いなかわ広報 昭和47年11月5日号の「町の歴史と文化」で関 喜内氏の記事がある。宝暦九年(1759)生まれで享和元年(1801)肝煎りに推され、文化三年(1806)に自ら福島の伊達に行き養蚕の研究をした。文政三年佐竹藩の藩内に養蚕を奨励されるように進言し、秋田藩の養蚕方の養蚕役所の支配人を命じられた。この記事に関家所有の川連村・大館村の「古絵図」があった。このほど「古絵図」の現物のコピーを手に入れることができた。解説するために現在地の名を張り合わたのが下記のものだ。(地名等挿入筆者)「古絵図」は関喜内氏が生まれる前の時代のもので、肝煎りになってから手にいれたのかもしれない。
川連村・大館村古絵図一部(川連集落)享保16年(1731)
下方の道路は現在の国道398号線。当時の小安街道は蛇行しているが現在の国道398号はまっすぐに昭和になってから改良された。平城は現湯沢市役所稲川支所。現在の国道13号線はかつて羽州街道と呼ばれ江戸時代の参勤交代のため整備されたといわれる。羽州街道は、奥州街道から岩代国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠や奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県・秋田県)に入る。
横手市の「ふるさと栄会ホームページ」に「栄地区の東山道」(推定)の記事がある。東山道の起点は、近江の国(滋賀県)瀬多(瀬田)で、終点は宮城県の多賀城まで、のちにY字状に分かれた。―つは陸奥の国(岩手県)の胆沢から志波。もう一つは出羽の国(山形・秋田)の秋田城まで(推定)。距離にして1000㎞を超える。
多賀城から陸奥と出羽に分かれた東山道は、出羽(山形県)尾花沢(玉野)→舟形(避翼=さるはね)→金山(平戈=ひらほこ)→平戈山(一説には前神室山)→秋の宮→横堀→御返事→宇留院内→稲庭→川連→東福寺→大倉峠を越えて増田(真人)→沢口→亀田→明沢→馬鞍→楢沢→大屋沼→大屋寺内→大屋新町→美佐古(みさご)→婦気大堤→横手(一説には平城)まで推定されている。(引用)
上記の解説で江戸時代前の古道は現在の国道13号線沿いではなかったことがわかる。上記の記事から推定するまでもなく、旧稲川は約800年前の小野寺の居城の中心地でこの東山道が主要な街道だったと推定される。宇留院内から旧稲川町に稲庭→川連→東福寺→大倉峠を越えて増田(真人)に向かったとなれば、川連集落を通って東福寺に行ったことが推定される。
上記の絵図上で川連城へ通じる中央より右側の①の路はすぐ下にかつての三梨城があった。上記地図で左側の八幡神社と八幡館の間の「山田の坂」を通り仙道に出て東福寺から大倉に入れば牛形城があった。旧稲川町の城があった山沿いの東側が主要な街道と考えるのが自然なことだったと思われるが、上記の古絵図の約130年前の慶長2年(1597)稲庭城、三梨城、川連城は落城、この絵図に記載はない。
古絵図にある「妙音寺」は明治政府の廃仏毀釈で廃寺になり、「龍泉寺」は明治22年の火災で現在の野村地区に移っている。現在②に道路がある。昭和になって造られ、昭和50年ごろ舗装されているが舗装前には木の切り株などが見られた。この古絵図で④が気になっていた。かなり大きな湿地とみられる。川連集落は数千年にわたって内沢の扇状地として形成されてきた。集落、田んぼで約230ha程だろうか。近年だと明治27年(1894)の大水害で集落は瓦礫の山だったことが記されている。湿地が何回かの水害で埋られてきたのかもしれない。④の場所は現在宅地になっている。明治27年の水害の記録はブログ「川連水害記」2013-09-03(詳細)
近年この場所に住宅を改築した友人木村宅に、スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」。直接土を採取することができないので、 土質の判定はロッドの回転する音に頼ることになる。換算N値(地盤の硬さを表す地耐力を示す数値)表される。
試験装置は「ジオカルテⅡ」で、調査の結果貫入1mの音がジャリジャリ、(軽打撃貫入、荷重100kN)換算N値が18.4、1.25mは無音、N値5.82mで軽打撃貫入、音がジャリジャリでN値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。
この調査から推定して上記の古地図作成以降、内沢の土砂が流入され現在の宅地、畑になってきたことがわかる。そして古絵図上の新堰は④の下で蛇行しているが、藩政時代の新田開発で古地図上の③の位置まで水路が延長された。その結果④の湿地と思われる場所の排水が改善されたとも推論される。昭和49年の圃場整備事業で和堰が無くなり、かつての新堰が皆瀬川から五ケ村堰を通りほぼ昔の堰形を流れ、川連地区約100haの田んぼを潤している。
下記は古絵図に書かれていた部分の拡大したものだ。享保16年(1731)の書状で、境界が83年前の慶安元年(1648)と変わりがないと川連村、大館村の肝煎、長百姓連名で書かれている。上記の古絵図は今から366年前の集落の地図ということになる。
「此度川連村之内大館村高被分置候ニ付、田地山境ニ御見分之上大館村分慶安元年書抜帳、面之通境限御朱引被成置申通、川連村大館村高入組無是候尤他郷境共ニ相印指上甲通、御絵図表相違無後座候、為其肝煎老百姓印判仕指上申候以上」
享保十六年 亥五月十日
川井権八殿 川連村肝煎 弥左衛門
戸橋造酒殿 同村同断 彦右衛門
永井久助殿 同村開肝煎 七郎右衛門
同村長百姓 市左衛門
同 断 新右衛門
大館村肝煎 円右衛門
同村長百姓 藤右衛門
下記の古絵図は上記より新しく藩政時代から明治5年頃のものと云われている。前の古絵図の約150年後と推定される。いなかわ広報「町の歴史と文化 大館村古絵図」で当時、秋田県は二十大区にわかれて、大館村は第十六大区の第二小区に属し、全県が七大区編成に改められる明治六年七月まで一年五ケ月続いた第二小区の取締所に差出した絵図。古い絵図よりもイラスト風の古絵図になっている。広報いなかわ(昭和56年4月25日)
道路ほぼ同じで明治の廃仏棄釈でなくなった「妙音寺」、古い絵図と現在まであった「平城」が記されていない。先の絵図④の湿地とみられる場所の記載は無くなっている。絵図に館山(川連城)、黒森山の境が東福寺山境になっているのは実際と違うようだ。村の大きさは一間が6尺5寸(197㎝)で測られ家の数131軒、借家16軒とある。大館村の内、現在の大館集落は本郷大館村家数95軒、麓は支郷根岸と呼ばれ家数36軒とある。現在の大館集落は約520軒、支郷根岸麓集落は54軒になっている。
この古絵図に「大館村支郷根岸」との記述がある。現在も川連集落を「根岸」と云う人は多い。「根岸」の地名や字名はどこにもない、山の麓の村か、城の麓の村から「根岸」と呼ばれたのか今のところわからない。いつごろから、どうして「根岸」と呼ばれるようになったのか知る人は村にはいないが、現在も「根岸」の呼び名は通用している。この古絵図で「根岸」の呼び名は藩政時代から使われていたことがわかった。東京都台東区の根岸の地名は多くの人に知られている。この地名の云われは「上野の崖の下にあり、かつて海が入り込んでいた頃、木の根のように岸辺がつづいていたためといわれる」。今も麓だけではなく「上野、川連、麓」三集落を通称の「根岸」とも呼ばれることがある。しかし、若い世代やこども達には通用していないようだ。
先代染谷久七郎の書いた大福帳に弘化14年と書かれたものがある。弘化は元年(1844)から5年(1848)で終わり元号が嘉永になっている。嘉永の次の年号が安政となっている。実際弘化14年という年号はない。弘化元年から14年後は安政6年となっている。弘化元年は考明天皇から始まり慶應2年まで21年間勤め慶應3年に明治天皇と交代している。考明天皇在籍14年を弘化14年と呼んだと推察される。詳しい歴史はわからない。孝明天皇の時代に年号を変えた事情があったものと思われる。
「久七郎」(藤祐)は、明治10年40歳前後で若くして亡くなってしまった。染物屋は「久七郎」逝去後まもなく廃業したと伝えられていたが、「久七郎」(藤祐)の長男が引き継ぎ「染谷久治」の大福帳に明治24年(1889)のものもあり、取引範囲も平鹿、増田、湯沢、稲庭、皆瀬までのと取引の名がある。少なくとも40年近く「染物屋」をしていた。屋号がそれまでの「久七郎」から「そめや」と呼ばれるようになって約160年ほどになる。
天保15甲辰年11月再刊 錦森堂 森屋治郎兵衛板
当時横手で寺小屋か塾に通い読み書き、そろばんの他「百姓往来豊年蔵」を学んだことになる。嘉永五年は10歳前後と推定されるが「百姓往来豊年蔵」の裏表紙に書かれた漢字はとても子供の字とは思えない上手なものだ。親か寺子屋の塾長が書いてくれたものかもしれない。表紙の字はいたづら書きと思われる。表紙の字と裏表紙の字は明らかに違うようだ。大屋寺内在の時学んだ「再刊百姓往来豊年蔵」の教科書を大事に保管していたことに、並々ならぬ向学心を想う。
寺子屋は特に幕末の安政から慶応にかけて全国的に増え、明治に入り小学校教育の成立、・普及・充実で次第に初頭教育機関としての機能が喪失し、明治10年代にほとんど消滅したとされている。寺小屋で「いろは」の読み書きが最も多く、「百姓往来豊年蔵」のような往来を学んだのは極少なかったと云う。湯沢市旧稲川町で当時の寺子屋は駒形の八河塾、稲庭の早川塾等が「いなかわ広報」昭和48年7月25日号、「町の産業と文化」で紹介されている。
寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本。その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての必要な知識を学ぶためのものを使った。寺子屋等で使われた教材を総称して「往来物」と云われている。
表紙裏から1~2ページ
「再刊百姓往来豊年蔵」のページの始めに「第十六代の仁徳天皇と申した方は、難波高津宮に遷都あそばれた」から始まり
高きやに登りてみれば煙たつ
民の竃は賑ひにけり
「高い建物に上がってみれば煙が立ち昇っているぞ。民家のかまどは大いにたかれ、食事のしたくでにぎわっているのだろう」に代表されているように仁と孝・弟・忠・信を説いた。2、3、4ページは図入りで「年中農家調㳒記」等で一年の農作業を解説している。
再刊百姓往来豊年蔵
本文は以下の文字から始まる。
「凡百姓取扱文字、農業耕作之道具者、先鋤・鍬・鎌・犂・馬把・钁・竹把、、、、等之加修理破損、毎日田畑見廻、指図肝要也」「扨又、、、、、」と続く。
「およそ百姓の取り扱う文字、農業耕作の道具は先ず鋤・鍬・鎌・犂・馬把・、、、、等」51個の道具の名がかかれている。そしてこれらの「道具が破損すれば修繕し、毎日田畑を見回り、仕事の指図をすることが大切である」と記されている。そして、「新田開発の御検地役人への対応や年貢米、口米とともに色つきのコメや青砕けまい、モミなど混ざらないように検査しておく」ことなど、そして「家を建てるときは釘や金物を用いてはいけない」等々きめ細かく、質素倹約の精神を説いている。
終わり以下のことを説いている。
「如此其道々弁知、猥不切山林之竹木不掠人之地不致隠田、正直第一之輩者終子孫永、成富貴繁盛之家門、平生仏神叶冥慮事、不可有疑。依而如件」
「このようにして、各々の道をわきまえて暮らす。勝手に山林の竹木を伐らず、人の土地をかすめ取らず、隠田をしないようにする。正直を第一に心がけて暮らす者の家は、しまいには子孫末永く、富み栄える名家となる。正直者に平生から神仏の御加護があることは、疑いのないことだ。以上」
現在使われていない道具、漢字等もあり、読みこなすのは難しい。往来物とは往復書簡(往来)の形式を採った文例集(消息集)に由来している云われている。寺小屋や塾は手紙の読み書きができることを柱にしていた。ひらがなの読み書きが中心で、その後そろばんに進んだと云われる。農民の子供で「百姓往来豊年蔵」など往来物の教材を学んだのは、極少なかったと云われている。
農村向けのものとしては農事暦の要素を織り込んだ『百姓往来』、都市の商人向けのものとしては『商売往来』等が代表的な往来物。日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、読み書きの識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったと、日本の教育史上高く評価されている。
今回「百姓往来豊年蔵」を20数年ぶりに再読しブログとした。「再刊百姓往来豊年蔵」の所蔵は特に珍しいことではないのかもしれない。私の集落の歴史は1000年以上、川連城が築かれたのは「御三年の役」の頃、約500年の城が落城したのが慶長2年(1597)。約950年の「神応寺」は城の落城と同時に焼失。現在地に移って417年、その後1700年前後に火災にあったと云われている。災害と火災によりすべてを焼失。その結果、我家の過去帳、ルーツは宝永2年(1705)以後からでその前は知ることができない。土蔵のどこかに祖先が調べた書類がないかと探してみたが今の所見当たらない。
今回五代前の「藤祐改め久七郎」が当時、寺小屋で「百姓往来豊年蔵」を学んだことを知り少なからず驚きがあった。この齢になって「再刊百姓往来豊年蔵」に巡りあったが、読みこなすのに悪戦苦闘した。当時十歳前後の子供たちが学んだことに驚きも倍加した。今回約150年前の教科書と巡り合えたことに感謝したい。
ブログ「新河鹿沢通信」は「暮らしの中から 足跡 集落 身辺雑記 跳躍」を主題にしている。主に1000年を超えている集落を中心にしている。ブログ今回100号のテーマをかつて寺小屋の教科書といわれた「百姓往来豊年蔵」とした。これは我家のルーツに深くかかわったていたからでもあった。
各地の集落に「庚申塔」の石仏が建っている。あまりにも見慣れた風景なのか地域住民は特に関心を示さない。川連集落には秋田県内で最大と言われる「庚申供養塔」がある。県内を調べたわけではないが今から10数年前、地区の役をしていた頃一つの電話があった。象潟町の本藤さんと言った。川連の集落を回っていたら「庚申供養塔を見つけた。新しいしめ縄があり奉りをしたらしいので詳しいことを聞きたい」ということだった。毎年5月地域の講でまつりがおこなわれ、その祭りを司る宮司さんを紹介した。下記はその時の秋田魁新報の記事だ。
秋田魁新報「農」石碑・石仏をたずねて 「庚申供養塔」(稲川町)
この記事によれば秋田県内で最も巨大な庚申塔だと記されている。法量(仏像の大きさ。立高・座高を髪際から測り、丈六・半丈六・等身などとよぶ) 高さ360㎝ 幅76㎝ 建立寛政6年6月(1796)とある。風化が激しく現在は建立年月日の判読は困難になっている。この石と同じ石質の石は集落内にはない。推定で2トンもあろうと想われる巨大な石をどこから運んだのだろうかと興味は尽きない。石碑の文字の庚の部分に斜めに亀裂があり、セメントで補修されている。いつの頃にどのようにして修復補修されたのか知っている人は集落にいない。一部に陸羽地震、明治29年(1896)説もあるが確かなことかわからない。
川連「庚申供養塔」2013.4.16
庚申供養塔とは大辞泉によれば「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛または、神道では猿田彦の神を祭り、徹夜する行事。この夜眠るとそのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものになった」とある。仏教で「青面金剛童子」や「帝釈天」、神道では「猿田彦」の名で庚申塔が建っている。
八坂神社境内にも「青面金剛童子」150㎝、95㎝、75㎝三体ある。寛政4年(1792)建立「寿命長久」は当時の人々の不老長寿の祈りのしるしと云われている。上野の八幡神社に「庚申供養塔」高さ150㎝、「青面金剛童子」高さ140㎝がある。こちらは天明5年(1785)に建立されている。さらに市道野村~川連と上野からくる十字路に約70㎝ほどの「庚申塔」がある。建立年はわからない。この場所にかつて通称「宿の番小屋」が建っていた。
八坂神社「青面金剛童子」三体 2013.7.15
県内最大と云われる「庚申供養塔」、八坂神社内の「青面金剛童子」も寛政年代の建立。
八坂神社はかつては現在地から約400mほど離れた所にあったと云われている。秋田佐竹藩主の臣で横手城の岡本代官が来村の際「立派な社を造るように」と命じられ、社殿が創建されたと言い伝えがある。2011年豪雪で損傷した八坂神社。一部解体したら二つの「束」に墨で寛政12年(1800)の文字と川連村 大工棟梁 虎吉の名があった。八坂神社の寛政12年の創建が明らかになった。
大雪被害補修の八坂神社 中央の左のブナの横の石塔が「青面金剛童子」2011.08.28
束の文字 寛政十二歳 かのえ申 八月二一日 2011.08.28
湯沢市稲庭町の約5mもある巨大な「青面金剛童子」塔は寛成12年(1800)で、「青面金剛童子」では秋田県内最大のものでないかといわれている。川連「庚申供養塔」から6年後建立。稲庭町の「青面金剛童子」と川連の「庚申供養塔」は6㌔程しか離れていない地域で、なぜ巨大さを競って建立したのだろうか。
この庚申(かのえさる)の日というのは、暦に従って60日おきにめぐってくる。たいていの年は、一年に6回、庚申の日がある。旧暦では平年は353~356日、閏年は383~385日あるので、年によっては、一年に庚申が5回しかなかったり、逆に7回あったりするということも起こる。これらは、それぞれ「五庚申の年」「七庚申の年」などと呼ばれて、人々によって特別に意識されていた。寛政の七庚申は寛成3年の年。寛政12年は60年一回の庚申(かのえさる)の年。
「五庚申の年は不作、七庚申の年は豊作」と言われている。七庚申も不作との説もあり、五庚申や七庚申の年に「庚申塔」、「青面金剛童子」を立てるという習わしが、東北地方にあったとされる。川連の「庚申供養塔」は六庚申の年、稲庭の「青面金剛童子」建立年は寛政12年(1800)の庚申の年だった。
庚申塔の造塔は、享保年間(1716~36)、安永年間(1772~81)、寛政年間(1789~1801)と3つのピークがあったとされる。文字塔では安永を境にしてその数を増そうとしている。安永年間までの文字塔 では、「庚申供養塔」としたものが多いのに対して、天明年間(1781~89)や寛政年間には、ほとんどの塔が「庚申塔」としているのが多いと一般的に云われているが川連の県内最大と云われる寛政6年建立のは「庚申供養塔」となっている。
「天明の大飢饉」(1782年から1788年)があった。天明3年3月12日(1783年)岩木山が噴火。同年7月6日浅間山も噴火する。東北地方の冷害や、悪天候は1770年頃から続いていたらしく、両山の噴火は、東北地方に壊滅的な打撃を与えた。東北地方の農村を中心に、餓死者が全国で数万人(推定で約2万人)と云われている。
この年代に集中して建立されたのに、「寛成の改革」との関連性があったのではないかと推論してみた。寛政の改革は、天明7年(1787)から寛政5年(1793)に松平定信によって行われた改革。田沼意次に代わり政権の座についたのは、8代将軍 吉宗の孫である松平定信でした。この松平定信が行った改革は吉宗による享保の改革を理想としたもので、非常に堅苦しいものだったと言われている。
寛政の改革は、どのような結果を生んだのか。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶといふて夜もねむれず」、「白河の清きに魚のすみかねて、もとのにごりの田沼こひしき」という落書が示すように、松平の政治は非常にクリーンでまじめだけど、賄賂などで濁っていた田沼の時代のほうがよっぽど生活しやすかった。あまりに厳しい統制で、不満が高まり、しかも改革自体が反動的なものであったために、松平定信は僅か6年で失脚。寛政の改革は失敗に終わる。
飢饉と改革の失敗は庶民の暮らしは一体どう影響したのだろうか。この時代「庚申供養塔」の建立、「八坂神社」の再建には川連集落、麓の住民には多くの浄財が課せられたこと想像される。庚申は60日毎。他「十八夜塔」、「二十三夜塔」は毎月訪れる。十五夜から八日過ぎた二十三夜の月は、真夜中頃に東の空から昇る。1日で約50分月の出が遅れるので真夜中まで一緒に行動を共にし、絆を確かめ合った。各地でこれらの石塔の建立がこの天明の飢饉から寛成時期前後に多いのはそれなりの理由があることなる。
抑圧されていた庶民に一揆が起こることを憂慮して、集会は悉く制限されていたと云われていたこの時代。庚申の日や十八夜、二十三夜の夜はこれらの塔の前で夜を徹して集まりに制限がゆるやかだったと云われている。もしかしたら各地に、この時代「庚申塔」の建立が多かったのは多くの庶民の反動の意があったのかもしれない。
県内最大と云われる「庚申供養塔」の前を通ると、210余年前の川連の暮らしを思い浮かべる。
今でも岩清水観音様の例祭の日に「庚申供養塔」にしめ縄を飾り、祝詞が奉納される。今年のまつりは5月11日だという。
火まつりについて昨年もブログで紹介した。「麓の火まつり」2013.02.27。10ケ所の集落の境界や辻に雪消え時に祭りが終わると、藁つとに包まれた消炭、御幣、杉の葉を結んだミズナラの杭が付かれ集落の一年の安全が祈願される。今年のミズナラの木は、総代の荒木さんが大雪の中を「かんじき」で雪を漕ぎ調達した極めて立派なものだった。
「奉祭鎮火三柱大神 火災消徐攸」の文字はいつもより太目なミズナラの杭に映える。
お祓いを待つミズナラの杭等 川連集会所 2014.02.23
2013.02.27で詳細を記事にしたが明治43年(1910)開始以来この行事は一回も欠かさず継続されている。近年生活習慣が変わってきたせいか、年によって参加人数に差はあるがほとんど変わりがない。ただ集会所でのお祓いの行事への参加者は年によってばらつきはある。多くが勤めに出るようになりせっかくの日曜日が貴重になったせいかもしれない。下記の写真は第一回からの「火祭宿人名帳」の表紙だ。明治43年2月27日とある。この時代の2月27日は旧暦で開催に決まっていた。だから新暦でいえば春の彼岸過ぎにあたっていた。旧暦から新暦の2月の開催は昭和40年頃。その後日にちの固定ではなく、2月27日前後の日曜日開催は平成に入って、開催会場を集落の集会所で行われるようになって23年ほどになる。集会所開催まで開始当初から、「火祭宿人名帳」に実施宿、参加者、経費の詳細の記載がある。集会所開催以降は集落総会資料に集会日、参加人数、経費の詳細が報告されるようになった。
火祭宿人名帳 明治43年旧2月27日 梺(梺は麓ふもと、「梺」は国字「麓」は漢字)
今年は近年にはなかった緊迫感のなかでの開催になった。恒例の火まつり開催準備がほぼできた5日前に集落内で火災が発生した。作業場だけで住宅の類焼が防がれたのは不幸中のさいわいだった。火災当日は雪降りで低温、大雪のため集落内の主要道路の排雪ができておらず、車一台が通るのがやっとの状態だった。だから近くからの応援の態勢が遅れ気味。さらに大雪で防火水槽、消火栓等の設置場所、連携が万全だったとは言えない状態。
夕方の火事で多くの消防団員は勤務先から帰宅していない状況下の火災だった。そんな中で消防車がいち早く現場に駆けつけ消火に当たってくれたので、幸い住宅への延焼がくいとめられたことは大きかった。
火事遠景 2014.02.18
麓、川連、上野の三で構成する川連では近年10数年で一回の割合で火災が発生している。茅葺屋根が新しくトタン屋根になり火元だけで類焼はこの50年間ほどない。集落に火事があるたびに消火体制が議論されてきた。川連の上部にかつて田んぼへの水供給の堤(つつみ)が防火水槽の役目になったいた。災害時にはこの堤(つつみ)から、水は集落の幹線道路脇のU字溝を通って、いち早く集落の下部へ到達することになっていた。集落のすぐ下に五ケ村堰が通り水は豊富だ。堤(つつみ)は川連、麓集落の所有だったが昭和50年代に町へ譲渡し大きな防火水槽として整備された。さらに集落内には小型の防火水槽が昭和50年代4ケ所に造られた。そして平成10年頃集落内に上水道が整備され、消火栓が2ケ所造られ飛躍的に消火機能が整備されていた。
しかし、今回この機能がうまく作用しなかった。その原因が大雪のため道路が狭く、消防車や消防団の消化ポンプ車の到着が火災現場に遅れたことと、防火水槽、消火栓、堤からの水の誘導が遅れたことにある。火災が夕方4時30頃で勤めの消防団員が帰宅していない時間帯であった。防火用水の機能が想定されたように働いていなかったと思われる。今回の反省として、集落内の防火水の誘導経路は少なくとも消防団員だけではなく、地域住民が熟知していなければならない。
更に真冬の集落内道路への車の誘導、制限等の計画が必要だった。大雨等の災害マニアルは各地で作成されてはいるが、地域住民が熟知していなければ災害の予防や対策にはならない。かつて集落内の多くの世帯にはため池があり、もしもの時の初期消火に機能した。このため池は集落内の堰からの流れで保たれ、堤の防火水槽とも連動する。集落内ため池の配置図も必要なことになる。しかし大雪でため池やU字溝を止める40キロもある蓋は取り外すことは難しかった。大雪とマイナス以下の低温では仮に作ったマニアルもすべて機能を失ってしまう。今後真冬のマニアルは細心の想定をプラスし、徹底していく必要がある。
今回明治43年から続いている「火まつり」直前の災害。寸での所で大事にならなかったことは限られた条件の中で消火作業が最低機能したからと云える。集落の災害防止のための行事、「火まつり」開催継続の意義は大きい。
内沢入り口 標高185m 2014.02.11
私の自宅は標高156mだからこの地点は約30m高い標高185mの集落から内沢の入り口となる。内沢の入り口は右が旧川連城の古舘山、左側が鍋釣山の地名小坂となる。この場所は私の所有の杉林で平成4年、17年雄勝地方森林組合に委託して間伐作業を実施したので約50年から60年生の杉は見事な林になってきている。スノーシュー散策の目的の一つにこの冬の大雪で杉の被害調査があった。この冬の11月中旬の初雪としては経験したことの大雪は、まだ葉の落ちていないリンゴやクリの木は被害は大きかった。里の大雪被害から想像して杉林の被害はどの程度だろうと、山林の見回りを兼ねての散策だった。驚くことに過去3年被害の大きかった杉林にほとんど雪折れはなかった。
内沢中心部山の神付近 標高229m 2014.02.11
山の神様は内沢の中心部、写真の右側は「オヤシキ」、「ナツギャド」へ左側が「ムサワ」、「タキノサワ」へと続く。山の神様までは集落から約800m。ここまで新しい雪の中を歩いてきて気づいた。昨年行った「カジカザワ」方面と比べて動物の足跡が極端に少ない。昨夜からの新雪を歩いた跡はほとんどない。2、3日前かと思われるのが小さな「ノウサギ」と「キツネ」らしきものが二か所あったが、写真でも見られるようにほとんどない真っ白な林道。山の神様「山神社」はいつの頃から鎮座していのか定かではない。現在の社殿は明治の前半と云われている。100年前の明治27年水害でで社殿まで泥水が上がったとも云われる。この写真の正面で広場から5mほど高い。この雪で鳥居も社殿も雪で見えない。積雪は200㎝は超えているとみられる。
この「山神社」前広場は昭和61年の治山事業で林道が新しくなる前には、程よい岩等があって、休み場所になっていた。草刈やタキギを背負って集落まで下るときの休み場所だった。二方向に分かれる地点で、適当な広さは今では駐車場の役目もしている。
高橋岩治翁の昔語り「お十八夜様」の場所でもある。「お十八夜様」の民話は次のようなお話だ。
「昔信心深い爺様が十八夜の夜にこの「山の神様」におまいりにきた。少し早めに来た爺様が
踏み石に休み十八夜の月の出を待った。十八夜の月の出はやや遅く爺様が山の神様の後ろから出てきたお月様が出てきた頃、「なむ おじゅうはちやさま 家内安全、五穀豊穣、悪邪退散、福徳円満」と願いことをし、帰ろうとしたら体が金縛り状態で動けなくなったと云う。
十八夜とは主に陰暦8月18日の夜の月。満月と言われている十五夜の後、立待月(十七夜)より少し遅れるため、居待月と言い、満月が欠け始める。各地に「十八夜塔」、「二十三夜塔」等が残っている。居待は「座して」待つの意味である。爺様が山の神様の石段に腰を下ろし、一服したその場所から動けなくなったのは十八夜の居待月、座して待つの意にかけた話でこの民話の奥は深い。
金縛りで動けなくなった爺様の所へ、「着ている物以外、顔も手も黒光りした和尚さんが出てきて、鈴コを転がしたような声で、「爺様、爺様。爺様は信心深い人だから宝物あげる。その腰かけている石背負って家に持って行き、家に帰ったらよく見れ」と諭された。気がついたら、その和尚さんも消え、金縛りも解けた。不思議なこともあるものだと思い云われろまま重たい石を背負い休み、休みやっとのことで家にたどりつき、背負ってきた石をよく見たらその石は「コガネの塊」だった。そして爺様は村一の長者になったと云う民話の生まれた場所が、この山の神社だ。(十八夜様は観世音菩薩といわれ、女性たちの念仏講だったとも云われている)
この場所から50m位下がったところは通称「マンゲノコヤ」(万華の小屋)。以前のブログでも紹介したが、かつて文人の多くいた集落で、もしかしたら急峻な山で内沢でここだけ沢が蛇行しやや平らな場所に休み小屋があって、その小屋のあるところを「マンゲノコヤ」と言った。
「山の神様」の目の前で山に入る人の集まりの場所だったかもしれない。集まりの場所から昔語りが生まれたとも想像される。
高橋翁によれば十八夜を次のように解説している。「お十八夜様の十八日の月の出を、参拝することによって、心身の悪邪を払うと信じられている。仏教の十八境界」とある。
大辞泉によれば「十八界」とは「仏語。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、その対象となる色・声・香・味・触・法の六境と、六根が六境を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識のこと」十八境界とある。十八夜の民俗行事は東北地方に多く、十八夜塔も東北に多い。十八夜の民俗で特徴的なことは、正、五、九、十一月の十八日に行われ、餅をついて月に供えた。
内沢上流部土止工 標高285m 2014.02.11
この場所は通称「オヤシキグチ」から100mほど奥地。「山の神様」から700mほど付近になる。
この場所から車が行ける終点まで100mはある。雪が多いので林道の面影はない。側の杉の木から被さっていた雪が落ちてきている。杉の木の枝には樹氷まがいの雪が多く、晴天で太陽も高くなり落雪を心配してこの場所から引き返した。
出発地点に帰り後ろを振り向くと南に面した杉の木から雪が落ちだした。晴天とはいえまだ気温も低く3度前後。落ちる雪がその下のえだの雪をも落とし、雪煙となった。
往復約4キロ弱。周りが杉林だからだろうか。動物の足跡が極端に少ない。新雪の足跡は一つもなく数日前の足跡にウサギ、リス、カモシカ、キツネと思われるものあった。歩いた内沢林道、写真で見られるように真っ白で汚れがない。今では夏でもあまり人の出入りが少ない。まして冬になると誰も来る人はいない内沢林道。
今年は全国的に異常気象だ。各地で最高気温の更新がある反面、豪雨の被害が激増している。一時間当たり50ミリとか100ミリの雨となれば被害はどこでも出る。秋田はこの夏近年では最悪の被害に見舞われた。秋田の中部、北部に被害が集中した。湯沢地方は一部稲が倒れた程度で被害は少なかった。
氾濫した米代川 8月9日午後3時1分 秋田県北秋田市で共同通信社(引用)
秋田魁新報は8月26日以下の報道した。
集中豪雨の被害総額、113億4532万円に 県が明らかに
県は26日、今月9日の集中豪雨の被害総額が113億4532万円に上ることを明らかにした。被災した住民の生活再建に向けた支援策も公表した。9月5日に臨時県議会を招集し、支援策の経費を盛り込んだ一般会計補正予算案を提出する。県議会は即日審議し採決する予定だ。
被害の内訳は、道路や河川といった公共土木施設関連35億2240万円、農作物や農地など農業関連78億2292万円。調査が進めば、被害額はさらに膨らむ見通し。県は、災害復旧関連予算を9月12日開会予定の9月県議会に提出する。
生活再建支援策では、仙北市田沢湖・供養佛(くようぶつ)集落の土石流で亡くなった6人の遺族に災害弔慰金、所有する住宅が全半壊または床上浸水した世帯に災害見舞金を支給する。農作物や農地に被害を受けた農家への助成、住宅や家財に被害が出た人への災害援護資金の貸し付けも行う。(2013/08/26 )秋田魁新報 (引用)
今から119年前の明治27年7月25日(新歴8月25日 1894)私の住む川連は未曽有の大水害にみまわれた。集落の内沢が豪雨でいたるところで土砂崩れ、数か所で沢がせき止められ決壊した。約200ha程の山地に豪雨が集中、決壊し一気に集落を襲った。沢川に一番近い集落の上流部の家屋が流された。不断の流れはわずかで想像さえ難しいが、水の深さが浅いところで一丈、深いところは二丈もあったと記録にある。3mから6~7mと云うのだからもの凄い流れだった。内沢川の氾濫で流失家屋11戸、死者5名を出す大惨事が起きたことが記録されている。
昭和54年8月4~7日にかけて当地区に集中豪雨があり内沢が一部氾濫、床下浸水が4戸ほど出た。幸い人的被害も少なく山の土砂くずれ、田んぼの冠水などが生じたが大きな被害がでなかった。内沢川で濁流をガラガラと鈍い音をたてて流れる石の音は今でも思い浮かべる。湯沢、東成瀬の降雨量は198mmが記録にされており、当地区はその中間点にあって同じような降雨量だったと思われる。
その後、昭和61年度から3ケ年計画で「川連内沢治山治水事業」がスタートし、集落内の水路の改修、内沢、相の沢へ土固工等工事が終了した後、明治27年大水害が話題となり、この「川連村水害記」を知ることになった。記録を残した故西成亀松氏は当時51歳、この水害で娘28歳を亡くした悲しみの記録である。
西成亀松「川連村水害記」明治27年7月25日(日付は旧暦 引用)
その一部は次のように記されている。
「頃は明治27年7月25日也 明治27年以前は20年あまり禄々たる豊年を得る能わば27年に至りて春より豊年の気候ありて夏に至り気候のすこぶるに宜敷。いかなる老人も今年こそは真の豊年なりと万歳を唱え豊年を歌い歓声巷に充満たり。然るに、思いも依らず此の前日24日寒風激しくしかも10月頃の冷気ありて午後6時頃より雨しきりに降り夜半にいたり雷雨益々甚だしく翌日25日に至ると雖も満天暗黒夜明けて明けざるがごとく。
、、、、、午前12時頃思依らざる村頭より大いに浹し濁水、材木、大石ニ丈も高く遮立ってどうガラガラ鳴り響き家屋をくだき宅地を荒らし、老若男女おし流されし。流人何十名、溺死人5名、傷を負うもの何十名後に残りし人々は四方を望めばこれ如何に今までありし家々、並びに五尺も廻りし大菓木、四五尺廻りし大桑木宅地の地までも如く押し流され、村内中の街道は大川となる。残るは廻り一丈余もありし大岩石、大木、小石、砂石、子木にて山林、田畑、宅地にいたるまで広き広き大河原となり久々大いに驚きただ茫然として夢かとおもうばかりなり、、、。」
「さてこの水害たるや我が川連のみならず、秋田県内より酒田県にいたるまで水害に遇ざる地こそなかりけり。而して山岸の地は固より地波なれば別して大害を受けたるもなり。こはいかなる故んと尋ねるに今までこの度よりも大雨は有るなれど地波に有らざるば、若し烈しきときならば沢川端低地を押し上げるのみにて河川うづめられて陸地の河となるす。河川浹路、、、無事故に山岸の住居、人民は水害等は更に心を止めざるに思い依らざる。
故に山岸住居人民は思い依らざる。我が県内人民の死傷並びに田畑家屋の水害を受けたる者の過半なり実に見るも聞くも哀れなりける。」
西成亀松「川連村水害記」部分
下記は当時、初めて富士通のワープロを手にした時で、マニアルを見ながら悪戦苦闘。ほぼ原文に忠実に清書した。勝手ながらカナ書きは読みにくかったのでひらがな書きに変えた。
被害の後内沢に数百か所崩れがあって一番大きな崩れは、内沢の最奥は通称大屋布(オヤシキ)ムジナ岩の西手と記録にある。
「内沢のつき落ちの第一大なるものムジナ岩の西手なり此所に雨乞石と云う大岩あり、此の大洪水にて「ドジョウ」滝の上まで流れ来たるなり、此の大石は昔は日かれの時は村民一同にて雨乞をしたと云う」
ムジナ岩の場所からドジョウ滝まで約500mはある。この大岩は高さ約3m横幅2.5m(推定)もある大岩だった。沢なりとはいえ500m位流されたとなればその水量はすごいことだった。残念なことにこの大岩は昭和61年から3ケ年「内沢治山治水事業」で林道の下に埋められてしまった。大きすぎて重機で林道側辺によせることが難しいということで、大岩の上部を削り林道とした。集落にとって貴重で歴史的な大岩。機会あるごとこの村の大洪水の象徴として発掘を、と呼びかけても賛同者少ない。
今年同様のゲリラ豪雨を彷彿させる明治27年水害。ゲリラ豪雨になれば広範な地域に影響を及ぼす。明治27年水害後の稲の収穫では大きな被害がなかったことが記録されている。今年はどうだろうか。まだまだ不安定な天気。20年前同様、梅雨明け宣言が確かだったろうかと思われる天気が続いている。
大きな災害があると比例するように大きな事件が起こる。明治27年(1894)8月1日、日本は清国に対して宣戦を布告し、日清戦争が始まった。
今年はどうだろうか。今後大きな事件がなければいいのだが、シリアでは連日キナクサイ状況が続いている。大量破壊兵器を口実にイラク戦争が思い出される。さらに消費税、TPP等国民にとって大きな関心ごとが目白押し、将来を左右しかねない分岐点が続く。
古老の話だと、火まつりが始まった明治の後半は集落で火災が多かった言う。当時新築や、近年リホームした家中心に始まり、昭和60年前後まで続いてきたが、生活習慣の変遷で各家中心の「火まつり」は開催が困難となり平成に入って集会所で開くようになって20数年となる。
江戸後期嘉永五年(1852)川連村の村方一統から出された「村方引立相談定書」に火まつりのことも書かれており、火まつりの開催日は各集落でまちまちで一定ではなかったようだ。
明治43年前の記録はハッキリしないが、麓集落の「火まつり」に翌年(明治44年)川連集落の一部が加入し、現在も続いている。開催日は2月の「みずのえたつ」の日だったが集会所で行われるようになって2月の第4日曜日に定着してきた。今回の参加戸数は69戸。
隣の岩手県では今なお盛んなようで、防火を祈願する「火防祭」(ひぶせまつり・かぼうさい)と言われているようだ。
有名なのは、「日高火防祭」(奥州市水沢区日高 4/28~29)。華やかな囃子屋台が知られています。この近くでは、「金ヶ崎火防祭」(金ヶ崎町 4月第3日曜)、「羽田火防祭」(奥州市水沢区羽田 3月下旬)などもあります。 宮古市小国では小正月前後に「火まつり」がおこなわれます。集会所でご祈祷をしたあとで末角神楽が神楽を披露するというものだそうだ。
当地方のやり方は、始まりのころから当番宅で参加者のとりまとめ、参加者は汁碗一杯の白米に消炭(けしずみ)3、4個と決まっていた。その他神事の準備や初穂料、直会等の経費は当番宅持ちで負担も結構大きかった。終わりに次年度の当番宅を決めて毎年継続してきた。
近年、生活様式の変化は個人宅での開催が困難となり、集会所での開催は集落行事として定着。集落代表を中心に隣組中心で開催するようになった。参加料は1000円で20数年は経過した。
祭壇は当日、集会所に設置。祭壇の後ろの掛け軸は、「火伏の竜」で大正7年喜寿の年、常在寺機岳和尚の作とある。
一年の火災等の災難を防ぐため、集落の辻や村境に立てる10本の「ミズナラ」(写真は8本)に消炭入れた藁つと、杉の葉に御幣を一つに結ぶ。(ミズナラはことさらナラにミズがつくくらい火災に強い木と言われている)
この地域と参加者の安全を願い、結んだ「ミズナラ」の木は直径3~4㌢長さ4、50㌢ほど。片面を削り「奉祭鎮火三柱大神 火災消徐攸」と宮司が記し、参加者全戸に配る御幣、お札(ミズナラと同じ文字)、杉の葉を祭壇に奉り八坂神社の宮司さんに祝詞とご祈祷をしてもらう。参加者を代表して集落代表が参拝、参加者一同がこれに合わせて行う。
すべてのセレモニーは約40分ほどだ。終わると宮司から一人一人がお神酒をいただいて「直会」(なおらい)に入り一年の無事を祈る。
この行事が終わると雪国秋田もいよいよ春近いと思うのだが、今年はいささか趣(おもむき)が違う。
火まつり当日は吹雪、秋田のJRは運休。高速道路閉鎖の状態。今日は珍しく晴天。JAは早くも「種もみ」の配達を始めた。また特Aをめざして「あきたこまち」のスタートが始まる。
200X年十月初旬、私は川連地区通称「なつぎゃど」(夏街道)から初めて大滝沢に入った。伝承に寄れば「なつぎゃど」の由来は、川連漆器(800年の伝統)木地業の祖で大滝沢(通称東福寺山)には木地師が居を構え、西部の山を越えた集落川連(通称根岸)への通い道ではなかったのかとの説がある。
大滝沢に「三ツ小屋」の地名があり、その昔三軒の家があったと言われている。「なつぎゃど」ともう一つ「ミツヤツル」がある。オヤシキ口からヒノキタイを通り、通称「かみながね」に上がり大滝沢へと行く。 天仁元年(1108年)藤原清衡が平泉に中尊寺を建立した。京都から招いた木地屋、塗師が建立の後、小組織を成し東北各地の豪族に抱えられたと言う。
山北地方にも豪族が割拠し、藤原氏の地頭職、大河兼任はこの地方にいたらしいといわれている。大河氏は源頼朝が平泉藤原氏討伐の後、頼朝に一矢報いんと反乱を起こしたが圧倒的な頼朝の軍勢に敗れた。兵士のほとんどは四散し、その中に木地師や塗師がおり、隠れ里として大滝沢を選んだと推定されている。 「三ツ小屋」の内一軒は現在の東福寺G家と言われ、大滝沢から現在地に越えてきたとの定説がある。他の二軒は山を越え川連に居を移したといわれていた。
昭和三十七年この地を調査した久保の郷土史家「伊藤雅義」氏の記録には、川連に越えたと二軒の末裔の記述はない。 そのころ私の本家、N(当時稲川町教育長)氏から二軒とはN家上野のS家聞いていた。N家の祖先がいたとされるが現在「N家一族」にその記録は見当たらことから、真偽のほどはわからない。 大滝沢へ「なつぎゃど」を歩いていくのは今回初めてのこととなった。
その道は集落から東へ真っ直ぐ、途中まで軽トラで行き小さな沢を越え、急峻な杉林を上って行く。急峻なため、つい三、四十年前まで「薪やカヤ」などはこの坂道を引っ張ってきた「引き降ろし」道を行くことになる。ときには小柴をつかみながら小一時間かけて登りつめた頂上が集落と大滝沢の分岐点となる。
この沢は、隣の増田町との間に挟まれていて、民家からおよそ四キロ、町の中心部から直線にしてもせいぜい三キロ弱のところにありながら急峻な地形で、開発から取り残されてきたところだ。
この地域はその面積三百五十へクタール、海抜二百五十mから四百五十m前後の比較的低地に位置するブナの極相林で、わが国では、このような低地での極相林は、ブナ帯では極めて例がないといわれている。「なつぎゃど」から大滝沢は急激な峰を下るとすぐ着いた。
三ツ小屋伝説
「三ツ小屋」は東福寺山の綱取沢、との口碑があり「なつぎゃど」の場所は、川連での字名は大館字綱取と言い、東福寺山の綱取沢はその真東にあたる。ミツヤツルもその名前からして通い道だったかもしれない。
伊藤氏の記録に「湯沢郷土史資料」に茂木久栄編「東福寺山略図」に「舎人場」と言う地名があり昭和三十九年六、七月の調査で土中三十?から硯と木堀りの椀らしきものを発見したと言う。 舎人(とねり)と言う名はなんとおごそか名だ。
大辞泉によれば?古代、天皇、皇族の身辺で御用を勤めと者。?律令制で皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官人。貴族・下級官人の子弟などから選任したとある。 「舎人場」とはそれらの人達の住んだ場所なのだろうか。「舎人場」から約三百mの山を越えれば川連と下宿に通じ、里程も四?とある。「舎人場」と「三ツ小屋」との関連はどうなのだろうか。
伊藤氏の調査によればこの「舎人場」の場所を東福寺の大沢口から約六キロの所と言い「昼なお暗きブナの密林、ここまで来ると谷川の巾も狭くなる。ここから奥は、谷川が二本に分かれている所で少々広くなっていた。
舎人場は南東に向かって右手に、山路より急坂の高さ、四mくらいの崖の上で二アール以上の平面の丘である」と書いてあり、墓碑のようなものや生活雑器らしきものを発見し、住居跡に違いがないと記されている。前に大滝沢へは増田町狙半内の火石田から皆瀬村沖の沢へ通じる山路から山越すると大滝沢の奥地には比較的簡単に入れる。
入ってすぐに路があり、これを下ると下方に谷川が見える。私はこの沢が伊藤氏の言う、「舎人場」のある二本に分かれた沢ではないかと思ったが、後に確認してみたいと思っている。
この地は、「なつぎゃど」を通り沢にたどり着いた地点からもっと上流だと思われる。「三ツ小屋」や「舎人場」など何ヶ所に木地師が住み着き、山越えして川連の木地師(椀師)と交流したのか、また冬場は雪も多く夏は頻繁に通ったと考えれば最短な「なつぎゃど」は重要な街道であったことが想像できる。
だから、今でも地域に「なつぎゃど」の路は定着し、何人かは山菜やキノコを求めてこの路を通う。 200X年十月、沢に着いてしまえば路とてなく、歩くのはほとんど沢、中心となった。沢淵の岩場には白い可憐な花「大文字草」がひっそりと咲いていた。秋の日はことさら短く、散策は途中で断念し帰途についた。帰りの行程はあまりにも急峻な坂で頂上まで一時間以上もかかってしまった。
舎人場
大滝沢の東側は増田町狙半内地区、そして西側は稲川町川連だ。川連の山沿いに松倉、次郎多郎、綱取、などいくつもの沢があり沢と沢の間の峰にはほとんど路形がある。
この沢はせいぜい二、三百mほど。峰に立つと両側は斜度三、四十度もあろうか思われる急峻な地形が沢まで続く。ところどころにブナやミズナラ、トチなどが見られる。樹齢は二、三百年とも四百年とも言われている。
「舎人場」から東福寺までは約十?、険しい山を越えれば約四?弱で川連(根岸)だ。川連漆器、椀師は大滝沢からはじまって現在の大館に移ったとされている。そのため椀師にとって「なつぎゃど」は集落との往来に最短で重要な街道だったと思われる。
椀師が大滝沢から生活に便利な、根岸に定住するようになっても「椀」の材料となるブナやトチの木は大滝沢から求めたのだろうから、「なつぎゃど」は数百年も続いた街道と考えるのは暴論だろうか。 原木の一丁とは、平均して直径八寸で長さ三尺六寸をいい、五丁で椀が一挽できた。一挽とは百人前、だから原木の一丁で二十人前の椀ができたことになる。
当時、大滝沢の山奥から原木を背負ってくることなどはそれほど難しいことではなかったはずだ。何丁分背負ったのだろうか。せいぜい四?の路のりは当時なら小一時間くらいではなかったろうか。
現存する古文書「利兵衛文書」に「塗物二投資シテ産業ノ開発ヲ図リ・・・」との記録が残っているのは四代目六之丞(元文四年生1739)と言う。近在の山からの原木だけでは足りなくなり、皆瀬の山奥、栗駒山系から求めるようになったのは天保の頃、記録では二百年ほど前となるのだろうか。
伊藤雅義氏の「川連の木地業と羽後の木地山」によれば、椀三挽を製造販売すれば一年の飯米が買えたという。椀の代金は「利兵衛文書」によれば文政初期から文久年間(1818から1858)まで約四十年間変わらず、百姓の手間賃は一日五十文の時、(ただし田草とり、草刈、稲刈は七十、八十文)塗師百三十文、大切挽百文、挽師は百三十文だったとある。
それまで椀は横木挽きだったところへ、文政年間に鳴子から立木挽の技術が伝えられると椀の他に仏具や膳、盆なども作られるようになったと言う。 立木挽の方が横木挽きに比べて、何でも自由に挽け当時としては画期的だったらしい。この地の椀師は、会津や津軽のように藩の手厚い保護の下で分業だったのと違い、家内一貫作業で消化し、販売まで手がけたと言われている。
大滝沢と川連(根岸)
川連(根岸)は大滝沢との共通点が浮かぶ。大滝沢を超え、「なつぎゃど」の字名は綱取、そして内沢に入る。
内沢に入れば公図に記載がない通称名、エボシクラ(烏帽子くら)、オヤシキ(大屋敷)の地名がある。昔の人達は皆がわかりやすい呼び名をつけたと思う。 東福寺山「舎人場」同様、中世からの名の由来かとも思われる。内沢の最奥を地元では、オヤシキ(大屋敷、御屋敷)と言う。オヤシキとは何から来た名称なのか今知っている人はいない。
川連では椀師が木地から製品までの作業したのに比べて、会津では藩主の保護のもとロクロ師と塗師は別だったと言う。会津藩の保護奨励で「塗大屋敷」を作って分住させて業をした記録があり、内沢のオヤシキもそれと共通する形式があって、名が今でも残ったのだろうか。
ちなみに稲川町に「大屋敷」の名前が残っているのは京政で、現御嶽堂の桂音寺のあった所と言う。オヤシキは、町部の近くでは珍しく今でもブナやトチ等の植生がある。
昭和六十二年森林公団による杉の植栽で、かなりのブナが切り倒されてしまったがそれでも樹齢二、三百年と思われるブナは数十本残っている。今は面積約五十haほどのオヤシキはほとんど杉林となってしまった。
川連の南部、そして稲川町役場東の八坂神社境内から切り崖、天王、黒森、坪漆までのせいぜい海抜百五十m前後の場所にもブナは見られる。八坂神社境内のブナは杉の樹齢二八十〜三百年とほぼ同じと推定される。字名の天王は八坂神社の御神体牛頭天王から、黒森は(日本山名辞典)によれば真黒に樹木が繁茂していることからと言われている。八坂神社境内のブナ以外樹齢は四十〜五十年位とみられる。
写真のブナは大滝沢の集落寄りの峰で撮ったものだ。数十年かにわたって樹の幹から切り、活用されたと思われ根元からの節やこぶは長い年月を感じた。このブナの前に立つと、何百人がこの木と向き合ったのだろうかなどと、先人の思いや哀しさの歴史が伝わってくる。比較して現在国有林等でみられる、根元から切ってしまう皆伐にブナの再生はない。
話題のファイル
昭和五十五年九月三十日の秋田魁新聞は「わだいのファイル」で「大滝沢を平地に珍しいブナの原生林」と大きく報道した。
昭和五十五年「雄勝野草の会」三好功一氏らの植物調査で、ブナ原生林や珍しい植物群落に驚いたことから秋田県自然環境保全審議会に報告、同会も参加して同年九月詳しい調査が行なわれ報道される事になった。
この原生林が手つかずの状態で今日まで来たのは、江戸時代、佐竹南家が《水源涵養林》としてこの地帯の伐採を固く禁じ、その後もこの《禁令》の趣旨が守られてきたことにあると言う。
東福寺村ノウチ小畑沢峯限リ水落チ次第綱取沢水野目林ニ立置ノ間下枝ニテモ木伐リ取ル可カラザルモノナリ
安永三年六月 岡本又太郎
この禁令の立て札が東福寺雲岩寺に保存されていると言われている。
文中、岡本又太郎は佐竹南家の山林取締方、安永三年は(1772)年、今から二三〇年ほど前だ。
昭和五十六年、増田営林署は今まで全く伐木したことのないこの大滝沢国有林を継続的に伐採計画を発表した。流動的とは言いながら年間三十立方?を択伐し、ナメコ栽培など観光特産用に払い下げたいとの意向だった。
その後、昭和五十七年(1982)秋田県自然保護課が「自然環境保全地域」指定の対象地として科学的な調査を行い、「自然環境保全地域等の調査報告(稲川町大滝沢地域の植物と地質)を」発刊し、「秋田県民の財産であり、自然保護、自然環境保全、学術的に」きわめて重要な地域としての立地とともに厳重な保護が望まれる」。
当時「雄勝野草の会」の調査から保護への働きかけとその後の社会情勢は、増田営林署による伐採計画は免れて今日に到っている。
さらに、「いなかわ地域・農業振興推進会議」稲川町農業振興推進指導員で農学博士成田 弘氏が中心になって調査、平成七年林野庁の「水源の森」百選に選ばれたのは記憶に新しい。
さらに成田 弘氏が、トネリ場地区の「木地師遺跡の科学的発掘」調査と保存を指摘してからすでに十数年にもなるが、大滝沢に町としてのアクションは、数箇所に「百選」を示す標柱と入り口までの道路の整備以外ない。
町の伝統産業の漆器との関連の中で、「郷土史とさらに漆器産業の発展にきわめて重要」だと指摘。不況は町の産業にも強く影響している今だからこそ、八百年ともいう地場産業の最発展の足がかりとしても優先して行なうべきと思う。止まったままの時計、地域を揺り動かす理念が今こそ必要と思うのだが。
注
2000年の記録へ一部補筆 参考文献 伊藤雅義著「川連の木地業と羽後の木地山」
今、全国に和尚さんのいない無住寺が増えていると言う。
檀家制度発足以来、地域の限界集落進行、過疎化があの何とか総理の「カイカク、カイカク、市場原理、民営化」、「自民党をぶっ壊す」はこの国の今まであった秩序もぶっ壊し、売国政権のなれのはて、地方の商店街はシャッター通り、過疎化の現実の下で「お寺」の崩壊も確実に進行している。
檀家制度は、江戸時代にキリスト教弾圧のため、どこかの寺に必ず所属することを義務づける寺請制度の導入が始まりとされる。
お寺は明治以降、墓地以外への埋葬が禁じられことでお布施収入を確保し、地域の行政組織に組み込まれて、名実共に地域共同体の核となった。檀家の葬儀、法要をつかさどる住職は肉親と別れた遺族にとってなによりのより所であり、何より心のささえでもあった。
そのあたり前の姿であったお寺に、住職がいないという姿は、檀家にとって言葉で言いあらわせないくらい失望は大きいことだ。
寺ビジネすスは1兆1千億円市場ともいわれ、葬儀サービス業の繁栄することによって、お寺に対する壇信徒の見方も段々とシビアになってきた。
今まで寺は檀家の葬儀や法要での御布施で収入を確保してきた。一般的には檀家300軒がお寺の採算ラインといわれている。
超高齢化社会になってどこの寺に属さない人達も増えていると言われる。お寺には一種独特な閉鎖社会的な面がみられ、和尚さんの考えが絶対的だった、かつての姿と随分と違った現実がある。そんな意味で言えば、お寺社会と壇信徒との意識の乖離も大きくなる傾向にある。
無住になってしまったお寺。
新しく住職を迎えることの困難になったお寺は今後どうなっていくのだろうか。
一方でどこのお寺や宗教のも属しない葬儀は増えていると云う。
時代が変わって住民の意識が変わってきたからと言えばそれまでかもしれないが、経費のかかりすぎに対応できない家庭が多くなってきたのも事実だ。
葬儀がこれまでと違って質素になってきたとの話も聞く。
各地に無住寺が進行する今の時世、かつてお寺と一緒に地域を守り育ててきたと言う壇信徒の意識とは、ずいぶんかけ離れた姿に見受けられるようになってきた。