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新河鹿沢通信   

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化けくらべの背景 (1)森コと切崖

2010年01月03日 | 民話
集落の中央にこんもりとした小山がある。高さはせいぜい15㍍ほど、面積30㌃ほどだ。頂上に稲荷神社がある。東側半分は杉と広葉樹、西側はかつて開墾地で大豆など栽培されていたが今では一部が杉、あとは荒れている。かつてはうっすらとした杉林でいかにもキツネの棲みからしい処だった。

集落では通称「森コ」。集落の中央通りから見れば「森コ」超えた家並は「ものぐし」と呼ぶが「森越」(もりこし)が訛った呼び方になったと思われる。森コのすそ野を通って畑を横断し「ものぐし」に入り八坂神社へ行く通称「神社道」と言った。

      森コ すそ野に神社道付近 
切崖は隣村の下宿へ行く山沿いの300㍍ほどに曲がりくねった道。
五ヶ村堰(川連堰)の支流「和堰」が三梨村の上宿で始まり、さらに下宿でその和堰から{新堰}が別れて流れる。五ヶ村堰(川連堰)の開削工事の歴史は古く稲庭城主小野寺道俊が大永5年(1525年)に稲庭三熊野神社に掛仏を奉納したのは川連堰の竣工を記念したのもだと言われている。

切崖の曲がりくねった道はこの二本の堰が並んで流れていた。特に「新堰」は下流地域に水田を拡大するために山裾を切り取った難工事だったことが想像される。
山裾を切りとったことから「切崖」の地名になったという。

この堰について稲川土地改良区の沿革史に次のような記述がある。

「川連堰は水源を皆瀬川の上流に求め、河岸段丘沿いに稲庭村、鍛冶屋布より三梨村熊野堂、間明田を過ぎ下宿北端より根岸川連へ通じ、内沢川に合流する用水堰で古来より川連が堰親郷となって稲庭、三梨、川連、大舘、八面の五ヶ村で管理してきたのである。
元禄2年(1689年)八面、三又の肝煎2年続きの不作のため両郷の者乞食になったと窮状を訴え出たと湯沢佐竹南家御日記にある。三又村の肝煎七右ェ門はこの窮状を救うため藩庁に五ケ村堰の延長を願出て、元禄8年(1695年)許可を得て堰の改修工事に着手し、五ケ村堰を三又村まで延長した。これは三梨村間明田より北に進み川連平城、八面村村尻を経て鼠舘において内沢川の古川を築留め三又村に入り字前田面、高村に分流する延長一里半、幅二間のかんがい用水路である。
 三又村も元禄9年の割丁場普請申合書に名を連ね人足割等の会合に参画していることから以後「六ヶ村堰」と称すべきであるが、以前慣行に従って五ケ村堰と呼んでいる」。

上記にある内沢川は川連集落を縦断し、集落下流で五ケ村堰からの支流「和堰」からまた分れれた「新堰」と合流している。切崖の流れは山を切り開いての堰で広葉樹や杉林を喘ぐような流れ、それに無理に上部へ導いたためか漏水も激しく春の集落一斉での堰普請での清掃は難所だったが1974年のは圃場整備事業で三面舗装の水路が同じ場所に完成した。今では昔の面影を想像するのはむずかしい。

切崖はさみしい道だった。八坂神社から平城で県道を横断し内川(五ケ村堰)の手前で左折し橋を渡り大館浜へと続く道。切崖への道は八坂神社から300㍍程の所にある新堰の橋を渡って間もなく左折し切崖にはいる。

   国見嶽のすそ野が切崖付近
新堰の橋の下は上記の記したように、先人がなるべく多くの水田に皆瀬川の水が行き渡るように掘削した水路のため常に水が張られた状態。水は上流から流れの押し出し状態でやっと下流に水が流される。だから流れを意識しないような水路は、薄暗い夜はかすかな月明かりでは「風呂」と見間違えることがあっても不思議ではなかったかもしない。まして隣からの来ることになると、曲りくねった道に山際の木が覆いかぶさり足元も見えないくらいの暗さとわずかな風で流れる木々の葉音、それに「新堰」の漏水が並行して流れる「和堰」に流れ落ちる水音。いかにも「きつね」がでそうな場所だった。
やっと通り越して「新堰」を通過する橋にたどりつくことになる。

現在は圃場整備事業業で広域農道に変わり、近くに統合中学校もあって街灯もある。バイパス的になった「旧切崖道」は大型トラックも走る。かつて語り継がれてきた「切崖の季エ門」はまだひっそりと暮らしているのだろうか。

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