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新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

一月の夕暮れ 稲川野

2016年02月02日 | 地域
2016年暖冬傾向は続いている。2月に入っても例年と比べて比較的気温は高めに推移している。2011年から4年続いた豪雪は昨年は平年並みになり、今年は近年にない暖冬気味で、現在の積雪は約100cm。

この1月秋田の県南も1月には珍しい青空の日が繰り返された。屋根の雪下ろしも一回で終わっている。好天の夕方カメラ片手に田んぼに出かけた。



私は密かに「稲川のマッターホルン」と呼んでいる、雄長子内嶽の頂上に夕日が消えようとしていた。西北の強い風で積もっていた雪の舞い上がる。



夕方の天気は変わりやすい。風が次第に強くなり、田んぼの積雪がさらに舞い上がる。忽ちに集落の家並みが視界から遠ざかった。かすかに左側に見えるのは湯沢市役所稲川庁舎。雄長子内嶽は標高470m。頂上付近も風が強そうだ。頂上に見えた夕日が雲が遮った。幻想的な光景。写真下の黒みがかっているのは道路除雪の壁。



角度を少し変えてみた。夕日は雄長子内嶽と雌雄長子内嶽の間に暮れようとしている。雌雄長子内嶽の標高は440m。



東の空と集落全景。1月にこんなに晴れた夕空は久しぶりだ。夕方の雪煙は気温低下の前触。空だけが明るい。



東の山際を北側に向ける。真中から左寄りで、夕日に照らされやや角ばった山は真人山。雪煙で駒形町東福寺、大倉方面の家並みが見えない。



さらに北は横手市、大仙市。強い風が収まり遠くに見える雲は出羽丘陵。黒い雲、秋田市方面は雪降りだろうか。この場所からだと中心から右寄りに夏だと大曲の花火「全国花火競技大会」が見える。直線距離約60㌔くらいだろうか。
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経済的徴兵制を具体化

2015年12月15日 | 地域
新安保法案を強行した安倍政権は、徴兵制を懸念する反対派をあざ笑うように将来「経済的徴兵制」導入することを具体化したそうだ。「経済的徴兵制」については予てから憂慮されていた。「赤かぶ」さんの記事は問題点をわかりやすく解説しているので全文シェアさせてもらいます。多くの人と共有し拡散したいものだ。

予備自衛官を雇ったら法人税減税! 自衛隊志願者やっぱり激減で、安倍政権がいよいよ経済的徴兵制を具体化(リテラ)
http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/173.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 12 月 14 日 19:30:05: igsppGRN/E9PQ

予備自衛官を雇ったら法人税減税! 自衛隊志願者やっぱり激減で、安倍政権がいよいよ経済的徴兵制を具体化
http://lite-ra.com/2015/12/post-1782.html
2015.12.14. リテラ

やはり安倍政権は「徴兵制」を目論んでいる──そう思わざるを得ないニュースが報じられた。なんと、政府と自民党が「予備自衛官などの雇用を増やした企業に対して法人税を控除する」というプランをもちだしたのだ。

予備自衛官とは、有事のときに予備要員として召集される非常勤の自衛官のこと。この予備自衛官の数は2005年には4万1744人だったが、昨年は3万7271人と減少傾向にある。そのため防衛省は、予備自衛官を2人以上、かつ10%以上増やした企業に対し、1人あたり40万円の法人税控除を行う要望案を提示。自民党の国防部会がこれを先月17日に了解したという。

1人あたり40万円も法人税が控除されるとなれば、企業側にとってはかなり大きい。この案が実現すれば、企業は積極的に予備自衛官を雇用し、求職者にとっても予備自衛官であることが採用アピールにつながるだろう。つまり、この予備自衛官雇用の法人税控除案は、間接的な「経済的徴兵制」と言えるものだ。

安倍首相は安保法制議論で徴兵制について「典型的な無責任なレッテル貼り」と否定、憲法違反の安保法制を押し通しながら「徴兵制は明確に憲法違反」などと明言してきた。だが、安保法制に反対する人びとが懸念しているのは、むしろ「経済的徴兵制」の問題だ。

たとえば財務省は、先日、国立大の授業料の大幅値上げを発表。現在の国立大の授業料は標準で54万円だが、2031年度には現在の私大平均授業料(約86万円)よりも高い93万円まで引き上げるとしている。非正規雇用が4割、子どもの貧困は過去最低の16.3%という現在の状況から考えても、この授業料引き上げは実質的に「経済的徴兵制」を加速させることは間違いない。

実際、安保法制の成立によって自衛隊は「経済的徴兵制」なくしては成り立たないことは明白な事実だ。ジャーナリストの布施祐仁氏が先日、上梓した『経済的徴兵制』(集英社新書)のなかで、その問題点に多岐にわたる角度から鋭く切り込んでいる。

まず、時下の問題として挙げられるのは、自衛官の退職者・志願者数の減少だ。安倍首相は7月のニコニコ生放送で「いま自衛隊に応募する方は多く、競争率は7倍なんです」「(集団的自衛権の行使容認によって)応募する人は減るはずだと(中略)批判をされているんですが、実は7倍のままなんです」と勝ち誇ったように語ったが、実際は集団的自衛権の行使容認を閣議決定した2014年度、自衛隊の志願者数は、「任期制」隊員が〈二〇〇〇人以上減少〉、「非任期制」も一般曹候補生が〈三〇〇〇人以上〉、一般幹部候補生は〈五〇〇人以上〉も減少している。しかも、〈「任期制」隊員では、「採用目標」を達成するために年度末ぎりぎりまで募集を実施〉していた。

この志願者数の激減について、安倍首相は決して集団的自衛権の影響を認めないが、布施氏が情報公開請求を行った防衛省の資料(九州・沖縄地方の地方協力本部長会議の説明資料)では、しっかりと〈「企業の雇用状況改善」とともに「集団的自衛権に関する報道」を要因に挙げ〉られているという。

さらに退職者の数も同様で、14年度の退職者は13年度よりも500人以上も増加。これもまた集団的自衛権の影響と思われるが、少子化で自衛隊員の確保が難しくなっているなかで、さらに安保法制の成立で志願者・退職者が今後減少することは目に見えている。

安保法制によって自衛隊の活動は大幅に拡大する一方で、それを支える隊員の数は減少。しかし徴兵制の導入を検討すれば非難を浴びることは必至……。そうなると、“背に腹は変えられない”人びとをターゲットにしようと考えるのは自然な流れだ。

事実、「経済的徴兵制」を敷いていると言っていい状況のアメリカでは、〈一定期間以上軍務に就いた者に大学の学費や職業訓練を受けるための費用を給付〉する奨学金制度を1944年に制定、これによって〈それまで一部の富裕層しか入ることのできなかった大学に大量の復員兵が入学し(二年間で一〇〇万人以上が入学し、一九四七年には全米の学生の半数は復員兵が占めた)、その後のアメリカの中流階級形成の原動力になったといわれている〉という。しかも2008年に新設された制度では、〈九・一一以降に九〇日以上軍務に就いた兵士を対象に、大学の学費全額に加えて、住宅手当や教科書などの必需品の費用まで給付〉〈権利を配偶者や子どもに譲渡することも可能〉となった。布施氏は、アメリカの「経済的徴兵制」の現実について、このように述べている。

〈戦争は、大量の武器や弾薬とともに人間の命も消耗する。そして、消耗される命のほとんどは、愛国心に燃えた富裕層の若者ではなく、教育を受けたり病院にかかったりする基本的な権利すら奪われている貧困層の若者なのである〉

うしたアメリカの先行例は、日本でも十分、通用する話だろう。というのも、現在の日本では〈昼間の四年制大学に通う学生のうち、奨学金を受けている割合は五二・五%〉にも上り、〈卒業後に背負う借金は、大学生で平均約三〇〇万円、大学院まで進学すると多いケースで一〇〇〇万円にも達する〉からだ。さらに前述したように、アベノミクスによって非正規雇用の割合は4割と増えており、〈奨学金返還滞納者の一八%が「無職」〉という現実がある。そこに授業料の値上げが追い打ちをかければ、アメリカ同様、貧困層の学生が大学進学と引き換えに徴兵を選択することは想像に難しくない。

しかも、この「経済的徴兵制」は、すでに具体的に日本で検討されはじめていることでもある。たとえば、〈(大学)卒業後に自衛隊に入隊して「衛生・技術系幹部」になる意志を持つ医学・理工系の学生あるいは大学院生を対象に、月額五万四〇〇〇円の奨学金を支給する〉「貸費学生」という制度があるが、これは現在、毎年十数名程度しか採用されていない。しかし、防衛省ではこれを拡充することを検討項目としている。

さらに問題なのは、“自衛隊と企業の提携”による徴兵だ。2014年に開かれた文科省の有識者会議にて、前原金一・経済同友会専務理事(当時)は「(職に就けず奨学金返済を延滞している若者を)防衛省でインターンシップさせたらどうか」と発言したが、この発言について中谷元防衛相は今年8月26日に安保特別委で辰巳孝太郎・共産党議員の質問を受けて、〈(前原氏の発言以前に)防衛省の方から前原氏に対して自衛隊への「インターンシップ・プログラム」を提案した〉のだと答弁。しかし、このとき明らかになった驚愕の事実は、〈防衛省が提案したのは、奨学金返済を延滞している無職の若者ではなく、企業の新規採用者を「実習生」として一任期(二年間)限定で受け入れるプログラムであった〉ということ。つまり、〈その企業に就職した人は業務命令として自衛隊に派遣され、二年間その業務に当たらなければならな〉くなる、という話だったわけだ。

このとき明らかになった防衛省の内部文書によると、このプログラムによる企業側のメリットは〈自衛隊で鍛えられた自衛隊製“体育会系”人材を毎年、一定数確保することが可能〉であること、防衛省側のメリットは〈厳しい募集環境の中、「援護」不要の若くて有為な人材を毎年一定数確保できる〉ことだという。

本書の著者である布施氏は〈この構想は目新しいものではなく、防衛省・自衛隊が以前から検討してきたもの〉だとし、07年にも防衛省は同じ構想を検討していたことや、遡ると1970年代の段階から〈自衛隊と民間企業の「人事交流構想」〉があったことを明らかにしているが、問題は当の内部文書に〈企業側との関係が進めば、将来的には予備自(衛官)としての活用も視野〉と書かれていることだろう。今回もち上がった予備自衛官雇用による法人税控除は、このプログラムの実現を後押しするものになりえる。すなわち防衛省は、企業と連携した徴兵システムの構築を、いまこそ具体的に現実化させようとしているのではないだろうか。

しかも、前原氏が発言した奨学金の返済に困っている人に対するインターンシップ制度にしても、導入が検討されてもおかしくはない。いや、アメリカ並みの奨学金制度の構築なども検討しなくては、安保法制後の自衛隊を支えることはもはや難しいのではないか、とも思えてくる。その上、自己責任論が幅を利かせるいまの日本の空気では、「国の金で大学に行くのなら、それくらい奉仕して当然」などという声もあがりかねない。

だが、忘れてはならないのは、本書でも言及されている通り、アメリカでは〈退役軍人の学生のうち八八%が初年度で退学し、卒業するのはわずか三%〉〈とりわけアフガニスタンやイラクからの帰還兵はPTSDなどで通学を継続するのが容易ではない〉という事実だ。インターンシップといえば聞こえはいいが、農業体験や地域奉仕活動などとは根本的にまったく違う。安保法制成立後の自衛隊に入るというのは、戦地に赴くという命がかかった問題なのだ。

本来は「貧しいけれど大学に行って勉強したい」という若者の願いは、社会制度によって叶えられるべきだ。それを命と引き換えにしなくてはならないとなれば、この国で生きるのに夢などもてるはずもない。

そもそも、「経済的徴兵制」には、経済界の思惑も密接にかかわっている。経団連などの経済界は集団的自衛権の行使を積極的に政府へ要請してきたが、既報の通り、その裏側には武器輸出の問題が絡んでいる。本書でもその問題は深く掘り下げられているが、〈自衛隊の海外での活動の拡大が、そのまま武器輸出ビジネスに直結〉しているのである。

 布施氏は、本書のなかでこう述べている。

〈政府が自衛隊(自衛官の死)を海外での国益追求のツールとして活用しようとしていることと、国内で非正規雇用を増やして貧困と格差を広げるような政策をとっていることには、底流に共通する思想がある。それは、国民一人ひとりの人権や生命より国策や国益を優先させる思想である。国民を、国策や国益実現のための「資源」として捉えているのだ〉

安保法制を考える上で「経済的徴兵制」は切り離しては考えられない重要な問題だ。甘言を弄する安倍首相に騙されないためにも、ぜひ一人でも多くの人に本書を読んでほしいと思う。「経済的徴兵制」というと、徴兵制よりソフトな印象をもっている人もいるかもしれないが、ある面では徴兵制以上に悪質なところもある。戦争を決定する人間と実際に戦地で戦わされる人間が完全に分離し、為政者や経済的強者は戦場の悲惨な実態も痛みも知ることがないまま戦争を遂行することになり、歯止めがきかない。「経済的徴兵制」は不幸な国の負のスパイラルに陥るかどうかという、誰にとっても他人事ではない話なのだから。

(水井多賀子)
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女滝沢遊歩道散策

2015年10月29日 | 地域
女滝沢遊歩道は湯沢市小安峡にある。27日快晴だったので出かけた。

朝9時45分、総合案内拠点施設の駐車場に車を止め散策開始。開始地点は標高350mと案内書にある。ブナの樹木の散策道を標高430mの巨木コースとの分岐点に向かう。2日前栗駒山荘付近に降雪があった。気温が急に下がったせいか紅葉のブナやミズナラの落葉が多かった。歩くたびに枯葉の軋む音がする。



巨木コースの分岐点から200m下って、日本で3番目の大きいというヤチダモの前で休憩。歩き始めてからの距離1050m。この場所は春先だとニリンソウ、オクトリカブトが多く見られるが晩秋のこの時期シダ類に覆われている。

ヤチダモの前の立て札には、「ヤチダモ 幹周りは404cmで国内3位の太さです。ヤチダモは北海道、本州、朝鮮、分布する落葉高木湿原の周辺などの湿潤地に生育する。葉は羽状復葉で、枝は太い雌雄異株であり、花は4~5月に咲く。秋には果実ができる」とある。不思議なことに案内拠点施設のパンフには「日本で4番目の大きいヤチダモ」と書かれている。太さと大きさは違うのだろうか。

ヤチダモは野球のバットや家具や装飾材等にも利用される。ヤチダモのタモは漢字で木編に佛と書く「梻」。ヤチは低湿地のことで中国名が「水曲柳」とある。木編に神と書いて「榊」さかきと読む。木編に佛と神と書く木の名前、関連があるのとは思えないが並べてみると面白い。

休憩後ブナの巨木の間を登る。標高460m地点からさらに尾根道の標高510mを目指して進む。



坂道が続く、ヤチダモのあった場所から約780mで尾根に着く。尾根の標高は510mと案内書に書かれている。尾根からは下りとなる。尾根道はイワウチワの群生になっている。雪消えとほぼ同時に薄紅色の花を付ける。


女滝沢はミズナラも見られるがブナの木が圧倒的に多い。紅葉は終わりに近づき尾根道から右手の沢沿いが見頃を迎えている。



尾根道の枯れたミズナラの木にびっしりと「ムキダケ」が生えていた。木の上の方まで生えていて採ることはできなかったがそれでもレジ袋一杯の収穫になった。今年はキノコが豊作とは聞いていたが女滝沢散策で出会えるとは思いもしなかった。



2日ほど前気温が下がり海抜1000mの栗駒山荘付近は雪の情報があった。急に下がった気温で女滝沢の紅葉は終りに近づいた。好天の27日散策中誰とも会わなかった。駐車場に戻っても他の車はなかった。

総距離3230m、標高差約160m2時間30分の女滝沢散策を終える。
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新安保法案 ゴリ押し

2015年09月25日 | 地域
憲法違反法案が衆議院に続いて参議院でも強硬採決された。秋田弁護士会では9月19日に抗議する会長声明を出した。シェアさせてもらう。以下はその全容。

保法制改正法の成立に抗議する会長声明

2015年9月19日 公開

 参議院本会議において,自衛隊法,武力攻撃事態対処法,周辺事態法,周辺事態船舶検査活動法,国連平和維持活動協力法など10件の防衛関係法律を改正する「平和安全法整備法」,及び恒久的な自衛隊の海外派遣を内容とする新規立法の「国際平和支援法」(以下,これらを総称して「本法」という。)が,本日可決,成立した。
 当会は,本法の数々の問題点と共に本法が憲法第9条の恒久平和主義に反して違憲であり,憲法改正手続を踏むことなく憲法の実質的改正をしようとする点で国民主権の基本原理にも反しているとして,本法案の廃案を求める会長声明を、本年5月21日,7月16日,9月14日にそれぞれ発してきた。
 本法については,圧倒的多数の憲法学者のみならず,歴代の内閣法制局長官,元最高裁判所長官、元最高裁裁判官も違憲性や法案の問題点を指摘していたばかりか,75名もの元裁判官が連名で反対声明を発表していた。また,国民の間でも,本法が憲法に違反しているとの理解と,日本が他国の戦争に巻き込まれるのではないかとの懸念が広がり,それに連れて,年齢や立場を超えた市民各層による反対運動が全国各地で盛り上がりを見せている。各種世論調査においても,本法に反対又は少なくとも今国会での成立を強行すべきではないとする意見が国民の過半数を占めるに至っていた。
 このように,多くの国民及び有識者から反対の声があったにもかかわらず,最高法規である日本国憲法に違反する本法を採決したことは,国民主権を無視し,わが国の民主主義を根底から覆す暴挙である。
 当会は,政府・与党が衆議院及び参議院において本法の採決を強行し,可決,成立させたことに対して,強く抗議するとともに,今後は本法の廃止に向けて引き続き取り組んでいくものである。

                 2015年(平成27年)9月19日
                          
                  秋田弁護士会
                   会長 京 野 垂 日
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ドキュメンタリー映画「フード・インク」

2015年08月29日 | 地域
7月22日から友人からのすすめでFacebookに参加している。一年程前から検討していたが今回正式に参入した。すべて独学なので一ケ月経過したがまだ使い方をマスター出来てはいない。交流の幅と広範なニュースに日々出会えるのでたのしみが増えた。増えた分ブログの更新が遅れ気味になっている。
以下はFacebookに書いた記事に書き足したものです。

8月23日(日曜日)秋田市で「食の安全とくらし、TPPを考える県民会議」が主催した映画「フ2ード・インク」の上映会に行ってきた。この映画は2008年のアメリカ映画。2012.5に「食農市民ネット」がロバート・ケナー監督を招聘し記念シンポを開く等各地の反響は大きかった。
ある程度アメリカの食の現状を知っていたつもりだったが、強欲資本主義の現状に映画を観ると衝撃が走る。遺伝子組み替えしたトウモロコシと大豆の生産は、政府の莫大な補助金によって安価な価格で世界市場に出回っている。

さらに、巨大企業が牛耳る大量畜産工場は大量に生産するために、牛や豚や鶏は日本の畜産の現状からは想像できない環境で飼育されている。本来草を食べる牛は大量生産のコーンが主体となり、牛は内臓に負担がかかる。その防止のために抗生物質の投与、結果としてO-157等の大腸菌が生まれ食中毒が蔓延している。

ハンバーガーを食べ息子を大腸菌O-157で亡くした母の「食の安全」を呼びかける運動に邁進している姿が痛々しい。

映画では大量飼育で、身動き出来ずにをただ待つだけの家畜。短期間に太らせるためにホルモン剤を抽入、精肉加工工場では杜撰で不衛生のまま加工され、不当に扱われる移民の工場労働者、厳しい立場にある下請け農家等実態を描き出している。ファーストフードによるアメリカ人の肥満問題と貧困。堤未夏著「ルポ・貧困大国アメリカ」(岩波新書)の世界が映像で紹介されている。

 秋田市明徳館 8.23 

「フード」は食べ物、食品。「インク」とは会社組織の、法人のという意味で「フード・インク」は「食品株式会社」ということになる。アメリカ社会の「工業食品」の現場をこれでもかと描き出す。遺伝子組み換えコーンを開発した大企業「モンサント」に、アメリカ政府は莫大な助成金をつけて大量生産、販売を推進し世界市場の独占に向かっている。その結果輸出先の国内農業は壊滅してゆく。企業による食糧支配が現実のことになる。支配するためにはなんでもする。「農家の種子の自家採取の禁止」等打ち出している。当然「農家直売所」等はできなくなる。

遺伝子組み換え種子を知ったのは昭和50年ころ、当時酪農家は飼料自給のためにサイレージは欠かせなかった。そのころ種苗会社から提供されるコーンはF1種ばかりになっていた。F1一代限りの品種、一時的に収量が増大し「緑の革命」とまで言われたが持続しなかった。作物の増収は多くの肥料が必要、それに農薬の三点セット。その結果土壌汚染、農家の多額の負債、貧富の格差が広がった。これの背景は種苗会社、農薬、肥料会社の支配の下で食糧生産が続けられていることをこの映画「フード・インク」は描いている。

「フード・インク」に出てくる「モンサント」とは、除草剤「ラウンドアップ」を開発した企業。日本では日産化学工業会社が「ラウンドアップ マックスロード」の名前でホームセンターやJAで販売され、かなりの量が除草剤として散布されている。モンサントの支配構造はすでに始まっている。アメリカで栽培されているコーンの85%、大豆の91%は遺伝子組み換えと云われている。フランスのドキュメンタリー映画「モンサントの不自然な食べ物」がある。
公式サイトは「http://www.uplink.co.jp/monsanto/」、ヨーロッパ各国のGMO(遺伝子組み換え作物)政策に大きな影響を与えた話題作。「食」は「いのち」なのだ。

TPP加入でその構造引き込まれる。日本の甘利担当大臣はかつて、「TPP断固反対 農業をまもるぞ」と言って政権奪取したのを忘れたかのように今では交渉の推進役を担っている。

TPP加入は「フード・インク」の世界にもろとも直撃する。前のめり感の日本政府はどこに向かうおだろうか。「TPPに反対する人々の運動」の共同代表 山下惣一氏は「当たり前に生きたいムラでもマチでも」に「百姓とTPP 日本の農政はすでにTPPを前提に《きれ目なく》進めているとの発言している。詳細はhttp://antitpp.at.webry.info/201508/article_5.html

映画「フード・インキ」公式サイト、(http://www.cinemacafe.net/official/foodinc/)この映画のあらすじがわかる。多くの人が観てほしい。DVDも販売されている。
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バスで行く 「はるかな尾瀬」

2015年07月31日 | 地域
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉(の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

尾瀬に訪れたことがなくとも誰でも知っている歌、「夏の思い出」は1949年NHKで放送された歌。作曲は『ちいさい秋みつけた』、『めだかの学校』などを手掛けた中田 喜直(なかだ よしなお/1923-2000)。作詞は、新潟県上越市生まれの詩人・江間 章子(えま しょうこ/1913-2005)。

尾瀬には7月16~18日、雄勝野草の会事務局佐々木夫婦と私たち4人で訪れた。それは偶然のことだった。「雄勝野草の会」一泊研修の反省会で佐々木さんが「尾瀬」行きの話をした。どなたか一緒にいかないかと誘った。詳細を聞いて読売観光へメールしたら余裕があるとの連絡で実現した。

横手駅前発8時、秋田から10名、横手から4名、北上から5名計19名のツアー。ガイドから事前に知らされていた日程の説明。気になるのはと台風11号の動き。四国に直撃されるらしい。雨雲が関東まで達している。ましてや尾瀬は群馬、福島県境にある山岳地帯、明日の尾瀬散策の天気が気になる。東北自動車道、国見SAで昼食。大内宿の「高遠ねぎそば」がメーンだったので軽い食事とした。大内宿着午後2時13分。早速三沢屋で高遠そばを注文。大きなお椀にそば、上に鰹節、大根おろしがのり長ネギが添えられて出てきた。箸の代わりの長ネギで食べるソバも話のタネとばかり食してみた。薬味がわりのネギをかじりながらソバの味。ほとんどの客はネギを残していた。大内宿は江戸時代に下野街道の一宿場として栄え、明治以降交通路の変化で開発を免れ、昔の面影を現在にとどめている。形成されたのが承応3年(1654)の頃といわれ、江戸時代は会津と江戸を結ぶ主要な街道の宿場だった。定番の子安観世音堂の急な石段の駆け上がり見晴台から眺める街並みは壮観だった。

大内宿 2015.7.16

その後天然記念物に指定されている巨大な奇岩怪石の「塔のへつり」を訪れ宿泊の会津高原ホテルに着いたのは小雨の夕方5時30分頃だった。

会津たかつえ温泉 会津高原ホテル 2015.7.16

翌朝8時ホテルを出発し、尾瀬高原に向かう。バスの中でガイドから尾瀬の歴史、1890年(明治23年)平野長蔵氏が尾瀬沼岬に行人小屋を建てたことをもって尾瀬開山と言われ古くから尾瀬には、上州(群馬県)と会津(福島県)を結ぶ交易路が通っており、尾瀬沼のほとりには交易所が設けられていたこと、地名のいわれには平家落人伝説と関係がある等のレクチャを受ける。ホテルから1時間半で御池と到着、そこからシャトルバスで沼山峠に向かう。心配された台風11号はほとんど風もなかったが、今にも雨になりそうな曇天。木道周りの山野草を目にしながら1時間20分ほどで大江湿原に到着した。

大江湿原から尾瀬沼方面 2015.7.17

「レンゲツツジ」もすでに終わり、「ニッコウキスゲ」は咲きだしたばかり、湿原を覆うように咲き乱れる姿には少し早かった。

尾瀬沼から燧ケ岳方面 2015.7.17

あいにくの天候で燧ケ岳は見えない。長蔵小屋の前で「ヒメサユリ」を見つけた。ガイドに「なぜ海抜1600mの地にこの花があるのか」と尋ねたら「長蔵小屋」を建てたとき、持ってきて植えたと言われているという。会津固有の「ヒメサユリ」は25年程前に有機栽培の先進地研修で「熱塩加納村」(現喜多方市)へ行ったとき飯豊連峰、吾妻山、守門岳周辺等にだけ分布する貴重な植物で、野生種は環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に指定されていることを聞いていた。ガイド氏に喜多方で有機米栽培をしていたグループは、「ヒメサユリ米」の名で栽培し販売していることを話した。可憐な「ヒメサユリ」なのだが人口的に栽培されたとなれば少々違和感はあった。

沼の周りを散策して大きな「ベニバナイチヤクソウ」を見つけた。現在使われていないという「元長蔵小屋」の裏手。昨年志賀高原で見たものより倍の大きさにも見える。尾瀬で唯一タダの水を飲むおいしかったが、周りには何故か「トリカブト」がいっぱい。飲み水と「トリカブト」の組み合わせが何となく可笑しい。「トリカブト」は花の前だからか多くの人は気がつかないらしい。

ベニバナイチヤクソウ 元長蔵小屋裏 2015.7.17 

その後ガイドを先頭に尾瀬沼周辺を散策。群馬県側まで足を延ばし帰途についた。団体旅行のツアーだったが「雄勝野草の会」の習性なのか山野草を探し、名前とカメラで確認のため歩くのはいつも遅れ気味。大江湿原から高低差200mの沼山峠までは雨にたたられてしまった。台風直撃の時期だったが満足な尾瀬散策だった。

沼山峠から尾瀬沼往復の出会った山野草は以下

ヒコダイ、ハグマノキ、コメツツジ、オオコメツツジ、ダイコンソウ、ミヤコシャジン、ムシャリンオウ、ヌルデ、クサレダマ、ノハナショウブ、カキラン、サボンソウ、ハチフーロ、タムシバ、アカモノ、ドクウツギ、キンコウカ、ヤマブキショウマ、ヤマハハコ、ヤナギラン、カンゾウ、トビシマカンゾウ、ハナイカダ、ウツボグサ、ノリウツギ、キリンソウ、トリカブト、ナツハゼ、チダケサシ、ミヤアカスミグサ、キタマムシグサ、ヤブレカサ、ツノハシガミ、ツリバナ、キンギンボク、メタカラソウ、カラマギカエデ、エゾノヨロイグサ、ニッコウキスゲ、ヒメシャクナゲ、ギョウザニンニク、トンボソウ、ヒメサユリ、ベニバナイチヤクソウ等

多くは花の終わりと咲きはじめたばかり、今回は花山峠から尾瀬沼往復だったが次回は尾瀬ケ原方面まで足を延ばしたいものだ。

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「坪池」のトンボ

2015年07月07日 | 地域
7月に入ると田んぼでは一斉に「アカトンボ」が生まれる。4日に確認したがまだ始まったばかりだ。「アカトンボ」は通常はトンボ科アカネ属(アカトンボ属、Sympetrum属)に属するトンボを総称して呼ぶ。羽化直後は未成熟で体色は橙色をしている。これらのトンボは近くの山に飛び立ち、稲刈り頃になると繁殖のために田んぼに戻ってくる。

アカトンボ 2015.7.4 川連町清水屋敷

このブログは田んぼのトンボは主ではなく、ここ一ケ月間の「坪庭」の小さな池に繰り広げられるトンボ達の記録。「坪池」とは私の造語。当地では屋敷内にある小さな庭を古くから「坪」(坪庭)と云っている。坪にある池を「坪池」とした。前々回の6月12日のブログ、「金魚とイトトンボとアメンボ」でのカワトンボの正しい名は旧の名「ヒガシカワトンボ」、現在は「ニホンカワトンボ」と呼ばれていることを(財)日本自然保護協会 自然観察指導員の羽後町の「大日向」氏から教わった。翅に赤い斑点があるのは♂だと云う。


ニホンカワトンボ(透明型)♂ 2015.6.11 東の坪池 

「ニホンカワトンボ」は、透明な翅をしたタイプと橙色の翅をしたタイプの二つの型がある。「♂は橙色形と透明型の2型に分かれ、一般に橙色型がなわばりをはり、♀にも優位性があると言われている。♀は透明型のみである。平地から山地にいたる清流に生息し、4月下旬から7月中旬に現れる。腹は緑光沢で美しいが成熟すると白い粉を吹く」(引用)先日雄勝野草の会の研修で、同行の大日向氏が山形市野草園を散策中に橙色の翅をしたニホンカワトンボ(ヒガシカワトンボ)を見つけた。羽化したばかりなのか「ヒメクロサナエ」と一緒の葉に止まっていた。

ニホンカワトンボ(橙色型)とヒメクロサナエ 2015-06-10 山形市野草園

7月に入って我家の北の「坪池」周辺に次々にトンボがやってくる。この池を中心に約50m周辺に、池が自宅の二つの池の他に隣家のため池が三つの計五つある。一番新しい池が我家の「坪池」で平成9年造成、他は100年以上前から存在し、野生生物が生息するビオトープが形成されている。

我家の北の「坪池」は適度に日あたりも良く、周りのトチの木やイチイの木が池の周りを囲みトンボの居場所に適しているように思われる。

 ハラビロトンボ? 2015.7.2 坪池

羽後町の大日向氏は「ハラビロトンボ」かもしれないという。「シオカラトンボ」の♀か。大日向氏は♂、♀の尾部付属器の形で識別されるという。この写真では不鮮明、なかなかすばやくてデジカメに収まりにくかった。穏やかな日で石の上がお気に入りのようだ。近づく気配で屋根越して飛んでしまった。

 オオイトトンボ?(スイレンとキンギョ)2015.7.3 坪池 

「坪池」のスイレンが開花した。イトトンボは「オオイトトンボ」か、スイレンの葉が指定席らしい。デジカメで覗いていたらキンギョが横ぎった。


シオカラトンボ 2015.7,4 坪池

「シオカラトンボ」、精悍な姿はこの「坪池」の主役だ。トンボで以下の解説がある。「トンボの頭には大きな目があり、頭の大部分を目が占めています。トンボは飛びながら、えさとなる小さな昆虫を捕まえるため、昆虫の仲間で一番よい視力を持っています。トンボの頭には、大きな 1対の複眼と 3個の単眼があります。複眼は、小さな目が 1万から 2万 5千個も集まって出来ています。複眼は、ものの形や色をとらえ、単眼は光の強さをはかって複眼のはたらきを助けています。トンボの複眼の色は、青色、緑色、茶色、赤色などと種類や成熟度によっても違います」。引用 「シオカラトンボ」の二つの目はくっつき「イトトンボ」の二つの目は離れている。

ノシメトンボ 2015.7.5 坪池

田圃から飛んできたのか。この池で羽化したのかはわからない。「ノシメトンボ」は「アキアカネ」と並んでよく見られるアカネ属の普通種。6日の午後、いきなり飛んできたトンボは「ダビトサナエ」らしかった。「ダビトサナエ」は良く目にする「オニヤンマ」を小型にしたようなトンボだ。池の水面に急降下して尾を水面にたたきつけること3回繰り返して、隣家のため池の方に飛んで行った。このトンボの産卵を初めて目撃する。素早い一瞬のことでデジカメに収めることはできなかった。

これらのトンボは曇天だとほとんど見当たらない。晴天だと毎日のように目にする。不思議なことに日替わりで現れる。北の坪池はトンボにとって最良の場所なのか、先着がいると他のトンボはその場所を避けるのか、いつも一種類しか見当たらない。先着がいると他の池周辺を回っているのかもしれない。今日になって「オオイトトンボ」が2匹いることに気づいた。このトンボも他のトンボが来たときは目につかなかった。唯一この坪池で羽化したのだろうか。このトンボは比較的水面に近いところを縄張りとしている。

2014.7.29に『帰ってきたスズメと「サンクチュアリ」モドキ』で、スズメ等の野鳥との共生について私案を書いた。今回はトンボ等野生の生きものが息づく空間、我家の「坪池」でのトンボの目撃情報を紹介した。

「ビオトープ」とは野生の生きものが生息する空間を指すドイツ語の造語。近年自治体等が自然の再生や保全を目指して「ビオトープ」造りを推進している。「ビオトープ」の普及啓発に「日本生態系協会」(1992)が設立されている。地域には昔から屋敷内に「堰」が流れ、ため池があったが近年荒れてきているが野生の生きものが根付いている。これらのため池、堰(水路)等は「ビオトープ」と呼ばれても違和感はない。しかし、これらのため池も多少人の手を加えなければ荒れてしまい、トンボもホタルも棲めなくなってしまうかもしれない。

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金魚とイトトンボとアメンボ

2015年06月12日 | 地域
家の東側に昔からため池があった。そして、北側の縁側の近くに平成9年、坪庭に小さな池を新たに造った。懇意にしていたG氏がバックホー持参で、300k前後の沢石を周りに配置し坪池はできた。池の中に中島に見たてて石質の柔らかな石を入れ、苔で表面を覆いフウチソウ、マイヅルソウ等を植えたらいつの間にか中島として定着した。以来「金魚」が中島の下のわずかな空間を棲みかにし、坪池の主になっていた。畳3畳分ほどの広さの池の「金魚」は7匹前後。池の広さと棲む「金魚」は比例するのか、多く放しても自然淘汰なのか、いつも7~8匹位で巡回していた。

金魚のいない坪池 2015.6.8

この冬は4年ぶりの豪雪から解放され比較的雪が少なく、例年だと雪のある時期から「金魚」が見られていたが、今年は春の目覚めが遅いのか出てくるのが遅い等と思っていた。それが一匹もいないことに気づいたのは4月になってからだった。全滅は「イタチ」の仕業かも知れない。坪池から「金魚」が一匹もいなくなったのは初めてだ。このほど横手市の業者から「金魚」を求めて池に放した。

6月5日、坪池に「イトトンボ」を見つけた。いつもの年より少し早い発生。毎年出てくる。「イトトンボ」とは総称で、このトンボは「カワトンボ」の類かもしれない。今のところこの一匹しか見当たらない。

カワトンボ? 2015.6.8 北の坪池

このトンボは約10m程離れた二つの小さな池を棲みかとしているようだ。

カワトンボ? 2015-06-11 東の坪池 

「アメンボ」は大型で6匹水面を這い回る。「アメンボ」は見たところ体長が4~5センチほどで、足は6本で前足は短いが、中足は片方で10センチほど、両足を広げると約20センチにも見える。素早い動きと水面へ太陽の照り返しでなかなかデジカメに収まらない。やっと撮れた一枚。

アメンボ 黒いのはカワニナ 2015.6.8

ウィキペディアに「アメンボ」ば「外見は科によって異なるが、翅や口吻など体の基本的な構造はカメムシ類と同じである。カメムシ類とはいかないまでも体に臭腺を持っており、捕えると匂いを放つ。「アメンボ」という呼称も、この匂いが飴のようだと捉えられたことに由来する」とある。捕えたことはないからどんな匂いかはわからない。「アメンボ」は飛ぶことも出来るという、今日の坪池には3匹しか見えなかった。明日は戻ってくるのだろうか。
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緋縅蝶(ヒオドシチョウ) と西山散策

2015年04月10日 | 地域
好天の土曜日(4月4日)、西山散策に出かける。今年2月の始め、スノーシュウ探索以来二回目となる。ここ数年で最も少なかった雪も大分消えたが散策道の雪は大分残っていた。旧街道の頂上に向かって斜面の雪の上をまっすぐに登った。峰沿いに整備された散策道に雪はなく歩きやすい。好天の東の山、鍋釣山等は西向きのせいかほとんど雪が消え、遠くに真っ白な焼石嶽連峰が見える。

峰の西北側にダリヤ園が見え、国道398号線は車が頻繁に行き交う。マンサクが最盛期だ。別名は「キンロウバイ(金縷梅)」。またこの変わった花の形からか、欧米では『Japanese witchhazel「ジャパニーズ ウィッチヘーゼル」(魔女のはしばみ)』などと呼んでいるそうだ。自宅のマンサクはほとんど下向き、西山のマンサクも下向き、横向きが多いような気がする。マンサクの花が下向きに咲くと豊作との話がかつてはあった。

マンサク 2015.4.4

散策道の頂上には神社がある。そこには展望台があり、東側の旧稲川町の中心部が望まれる。いつものようにこの場所から鍋釣山の麓のわが集落を眺望するのが楽しみだ。お堂前の狭い広場に蝶がしきりに舞う。ぺヤを見つけて飛び立つのか。それともテリトリーを守る活動なのだろうか。他のオスが入って来ると追い払ったり、活動も活発なので翅がすぐにスレてしまうと言われている。オス、メスの判別は良くはわからない。

あわただしい動きの中でやっと一枚の写真に収った。「ヒオドシチョウ」(緋縅蝶)と呼ぶ。なかなか立派な名の蝶だ。羽の表側の模様を、昔の武士が身に着けた緋縅(ヒオドシ)の鎧に見立てて名付けられたという。越冬して好天に集まってきたらしい。5.6匹はいる。蝶の数え方も匹でも間違いではないそうだが動物学上は馬や牛のように一頭、二頭と数えると言われているが、蝶々は匹の方が似合う。

「ヒオドシチョウ」の生態は年1回、初夏のみ発生する。タテハチョウ科の他の種と同様この種も成虫として過ごす期間が長く、初夏に発生した個体が同年の冬を越して次の春まで生きのび、その個体が産卵した卵から孵化した幼虫が成長して次世代の成虫が初夏に発生するというサイクルである。主にエノキを食樹とする。他地域の亜種はヤナギ属やカイノキ属の植物も食べるといわれている。


ヒオドシチョウ 2015.4.4

散策道の側で消えたばかりの雪の下から出たばかりの「ショウジョウバカマ」が一本あった。
葉は雪に抑えられたのか生気はないが、花は暖かい陽気に誘われたのか開きだした。

ショウジョウバカマ 2015.4.4

かつてはいたるところににあった「シュンラン」は、散策道が完備されてから激減してしまった。峰すじで日当たりのよい場所で見つけた。残念なことに写真はピンボケ。久しぶりの「シュンラン」は足場の不安定な場所だった。テマエミソだがピンボケの「シュンラン」もなかなか絵になる。

シュンラン 2015.4.4

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二つの集会と松前、江差

2015年04月01日 | 地域
ブログの更新がなかなかできないでいる。この3月下記の二つの集会で3月7日に上京。帰宅後11日の4年前の大震災の日、函館の叔母さんの訃報が入った。あわてて函館行き、十数年ぶりに従妹達との再会。通夜、葬儀は無事終えた翌日、初めての地松前、江差方面へドライブに誘われた。

ほとんど遠出することの少ない日常。今回の東京、函館行は天気にも恵まれず少しハードだった。帰宅後カゼにやられてしまった。一週間も咳が止まらなかったが、このごろやっと回復。

そろそろ2015年稲作の始まりだ。有機米研究会では31日から種もみの温湯消毒が始まった。

3月の「TPPに反対する人々の運動」と「アジア農民交流センター」(AFEC)年次寄合2014の開催要項、函館、松前行の一部を記録しておく。



合同シンポは「足元でTPPとたたかう」のテーマで山形・小国の「共生の村づくり」、山谷の「事業組合あうん」、労働組合「郵政産業ユニオン」、埼玉・寄合の「足元からのはTPP運動」、埼玉・秩父の「生存権が壊れる」等が報告され活発な意見交換があった。参加者は北海道から九州まで50数名。



翌日はアジア農民交流センターの年次寄合。1991年からの足取りが報告され現在110名の会員。2015年の計画として「タイツアー」、「沖縄訪問」等が話し合われた。



あわただしく出かけた函館、ニシン景気で栄えたかつての松前、江差ヘドライブは往復で約250K。北前船時代からのこの地に関心があった。松前城跡から見える日本海に古のロマンを振り返る。

松前城跡にある越後村上の藩主、長尾山樵の詩は壮大。

  海上寒拆月生潮(かいじょうのかんたくつきうしおにしょうず)
  波際連檣影動揺(はさいのれんしょうかげどうよう)
  従此五千三百里(これよりごせんさんびゃくり)
  北辰直下建銅標(ほくしんちょっかにどうしょうをたてん)



江差のかもめ島入口に繋がれている開陽丸。オランダで建造され明治元年、江差沖で暴風で座礁し沈没したという。平成2年に実物大で再現され資料館となって当時の歴史を伝えている。
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ドキュメンタリー映画「ダムネーション」

2015年02月20日 | 地域
2015.1.31朝日新聞 ザ・コラム欄に「ダムと過疎地 先人が教える夢と現実」上田俊英編集委員が掲載された。「ダムネーション」アメリカのドキュメンタリー映画を観てのコラムだ。それは次のような書き出しで始まる。

『「ダムネーション」という米国のドキュメンタリー映画を見た。米国でダムの「撤去」を求め、実現させてきた人びと。その姿を通して、川とはなにか、ダムと引き換えにわれわれが失ってきたものはなにかを伝える。昨年11月に東京で公開され、横浜、大阪、名古屋などを巡回している。

ダムは近代化を象徴する建築構造物だ。灌漑(かんがい)、治水、水力発電――。米国では1929年に始まる世界恐慌が建設を加速させたとされる。テネシー峡谷開発公社(TVA)が設立され、雇用創出と経済再建の旗印のもと、多くのダムがつくられた。米国のダムはいま7万5千基を超えるという。

ダムができて、川が自然の流れを失えば、川を中心とする生態系は激変する。
映画は、ダムをすべて壊せと言っているわけではない。
 「ダムにもやはり寿命はある」
 「ひとつひとつ精査すべきだ」
そして、役に立たないダムは「壊す」という選択肢があることを教える。
 「ただの水たまりだ」
ダムを前に、こんなせりふが投げかけられる。「水たまり」それは、わたしがすむ福島県で も見ることができる』。


さらに終戦直後、「日本再建」をかけた国策の舞台になった奥会津の10基のダム開発、昭和60年代に9基完成。現在巨大な水たまりと化し、かえって水害が増えたと言う地元の声を紹介している。水力発電所は無人化が進み遠隔制御されている。「ダムもまた過疎化をすすめる」、79年に只見町の議会特別委員会の報告「デメリット」を次のように紹介している。

「過疎の原因となる」
「農林水産業の振興に影響を与える」
「購買力が減少する」
「自然環境が破壊される」

政権との癒着が指摘されるマスコミの中、このコラムの健全な良識を歓迎したい。映画「ダムネーション」を知り、是非観たいものだと思っていた。2月に入って「成瀬ダムをストップをさせる会」で、上映会企画のニュースが入った。

DAMNASTIONチラシ

先日「成瀬ダムをストップをさせる会」は、上映会を成功させるために試写会を開いた。「DAMNASTION」のSTORY に次の言葉があった。

「自然の良さは人間が何もしなくてもいいこと。ただそのままにしておけばいい」。

地球の血管にも例えられる川。ダムが及ぼす影響は、私たち生き物すべてに及ぶ。ダムが撤去された時、川は解放されみずから元の姿に回復していく。本作品が映し出す川の生命力と美しさは、人間も自然の一部なのだということを改めて気づかせてくれる。そして、技術により自然を征服してきた過去と決別し、新しい未来をつくりだす希望の光を見せてくれる。製作責任者はパタゴニア創業者のイヴォン・シュイナード。共同プロデューサーは生態学者で水中写真家のマット・シュテッカー。

映画はダム推進派、反対派の意見を取り上げ、効率の悪くなったダムの撤去を呼びかけている。ダム開発によるアメリカ先住民の苦悩が描かれ、ダム開発で期待された効果が必ずしも達成されない現実を訴えている。

日本には2700基のダムがあると云われている。この映画を観るとダム開発、ダムの効果等に疑念が湧いてくる。ダムネーション企画プロデューサーのマット・シュティッカー氏は語る。

「米国にダムがクリーンエネルギーを供給しているとする「神話」があります。ダムからは二酸化炭素の35倍の温室効果のあるメタンガスが排出され温暖化が促進している、研究によると世界中のメタンガスの排出は世界中のダムや化石燃料が原因かもしれないません。だからダムはクリーンエネルギーを供給しているとはいえません。それにダムは川の生態系を破壊します。ダムはクリーンであるという論理は成立しません」と語る。

日本では熊本県球磨川水系の荒瀬ダムが2012年から撤去が始まっている。河川周辺の生態系の再生や魚介類の増加が報告されている。

映画「ダムネーション」は、「ダムは過去の遺物か未来への資産か」と呼びかける。各地で反響の大きい映画が、秋田県南で上映される。「成瀬ダムをストップをさせる会」では「DAMNATION」の上映会を開催する。開発の名で自然環境へ人間が手を加えることで、取り返しのつかない結果を生み出すことがある。沖縄では地域との合意なしに、国家権力で辺野古基地建設を強行している。各地にも似たような事例は多い。かつて只見町の議会特別委員会の報告、「デメリット」は充分考慮されなければならない。地域に住む者には地域環境を変える開発に重大な責任が伴うのだ。多くの人に関心を持ってもらいたい。

この映画「ダムネーション」は「建設あり」の開発に大きな警鐘をならしている。

 「ダムネーション」上映会 アメリカのドキュメンタリー映画

 期日 3月8日(日)13.00開場 13.30上映(87分)
 場所 横手市 サンサン横手 
 料金 当日券700円 高校生以下無料

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アニマルトラッキングと桐

2015年02月08日 | 地域
首都圏に雪情報の2月5日、当地方は朝から快晴。2月4日は立春で満月。朝方ちょっぴり雪があった。せいぜい1センチにほどだから雪が降ったとは言わない。この時期恒例のスノーシュー探索。動物の足跡と自家の山林の見回りが目的だ。いつものことだからアニマルトラッキング等とゆうのも少し大げさだ。しかし今年の里山はいつもの冬と少し違うウサギの足跡が多いのだ。



スノーシューで歩き始めて間もなく足跡、集落の周りを回って山側に続いている。キツネかと思ったがどうやらタヌキ?かも知れない。水路と土手と畑上の平らな所は、廃寺となった妙音寺の引導場とも言われている場所になる。後にこの足跡はその道に詳しいO氏からテンだろうとの指摘をうけた。



ヤマウサギだ。2羽がそろって歩いたらしい。ウサギを匹ではなく羽と数えたのに諸説がある。長い耳が鳥に似ている。肉が鳥に似ている等言われてきたが、「獣の肉禁忌とされた時代」に「鳥に見立てた」との説。それを裏付ける文献として大正時代に書かれた。南方熊楠「十二志考(2)兎に関する民族と伝説」がある。それによれば「従来兎を鳥類と見做し、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由」とある。一般的には一匹二匹の数え方になるだろうが、ウサギとのかかわりがほとんどなくなった今では、誰も数え方等問題にしなくなった。



上の足跡はわからない。数年の探索で初めて出会う。カラスではなくヤマドリだろうか。狩猟免許を持っていた友人T君は、この場所にはヤマドリが必ずいたと話していたことを思い出した。集落で狩猟免許持っていたのは平成になって彼一人だった。鳴り物好きといわれた彼はライフル免許を持ち、さらに打ち上げ花火師だった。亡くなって10年近い、「村のマタギ」がいなくなりこの10年ヤマドリ等を捕る人がいなくなった。捕る人がいなくなっても格別増えるわけでもなさそうだ。それも自然界のバランスなのだろうか。こどもの頃、村には数人の鉄砲撃ちがいた。大人達におだてられてウサギ狩りの勢子をしたことがあった。傾斜の強い杉林でにわか仕立てのウサギの追い出し係、大声に驚いたウサギが頭のはるか上を飛んで逃げたことを思いだす。声を枯らしてのウサギ追いの褒美は「ウサギ汁」だった。あの頃は里も山も冬はウサギの足跡はいたるところにあった。



いつもの沢を超えて杉林に入ったらウサギの他にこの足跡。あまり大きくなさそうだ。2,3日前のものか、歩いた足跡の上に雪が少し、鳥か獣かわからない。



これは数日前のタヌキ?の歩いた所を今朝方ウサギが通ったようだ。この足跡も先のものと同じと思える。タヌキではなくテンということになる。夜行性のテンはまだ見たことがない。ここ3年ほどの探索で初めて出合った足跡になる。町の中心部から1kも離れていない場所、動物の種類が増えたような気がする。



木の芽等が雪に隠されてしまうこの時期、若杉の根元には雪が少なく枯草か木の芽があるのだろう。ほとんどの杉の木の根元に足跡がある。昨晩はおだやかな天気の満月だったから、この杉の木の周りでウサギの井戸端会議があったらしい。満月にウサギはお似合いだ。



集まり後散会、四方に分れた。上の写真は一緒にこの場所から離れ並んで歩いた足跡。なにかほほ笑ましい、親子のウサギだったのだろうか。ここ20年ほど前からこの地域でヤマウサギが激減していた。反面キツネが増えていた。この近くの草地には親子づれのキツネが毎年のように出てきていた。ヤマウサギの激減はキツネのせいだろう等話していたが、今年はウサギの足跡が多い。数年君臨してきたキツネの世界に変化が生まれたようだ。

この冬は雪の少ない分、杉林の被害がほとんどなかった。雪折れ、倒木がないのは数年ぶりだ。被害といえば一本の桐の木が雪の重みで倒れていた。酪農拡大を目指して昭和52年一部傾斜30度もあった雑木林を草地に変えた。草地の切り土部にどこから飛んできたのか桐が芽を出した。草地管理の傍らこの桐の木を残してきた。切り土の肥えた土と草地の養分で一本の桐の木は年々大きく育った。

30年近くもなると直径40㎝位にもなっていた。かつては村にも、桐の木を買う業者が回ってきたが近年ほとんど来ることない。湯沢地方は桐の産地と云われている。数年前、伐採し桐市場へ搬入等と考えていたが、伐る前どういうわけか枯れてしまった。枯れた桐の木もここ数年の大雪に耐えていたが、この冬の雪でとうとう倒れてしまった。倒れた桐の木はこんもり雪の山になっていた。ここにもウサギの足跡があった。数年切崖、八坂神社を中心に昨年まで見られたカモシカの足跡はない。この冬からエリヤを変えたのだろうか。少し気になる。
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雪崩と雪の模様

2015年01月29日 | 地域
一月も末でまだまだ寒さは続くだろうが、4年続きの豪雪も今年は一変した。雄長子内岳、雌長子内岳は正月前から雪崩が見られる。立春まで少しだが暦の上ではまだ大寒寒さの最も厳しい時期だが雄、雌長子内岳の雪崩現象はひっきりなしに続く。雄長子内岳から三本鎗山を含む一帯は火砕岩(流紋岩質)と呼ばれ滑りやすく雪崩が頻発する。全層雪崩というのだろう。雪崩の後は土が黒々と遠くから見える。雪崩の後降った雪が積もり暖気が来ると同じ場所に又、雪崩が発生する。繰り返される雪崩と急峻な地形には灌木しか育たない。街部のすぐ側に雪崩現象が見える風景は珍しい。

2015.1.27 雄長子内岳の雪崩  奥の山も雪崩直前の亀裂が多い

雄長子内岳は町部のすぐ目の前の山で標高470mとそれほど高くはない。近年秋田のピラミットと言われ登頂を目指す人が多くなった。山全体が岩肌で急傾斜、登山道は整備されてはいない。雪崩が頻繁にある冬山への登山は進められない。30年ほど前にキノコ採りに出かけ滑落の事故があった。

「高橋喜平」氏は岩手県出身の雪崩研究家でエッセイストだ。氏の随筆「雪崩夜話」は次のような書き出しで始まる。「雪崩は雪の葬送である。その誕生の荘厳にして華麗なる較べ、その葬送はあまりにも悲惨で残酷である、、、」と雪山の遭難を悲惨なものとして書かれている。更に随筆には「私の住んでいる村に <百間ビラ> と呼ばれている雪崩地がある。当地方では底雪崩や急斜地をヒラと呼んで、ヒラが地名を指す場合にはピラまたはビラたなることが多い、、、、、、アイヌ語でピラといえば急斜地を指す」とある。

当地方でも山の急斜面を「ヒラ」と云い、高齢者はヒラの雪崩を「ヒラ突き」と言っていた。高橋氏のいうアイヌ語のピラのなまった言い方だろうか。「秋田の言葉」秋田県教育委員会編 無明舎によれば、県内ほとんどで「ひらちぎ」と呼び、『雪崩。「ひら突き」か。「ひら」は急斜面を意味するが、そこの雪を突いたら雪崩が生じる』とある。昭和30年代の当地区の鍋釣山には毎年のように雪崩が発生した。当時暖房用の薪伐りが村のあげての行事だった。急峻な山の立ち木が伐られるので、雪崩が当然のように山裾の沢まで流されてくる。そのため下部にある持ち山に植林はできなかった。燃料革命が浸透し薪伐りをしなくなった40年代になって親父は我家の持ち山に杉を植えた。今では鍋釣山の樹木も5、60年も経過した雑木林となっている。内沢では雪崩が起きるヒラは極少なくなった。

当地方のこの冬の初雪は11月15日だった。山々や住宅の屋根が白くなったが朝方から小雨になり、雪はすぐ消えてしまった。その後好天が続き12月2日になり翌3日にかけて降雪、除雪機始動するくらい積もった。この雪は消えず根雪になってしまった。初雪同然の積雪がそのまま消えることなく根雪になったのは近年記憶がない。誰しも5年連続の大雪になるのか等と心配し、早々の屋根の雪下ろしを済ませた。しかしその後は降ったり、止んだりの小康状態が続いている。当地方の雪質はいつもの年より水分が多く過去4年と比べて雪は少ない。今のところ積雪はせいぜい1mぐらい。下の写真は昨年の育苗ハウスの積雪の状態。約230㎝はあった。

 2014.1.25 ハウスの積雪

例年より水分の雪質はいつもと違う景色を作り出している。傾斜の強い土蔵のトタン屋根にはきれいな雪の模様があった。自然は不思議な造形を見せてくれる。

2015.1.17 土蔵の屋根雪 1

拡大すると下のようになる。屋根のトタンは横長尺という葺き方になる。平面的なトタンにどうしてこの幾何学的ともいえる模様はできるのだろう。乾いた雪には見られないが、湿った雪には水蒸気が多く補給され、雪の結晶形も発達し粘着力と粘性があるためにこのような造形が生まれるといわれている。

2015.1.17 土蔵の屋根雪 2

例年だと湿った雪になるのは春近くになってからだが、この冬はいつもと違う。日本海の海水温がいつもより高いといわれているのが影響しているのだろうか。これも異常気象というべきかもしれない。

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地域の人の本

2015年01月23日 | 地域
若い頃から本屋に行くのは大きな楽しみだった。当時湯沢に本屋が三軒、十文字、増田に一軒の計五軒。夏は自転車で始まりバイクへ、冬はバスで約往復30kを一日がかりで回った。当時岩波新書が150~180円のころ本を買うのに金も少なく、ラーメン代50円より安い一つのパンで昼食かわりにした。冬湯沢から10kの冬道、吹雪でバスが時々不通になり2時間半もかかって山谷峠を超えたことが何回かあった。その後上京する機会が出てくると、夜行で湯沢駅を発ち早朝上野駅に着くと、早々に山手線で神田の古本屋街を回るのが唯一の楽しみだった。

現在は一時より本屋に行くことが少なくなった。欲しい本はネットで求められるようになった。湯沢の町に古くからあった本屋は閉店して何年になるだろうか。近年大きな新しい本屋が誕生し時々でかけるが圧倒的に古本屋に行く機会が多い。近くのブックオフへは月に2、3回訪れる。時には貴重な本にめぐり合う。特にジャンルには無頓着だが、いつのころからか秋田県内出身者の著書に出合うとつい求めてしまう。昨年暮れから一ケ月程で求めたのは以下の本になる。

平田篤胤       伊藤永之介         無明舎
鷹匠         伊藤繁治          イズミヤ出版
千刈狸の呟き     社団法人本荘市由利郡医師会 北星印刷
正義と思いやり    小助川清蔵         無明舎
お化けの出る田んぼ  奥規一           イズミヤ出版
詩集 北の盆地    石塚昌男          無明舎
詩集 リバティの自由 小松和久          秋田文化出版
詩集 海色のセーター 藤原祐子          秋田文化出版
詩集 さぎ草に    藤原藻都          秋田文化出版

あるとき古本店から帰ろうとして車に戻ったら、憤然とした顔つきの人が出てきた。あまりにも印象的だったので初対面ながら「なにかあったのか」と聞いてしまった。そしてら、「本を整理しようと持ってきた本が全部で150円だというので、バカにするなと言って怒って出てきた。この本だってそれぞれに思い出がある。自宅の本棚に戻すことに決めた」という。文庫本や箱入りの本など紙袋の冊数は結構あった。顔を紅潮させて怒顔で出て行った。蔵書にはそれなりの思いがあるのは当然のことだ。カウンターにはひっきりなしに本が持ち込まれる。比較的若い世代が持ち主のいなくなった本を整理に来るのだろうか。ダンボールで持ち込むこともある。そんな中から時々謹呈のしおりの入っているのもある。今回の9冊は価格100円プラス税の108円。それぞれの著者の本が、売価108円となると複雑な思いになってしまう。仕入れ価格は1/10程度と聞いたことがあるが実態はわからない。



秋田の特に県南の著者の本に出合うと宝物にあったように気分になる。面識はないが同地域の人が書いたと知れば無性に親近感がわくのはなぜだろう。さらに農業駆け出しの頃「秋田農村文化懇談会」を知り、会合があればなるべく参加していた。この会合で小坂太郎氏等詩の集団「第三群」や「むのたけじ」氏と同席できるのは格別なことだった。「農への挑戦」を心に決め、農に向かう覚悟、叫び等に飢えていた20代前後「農民詩」の分野に足を踏み込んでいた。「秋田農村文化懇談会」での懇談は当時の唯一心の解放につながっていた。ただ、自ら詩を書くことは出来なかったが農民詩の分野に足を踏み込んでいた。その感覚が残っていてブックオフ等で秋田県出身者の書いた詩集等に出合うと迷わず求めてしまう。

以下は今回約一ケ月の間に出合った本の読後の一言。

「平田篤胤」伊藤永之介著 無明舎 2009年この書は昭和17年(1942)偕成社版を底本として書かれている。平田篤胤は安永5年(1776)生まれ、天保14年(1483)68歳で亡くなっている。明治維新の26年前だった。江戸時代の国学者4大人の一人、伊藤永之介の執筆動機は同郷、同地域の人間的な関心だったという。巻末に佐々木久春秋田大学・秋田県立大学名誉教授の『解説-神道「平田篤胤」を描いた永之介』がある。

「鷹匠」 伊藤繁治 イズミヤ出版。平成12年 伊藤氏は十文字出身。長らく増田農協の参事だった。「鷹匠」は山形県真室川町の鷹匠、沓沢朝治氏との出会いから交流を記している。その他句集や随筆、小説等幅広い。357ページの豪華本。庭師加藤東吉伝は興味深かった。十文字梨の木の庭師のルーツを知る。伊藤氏はこの本で増田町の地主佐藤清十郎邸の庭園が庭師加藤東吉作であることを記録している。その中で庭石として私の地域の沢から庭石を運んだことが書かれている。この石を「川連石」と紹介している。地元では「内沢石」といい、「内沢石」も沢の最奥の「オヤシキ石」が最高のものと言い伝えられてきた。今回この書で「川連石」と呼ばれていることを始めて知った。増田の地主清十郎宅へ小作人が冬そりで運んだと語られてきた。この地域で庭石の最高は「川連石」と伊藤氏は紹介している。今から20年ほど前、内沢治山工事で所有の山林が計画に入った。当時工事の際重機でストックしていたのを知った伊藤氏が来宅。庭石談義したのが思い出される。農の恩師、平鹿町の加賀谷宅の庭石はその時運ばれた。

「千刈狸の呟き」 社団法人本荘市由利医師会編 北星印刷 平成9年は本荘市・由利郡医師会報である。昭和57年から平成9年までの15年間の毎月のエッセイ集で45のペンネームが見られる。このエッセイ「千刈狸の呟き」はなかなか面白い。この本は 謹呈 のしおり付きで真新しい。

「正義と思いやり」小助川清蔵著 無明舎 1998年 この本は「長谷部七郎、誠の政治家と共に歩んだ半生を、その父子の活動史と重ねながら語るユニークな自分史」とオビにある。長谷部七郎氏の衆議院選挙昭和44年、昭和47年に関わった一人として懐かしい本だった。

「お化けの出る田んぼ」奥規一 イズミヤ出版 平成9年刊 横手市醍醐 平成4年刊「回想60年」につづいて第二集がこの本という。農業あれこれ 変わりゆく社会 甘酸これ人生の三つの柱になっている。農民は稲を作るとは言わず田を作ると言った。「お化けのでる田んぼ」とは田んぼの水ひきの時の逸話。各地に水引の話が多い。田んぼが整理された現在ではこの種の話題はほとんど聞くことがなくなった。

「詩集 北の盆地」 石塚昌男 無明舎刊 1929年生まれ 秋田県現代詩人協会は1991年発足。会員数平成21年現在で74名。昭和詩年表によれば昭和47年(1952)に横手市で詩誌「三叉路」を創刊している。

  はざま邑の秋

 冷夏がくしゃみしながら
 はざま邑の季節は
 葉がくれに小さな朱い実を
 のぞかせている

 反当り一俵弱
 猫のひたいほどの田んぼ
 議員先生方の作業服姿に
 不稔田に立つ百姓は寡黙
 、、、、、、

 呆然としているだけですか
 問いかけのむなしさ
 、、、、、、

冷害を子供たちの目を通して見つめる教師、「イネの花」でヤマセを「ままかせね風」(ごはんをたべさせない風)と呼ぶ子供たちの確かな視点を通して邑を見つめる。平成5年の大冷害が目の前に浮かぶ。

「詩集 リバティの自由」 小松和久 秋田文化出版 2005年刊 面識はない。唯一の接点はこの方の父親が小学校の教頭先生だったこと。校長不在で教頭先生があいさつすることになれば決まって雨。生徒と父兄から「雨降り教頭」のあだ名があった。そして同じ町出身。詩集に収められているのは難解。農民詩の分野とは違う。

詩編ではなく前書きに次の語句がある。「自由とは自己にあって現存の存在に一体何を値わしむるを人間としての値とする、、、父を不義、不幸で亡くした私にとって自己との闘いと葛藤、、、、時間の空間の時の中で父と語る様にして「リバティの自由」という題目をつけて三十八編、、、とある。

「海色のセーター」藤原祐子 秋田文化出版 1999刊 詩集「海色のセーター」の題字は秋田県北の農民詩人、畠山義郎氏。海の詩が多い。最後のページの次の詩が秀逸、しばし沈黙。

   女
 
 

ときどきはくらげ
 いのちをつむぐ
 海を抱き
 いのちを放つ
 海をまとう

 抱いた海と
 まとった海とに
 いくばくかの
 ちがいがあるのか

 海の呑まれもせず
 とけもせず
 泣いたり
 笑ったり

 透けたからだで
 海を抱き
 海をもとう

「さぎ草に」高橋藻都詩集 秋田文化出版1996年刊 湯沢市 「鬼籍」で始まり亡くなった夫への語りの詩であふれている。詩集名のさぎ草は夫の好きだった花で詩集を「さぎ草に」としたという。  

   莫妄想

 雨が止んで
 夏椿のてっぺんが紅葉した
 枝に再びかることがないのに
 モスグリーンの小さな芽を
 しっかりしのばせて
 散る支度をはじめている

 、、、、、、
 、、、、、、
 生きていこうとという心の旅券を
 ひそかに 握りしめる

 、、、、、、  
 、、、、、、
 孤独の獲得への意欲を点火し
 私の胸の斧は音もなく燃えている

「莫妄想」は1990.10に「あきたの文芸」に初出とある。生への決意と強さがみなぎっている。

 

               
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雪の足跡とスズメ

2015年01月08日 | 地域

各地で大雪が報道されているが、当地方は4年続いた豪雪から一転、比較的静かな年の瀬を迎え、新年になっている。昨年は大雪で、正月早々菩提寺神応寺の雪下ろしが行われてた。この冬は暮の12月3日から連日雪降りとなり、とうとう消えることもなく根雪となった。5年連続の大雪にを予感される雪にほとんどの家で正月前に屋根の雪下ろしを終えた。

しかし、例年より気温が高く推移し屋根の雪下ろしも穏やかな天候だった。好天の日一日がかりで車庫、作業舎を終え二日目には住宅の雪下ろしをした。各地で雪下ろしで転落事故が報道されている。天気が良いと屋根の凍りが解けすべりやすいので必要以上の注意が要求される。やっとのことで屋根の上部へたどりつく。下を見たら隣の畑にキツネらしい足跡。朝の太陽の光できれいに見える。数年前までは500mほど離れた草地にキツネの一家が棲みついていたが、家の周りで足跡を見るのはしばらくぶりだ。エサを探して家々を回っているらしい。昨年にぎやかだった家の下のアナグマは今年の冬は他の場所へ移ったらしい。この冬初めての動物の足跡。


キツネの足跡 2014.12.29

いつもの年より暖冬気味の正月、昨年は柿の当たり年のせいか隣家の柿はまだゆっさりと枝から落ちないでいる。カラスやカケスの他にヤマガラ、シジュウガラも時々やってくる。いつもの冷え込みが緩いせいか当分落ちそうにない。


柿の実 2015.1.4

ブログで一昨年2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」、2014.7.29「帰ってきたスズメとサンクチュアリモドキ」を書いた。この秋雪囲いの際、野鳥のエサ台を屋根の軒元によせておいたらこの冬も来るようになった。朝玄関前の除雪に出ると屋根や電線に数羽で待っている。作業後のクズ米を待っているのだ。雪が降らず除雪作業の無い日は、屋根越しの居間の窓際に催促にくるようになった。


スズメ 2015.1.5

スズメは屋根や電線に止まり視ている。エサ台から少し離れると待っていたように群れでやってくる。まだ警戒心が強く視線が合うと飛び立ってしまう。下の写真は約5m離れたところからやっと撮れた。それも車庫のシャッターを少し上げ、下から望遠レンズでも微かなシャッターの音が気になるらしくすぐに飛び立った。人の気配が無くなるとすぐにやってくる。それでも雪のない時期から約一ケ月、日増しにスズメとの距離は近くなってきた。



コメント (1)
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