がそれほど歓迎しない助成と、市町村にとって大きな財政負担になる資金は、もっともっと農業にとって有効な使い方があるはずだ。県、市町村あるいは農協、そして一部の政党が声を大きくして防除費の助成をとの報道に多くの農家は賛成とも思えない。今年の稲作の結果はあと一ケ月もしたらわかる。それが今まで経験したことのない大型冷害になったにせよ、中には技術と管理で減収を最低限でおさえた事例はでてくるはずだ。9月10日現在でも古くからの「苗代半作」といわれるように「健苗」と「早期田植」、さらに「坪あたり60株以下」の粗に植えつけし、稲そのものの能力を十分引き出す栽培管理した圃場の減収は最小限に止まりそうな情勢だ。

「地球の寒冷化」をいわれてきた昨今、冷害は今年限りという保障はない。まだまだつづく可能性が大きい。20数年にわたる減反、あいも変わらず国際価格よりメチャクチャに高い「日本の米」と、農業叩きが繰り返されている中、確実に農家は「米」栽培から意欲が離れつつある。数百万から一千万規模の財政負担が可能なら、これらの資金で今年の大型冷害でも平年作を勝ち取った事例を分析し、さらに多くの農家に広める「モデル田」や「基金」として、活用すべきではなかったか。

「夏のない秋 実れ・あきたこまち」③ 1993.9.17 ④9.21

「夏のない秋 実れあきたこまち」③ 1993.9.17

昭和51年、県は9月6日に5回目の本部員会議を開き、「県稲作異常気象対策本部」を「県稲作冷害対策本部」に改めた。それは「異常気象に対する稲作技術指導から一歩進め、被害農家の救援体制づくりを急ぐほか、次年度以降の営農技術対策として地域別栽培基準の作成や地力増強対策の推進に力を入れる」ことになった。当時の主力品種はキヨニシキ、トヨニシキで県の奨励品種の中で耐冷性が高いのはヨネシロだった。そのヨネシロも300 メートルの標高となれば、出穂が9月になってのところが多く収穫が皆無の状態だった。同年農林省発表の10月15日現在の作況指数で、秋田県は東北で最高の93、全国平均は94だった。しかし、朝日新聞秋田支局が調べた県内の市町村別作況指数( 昭和51年10月 4日付朝日) は、稲川町が85とある。推定日は 9月17日、ちなみに推定日 9月30日で湯沢市75、東成瀬村50、皆瀬村40、雄勝町50~60、羽後町は推定日9 月20日で69と報告されている。

そして今年、51年の冷害をはるかに超える「大冷害」が予想されるのに何と対応の鈍さなのか。イモチ防除費の、一部助成以外ほとんど示されていない。警告だけで対策の希薄なのは、「米」に対する行政対応の低さからくるのだろうか。 当時雄勝農業問題研究会は、昭和48年 3月に農業問題研究集会を湯沢市で開いた。当時気象庁和田静夫長期予報官が、2、3年先に「大型冷害」の心配があり、稲作は耐寒性品種を準備すべきとの指摘があった。早速、大曲の東北農試に出向き耐寒性品種を相談したら、県内には今のところないので青森の黒石農試に相談するよう助言された。それが青森で昭和48年に奨励品種に指定された「ふ系 104号」だった。雄勝農業問題研究会では、早速種もみを取り寄せ49年、50年と試験栽培し冷害年の51年には湯沢、雄勝管内で130 ヘクタールまで拡大していた。

秋田県は、これらの民間運動に触発された形で「ふ系 104号」を県の奨励品種に指定、ここに「アキヒカリ」と名をかえ誕生となった。「アキヒカリ」は、その後東北各地に広まりうまい米「あきたこまち」誕生まで約10年間、東北の耐寒性品種として地域の経済を大きく支えてきた。しかし、今この未曾有の大冷害が予想される中で「秋田39号」、「あきたこまち」以外農家が栽培する品種はない。「うまい米」崇拝の中で耐寒性の品種イコール「まずい米」のレッテルをはられ、かつての耐寒性品種が消えていった。「うまい米」で耐寒性のある品種の誕生は不可能なのか。51年当時いわれた「政治冷害」はまだつづいている。

「夏のない秋 実れあきたこまち」④ 1993.9.21

9月17日、皆瀬村若畑地区に行く。9月10日の秋田魁新報で、標高 420メートルの若畑で不稔率あきたこまちで98.9%、たかねみのりで90.2%の記事があった。標高 160メートル前後で成育の遅れている稲庭地区では穂イモチで赤茶色の田圃が一面に見える。
昭和9年、秋田魁新報「凶作地帯を行く」のルポ由利郡笹子村のタイトル同様「青稲の直立不動、稔ればイモチ病」そのままの状態だ。稲庭地区以外もまだまだイモチ病は広がる様相。 成育がいくらか進んだからイモチ病があるので皆瀬村若畑地区、長石田地区の稲は「直立不動」。稲川町では大谷地区にも「直立不動」型の稲がある。皆瀬村若畑、長石田地区を見聞し、もしかしたら皆瀬村では全村民の飯米の自給ができないのでは、と考えてしまった。9月の彼岸がもうすぐで、気の早い雑木が少し色づいてきたというのに一部穂揃いしない稲と、穂の空っぽの稲が「直立不動」で整然としている。その姿に不気味にも思える。かつての農民は、凶作と高い小作米で「米」をつくっていて「米」を食べられない時代がつい数十年前までつづいていた。それが、高度経済成長政策と農業近代化政策のおこぼれを頂戴し、「田植機稲作」が浸透していた今、「米」をつくっていて「米」を食べられないことなど大方の農民は経験していない。

9月15日、コメの民間調査機関、「米穀データバンク」は「冷夏による不作のため、日本は百万トン以上のコメを外国から緊急輸入することを年内に決定、来年実施されるだろう」との見通しを発表した。この報道によると、92産米 がこの 8月末で政府米が50万トン、自主流通米が20万トンの計70万トンしか残っていない。全国の 1ケ月の主食用コメ消費量が約60万トンなので、92年産米はこの 9月中に食べ切ってしまう状態という。今後、93年産が出回ってくるとはいえ、来年の 8月、 9月になると国内産米がゼロになるというのだ。

食糧庁は「来年夏から出回る94年産米を前倒し供給すれば、米需給は心配ない」と必死に否定している。しかし、「米穀データバンク」のいう 1ケ月の主食用コメ消費量が約60万、「食糧庁」は約83万トンだという。農業関係筋の予想は93年産最終作況「85」( 著しい不良) 程度に落ち込んだ場合、収量は消費量10ケ月分の850 万トン程度となり、冷害が来年もつづけば確実に「米不足」になる。それは、「農業軽視政策」の「つけ」がいよいよ現実のものとなり、今さら減反緩和策をとってもどうにもならないかもしれない。

再 夏のない夏 ハ月のうぐいす 1~3号

2017年09月01日 | 足跡
1993年は大冷害の年だった。今年も田植以降低温傾向が続き「あきたこまち」の出穂は例年と比べて一週間から10日も遅かった。東北の太平洋側は「ヤマセ」が強く、日照不足で作柄に大きく影響しそうだ。

1993年8月、ハガキ「河鹿沢通信」で「梅雨と小さな秋」と「夏のない夏」八月うぐいす1~3号を発行した。冷害傾向の今年なので以下に「夏のない夏 ハ月のうぐいす」1~3号を再掲載しておく。

梅雨と「小さな秋」 1993.8.8

気象庁の発表で今年は6月2日に「梅雨入り」だと宣言があり、いつもより約半月も早かった。そして、例年だと7月末か8月早々に「梅雨明け」が発表されていたのだが、それが今年は8月の七夕祭りというのに梅雨空は一向に晴れそうもない。春からの異常天候は長々とつづき、田植え後遅くとも、6月半ばで終わっていた一番草の牧草の刈り取りも今年は7月の末までずれ込んでしまった。それも刈り倒したあと連日の雨で、黒っぽくなった「乾し草」を収納する有り様。 雨と低温で稲の成育は大幅に遅れている。

例年だと8月早々にも「走り穂」があったのに、今年はやっと「はえの尻」なったばかりで、「セミ」の鳴き声もしない低温で成育がストップの状態なのだ。いつものとおり牛舎での作業中、NHKラジオから女性キャスターの問い、「日本の米は外国と比べてどうなんですか」男性解説者「高い、メチャクチャに高い」。翌日の新聞、「日本の米は国際価格の5倍」の記事。常に、考え込んでしまうのだが。経済や国家の仕組みをそのままにして価格だけ比較する考え方の貧しさ、このことによってどれだけ農業生産の意欲が低下してきたことか。

今春発表の民間調査機関、「労務行政研究所」によれば今年の初任給は1987年の円高不況以来の低い伸び率で大卒19万4045円、高卒15万1008円だという。( 調査は東証一部上場企業 189社の回答) 一年で順調に行ってやっと手にできる10アール分の粗収入を大卒1ケ月で得られる経済の仕組みでは 農業後継者が育たないのはある意味で当然のことなのだ。まして規模拡大で米価を今の1/3 か1/5 せよなどとの政策なら、ますます後継者はもとより農業者までいなくなる。

仮に農業の規模拡大や企業経営体を説く、マスコミで少しは名前の売れている評論家や大学教授の講演料ときたら、これまたテレビに良く見る日本公告機構のコマーシャル「東京の中学生が3年間で空き缶を拾いで50万円にもなりネパールに学校が建った」というようなお金が、2時間程度のたいしてためにもならない話で手に入ってしまう。だから、「日本の米が高い」のマスコミ、財界の総攻撃を耳にすると偉い先生方の講演料とか給料は、国際標準とやらの何十倍となるのかなどとついつい考えこんでしまう。8月の低温で稲は大変な事態に向かっているというのに、NHKラジオから早くも「小さい秋みつけた」のメロデーが流されだした。

「夏のない夏」八月のうぐいす 1~3号 1993.8.20~8.25

ハガキ「河鹿沢通信19号 20号

① 1993.8.20

8月も15日になっても稲の穂が出ない。気象庁は、6月2日東北地方に「梅雨」入り宣言、8月13日梅雨が開けたと発表したが依然と雨がつづく、この夏は夏がなく梅雨明けはすぐ秋の様相。 気温13度の朝は、もちろん季節は真夏だというのにセミの声もせずひっそりと静まり返っている。セミに変わって朝の時を告げたのが8月に入ってからのそれこそ季節はずれの「うぐいす」。梅の木ならさまにもなるだろうが近くの柿、桐、槻の木、栃などの木で夜明けからしきりに鳴く。

それも一週間も続いたろうか。その鳴き声もいつのまにやら消え、また不気味な静けさの朝がつづいた。終戦記念日というどんより重たい雲の朝、田圃の見回に行くといつの間にか聞こえなかった「うぐいす」今度は八坂神社の境内、「切り崖」周辺でカン高く鳴いている。

せっかくのセミも、孵化途中寒さのため地面に落ちて死んでいるというこれほどの冷たい夏。今稲づくりしている者にとっては経験したことがない夏でもある。もしや、昭和9年の大冷害に匹敵災害となるのではないのか、、、、、、。

以下は昭和9年秋田魁新報『凶作地帯を行く』のルポ記事からの抜粋を紹介。

「蝋燭の暗い灯に悲痛な訴え続く、花咲かぬ稲の姿よ・須川村の高松」。「封印された馬が実らぬ稲運ぶ、免税の申請二百十町歩・呪はれた仙道村」。「豆さへ実らぬ田代村の哀歌、谷間の紅葉ばかり徒ら錦を飾る」。「温泉郷と飢餓群、国有林と民、ここにも惨たる変相図・秋の宮村を見る」。さらに、「官行造林のため蕨根も掘れない、養蚕も駄目、煙草も駄目・東成瀬村の下田」。

これが湯沢、雄勝地区の記事「凶作地帯を行く」のタイトルだ。記事の一部「刈った稲はどうにもならぬから火をつけて焼いたが燃へもしない。さりとて馬に喰わすと腹をイタするから呆れたものだとカン高く叫ぶ。成る程窓外に五分程度刈られた稲を見ては成る程とうなずかれる。さらに一農民は曰く今年の稲は役人みたいだ。頭はチットも下げないといふ。それならいい方だ植えたまま青々と生えているのがある」。 秋田魁新報は8月17日の朝刊で「障害不稔の恐れも。県、異例の実態調査へ」と警告した。しかし、実際は障害型冷害ばかりか遅延型冷害と合併症状で「大型冷害」が進行している。8月一杯穂の出ない田圃が稲川町にも出そうだし、最悪だと半作か。

② 1993.8.22

8月18日、いつものようにセミの鳴き声一つしない朝、当然「すずめ」の声も何もしない。
夏というのに山間部では「電気毛布」がないと寝られないという話や、夜は石油ストーブが必要というところもあるという。10時近くなって、ところどころ雲の空き間から弱々しいお日さまが出てくるころになってやっと、アブラゼミやミンミンゼミが鳴き出した。

「稲川野」の稲は早い田圃で出穂が始まったばかり、ほとんどの稲は「穂孕」の状態で成育が止まっている。川連から増田方面、成瀬橋まで車で走って見てもほとんど同じ。それでも出穂は多めに見ても1~2割ほどの田圃しか確認できない。それがこんなにも違うのか、国道398号線の山谷峠を超え湯沢市、羽後町へ向かうと約90%近くも出穂。穂の出ていないところを探すのがやっと、という状態なのだ。稲の草丈も明らかに違い10センチは稲川町より長く見える。同じ時間帯に湯沢からせいぜい海抜250 メートル前後の山谷峠の東側は雲も幾分多めだ。雲の多い分気温も低めとなるのか。太平洋側からの「やませ」が、栗駒のやまなみを超え、皆瀬川沿いをそのまま冷気が強烈に直撃しているのかとも考えてしまう。

羽後平野と比較して、田植えが幾分遅いにしてもその成育の差は、歴然としている。5日から一週間の遅れにも見える。さらに「止め葉」の半分ほど赤茶けて枯れているものも皆瀬川筋には見られる。いずれ天気が回復したとて、登熟にも大きく影響はするはずだ。しかし、出穂を喜んで見ても半月ほど前の減数分裂期の低温で、障害型の不稔は心配だ。この期間は最も低温の影響が受けやすいといわれ、花粉母細胞の分裂期に当たり、成育が進んで幼穂が水面より高い位置だと水管理程度で低温対策が不可能となる。それでも稲の穂揃いは、何かしらホットする安らぎはあるものだ。

天気は依然として回復しない。毎日曇りか雨、気象台は8月13日梅雨明け宣言をしたが、8月22日になっても「家の中」はじめじめとし畳にカビさえ見える。低温と日照不足は稲の登熟には致命的なのだ。「青稲の直立不動、稔ればイモチ病」これは昭和9年の冷害、秋田魁新報の由利郡笹子のルポ、この年冷害に良く耐えた品種は「愛国」で一番負けたのが「陸羽 132号」だったという。「うまい米」とばかり「あきたこまち」にかたよってしまった現在、冷害被害はどの程度でおさまりがつくのか。不安な日々がつづく。

「梅雨と小さな秋」と「夏のない夏八月のうぐいす」③

③ 1993.8.21

昭和9年の「凶作地帯を行く」は同年10月16日から11月5 日まで21回にわたって秋田魁新報に連載された。収穫が平年の50パーセントを大きく割り、特にルポ地の山間部に皆無のところもあったという。 農家でさえ食べるものがなく、借金に苦しみ、田や畑、娘まで身売りせざろう得なかった当時の状況が生々しく報告されている。

以下はその記事の一部。「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」と「雨ニモ負ケズ」を世にだした「宮沢賢治」のあまりにも有名な詩もこのころのもの。低温と雨つづきに、天候の回復を祈るしかない毎日に「オロオロ」するばかりで、何もできないのは今の時代も同じだった。また、農民詩人「北本哲三」の「おその」という15才の女性が百円の金と引換えに稼ぎに行く、詩「売られ行くものよ」で人間一匹百円也と詠った作品もこのころの時代。

貧しさからの脱出のために娘一人が 200円から 300円で売られ、借金を差し引くとせいぜい 100円しか残らなかったという。当時の米の値段と比較して 100円は今の 100万ほどいう人もいる。『米に生きた男』の著者「及川和男」氏がいう、当時の価格が「白米一升1円20銭、金1グラム3円40銭」と比較したらその10分の1の10万円程度か、、、、、。8月25日、平年に比べて10日から15日遅れの「穂揃」の季節が稲川野にやっときた。それは梅雨明け宣言発表以来、さらに10日も雨が降り続いてやっと「太陽」の見える2日目でもあった


8月26日稲川町異常気象対策本部の稲作現地調査が行われた。海抜114 メートルから190 メートルまで9ヶ所の地点で、稲川町の等高線沿いの平均的なところとなる。稲川町で最も標高の高い「小沢地区」では、まだ80%は出穂せず8月中に穂揃となるのか疑問だった。中に30%ほど出穂したのもあったが、イモチの被害もありさらに草丈が短く出ていた穂も何となく弱々しく平年の三分作か。

海抜 163メートル 稲庭の梺ではイモチと低温障害の白孚、まだ穂が揃わない。あまりにもイモチが多く、仮に天候が回復したとしても半作以下となる可能性十分考えられた。稲川町では、岩城橋周辺から海抜 150メートル以上となれば稲の姿が一変し、出穂の遅れは歴然とする。

8月も25日ともなれば、出穂時期の安全限界になる。

再々 「清貧の思想にみられる新農政の展開」

2017年08月25日 | 足跡
2013年2月「清貧の思想にみられる新農政の展開」を投稿した。1993年ハガキ「河鹿沢通信」創刊を取り上げた。今回再々として2013.2月の記事を取り上げた。

ブログは2008年1月からOCN「麓の風」。「河鹿沢通信」は同年11月でココログで始め、このブログは2008年6月の岩手、宮城内陸地震をきっかけに「麓左衛門日記」で始まり2012年7月ココログの「河鹿沢通信」から移動「新河鹿沢通信」なったものだ。

ハガキで「河鹿沢通信」の発行を思い立ったのは1993年1月のことであった。1989年にやっとのことでワープロを手に入れた。 富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンなどはとても高価でパソコンのパの字も話題にでることもなかった。

当時弟が秋葉原の電器店に勤めており、オーデオの販売担当でパソコンの販売はしていなかった。「近い将来パソコンの価格は20万以下になるだろう」と言ったら「とんでもないことだ」などと反論された時代だった。

字の汚い自分はほとほと何かを書くことに抵抗があって、「タイプライター」出現を心待ちしていた。当時警察署などの窓口で免許証の書き換え手続きにはやっと和製タイプライターが入り、珍しくもあり目にすることが楽しみでもあった。

それが1989年やっと手に入る価格でワープロが自分の物になった。その興奮は忘れられない。マニアルを片手に悪戦苦闘の毎日。近くで持っている人も知らず聞くこともできない。
それでもなんとか使いこなせるようになると「通信」発信などという欲にかられて始まったのがハガキの発行「河鹿沢通信」であった。ハガキに見出しを抜いて8ポイントの活字は1000字ほど書く事が出来た。

発行者を 「奈珂 郷」とした。

3、4、5、6号は「清貧の思想」に見る「新農政」の展開。
当時中野孝治著「清貧の思想」(草思社)がベストセラーになり、農林水産省が発表した「新しい食料・農業・農村政策の方向」に絡めて私論を知人・友人に送った。

その年の夏は経験したことのない冷夏。大冷害となった。 通信19号から22号まで「夏のない夏 八月のうぐいす」。23号から27号まで「夏のない秋 実れあきたこまち」を発行した。20年程前の記録を随時「足跡」として振り返って見ることとした。

記は93.3.3~「清貧の思想」に見る「新農政」3、4号 原文のまま

河鹿沢通信 3号 「清貧の思想」に見る新農政の展開 ① 1993.3.3

「清貧の思想」(草思社刊)中野孝次著が今ベストセラーになっている。
講談社「日本語大辞典」によれば「富貴であることより潔白であることをのぞんで、貧乏に安んじていること」とある。
光悦、西行、芭蕉、良寛、兼好等の生き方をとうして「生活は簡素にし、心は風雅の世界に遊ぶことが人として最高の生き方だとする。日本が外国に対して最も誇ることの文化だ」という考えが、今日の日本の隅々で、バブル経済への反省がうまれつつあるなかで共感をもって迎えられた。 振り返ってみれば、かなり思い当たることがこの「麓」の集落にみることができる。
平均耕作反別77アールで稲川町の集落のなかでも大きいほうではない。
1990 年 2月発刊の「農の息吹き」いなかわ地域・農業振興推進会議編によれば麓戸数59の内農家戸数44戸中、「麓」に居をかまえた時期が江戸時代、又はそれ以前というのが14戸、戦後が 6戸にしかすぎない。農地改革前の土地所有形態で「小作」という農家が14戸だった。
そんななかで現在まで農家戸数の大きな変動はない。もちろん水田が中心であり戦前は養蚕が盛んであった。稲川町史よれば、養蚕振興は1700年代からであり秋田藩で繭を作るよう藩に献言した最初の人が川連村の「関喜内」であった。また800 年の伝統という川連漆器の「木地師」も麓の東の山並みを越えた「大滝沢」で作られていたという。 木地師はその後山を越え今の集落でも戦前まで作られていた。そして、その通り道を今でも通称「夏街道」と地元ではいう。 夏街道同様、地藉にも地図にも見当たらない地名がざっと列挙してもその他に「大屋敷」、「河鹿沢」、「柳沢」、「宿」、「森越」さらに「万華の小屋」という地名がある。他にも詩歌をたしなみ、絵を描き、学問に励み医者となった人など多くの偉人がうまれている。 我が集落にも多くの「風雅の世界に遊ぶ」考えがあったことを伝えている。そんなわけで筆者はそういう考えが集落を今日まで発展させてきた基盤のひとつであると考えるわけだ。

4号 1993.3.7

平成4年6月農林水産省は「新しい食料・農業・農村政策の方向」を発表した。
今後十年程で大規模稲作経営が広範に成立し、他産業並みの生涯所得が得られると政策はいう。だが農村現場でどれほどの評価があるというのだろうか。 かつて昭和36年に「農業基本法」が成立し基本法農政がスタートしてすでに30数年経過した。あのときもそのようなことがいわれた。しかし、多くの農民が選択したのは規模の拡大ではなく「兼業」という道だった。この30数年、「規模拡大」を選択した農家や、基本法で示した「選択的拡大」といわれた方向に進んだ農家は、一体どうなったのか。確かに中にはそれなりの成功した事例もある。
振り返ってみればいち早く「離農」したのも彼らだったし、離農までとはいかなくとも「多額の借金」でその返済に追われているのも彼らに多い。そしてそれらの累積負債が所属する農協の経営をも圧迫し、合併構想のひとつのネックともなっている。

昭和63年岩手県の教育会館で、NHKテレビでのあるシンポジュームで「規模拡大こそこれからの農家の生き残る道」を説く大学教授に、「規模拡大でコスト低減と農家の残る道というのはある種の伝説だ」と質問したら、「高齢の昭和ひとけた生まれの人達が農業まもなく引退する。後に続くやる気のある担い手は少数だ。だから大規模農業はすぐの目の前だ」と説いた。この考えはこの「新農政への展開」のシナリオとも見事に一致する。だが、基本法農政で示した方向は実現できなかった。今後も、家族構成は変わらないだろうし若い担い手は確かにすくない。 今後、今の政策が続くかぎり大幅に増えるとは思われない。農基法農政の十分な反省もなく「規模拡大、農地の流動化促進」を説く政策は多くの農民からは支持されていない。現実に「農業を中核」として地域が成り立っているなかで、多くの兼業農家をどうするのか「政策」は示していない。だから「離農」を前提とした「新農政への展開」なら「地域の崩壊」は確実に進み、風雅などは育たない。

「清貧の思想に見る新農政の展開」シリーズ ③と④ 



「新農政」、「新しい食料・農業・農村政策の方向」では「農村は人間性豊かな生活を享受し得る国民共有の財産」また「個性ある多様な地域社会」と並べたてている。
しかし、都市の過密と地方の過疎が進行している現実のなかで、どれだけ政治の恩恵を地域社会は受けてきたのだろうか。 30数年来政策の中心は、規模拡大路線だった。その政策のなかで土地を手放さない、貸さない農家を「やる気」ない農家とし、制度として規制できないかと話し合ったという。「やる気」ない農家が多いので、やる気のある「規模拡大農家」が育たないという考えなのだ。そのため、意図的とも思える外圧を背景に農産物価格の引き下げに奔走した。農産物価格の引き下げ政策が多くの兼業農家の離農に結びつくと考えた。だが、その政策誘導もままならない。

高度経済成長政策のときは企業の人手不足の要員となり、バブル華やかしの景気のときは「安くて、美味しくて、安全」な食料の供給を、と急かせられた農村。バブル崩壊の今、「新農政」は都会人のため「グリーンツーリズム」を唱え出した。バブル崩壊でリゾート開発、全国いたる所で山々を切り崩し、畑を埋め別荘、スキー場、ゴルフ場開発。その開発が頓挫しつつあるときに「都市住民の間では最近、田舎がちょっとしたブーム、自然と触れ合い、心の豊かさを取り戻したいとの欲求から」というのがグリーンツーリズムの考え方だ。
平成5年度から実施、と政策の目玉ともなっている。ヨーロッパ諸国では、すでに古くからの週末の過ごし方として定着している。スイスの「山岳民宿」や、ドイツの「クラインガルテン(市民農園)」などにみられる。

全国農業会議所発行の「つちとみどり」1993.2月発行によれば豪華なレジャーではなく「家族一緒にお金よりも時間を使って心豊かに過ごすニーズ」が高まってきた。
その背景が「グリーンツーリズム」だという。しかし、今の農村のなかで、なにかしら通り抜けていく「虚脱感」を感ずるのは自分だけなのか。

④  

今回の不況は、高慢な態度で勝手にバブルをふくらませ、破裂してしまった「自家中毒」型のものだともいう。だから不況の乗り切りは、時間がかかり企業倒産、解雇等がもっと進むのかもしれない。なにもかも、経済的効率至上主義で物事をおしはかる考えが主流の世界には「人間らしさ」、などという考えがなかなか育たなかった。ただただ、物が豊富で頑張ればたいていのものが手に入る社会は反面さまざまな公害を撒き散らしてきた。ゴミは産業や日常生活のなかからあふれ、全生産物の52パーセントは廃棄物といわれる。経済成長は反面、廃棄物成長となり環境の汚染につながりますます生活を制約することとなった。高度に進んだ今のくらしを「清貧の思想」の時代には戻せないとの考えもある。しかし、今バブル崩壊の大型不況は何か高慢でやや傲慢さもあった社会への反省のチャンスにはならないものだろうか。

「新農政」の方向でとても新しい世界が開けるとは思えない。一部の組織体が、農業生産を代替できたとしても圧倒的多数の農家、農業人口の吸収は地域の経済が背負いきれないし、か
といって過密な都市でも背負いきれない。どこまでも、こんな経済至上主義が発展すると、他
の国でと思っていた「経済難民」の急増は現実のものとなろう。始まっていると考えたほうが
いいのか。

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手前味噌に言えば、振り返ってみると約20年前と状況が変わったとはとても思えない。 今日の農村の実情を見るとむしろ政治は何をしてきたのかとさえ思う。農業の規模拡大とは圧倒的多数の離農者を生むことだ。限られた農地は一人や二人の成功者を得るために離農促進政策が当然かのようにすすめられきた。多くの農家は農地から離れた。離されたと云うべきかもしれない。規模拡大は多く農家を政治的に追い出して成り立ったものだ。

離れた農民がはたして良い暮らしに出会っただろうか。農地を手放したのは経済的にペイしないからだったし、農から離脱したとしてもその未来に展望があったわけではなかった。地域一体でとか農業法人でとか農地を集約して一定の規模となっても極めて限られた少数の人間だ。さらに市場原理の考えでいけばそれらの限られた人たちの明日は必ずしも保障されない。多くの農家の離農は地方の崩壊をもたらした。地方小都市のシャター通りは確実に進行し、現在進行の「生活保護費の切り下げ」や「消費税導入」はさらに崩壊が加速されることだ。

地域の崩壊は政治的産物に他ならない。

「出稼ぎ」とNHK連続テレビ小説「ひよっこ」

2017年08月02日 | 足跡
元朝日新聞記者の清水 弟氏から2017年の新年早々電話があった。NHKが4月から始めるテレビ小説「ひよっこ」の背景は、1970年前後の農村から都会への「出稼ぎ」農民の姿が主題になっている。昨秋制作にあたって「出稼ぎ」について、当時の様子が知りたいとスタッフから連絡があり面会したという。

出稼ぎの盛んだった秋田県で、当時朝日新聞秋田支局にいた清水 弟氏は背景や問題点を克明にルポした。、朝日新聞秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。その後新聞連載に加筆して1978年秋田書房から「出稼ぎ白書」が発刊された。

NHKテレビ小説「ひよっこ」の制作スタッフがドラマの背景にある「出稼ぎ」について、清水 弟氏に白羽の矢がたったということは極めて適切な対応だったと思える。NHKスタッフから取材要請があったこと、「農村通信」誌から原稿依頼でこのことを含めて執筆中、当時の出来事の確認のために湯沢市のホテルで対談をした。

「農村通信」は山形県酒田市で発刊されている地域情報誌。約45年前秋田、山形、宮城の三県で出稼ぎ、減反、圃場整備の問題等三県交流の農業問題研究会が開かれた頃から、「農村通信」誌が山形県庄内地域を中心に定着していることはは知っていた。

以下は清水 弟氏が「農村通信」に投稿した「机の上の計算はカラウソだった」の記事全文。一部は私へのメールの部分、関係する書籍等の写真を加えた。清水 弟氏の了解があったのでブログで紹介することにした。

地域農業情報誌 「農村通信」2017 2

「机の上の計算はカラウソだった」

「出稼ぎのことを教えていただきたい」。NHK制作局の若い方から電話をもらったのは昨年十月のことだ。朝日新聞秋田支局にいたころ、出稼ぎ問題を取材して連載し、『出稼ぎ白書』(1978年、秋田書房刊)をまとめたが、もう40年も昔の話である。取材されるようになったら新聞記者もお終いだと思いつつ、約束の場所に出かけて行った。古い切り抜き張と掻き集めた資料を持って…。  (ジャーナリスト 清水弟)

「出稼ぎ白書」秋田書房 1978.10
 
2017年4月からNHKの連続テレビ小説「ひよっこ」は、ヒロイン「谷田部みね子」の父「谷田部実」が奥茨城(茨城県の奥?)の農家という設定で、彼は不作の年に作った借金を返すため、一年のほとんどを東京の工事現場で働いていた。それが稲刈りで帰郷したのを最後に消息を絶ってしまう。東京オリンピックの1964年から始まるドラマで、高度成長期の名もなき人々を描く波乱万丈青春記だとか。

制作局ドラマ番組部の若いスタッフは、原作シナリオの細部をチェックするため、当時の出稼ぎの実態を知りたかったのだ。「奥茨城」に出稼ぎがあったのかどうか、「集団就職した金の卵」というヒロインも、秋田や山形など東北地方ならまだしも、奥とはいえ首都圏の一角でも「集団就職」したのだろうか。そんな疑問はともかく、秋田の出稼ぎ事情や上野公園にたむろする手配師の様子、飯場での生活ぶり、賃金は現金払いだったかなど、矢継ぎ早の質問に答えた。最後は、どなたか出稼ぎ経験者を紹介してもらえませんか。

秋田は記者(キシャ=汽車)になって3年目、まだトロッコ並みの私が出稼ぎを取材したきっかけは、秋田版の記事(1973年4月8日付け)だ。「出稼ぎ死者。この冬だけで79人。40、50台に多い病死。前年の13%増。高血圧押して重労働も」当時、秋田県の出稼ぎ者は推定7万人で、出稼ぎ互助会に入っている4万3千人のうち、病死や事故で死んだ方が七十九人いた。内訳は病死が59人(前年46人)で40代、50代の脳卒中が目立ち、労災事故での死者は11人(同17人)だった。

埼玉県の工場で同僚にも気付かれないまま死んだ25歳の青年は、ポックリ病だった。過酷な作業現場が事故に結びつくケースもあり、北海道の青函トンネルの工事現場では、湿度が高いため、上半身裸で電気溶接していた、26歳の青年が感電死した。そのころの秋田県は、交通事故の死者が年間130人前後だった。その秋田でそれほどの人が出稼ぎ先で亡くなっているのは問題ではないか。前任地の茨城県・水戸支局で、私は東海村の日本原子力研究所や原発を取材していた。「原子力エネルギーは将来重大な問題になる。おびただしい犠牲者も出かねない」と感じたが、いま、目の前で起きている現実、出稼ぎの犠牲者数と深刻さに圧倒されたのだ。

ただちに取材計画をまとめた。

新聞社の旗がついたジープで、県南の湯沢市や羽後町などの農家に通い始めた。出稼ぎ組合を作った羽後町の高橋良蔵さん(1925年〜2013年)のお宅に日参し、出稼ぎで父や息子を失った遺族にアンケートした。出稼ぎを拒む若い人たちのひとり、雄勝郡稲川町川連の長里昭一さん(74歳)はこんな詩を書いていた。

 「のぼるよ泣け」

 のぼる のぼる

 いいがら大きな声で泣げ

 もっともっと大きな声で……

「な バッパのいうごど良ぐ聞げ な」

 と 家を出た のぼるの父と母

 (以下略)「むらの詩」原田鮎彦 秋田文化出版社 1973

連載当時の長里さんは(31)水田1・2ヘクタールに6頭の乳牛を飼う水田酪農。連載で仲間の井上直一さん(26歳)を紹介した。井上さんの親友があの青函トンネルの工事現場で亡くなった羽後町の佐藤清四郎さん(26歳)だったと気づいた。

雑誌「北の農民」7号 北の農民社(1973)に今は亡き井上さんの書いた「出稼ぎに逝った友へ」が掲載されている。「農業だけで生活することを許さない。子どもから父ちゃん、母ちゃんを奪い、じいさん、ばあさんに重労働を強いる。それでも飽き足らず田んぼも命を奪っていく。一体誰が考えて、誰が請け負って、誰が末端で進めているのだ」「もうこれ以上流されてはいけない。仲間を失ってはならない。疑問を、悲しみ、怒りを、すべてを結集してぶっつけていかなければ、我々農民の生活は守り得ない」。

「北の農民」1~5号 北の農民社 1971.3~1972.7

秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。

東京の自動車工場や工事現場では体験取材もした。新聞社の出張手当と出稼ぎ先の日当を二重にもらう幸運に恵まれたことも。忘れられないのは、神奈川県相模原市の土建現場の飯場で過ごした雨の日だ。1973年10月28日、日付を覚えているのは、父の命日の前日だったからである。

大粒の雨が降っていた。プレハブの屋根をたたく雨の音で目が覚めた。朝6時。大雨洪水注意報が出ている。仕事は休み。食堂で朝食を済ますと布団に潜り込んだり、テレビを見続けたり。日当3800円は諦めても、食費500円はいつも通り。出稼ぎ者のひとりが「雨の日はタコだよ、タコ」と教えてくれた。空腹が高じると自分の脚を食べるというタコになぞらえた。裸電球がふたつ、横に渡した紐にぶら下げた洗濯物の影が天井に映る。飯場のみんなが息を殺してひたすら時間がたつのを待っている。塹壕で休む兵士のようだ。夕方、私は飯場を抜け出して駅前の喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。翌朝早く起こされた。「清水君、電話」。兄嫁からだった。危篤だった父が死んだ。家族を残して出稼ぎに来た人たちも、きっと同じような事情を抱えているのだと思った。

出稼ぎ対策は、労働条件向上や未払い賃金の補償など労働省ペースで進められ、出稼ぎ奨励策でしかなかった。出稼ぎしなければ暮らせないのが異常でないか。食糧自給を掲げながら、農民が体ごと吸い込まれるように出稼ぎに駆り出され、農村が崩壊していく現実こそ問われるべきだと思った。

『出稼ぎ白書』の末尾につけた年表を読み返すと、1960年1月の「政府、農産物などの自由化の基本方針決定」に始まり、61年の農業基本法公布、第一回農業白書。62年には農政改革以来の大事業といわれた農業構造改善事業スタートなど、日本の農業が刻々と姿を変えて行った。電気洗濯機やテレビなどの普及が進み、米価は65年で玄米60キロ6538円。

「猫の目農政」とか「ノー政」と言う言葉がよく聞かれた。農政の矛盾のシンボル、八郎潟干拓地に生まれたモデル農村・大潟村には、1973年春以来、何回も足を運んだ。農家住宅の赤、青、黄色の三角屋根が並び、村役場や公民館、巨大なカントリーエレベーターなど大潟村の街並みはプラモデルのようだった。1970年に始まるコメの減反政策は大潟村を例外扱いせず、むしろ率先して国の方針に従うよう指導された。普通の農村より過酷な形で、モデル農村は農政の矛盾にさらされた。

あの日は抜けるような青空だった。

1975年9月5日、青刈り。入植者の顔は苦痛に歪んでいた。カタカタカタと軽快な音を立てトラクターが走り周り、牧草刈り取り機が稲をなぎ倒していく。稲の葉が強い日差しを浴びてたちまち丸くなる。ピチピチと音が聞こえるようだ。収穫二週間前のモミは、かぐわしい香りを発散させている。声にならないうめきが漏れ、入植者の目が真っ赤だった。青刈りの光景に息を飲んだ。もちろん青刈りを見るのは初めて。非道で無情、残酷、極悪、理不尽、様々な罵詈雑言を束にしても追いつけないほどの事態に思えた。あの日だけで約100ヘクタールの、9千俵(1俵60キロ)近い「米」が青刈りされた。

入植者580戸のうち、約400戸が農林省の指示を上回るもち米を作付けした。度重なる是正指導をくぐり抜け、打開策を探り続けたものの結局、260ヘクタールを処分した。「私が育てた稲だから最後まで見守りたい。子供を育てるのと同じに育ててきた。いい加減な農林省の指導のせいで青刈りを強制されるなんてひどすぎます」と訴えた女性も、「今日はカカアを連れて来なかった。こんなのを見たら卒倒するか泣き崩れるか」と語った男性もほとんど泣き顔だった。悩みに悩んでノイローゼで、入院した人や、青刈りしながら「これで4ヶ月分の生活費が消えた」と嘆く人も。取材を終え、青刈りされたひと束を拾った。「いただいていいですか?」と聞くと、「いくらでも持って行きな」。 そのときの稲束が、いまも私の手元にある(写真)。カラカラに乾燥しているが、籾殻を剥くと、思いのほか大きな玄米が顔をのぞかせる。

 

秋田支局から東京社会部(立川支局駐在)に異動したのが77年春。都農業試験場では当時まだ「日本晴」「東山38号」「ヤマビコ」「コシヒカリ」など10種類の種もみを確保していた。 作付面積は77年で1200ヘクタール(水稲930、陸稲270)と、東京オリンピック前の計7000ヘクタールからは激減したのだが……。

警察署担当(サツ回り)で事件や事故に追われながら、多摩ニュータウンなど都市化の進むなか、どっこい頑張っている農家を訪ね歩いていた。東京版の連載「東京百姓列伝」(79年8月2日から10回)では、小松菜、春菊、ホウレンソウなど「東京っこ野菜」の生産者や野菜泥棒の話、会員制農業、一個5千円もしたギフト用の立方体のスイカなどを紹介した。

圧巻だったのは、父親が遺した蓮田や畑など1・4ヘクタール分の相続税3億8千万円を現金にしてジュラルミンの箱に詰め、江戸川税務署に払った元レンコン農家(48歳)の話。現金払いは遺言で、税務署から銀行支店に運んだ札束を数えるのに機械2台をフル回転させて1時間20分かかった。地価は10アール(300坪)当たり1億円を上回り、高額所得番付にも出た。彼が吐き捨てるように言った。

「国が農業やれねように、やれねようにしてんだ。農林水産省の机の上の計算はカラウソさ。米が余るのも貿易の都合上、アメリカから麦を買うからで、オレンジもレモンも同じ。東京の農家が潰れるのは時間の問題だよ」その東京で、在来野菜を懸命に守っている人物に出会ったり、棚田保全に熱心なグループに紹介されたり。気がついたら、「東京に一番近い棚田」という千葉県鴨川市の大山千枚田保全会のトラスト会員(会費、年間3万円)になって13年目に入る。

農林水産省担当の専門記者にこそなれなかったが、新聞記者として農業にこだわり続けたのは、お米が大好きだからだ。コメ離れが進んで心配はなさそうだが、冷害など深刻な不作に備えるには農家の友人に頼るしかない。

TPP(環太平洋経済協定)、農畜産物輸出拡大、強い農業づくり、農協改革等々政府が掲げる政策をみると、まだそんなことを言っているのかと呆れてしまう。アベノミクスならぬ「アホノミクス」である。尊敬する佐賀の農民作家、山下惣一さんが喝破した「強い農家が生き残るのではない。残った農家が強いのだ」という言葉を噛みしめる。残っている強い農家が、しなやかに、したたかに、美味しい米を作り続けることを願うばかりだ。

清水 弟(しみず・てい)1947年、新潟県長岡市生まれ。朝日新聞社記者として水戸、秋田支局、東京社会部、パリ特派員、日曜版編集長を経て山形県鶴岡支局、千葉県館山支局。編著に「地球食材の旅」(小学館)など


「トトロの森」と八坂神社

2017年07月20日 | 村の歴史

麓の鎮守の森、八坂神社を「麓のトトロの森」と私はよんでいる。
「トトロ」は宮崎駿監督の「となりのトトロ」はスタジオジブリの長編アニメーション映画。
昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジーで、物語は、田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ・メイ姉妹が、“もののけ”とよばれ、子どもの時にしか会えないと言われる不思議な生き物・トトロとの交流を描いていく物語。

ジブリの共同設立者のひとり高畑勲監督は「トトロ」について「宮崎駿のもたらした最大の恩恵はトトロだとわたしは思う。トトロは普通のアイドルキャラクターではない。...トトロは全国のこどもたちの心に住みつき、こどもたちは木々を見ればトトロがひそんでいることを感ずる。こんな素晴らしいことはめったにない。」と語っている。

2017.6.22
八坂神社の境内の樹木は杉とブナ。樹齢約300年と云われている。湯沢市川連町、湯沢市役所稲川支所の東方800mにある。季節の変わるごと多様な趣を醸し出される。宮崎駿監督のいう「トトロの森」を彷彿させる。遠くから眺めるとなにかしらトトロがひそんでいるような気がしてくる。田んぼの「あきたこまち」が日増しに緑が深くなってくると、ひときわ「トトロの森」が輝きを増してくる。
2017.7.15
森の中には樹齢約300年の杉約80本、樹齢がほぼ同じのブナの木10数本がある。
2017.7.15
境内内で一番太い杉の木とブナの木は並んで立っている。この場所はかつて長床の建っていたいた場所の側。

「かつてこの場所に長床があった。茅葺の建物は子ども達のよい遊び場になっていたが、昭和30年代頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められなくなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。」ブログ「八坂神社のお祭り」( 2014.8.4)引用

2017.4.2
今年の雪消えは例年より少し遅れた。4月2日の朝、朝霧で周りが見えず鎮守の森が浮き出たように見えた。お気に入りなのでこのブログのプロフィールに使っている。

2017.6.11
約800m離れた場所からの一枚。偶然森の真上から朝日。 

私は木ではなく鎮守の森、八坂神社の森をを「トトロの森」と呼んでいる。今年一月から毎週のように日曜日の朝自宅の田んぼ付近から、東西南北に国見岳と八坂神社の写真を撮り続けている。

八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。八坂神社はかつては現在地から約400mほど離れた所にあったと云われている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、移転した八坂神社に秋田佐竹藩主の臣で横手城の岡本代官が来村の際、「立派な社を造るように」と命じられ、社殿が再建されたと言い伝えがある。2011年豪雪で損傷した八坂神社。一部解体したら二つの「束」に墨で寛政12年(1800)の文字と川連村 大工棟梁虎吉の名があった。現在の八坂神社は再建されてから216年になる。

八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」、御神体は「祇園牛頭天王」の木像。鎌倉時代のもの説がある。祇園とは、京都の八坂神社の旧称。明治の神仏分離令までは祇園社と称した。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。八坂神社の御神紋は「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」である。唐花紋は別名「木瓜(もっこう)」ともいう。この五瓜に唐花紋がキュウリの断面に似ていることから、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾町の人びとは祇園祭の期間である7月一ケ月間はキュウリを食べないという。

八坂神社のある麓、川連の住民(氏子)はこの風習に従い、家々で自家栽培の「きゅうり」は八坂神社に奉納されたあとに食べる習わしがあった。「きゅうり」は当時春植えた「きゅうり」は旧暦の6月に入って食べられようになった。昭和40年代から「キュウリ」のハウス栽培が急速に進むと年中食べれるようになり、自家栽培の初ものの「キュウリ」を神社へ奉納する習慣は消えた。

2017.7.15
祭典はかつては旧暦の6月14.15日だったが現在は7月14.15日が祭典になっている

例年7月15日の例大祭が終わると「トトロの森」は静けさを取り戻す。木々に「トトロ」が棲みついているような雰囲気を漂わせる。だが住宅地のすぐ近くの森を訪れる子ども達はほとんどいなくなった。少子化と言われてから随分時間がたった。少ないといわれる現在の子供たちにも「トトロ」は潜んでいることに変わりがないはずだ。子ども達の限りない夢と創造性を育てていきたいものだ。


ミドリニリンソウ

2017年05月13日 | 地域の山野草
ニリンソウ(二輪草、学名:Anemone flaccida)は、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。春山を代表する花のひとつといわれていて特に珍しいものでもない。
属名の学名「Anemone」(アネモネ)は、ギリシャ語の「anemos」(風)を語源とし、春のはじめの穏やか風が吹き始める頃に花を咲かせるからともいわれている。花言葉の「友情」「協力」は一つの茎に仲良く2輪の花を咲かせることにちなんでいる。

深く裂けた根生葉を持つている。4月から6月にかけて白い萼片を持つ直径約2 cmの花をつける。多くは1本の茎から2輪ずつ花茎が伸び、和名の由来となっている。中には1輪や3輪のものもある。根茎で増えるため、群落を作ることが多い。わが家の山林で鍋釣山の杉林と雑木林の境界付近に群落を形成している。ブログ「ニリンソウの群生」2010.5.7に詳しい。

「ニリンソウ」に、萼片がミドリの「ミドリニリンソウ」があることはかなり前から知っていたが遭遇できないでいた。今回山野草の大家、仙北市の「渓風小舎」にお願いして「ミドリニリンソウ」に初めて出会った。案内された渓流沿いはかつては薪木を得るための林道が荒れていた。両側が急峻で岩場が多く、杉の植林には適さない場所らしく朝には熊が出る事があるという。途中上流から私たち一行をカモシカがジッと見つめていた。しばらくするとゆっくりと対岸の急峻な林に消えた。仙北市の山や渓流は湯沢、雄勝の山とは少し違う風情がある。渓流に足を踏み入れたら花の終わった「コチャメルソウ」が群生していた。湯沢の大滝沢で数か所見られるがこの沢の「コチャメルソウ」は呆れるくらい多い。沢沿いの両脇に咲き乱れるニリンソウはこの時期どこにでも見られる風景。しばらく歩いて、ここから「ミドリニリンソウ」が見られるとの合図で探し出したらすぐに見つかった。一輪見つけると白い花のニリンソウの中に、次々と緑の花弁(萼片)の「ミドリニリンソウ」があった。

さすが株立ちのものはなかったが、一つ一つ違う紋様。「ミドリニリンソウ」は限られた場所にしか生育できないのか、約1500m歩いて100m程の所でしか見ることはできなかった。それでも20数点の「ミドリニリンソウ」を数えた。デジカメの一部を紹介したい。すべて2017年5月8日のもので花は終わりに近づいていた。同じ沢でも「ミドリニリンソウ」が混じっている場所は他と何が違うのだろうか。仮にこの「ミドリニリンソウ」を他の場所に移しも、固定されていないために同じ物が出るとは限らないそうだ。

「ミドリニリンソウ」の中で、ミドリの萼片の回りが白く最もきれいだったのは下の写真。



下記は二輪とも同じ文様のミドリニリンソウ。



ニリンソウは初めの一輪と二輪目はやや遅れて開花するという。下記は一輪がミドリで二輪目がシロ。


二輪ともミドリ一色。



中には複雑は形のものも散見された。突然変異多くのニリンソウの中で二本あった。


中には3輪もあり、ミドリ色は一輪だけだった。


ミドリ一色とシロの縁取りのミドリニリンソウ。


少々ピンボケ気味だが捨てがたい。



ニリンソウの白い花弁のように見える咢片が、緑色に変わった「ミドリニリンソウ」を見たことがある人は少ないようだ。「ミドリニリンソウ」の名前は付いていても固有の種ではない。咢片の先祖帰り説や突然変異説。最近ではマイコプラズマによるウイルス感染症との説もある。一般的にそれほど珍しい花ではないと言われているが湯沢、雄勝での発見は今のところ聞いていない。

ニリンソウは食べられるというが私は食したことがない。お浸しすると特有の香味で個性ある味と聞いているが、あまりにも多くあって薄い葉っぱに食する気になれない。

猛毒の「トリカブト」と間違えることがあると言われが吟味すると違いがわかる。皆瀬の女滝沢の遊歩道近くには「ニリンソウ」と「トリカブト」が混生しているところがある。同じ場所にあると「トリカブト」はややおおがらにみえる。この時期になれば花が咲くので間違えることはない。「ニリンソウ」にはプロトアネモニンという毒が含まれている。熱湯で5分ほど茹でたあと水に10~15分ほどさらすとプロトアネモンが抜けるという。若いものより、ある程度成長して花の咲いているものの方が良いとの説がある。ニリンソウは古くから山菜として食され、飢饉の時は貴重なものだったといわている。中国では「ニリンソウ」を「林蔭銀蓮花」と呼び、黒褐色の根茎を乾燥したものを、生薬名で地鳥(じう)と呼びリウマチの薬として用いている。

今回念願の「ミドリニリンソウ」に出会い。「ニリンソウ」学名がギリシャ語の「anemos」(風)を語源とし、春のはじめの穏やか風が吹き始める頃に咲くことから名がついたという。ありそうでなかなか出会うことのない「ミドリニリンソウ」の中に先端がピンクがかかった「ベニサシニリンソウ」もあると言われている。出会えることの楽しみが増えた。

鍋釣山登山道の山野草 

2017年04月25日 | 地域の山野草
湯沢市川連町の鍋釣山は標高444m、山の形が半円形で鍋の釣るに似ていることから山の名前になった。湯沢から国道398号線の山谷トンネルを過ぎて、皆瀬川にかかる久保橋を通ると東側の山筋に丸い山が目につく。鍋釣山は地元では地名から「小坂山」と呼んでいる。今年は春の天候が不順で例年より雪消えが大幅に遅れた。天気の良い日、相の沢林道等鍋釣山登頂で遭遇した山野草の紹介する。

田んぼから鍋釣山 2016.11.10

今回は神応寺から頂上に向かった。始めに林道筋で「オオカメノキ」、朝日を浴びて花が開きだしたようだ。どういうわけか「ガマズミ」と間違ってしまう。花と葉に微妙な違いがある。葉はオオカメノキのギザギザがガマズミより細かい。秋には真っ赤な実をつける。

オオカメノキ

「キクザキイチゲ」は雪消えとほぼ同時にでてくる。どこにでも咲いていて特別に珍しいものではないが春先の山野草を代表しているような気がする。

キクザキイチゲ

比較的に多く咲いているのがオトメエンゴサク。前はエゾエンゴサクと読んでいたが本州のエンゴサクは北海道のエンゴサクとの違いが分かり、近年本州のエンゴサクをオトメエンゴサクと名をかえたそうだ。

途中の急斜面にミチノクエンゴサクを見つけた。オトメエンゴサクとは葉っぱが違う。周囲を見回してもたった一株。斜面が急で日差しが強くデジカメの角度に少々不満があったが貴重な一枚。
ミチノクエンゴサク

エンレイソウは花のつぼみと一緒に芽を出してくるようにみえる。葉が十分展開しないの蕾を抱いてひらいてくる。

エンレイソウ

相の沢林道は急峻な山道、かつては東福寺との入会山、伏部ガ沢、桐沢に柴伐り、草刈に通った七曲り道、途中「馬の水飲み場」と呼んでいた場所があった。この場所を通ると必ず馬に水を飲ませた場所。30年程前に土止工の工事で林道が新しくなり、馬の水飲み場が壊されてしまった。歴史的な場所なので復活を願っている。この場所近く林道は地名「鷹塒」といい、「タカトヤバ」と呼んでいる。「塒」は難しい字で「トヤ」と読む。ねぐらという意味もあって「鷹のねぐら」の意になる。この場所はいかにも鷹が住み着いていそうな岩がむき出している。この岩を削り出した岩肌近くにイワハタザオが咲き乱れていた。

イワハタザオ

削り出された岩の砂利筋にたった一株キバナノアマナがあった。見渡してもこの株一つだけ。この株を核として増えてほしい。

キバナノアマナ

この時期はシュンランの季節。近年乱獲で少なくなったが気品ある風情は春の山野草代表の花といっても良い。
目につくシュンランの伸びている葉は途中から切れている。ヤマウサギのしわざらしい。

シュンラン

白い花はキクザキイチゲのシロバナかと思ったが違った。アズマイチゲと呼ぶらしい。茎につく葉は柄を持って3枚が輪生し、3出複葉である。花茎の高さは15-20cmになり、直径2-3cmの花弁状の萼片を持つ花を1個つける。萼片は白色で8-13枚にもなるという。

アズマイチゲ



「能恵姫」と若殿「桂之助」 旧龍泉寺跡

2017年03月14日 | 村の歴史

2015.11.20のFacebookに榧の木「翁顔」を書いた。「翁と化身した川連城嫡男小野寺桂之助。?翁の向いている方角は西北西。冬は容赦なくシベリア嵐が吹き込む。いつの時代から翁顔になったのかはわからない。誰も「翁」となった川連城嫡男「小野寺桂之助」等と話しても信じない。しかしこの位置に立ち、悠久の歴史に踏み込んでしまうと川連城嫡男桂之助氏の無念さが見えるような気がする。不思議な榧の木の「翁顔」、今回少し掘り下げて追ってみた。

この榧の木は自宅から直線距離で約300m、現在は周囲がりんご畑になっている。2015.3月末固雪を踏みしめて「榧の木」を眺めていて気づいた。高さ2ⅿほどのところの幹、目は閉じてジッとしてる姿、目線の方角は西北、直線距離約10キロには能恵姫の生まれた岩崎城になる。鼻筋、口元はどう見ても印象的な柔和は「翁顔」に見える。何度か訪れてはいたが夏場には気づかなかった。周囲が青く繁る夏よりも周りに雪があればより強調されて見えるから不思議だ。

翁になった榧の木 2015.3.27

能恵姫が龍神にさらわれたのは天正元年(1573)といわれ、龍泉寺に「榧の木」が植えられてから約440年の年月が経っている。樹齢約440年の「榧の木」は18年前に二股の一方は倒れてしまったが南東側に伸びた片方は健在だ。18年前(1999)の1月、西側の幹が雪の重みに耐えかね倒れてしまった。平成11年1月3日の日曜日、新年一番の集落の行事「春祈祷」が会館で開かれたときに話題になった。早朝の大きな鈍い音は「榧の木」の半分が倒れる音だったという。

倒れた榧の木  1999.1.6

天候の回復をまって現場に向かった。龍泉寺跡の倒れた榧の木は空洞で無残な姿になっていた。散在していた木片も朽ちた廃材状態。よくこれまで風雪に耐えて立っていたものだと思えた。榧(カヤ)の材木は一般的には淡黄色で光沢があり緻密で虫除けの芳香を放つ。カヤ材でもっとも知られている用途は碁盤、将棋盤、連珠盤である。これらは様々な材の中でカヤで作られたものが最高級品とされているが、倒れた木は無残な姿で榧材としての値はほとんど考えることはできなかった。

倒れる前の榧の木 1993.5.20

この写真は倒れる前のもので榧の木の北東側から撮った。この写真の右側の幹が倒れた。この幹も上部で二股になっていた。上部付近に枯れが入り長い年月で幹の内部は朽ちてしまったらしい。

現在の榧の木 2015.3.27

これは前の写真のは反対側、南西側から撮った。右側に傾いている幹は前の写真、倒れる前の左側が残ったものになる。

2010年1月5日のブログ「化け比べの背景(2)舘と平城に次のように書いた。
「館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。 昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿小野寺桂之助へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。

岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である。
     
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる「榧の木」の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。 岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない」。

龍泉寺は案内板によると「天正元年」(1573)岩崎城主の息女能恵姫が川連城主の嫡男挂之助に嫁入りの途中皆瀬川の龍神にさらわれた龍泉寺はその菩提をともらう為建てられたと言い伝えられている。寺は元、根岸にあったが明治22年火災に逢いこの地に移された」。

巷間伝えられる能恵姫伝説を時系列でみれば次のようになる。龍泉寺建立が天正元年(1573)、赤滝神社は承応元年(1652)で能恵姫失踪から約79年後。鉱毒の素は上流の鉱山とすれば白沢鉱山宝永六年(1709)、吉野鉱山享保五年(1720)、大倉鉱山延享元年(1744)に始まっている。能恵姫伝説では大倉鉱山の鉱毒に耐えられなくて成瀬川の赤滝に棲みついた
ことになっている。大倉鉱山は延享元年(1744)、赤滝神社の創建よりも92年後に発見、採掘をされたことになるから、時代背景があわない。このことからしても能恵姫伝説は巧妙に仕掛けられた物語との説の証明となるのかもしれない。しかし、史実と伝説は必ずしも一致されなくとも、440年前の能恵姫伝説が多くの人たちと共有され、地域の中に根づいていることに異論はない。

能恵姫が祀られているお堂2015.5.12

旧龍泉寺跡の榧の木の根元には姫の供養塔の祠がある。祠の石像に建立はいつの時代なのかは知られていない。祠は昭和37年9月、麓の「川崎うん」さんが発願主で川連地区の63名の協賛で再建された。祠の中に協賛者の氏名と再建額1万2千4百円と記録されてある。集落での「川崎」さんは信心の深い人として知られていた。信心深い川崎さんは荒れ果てていたお堂の再建を発案、共鳴した63名が協賛してお堂が出来たことを当時聞いていた。そして再建から約54年、平成28年春新しくお堂が龍泉寺住職のよって再建されている。お堂の中の石像は当時からのものなのかは承知していない。前のお堂は西向きだったが新しいのは南向きになっている。翁顔の榧の木とは違う方向になっている。この場所から南東の方向はかつての川連城の方角になっている。

2015.5.12 お姫様お堂 祭典の旗

現在も川崎家では毎年一回5月12日にお祭りをしている。写真はその旗。旗には「龍泉寺禮府妙見大姉」とあって 昭和37年9月22日 宿講中 とあるのはお堂再建の時の旗。当時は春、秋の2回お祭りをしていた。稲川町史資料編「第14 龍泉寺由来」にも岩崎の殿さま相模守道隆が「城の一角に水神社を再建し、姫の霊を合わし御供田、鈴鳴る田、笛吹田の三か処を附置き、春秋の二回の祭典を仰出されたと伝えられている」との記述がある。現在の岩崎の千歳公園にある水神社の祭典は11月の初丑の日に勇壮な裸まつりが行われている。旧暦11月初丑の日は440年前「能恵姫」が嫁ぐ途中、竜にさらわれた日にちなんでいる。

祭典の朝 旗を立てる川崎さん 2015.5.12

川崎さんは毎年5月12日朝祭典の旗をたて赤飯を焚いてお祭りをしている。現在は参拝者も少ないが「ばあさんがやってきた祭典行事を辞めることはできない」と彼は言う。

「翁」(おきな)とは、年取った男、老人を親しみ敬って呼ぶとされる。子供は神仏に近い存在とされていたが、老人も同様である。「翁」になると原則的に課役などが課せられなくだけでなく神仏に近い存在とされ、例えば「今昔物語集」では神々は翁の姿で現れ、「日権現験記絵巻」でも神は翁の姿で描かれている。能楽の世界では「翁」は「老爺の容姿をしており、人間の目では無意識の状態でのみ姿を見ることが出来る存在。したがって、意識して見ようとすれば見えない存在である。元来は、「北極星」あるいは「胎児の化身」などと考えられていた翁とは「宿神」つまり、この世とあの世を繋ぐ精霊のようなもの」との説も見られる。

倒れた榧の木の根元 2015.3.27 

根元から双幹の「榧の木」は平成11年倒れて、片方の幹は健在。双幹の時には気づかないでいた一方の幹の「翁顔」に見える姿に今の所共鳴者は少ない。現在旧龍泉寺跡を物語のは榧の木、お堂、六地蔵、山門禁葷酒だけになっている。

旧龍泉寺参道にある六地蔵 2015.5.12

旧龍泉寺の墓地と川連集落内檀家の墓があり、六地蔵様にはお参りされている。

山門禁葷酒 2015.3.27

集落内主要道路沿いに立っている「山門禁葷酒」の石柱、酒の部分が長い年月で土の中に埋まって見えない。一般的に「不許葷酒入山門」の石柱が多い。「臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さない」という意に解釈されている。平成10年10月、旧稲川町は「龍泉寺跡カヤの木」の標柱を立てた。

稲川町史資料編第七集茂木久栄第14「龍泉寺由来」がある。その中に川連村高橋利兵衛文書に「天正八年の検地騒動で川連城主嫡男桂之助が最上勢に捉われたため、能恵姫がなげいて投身自殺したのを物語化したのが龍泉寺由来」とある。さらに増田町田中隆一氏によれば「寛永19年(1642)十月台命に因りて小野寺桂之介道白は湯沢に幽される。20年(1643)道白湯沢に卒す、嶽竜山長谷寺に葬る。法名駿邦院骨眼桂徹」、天正19年(1581)検地騒動が能恵姫物語を生んだのではないかとある。この資料の年号にも一部に矛盾がみられる。

この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。天正18年(1590)豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。3万7000人が犠牲になった「天草、島原の乱」は別格としても、「川連一揆」の双方合わせて犠牲者数1780人に抗争の激しさを想う。川連一揆は川連城が拠点といわれ、それほど広くもない地域に増田、山田、川連に2万4000人が集結した姿を連想してもあまりにも規模の大きさに唖然としてしまう。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。城も寺も集落も火の海となった。徳川の時代になり佐竹が秋田に入部した慶長7年(1602)、一緒に水戸からきた「対馬家」(現高橋家)が来たときも集落は、戦いから復興出来ず荒れていたと語り継がれている。

川連城をめぐる戦国時代からの様相は波乱万丈だった。その時代を知る者は旧龍泉寺跡の「榧の木」といえる。川連城嫡男若殿「小野寺桂之助」は「翁」の姿に化して歴史の流れに立ち向かっているように想える。翁となった榧の木の側に旧龍泉寺は約315年、明治22年(1889)の火災で現在地の湯沢市川連町野村に移って128年、合わせると龍泉寺は開山443年になる。


「後藤喜一郎」頌徳碑

2017年02月22日 | 村の歴史

故「後藤喜一郎頌徳碑」は八坂神社の鳥居の横に立っている。建立後100年近くになる。長い年つきで刻まれている文字は苔に覆われている。この場所は麓集落の共同作業春の堰普請や、中山間事業の草刈作業等の集合場所になっている。集落出身の故「後藤喜一郎」氏の頌徳について語り継がれてきたが、詳しいことは知らないできた。碑文は苔に覆われているばかりではなくて、碑文が漢文調で読み方も難しくどのようなことが記されているのかわからないでいた。この場所の前集合で時々話題になるが、特に関心も薄くそのままになっていた。

今回ブログ「年貴志(根岸学校)から川蓮小学校」を調べている中で貴重な資料が出てきたので追跡してみた。大正八年(1919)五月に建立された碑の建立委員長が曾祖父だった事を初めて知る。建立当時の数点の手紙を基に背景を追ってみた。

後藤喜一郎先生碑 2017.2.16

碑文は稲川町史資料集の2集から引用した。

後藤喜一郎先生碑
後藤先生名喜一郎以嘉永元年九月二十三日生干秋田県雄勝郡川連村
為人温良忠厚好学芸夙見頭角明治十一年四月卒業下等小学伝習科同
村根岸小学校訓導十五年十二月転川連小学校二十一年九月任同校校
長曩十五年四月以職務恪勤之故石田県宰賞以四書一部三十年十二月
又以教育上功労不尠岩男県知事授与教育学芸義一部覚之有其職二十
有五年受敬者達千数百名先生常勤倹力行以〇教養子弟故皆感其徳立
身守道各励其業郷風大革良有以也三十六年二月依村民興望抛教職為
川連村長爾来鋭意計村政改善頗有嘉績焉偶嬰病三十七年一月四日欻
焉遂逝享年五十有七閏村無不哀惜門人感 遺沢久而不能 遂相謀欲
建記念碑以伝 高徳為後進子弟崇敬之標識亦報恩之至也因記其事蹟
  大正八年五月                 門人一同謹精

頌徳碑は高さが173cm、横幅92cm、台座を加えると高さが210cmはある。本文文字304字、その他12文字数計316文字。上部に巾60cm、高さ30cmに「後藤喜一郎先生碑」と刻んである。この碑文は私立秋田女子技藝学校長(現在の国学館高等学校)井上房吉氏。井上房吉氏は明治2年生まれで当出身。後藤喜一郎氏は明治十一年に根岸学校の訓導(先生)になっていたので、井上房吉氏も教えを受けたと推定される。下記は井上氏から頌徳碑建立委員長当ての手紙。「碑文草稿添削等304字の一字一句の吟味すれば約一ケ月もかかる」等と綴られている。
私立秋田女子技藝学校 井上房吉氏の手紙 大正8年4月21日

碑文は漢文調で現代文に書き改めると次のようになっている。素人の解釈なので間違もあると思われるが、碑文の趣旨に大きな違いはないと思っている。
                
後藤喜一郎先生碑

「後藤先生名は喜一郎、嘉永元年(1848)秋田県雄勝郡川連村に生まれた。温良、忠厚、好学、芸風は抜きんでて人のために尽くした。下等小学伝習科を卒業して明治11年4月に根岸小学校の訓導となった。明治15年12月に川連小学校に転任し、明治21年9月に同校の校長となった。先(曩)の明治15年4月職務を励み故石田秋田県知事賞四書一部を、明治30年12月には又教育上功労に岩男県知事から教育学芸義一部を授与されたのは不尠(まれ)なことだ。其の職25有5年受教者は千数百名覚えあり、先生は常勤し勤勉にはげみ精一杯の努力して子弟に教育した。多くの生徒は社会的に一人前になる為にその徳を学び各々の道を守り励んだ。その行いに郷土が発展した。明治36年2月村民の強い願いで教職から村長についた。それ以来鋭意を計りすこぶる村政は改善にされた。そうした中で思いもかけずに嬰病を患い明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった。門弟は大いに悲しんだ。長いつきあいの恩恵は変わらない。話し合いで記念碑を建てることになった。後進子弟はすぐれた高い徳を崇敬報恩のためそのことを記して蹟とする。
    大正八年五月                        門人一同謹撰

下記は封筒に碑石代等とある、石材店からの石碑建立についての詳しい基準についての文。石材は仙台石と別の書に書かれている。仙台石は宮城県東部に位置する港町石巻、稲井地区産の名石「井内石」。墓石界では"至高の石"と称され、山形の文人斎藤茂吉が「父のために」と墓標の石を稲井に求めにきたという逸話があるそうだ。石質は黒くどっしりと重厚感があり、美しい石目が特徴で、文字を刻むと鮮明な白が浮かびあがる。塩釜神社、松島の瑞巌寺の石碑など明治以降各地の記念碑、墓碑に数多く利用されてきた名石を調達した。

石材店   柴田清之助 

頌徳碑建立費の総額等の資料は見当たらい。頌徳碑建立に多くの方々から寄付を募った。根岸学校、川連小学校の卒業生等門人、有志に一口1円50銭をお願し建立された。その中で井上房吉、佐藤新吉、赤松哲二、熊谷保氏等10円以上、酒井忠朗、小野寺忠則紀氏等5円以上の寄付があったことが記されている。秋田市や県外からもみられる。下記は南満州鐡道株式会社に勤務していた酒井忠朗氏から主旨の賛同と恩師へ厚い想いが綴られている。
南満州鐡道株式会社 酒井忠朗

八坂神社鳥居の横に「後藤喜一郎頌徳碑」は大正8年5月に完成し9月4日に除幕式が行われた。後藤喜一郎氏が亡くなったは明治36年1月4日、25年の教職から混乱の村長就任、議会案件から財政難は相変わらず、明治政府は明治32年から5年限定で地租を32%引き上げ(2.5%~3.3%)、明治37年日露戦争勃発で引き下げ案を撤回し逆に4.3%、翌年からは5.5%と引き上げた。このころ米騒動も起きている。明治35年の暴風雨による甚大な被害等の中で村税の滞納が続出、学校建設の遅れ、自然災害への対応等の中で助役、収入役また書記等の辞職と再任等混乱した村政の中で後藤村長は就任半年後の明治36年6月に体調を崩してしまった。そのため議会開催通知が7月から山内助役が代理村長の名で出されれいる。明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった

頌徳碑は後藤村長の逝去11年後の大正8年に建立された。第一次世界大戦による好景気が続いていた大正7年(1918年)米騒動が勃発。米の小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り、世の中は物情騒然といわれた中、郷土の偉人の業績を後世に語り継ぐために故「後藤喜一郎」頌徳碑構想が生まれた背景が偲ばれる。