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第21回川連塗りフェア

2013年10月21日 | 地域
湯沢市の伝統工芸・川連漆器を集めた「第21回川連塗りフェア」が、18日に始まり今日21日まで川連町の稲川体育館で行われた。


(引用)

川連漆器の歴史は、「川連漆器伝統工芸館」のホームページによれば次のように紹介されている。

「鎌倉時代(1193年)、源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩(みちのり)公が古四王野尻(現在の川連町大舘地区)に館を築き、家臣に命じて刀の鞘(さや)、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされています。本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心に約26戸が椀師稼業を営んだとの記録が残っています。

文化12年(1815年)、藩の許可を得て朱塗りの漆器をつくり販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策のもとに、椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵などの飾りが加わって、産業基盤をさらに大きく築きあげていきました。

明治には新しい技術開発がおこなわれ、昭和51年には国の伝統的工芸品に、平成8年には県の伝統的工芸品にも指定され、平成10年、平成12年の全国漆器展では内閣総理大臣賞を受賞いたしました。堅牢さを誇る実用的な生活用品として庶民生活に密着し、今日、川連漆器は地域の主要産業となっています」 (引用)


第21回のポスターはシンプル 稲川体育館 2013.10.18

約5千点が展示されている川連塗りフェア 県漆器工業協同組合(佐藤善六理事長)の主催。組合加盟の24業者が参加しているという。
初日の来場者は昨年よりすくないそうだが、食器やアクセサリ等を手に業者としきりに話す姿は多かった。地元に暮らしていてもこれほどの漆器を見ることは少ない。この地域では長年漆の器は生活の一部となって同化している。日常の生活で漆塗りの容器は欠かせない。私の場合には特に「稲庭うどん」は専用の漆塗りの「うどん椀」にかぎる。「そば椀」同様確実に最高の味が楽しめる。食べ物はその素材にあった器でなければ本物の味を知ることはできない。漆の器は毎日の食卓には欠かせないものだ。


稲川体育館の会場内 2013.10.18

川連塗りは約800年という鎌倉時代より続く伝統の技。私は現在直接漆器業とはかかわりはないが、かつて紹介したブログ「古道 夏街道を行く」2012.10.26(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/m/201210)の中で、祖先が「三ツ小屋」(綱取沢)で漆器の木地つくりにかかわっていたということを書いた。言い伝え(口碑)で真偽のほどは定かではないが、川連椀を手がけた「椀師」は平安時代、岩手県平泉の木地師により伝承されたといわれている。

源頼朝軍勢に平泉が滅ぼされ、平泉藤原氏の残党が出羽方面に敗残の身を隠したと言い。その一部が大滝沢を隠れ里とし「ロクロ」による木地挽きが川連に伝わったのが、「川連漆器」の始まりだとつたえられている。当然、これらの木地師と一緒に塗り師も居たことになる。ただし口碑によるもので定かではない。川連漆器歴史年表にこの記述はない。

大滝沢と川連までせいぜい4キロ、昔流だと一里ほどだの距離。急峻な山道を今でも「夏街道」(ナツギャド)と地元では言っている。ナツギャドを夏街道としたのは私の造語。この地域では家の前の道路をキャドと言った。キャドは街道の呼び名がなま(訛)ったのではないかとかんがえられ、雪の深い冬ではなく夏通ったから夏街道、ナツギャドとなったに違いないと解釈している。そうは言っても地域でもキャドの意味が理解できるのはせいぜい団塊の世代までかもしれない。路(街道)の呼び名から雪の多い冬は閉ざされていたと考えるのが自然なこと。今この急峻な路を歩く人は少ない。若い世代はほとんどこの路や言い伝えを知らない。今ではまぼろしの路になろうとしている。

なぜか「川連塗りウェア」の時期になるとこの言い伝えを想いだし、川連塗りウェア会場に向かうようになった。

今回の併催展「古文書でたどる川連漆器 高橋利兵衛家と川連塗り」で、歴史の一端を知ることができた。

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