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年賀と初詣

2015年01月01日 | 地域

2015年の年賀ハガキ

2015年元日は穏やかな朝を迎えた。朝9時半八坂神社へ恒例の初詣。近年の元日には珍しく太陽が見える。初日を仰ぎながらの初詣は何年ぶりか。12月3日から降り続いた雪は約1m積っている。正月前の屋根の雪下ろしも近年記憶にはない。いつもより水分を含んだ雪だ。 


国見嶽の初日

早朝降った雪が杉や雑木に収まり、朝日に照らされまぶしいくらいだ。


八坂神社鳥居


八坂神社本殿

昨日は夕方から雪となったが比較的穏やかな大晦日、除夜の鐘後の参拝がいつもの年より多かったそうだ。「この道しかない」等と自賛の政局。不安の時代の反映だろうか。途中一人と一家族に新年のあいさつをする。参拝後神社でお神酒をいただき、帰りに庚申塔の側の大黒様も参拝する。この大黒天がいつのころから八坂神社境内にあったのかはよくわからない。庚申塔「青面金剛童子」の三体は寛政4年(1792)建立で、この大黒様も同じ時代から鎮座されているのかもしれない。いずれ調べてみたい。

八坂神社 大黒天

フリー百科事典ウィキペデアに大黒天の解説がある。「日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される」(引用)とある。いつの時代も豊穣を願い参拝してきた歴史を想う。


帰りの石段から鳥居

すべりやすい石段を一足、一足確かめながら下りた。鬱蒼とした杉木立の石段から見る鳥居もいつもより神々しく見える。
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650億円の総選挙

2014年12月21日 | 地域
「自民党の圧勝に終わった今回の衆院選」との報道がある。650億もかけて、「大義なき総選挙」等といわれながら強行した。終わってみれば議席数295から291に減らし、公明党が議席を31から35として、与党の議席数は選挙前と同じだった。一部に「ネット保守」の実勢を読み違えたとの説もある、次世代の党は19から17も議席を減らし2議席。次世代の減らした分を民主と共産が増やした。選挙前より確実に後退したと見えるのに「圧勝」などとマスコミは宣伝している。

安倍首相は、総選挙中莫大な資金を広告費用に費やして国内のマスメディアを押さえ込むのに成功したといわれている。マスメディアは世論調査の結果と称して告示直後に、自民党当選者が「300超~320~340」などと報道した。しかし、総選挙が終わり圧勝予想の議席数が300以下という数字が出て、開票当日テレビの安倍首相の不機嫌な態度にはあきれるしかなかった。選挙の結果はマスコミの過剰な報道の中で有権者は最低の良識を守ったともいえる。しかし、懐柔対策外の海外の調査会社では、早くから「300」には届かないという結果は予測していた。

振り返ってみると自民党は衆院解散の前日、在京のテレビ局各社に対し、選挙報道の公平中立などを求める文書を送っていた。毎日、朝日、東京新聞が11月28日朝刊でそれぞれ社会面に大きく伝えた。東京新聞は11月29日の社説で「賛否を足して二で割るのが『公平、中立、公正』というわけではない。政権や政策の問題点を批判し、議論の材料を提供するのは報道の重要な役割で、公正さの判断は視聴者である有権者に委ねられている」と常識的な報道をした。             

今回告示後12月4日、朝日新聞は首都圏では「自民、300議席超す勢い、民主伸び悩み、維新不振」。同じ朝日新聞で秋田の一面は「自民、300議席うかがう 民主上積み、共産勢い」。記事内容は同じで見出しの「民主伸び悩み、民主上積み」の違いはどこから来たのか。在京の各紙は示し合わせたようにほとんど同じ報道した。各自の調査といえばそれまでかもしれないが、見出しも右ならえとばかり同じになると不気味な感じさえ漂ってくる。さらにテレビも与党圧勝を報道。偶然の一致とは考えづらい。公示3日でこの報道によって確実に投票率の低下を招いた。

 引用

更に総選挙の翌々日12月16日に、主要マスコミとの食事会を開いた。政権とマスコミの癒着ぶりをさらけ出した。告示早々の「圧勝報道」の謝礼にも見える。

朝日新聞は12月17日の朝刊首相動静の欄に後6時59分、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」。意識的なのか出席者の名は抜けているが、朝日新聞デジタルの首相動静一覧では『6時59分、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」。時事通信の田崎史郎解説委員、朝日新聞の曽我豪編集委員、毎日新聞の山田孝男特別編集委員、読売新聞の小田尚論説主幹、日本経済新聞の石川一郎常務、NHKの島田敏男解説委員、日本テレビの粕谷賢之解説委員長と食事』。とある。

 引用

「国境なき記者団」という、1985年設立の言論の自由(または報道の自由)の擁護を目的とした、ジャーナリストによる非政府組織がある。毎年各国の報道の自由度を公表している。日本は2010年までは世界の中でトップクラスの順位だったが、福島第一原子力発電所事故に関する情報開示、記者クラブ制度の閉鎖性、2013年の政府情報の隠ぺいを可能にしたとも受け取られる特定秘密保護法の制定などで信頼を失った。その結果2010年11位から2013年は59位となっている。

アジアで日本より上位は韓国57位、台湾50位等で日本の前後はチリ58位、モーリタニア60位となっている。先進国の中で特に悪い状態でG7の中では最下位に転落、アフリカの多くの国と一緒に「問題な状態」に指定されている。

メディアは、本来の役割が権力の監視機能なはず。政権との癒着で日本の劣化はますます進行していく。政権は圧勝の名のもとに傲慢な政策の強行を予感される。2014年衆院選は政権とマスコミの癒着をより明確にさらけだした。


 

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西山散策と菅江真澄

2014年12月05日 | 地域
12月1日好天に誘われて、今年最後の西山散策に出かけた。いつもだと温泉の緑風荘を通過し旧山谷峠付近の児童公園、生活環境保全林整備事業で整備された散策道が中心だ。いつも鍋釣山の麓から湯沢方面の西山を見ていると、反対の西の山谷峠付近から東を眺望して見たい衝動にかられる。季節ごと何回か回るのが習慣になっている。どこの地域にもそれぞれの歴史があるのは当然のことだが、直線距離でせいぜい4kほどしかない鍋釣山の麓を眺めていると、日常と違う感慨に耽けてしまう。今回は10数年ぶりに山谷トンネルの一つ向こうの峰から稲川盆地を眺めてみようと想いたった。

川連から湯沢市街に向かう国道398号線の山谷トンネルを抜けるとダリヤ園がある。左にカーブし旧道に入り、林道山院線に入って300mほど走って車を止める。正しい山の名は定かではないが「峠沢山」といわれれているかもしれない。湯沢市が合併前からダリヤ園から散策道を作っていて、この度荒れていた散策道に手を加えられていた。

市民の森 2014.12.1

整備して間もない散策道はすこぶる歩きやすい。小高い峰に沿って南に向かう。田んぼと遠く稲庭方面が見える。この場所は旧児童公園の西側に位置している。林道から10m位上ると398号線の国道が見える。道路はさんで東側は山谷トンネルのある稲川方面から見て西の山。旧山谷峠から北の稲川スキーまで15.67haの生活環境保全林整備事業で散策道等が整備されている。菅江真澄の描いた図は今回歩いている峰と、旧稲川町で整備した散策路との中間に位置する。その距離は直線で200m程と思われる。現在はダリヤ園の側から新しいトンネルができて昔の峠道は歩くことは出来ない。

菅江真澄全集第五巻雪の出羽路 雄勝郡 ニ 勝地臨毫

上は菅江真澄文化11年(1814)がこの地に来て描いた図絵で、この図に書かれている奥、石堂の鳥居のある山と思われる右側の峰を今回歩いてみた。この図の説明によれば、この峠を湯沢峠、またの名を梨の木峠とある。又阿麻陀弖とは何をさすのだろう。調べてみたら古事記に『阿麻陀牟(アマダム)の文字があり、雁等にかかわる枕詞の「天飛ぶ」を阿麻陀牟と書くことから飛ぶをタムと云った、雁、鶴か?』との説にぶつかった。しかし、阿麻陀弖(アマダテ?)とは別の意と思われるが確かなことはわからない。菅江真澄はこの地を「烏舎森山より見わたしたいとおもしろき処也」と書いている。現在の地図にはこの地に湯沢市観光クリ園があって地図上では広沢山となっている。広沢山の西北に取上石山がある。菅江真澄のいう烏舎森山はもっと湯沢市街寄りと思われるが、地図探索では烏舎森山の位置はわからない。見渡したらおもしろき処というこの図絵は、この山からの想像した鳥瞰なのだろうか。

しばらく進むと山側の左から駒形町八面仙道集落、中間は川連町野村、その奥山側に川連集落が見える。手前は久保集落の一部。児童公園より少し高い位置からの眺望で菅江真澄が通った峠から約50m程高い位置となる。中心部右側の少し大きな建物が川連小学校、山際は中心部は鍋釣山で、遠く雪の焼石連邦が望まれる。

駒形町、川連町一部 2014.12.1

この散策道で小高い峰を少し下がると雌長子内岳、雄長子内岳が見えた。この位置からだと雄、雌の名の山が反対に見える。いつも麓から見える雌長子内岳は丸くなだらかに見えるが、ここからの眺望では急峻で別の山に見える。

左が雄長子内岳、右が雌長子内岳 2014.12.1

下の図は菅江真澄がこの峠を下り、現在の皆瀬川の久保橋を渡らないで、右側の山裾を飯田方面に向かっての雄長子内岳、雌長子内岳の図絵と思われる。


菅江真澄全集 第五巻 雪の出羽路 雄勝郡二

菅江真澄 雪の出羽路 雄勝郡 二 飯田村 伊比多「稲川町」に「三梨子の羽竜なる雄銚子山、また大館の雌銚子山とて其形刺名倍に似たる二ツのやまあり」とある。刺名倍はさし鍋(なべ) のことで、弦(つる)と注ぎ口のある鍋のことです。お酒などを温めるのに使った。現在、雄長子内岳の長子内を当時は銚子内の字を使っていた。長子内に変わったのは何時のことからだろうか。


左雄長子内岳 右雌長子内岳 皆瀬川久保橋付近から

好天の12月1日西山散策。比較的恵まれていた晩秋の一日だった。

散策を終えた翌日、大義なき総選挙公示と同時に雪となった。30cm近く積もった。選挙戦も今日で4日目。候補者のポスターは張られているが、選挙戦恒例のスピーカーからの声は聞こえない。選挙が終わっても混乱は続く政局が予想される。




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小沼神社 仁王門

2014年11月25日 | 地域
このほど大仙市豊岡の小沼神社、仁王門の金剛力士像が新しくなった。彫刻家皆川嘉左エ門氏が製作と11月7日にテレビニュースで報道された。小沼集落出身で湯沢市在の山中さんが製作依頼し、このほど完成し安置された。11月8日に入魂式が行われたという。

仁王像の製作を依頼され、製作に取りかかっていることは昨年から知っていた。アトリエに出向き製作現場に立ち会いたい等と思いながら、果たせないでいた。旧知の皆川氏は平成12年横手市大雄の重福寺の仁王像も製作している。重福寺の仁王像をアトリエで初めて見たときは、その大きさに度肝を抜かされた。九州産の楠、高さ約3.6mの巨像、平成11年4月から作業を始め平成13年4月完成。重福寺に収めるられる前に開いた展示会に述べ1000人以上の参観者があったという。重福寺に運ばれる前日、梱包作業に入る直前に出合った。

今回新しくなった小沼神社の仁王像、仁王門に安置された姿を尋ねてみた。大仙市豊岡までは自宅から約50k。広域農道「みずほの里ロード」でドライブ。この道路は、仙北市から横手市まで連絡する全延長39.7kmの農免農道で、平成2年度着工され平成19年度完成した道路。さらに広域農道(雄平東部地区、横手市から湯沢市川連町)に近接し接続されている。約一時間で小沼集落に着いた。


小沼神社 仁王門 2014.11.13

ネットで小沼神社は、「みちのく秋田探訪記:神社建築編」によれば次のように紹介されている。

『小沼神社概要 案内板によると「小沼神社は小沼観音堂とも呼ばれ、ここ小沼山の山頂にあります。昔は、神社前の沼に中島があり、それに6尺(1.8m)幅の反橋が架けられ、ここを渡ってお参りしたと言われています。養老2年(718)の草創と言われるこの神社は、平安時代の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」の2体が安置されています。いずれも欅の一本造りで、等身大の量感あふれる作品で、当時の仏教芸術の極地を見る事ができます。

このほか、室町時代の作と言われる彫刻「僧等首」があり、いづれも県の重要文化財に指定されています。また、中にある厨子は唐風造りで、総採色の上神殿には二体の獅子頭が保存されています。山頂には白山神社、諏訪神社、長床跡のほか、地名の由来ともなった峰の小沼は現在も耐えることなく清水が湧き出ています。文政11年(1827)、菅江真澄はここを訪れ、古老の言い伝え交え神社の、由来を詳しく書き残しています。」とあります。参道の途中には神社山門があり、仁王門と呼ばれています。左右には金剛力士像が神社を守っています。小沼神社は熊野信仰とも深い繋がりがあり、近くにある金峰神社にも山門があることから、ある種のスタイルのようなものがあるのかもしれません』。


小沼神社 鳥居 2014.11.13

小沼神社の鳥居の左側に「菅江真澄の道」小沼山観音の標柱がある。標柱には文政十一年(1828)小沼山を記録月の出羽路仙北郡 平成3年11月 中仙町菅江真澄研究会とある。

新しい仁王像を運ぶために整備されていたので、仁王門までの参道は登りにもかかわらず歩きやすかった。鬱蒼とした杉木立の左側には仁王門近くまで墓地が続いた。山門から仁王門まで近かった。鎮座したばかりの真新しい仁王像はことのほか力強いものだった。当然のことだが仁王像はアトリエでの姿と、仁王門に安置された姿ではその趣は全然違う。重厚な姿は重福寺でも輝いていた。今回の小沼神社の仁王像、安置された姿にある種の感動を覚えた。鬱蒼とした木立の神秘的な風景に調和していた。


小沼神社 仁王像(金剛力士像) 2014.11.13 (11.17編集)

左右に安置される二体一具なので二王とも称されたという。外敵を払い、仏法守護神として寺院や神社の門等の左右に安置されている。手に金剛杵をとり、忿怒相に表現される。開口像を阿形 、閉口像を吽形 といわれている。左側(向かって右側)には阿形像、右側(向かって左側)には吽形像を安置するのが通例となっている。上の写真は仁王門の阿形、吽形を別々に撮って一枚に収めた。

仁王門の拝観後、急峻な参道をひたすら小沼神社をめがけて歩く。鬱蒼とした杉林の参道。丸太で階段状に整備されてはいる。廻りの草木は刈り払われ管理されて見えるが、多くの人が歩いたそうには見えない。途中で気付いた。斜面を掘り割りされたようだ。人工的に整備された参道らしい。

久しぶりの急坂、何回か曲がりくねって進むと右斜面が深く谷側で、けたたまし威嚇する声がした。視線を移すと親子ずれのカモシカだった。しばし、立ち止まると向かい側の杉林に消えた。 さらに歩き続ける、杉の木立にイチョウの木があり、足元は実が落ち臭いがきつい。今にもクマが出そうな気配を一瞬閃いた。冬眠前のクマはイチョウの実は好物だと何かの本で読んだことがある。なにせこの参道急峻で掘り割りの中を歩く状態に曲りくねっているので数歩先が見えない。もう少し、もう少しと反復しながら曲がり終えてもその先がまだまだ続く参道だとわかる。何回か繰り返して進むとやっと神社が見え、その前に小さな沼のところに着いた。

杉林の中に忽然と現れた小沼。絶えず清水が湧き出て、約10aの広さといわれている。その奥に佇む神社が小沼神社。鏡のような沼の面に神社が映し出されていた。杉林と沼とのすばらしい環境の佇まい、幻想的な光景。社殿には神仏習合の観音像、「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」が佇立しているという。普段は秘仏として開扉されることはなく、夏と正月の例大祭のときに限り、開帳されるという。この時期は冬囲いのビニールシートで覆われて、静寂さがより強調されていた。もうすぐ雪の季節だ。


小沼越しの小沼神社 2014.11.13

文政11年(1828)この地を訪れた菅江真澄の記は以下となっている。「十一面観音、小沼山という所に鎮座している。別当は角館の真言宗成就院である。この山は四十四代元正天皇(680ー748)の御世の草創であるとされ、霊験あらたかなのは衆目のところである。昔は小沼山源東寺と言い、古い真言宗であったらしい。観音山の麓を小沼村と言う。急な参道を登るを仁王門がある。この門を入ると山神の社がある。

この下の山沢に雷天清水があり、昔雷を祀ったものであろうか。観音堂は南向きで、前に小沼という湧水の池がある。直径十間ばかりに丸い池である。魚は鮒のみで、ここの鮒をとって喰う者は、たちまち祟りがあるを聞く。この沼に祈願する人たちは、そのお礼として鮒を放って奉ると言う」。「菅江真澄」遊覧記 月の出羽路仙北郡3 引用


菅江真澄の描いた小沼 文政11年(1828)

神道において「鈴」は、参拝時に神社の拝殿で振り鳴らして用いられる。神社の拝殿には、鈴緒とよばれる縄の上のほうに大型の鈴が取り付けられており、参拝する時は鈴緒の下のほうを手で振り動かして鈴を鳴らし、神様へ呼びかける。

参拝した後も大きな鈴に目が行く。ほぼ同じ大きさの二つの鈴。二つあっても形が大小等違うのが多く見受けられるが、小沼神社の鈴はほとんど同じ大きさだった。御神体の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」との関連はあるのだろうか。御神体から沼はどう見えるのだろうか等閃いて、神社側の鈴の間から今にも雨になりそうな杉木立と小沼を見渡すと、不思議な感動に陥った。帰りに再度二人で二つの鈴を同時に鳴らし神社を離れた。

近くに平成11年度「林業空間整備事業」の説明版があり枝打ちや間伐、天然林整備等がなされたことが書かれていた。林道が整備されていて、神社の冬囲いに訪れたのか車のタイヤ跡があった。参道に標識があり山城十六沢城跡は1kとあった。10世紀に築いたとされる山城十六沢城は、戦国時代に白岩氏が角館城主戸沢氏の支配下に組み込まれると、戸沢氏の属城となった後に廃城となったとある。 現在は「いこいの森」公園となっていて、城跡展望台から仙北平野を望めるということなので向かったが、晩秋の曇り模様の天候はとうとう雨になった。雨が激しくなり途中から退散した。汗と雨に濡れたが、素晴らし場所に佇む小沼神社を探索できて満足な一日となった。

後に仁王像を制作した皆川氏と懇談した。今回はケヤキ材で約1tの重さがあったという。重福寺のように平場と異なり、今回の仁王門は急峻な山の中、現場まで運ぶのが大変だったらしい。急な登りの参道、狭い仁王門へ安置されるまで時間がかかったことがみてとれる。今回も製作に約1年半かかったという。阿形、吽形像は仁王門に安置でその役目が果たされる。







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冬支度

2014年11月20日 | 地域
11月にもなるとどこの家でも冬囲いが始まる。ここ4年連続の大雪で庭木はもちろんのこと、住宅も被害が大きかった。大方の手順は住宅から始まる。近年家が新しくなり、アルミサッシの窓、雨戸等になり組み立て方式の冬囲いが増えてきた。かつての住居には縁側があったが、今は古い家しかない。近年の住宅は窓中心の家になり、雪囲いもほんの少しで終わる。


冬囲い風景 西側と北側 201.11.17

築100年経過した我家では在来の方式の冬囲いとなる。囲い骨組みの木、長木、稲杭の他、板、古戸等材料もかなりの量になる。

今年は比較的天候も良いので住宅の囲い前に、「ため池」の泥上げに挑戦した。住居東側の池はこの地に住宅を建てたころからで200年、以上前になるのだろうか。自前で運搬車、チェンブロックで20年ほど前、昔からの池に200~300k前後の山石で縁取りした広さ2.5坪、深さが1m程の小さな池だ。15年もほったらかしのため池には60㎝程の泥で埋まっていた。初めにポンプで水を吐きだし、泥は肥料袋に入れ、運ぶことにした。ため池の側は狭く泥を寄せる場所が無く、この方法しか案が浮かばなかった。ひたすら肥料の空袋に泥を詰める、その数70袋ほど時間にして二人で約4時間。泥まぶれの作業は好天でなければできない。翌日肥料袋の泥を一輪車にて西側の新たな坪庭に運び広げる。庭木や山野草の栄養となるだろう。


ため池泥上げ

住宅の囲いを終えて、いよいよ坪木の囲いに入る。大雪で各屋で庭木の被害が大きかったが、ほとんどの家で囲いは欠かせない。屋敷内の建物や塀などで囲まれたごく小さな庭園、家の周りの空間を昔から「坪庭」と云った。だから庭木などとは言わず坪木と当地方では言われている。1000年以上の古い村、城下町と言われた集落の生い立ちにあるののだろうか。新興住宅街は庭かも知れないが、当地方ではほとんど坪庭ではなくただ坪と言われている。

冬囲い前に全体の暴れ枝の整理、伐った枝等は軽トラ一台となった。1k程離れた雑木林ミズナラ、ヤマモミジの下に広げる。毎年の作業で、周りの紅葉をしばし眺める。新緑とは違う散り始めの紅葉も見事なものに見える。


里山紅葉  川連町外坪漆 2014.11.10

我家の気ままな新しい坪「ミニサンクチャアリ」に、自己流で沢石を配置した。30年ほど前の沢の改修工事で出た石を運んでおいたものを今回当てた。トラクターのローダーで200m離れた畑から運んだ。ローダーではせいぜい300k程の石を動かすことしかできない。造園の知識の乏しい我流の配置で専門家からみたらNGものかもしれない。


ミニミニサンクチャアリ 庭石配置

今年の囲いは比較的好天に恵まれ捗った。家の東側は屋根からの雪で囲いは見えなくなってしまう。北側は道路からの排雪、西側は毎日の玄関前の排雪と屋根からの雪ですべての坪木は埋まってしまう。除雪機の排雪で6m程の雪山になる。坪庭で雪の耐えられるのは樹齢200年程の栃の木だけだ。オンコもそれに近い樹齢と思われるが昭和45年道路拡張工事で道路が宅地に入り込み、道路ギリギリでこらえている。毎年5.6mの長木で囲っている。近年の大雪で枝欠け等があり、坪木としては貧弱だが冬囲いは欠かせない。

囲いの日数は一週間前後になってしまう。囲い作業しながら雪の少ない地方がうらやましく思える。雪囲いや屋根からの雪下ろし等必要はない。何よりも「坪木」が雪害に合うこともないから枝ぶりも見事になる。雪国の住宅は被害が増大、坪木は大雪で無残な姿をさらけだしているものもある。若い世代は坪木等はジャマだとの声も出てきている。いづれ坪庭はなくなるのだろうか。

、、、、、、、。

アホノミクス、消費税8%と便乗値上げ、円安で物価上昇の中、政権は庶民ばなれの大臣のスキャンダル隠しと、アホノミクスの失敗の隠ぺいのために、700億円ものお金をかけて総選挙へ向かうという。


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帰ってきたスズメと「サンクチュアリ」モドキ 

2014年07月29日 | 地域
「野鳥もスズメも消えた庭」は2013.12.21のブログだ。スズメが昨年暮れから春先にかけて自宅に近づいてきたのは数えるくらい。牛を飼っていたころはエサを求めて牛舎によく来た。昨秋のブログで絶対数が減っているからとの記事を書いた。

雪が消え、5月になると屋根の棟部にスズメが巣をかけた。この冬少ないスズメが営巣するのか心配だったが、今年も子育てのスズメは賑やかだった。収穫されたコメはモミの状態でJAのカントリーに運び、クズ米含めて販売してしまうが自家用の飯米分の「もみすり」でクズ米がでる。作業場の片づけで、今回残っていたクズ米を柿の木の下にこぼしてしまった。そこに数日後スズメが来た。どこかで見ていたのかもしれない。明らかに今年生まれた子スズメだった。親スズメより警戒心が緩やかに見える。

昨秋一度も野鳥が来ることもなかったエサ台、その後取り外していたのを想いだしモミジの場所に移動しクズ米を置いてみた。始め警戒してスズメは2、3日で慣れてきたのか数羽で来るようになってきた。離れてみているとスズメは独占欲が強いのか、エサ台に来る他のスズメを追い返すを繰り返していた。クズ米が無くなるとしきりに催促するようになってきた。このごろ一族のスズメだろうか、集団でクズ米を啄む姿が見られるようになった。相変わらず警戒心は強く視線が合うと飛び立ってしまう。しかし、やっと自宅の窓越しにカメラに収まった。

 2013.7.19

スズメの朝は早い。早朝4時頃になると集まり、慣れてきたのかエサの催促。しかし自然のエサが豊富なこの時期、催促されても一日一回限りのクズ米とした。自然に生きるものにとって、簡単なエサはスズメ達にとって不幸なことになるかもしれないからだ。

以前から野鳥に関心があって、一時期「日本野鳥の会」の会員だった。日本野鳥の会のホームページに「サンクチュアリ」のことを解説している。それによれば「サンクチュアリ」とは「そこは人と自然の出会いの場。そして地域の自然保護の拠点。第一に野生鳥獣の生息地の保全を目的とした場所。また保全だけでなく訪れた方がそこの自然を直接体験する場所」とある。

我家の「ミニミニサンクチュアリ」は、3年前の牛舎解体後の敷地に造成。住宅の西側に位置する。元々東側にため池があり、北側と含めて坪庭と云ってきた。東に200年以上にもなる見事な栃の木があったが枯れて数十年になる。北側の道路側にこれも樹齢180年近いだろうか、栃の木とイチイの木がある。前回のブログで17年前に畳分3枚程の広さの小さな池を造った。新たに造営の場所と連動する。造園の知識も乏しく脈絡がかけるかもしれない。

牛舎解体後の敷地に、建設会社勤務の友人の井上君が工事の際出てきたという「コマユミ」、「オンコ」、「ツゲ」等が移植したが惜しいことに80年とも思われる「オンコ」を定着させることはできなかった。昨年里山で育成していた「モミジ」5本を移植。この「モミジ」は自宅のモミジの実生から選抜し、高さが5mにもなる樹齢約20年のものだ。育成の場所から「クロモジ」、「ミズナラ」も一緒に持ってきた。50cm程の「クロモジ」は二年目で2m近くなった。

合わせて、懇意にしている建設業の後藤氏提供の「シダレザクラ」に「ナナカマド」。岩手の業者から譲り受けた「ナツグミ」、更に昨晩秋ホームセンターで50%引きで買い求めた「ナツツバキ」、「アズキナシ」、その他「ハナモモ」、「ヨウラク」、「レンゲツツジ」、「ゴヨウツツジ」、「サワワタリ」等が定着した。小鳥が好む「ムラサキシブ」もあるがすべての木は小さい。小鳥が種を運んで発芽したと思われる「エゴノキ」、「サンショウ」、「オンコ」も仲間に加わった。「サンショウ」の種を小鳥が運ぶか、どうかは今のところ定かではない。ただ、柿の木の根元に2本ある。しばらく生育を見守っていきたい。いずれアゲハチョウが産卵することになるかもしれない。今のところ産卵は確認できない。

この新たな坪庭、「ミニミニサンクチュアリ」の一番古い木は柿「オオハチヤガキ」だ。樹齢100年にはなるだろうか。牛舎建設の時も残し大雪にも耐えたが、あまりにも大きくなったので高さ5m程の上は5年ほど前に伐採。2年程前から伐採後の新梢に実がつくようになってきた。

これらの木の側に山野草を配置した。「ホウキグサ」、「ハンゲショウ」、「ヒメシャガ」、「トリモチソウ」、「ゲイビラン」、「サンカヨウ」、「カワラナデシコ」、「シロハギ」、「フジバカマ」等が植えられている。今年になって自家の里山から「ヤマユリ」、「クルマユリ」が仲間となった。木を大きくして日陰をつくり山野草を定着させたいと思っているが、まだまだ始まったばかりだ。にわか作りの庭にはなんといっても夏を彩る「ノウゼンカツラ」は格別、7月早々から咲きだした。面積は約120㎡。


「サンクチュアリ」モドキ  2014.7.25

まだかけ出しの「ミニミニサンクチュアリ」、植栽の木はまだまだ小さく小鳥が自由になるのには時間がかかりそうだ。エサ台に来るのは今のところ「スズメ」だけだ。一度「ヒヨドリ」が通過した、「カラス」はアンテナに止まり「スズメ」の動きを時々監視にくる。
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シオカラトンボとイボガエル 

2014年07月23日 | 地域
我家に小さな池が二つある。一つはこの家が建った頃からあった。集落のほとんどの家にため池があった。これは火災への対策のためだった。新しく平成9年に坪庭に一坪半ほどの池を造った。今から17年前だ。500k前後の石組の池だ。G氏に委託したら重機を持って来た。2日がかりの作業になった。周りは石組とし、中の50k程の石を中島として配置したらコケと雑草が定着してきた。平成15年頃、雑草を除去しマイズルソウとフウチソウ等を植えたら坪池らしい姿になってきた。

この池の主は「イボガエル」、「金魚」、「アメンボ」、「イトトンボ」だ。そしていつの頃からか毎年「シオカラトンボ」が生まれる。今年も見事な「シオカラトンボ」が誕生した。羽化して何日目だろうか毎年誕生の「シオカラトンボ」今日出合う。池の淵のトクサで休んでいたのをうまく撮れた。


シオカラトンボ 2014.7.6 自宅坪庭

小さな池に金魚が棲みついた。池が大雪に覆われても生存。この金魚をみるとよほどこの場所が気に入ったのか棲みついて約10年近くになる。小さな池のためか金魚が増えると淘汰されるのか総数で10匹以上にはならない。トクサで休む「シオカラトンボ」は近づくとすぐに飛び立ち、モミジの新枝に止まった。金魚と一緒になった。「シオカラトンボ」と金魚は同じ池で会話していたのかもしれない。石組みの間に植えたユキノシタが花盛りだ。


シオカラトンボと金魚 2014.7.6 自宅坪庭

今年はいつも年と違うところがある。「イボガエル」がのあの賑やかな鳴き声が極端に少ない。いつもの年よりカエルの姿が少ないのはなぜなのだろう。やっと一匹カメラに収まった。


石ゴケのイボガエル1 坪庭 2014.7.13

過去記事 「イボガエルと地震」2008-07-04、「続イボガエルと地震」2008-07-07がある。全文掲載する。

イボガエルと地震 

「我が家の居間から3メートルばかり離れた所に小さな池がある。7㎡位の溜池だ。その池に金魚や鯉など放していたが、この冬の雪でほとんどいなくなってしまった。池の主が自分たちだけになったのか、今年のツチガエル、別の名イボガエルの鳴き声は凄かった。

3メートル側の窓際のテレビの音声が聞こえないくらい邪魔な鳴き声に辟易していた。 それが岩手・宮城内陸地震の2日ほど前からピタッと鳴き声がきこえなくなった。 テレビの音が聞こえないくらいの賑やかな鳴き声が消えて、2日ほどしたらあの地震。

今月6月14日の地震。震源地から直線距離で、約50kほどしか離れていない当地の震度は5強と発表され、さすが揺れはかなりのものであった。 家のきしむ不気味な音と揺れの中で、この小さな池もたちまち濁ってしまった。

鳴きやんでしまった「イボガエル」。 まだまだ余震が続くからなのだろうか。
やっと鳴き声が聞え出したのが、地震発生から10日もたってからだったが、鳴き声が地震前より弱い。ときたま思い出したように鳴き声聞こえるが、続く気配がない。そして7月。「イボガエル」の鳴かない日は決まって余震がある。 今日は7月4日 昼頃、余震があった。 今晩もあのにぎやかな鳴き声はないのだろうか。 

続イボガエルと地震 2008-07-07

「時たま鳴きだしたと思えばピタッととまる ツチガエル(イボガエル)。 体長3cm-5cmほどで、メスの方がオスより大きい。背中には大小のいぼ状突起がたくさん並び、各地で「イボガエル」という方言で呼ばれているらしい。このカエルには独特のいやな臭がある。 当地ではカエルのことを「ビッキ」と言う。いやな臭いから「クソビッキ」といわれている。

このビッキは面白い習性がある。オタマジャクシの一部が越冬するのだ。降雪の前、池のごみ上げなどをすると数匹ごみと一緒にあらわれる。そして、越冬した幼生(オタマジャクシ)は翌年大型のカエルになり、尾まで含めた全長が7~8cmに達するものもいる。小生宅の溜池は二か所あって、何年前からか世代を交代し「クソビッキ」の棲みかとなっている。水辺の石などで地上生活をし、おもに小さな昆虫類を捕食する。繁殖期は5月-9月で、オスが鳴いてメスを誘うのだそうだ。
「グエェー グエェー」「グエェー グエェー」
「グウゥ グウゥ」「グエェー」
と鳴き声が多才。

人が近づくとあわてて池に飛び込む。 あの松尾芭蕉の有名な

古池や かわずとびこむ 水の音

かわずとはこのツチガエルではないかと言われているのも頷ける。

一つの池どうしでの掛け合いの合唱なのか、せいぜい20メートル位しか離れていない溜池でうるさいくらいの競演は地震の後、ずっとすくなくなってしまった。6月14日の岩手・宮城内陸地震前までの鳴き声には戻っていないが、今晩の溜池の合唱は快調だ。そろそろ、余震も終わりなのだろうか。 昨日は体に感じる余震が2回ほどあったが今日は気付かなかった」。


石ゴケのイボガエル2 坪庭 2014.7.13

過去記事「イボガエルと地震」、「続イボガエルと地震」を再掲示した。しかし、今年は違う。「イボガエル」がほとんど鳴かない、鳴いても弱い声だ。イボガエルの数が少ないように思う。かつてテレビの音も聞こえないくらい賑やかな池の方はイボガエルから別のカエルになった。トノサマガエルだろうか。


トノサマガエル? 2014.7.17

小さなため池は我家の二つと道路を挟んで隣家のため池と約20m間隔に3ツがほぼ一直線に並んでいる。最盛期はこの3ツの池の「イボガエル」の合唱になった。夕方から朝まで休みなく賑やかさに辟易した。それが今年は静かなのだ。雨の少ないカラ梅雨気味のせいなのか。あるいは岩手・宮城内陸地震の時あったように何か異変の前兆なのかは今の処わからない。

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薪割り 

2014年07月18日 | 地域
今年分の薪割り作業はこのほど終わった。薪そのものは2017年度使用予定で計3年分確保されたことになる。我家の居間の広さは18畳で、この広さの部屋を石油ストーブで暖房することになると石油の使用量は半端ではない。薪暖房は30数年近くなる。杉の間伐材、廃材、雑木、リンゴの木、かつては川連漆器の御椀の廃材等燃えるものは何でも使った。

かつてイギリス在住の方が、古新聞で薪つくりができることの記事があった。以下は要約。

再利用。  
雑誌をパラパラ、パラパラ...
めくっていたら、
うぉーーー、なんじゃこれは!!

この感動をみなさまにもお裾分け。
別にいらないか

BRIQUETTE MAKER
古新聞で暖炉用、BBQ用の薪が作れるというモノ。
、、、、、、。
作り方は至って簡単。
古新聞を水の入ったバケツに入れ、
ぐちょぐちょ状態にし、このMAKERに流し込む。

そして、力を加え水を切り、
乾かしてできあがり!!
牛乳パックでハガキ作るのと同じかな?
新聞をただ普通に燃やすと
あっという間に燃え尽きてしまうけど、
古新聞薪では、2時間くらいは持つんだそう。

2007年09月20日のブログだった。新聞紙薪に興味大だったのでメールを送ったら以下の返信があった。

カジカザワさんへ
リンク先のサイトで調べてみましたが、イギリス国内のみの発送だそうです。
イギリスにお住まいでしたら、こちらよりご購入できます。
もし、イギリス以外にお住まいですと、私の方でも分りかねます。
お役に立てずすみません。
Posted by:ゆき at 2007年11月30日(金) 06:49

おかしなもので求めることが難しいとなるとさらに調べたくなった。ネット検索で2007年12月台湾で製造、函館の業者が代理販売することを知り早速注文した。5000円プラス送料代金だったと記憶している。作り方はイギリス在住の方の記事通り4ページの新聞紙約16枚で一つの新聞薪ができた。燃やしてみたがとても2時間は持たない。一年でやめてしまった。水びたしになり、やや面倒なことと、火力はいまいちなのは欠陥だった。紙だから当然なことだ。燃料高騰のおり古新聞紙の活用を考えたイギリスの知恵に感心した。いずれ灯油はさらに高騰するかもしれない。再利用でいずれまた復活することも考えられる。

その後は上記の記載の通り、自家の杉林の間伐材が中心になった。杉材はミズナラ等に比べて火力のなさは当然としてもタダ同然の間伐材は貴重な燃料となった。さらに大先輩が製材所からの製材クズを紹介され一時期重宝した。又近年屋敷内の立ち木等が大きくなりすぎて伐採する方も結構いて、その木をいただくこともあって毎年春先から薪つくりが行事となった。

近年石油高騰で薪ストーブが結構増えた。特に山間部に行けば家の周りには薪がきれいに積まれている。ほとんど5月中で終わっているようだ。我家薪割り作業は田植が終わってからの作業となる。春先から薪になる木を集めてはいる。この冬の大雪だったが杉やミズナラの被害はすくなかった。今年は昨年被害の杉や雑木が作業の対象となった。


小坂 2014.4.17

この杉は内沢の対岸で昨年の大雪で途中から折れてしまったものだ。倒した後林道まで出すのに2本の杉の木は一日もかかった。何せ直径35㎝以上で樹齢80年は過ぎた大木、重機があるわけでなくチェーンブロックでの作業。推定重量600~800キロはある。約230㎝もある沢を越さなければならず雪の上だと何かと楽と思ったが結構重労働だった。


内沢林道側 2014.5.11

約1mに伐り、運びやすく縦割りした。


自宅 2014.6.19

さらに薪の長さに短くし自宅に運んだ。今年の作業分は八坂神社の石段側の杉1本、雪折れで中が空洞、内沢の対岸等の杉3本、黒森のカジカ沢対岸のミズナラ2本、ヤマザクラ1本、7月に入ってから数年前からカジカ沢の杉林に積んでいた杉、雑木を加えた。


自宅薪割り 2014.7.1

これはほとんど現場で薪材の長さに切断し軽トラで自宅に運んだ。5年前までの薪割りはマサカリで、杉林の中で小鳥の声を聴きながらの作業だったが、今では200Vの電動薪割り機での作業となる。8トン能力の電動薪割機だが能力に不満が残る。エンジン付の薪割機にはかなわないが、高価なこととエンジン音の煩いの嫌って電動薪割機とした。太い木も先に金矢を使いハンマーで縦割りしてから作業に入るとほとんど割れる。

今年の完成した薪の使用は3年後の2017年冬の予定。毎年3年分の薪の確保のこだわりは今年もクリヤした。積み上げた薪の量は計算上約20立方ほどになる。積む場所は土蔵の下屋とした。3年分だと約50立方程、置き場所もそれ相当の場所が必要になり、一部作業小屋の二階にも保管している。

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「カオジロトンボ」と「賽の碩」栗駒山 

2014年07月13日 | 地域
栗駒山麓の「イワカガミ湿原」、「賽の碩(かわら)」を探索した。いきなり木道で見たことのないトンボに出合った。大きさはアカトンボよりやや大きい。好天のイワカガミ湿原の木道に入ってすぐ足元に止まったので、あわててシャッターを押した。かすかに思えるシャター音で飛び去ったがうまく収まっていた。

 カオジロトンボ 栗駒高原イワカガミ湿原 2014.7.3

胴の部分が鮮やかな赤、尻尾の部分の真ん中より下の部分に黄色の点がある。初めて出会うトンボだ。ネットで調べてみたがこのトンボと同じなのはなかなか見当たらない。やっとのことで「カオジロトンボ」にたどりついた。「カオジロトンボ」(顔白蜻蛉、学名:Leucorrhinia dubia (Vander Linden ,1825) )は、トンボ科カオジロトンボ属のトンボの1種。英名と和名は本種の特徴である顔面が白色であることに由来するとある。産地は局地的で、数が少なく本州では東北地方と上信越の山岳地帯1000~1500m以上の高層湿原のみに生息している。青森では八甲田山系だけと云う。ともかく一瞬のシャッターチャンスで巡り合えた貴重な一枚となった。いきなり飛んできて木道に止まり、すぐ飛び立つ一瞬のことでトンボの「顔白」は確認できなかった。


イワカガミ湿原 2014.7.3

志賀高原後の栗駒「イワカガミ湿原」、同時期の湿原の木道を歩く。この日は天気も良く遠くに雄大な栗駒山が見える。湿原では「ワタスゲ」が終わりに近づいていた。目標とした「イワカガミ」の最盛期は過ぎ所々に数株あるだけ、高価なカメラに望遠レンズの二人がわずかに残った「イワカガミ」をしきりに狙っていた。


名残ガ原~賽の碩 2014.7.3

その後「名残ガ原」へ行く。木道を過ぎて本格的登山口と賽の碩への分岐点で休憩していたら、それまで見えていた栗駒山頂が足早の濃霧に隠れてしまった。そこに山形市からの3人連れが下山してきた。今日3回目でやっと晴天の頂上だったという。しばし団らんの後「賽の碩」に向かうと霧が立ちこめ、木道の先が見えない。濃霧の向こうに硫黄山があり、かつて硫黄の採掘がおこなわれた場所だ。泥湯の先の「川原毛地獄」の小型版にも想える。「川原毛地獄」は 古来より恐山・立山と共に日本三大霊地として並び称された女人禁制の修験の地であった。1600年代から佐竹藩の硫黄の採掘がおこなわれ、昭和41年まで続いた。

硫黄から製造される硫酸は化学工業上、最も重要な酸と云う。硫黄は黒色火薬の原料で、合成繊維、医薬品、農薬など重要な原料。日本では火山が多く、火口付近に露出する硫黄は露天掘りで採掘が容易であった。古くは鉄砲伝来により火薬の材料として重要なものだった。江戸時代から始まったという「付け木」はマッチが一般化される昭和20年代まで使われてきた。
マッチが貴重な時代、少量の硫黄は各家にあったものと思う。熱を加えるとドロドロとなり、これに当地方では麻糸を採った殻、「オガラ」に付けたものを「付け木」といって使った。祖母が囲炉裏で「付け木」を作るのを子供の頃見ていた。

朝鮮戦争時は「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰、昭和30年代に入り資源の枯渇と石油精製の過程で発生する硫黄の生産が急増し、価格の下落で昭和40年代には国内の硫黄鉱山はすべて閉山になった。

「賽の碩」のこの場所を「東成瀬村誌」に「明治時代相当長い間三井家で剣岳鉱山として、山の直下で硫黄を採掘し、一時は三井家のドル箱鉱山であった。従業員千人をこえ、須川温泉→瑞山間に鉄索を敷設し、専用電話が通じる精錬所もあった」とある。鉄索は吉野鉱山にもあった。吉野鉱山から十文字駅まで敷設。親父の出身が上吉野だったので子供の頃遊び行くときは必ず鉄索の下を通った。鉄索特有なのか時には鈍い音がするので不思議に想った時代が懐かしい。吉野鉱山は秋田県南部を代表する黒鉱鉱山とも云われ、主に黄銅鉱、黄鉄鉱、重晶石などを産出。昭和32年(1957)に閉山になり鉄索も撤去された。

「賽の碩」の硫黄の採掘跡は荒涼としている。「賽の碩」の語源は「死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の三途(さんず)川の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという」。荒涼としている姿を三途の河原に見立てて「賽の碩」と呼んだ。ここにも数か所、小石を積んだのが見られる。

木道の先は濃霧で見えない。現代の世相の反映にも思える。この時期志賀高原、栗駒山ろくの散策は日常の喧騒を一時逃亡した感にも見えるが「解釈改憲」の愚への怒りは大きい。霧に覆われたこの木道の先同様、「解釈改憲」の先に何が飛び出してくるのか。


イワカガミ 賽の碩 2014.7.3

賽の碩の木道の濃霧を通りこしたら、イワカガミ湿原でほぼ終わった「イワカガミ」の見事な姿があった。賽の碩の「イワカガミ」はイワカガミ湿原のように群生は見られないが、少し硫化水素の臭い離れてはいるが過酷な条件の中で繁殖してきたのか、小さな株だがなにかしら毅然として見える。この時期にしか出合えない「イワカガミ」、他にも「オノエラン」も少し小ぶりながら数か所見られた。


地獄釜 旧噴火口

いつもここに来ると地獄釜 旧噴火口の前に立って眺めてしまう。かつて硫黄の採掘での建物があったのだろう。今も煉瓦が散乱している。姿の良いウラジロヨウラクが出番をまっていた。


ウラジロヨウラク 旧噴火口前 2014.7.3

世相とクロスしながらイワカガミ湿原~須川温泉~名残ガ原~賽の碩~地獄釜・旧噴火口のコースを終える。
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解釈改憲 

2014年07月10日 | 地域
解釈改憲の「集団的自衛権」の行く先はどうか。7月1日「朝日新聞」は「むのたけじ」氏の次のことばを掲載した。

「集団的自衛権の実態だって「アメリカと一緒に戦争をします」でしょ。戦争を放棄した日本が許されるはずはないんです。行使の要件をいろいろ議論しているが、戦争を知らない世代の言葉遊びです。
、、、、、、、。

安倍政権は逆のことばかりしている。戦争状態になっても日本は攻撃の主たる目標にされないだろうと考えているんでしょうかね。「当事者じゃなくてアメリカの下働きです」なんて言い訳して。でもそんなことは許されるはずがない。戦争に巻き込まれるんです。

若い人たちに言っておきたい。戦争が始まったら自由は一切なくなる。携帯電話なんか使っていたらすぐ捕まって投獄される。敵に情報が漏れるもの。最後は安倍政権の問題じゃない。主権者である我々が、どのようにこの時代を収束させるの~か。黙っていて、誰かに何かをしてもらおうというのが一番悪いんです」。(聞き手・木瀬公二)引用

7月9日朝日新聞は、7月1日内閣が解釈改憲を閣議決定した翌日2日付きの新聞各紙の社説で賛否状況を報道した。在京6紙では朝日、毎日、東京は批判。地方、ブロックでは反対が40紙、賛成が北国新聞、富山新聞、福島民友の3紙だった。反対の中から4紙の主張を要約している。これによれば秋田魁新報は「戦後70年近くかけて一歩一歩進めてきた平和国家の歩みをわずか一ケ月半、計13時間の与党協議で『戦争ができる国』へと強引に方向転換させた」。信濃毎日新聞は「憲法は権力を縛るものなのに政権が想うまま解釈を変えられるのでは、意味ががなくなる。今度の閣議決定はあしき前例を作った」。沖縄タイムズは「憲法クーデター」と批判した。


朝日新聞 204.7.9

世相の濃霧の行く先に見える時代にある種の予想がつく。前の政権は多く政治不信をつくりだした。この政権は前の政権以上とんでもない方向に向かっている。憲法が危ない。自衛隊関連法案の改正そのものが、憲法9条違反の法律改正であるからだ。憲法第9条の改正の呪いでこの政権も崩壊へ向かわせなければならない。7月6日の琉球新報では高校生から「戦争に行かなければならないのか」との不安の声が出ていることの報道があった。(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-228066-storytopic-1.html)解釈改憲の違法性を憲法学者ばかりではなく、多くの庶民が声を大にして糾弾しなければならい。

内閣支持率が低下傾向が報道されると、集団的自衛権行使だけを決め、その内容に関しては一括して法案整備をするために来春以降の国会論議に持ち越しとして国外逃亡。与党議員、野党、役人とのわずらわしい面会で忙殺される日常に比べれば、外遊はは精神的に楽でリラックスできる。さらにODA予算をふくめて援助申し入れる日本の首相訪問を歓迎するのは当たり前のことだ。安倍首相の外遊頻度は歴代1位と云われる所以だ。

ニュージーランド、オーストラリアの政府に集団的自衛権の行使を閣議で決めたと自賛。国会で説明するわけでもなく、滞在先との首脳会談で自画自賛に明け暮れるのが定番。国民への説明責任も来春まで延期というからあきれた政権だ。

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蓮池周辺を歩く 志賀高原 

2014年07月05日 | 地域
志賀高原に行ってきた。行き当たりばったりの旅となった。一百姓の身で旅行の通でもない。JRの「おとなの休日倶楽部」の会員歴5年だが、旅の機会は少なかった。今回年3回実施されるJA東日本(北陸含む)4日間有効のキップを使うことを思いついた。

6月26日湯沢発8:36で大曲着、9:38発「こまち14号」に飛び乗り大宮着12:38、大宮発12:50「あさま523号」で14:02に長野駅に着いた。長野駅で今晩の宿泊を湯田中温泉「ホテルますや」に決めた。やっと「信州そば」で昼食、バスで善光寺へ。のち長野電鉄で湯田中へ、温泉で一泊。ホテルで特に「仲居さん」のもてなし対応についつい夕食時間が長引いた。次の日の早朝渋温泉街散歩。長電バス8:04湯田中発の硯川・白根火山行きに乗車、8:45蓮池バス停で降りた。土地勘のないものにとってこの地はややこしい。高速道の入り口みたいな道路の交差、ひっきりなしに車が通る。

やっとのことで約2時間の蓮池周辺散策を開始、蓮池には志賀高原のシンボル志賀山が湖面に映り「ヒツジグサ」と「コウホネ」が向かい入れてくれた。「コウホネ」はスイレン科の植物で根茎が骨のように見えことから、「コウホネ」(河骨、川骨)の名の由来となっている。「コウホネ」は秋田の千秋公園でも見られるというが海抜約1500mの蓮池の「コウホネ」は力強く見える。5年前、月山で「オゼコウホネ」に遭遇した。湯沢では国道398号線沿いの田代沼に見られる。普通の「コウホネ」と「オゼコウホネ」との違いは、「コウホネ」は葉の茎が水上に突き出るが、「オゼコウホネ」は葉が水面浮かぶ。


コウホネ 蓮池 2014.06.27

少し進むと遠近メガネの先は不思議な光景だった、思わず新しい発見かと錯覚。シャターの後振り返ってみたら頭上には「サラサドウダン」の大きな木があった。ドウダンの花が落ちたところが憎らしい。


珍花? 蓮池 2014.06.27

「ベニバナイチヤクソウ」は蓮池を離れ頻繁に車が行きかう道路、ガードレールの下にあった。白い「イチヤクソウ」は数回出合っているが、「ベニバナイチヤクソウ」は先日岩手山焼け走り溶岩流から道路に出た所で一輪あった。ここでは数株固まっている。「ベニバナイチヤクソウ」は陽当たりの良いところでは紅色が濃くなると云われているが、陽あたりが弱いところでは花色がとても薄くなるらしい。背の高い樹木に囲まれていて、ガードレール下の陽当たりが良いとは言えないの場所だったから花の色は薄めだった。「イチヤクソウ」は古くから薬草として知られ、葉の汁は血止めに利きその他にも血管拡張、リウマチ、打撲、傷、虫さされほか多くの薬効が云われている。


ベニバナイチヤクソウ   2014.06.27

自動車道路脇には「アザミ」が結構あった。蓮池近くの「アザミ」の開花は少しまだ早かった。「シガコウゲンアザミ」等呼ばれることもあるらしい。比較的「アザミ」にはその土地の名がつくものがある。固有種が多いのだろうか。ここの「アザミ」は少し大型にも見える。開花直前もそれなりの物語を伝えているようだ。


アザミ  2014.06.27

しばらく歩くと「下の小池」の看板があった。海抜1610m地点。少し奥に「京大ヒュッテ」の立派な建物は誰も人の気配がなかった。側のスキー場だろうか。ワラビ採り夢中の人たちがいた。それにしてもワラビは一面に生えていた。まさか採って遠く志賀高原から、秋田に持ち帰るわけにいかずその場を離れた。



下の小池看板 2014.06.27

木道も整備され「ワタスゲ」の花が最盛期。ワタは真っ白でスゲは胴の部分ともいえる。間もなく少しの風でも遠くへ飛んで繁殖を広げるのだろう。スゲはスゲ属の植物で、どれもほぼ共通の形態的特徴を備えている。大部分が多年生の草本で、多くは花時をのぞいて茎は短くて立ち上がらず、たいていは細長い根出葉を多数つける。地下茎を横に這わせるものは、広がったまばらな集団になり、そうでないものは、まとまった株立ちになるものが多い。(一部引用)


下の小池 2014.06.27

小さな池だったがすがしい気分だった。まだ午前の早い時間帯だったので京都ナンバーの車できた3人と木道で言葉を交わしただけだった。初めての志賀高原。次の宿泊地をめざして蓮池午前10時40発長野電鉄高速バスで長野駅に向かった。1時間10分のバス。高速バスからの風景、あいにくの天気で長野の山々はかすんで見えない。乗客はタッタの3人、一人が途中で下車貸切状態で昼近く長野駅に着いた。あわててJR篠ノ井線「名古屋行しなの14号」で、次の目的地松本に向かった。
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種差河岸「フナバラソウ」と「マルバダケブキ」

2014年06月26日 | 地域
平成26年「雄勝野草の会」の一泊観察会は、岩手山焼け走り溶岩流と三陸復興国立公園八戸種差海岸となった。昨年稲川自然観察会の種差海岸は、平成25年7月13日で岩山の「スカシユリ」に圧倒されたが、今年の「雄勝野草の会」観察会は6月22日で、昨年より20日ほど季節が早く、昨年感動の「スカシユリ」の開花はなかった。昨年は終わりに近づいていた「ニッコウキスゲ」が最盛期だった。種差海岸はヤマセがあり、北限植物と南限植物が混ざり合い、波打ち際に多くの高山植物が咲く。「ニッコウキスゲ」の群生をこの場所で観られる不思議さがある。


種差天然芝生地から淀の松原 2014.06.22

このブログで昨年に出合えなかった、「フナバラソウ」と「マルバダケブキ」を紹介したい。種差海岸で初めての高山植物「フナバラソウ」に出合った。地元ではどのような意味合いか「チドメ」と呼んでるそうだ。富山県薬剤師会ホームページの薬草資料館に「フナバラソウ」は「生薬はハクビ(白薇) 秋に掘取り、地上部を取り去り、水洗して陽乾する。成分 cynanchol、強心配糖体、精油等。効能に解熱、利尿薬として熱病の中・末期の発熱、卒中患者の四肢浮腫などの治療に応用する」とある。種差のチドメの名は薬草と関連からきた名だろうか。

フナバラソウ(舟腹草、学名:Vincetoxicum atratum)はキョウチクトウ科カモメヅル属の多年草。旧分類では、ガガイモ科に属する。真っ直ぐに立ち上がる草で、高さは40から80センチメートル程度、枝は出さない。葉は長さ8から10センチメートル、幅4から6センチメートルの卵形で対生する。1段または複数段に黒紫色の星型の花がかたまって球状につく。花期は6月頃。花が終わると緑色の、ガガイモ科特有の袋果(実)をつける。秋に袋果が割れ、種髪(毛束)をつけた種子がはじける。袋果の形が舟腹に似ることから名づけられたと云う。この花の黒紫色は独特で、チョコレート色のこのような花の野草は観たことはない。黒紫褐色の花に「クロユリ」がある。5年ほど前に月山で出合ったが、この花より濃い褐色が強い分珍しい。秋田県では絶滅危惧ⅠA類(CR)に指定されている。絶滅危惧ⅠA類(CR)とは、ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種と云われている。


フナバラソウ 葦毛崎展望台付近 2014.06.22

フナバラソウの反対側に同じような色の野草があった。初めての野草だ。黒紫色よりも赤みが強い「ホソバシュロソウ」と云うそうだ。和名の由来は葉が枯れて葉の付け根に残る葉鞘の繊維がシュロの毛に似ていることから、葉幅が3㎝以下と狭く葉が長い。秋田では駒ヶ岳に見られるというがなかなか出合うことが少ないと云われている。


ホソバシュロソウ 葦毛崎展望台付近 2014.06.22

マルバダケブキ(丸葉岳蕗) キク科 メタカラコウ属。茎の上部で枝分かれをし、その先に黄色い頭花をつける。花径は8センチから10センチくらいある。マルバダケブキは総苞が濃い紫褐色をしているのも特徴である。 葉の特徴 根際から生える葉は、長さも幅も20センチから40センチくらいある大きく丸い腎円形である。葉の表面には光沢があり、縁には粗いぎざぎざ(鋸歯)がある。


マルバダケブキ 淀の松原 2014.06.22

初めて接したとき「ツワブキ」の花に似ていると思った。
ツワブキはキク科ツワブキ属の多年草で 花は菊の花にそっくりで、 花言葉は「困難に傷つけられない」。「ツワブキ」は食べられるが 「マルバダケブキ」は蕗の葉に似ているが毒草で、近年増えてきた「日本鹿」は絶対に食べないので、各地に群落ができているらしい。昨年は開花が終わりに近く数株の開花だったが、今回は見事に咲き誇っていた。花言葉 は「純情」。光沢の濃い緑の葉と黄色の花、海と岩の景色に良く映える。
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明通りチーズ工房と醍醐 

2014年04月07日 | 地域
「スイスで食べたあの味を再現したい、、、」との思いから、チーズ工房を立ち上げ実現した酪農家の女性たちが秋田から生まれた。JA(農業協同組合)グループ社団法人 家の光協会の月刊誌「家の光」誌2014年4月号東北版に掲載された。

月刊誌『家の光』は大正14年(1925)5月に創刊された。書店では基本的には置かれていない。JAが直接組合員宅に届けているのが特徴の雑誌です。「JAこまち」組合員10,131人(正組合員8,503人 、准組合員1,628人)での購読は662戸。「JAこまち」の購読者は古くからの農協主体の農家と思われる。「家の光」誌を知らない世代は宗教関係の月刊誌かとの誤解を生む。インターネットホームページも立派なのができている現在、JAの広報誌として存続していくためには大胆な発想転換が急務だと思う。

今回その「家の光」誌4月号の東北版に『「アヴァ」のチーズ召し上がれ』と秋田県羽後町にある「明通りチーズ工房」の記事が載っている。


家の光 4月号 引用

明通りチーズ工房 ホームページ(http://www.akedoori.jp/index.html)によれば『平成6年(1994)10月、雄勝酪農婦人部(クローバー会)が「酪農婦人欧州視察研修」に参加した際、研修先の一つであったスイスのグリュイエールチーズ工房内で「チーズの苦手な方でも、とてもおいしく食べられる」チーズに出会い、いつか私達も「誰もがおいしく食べられるチーズ」を作ろうという気持ちが 今日「明通りチーズ工房」の完成まで熱い思いで続けてきました』。

『平成11年(1999年)には「チーズ部会」を立上げ、以来試作を重ね、みなさまに「これならば」と評価されるまでになりました。 やさしくおだやかな味でくせがなく日本人好み チーズが苦手な人でも美味しく食べられます。 原料が成分無調整の為味が生きていて、すっきりあっさりした後味、長期熟成でも味の変化が小さく 食べごろの期間が長い』。とある。


チーズ工房内 2014.04.01

明通りチーズ工房 工場長・佐藤円さんは北海道酪農学園大学の学生時代、乳製品製造研究室(通称“乳ゼミ)で加工技術を学んだ。東洋製酪、農業法人小川原湖農場等で乳製品と関わってきた佐藤円氏は、「究極のチーズ」を求めるのに人一倍情熱と研究心を持っていた。雄勝酪農協の酪農家の母さん達の「もっと牛乳を有効活用していきたい。私たちの牛乳を使った商品をたくさんの人に食べてもらいたい」という熱意に共鳴し一緒に工房を立ち上げ今日まで来た。

工房が本格的になりチーズ作りへの情熱は増すばかり。牛乳の成分や気温や湿度などの微妙な違いで、一つとして同じチーズはできないこと。佐藤円さんは湯沢市稲川町の川連漆器製造の家に生まれ、農業、酪農とは別の世界に生まれ育ってきた。チーズつくり同様、漆を使う世界でも一日の気温や湿度でできあがった製品に微妙に影響すると云われている。旧稲川町名産の稲庭うどんも気温、湿度の変化は究極の製品はできない。この仕事の携わる職人は朝の気温、湿度の状態で一日の作業を長年の経験の中で予測して作業をする。佐藤円さんのチーズつくりはその面では家業の漆器業との共通点がある。


明通りチーズ工房 工場長佐藤円さん 2014.04.01

雄勝酪農協の牛乳は、平成12年(2000)からNon-GMO(非遺伝子組み換え)飼料で高い安全性にこだわり、消費者の地元(湯沢、雄勝地域)で生産者の顔が見え、高品質(生菌数・細菌数・体細胞が少ない)で、衛生的に大事に育てられた乳牛に出所のハッキリした飼料を与えてつくることをモットーとして来た。良いチーズは高品質の牛乳でしか作ることはできない。

高品質の牛乳で作られた「明通りチーズ工房」商品は熱で良く溶け糸を引き、マイルドな味は香辛料とよくなじむ と言い、和・洋・中、料理を選ばず 、長期間冷蔵しても味の変化が小さい。乳酸菌が生きているナチュラルチーズ で、イタリア産岩塩の柔らかな味がするといわれている。当然ながら特殊な食品添加物を一切含まない。地元酪農家母さん達の手造り、ヨーロッパの伝統的な製法が基本で必要以上に人の手を加えない、衛生的な包装で家庭の冷蔵庫で熟成できること等ひとつ、一つの製法にこだわっている。

味は基本のプレーンに、バジル、粒こしょうなどのバリエーションをそろえる。口コミやマスコミで評判が広まり、近隣の道の駅や秋田市、横手市、湯沢市のスーパーが取り扱う他、結婚式場のメニューにも採用されるまでになった。メンバーは平日にチーズの製造や発送などをして、週末には各地で開かれるイベントで売り込む。


明通りチーズ工房 製品 2014.04.01

そこで感じるのは、「チーズは日本の食卓ではまだメジャーになっていない」ということ(佐々木)。熟成させないモッツァレラや熟成期間が比較的短いカマンベールは知られていても、長期間置くことで味の深みが増す熟成チーズは十分理解されていないという。同工房は「アヴァ」の熟成期間を1年程度に延ばすことも検討。「熟成でもっとおいしくなることを伝えたい」と意気込む(中村さん)。地元の生乳からできるチーズをよりおいしく、より多くの人に。工房の挑戦は続く。

仏教の大乗経典『大般涅槃経』(だいはつねはんきょう)の中に、五味として順に乳→酪→生酥→熟酥→醍醐と精製され一番美味しいものとしている。涅槃経も同じく最後で最上の教えであることをたとえとして書かれている。これを五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)という。

「だいごみ(醍醐味)という言葉の語源は、チーズの製法、牛より乳を出し、乳より酪(らく)を出し、酪より生酥(せいそ)を出し、生酥より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐を出す、醍醐最上なり、もし服する者あらば衆病皆除く。あらゆる諸楽ことごとくその中に入るがごとく仏もまたかくのごとし」。 

仏の教えもまた同じく、仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より大涅槃経を出す。とある。これが醍醐味の語源として仏教以外でも広く一般に知られるようになった」。  
ウィキペデア 引用。

湯沢市の隣に位置する横手市の国道13号線沿いに「醍醐」の地名があり、JR奥羽線に無人駅の「醍醐駅」がある。かねてからこの地名にある種のこだわりがあった。角川日本地名辞典によれば「南北の羽州街道と東西の馬鞍街道の交差する平坦地で、この付近はかつて牛の放牧地で牛乳を煎って甘露となる醍醐味による」(郷土史資料)の説がある。甘露とはウィキペデアに「インド神話の伝承で不死の霊薬とされたアムリタを、漢訳仏典では中国の伝承の甘露と同一視し、甘露、あるいは醍醐と訳す」とある。

この地に近年、私の知る限り牛を飼う農家はいなかった。今では平鹿リンゴの中心地になっている。
醍醐の地名は。秋田県横手市平鹿町醍醐、富山県高岡市醍醐、滋賀県長浜市醍醐町、京都府京都市下京区醍醐町、京都府京都市伏見区醍醐、奈良県橿原市醍醐町の全国に秋田を含めて6ケ所ある。

明通りチーズ工房の誕生は、かつてこの地域の地名「醍醐」とのなにかしらの因果を想像してしまう。

 
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木の芽起こし

2014年04月02日 | 地域
木の芽起こしは暦の上では「雨水」の頃、降雪が雨に変わり水がぬるみ草木の芽が出始める頃で2月下旬頃の雨。当地の2月下旬はまだまだ雪の季節。今年は大吹雪も続いた。その頃の雨で眠っていた木の芽は活動を始めることだとは思うが、豪雪地帯での「木の芽起こしの雨」は、鍋釣山の雑木の根元の雪も消え始める3月下旬から今頃が「木の芽起こし」の雨の形容とピッタシの感がある。本来は暖かい雨に促されて木の芽が萌え出る意味の雨を云う。

大雪2014年春も昨年同様、清明が近づくと雨になりやすい。3月30日は雨、4月3、4日も雨の予報。5日は暦の上では「清明」。湯の雨が降ると云われ雪も一気に消える。昨年2013年の清明の頃は近年経験したことがないくらいの温かい雨で、大雪もたちまち地肌が見えるくらい雪が消えた。
昨年のブログ「湯の雨が来た」2013.4.10(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/fba2f19c8e63e08145ccfbb88fcb6a39)に詳しい。

今年はどうだろうか。3月になるといつも春が待ち遠しいので、桜や梅の枝を取ってきて家の中の花瓶に生けるのが毎年の行事になっている。我家の18畳の居間には薪ストーブが居座り真冬でも室温は23~25度ほどで温かい。

今年は3月9日スノーシュー散策で、里山の雑木林から「ヤマザクラ」と「ブナ』お枝を採ってきた。一週間ほど前から「ヤマザクラ」は咲きだし、満開となった。少し遅れて「ブナ」の新芽が開きだし見ごろになった。


新緑のブナとヤマザクラ 楢岡焼とトキソウ 2014.04.01

もち山の「ヤマザクラ」は鍋釣山の「ヤマザクラ」よりも咲くのが遅い。例年だと麓集落で一番遅く咲く「ヤマザクラ」は、八坂神社の鳥居の側の桜でいつも5月10日前後、鍋釣山の「ヤマザクラ」より一週間から10日も遅い。私の持ち山のはそれよりも2.3日早く「ヤマザクラ」は根元にある「ブナ」の新緑とほぼ同時開花する。例年だと5月の連休過ぎから10日前後が開花となっている。まだ自宅近くの積雪は1.2mはある。昨年同様の「清明」の頃に湯の雨となれば、大雪の今年の「ヤマザクラ」の開花と「ブナ」の新緑が例年の時期の頃と期待できる。

居間の「ヤマザクラ」と「ブナ」の新緑は一ケ月以上早く、今日が盛りとなった。自然の「ヤマザクラ」は葉がでてから花になるようだが、部屋のは花が少し早めに咲いた。咲きだしが3月25日だった。4月になって早くも散りだした。この後はしばらく「葉ザクラ」と「ブナ」の新緑が居間の主役となる。

いよいよ平成26年度稲作、種まきが始まる。稲川有機米研究会では種もみの「温湯消毒」が始まった。
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最上小国川ダム計画問題を考える

2014年03月03日 | 地域
山形県の最上小国川ダム計画で犠牲者がでた。ダム建設に反対する小国川漁業協同組合長が2月10日自ら命を絶った。朝日新聞は2014.2月12日報道の後、2月27日下記の記事を全国版に載せた。この記事によれば山形県は昨年12月、小国川漁協に要求を着きつけた10年に一度の漁業権の更新に、「県との協議の席に着かない限り漁業権の更新を認めない」と示唆した。この背景は「ダム計画」反対のすれば漁業権は認めないということで、組合長は「県との交渉で追い詰められていた」と漁協理事が話している。まさに権力の横暴そのものだ。


朝日新聞 2014.02.27

小国川漁協はとホームページに以下の記事を配信した。
「去る2月10日、当組合の沼沢勝善組合長がお亡くなりになりました。全く突然の出来事で、私たち組合員も驚きと悲しみでいっぱいです。またご遺族の気持ちを考えると、本当に何と申し上げればよいか言葉も見つからず、心が痛むばかりです。
沼沢組合長は平成9年に小国川漁業協同組合の組合長に選出され、以来これまで17年の長きにわたり組合長を務めてこられました。組合長として小国川の漁業振興に努めるばかりでなく、「松原鮎」と称される小国川の良質なアユを守るため、冷水病の危険がある種苗の放流をストップしたり、夏には釣り具メーカーが開催するアユ釣り大会をたくさん受け入れて、遊漁の振興や発展に寄与したり、多くの実績を上げられてこられました。小国川のほとり建てられた「小国川稚鮎センター」でアユの中間育成事業に着手し軌道に乗せたことも、忘れてならない大きな実績の一つです。

そして近年は、皆さんご存じのように山形県が最上町の赤倉温泉上流に建設を計画する「最上小国川ダム」に、反対の立場で漁協の先頭に立って奔走されてきました。ただ反対するのではなく、ダム以外の方法で治水は可能か否か、河川工学や治水の専門家の方たちに意見を聞いたり、全国各地のダムや治水対策について勉強したり。本当に真摯に問題と向き合い、最善の策を模索してきました。しかし、そうして決議に至った組合としての総意「ダム以外の方法での治水」は、県からはまったく受け入れられることなく、県はただただ「ダムによる治水を丁寧に説明したい」と繰り返すばかりでした。そうして起きたのが、昨年末の漁業権更新に関する問題です。10年に一度更新される漁協権の更新にあたって「公益への配慮」ということが県から漁業権付与の条件として提示され、それについて沼沢組合長は大変心を悩まされていました。なんとか漁業権は更新されたものの、今年に入って最上小国川ダム建設について協議する場への参加を促され、多くの委員がダム建設を容認するようなムードの中で、沼沢組合長は先頭に立って「ダム以外の治水対策の検討」を訴えました。まさに孤軍奮闘。その姿には悲壮感さえ漂い、痛ましいほどでありました」 以下略

1月28日に「第一回最上小国川流域の治水対策協に関する協議会」に組合長以下5名出席した。協議ではまず山形県県土整備部の岡邦彦部長が、「これまで県が最上小国川の治水対策について検討してきたプロセス」や、「治水の手法として流水型ダム(穴あきダム)が適当とする理由」など、これまで何度も語られてきたことをまとめる形で説明。当組合も沼沢組合長や青木理事が、「赤倉温泉地区を中心とする小国川流域の治水対策として、県が掲げる流水型ダム(穴あきダム)案にはいくつもの疑問や懸念があり、当組合としては河道改修による治水対策を望むこと。また県は河道改修による治水はできないと否定しているが、当組合は専門家の意見も聞いて河道改修による治水は十分に可能と考えていること」などを申し述べました。
小国川漁業協同組合ホームページから 2014.01.29掲載

この会議以降第二回の協議に向け10日、漁協で打ち合わせ会議が予定されていたという。年末来の騒動で組合長は深刻な疲労がたまっていたことが想像される。

最上小国川は最上川支流で、唯一天然河川で東北では有名なアユの産地。全国から年間3万人も訪れるアユ釣りのメッカと言われ、その経済効果は年間21.8億円の試算がある。この川に総工費約80億で赤倉温泉地域の治水を主な目的として「穴あきダム」をつくると云う計画だ。
「穴あきダム」とは「増水時だけ水をためる治水専用ダム」でダム湖を造らず、発電や農業利水はできない。島根県営益田川ダムが06年3月に完成したほか、長野県の浅川ダムなど全国10カ所で計画されている。


山形県 最上小国川ダムの概要  引用

「穴あきダム」増水時だけ水をためる装置というが、2013.8.9の秋田県仙北市の集中豪雨被害の大規模な土砂崩れ、2008.06.14の岩手・宮城内陸地震(マグニチュード7.2)で「荒砥沢ダム」上流の崩落地の最大落差は148m。土砂が水平距離で300m以上移動した。穴の部が1.7×1.7が2ケ所の「穴あきダム」。どう説明されても?を拭いさることは素人にはできない。大きく環境破壊しても「ダム建設」ありの詭弁にも思える。「穴あきダム」がこれらの災害に直面すると穴あき装置がふさがれ長期間機能の閉鎖、長期間濁水が下流を汚染し清流の「アユ」の被害は甚大なものとなる。年間全国から3万人訪れ、現在経済効果21.8億円の経済効果のある天然河川は貴重なものだ。全国的に自然破壊されている河川の状況から見たら、この河川はユネスコの「自然遺産」に匹敵する価値がある。規模が小さいなら、日本版の「日本ユネスコ」の自然遺産登録があって良い河川だ。何しろ東北を代表する「松原アユ」と呼ばれる天然鮎の産地。

湯沢市の雄物川支流皆瀬川に昭和38年に完成した皆瀬ダム、完成以降下流は大雨毎に半月以上も泥水が流れ、アユのエサとなる苔が育たず、かつてアユの郷のイメージは遠くなってしまった。どこで起こるのか予想のつかない災害を考えると上記の図のように「穴あき」の構造が1.7mで大丈夫なのか。普段は下流に水を流す「穴あきダム」というものに、何が何でもダム建設を推進する、「ダムムラ」の陰謀などと思えてしまう。

この度の「最上小国川ダム」計画で犠牲者が出てしまったことで、この計画推進の山形県の行政指導に問題がなかったのか、全国的に知られることになった。小国川漁業協同組合長は死をもってこのダムの建設に抗議した。漁業組合長の無念さがいかばかりかと思う。漁協組合員数は1200人という。漁業法23条は、漁業権を民法上の物権とみなし、土地に関する規定を準用すると定めている。

上関原発建設に伴う漁業補償金問題で、2013.3.29祝島の講演会で熊本一規・明治学院大教授(環境経済学)は「漁業権を持つのが漁協であれば総会決議で決められるということになりますが、そうでなければ漁業権者の全員の同意が必要と」語っている。2014.2.27朝日新聞の記事で熊本教授は今回の漁協長の死の抗議にあたって、「県の対応は前代未聞。ダム問題で賛否が割れた他県の事例でも、県が漁業権の更新を盾に取るような手法はとならい」と批判している。

原発や各地のダム問題は「原子力ムラ」、「ダムムラ」等は「目的を推進することで互いに利益を得てきた政治家と企業、研究者の集団」と言われその結束は強固だ。研究者の集団には大学の研究者、マスコミ、業界紙や監督官庁等官僚機構ともつながっている。政権交代後益々露骨な振る舞いに見える。かつての時代からの「由(よ)らしむべし知(し)らしむべからず」の精神が大手を振って光り輝いてきた。

個人的な関係だが、熊本一規明治学院大教授とは面識があった。2013.12.07ブログ「追想 土くれのうた(NHKあすの村づくり)で紹介した1973年「菅原裁判」を全国出稼組合指導の下に起こした東京地裁での裁判闘争で、当時東大大学院の学生だった熊本氏が東京で、私が秋田での事務局だった。熊本氏とは第4回口頭弁論の時東京地裁で一緒になって以来会ってはいない。2011.3.11福島原発事故のあと出版した「脱原発の経済学」(緑風出版)で、熊本一規氏の近況を知り今回朝日新聞で健在ぶりを知った。もう40年も前の事だが人とのつながりの不思議さ、尊さを知り当時を振り返ってみた。。「菅原裁判」は熊本教授の視界から消えかかっているのかもしれないが、当時からのよしみで成瀬ダムについても環境学の立場からの知見を伺いたいものだとの想いが生まれた。

先日2014.2.21秋田地裁で成瀬ダム住民訴訟・証人尋問があった。被告側から国交省東北地方整備局河川部長・工藤啓氏、同湯沢河川国道事務所所長・平野令緒氏が尋問された。この件も近いうちに投稿したい。
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