2015.11.20のFacebookに榧の木「翁顔」を書いた。「翁と化身した川連城嫡男小野寺桂之助。?翁の向いている方角は西北西。冬は容赦なくシベリア嵐が吹き込む。いつの時代から翁顔になったのかはわからない。誰も「翁」となった川連城嫡男「小野寺桂之助」等と話しても信じない。しかしこの位置に立ち、悠久の歴史に踏み込んでしまうと川連城嫡男桂之助氏の無念さが見えるような気がする。不思議な榧の木の「翁顔」、今回少し掘り下げて追ってみた。
この榧の木は自宅から直線距離で約300m、現在は周囲がりんご畑になっている。2015.3月末固雪を踏みしめて「榧の木」を眺めていて気づいた。高さ2ⅿほどのところの幹、目は閉じてジッとしてる姿、目線の方角は西北、直線距離約10キロには能恵姫の生まれた岩崎城になる。鼻筋、口元はどう見ても印象的な柔和は「翁顔」に見える。何度か訪れてはいたが夏場には気づかなかった。周囲が青く繁る夏よりも周りに雪があればより強調されて見えるから不思議だ。
翁になった榧の木 2015.3.27
能恵姫が龍神にさらわれたのは天正元年(1573)といわれ、龍泉寺に「榧の木」が植えられてから約440年の年月が経っている。樹齢約440年の「榧の木」は18年前に二股の一方は倒れてしまったが南東側に伸びた片方は健在だ。18年前(1999)の1月、西側の幹が雪の重みに耐えかね倒れてしまった。平成11年1月3日の日曜日、新年一番の集落の行事「春祈祷」が会館で開かれたときに話題になった。早朝の大きな鈍い音は「榧の木」の半分が倒れる音だったという。
倒れた榧の木 1999.1.6
天候の回復をまって現場に向かった。龍泉寺跡の倒れた榧の木は空洞で無残な姿になっていた。散在していた木片も朽ちた廃材状態。よくこれまで風雪に耐えて立っていたものだと思えた。榧(カヤ)の材木は一般的には淡黄色で光沢があり緻密で虫除けの芳香を放つ。カヤ材でもっとも知られている用途は碁盤、将棋盤、連珠盤である。これらは様々な材の中でカヤで作られたものが最高級品とされているが、倒れた木は無残な姿で榧材としての値はほとんど考えることはできなかった。
倒れる前の榧の木 1993.5.20
この写真は倒れる前のもので榧の木の北東側から撮った。この写真の右側の幹が倒れた。この幹も上部で二股になっていた。上部付近に枯れが入り長い年月で幹の内部は朽ちてしまったらしい。
現在の榧の木 2015.3.27
これは前の写真のは反対側、南西側から撮った。右側に傾いている幹は前の写真、倒れる前の左側が残ったものになる。
2010年1月5日のブログ「化け比べの背景(2)舘と平城に次のように書いた。
「館山は川連町古館にあって川連城(別名黒滝城とも云う)のあったところである。 昔、岩崎城の殿様には、能恵姫という娘がいた。姫は十六才になり、川連城の若殿小野寺桂之助へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼の日に城下にある皆瀬川の淵に呑まれ、そのまま帰らぬ人となってしまった。姫は幼い日の約束を果たすため、サカリ淵の大蛇の妻となり、竜神と化したのだった…。
岩崎城址千歳公園には、姫を祭る水神社があり、姫の命日には「初丑祭り」が行われる。公園の広場には、姫を忍ぶ能恵姫像も設置されている。岩崎の人にとって能恵姫は、はるか古(いにしえ)の精神の源流を紡ぐ人のような存在にみえる。竜神夫婦はその後、サカリ淵へ上流の鉱山から流れ来る鉱毒を嫌って、いつしか成瀬川をさかのぼり、赤滝に落ち着いたと言われ、これが赤滝神社の縁起である。
姫の死(失踪)をきっかけに、川連に龍泉寺(現在は野村)が建立された。能恵姫の婚約者であった川連城主の若殿が建てたといわれ、今も寺には姫の位牌が祭られている。川連の寺跡には、当時植えたといわれる「榧の木」の老木が歴史を物語っている。根元に姫のお墓も残されていて、失った人の悲しみを今に残している。川連城主小野寺氏、岩崎城主岩崎氏ともその後の戦乱に巻き込まれ滅亡した。能恵姫の話だけが老人から子供へと語り継がれ、420年の年月が過ぎようとしている。 岩崎地区では今でも能恵姫に因んだ祭りや行事が盛んだが、若殿地元ではなにも行事らしいものはない」。
龍泉寺は案内板によると「天正元年」(1573)岩崎城主の息女能恵姫が川連城主の嫡男挂之助に嫁入りの途中皆瀬川の龍神にさらわれた龍泉寺はその菩提をともらう為建てられたと言い伝えられている。寺は元、根岸にあったが明治22年火災に逢いこの地に移された」。
巷間伝えられる能恵姫伝説を時系列でみれば次のようになる。龍泉寺建立が天正元年(1573)、赤滝神社は承応元年(1652)で能恵姫失踪から約79年後。鉱毒の素は上流の鉱山とすれば白沢鉱山宝永六年(1709)、吉野鉱山享保五年(1720)、大倉鉱山延享元年(1744)に始まっている。能恵姫伝説では大倉鉱山の鉱毒に耐えられなくて成瀬川の赤滝に棲みついた
ことになっている。大倉鉱山は延享元年(1744)、赤滝神社の創建よりも92年後に発見、採掘をされたことになるから、時代背景があわない。このことからしても能恵姫伝説は巧妙に仕掛けられた物語との説の証明となるのかもしれない。しかし、史実と伝説は必ずしも一致されなくとも、440年前の能恵姫伝説が多くの人たちと共有され、地域の中に根づいていることに異論はない。
能恵姫が祀られているお堂2015.5.12
旧龍泉寺跡の榧の木の根元には姫の供養塔の祠がある。祠の石像に建立はいつの時代なのかは知られていない。祠は昭和37年9月、麓の「川崎うん」さんが発願主で川連地区の63名の協賛で再建された。祠の中に協賛者の氏名と再建額1万2千4百円と記録されてある。集落での「川崎」さんは信心の深い人として知られていた。信心深い川崎さんは荒れ果てていたお堂の再建を発案、共鳴した63名が協賛してお堂が出来たことを当時聞いていた。そして再建から約54年、平成28年春新しくお堂が龍泉寺住職のよって再建されている。お堂の中の石像は当時からのものなのかは承知していない。前のお堂は西向きだったが新しいのは南向きになっている。翁顔の榧の木とは違う方向になっている。この場所から南東の方向はかつての川連城の方角になっている。
2015.5.12 お姫様お堂 祭典の旗
現在も川崎家では毎年一回5月12日にお祭りをしている。写真はその旗。旗には「龍泉寺禮府妙見大姉」とあって 昭和37年9月22日 宿講中 とあるのはお堂再建の時の旗。当時は春、秋の2回お祭りをしていた。稲川町史資料編「第14 龍泉寺由来」にも岩崎の殿さま相模守道隆が「城の一角に水神社を再建し、姫の霊を合わし御供田、鈴鳴る田、笛吹田の三か処を附置き、春秋の二回の祭典を仰出されたと伝えられている」との記述がある。現在の岩崎の千歳公園にある水神社の祭典は11月の初丑の日に勇壮な裸まつりが行われている。旧暦11月初丑の日は440年前「能恵姫」が嫁ぐ途中、竜にさらわれた日にちなんでいる。
祭典の朝 旗を立てる川崎さん 2015.5.12
川崎さんは毎年5月12日朝祭典の旗をたて赤飯を焚いてお祭りをしている。現在は参拝者も少ないが「ばあさんがやってきた祭典行事を辞めることはできない」と彼は言う。
「翁」(おきな)とは、年取った男、老人を親しみ敬って呼ぶとされる。子供は神仏に近い存在とされていたが、老人も同様である。「翁」になると原則的に課役などが課せられなくだけでなく神仏に近い存在とされ、例えば「今昔物語集」では神々は翁の姿で現れ、「日権現験記絵巻」でも神は翁の姿で描かれている。能楽の世界では「翁」は「老爺の容姿をしており、人間の目では無意識の状態でのみ姿を見ることが出来る存在。したがって、意識して見ようとすれば見えない存在である。元来は、「北極星」あるいは「胎児の化身」などと考えられていた翁とは「宿神」つまり、この世とあの世を繋ぐ精霊のようなもの」との説も見られる。
倒れた榧の木の根元 2015.3.27
根元から双幹の「榧の木」は平成11年倒れて、片方の幹は健在。双幹の時には気づかないでいた一方の幹の「翁顔」に見える姿に今の所共鳴者は少ない。現在旧龍泉寺跡を物語のは榧の木、お堂、六地蔵、山門禁葷酒だけになっている。
旧龍泉寺参道にある六地蔵 2015.5.12
旧龍泉寺の墓地と川連集落内檀家の墓があり、六地蔵様にはお参りされている。
山門禁葷酒 2015.3.27
集落内主要道路沿いに立っている「山門禁葷酒」の石柱、酒の部分が長い年月で土の中に埋まって見えない。一般的に「不許葷酒入山門」の石柱が多い。「臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さない」という意に解釈されている。平成10年10月、旧稲川町は「龍泉寺跡カヤの木」の標柱を立てた。
稲川町史資料編第七集茂木久栄第14「龍泉寺由来」がある。その中に川連村高橋利兵衛文書に「天正八年の検地騒動で川連城主嫡男桂之助が最上勢に捉われたため、能恵姫がなげいて投身自殺したのを物語化したのが龍泉寺由来」とある。さらに増田町田中隆一氏によれば「寛永19年(1642)十月台命に因りて小野寺桂之介道白は湯沢に幽される。20年(1643)道白湯沢に卒す、嶽竜山長谷寺に葬る。法名駿邦院骨眼桂徹」、天正19年(1581)検地騒動が能恵姫物語を生んだのではないかとある。この資料の年号にも一部に矛盾がみられる。
この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。天正18年(1590)豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。3万7000人が犠牲になった「天草、島原の乱」は別格としても、「川連一揆」の双方合わせて犠牲者数1780人に抗争の激しさを想う。川連一揆は川連城が拠点といわれ、それほど広くもない地域に増田、山田、川連に2万4000人が集結した姿を連想してもあまりにも規模の大きさに唖然としてしまう。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。城も寺も集落も火の海となった。徳川の時代になり佐竹が秋田に入部した慶長7年(1602)、一緒に水戸からきた「対馬家」(現高橋家)が来たときも集落は、戦いから復興出来ず荒れていたと語り継がれている。
川連城をめぐる戦国時代からの様相は波乱万丈だった。その時代を知る者は旧龍泉寺跡の「榧の木」といえる。川連城嫡男若殿「小野寺桂之助」は「翁」の姿に化して歴史の流れに立ち向かっているように想える。翁となった榧の木の側に旧龍泉寺は約315年、明治22年(1889)の火災で現在地の湯沢市川連町野村に移って128年、合わせると龍泉寺は開山443年になる。
故「後藤喜一郎頌徳碑」は八坂神社の鳥居の横に立っている。建立後100年近くになる。長い年つきで刻まれている文字は苔に覆われている。この場所は麓集落の共同作業春の堰普請や、中山間事業の草刈作業等の集合場所になっている。集落出身の故「後藤喜一郎」氏の頌徳について語り継がれてきたが、詳しいことは知らないできた。碑文は苔に覆われているばかりではなくて、碑文が漢文調で読み方も難しくどのようなことが記されているのかわからないでいた。この場所の前集合で時々話題になるが、特に関心も薄くそのままになっていた。
今回ブログ「年貴志(根岸学校)から川蓮小学校」を調べている中で貴重な資料が出てきたので追跡してみた。大正八年(1919)五月に建立された碑の建立委員長が曾祖父だった事を初めて知る。建立当時の数点の手紙を基に背景を追ってみた。
後藤喜一郎先生碑 2017.2.16
碑文は稲川町史資料集の2集から引用した。
後藤喜一郎先生碑
後藤先生名喜一郎以嘉永元年九月二十三日生干秋田県雄勝郡川連村
為人温良忠厚好学芸夙見頭角明治十一年四月卒業下等小学伝習科同
村根岸小学校訓導十五年十二月転川連小学校二十一年九月任同校校
長曩十五年四月以職務恪勤之故石田県宰賞以四書一部三十年十二月
又以教育上功労不尠岩男県知事授与教育学芸義一部覚之有其職二十
有五年受敬者達千数百名先生常勤倹力行以〇教養子弟故皆感其徳立
身守道各励其業郷風大革良有以也三十六年二月依村民興望抛教職為
川連村長爾来鋭意計村政改善頗有嘉績焉偶嬰病三十七年一月四日欻
焉遂逝享年五十有七閏村無不哀惜門人感 遺沢久而不能 遂相謀欲
建記念碑以伝 高徳為後進子弟崇敬之標識亦報恩之至也因記其事蹟
大正八年五月 門人一同謹精
頌徳碑は高さが173cm、横幅92cm、台座を加えると高さが210cmはある。本文文字304字、その他12文字数計316文字。上部に巾60cm、高さ30cmに「後藤喜一郎先生碑」と刻んである。この碑文は私立秋田女子技藝学校長(現在の国学館高等学校)井上房吉氏。井上房吉氏は明治2年生まれで当出身。後藤喜一郎氏は明治十一年に根岸学校の訓導(先生)になっていたので、井上房吉氏も教えを受けたと推定される。下記は井上氏から頌徳碑建立委員長当ての手紙。「碑文草稿添削等304字の一字一句の吟味すれば約一ケ月もかかる」等と綴られている。
私立秋田女子技藝学校 井上房吉氏の手紙 大正8年4月21日
碑文は漢文調で現代文に書き改めると次のようになっている。素人の解釈なので間違もあると思われるが、碑文の趣旨に大きな違いはないと思っている。
後藤喜一郎先生碑
「後藤先生名は喜一郎、嘉永元年(1848)秋田県雄勝郡川連村に生まれた。温良、忠厚、好学、芸風は抜きんでて人のために尽くした。下等小学伝習科を卒業して明治11年4月に根岸小学校の訓導となった。明治15年12月に川連小学校に転任し、明治21年9月に同校の校長となった。先(曩)の明治15年4月職務を励み故石田秋田県知事賞四書一部を、明治30年12月には又教育上功労に岩男県知事から教育学芸義一部を授与されたのは不尠(まれ)なことだ。其の職25有5年受教者は千数百名覚えあり、先生は常勤し勤勉にはげみ精一杯の努力して子弟に教育した。多くの生徒は社会的に一人前になる為にその徳を学び各々の道を守り励んだ。その行いに郷土が発展した。明治36年2月村民の強い願いで教職から村長についた。それ以来鋭意を計りすこぶる村政は改善にされた。そうした中で思いもかけずに嬰病を患い明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった。門弟は大いに悲しんだ。長いつきあいの恩恵は変わらない。話し合いで記念碑を建てることになった。後進子弟はすぐれた高い徳を崇敬報恩のためそのことを記して蹟とする。
大正八年五月 門人一同謹撰
下記は封筒に碑石代等とある、石材店からの石碑建立についての詳しい基準についての文。石材は仙台石と別の書に書かれている。仙台石は宮城県東部に位置する港町石巻、稲井地区産の名石「井内石」。墓石界では"至高の石"と称され、山形の文人斎藤茂吉が「父のために」と墓標の石を稲井に求めにきたという逸話があるそうだ。石質は黒くどっしりと重厚感があり、美しい石目が特徴で、文字を刻むと鮮明な白が浮かびあがる。塩釜神社、松島の瑞巌寺の石碑など明治以降各地の記念碑、墓碑に数多く利用されてきた名石を調達した。
石材店 柴田清之助
頌徳碑建立費の総額等の資料は見当たらい。頌徳碑建立に多くの方々から寄付を募った。根岸学校、川連小学校の卒業生等門人、有志に一口1円50銭をお願し建立された。その中で井上房吉、佐藤新吉、赤松哲二、熊谷保氏等10円以上、酒井忠朗、小野寺忠則紀氏等5円以上の寄付があったことが記されている。秋田市や県外からもみられる。下記は南満州鐡道株式会社に勤務していた酒井忠朗氏から主旨の賛同と恩師へ厚い想いが綴られている。
南満州鐡道株式会社 酒井忠朗
八坂神社鳥居の横に「後藤喜一郎頌徳碑」は大正8年5月に完成し9月4日に除幕式が行われた。後藤喜一郎氏が亡くなったは明治36年1月4日、25年の教職から混乱の村長就任、議会案件から財政難は相変わらず、明治政府は明治32年から5年限定で地租を32%引き上げ(2.5%~3.3%)、明治37年日露戦争勃発で引き下げ案を撤回し逆に4.3%、翌年からは5.5%と引き上げた。このころ米騒動も起きている。明治35年の暴風雨による甚大な被害等の中で村税の滞納が続出、学校建設の遅れ、自然災害への対応等の中で助役、収入役また書記等の辞職と再任等混乱した村政の中で後藤村長は就任半年後の明治36年6月に体調を崩してしまった。そのため議会開催通知が7月から山内助役が代理村長の名で出されれいる。明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった
頌徳碑は後藤村長の逝去11年後の大正8年に建立された。第一次世界大戦による好景気が続いていた大正7年(1918年)米騒動が勃発。米の小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り、世の中は物情騒然といわれた中、郷土の偉人の業績を後世に語り継ぐために故「後藤喜一郎」頌徳碑構想が生まれた背景が偲ばれる。
先の年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2 以降別の資料が出てきたので補足。(3)とした。(2)で以下のように書き留めたが間違いがあった。
「稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)
10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない
その後の調べで、根岸学校の火災は明治38年10月2日ではなく、明治37年11月2日だった事が判明した。当時村会議員だった曾祖父に火災のあった翌日に議会通知が届ていた。明治37年11月4日午後1時、急拠の案件「川連小学校充用家屋(根岸)焼失報告ノ件」議会開催の通知があった。火災報告とその後の対策が話し合われた。
そして明治37年12月3日の議会招集の通知、議案第45号案「川連小学校臨時充用校舎借入ノ件」が上程されていた。
議案第45号案
議案第45号案に「本村尋常小学校(根岸)充用校舎焼失ニ付本月ヨリ来ル明治38年3月限り川連村川連字野村59番建家借入レノ臨時充用校舎ニ充テルモノトス」とある。4月以降新校舎に移る明治38年10月23日までの校舎借入の詳細資料は見つかってはいない。
明治38年10月23日に野村に完成し、約30年続いた「根岸学校」は新しい「川連小学校に統合され幕を閉じた。今回新たに明治36年から38年頃までの経過が判明した。すべて議会通知からのもので校舎建設の詳細が分かった。統合された「川連小学校」は明治35年に計画されていた。
明治36年3月4日の議会案件
第九号 小学校新築事業繰延ノ件
要約すると「本村尋常小学校新築工事ワ客年7月ヨリ起工スベキトコロ、気候不順暴風災害、農産物ノ凶作ヲ受ケ生産力ノ達ヲ阻害、一般経済界ノ困難ヲ来シ到底事業ノ竣工ハ認メズ依ッテ本村小学校新築工事ノ繰延ハ止ムヲ得ザル37年度迄繰延スルモノナリ」とある。
客年7月起工予定とは明治35年7月のことになる。川連小学校の新築工事は明治35年に決定していた。繰り延べは「暴風被害等一般経済界の困難」となっている。
議案第10号に「明治35年年度○税○入出予算中剛削除ノ件」が上程されている。これによれば臨時費として「校舎新築、機材計6408円60銭」とある。
学校新築が繰延しなければならない「気候不順暴風災害」とはどのような事だったのか。稲川史資料集第8集2編、稲庭古今事蹟誌巻「明治35年9月28日風害調」佐藤黎明 にその詳細がある、それによると「明治35年9月28日、朝より雨風起こりて次第に烈しく正午頃に至りて大風となり、川は俄に洪水となり屋根の石を落とし、木羽杉皮屋根板垂木扉障子等を飛ばし屁子店(ママ)等は道に倒、人さえも倒されて歩行もならす、、、、、。三島神社の拝殿は大杉倒れて微塵になり、、。午後3時頃より風弱くなり、、、、」とある。
さらに「当地暴風の損害は左の如し」
明治35年9月28日風害調
「全半壊55戸、大破350棟、小破69棟、製糸場全壊、陶器場全壊、負傷者9名、神社境内風倒木99本、損害田150町、畑160町、樹木転倒26万本、損害見積高42万4700円。田んぼはほとんど倒れ、籾は田面一面に散布ものの如、半作以下。作物は倒れ葉の満足なもの一本もない」とある。
稲庭から約7㌔ほどしか離れていない川連村でも同じような被害は想像される。この年東北地方を中心に米が平年の半作で経済界も大打撃。この暴風雨は「足尾台風」ともいわれ、千葉から新潟、北海道北部を通過、主に関東から東北地方に大きな被害をもたらしたといわれている。暴強風で収穫前のモミが田んぼ一面に散布したように散乱した状態とは信じがたい被害。
政府は明治33年北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。1月に日露戦争を想定した軍事訓練、「八甲田雪中行軍」で210名が遭難、5月に199名の遺体が収容された。
明治35年~38年までの議会は混乱に満ちている。開催通知から主な議案は「東福寺村と川連村との入会林の裁判、学校建築、役場(借家)、病舎等の修理、久保下川原河川復旧」等で相次ぐ追加予算、明治36年の追加予算案で、税の戸数割が当初予算案の23%増等が見られる。結果的に延滞者が多く村では役場職員だけで対応が難しく各地区に区長を置くという案が審議されている。議会を招集しても欠席者が多く再召集の通知が見られる。
そのような情勢の中で明治35年村長が辞表を出している。さらに助役、収入役等の辞職。書記職員の退職等村の執行体制の混乱が見られる。その都度代理村長名、議会議長代理の助役名で議会通知等繰り返されている。
代理村長では埒が明かずと見えて、明治36年2月に村長に川連尋常小学校の校長、「後藤喜一郎」氏を就任させた。しかし、その後も選任された助役、収入役等が辞任、税収の不足、追加予算等の混乱のが続いていたとみられ、役場の職員体制(村長含めて6~7名)で税収徴収等に手がまわらず、各地区に区長を置く提案が見られる。
後藤喜一郎村長名の議会通知は明治36年6月までで、その以後は助役が村長代理名で議会通知を出している。校長職から激変した状況がしのばれる。そのような状況の中で就任一年にもならない明治37年1月、「後藤喜一郎」村長が急死している。事態の集約のために村長欠員選挙会開催の請願書が出された。5名の議員は全員川連(根岸)、亡くなった「後藤」村長も川連だった。
請願は村長代理助役山内梅吉は大舘出身。選出過程は承知しないが結果的に明治35年辞任した村長「酒井文吉」氏が代理就任等にも見受けられるが混乱は収まっていないと思える。その後も収入役の辞任、相次ぐ議会招集も欠席が多く延期開催等の通知がみられる。
今の所、明治36年度の村会で明治37年に繰延された、その後の川連小学校新築の経過の資料が見つかっていない。そんな中で明治37年11月2日午後2時に「根岸学校の火災」が発生し備品悉く皆焼失と稲川町史 資料集 第11集にある。
明治37年12月21日、川連村長代理「山内梅吉」で下記の予算案が見られる。
これによると臨時予算として教育費2285円55銭が計上されている。学校敷地2反8畝10歩 坪単価60銭計510円、校舎新築費1329円55銭、古校舎買上450円等がある。
村財政ひっ迫の中で明治37年起債額2000円の償還財源に戸数割、地価割り等の他に高等科併設として、生徒一人一か年2円として80人分160円が計上されている。しかし、この計画も予定通りは進まなかった中で、明治38年10月23日に「川連小学校」は「根岸学校」と統合されて発足した。発足した小学校も翌年、明治39年3月の予選案で334円93銭が工事費として追加計上されている。
高等科のない川連尋常小学校に、明治37年6月の議会に補習科設置の案件が見られる。ここに「高等科がないため尋常科卒業の児童が無益な遊戯していることは甚だ遺憾、本校に補習科を設置し教育上の発達を計る」と要約される。
明治37年6月議会案件 川連尋常小学校に補習科設立の件
わが国に公教育制度が完成したのは、明治5年の学制の発布から28年後の明治33年(1900)と言われ、この年に義務教育の授業料廃止が行われ、義務制、無料制、宗教からの中立の条件が成立した。そのような制度の中で川連尋常小学校に併設条件と思われる生徒一人年額2円、計160円の予算が遂行されたのかは確認できない。
当初計画された高等科は併設できず、高等科が出来たのは計画から約10年も経過した大正4年に開設され、川連尋常高等小学校に名前が改称されている。
旧稲川地区で高等科設置が早かったのは駒形小学校が明治25年、三梨小学校は明治30年、稲庭小学校は明治32年。大正4年まで川連尋常小学校の卒業生は高等科に進むためには駒形、三梨等の学校に進んでいた。
下記は明治30年に設置された三梨小学校の高等科へ転校するために、それまで通学していた駒形小学校に曾祖父が提出した「退桟届」の下書き。高等科3年は現在の中学校1年、高等科1年は小学校5年生にあたる。根岸学校の地域から駒形の学校までの距離は約5㌔以上、三梨の学校までは約3㌔。当時子供たちは知識を学ぶ生徒は当然としても需要な働き手だったので通学時間が短いことは何よりも学校に通う条件だったと思える。
駒形尋常高等小学校 退桟届
昨年11月29日「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」に始まり、今年1月12日 に2、そして今回その後の資料が出てきて「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」3とした。
学校発足の明治9(1876)年はから明治38年まで約30年間、川連小学校が新しく生まれて「年貴志学校」(根岸学校)が統合までの資料は見つからない。
文久2年生まれの曾祖父が、高祖父からの教えで「読み書きそろばん」から「百姓往来豊年蔵」から論語、孟子、大学、中庸等を10歳前後から学んでいたことが分かっていた。明治新政府はそれまでの寺小屋制度を廃止し小学校の新設を奨励した。集落に「根岸学校」が生まれたころは曾祖父は14歳になり、学校に設立に高祖父が一部関わっていたらしい。「根岸学校」は巷間語り継がれてきたが詳細はほとんど知らないできた。「川連学校」が明治9年5月に開校されたときのはすでに「根岸学校」があったということを「稲川町史」で知り関心が高まった。
昨秋自宅の土蔵から出てきた議会通知等の資料から「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」シリーズ1~3をひとまず終える。「根岸学校」の詳細にはほど遠い。今後も資料収集、聞き取り調査等で追っていきたい。終えるにあたって振り返ってみたら今年は「川連小学校」開校140年に当たっていた。
先のブログ「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」2016.11.29リリース後、その後に新たな事実に補足して年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2とした。
稲川町史「資料篇」の第一集は昭和40年3月3日に当時の稲庭川連町(昭和31年(1956)合併、稲川町 昭和41年(1966)に改称、平成17年(2005)湯沢市となる※)教育委員会から発行された。その後昭和51年3月31日の第十一集まで稲川町文化財保護協会が編集にあたった。この資料集を基に「稲川町史」が発行されたのは昭和59年3月31日だった。構想から約20年の歳月がかかった。稲川町史「資料篇」は一部しか保持していない。今回友人の好意で、第一集から第十一集まで読ませてもらった。この「資料集篇」で川連小学校について以下の関係する記事があった。
稲川町史「資料篇」第九集「伊藤政義文書」(その三)「高橋利兵衛家 初代から十代に至る記録」、八代高橋利平衛可寛の中に
明治8年 高橋岩吉家を借し学校を創設せり 後野村にに移し又大館にも写し根岸にも人家を借り小学校とせり
とある。さらに稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校(一)校地・校舎の変遷に
明治09年05月26日 創立 川連学校と称し、久保村字久保に設置(根岸学校不明)
15年09月23日 大館・野村に分校を置く
19年04月 分校を統合 野村分校を増築し川連小学校を置く
22年09月01日 大館に本校、根岸に分校を置く
38年10月23日 野村に新校舎落成し移転 根岸分教室を併合
伊藤政義文書には明治8年とあるだけで月日は記されていない。稲川町史「資料編」十一集の記述より前に学校が創設されていたことになる。町史編纂作業で上記の記述が反映されていないことになる。明治8年学校創設時に「根岸学校」ありとあるが詳細は記されていない。稲川町史「資料篇」十一集の川連小学校(一)校地・校舎の変遷にある「明治9年5月26日」川連学校創立との違いはどこから生じたのだろうか。
さらに稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)
10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない。
下記は稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校沿革・行事の概要のコピー。
長い間教育機関に縁のなかった村人には、授業料を負担する国民皆学の新教育制度に抵抗があったとされ、就学しても現在の一年生で退学してしまう者が多く、2年生以上に進学する者は3割に満たなかったといわれている。
明治19年4月、政府は教育令を改め、小学校令(小学校は尋常小学校4年斗高等小学校4年の二段階とし、尋常小学校4年を義務年限)を公布し、明治20年(1887)4月1日から施行した。
稲川地区で呼応して高等科を設置したのは駒形小学校が明治25年、駒形尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科は99名、高等科は49名。三梨小学校は明治30年で三梨尋常高等小学校と改称、尋常科108名、高等科53名。稲庭小学校は明治32年、補習科を廃し高等科(三年制)を設けて稲庭尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科251名、高等科43名。
川連小学校に高等科が設置されたのは大正4年。駒形に設置されてから24年後、稲庭尋常高等小学校に改称されてから16年後となった。高等科のなかった川連地区の児童は三梨、駒形尋常高等小学校へ通っていた。大正4年川連尋常高等小学校設立時の生徒数、尋常科449名、高等科25名。他地区と比べて高等科に進む生徒が少なかった。
各地区とも高等科が設置されても進学者は15~20%前後。この比率は昭和21年まで続いている。昭和22年3月31日、政府は学校教育法」公布、翌4月1日から施行され小学校6年、中学校3年の義務教育がスタートした。
※湯沢市 平成17年(2005)3月22日 湯沢市、皆瀬村、稲川町、雄勝町の合併で新湯沢
市が誕生した。合併によって旧稲川町の地区の名称は湯沢市〇〇町と昭和31年(1956)
合併前の稲庭、三梨、川連、駒形の町村名が復活した。
「イシカツラ」以外の「洞穴」は昭和61年豪雨の復旧工事で立ち入りが危険なため入り口が閉ざされた。川連の三ケ所の外に東福寺山の「桐沢」は東福寺と川連の入会山。終戦前後ここにも一ケ所掘られた場所がある。10代の頃この場所を訪れたことがあるが、現在は立木が鬱蒼と繁りその場所は良くわからない。
内沢で入り口を閉ざさないでいた一つの「洞穴」は湯沢市ジオサイトで平成23年度に「ジオサイト:稲川15」で紹介されている。この資料では坑道跡はいつの頃掘られてたのかわからないとある。
このジオサイト:稲川15によれば、「川連の鍋釣山周辺の地質は、中新世中期(2000万年前)の火山噴火によって形成された国見嶽層の安山岩質火山碎屑岩と輝石安山岩からなる。川連の坑道跡付近は、暗灰色~帯青黒色の玄武岩質安山岩で、シリカ脈を伴っている」とある。
稲川町史には『この付近は激しい海底火山噴出の中心域を物語る。さらに注には「この変動に続くマグマ熱水の上昇によって黒鉱等の金属鉱床が形成された」、国見嶽、鍋釣山等はその火山岩体から成る。激しい海底火山噴出は西黒沢期後期には活動を終え、この地域は凝灰岩から泥岩の堆積が示す深い海となった。そして、中新世末期の船川期には、褶曲、断裂等の変動を受けつつ陸化したものと思われる』とある。
川連の北には同じ地質時代の地層に鉱脈が形成され東福寺の白沢銅山が宝永6年(1709)、大倉鉱山が宝暦3年(1753)に開口されている。川連の内沢はこの地区と地層の類異性から古くから「カネヤマ」探しに関心が高かったと思われる。
明治新政府は、明治2年( 1869) 2月20日に「鉱山開拓之儀ハ、其地居住之者共故障無之候、其支配之府藩県へ願之上、掘出不苦候、府藩祭ニ砂テモ、旧習ニ不泥、速ニ差免可申事」(行政官布告177号)と布告、鉱山に対する政府の所有権と鉱業自由の原則を宣言した。そして試掘に地主の優先権を保障、自分の所有地以外で出願するときは地主の承認を要すると云うことになっていた。
このほどわが家からこの内沢の鉱脈探査に関係すると思われる資料が出てきた。この関係資料から内沢の「洞穴」は下記の資料から明治7年の試掘願書から始まったと推定される。
試掘願書 部分 明治7年
この「試掘願書」は明治7年に大館村「黒滝源蔵組合」の名で出された。願書には黒滝源蔵、高橋藤右エ門と大館村伍長総代小野寺藤左エ門、川連村伍長総代関 主助の名がある。どうしてこの書がわが家からでてきたのか不思議だったがこのほど手がかりが出てきた。試掘には相応の経費が必要になる。試掘願書出した明治7年7月22日に「長里久七良」あての「貸地證文事」(借用証文)。受合「高橋藤右エ門」、「井上久四良」。借主「黒滝源蔵」、「高橋藤右エ門」を含む8名。「長里久七良」は私の高祖父。不思議なのは借主の8名の中に年齢12歳の曾祖父の名があるが印はない。印があるのは6名で金10円借用されている。中心の「黒滝源蔵」氏は明治の廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺の最後の住職だった。
貸地證文事 明治7年7月22日
そして下の図はは6筆の桑畑と林を担保とした「書入れ金借用證文」で、金額は5円。「黒滝源蔵」を含む3名が川連村の「赤沢○○」当てに出され、高祖父は請合人になっている。請合とは今でいう保証人のこと。
書入れ金借用證文一部 明治8年3月27日
明治7年に「試掘願書」が出され、許可が下りて採掘がはじまったものと思われるがその経過についての書類は見つかってはいない。内沢の採掘坑道は深さが約15m程。坑道の入り口が狭く、それに水が流れ出ているので入るのが難しい。10m程進むと高くなっているで人は立てる。現在麓集落の有志が導水管で湧水を集落まで引いていて、数年毎に中に入って掃除をしている。
この2枚の証文からから推定して川連の内沢鉱脈探査の坑道は明治7年から始まったと思える。約15m掘り進むのにどれくらいの日数がかかったのかは知る由もない。当時の大工の日当は30~40銭、日雇いはその半分の16~20銭と言われている。二つの証文にある計15円は忽ち消えてしまったと思われる。その後の資金の手立てはどうだったのか、證文にある永代地の一部は現在私の家の持ち山になっている。
試掘坑道の隣地はわが家の所有地。当時は桑畑で「豆星平」と呼び、坑道のあるところは「イシカツラ」と呼ばれていた。ジオパークの資料に「石川連」とあるが、地元でかつて「イシカツラ」と呼ばれていた呼称が「石川連」なのかは判断が難しい。隣地の「豆星平」は樹齢100年過ぎた杉林、「イシカツラ」は岩の層で樹木が育たない。内沢はそのすべてが急峻な地形。「豆星平」や「桧平」等、平の付く場所が数ケ所あるが一般的な「平」のような場所ではない狭い場所。わが家の「豆星平」は所有面積は約30aあるが平の場所等はほとんどないに等しい。急峻な山は住む人々は広い場所への願望として、わずかな地にも「、、平」と名で読んだものと思われる。傾斜があるから山の畑は桑畑や萱畑等になっていた。
内沢は明治27年に大雨で集落は大水害に見舞われる。流失家屋11戸死亡者5人の村最大の被害。この記録によれば内沢のいたるところで土が流され沢が止まり堤が何十か所も生まれ、「大地波」となって集落を濁流が襲ったという。この内沢の「洞穴」の所、隣地のわが家の杉林は沢に向かって10数m崩れた場所がある。この場所から300m程上流、通称「狸岩」付近から推定15トンもある大岩が下流約600m流されたと記録にある。この大岩を集落では「雨乞石」として祀っていたが昭和61年の沢河川の工事で林道下の埋められてしまった。内沢水害についてブログ「川連村水害記」2013年9月3日に詳細。(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/75831607ad51e41678488ba17bce9809)
洞窟のある岩肌の「イシカツラ」はこの豪雨でさらに岩肌がむき出し、採掘された岩石はすべて下流に流されてしまったと思われる。明治7年「試掘願書」が出され、許可が下りて何年間内沢の山に挑戦したのか確実な資料が乏しい。各地の鉱石探しのノウハウを持っていたのは山伏や修験者だったといわれている。明治7年の「試掘願書」の代表が、廃仏毀釈で廃寺になった妙音寺住職「黒滝源蔵」氏だったことは大きな意味があった。妙音寺は祈祷寺で山伏・修験者のながれをくむお寺だった。「妙音寺」について昨年12月19日のブログ「妙音寺」1(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/e6c9c24fe38e59d0099ac8d7b218e505)に詳しい。
先のブログで紹介したように、広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」、「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。
日本では16世紀末から17世紀にかけて鉱山開発が頂点、国内のほとんどの地域が明治の初期にかけて鉱山開発が行われた。鉱山が見つかれば資金、技術、労働力が必要で江戸初期においては幕藩領主、近代においては財閥系の鉱山企業が乗り出している。
試掘許可や採掘許可が下りたとしても相応の経費がかかる。鉱山、鉱床発見の確率は極めて低かったはずだ。内沢と同じ地質時代の地層(玄武岩質安山岩)から鉱脈が開発された「白沢、大倉鉱山」は直線距離は3㌔弱の場所だったが鉱物は見つからなかった。明治の初期は、幕末から続く物価の高騰と税の金納に庶民は振り回された時代、固い岩山に挑戦した当時の熱いエネルギーが偲ばれる。
明治新政府は明治4年文部省を設置、翌5年学制で「自今以後一般の人民必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言。これまで府県が運営してきた学校を廃校し、新規の学校を設立するとの新しい学校教育制度の実施に着手した。この交付を受けて秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」、明治6年1月、すべての男女6歳から9歳までと10歳から13歳までの人名の調査報告を指示した。
皆瀬村史から引用 雄勝教育百年史(雄勝校長会発行)
初めての学校には授業料が必要だった。「年貴志学校」(根岸学校)の一月3.5銭、各地の10銭以下だがこの学費は当時の家庭にとって負担が大きかった。一年就学しても次の年度に進めず、就学断念が多かった。秋田県下の状況は下記。
表に見られるように秋田県の就学率は全国平均の半分程。明治9年は全県学齢者107522人中、就学者19395人は18.04%の就学率だった。「秋田県教育史」によれば現在の一年生から二年生に進むのは30%程度で一年で退学してしまう者が多かった。当時子供たちも重要な働き手で、授業料負担が大きかったことがあげられている。
ちなみに明治治9年(1876)大阪では、前年来の金融逼迫と豊作により前年1石7、8円であった米価が4円まで下がり、また、地租改正により地租が金納となるなど、納税者である農民は米価安に困窮していた。明治9年の米価は60㌔は1円18銭、前年の8年は2円8銭から約半値近い暴落。当時の米の平均反収は明治18年で180㌔、明治9年平均して60㌔で3俵以下。自作農はともかくとして小作農はこの収量から半分近くが小作料、小作地も持たない戸数が30%あった時代で就学しても途中退学が多かった。明治政府は明治22年第二次小学校令、明治33年に第三次小学校令で「尋常小学校の修業年限を四か年の義務制として統一し、就学については授業料を徴収しない」と交付した。
川連小学校の沿革について稲川町史には次のような記述がある。
創立当時の学校名 川連学校
創立当時の位置 久保村字久保
創立当時の職員数と氏名 熊谷成蔵 助訓(氏名不詳) 児童数40名
明治9年(1876)5月 川連学校開校、職員2名、学級数初年度八級。通学区は字野村、大 館、久保村とす。
明治15年(1882)9月 大舘と野村に文教室、12月根岸学校を統合し根岸分校とする。
明治19年(1886)4月 野村分教室を増築し大館、野村分教室を廃し川連小学校となる。
明治24年(1891)4月 三梨小学校に統合され、川連分校となる。
明治32年(1899)8月 三梨小学校川連分校を廃し川連小学校となり、分校を根岸に置く。
明治38年(1905)10月 新校舎を野村に新築、根岸分校を廃す。
昭和7年(1932)5月 現在地に新校舎落成移転する
川連学校(久保)は明治9年5月19日に創立(雄勝教育百年史)とあり、「年貴志学校」は明治9年9月27日開校とある。稲川町史には明治9年5月26日 川連小学校 創立 大館村久保 人家借用 根岸学校あり。との記述がある。久保にできた川連学校の創立前に「根岸学校」が開校されていたことになる。「秋田県教育史」、「雄勝教育百年史」の記録とは違ってくる。いずれにせよ根岸学校は明治9年頃から明治38年、川連小学校に統合されるまで約30年間存在していた。
下の図はわが家の土蔵から明治前後の諸書類と一緒のところからでてきたものだ。
川連学校資金 備品 請負人等詳細 明治9年8月29日とある。年貴志学校(根岸学校)開校の一ケ月前になる。
和紙に書かれた8ページの書は紙よりで閉じられている。1ページに資本金、利子等9月から12月まで毎月2円15銭の経費計81円99銭。学校病院資本金とあり、寺宿料、小使給料等が記されている。教員の給料は書かれていない。3ページから基材等器械、テイブル、ボウルト等。名札百枚、門札、炭入れ、塵取、拍子木等計29円20銭 請負人高橋藤左衛門、沓沢寅之助の名前がある。裏表紙の「癸酉五斗三ノ一」とは何なのか解釈はできないでいる。年号の癸酉とは明治6年(1873)で、この年に秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」した。解釈の一つとして川連では学校設立に動き出していたことになる。
この書には「川連学校」とあって、「根岸学校」ではない。日付は明治9年8月29日で稲川町史にある「川連学校」は5月19日に開校されている。雄勝教育百年史にある「根岸学校」の開校9月27日に合わせたものなら書かれた内容と照合する。
この書が我が家にあることは教育熱心な高祖父(長里久七郎)がなんらか形で関係していたと思われる。私から数えて五代前久七郎は安政の頃、横手市からわが家にきた。幼少の横手時代寺小屋に通い、息子の久治(私の曽祖父)へ教育も熱心だった。久治は明治5年前後から当時の寺小屋の「読み書きそろばん」から「百姓往年豊年蔵」、「商売往来」等明治8年13歳には論語、孟子等中国の古典が多く含まれている。明治4年、高祖父久七郎は9歳の息子に「太閤状」を書き記している。「太閤状」に「太閤様被仰出三拾ケ條」「御詠哥」2、「御掟」19があり、末尾に「三拾ケ條昼夜無差別被令拝読可被守掟もの也」とある。人として生き方、教訓が細かに書かれている。他に一年間の行事等への対応等往来形式の長文、一緒に小林一茶翁の勧農詞もあった。
明治政府が明治6年「学区の設定」し対象年齢6から9歳、10から13歳の調査の時が11歳で対象年齢に含まれていたが、「川連学校」もしくは「根岸学校」の開校時、明治9年曾祖父久治は14歳で対象年齢が過ぎていた。高祖父は40歳、明治の初期に「長百姓」をしていた書もあり、寺小屋から新しい学制に関わっていたようだ。
明治9年設立の「年貴志学校」(根岸)学校の教員に小川為也氏の名がある。村出身の後藤喜一郎氏は明治11年6月、根岸学校の訓道。15年12月川連小学校、21年に校長となっている。さらに36年には川連村長。門人一同崇敬のしるしとして、報恩感謝して大正八年、八坂神社鳥居の側に「後藤喜一郎先生碑」を建てている。
このほどの聞き取りで明治28年生まれの方が「根岸学校」で学んだ後、高等科は「三梨小学校」に入ったことが分かった。当時「根岸学校」に高等科はなかった。小学校初等科は4年で終わった。さらに上の高等科に進むために「川連小学校」か、約3㌔離れた「三梨小学校」に通った。
当時、根岸学校は「キゼン学校」とよんでいたという。「キゼン」は「喜左衛門」家のことで現在川連の「岩蔵」宅の場所。又根岸学校は現「友吉」屋敷のあったとの説もある。又上記の書に「寺宿料」とある。開校時はお寺だった可能性がある。集落にある神応寺、また明治政府の廃仏毀釈で廃寺になったお寺、妙音寺があった。村の中で学校が生まれてから学校の場所が変わったとしか思えない。そして「年貴志学校」(根岸学校)の名前は定着しないで「キゼン学校」等の名前で呼ばれていた。
推論だが上野、川連、麓集落を併せて「根岸」の呼び名は好まれていなかった。根岸の名はいつごろから生まれたのだろう。手元にある資料では明治初期の古地図に第16大区2区大館村に支郷根岸と記されている。現在の麓で旧川連城の城下を形成されていた。明治に入って麓集落だけではなく川連、上野を加えた三集落を「根岸」または「根岸川連」等の呼称になっていた。現在根岸の呼び名は高齢者以外死語になりつつある。地元住民の多くに「根岸」の呼び名に愛着はなかった。むしろ避けていた。特に「根岸衆」は他地区から蔑んだ呼び名で嫌っていた過去がある。明治の時代も変わりなかったのではないか。だからあえて「年貴志学校」の呼び名が生まれたのではないか等思える。現在「年貴志」の名を知っている人はいない。先の資料「川連学校」の日付から何らかの理由で「年貴志学校」(根岸学校)に変えられたとすれば資料と照合できる。ただし推論に過ぎない。川連集落に学校があったと語り継がれ約30年も続いてきた学校の詳細は記憶の中から消え去ろうとしている。さらに資料を探しだして行きたいと思っている。
下図は明治38年川連小学校の建築事委員調。
建築委員長村長の酒井氏以下4名、13名中5人が上野、川連、麓の通称根岸地区から委員。場所は野村の現在七山医院のあるところ、明治38年、約30年続いた「年貴志学校」(根岸学校)が統合されて「川連小学校」としてスタートした。
※ 「小野寺氏の源流と興亡史」小野寺武志編 東洋書院刊(昭和63年1月)小野寺氏の諸城に川蓮城落城の後、「古舘と地名が残り大館(麓)、川連、上野の三集落は根岸と呼ばれる領内であった」との記述がみられる。根岸の名は420年ほど前から存在していたことになる。
ブログが削除されてしまいました。ブログ始めて以来初めてのこと。原因はわかりません。パソコンの誤操作なのだろうか。ともかくわかりません。29日に再投稿を予定しています。訪問よろしくお願いします。11月28日19時
当地方では生まれたばかりの子供を「ニガコ(赤子)」と云った。ニガコヤジ(赤子谷地)は(子棄て沼)の事である。かつて、飢饉、疫病等で子供を遺棄しなければならない事情が各地にあったと云われている。例えば寛永の大飢饉(1642~50)で、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。
宮城県白石市内を流れる「児捨川」(こすてがわ)がある。その川にかかる国道4号線の橋「児捨川橋」(全長71m)があった。この名前の橋が「昨今の児童虐待などを連想させイメージが悪い」との市民の声が寄せられるようになったため、市長が橋を管理する国土交通省と協議し「白鳥橋」に名称変更されている。蔵王山麓を水源とする川の名「児捨川」は現在もある。「児捨川橋」の名称について、いくつかの伝説の中から以下のような記述があった。
「児捨川橋」から「白鳥橋」へ -国土交通省へ提言しました-,,,,,,。その伝説の一つは「蝦夷(えみし)征伐でこの地を訪れた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子を産んだ長者の娘が、夫から迎えがないのを嘆いて、『白鳥と化して大和の空に飛んでいく』ために、子を抱いて川に身を投じた」というものです。名称変更について、白石市文化財保護委員会へ諮問したところ、「説話に関する地名は保存すべきだが、伝説を補強する意味でも白鳥橋への改称が望ましい」との答申を受けました。市では、伝説は重んじつつも負のイメージにならないよう、白鳥になって飛んでいった伝承を生かし、「白鳥橋」という名称にしてはと11月6日、管理者の国土交通省に提言しました。現在、同省で名称変更の検討がされています。
※昭和57年に改良された国道の新しい橋の案内板の名称について提言したものであり、旧国道(現在市道)の児捨川橋の名称や、児捨川そのものの名称を変えようとするものではありません。なお、旧国道に架かる橋には伝説などを記した案内板の設置も併せて検討しています。「http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/uploaded/attachment/514.pdf」白石市の広報(平成13年12)引用
当地方で「ヤジ」とは湿地の事を云っている。川連地区は数千年の経過で生まれた内沢の流れの扇状地上に形成されてきた。人々は1000年以上前から住み、扇状地特有の瓦礫の地を開拓してきた。扇状地の山際に住居を構え、すそ地は田んぼに変えてきたと思える。
2014.6.30のブログ『二つの古絵図「川連村、大館村」』に享保16年(1731)の文章に古絵図は慶安元年(1648)と変わりがないと書かれている。この古絵図に現在集落の下の方、通称「宿」と呼ばれている付近に湿地が記されている。下記の地図で屋敷廻、天王の場所、この湿地は幕末から明治の古地図には見られない。この湿地通称「ヤジ」は、その後の内沢の土砂の押し流されと人々が手を加え湿地を乾地に変えてきたものと思われる。
古絵図 享保16年(1731)(地名編入筆者)
近年この場所に住宅が建てられた。スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」する。結果、N値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。湿地(ヤチ)の深さは約6mと記録されている。表土は乾地化されてはいるが地下数メートルには湿地の兆候が見られる。
黒森の「ニガコヤジ」はこの場所から直線距離で約600m離れ、標高155m程でこの地から約10mも高い位置にある。この通称「ニガコヤジ」を享保16年(1731)、明治初期の古絵図にも示されていない。古絵図では妙音寺、黒森山の麓の場所。
昭和になって麓集落に残った湿地(ヤジ)は、黒森にある「ニガコヤジ」だけだった。この「ヤジ」も住宅建設で残土等の埋め立てや、昭和52年の圃場整備事業で下方に排水路が出来その面影を無くなってしまった。現在「ニガコヤジ」を知っている人は団塊の世代以上で若い世代は名も場所も知らない。
ニガコヤチ跡 2015.12.3
私の記憶にある「ニガコヤジ」の大きさは約500平方ほどでヨシが茂っていた。ドジョウなどの棲みかだった。先達の話だと昭和30年代には鯉や鮒がいたといわれている、養蚕が盛んだった川連地区では養蚕の道具洗浄や未熟な「蚕」のさなぎや、食べ残しをこの「ヤジ」に運んだと云われている。そのたびに大きな鯉や鮒が寄ってきたそうだ。誰も魚を捕ることはなかった。ニガコ(赤子)の霊を守り供養を鯉や鮒に託していたのかもしれない。
長い戦国から争いが少なくなり、新田開発等で人口の増加した江戸時代、頻繁に起こる飢饉等自然災害、冒頭の会津藩同様、各地に飢饉や疫病から生き延びるために似たような事例があったといわれている。
江戸時代には頻繁に飢饉が起こった。東北地方は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶ。宝暦の飢饉( 1753年~1757年)、天明の大飢饉」(1781~1789)、「天保の大飢饉」(1832~1839)。その他、元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)、延宝の飢饉(1674年~1675年)等東北地方の被害が大きかった。
秋田藩(出羽藩)で被害の大きかったのは「天保の大飢饉」(1832~1839)、数年に渡る冷害飢饉で人口の1/4の10万人が犠牲になったといわれている。江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で凶作や飢饉が絶えなかった。食糧事情が悪く栄養不足で基礎体力がない子供の生存率は極めて低かった。飢饉や疫病等で乳幼児の死亡率は50%前後。異常な低さは当時の乳児(ゼロ歳児)と幼児(1~5歳)の死亡率が全死亡率の70%を占めていたことが全体の平均寿命を下げていた。江戸時代の子供は7歳(満6歳)までは神の子と云い、この世に定着していないと考え人別帳(戸籍)に載せていない。7歳にして「一人前」と考えられた。平均8~10人兄弟姉妹で子供が成人(当時は15歳)までに半数は亡くなった記録もある。
集落に30数年前まで存在した「ニガコヤジ」もそのような歴史があったと云われているが詳しいことはわからない。この場所はかつての妙音寺の引導場、歴代住職の墓地も近くにある。江戸時代当地の肝煎を務めた末裔高橋氏は、忘れ去られようとしている「ニガコヤジ」を後世に伝えようとして次のように書きとめた。
「慶長19年、対馬(㐂右衛門)の分家、川連山妙音寺というお寺があった。山伏修験寺で川連には神応寺と竜泉寺があって、新しくお寺では生活できないので切支丹を広めていった。遠く杉の宮(現羽後町)まで広めた。地元の川連には毎日のように大館、久保方面から続々と信者が集まり、今でもこの通り道を切支丹通りという名が残っている。承応年間((1652~1654)の切支丹弾圧に、川連では犠牲者を一人も出さなかった。肝煎の㐂右衛門は信者一人一人を説得してまわって(踏絵等)弾圧から逃れたことによる。
それでも妙音寺は信仰を続け信者を広めていった。仕事を休んでまで信仰していったので日増しに貧困の差を増していった。その結果、破産と口べらし(子棄て)が大いに出た。ニガコヤジ(赤子谷地)に朝な朝なに赤子の泣き声とお供えが上がっていたと伝えられている。現在ニガコヤチ(口ベラシ沼)はニザエモンの所有地になっていて沼の形はない。年代とともに消えゆくので書き留めておく」。 平成25年11月
神応寺、竜泉寺は「回向寺」。江戸時代の檀家制度でお寺の経済は保たれていたが、妙音寺は「祈祷寺」で檀家を持たなかった。そのためには信者を増やすことが寺自立の唯一の勤めだった。人々の現世のしあわせを求めて「妙音寺」に多くの人が出入りした。その中には切支丹信者も多くいたとされ、住職も信者説は高橋氏の覚書に詳しい。
各地には貧しさや飢饉から、「姥捨て山」等の記録は散見されるが「子棄て」の記録はあまり多くはない。有名は遠野物語には「昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふ」。デンデラ野「遠野物語」(111)、「遠野物語拾遺」(268)等に詳しい。比較して「子捨て」については「間引き」「遠野物語拾遺」(247)等がある。本当に捨てるのではないと記録されている。
広報いなかわNa682の「いなかわのむかしっこ」、「川連山妙音寺廃寺のむかしをしのぶ」に、羽後町飯沢の鈴木杢之助氏に妙音寺が出した古文書が残っている云われている。これは「秋田県史 第二巻 近世編、キリシタン禁制」で紹介された。
寺出し之事
一、拙寺院内の、まつよと申す女一人、外に専太郎と申す男一人、貴殿ご支配の正左エ門 方へさしつかわし候間、当御調より貴殿お帳へお引き入れお帳合わせなされるべく 候、 此の方において出入しさい御座なく候、よって、寺出しの一筆、件の如し
嘉永五年四月
川連村 妙音寺
飯沢村 肝煎殿
この寺出し証文は、川連村から現在の羽後町飯沢村に下人奉公した者の送り状で、住居を変える場合、切支丹宗徒でないことの証明する証文といわれている。寺請証文は寺請制度において、自己の檀家証明は人々が奉公や結婚等他の土地に移る場合には身分証明書が必要であった。
上記の寺出し証文は嘉永5年は明治維新の16年前で、年号から推定して妙音寺13世智覧一曄和尚が出した証文と思われる。不思議なことに、前回も触れたように妙音寺は回向寺ではなく祈祷寺。川連の回向寺は神応寺が出した「寺出証文」ではなかった。江戸の後期になると回向寺、祈祷寺への出入りは比較的自由だったといわれている。
秋田のキリシタン事情は佐竹義宣が常陸から国替えした慶長7年(1602)前の天正18年(1590)、織田信長の第二子「織田信雄」が北条方に内通したとして所領を没収され、出羽秋田に流されたことが慶長5年(1600)に書かれた「三河風土記」に記載されている。信雄は失脚以前の天正5年(1577)に、バードレのジョアン・フランシスコの会堂を訪れ、「自分はキリシタンになりたいのだが、今戦争に行く途中であるから後日帰依する」と約束した。その翌日秋田に流された。信長は永禄12年(1569)に伺候したバードレ・ルイス・フロイスを非常な好意を見せ接待し贈り物をしていたという。「秋田切支丹研究」武藤鉄城著 翠楊社にある。
そして佐竹義宣が国替えの時、九州の大名大友宗麟の子「大友義統」が預け入りで秋田に来ている。さらに佐竹義宣の側室である西の丸がキリシタン信者であったことなどから、キリシタン禁教政策を厳しく行わなかったとの説がある。初期の佐竹秋田藩は藩財政の確立のため金、銀、銅などの減産と鉱山の衰退を嫌った。このことは秋田の鉱山に多くのキリシタン信者が潜伏していたといわれる所以だ。
江戸時代の始め、幕府は切支丹教徒を根絶するため檀家制度を作った。百姓、町人すべて家族単位で、どこかの寺院に所属する「檀徒」であることを義務づけた。檀徒一人一人は、寺が作る「宗門人別帳」に記載され、勝手に宗派を変えることは認められなかった。寺にとっては利益のことだった。檀家が所属する寺を「檀那寺(菩提寺)と呼ぶようになった。檀那の語源は旦那といわれ、古くは、梵語の「ダーナ」(お布施の意味)からきている。
元和8年(1622)仙台から「巌中」という人が稲庭にきて、大眼宗という宗教を広めているという風聞があったといわれる。稲庭の「源兵衛」というものが「巌中」の門弟として活躍し、稲庭、三梨、川連の者がそれに服した。驚いた横手城須田美濃が場外の安田原で数十人の門徒を召捕り、磔刑や斬罪に処したという宗教一揆があった。
須田美濃が詳しく取調べもなく、徒党を処刑したことに佐竹義宣がいたく機嫌を損ねたといわれてる。大眼宗は南部地方に多い秘事門徒の一つであったらしく、他の神仏を崇拝しないで、ただ日、月ばかり拝むものだった。当時この事件は西洋にも伝えられ、記録では60余人の斬罪に処された中でキリシタンは2人で、藩では両者を混同して全員をキリシタンとみてしまったと伝えられている。妙音寺は大眼宗事件のあった元和8年の9年前、慶長19年に創立されている。この騒動に大きく影響されたことが想像されるが確かなことはわからない。
寛永元年(1624)の秋田佐竹藩の弾圧で処刑された人数はきわめて多い。6月3日久保田城外三里ヤナイで男21人、女11人併せて32人、6月11日、久保田城外で50名、内25名は藩士。25名は院内で逮捕したもの。6月20日雄勝寺沢の信徒を15名を久保田場外で斬罪。7月3日仙北善知鳥の信徒13名を横手で成敗。8月6日平鹿郡臼井の信徒4名を居村にて斬首等計114人が斬首になっている。(引用 秋田切支丹研究、武藤鉄城著 翠楊社 昭和55年発行)
この事件のから90年後の正徳2辰年(1712)、願主仙北雄勝郡宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺で「十一面観世音」が創建されている。特定ができないが妙音寺のあったと場所に建つ「子安観音」(マリア観音)を言うのではないかと考えられる。この場所から500ⅿ程離れた場所にある石清水神社、かつてはキリシタン信仰の対象だったとの説もある。
広報「いなかわ」昭和51年6月10日号
この「マリア観音像」について「妙音寺を偲ぶ 1」に下記のように記録した。妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない。
この「マリア観音像」は、駒形町東福寺の雲岩寺にある「マリア観音像」と同じと広報「いなかわ」昭和51年6月10日号、「町の歴史と文化、キリシタン物語(二)」にある。この観音像について、「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。
大倉鉱山は延享年間(1744~1747年、白沢鉱山は宝永6年(1709年)開坑。ちなみの院内銀山は慶長元年(1596)発見されている。江戸時代、幕府はキリスト教を禁じ信者を弾圧した。弾圧を逃れるため、多くの信者が日本各地の鉱山に潜伏したといわれている。雲岩寺は白沢鉱山の経営の推移(直利)と関係していた考えられ、「マリア観音像」はそのことと強く結びついていると思われる。いつの時代かは特定できないが当時肝煎りだった高橋家によれば、ご神体が盗難にあったとの言い伝えがあるといわれている。鉱山の隆盛と潜伏信者のよりどころとして、妙音寺が寺境内に建立し、神体の「十一面観世音」を「マリア観音像」に変えたと仮説が成り立つような思えてならない。
月刊アンドナウ(引用)
この記事は、昨秋横手市のある喫茶店で読んだタウン誌「月刊アンドナウ」「ズームアップ地元!第51回 隠れキリシタン由来の像(湯沢市)を引用した。デジカメでの写真なので不鮮明で発行月日は見落としてしまった。湯沢市下院内の誓願寺、湯沢市小野の向野寺等にあるマリア観音像等が紹介されている。湯沢市には院内銀山を始め大小9ケ所に鉱山があり、キリシタンが坑夫となって潜伏していたといわれている。弾圧の中でひたすら信仰を守り続けたキリシタンの足跡がこれらの寺に残されてる。
冒頭の寺出し証文を書いた妙音寺が、キリシタンだったとう説の確かな証拠は見いだせなかった。当時の肝煎り高橋家では分家筋の妙音寺がキリシタン説を覆い隠すために大きな犠牲を払ったといわれている。各地でキリタン信者の弾圧が強まる中でこの地から殉教者を出さなかったと語りつがれている。
幕末となってかなり緩やかになったといわれているが、江戸時代、各地の肝煎りは毎年「切支丹御調帳」を提出しなければならなかった。広報いなかわ昭和51年7月10日号、町の歴史と文化 キリシタン物語(三)に安政6年(1859)「東福寺の切支丹御調帳」が掲載されている。
東福寺 切支丹御調帳 昭和51年7月10日号
「切支丹調御調帳」の書き出し起請文はほとんど同じだ。当時各地にいまでいう例文があったと思われる。角館、佐竹家蔵にある「起請文の事」があり、肝煎、庄屋等の書き出し分は次のようになっている。
「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。下記の文は久七郎が子、久治に伝えた書にあった。起請文を書き写したものらしい。
切支丹御調條の一部
この文章は明治5年(1872)に書かれた。高祖父久七郎が10歳の子供の久治に書いたものだ。私にとって久治は4代前の曾祖父にあたる。書の形式からみて高祖父35歳の頃。体が弱かった高祖父は明治10年40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢、切支丹御調條など多様な文を書きとめられている。切支丹御調條の起請文がどうして含まれているのはわからないでいる。前年の明治4年に9歳久治に人としての生き方を記した「太閤状」を書き残している。
明治の初期、戊申戦争等の混乱、256年続いた妙音寺は「廃仏毀釈」で廃寺となった。隣家は肝煎りの高橋家、わが家はこの頃農業の他に染物業もしていて、近隣の地域と交流が結構あったようだ。しかし、肝煎りを補佐する「長百姓」でもなかった。この地を去る妙音寺との関わりも窺い知るが裏付ける資料はまだ見つかっていない。
今回妙音寺とキリシタンの関わりに、もう少し近づけると思ったが遠かった。さらに時間をかけて調べてみたいと思っている。
私の村の菩提寺神應寺は創建から約960年になる。集落の形成は寺創建以前、1000年以上前から形成されていた古い村。現在140戸の村だが江戸後期には大きな神社が二つ、お寺が三つあった。二つの神社の一つは「八幡神社」、天喜5年(1059)八幡太郎源義家が京都八幡大神を勧請して祀った。八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、現在の神社は寛政12年(1800)に再建された。
三つのお寺の一つは神応寺、康平年中(1058~1066)に八幡神社の社務人が開山したといわれている。神応寺は川連城の北の登り口あたりにあって、文禄元年(1600)川連城が最上義光の軍に攻められ落城したあと現在地に移った。佐藤久治著「秋田の密教寺院」によれば「真言宗、八幡山、神応寺」として稲庭の「真言宗、金米山、長楽寺、地蔵院」、三梨の「真言宗,仏喜山、観音寺」が稲川の「真言、密教寺院」三寺院と記されている。
竜泉寺は天正元年(1573)川連城主の嫡男桂之助と、岩崎城主の息女能恵姫の祝儀の途中皆瀬川で竜神にさらわれ、菩提を弔う為に建てられたといわれている。明治22年の火災後約1k離れた野村地区に移った。明治時代に二つのお寺が無くなり、現在は神社二つとお寺が一つが集落にある。
小さな村に二つの大きなお寺があった所に,妙音寺が慶長19年(1614)に開山された。妙音寺は祈祷寺といわれているが、隠れ切支丹のよりどころだったとの説もある。慶長19年(1614)の開山から明治2年(1870)の廃物希釈で廃寺になるまで256年続いたお寺だ。
今回「妙音寺」の歴代の墓地を尋ねた。墓地は集落の近くで住宅からせいぜい100mほどしか離れていないが、ほとんど訪れる人はいない。近くに黒滝明神の祠がある。かつての銀杏は樹齢1000年と云われていたが伐採されてしまい、現在二代目の木で直径1ⅿは超える太さの雄で近くの黒滝子安観音にある銀杏は雌、あわせて「夫婦の木」と言われている。
黒滝明神の祠と大銀杏 お堂は約20年前に新しく建て替えられた 旧お堂も側にある
墓地はこのこの祠から50mほどの所にある。今回数年ぶりで訪れたら墓石が倒れていた。倒れていた墓石を元の位置に立て直したが苔で覆われ文字は見られなかった。
倒れている妙音寺歴代墓地
五つある墓石の一つに延享2年とあった
湯沢市と合併前の稲川町広報「広報いなかわ」No682(平成5年10月10日)に佐藤公二郎氏の「いなかわのむかしっこ」に「川連山妙音寺廃寺の昔をしのぶ」がある。この文に『佐藤久治著「秋田の山伏修験」によれば、川連山妙音寺の文政8年(1825)の僧構成は、鑁隨実乗(ばんずいじつじょう)年齢32歳、先達は伊勢の世儀寺とある。
このほどわかった妙音寺歴代和尚の系図には、開山が慶長19年(1614)12月8日「源養房圓秀」で、鑁隨実乗は11世「源養院鑁隨」と思われる。10世「法教院實峯」が文政4年(1821)巳亥正月15日に亡くなっている。鑁隨実乗28歳の時となる。
佐竹義宣は慶長7年(1602)徳川家康から国替えの命を伏見で受け、水戸城家老の和田昭為に指示を出した。「秋田への随員は一門・重臣の他93騎」と制限した。93騎とは譜代93家、93の軍団を編成していた。「佐竹国替記」には331家、茨城歴史地理の会代表の江原忠明氏のよれば、系図が残っているケースだけで587家に上った。さらに常陸から移住する人が後を絶たず、3年後に院内峠に採用しない旨の立札が立てられたといわれる。引用(秋田魁新報平成2年1月から連載「時の旅-佐竹氏入部400年」から
妙音寺は常陸から佐竹義宣の国替えと一緒に来た「対馬」家(現高橋)から分かれて慶長19年(1614)12月に開山。佐竹氏が常陸から移転した天徳寺は寛永元年(1624)金照寺山の山麓に移したが、火災で焼失し寛永5年(1628)に現在地に再建されている。佐竹氏の国替えと一緒に来た系図に残っているといわれる587家は、地域に定着するまで緊密な関係にあったことは想像される。妙音寺の開山した「源養房圓秀」は、度々天徳寺の関係者を訪れ教えを被っていたといわれている。
先の広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に「妙音寺最後の和尚さんを黒滝賢瑞といい、その父は黒滝一曜である」とある。明治4年(1604)、歴代和尚を記録し本家に預けてこの地を去ったのは黒滝源造氏である。そして父の黒滝一曜は、13世智覧一曄和尚ではないのだろうか。字は違っているが「一曜と一曄」同じ人物のようだ。
九世源養院宥教 寛政九年(1797)没が寛政元年に源養院から妙音寺に名をかえている(御許容 )。10世法教院實峯 文政4年(1821)巳年正月15日と記された以降、廃仏毀釈の明治2年(1969)まで48年の間、11世 源養院鑁隨 凶父、12世黒滝禅滝和尚 卯年正月4日、13世智覧一曄和尚はこの地を離れる時は健在だったのだろうか。世源養院鑁隨 凶父と記されている背景は一体どのような状況だったかは今のところわからない。
村にあった神応寺と竜泉寺は回向寺、妙音寺は檀家を持たない祈祷寺。回向寺は先祖回向を行う寺という意味で、一般的には自分が行った善行を、他者の利益として差し向けることと言う意味で、良いことは回って戻ってくるという言葉でもある。江戸時代は檀家制度が確立され、檀家が寺院を経済的に支えるという関係性のある寺となっていた。
祈祷寺は多くは将軍や大名などが先祖供養の回向寺とは別に、利益祈願や一族の繁栄、戦の無事などを目的に建立した。庶民も江戸時代には、先祖の墓を設置し先祖供養を行った回向寺とは別に、無病息災、家内安全、商売繁盛などの個人利益をお願いしに行く祈祷寺は需要な関係にあった。江戸時代は、厳しい寺請け制度の元で厳格に管理されていたものの、二つの寺院へ出入りはそれほど規制はなく自由だったと云われている。
広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に幕末、文化、文政(1818~1829)年間の頃は「権大僧都、蜜雲権月法印」が妙音寺の修験者(山伏)であったとある。修験道は、古来、山々を神として崇拝した山岳信仰をもとに、神道・仏教・道教が融合して生まれた宗教で、険しい山にこもって難行苦行することにより、特異な法力や呪力、験力を獲得できるとされています。
広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」に「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。
妙音寺は開山の時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。
妙音寺には遠く湯沢や羽後町からも信者が出入りしたとされる。修験者(山伏)となって各地で修業し現世の利益を庶民に説き支持されたから、慶長19年創建から明治の廃仏毀釈まで約256年間続いたものと思える。ご本尊は佐竹氏の国替えの時、常陸から一緒に持ってきた約70cmの「千手観音像」。黒滝源造氏がこの地を離れるときに本家に預けた。この像と歴代墓地に接すると「妙音寺」の栄華がしのばれる。
黒滝の子安観音
妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない。
現在も集落では観音様の講の行事は続いている。この観音講は黒滝子安観音ではなく、岩清水神社を祀っている。岩清水神社を地元では観音様と云い、毎年5月上旬に講が開かれ神主が祭礼を司っている。ご本尊は石造の像右手には宝剣、左手には如意宝珠を持っている。右手の宝剣は不動明王の持物で、左手の如意宝珠は観音の持物とも云われている。一時期ご神体が盗難にあい別のものを祀ったとの説もあるが真偽は定かでない。キリシタンとの関連性については今の処わからない。
キリシタンと妙音寺について「妙音寺を偲ぶ 2」で追跡してみたい。
※ 上記の黒滝明神は旧妙音寺の跡に建てられている。この場所から150mの処に黒滝神社稲荷大明神、天正2年(1574)5月造立があったとされる。妙音寺が開山される40年前になる。現在は存在しない。廃仏毀釈で壊された可能性もある。今ある黒滝明神と関連あるのかは不明。
銀杏の大木を伐ったら禍が続き、鎮めるために祠を建てたとの説がある。
先日、首都圏からUターンのI氏が「道端の石の文字、車ではなく馬でないのか」と話し出した。突然の話題で「場所は」と話したら、「村の通りのリンゴ畑、少し離れて六地蔵様がある。その場所を通る度に不思議でならない」という。しばし?。「石碑だと古くなると文字の一部が欠けることがある」等々。「車と馬」との話で混乱した。
その夜自宅に帰ってもI氏の「車?、馬?」が頭から離れない。旧龍泉寺の山門「山門禁葷酒」のことではないかと気づいたのにそれほど時間はかからなかったが、なぜ車と馬なのかすぐには理解できないでいた。葷酒の酒の文字が土に埋まって、「山門禁葷」と見えるのは極めて日常的な光景なので、特に違和感はなく過してきた。しかし始めて目にした人には理解できなかったらしい。禅宗のお寺の山門前にある「山門禁葷酒」または「不許葷酒入山門」はよくある。菩提寺の神応寺にこの碑はない。現在旧龍泉寺跡には「榧の木」と「六地蔵」と「山門禁葷酒」の碑が残っている。この碑にリンゴの枝が覆いかぶさり、一般的に歩く人しか目につかないらしい。
2015.6.13 旧龍泉寺山門前「山門禁葷酒」
「山門禁葷」葷の文字の「くさかんむり」が「4字くさかんむり」の++なっている。氏はこの++と「わかんむり」冖を見落として読んでしまった。だから「山門前に止めるを禁じたのは車ではなく馬」の間違いとの説だった。「4字くさかんむり」の++が中央で大きく離れ、縦線が中心に向かって斜めになっている。現在「くさかんむり」は「3字くさかんむり」で、「4字くさかんむり」は使われてはいない。わかりやすくするために文中の++は記号文字で表記したが、本来は++は中央ではなく文字の上に表記で「4字くさかんむり」となる。
2015.6.22 旧龍泉寺山門前
赤い帽子の地蔵さんは六地蔵、参道の両側はリンゴ園。白い標柱は「龍泉寺跡カヤの木」とあり平成10年11月、旧稲川町教育委員会が建てた。
「山門禁葷酒」または「不許葷酒入山門」について、ウィキペディアには次のように解説している。
「大乗仏教や道教においては、殺生を禁ずる目的から、動物性の食品(三厭(さんえん)、すなわち獣・魚・鳥)を食べることを禁じられた他、「葷」(くん)と呼ばれる臭いの強い野菜類を食べることもさけられた。
多くの場合、陰陽思想に基づく「五葷」(主にネギ科ネギ属の植物であるネギ、ラッキョウ、ニンニク、たまねぎ、ニラ)を避けるのが特徴である。ネギ科ネギ属の植物は、硫化アリルを成分として多く持っており、これが臭いの元となっている。『説文解字』は「葷」を「臭菜也。从艸軍聲」(臭い野菜。部首は草冠で音は軍)と説明している通り、本来はネギ属の植物を指していたが、なまぐさと訓読みするように、現在の中国語では主に「素」(そ)の対義語として、動物性の食品を指すように意味が変化している。
禅宗などの寺院に行くと、「不許葷酒入山門」あるいは「不許葷肉入山門」などと刻んだ石碑が建っていることが多い。これは「葷酒(葷肉)の山門に入るを許さず」と読み、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだものは、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である」
車社会になり歩く人が少なくなった現在、道路脇の「山門禁葷酒」の碑にほとんどの人は関心を示さない。今回偶然に話題に上ったが多くの人は碑があることを知らなかった。道路脇のこの碑は歩けばすぐに目につく。車社会で道路、街道を歩いているのは車の運転できない人、運動のため、小学生等に限られてきている。「くさかんむり」に軍(ぐん)という文字「葷」の文字は初めての人が多かった。だから本来、土に隠れている酒の文字があることに気がつかない。「葷酒」(くんしゅ))の文字は遠い過去の言葉になってしまったのだろうか。酒のことを「般若湯」(僧の隠語)は聞いたことがあると云う。浄土真宗には「御酒海」がある。
お酒はなぜ「般若湯」というのか(http://www.kongokaku.org/faq/faq5-12.html)に次の記述がある。
「仏教徒が守るべき日常生活における規則に「五戒」というものがあります。五戒とは、よく知られているように、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の五つです。
これら五つのうち、最後の不飲酒戒の場合は、酒を飲むこと自体をいましめたというよりも、酒を飲むことによって、前の四つの戒めを犯しやすくなるからという理由によって制定されました。こういった戒律は日本に伝わってくると、日本人は「酒を飲むこと自体がいけないのではないから、酒を飲んでも他の悪いことをしなければよいはずだ」と解釈するようになった。
、、、、。
「般若波羅蜜多」・「般若の面」などで知られてる「般若」というのは、単なる人間の知識や知恵ではなく、真実を見抜くさとりへの智恵ということで「般若湯」とよんだ。とある。(一部省略)
龍泉寺は天正元年(1573)岩崎城主の息女能恵姫が、川連城主の嫡男挂之助に嫁入りの途中皆瀬川の龍神にさらわれた。龍泉寺はその菩提をともらうために建立されたと言い伝えられている。明治22年火災のあと川連町野村地内に移った。龍泉寺は創建から約440年になる。この碑「山門禁葷酒」、「榧の木」、「六地蔵」は川連集落地内の旧龍泉寺跡に残っている。これは貴重な歴史遺産で大事に来世につなげたいものだ。
能恵姫の伝説は湯沢市の岩崎から川連、東成瀬村の赤滝が舞台となっている。岩崎氏の居城である岩崎城には姫を祀る水神社が創建され、菩提寺である永厳寺に供養塔がある。旧龍泉寺跡の榧の木の根元には姫の供養塔の祠がある。現在の祠は昭和37年9月、麓の「川崎うん」さんが発願主で川連地区の63名の協賛者で再建された。祠の中に協賛者の氏名と再建額1万2千4百円と記録されてある。先日親戚の葬儀で一緒になった龍泉寺現住職さんから、約40数年経過し傷んできた祠の再建の話があった。
龍泉寺は曹洞宗。本尊は江戸時代初期に製作された釈迦如来坐像で胎内仏が二躯安置されている。
内沢山神社
集落の「高橋喜右衛門」家から、山神社の覚書「観音社 山神社日記」明治4年(1872)「黒瀧源蔵」著が出てきた。「黒瀧源蔵」氏は明治新政府の「廃仏毀釈」で廃止に追い込められた麓集落にあった「妙音寺」の住職だった。妙音寺住職が「廃仏毀釈」でこの地を離れる時に、本家の「喜右衛門」に「覚書」として預けた。それには以下のような記述がある。(抜粋)
天中天平等 延享三歳丙丑 諸旦那豊楽延 如意満足
奉造立山神宮諸願如音大旦那繁昌之如
国土安穏 二月一二日
別當 麓邑智傳坊 施主久右衛門
とあり延享3年造立の「智傳坊」は妙音寺住職だった。さらに内沢山神社の造立、再建の経過が記されている。
川連 内沢
山 神 社 造営修覆村中信心者
延享 三年丙丑二月十二日造立 (1746)
宝暦 七年丁丑二月十六日再建 (1756)
宝暦十二年 午七月二三日再建 (1762)
安政 六年 未九月二二日再建 (1859)
此度御一新附大山
(西暦編入筆者)
造立が延享3年(1746)で3回に渡って再建されてきたことが記されている。延享3年造立から宝暦11年まで16年の間、2回の再建は何を意味するものだったろうか。現在の御堂は安政6年の再建で156年になる。「観音社 山神社日記」に「惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現」とある。
惣戒師釈迦牟尼如来奉造立山神大権現貮尺四面御堂所
寶暦十二歳午七月二三日 別當麓村 智傳坊
右同断 干時安政六年未九月二二日 大工重次
導師楽市頭喜寶院慈了
別當祈願師妙音寺教勧 願主両麓村中
家運長久如
明治以前「神仏習合」と云われ、神と仏は一体だった。ウィキペディアに次のような解説がある。
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう」。
また「釈迦牟尼如来」について
「釈迦牟尼如来とはインド各地を巡って真理を広められた仏様。山神社の大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」というのは聖者とか修行に励んでいる人の事。「釈迦如来」の方は「如来」というのは如来自体が釈迦の化身。「如来」は「仏」の中でも最高ランク」。 とあった。
又、山神大権現の権現について
「権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す」とある。
2015.05.12 内沢山神社 貮尺四面御堂所 祭典 奉納 御戸帳
明治27年(1894)8月25日の川連村大水害の時、泥水が山神社の天井まで達したと語り継がれている。内沢の流れから山神社の天井までは約7~8mはある。地形からみると山神社前は内沢本流と滝ノ沢、牟沢との合流点でこの付近が土砂崩れでせき止められて一時的にダムが形成されたものと思われる。「川連水害記」には内沢の土砂崩れ沢がせき止められたのは数十か所あったと記されている。降り続く豪雨でせき止められた箇所が決壊し集落に達し流失家屋11戸、死者5名の大惨事があった。
仮説だが水没した当時、内沢山神社の神体がなかったのでないかと思われる。高度経済成長時代は毎年のように例大祭が行われていたが、昭和40年代後半になって例大祭が不規則になってしまった。このことをに憂慮した集落の建具士の「T氏」が中心になって、例大祭が復活してきた経過がある。当時「山の神様に神体がないということで新たに造った」との話が伝わったが詳しいことは知りえない。
その後集落の「I家」に「神体」が保管されていることがわかり、昭和50年代後半に「山神社」に再安置された経過がある。「I家」にいつごろから山神社の神体が保管されていたのか現当主に尋ねたが詳細はわからなかった。「黒瀧氏」が明治の「廃仏毀釈」で「神体」が破壊されるのを恐れて「I家」に預けたとも想像できるが確証はない。
明治新政府は慶應4年3月に発した太政官布告(通称神仏分離令)、明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされ、「廃仏毀釈」で「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭が行われた。寺や神社の廃止や統合があったとされるが仏像の「神体」は現在も各地に存在している。2015.11.25「小沼神社と仁王門」で紹介した「小沼神社」には「十一面観音菩薩立像」と「聖観音菩薩立像」の2体が安置されている。
2015.05.12 内沢山神社 祭典 鳥居の御払い
2015.05.12 内沢山神社 祭典
今年は内沢山神社造立から269年、現在の山神社の再建から156年になる。御戸帳も新しく奉納され造立、再建で守られてきた内沢山神社が集落の協賛で豪雪の被害から修復され、例祭も厳かに執り行われた。山の神様は例祭を境に川連の田圃の神様として、川連野を見守っている。
ハガキ「河鹿沢通信」60号 2001.5.20
この場所は右の進むと「オヤシキ」、「ナツギャド」へ続き、左に向かうと「ムサワ」、「タキノサワ」へと進み,急峻な山道を進むと大滝沢との境になる峰に到達する。峰から左側を少し下ると通称「ウサギティ」(うさぎ平)になる。この地点は平とはいうがそれほど大きくはない。昭和30年代は草刈の馬や「桐沢」から草や柴を背負っての一時休み場、集積地となっていた。この場所へは相の沢林道から両頭神社に出て、小烏(コガラス)の杉林からも山道があったが今は荒れている。
内沢の山神社は、集落では「山の神様」の名で呼ばれている。平成23年から4年も繰り返された豪雪で屋根などの壊れが酷く、今回集落の住民にお願いして浄財を仰ぎ改修工事が行われることになった。山神社は、冬は山を守る神様、夏は田んぼの神様になる。米価暴落で米の生産意欲が低下気味だが、古くから代々守り続けたきた「山神社」の歴史を絶やしてはならないとの有志が立ち上がり、昨秋に集落に呼びかけ85名から協賛金が集まった。
趣意書のチラシ 2014.10.25
川連、麓集落に上記のチラシが配布された。チラシの中で昭和41年茅葺屋根がトタン屋根工事に、約100名から協賛金が集まった記録が記されていた。
壊れた山神社 2014.9.24
修復後の山神社 2014.10.11
建設中の鳥居 2015.04.23
5月12日、社殿補修工事及び鳥居建設竣工を例祭に兼ねて竣工祭りが行われる。今回「山の神」様修復を地域の人たちにお願い中に、「観音社 山神社日記」明治4年(1872)の記録が出てきた。明治の廃仏毀釈でなくなった「妙音寺」の黒瀧源造氏の覚書とある。「詳細は「山神社修復と神体 2」
鍋釣山を正面から見て左側、頂上付近から約80mほど下った稜線に「遠矢の松」(とやのまつ)と呼ばれている場所がある。平成19年3月発行の「続稲川今昔記 いなかわのむかしっこ」(佐藤公二郎著)には「槍が数本刺さったような枝ぶりの大松」とある。
いなかわ広報平成5年6月10日号「いなかわのむかしっこ 川連の由来と伝説」に「遠矢の松」の記述がある。(原文 佐藤公二郎 )
天喜5年(1057)前九年の役の後、源頼家、義家が出羽の国を巡視した際、賊の残党の備えるためにこの地に、仮の城を程ケ岡(保土ケ岡城、八幡館、古舘ともいう)に築いたと伝えられている。川連地区にはこの時の源義家につなんだ伝説が語り継がれている。
その一は岩清水の伝説、その二が「遠矢の松」。次のように書かれている。
「根岸の小坂山(また、鍋釣山とも)の中腹にある松の木を、とうやのまつ(遠矢の松)と呼んでいる。義家は、不思議な白鹿が通るのを見て、これを射止めんと追ったところ、そこで影を失った。すなわち神霊の示現(神仏など不思議な霊現を示しあらわすこと)だとして小祠(ほこら)を建ててこれを祭ったという。(現在、小祠はない。松は何代目のものか、戦時中、松根油の材料のため伐られた」。
下の写真の枯れた松のあるところが通称「遠矢の松」と呼ばれている場所。
「遠矢の松」枯れた松 左端はベニヤマザクラ 集落から望遠レンズで 2015.4.24
今回、鍋釣山の「遠矢の松」の場所を尋ねた。鍋釣山の西斜面の雑木林約6haは麓集落管理。昭和30年代後半まで集落の薪林で、集落に全戸参加の薪にする木の伐採は3日連続の作業だった。斜面は平均30度近い急斜面が続く。「遠矢の松」の場所は稜線になっていてやや緩い斜面になっているが急斜面に変わりがない。松は赤松。
今回、相の沢の林道から「小烏」(コガラス)の川連集落の杉林を通ると鍋釣山の頂上には比較的簡単に登れる。ただ平成4年に「天然林育成事業」実施後、手を加えていないので、鍋釣山頂上付近は雑木が密生し歩くのは困難になっている。「遠矢の松」の場所は頂上付近から下ること約80m程、海抜約380m程の場所になる。(鍋釣山は海抜444m)
70数年前 松の掘リ返された跡 2015.4.24
松根油について「Wikipedia」に次の解説がある。
「松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった」。
「松根油の製造には老齢樹を伐採して10年程度経った古い伐根が適しており、収率は20%–30%にも達する。新鮮な伐根では松根油の収率は10%程度である」。
20数年前まで掘り返えされた松の木が無残な姿で見られた。現在はほとんど残っていない。下記の写真の中央部に苔の生えた松の残骸があった。当時の松の一部かも知れない。倒れた姿がマツ枯れものと違う。倒れた姿が20数年前に目撃した方向と一致する。苔の生えた石。言い伝えの「遠矢の松」の小祠(ほこら)とこの石は関係があったのではないかとも思える。急斜面の周りにこの石以外連想されるものはない。それとも戦時中、松根油の原料調達で周りの土が掘り返されて小祠と思われる場所も埋没してしまったのだろうか。
倒された松の残骸? 2015.4.24
松根油製造には松の老齢樹が適していると云われ、鍋釣山の最大樹齢と思われる「遠矢の松」が狙われ、掘り返されたものと思われる。敗戦濃厚な時代、若者のいない集落で急峻な鍋釣山
での松の木を掘る作業の苦労は偲ばれる。その後「遠矢の松」の場所の松の木は10年程前から松くい虫の被害で枯れ始めた。現在この場所で最大の松、胴回りが約3m近い推定約150年以上の木もついに枯れてしまった。倒れもせずに立っている枯れた松は13本ある。現在この場所に残っている松は直径25㎝等の2本になったしまった。猛威のマツクイムシ被害ですべての松の木が無くなろうとしている。あたりを見回しても幼木も見つからなかった。
枯れた推定150年の松 2015.4.24
言い伝えの「遠矢の松」は戦時中の「松根油」製造の犠牲になり、平成になって「松枯れ」で歴史の舞台から消え去ろうとしている。
麓集落に鎮座する八坂神社の例大祭は7月14、15日だ。かつては旧暦の6月14、15日だった。今年の例大祭は好天の中で執り行われた。
神社鳥居2014.7.15
約樹齢300年の杉木立に囲まれた、鎮守の森の名にふさわしさの中に八坂神社は鎮座している。八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)で御神体は「祇園牛頭天王」の木像になっている。「素戔嗚尊」と「牛頭天王」は神仏習合時代は同体だった。
祇園とは、京都の八坂神社の旧称ともいわれ、「牛頭天王」はさまざまな説があるが歴史的にはインド、中国、朝鮮、日本と伝わってくる中でその土地の神々と習合して、明治の神仏分離令までは祇園社と称していた。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。昭和58年に川連漆器の蒔絵師に修復してもらった。一説には「新羅国牛頭山に祭られている「素戔嗚尊」を山城国愛宕郡八坂郷(現在は京都府東山区祇園、八坂神社一帯)に遷し祀ったと云われている。疫神(厄病をはやらせる悪神)として性格が強く、病気払いのの夏祭りをしたことで人気を博したと云われている、「牛頭天王」はの神格は防疫神、鎮守神として定着してきたといわれている。
現在の社殿は寛成12年(1800)の造営で、秋田佐竹藩主の臣で横手の岡本代官が来村の際「自分の家の氏神と同じで、もっとりっぱな社をつくるよう」と命じられ、現在地に造営したと云われている。300年ともいわれる杉木立、低地にはめずらしいブナの古木から推定してみると寛成12年以前にこの地に社殿があったのではないかと思われる。現在の社殿が214年経過、鎮守の森に相応しい古木が約300年と云われている。現在の社殿約85年前からこの森は形成されていたことになる。先のブログ「二つの古絵図」に約366年前の絵図に現在地の場所に神社の記述が見られる。「いなかわ広報」平成9年7月10日号の「いなかわのむかしっこ」八坂神社・八幡神社由緒沿革概要に、「社殿は寛成12年(1800)の創建」の記述がある。創建の意味は「初めて創る」と云うことなので何かの間違いではないのかと思われる。言い伝えでは、近くの平地から現在地の移ったと云われ、移った時期は現在の社殿以前と推定される。
旧長床の場所からの手水舎と本殿 2014.7.15
かつてこの場所に長床があった。子供の頃のこの建物の側はすでになく、茅葺の建物はよい遊び場になっていたが、昭和30年頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められ無くなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。
明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。これが大いに減少させられたのが、いわゆる神社合祀令。この結果、多くの神社が廃止されると同時に、そこにあった鎮守の森は伐採された。神社合祀は神社を行政村1つにつき1つだけに整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むために行われたものとの説もある。八坂神社は村格の神社で見事な森が残された。面積は1ha程、樹齢300年の杉100本近く、海抜150mに自生するブナも樹齢300年はあるものと想われる。
八坂神社 例大祭の祭壇 2014.7.15
今年の例大祭に大館の川連漆器の木地師「小野寺」さんから、立派な「獅子頭」が奉納された。大きな口を開いてみると下顎と舌があった。鼻が黒いので「雄獅子」と云う。「獅子頭」(ししがしら)古くは〈師子〉と書くことが多く、伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で、その起源がより西方の猛獣といわれいる。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり、一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で、眼をいからし、耳を立て鼻孔を開いたすさまじい表情で、一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け、それぞれが動くように工夫されている。獅子舞は幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして 古くより伝えられ、 獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがある。そして五穀豊穣祈願した。
奉納された獅子頭 2014.7.15
八坂神社の例大祭の神事は午前11時に始まる。今年の神事には神社総代三名と麓総代、大館総代と神社係が各地区の氏子の代表として列席した。いつの時代からか当家は八坂神社の責任総代の役を務めている。祭典には昭和30年代から麓の氏子の寄付で奉納花火が打ち上げられる。氏子の栗林君は二代に渡って花火師だ。前日の宵宮に連続花火が打ち上げられた。昨夜の花火は18連発だった。かつては各地でそうだったように祭りに余興等が昭和30年代まであったが、今は祭花火だけになっている。例大祭が終わると一年の半分経過したことの重さを実感する。かつて例大祭は旧暦の6月14、15日は田植が終わってホットした時期だったが、近年の田植作業は機械化され田植時期も手植え時代よりも約20日程早くなった。
八坂神社の例大祭が終わると田んぼの稲は出穂期を迎える。春先にエルニーニョ現象で冷夏が心配されたが予報がはずれ、田植期から順調な天候で出穂を迎えた。米つくり50年以上になるが今年の稲の姿は惚れ惚れするくらい見事だ。田んぼは穂揃い寸前。田んぼの一番晴れやかな季節になった。稲の出穂のころ秋田は夏まつりを迎える。秋田の「竿燈」3日から6日まで、今年は過去最多の270本の稲穂を象徴する「竿燈」が登場。能代市の七夕行事「シャチながし」は6、7日、今年の城郭型大型灯籠「天空の不夜城」は高さは青森県五所川原市で運行される「立佞武多(たちねぷた)」の23mを上回る23.5mで、「日本一」という触れ込み。湯沢市の七夕行事「絵どうろうまつり」は5日から7日まで行われる。秋田の夏は熱い。