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「藤祐」と「百姓往来豊年蔵」 100号

2014年06月20日 | 村の歴史
20年ほど前、土蔵から「再刊百姓往来豊年蔵」を見つけた。とても読みくだすこともできず、そのままにして置いた。今回偶然探し物をしていて改めて手にした。裏表紙に嘉永五年七月七日(1852)山仲藤祐求ムとある。「山仲藤祐」は安政6年(1859)頃、現在の横手市大家寺内村から我が家にきた。我家のルーツ現在から五代前になる。「藤祐」は天保10年(1839)頃生まれで、先代が亡くなって「藤祐」から「久七郎」に改名した。「染物家」を「久七郎」(藤祐)が創業したと語られていたが、近年「藤祐」が我家に来る前、先代「久七郎」(芳松)が書いた「染物秘技書」嘉永4年(1851)が出てきたので創業したのは「久七郎」(藤祐)ではないことがわかった。

先代染谷久七郎の書いた大福帳に弘化14年と書かれたものがある。弘化は元年(1844)から5年(1848)で終わり元号が嘉永になっている。嘉永の次の年号が安政となっている。実際弘化14年という年号はない。弘化元年から14年後は安政6年となっている。弘化元年は考明天皇から始まり慶應2年まで21年間勤め慶應3年に明治天皇と交代している。考明天皇在籍14年を弘化14年と呼んだと推察される。詳しい歴史はわからない。孝明天皇の時代に年号を変えた事情があったものと思われる。

「久七郎」(藤祐)は、明治10年40歳前後で若くして亡くなってしまった。染物屋は「久七郎」逝去後まもなく廃業したと伝えられていたが、「久七郎」(藤祐)の長男が引き継ぎ「染谷久治」の大福帳に明治24年(1889)のものもあり、取引範囲も平鹿、増田、湯沢、稲庭、皆瀬までのと取引の名がある。少なくとも40年近く「染物屋」をしていた。屋号がそれまでの「久七郎」から「そめや」と呼ばれるようになって約160年ほどになる。


天保15甲辰年11月再刊 錦森堂 森屋治郎兵衛板

当時横手で寺小屋か塾に通い読み書き、そろばんの他「百姓往来豊年蔵」を学んだことになる。嘉永五年は10歳前後と推定されるが「百姓往来豊年蔵」の裏表紙に書かれた漢字はとても子供の字とは思えない上手なものだ。親か寺子屋の塾長が書いてくれたものかもしれない。表紙の字はいたづら書きと思われる。表紙の字と裏表紙の字は明らかに違うようだ。大屋寺内在の時学んだ「再刊百姓往来豊年蔵」の教科書を大事に保管していたことに、並々ならぬ向学心を想う。

寺子屋は特に幕末の安政から慶応にかけて全国的に増え、明治に入り小学校教育の成立、・普及・充実で次第に初頭教育機関としての機能が喪失し、明治10年代にほとんど消滅したとされている。寺小屋で「いろは」の読み書きが最も多く、「百姓往来豊年蔵」のような往来を学んだのは極少なかったと云う。湯沢市旧稲川町で当時の寺子屋は駒形の八河塾、稲庭の早川塾等が「いなかわ広報」昭和48年7月25日号、「町の産業と文化」で紹介されている。 

寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本。その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての必要な知識を学ぶためのものを使った。寺子屋等で使われた教材を総称して「往来物」と云われている。

表紙裏から1~2ページ

「再刊百姓往来豊年蔵」のページの始めに「第十六代の仁徳天皇と申した方は、難波高津宮に遷都あそばれた」から始まり
   高きやに登りてみれば煙たつ
     民の竃は賑ひにけり
「高い建物に上がってみれば煙が立ち昇っているぞ。民家のかまどは大いにたかれ、食事のしたくでにぎわっているのだろう」に代表されているように仁と孝・弟・忠・信を説いた。2、3、4ページは図入りで「年中農家調㳒記」等で一年の農作業を解説している。


再刊百姓往来豊年蔵

本文は以下の文字から始まる。
「凡百姓取扱文字、農業耕作之道具者、先鋤・鍬・鎌・犂・馬把・钁・竹把、、、、等之加修理破損、毎日田畑見廻、指図肝要也」「扨又、、、、、」と続く。

「およそ百姓の取り扱う文字、農業耕作の道具は先ず鋤・鍬・鎌・犂・馬把・、、、、等」51個の道具の名がかかれている。そしてこれらの「道具が破損すれば修繕し、毎日田畑を見回り、仕事の指図をすることが大切である」と記されている。そして、「新田開発の御検地役人への対応や年貢米、口米とともに色つきのコメや青砕けまい、モミなど混ざらないように検査しておく」ことなど、そして「家を建てるときは釘や金物を用いてはいけない」等々きめ細かく、質素倹約の精神を説いている。

終わり以下のことを説いている。
「如此其道々弁知、猥不切山林之竹木不掠人之地不致隠田、正直第一之輩者終子孫永、成富貴繁盛之家門、平生仏神叶冥慮事、不可有疑。依而如件」

「このようにして、各々の道をわきまえて暮らす。勝手に山林の竹木を伐らず、人の土地をかすめ取らず、隠田をしないようにする。正直を第一に心がけて暮らす者の家は、しまいには子孫末永く、富み栄える名家となる。正直者に平生から神仏の御加護があることは、疑いのないことだ。以上」

現在使われていない道具、漢字等もあり、読みこなすのは難しい。往来物とは往復書簡(往来)の形式を採った文例集(消息集)に由来している云われている。寺小屋や塾は手紙の読み書きができることを柱にしていた。ひらがなの読み書きが中心で、その後そろばんに進んだと云われる。農民の子供で「百姓往来豊年蔵」など往来物の教材を学んだのは、極少なかったと云われている。

農村向けのものとしては農事暦の要素を織り込んだ『百姓往来』、都市の商人向けのものとしては『商売往来』等が代表的な往来物。日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、読み書きの識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったと、日本の教育史上高く評価されている。

今回「百姓往来豊年蔵」を20数年ぶりに再読しブログとした。「再刊百姓往来豊年蔵」の所蔵は特に珍しいことではないのかもしれない。私の集落の歴史は1000年以上、川連城が築かれたのは「御三年の役」の頃、約500年の城が落城したのが慶長2年(1597)。約950年の「神応寺」は城の落城と同時に焼失。現在地に移って417年、その後1700年前後に火災にあったと云われている。災害と火災によりすべてを焼失。その結果、我家の過去帳、ルーツは宝永2年(1705)以後からでその前は知ることができない。土蔵のどこかに祖先が調べた書類がないかと探してみたが今の所見当たらない。

今回五代前の「藤祐改め久七郎」が当時、寺小屋で「百姓往来豊年蔵」を学んだことを知り少なからず驚きがあった。この齢になって「再刊百姓往来豊年蔵」に巡りあったが、読みこなすのに悪戦苦闘した。当時十歳前後の子供たちが学んだことに驚きも倍加した。今回約150年前の教科書と巡り合えたことに感謝したい。

ブログ「新河鹿沢通信」は「暮らしの中から 足跡 集落 身辺雑記 跳躍」を主題にしている。主に1000年を超えている集落を中心にしている。ブログ今回100号のテーマをかつて寺小屋の教科書といわれた「百姓往来豊年蔵」とした。これは我家のルーツに深くかかわったていたからでもあった。




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