雷とからっ風 義理人情! 上州かあちゃんの毎日

赤城おろしの冷たいからっ風にも、日本一暑い夏の日にもめげず
頑張る上州かあちゃんの日記です

東海道を歩く 草津宿 その2

2019-10-26 20:22:00 | 東海道
草津宿

草津宿問屋場跡・貫目改所跡




現在太田酒造になっているが
ここに、問屋場があり、
貫目改所があり、荷物の行き先や
重さの監視をしていた。

立木神社  たちきじんじゃ




茨城県の鹿嶋神社から、
ここ草津に、やってきたみことを祀って
いるそうです。

狛犬ではなく、茨城県の鹿嶋神社と同じく
鹿が🦌祀られていました。

八橋道標  やばせどうひょう




琵琶湖への案内道標が立っている

「右やばせ道、25丁 大津へ船は、多し」

陸路では、大津まで2里!
船では1里と近道だけど、比叡山からの突風のため危険な航路だった。

そこで、

「もののふの、やばせの船は早くとも
急がば回れ 瀬田の長橋」

と、唄が読まれて
急がば回れの語源になったとの事

へぇ〜〜  へぇ〜〜
そうだったんだぁ〜〜

前回の関宿が関の山の語源
今回は、急がば回れの語源の地に来れた

これ、飲み会で、知ったかぶりできるやん
忘年会で知ったかぁ〜〜ばなし
しよぉ〜っと

姥が餅屋跡




八橋道標が立つ所に
草津名物の姥が餅を売っていた店が
ありました。
現在は国道1号沿いにあります。

この店の前が
広重、草津宿が描かれている場所です。






店の右端には、八橋道標が描かれています

野路一里塚後  





江戸から数えた120個目の
一里塚です。
何もない!ただの街角公園です。
ひと休み、ひと休み
リュックの中から、
飴ちゃんや、チョコ出して
モグモグタイムです。
この時間ないと辛いわぁ〜〜

昔も今も一里塚は、ひと休みです。

清宗塚




平宗盛の嫡子、清宗の塚が
普通の御宅の庭にあります。

17歳の清宗をここで、義経が
処刑したとの事です。
以来、この御宅で
供養しているとの事でした

武部大社




近江国一の宮
平家に捕らわれた源頼朝が、伊豆に向かう途中に立ち寄り、源氏の再興を
祈願されたと伝えられ、出世開運の神様として、崇拝されているそうです。

御朱印はこちら




瀬田の唐橋




琵琶湖から流れる瀬田川にかかる橋
日本書紀にも登場する古い橋
昔から京都と、東国を結ぶ東西の交通の
要所だった。

江戸時代は、幕府と膳所藩ぜぜはんによって、20年に一度
架け替えられていた




今の橋は、昭和54年に架け替えられた。




この付近は、近江八景「瀬田の夕照」として、風光明媚な場所との事
橋の上から、琵琶湖を眺めました。

お一人様参加




このツァー
ご夫婦での参加
お友達との参加
ご姉妹での参加
とさまざまですが、私のように
お一人様参加の方もいます。
今回は女性のお一人様
この4人です。
日帰り行程の時は、なかなか
会話もなく、黙々と歩くだけ
だったのですが
回が進み、お泊り行程になると、
夜の食事で、お酒なども入り
とても、仲良くなりました。
京都を目指す同志ですから・・・

ここまでで、今回の旅は終わり!
いよいよ。次回30回目、
最終回です。
三条大橋に到着の予定です。
楽しみでもあり、
旅が終わるかと思うと
寂しくもあります。

























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東海道を歩く 草津宿 その1

2019-10-25 20:05:00 | 東海道
東海道を歩く

和中散本舗跡を出て、西に向かいます

目川一里塚後




119番目の一里塚です。

目川立場
食事には、菜飯と豆腐田楽、お酒の
セットで提供した
「目川田楽」が好評で、
田楽茶屋を始めたのは、
元伊勢屋との事です




昨日、広重石部宿の五十三次の場所と
ブログに、書いた場所は
ただの現在のお休み所&トイレでした。

本当に描かれた場所がここでした。




草津宿

東海道52番目の宿場町
とうとうここまで来たぁ〜




草津宿に入りました。
うれちぃ〜〜泣

本陣2軒
脇本陣2軒
旅籠72軒
問屋場1軒

東海道と中山道の分岐点です。
追分道標
常夜灯です。




右 東海道
左 中山道です。




やっとここまで来たぁ〜〜
左がわずぅ〜〜っと歩いて行ったら
日本橋につながってるんだなぁ〜〜
と思うと、感慨深いです。

中山道も歩いてみたくなりました。
何年か後にまた、この地に
立つ事が出来るだろうか?

力が湧いて来ます。

草津宿本陣田中七左衛門家




この本陣16時までに入らないと
閉館してしまうとの事でした。

15時位から、
草津市、ものすごい大雨でした
雨宿りしていると
本陣の見学ができなくなると
頑張って歩きました。
情けなくなるくらいでした。
江戸時代の旅人も雨の中
蓑笠だけで、歩いたことを思うと
ゴアテックスの雨具つけて、
防水の靴を履いての、
街道歩きですから、
比べ物にならないくらいの
楽ちんな、歩きなんだと思います。
雨の日の街道歩きは
鮮明な記憶に残ります。
大変な思いの歩きは、思い出になるのだと思います。
大磯宿を歩いた時も
ものすごい大雨でした
美しい富士山が見える宿の予定でしたが
大雨のため
富士山が見られなかった残念さで、
思い出の宿と、なってます。

本陣玄関






大名が、お泊まりになる時は
ここまで本陣の主人が
袴を着用してお迎えしたそうです。

ずぶ濡れの私達は、
玄関にブルーシートを敷いてもらったり
バスタオルを敷いてもらったり
大変お世話になりました。

ここにお泊りになった方々




シーボルトや、土方歳三が、泊まり
皇女和宮は、小休みしたとの事です

長いたたみ廊下です




主客専用湯殿




外でお湯を沸かしてここに
もってきたとの事です
かけ湯だけだったとの事です。

主客専用トイレ  




畳敷きのトイレ
これ!
おしっこ飛ばせないなぁ笑笑
掃除大変だぁ〜〜
主婦目線で見てしまった笑笑

台所




井戸やかまどがありました。
何人泊まれたって言ってたかなぁ〜〜
説明聞いた気はするけど、忘れた。

上段の間




大名など
主客の休泊に使われた
本陣の中で、もっとも格式の高い部屋

お隣の部屋は
お茶を入れる専用のお部屋もありました。




大雨の中歩いた甲斐がありました。
貴重な本陣の様子を見学する事が
出来ました

草津宿街道交流館






本陣見学の後
草津宿街道交流会に寄りました。
色々な資料が、展示されており、
草津宿の事が良く、わかりました。
ここももう少し、時間が欲しかったと
思いましたが
急いでの見学でした。

ここで、草津宿通過証とゆうのを
いただきました。
私の名前入です。








草津市長さんからです。
何気に嬉しい!
なんか、ご褒美がもらえるのは
嬉しいですね!
草津市長さん! ナイスです。

この日の街道歩きはここまででした。





















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東海道 石部宿

2019-10-24 17:52:00 | 東海道
石部宿

「京立ち石部泊まり」といい、
京都から江戸に向かった時は
最初の宿場町となります。
東下りと言うようです。

本陣2つ
旅籠32軒
問屋場一 1軒




京都どんどん近づいて来てます。
石部宿に入りました

吉姫神社  よしひめじんじゃ




創建は、不詳ですがかなり古い神社です。
江戸時代は、上田大明神と呼んでいたようですが、明治に入り
吉姫神社と改称したそうです

1キロ先の吉御子神社と一対となし
石部社 (いしべのやしろ)と呼ばれています

石部宿高札場跡



石部中央交差点右角に問屋場・三大寺本陣があった。
今は標識のみ

吉御子神社  よしみこじんじゃ




吉姫神社と対をなした神社
現社殿は、京都上賀茂神社の旧社殿を
移築したもので、国の重要文化財。

広重の浮世絵で紹介されている
石部宿は、田楽茶屋の元伊勢屋の前に!







今でも田楽茶屋再現されていて
田楽をいただく事ができますが
私達は、10時ちょうどに行ったので
まだ、準備が出来ておらず、
食べられませんでした。
残念!泣
東海道旅の名物、食べつくす勢いなのに
本当に残念。
ここはトイレ1つしかなくて
トイレ休憩に、時間がかかり、
写真もゆっくり取れませんでした。

ちょっとネットから画像を借りました。



こんな感じのお茶屋さんでした。
広重の絵には背景に山が描かれていますが
実際には、山はありませんでした。

石部一里塚後・西木戸跡




日本橋から117里目
一里塚は、標識のみ

石部西信号の右角に
石部宿西木戸があった。

近江富士




近江富士、正式には三上山!
大ムカデ退治伝説が残る山を
右手に見ながら、西に向かいます。

新善光寺



善光寺?って
長野と違うん???

いやいや、滋賀の善光寺は、
新善光寺!
源平の乱後、平清盛の一族がこの地に
のがれすんだ。

その子孫が、平家一門をとむらうため、
信州善光寺に48回もお参りして
善光寺如来の分身を持ち帰ったとの事です。

このお寺をお借りして
昼弁当をいただきました。

雨の中☂️
ずぶ濡れでしたが、
体を休める事ができました。

お弁当も、精進料理っぽくて
美味しかったです。

御朱印もいただけました。




お腹もいっぱいになり、さらに西に!

間の宿  六地蔵村に




旧和中散本舗

腹痛薬を売る店が5軒ほどあったが
その内の大角屋が和中散の本家

屋号をぜさい




家康がこの地で、腹痛をおこして
この薬を飲み
「腹の中を和らげる」
という、和中散という名前を与えたとの事

現建物は、1624〜の建物で
本陣を思わせる建物です。
国の重要文化財との事です





これで薬草を切って







2人がかりで、この大きな足踏みを
動力として、



木製歯車を介して、石うすを回す
製薬機械!
昔のまま残されていました。
ここに、人間2人
ハムスターみたいにくるくる
回してお薬作っていたのね〜〜

小休み本陣




和中散本舗の隣は、
座敷を増築して、小休み本陣として、
大名、天皇が小休みしたそうです。

部屋のらんまや、ふすまなども
本陣並みの立派さでした。

お庭も素敵でした。




25代目が、今もここを守り
ステキなガイドをしてくれました。

やはり、家を守っている方のガイドは
とても、あたたかく
思いのこもったものでした。

予約なしでのガイドはなしとの事です、

この点はツアーは、良いです。
家の中にも予約なしでは
入れないとの事です。

外から、家の外観を眺めるだけでは
とても、もったいないと思いました。





















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東海道を歩く 水口宿 その2

2019-10-23 21:22:00 | 東海道
水口宿も半分ほど進みました。

まっすぐの道、北畷手(なわて)を
過ぎたところには、

泉一里塚




江戸から数えて114番目です。




横田の渡し跡を、目指して歩きます。




横田の渡し跡です




昔は横田川と呼ばれていたようですが
今は、野州川
増水期は、船渡し
渇水期は、仮設の橋をかけていた。

横田の渡し脇には、大きな常夜灯が
たっていました。




旅人の渡し場の目印と
夜間渡しの目印となっていた
高さ7メートル
傘は2.7メートル四方
東海道で最大級と言われている

天保義民之碑 てんぽうぎみんのひ




幕府の過酷な検知に反対する農民四万人が
一揆を起こして抵抗

その結果、検知中止を勝ち取ったが
首謀者11名が江戸送りとなり
処刑されたそうです
江戸送りの時は
沿道では、農民が涙ながらに
見送ったそうです。

この事件の碑が、
建てられており、今でも10月には、
慰霊祭が、行われているそうです

天上川




川床が平地より高い川を
天上川というそうです

大雨のたび、多量の土砂が川に流れ込み
川床が上昇!

その土砂を両岸に200年以上も両岸に
盛り上げたことによって
平地よりも
川床が高くなったそうです。

川の下のトンネルをくぐり
街道を
通過しているかたちです。

今は、川は流れていないようです




水口宿通過です。
次の宿
石部宿に入ります。
















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東海道 水口宿 その1

2019-10-22 14:29:00 | 東海道
東海道  水口宿です

東国や伊勢への道が通り、宿場町として
整備されて現在の基礎となったそうです

江戸側の出入り口から三筋の道に分かれる
珍しい街並みとの事

宿泊は、少なく休憩が中心の宿場町

岩神町神社




水口宿へ、入る前にある岩神社
子供の成長を祈願して岩山の上に
祀られている
道路脇から、登りの階段を
眺めただけです。
歩き始めだったので
体力温存かなぁ〜〜
村の人は、子供が生まれると
赤ん坊を抱いて、この岩の前に立ち
旅人に名前を使えもらう習慣が
あったそうです
あらぁ〜〜
変な名前つけられちゃったら
大変よねぇ〜〜
でも、旅人も旅の記念になるわよねぇ〜〜
赤ん坊の名付け親になるなんて

水口宿  に入ります




脇本陣




標識だけです。

本陣跡




本陣跡も標識だけ!
明治2年、明治天皇の宿泊を最後に廃業
明治天皇聖蹟の碑が立つのみ



高札場跡




街道が2つに分かれるところが
宿内三筋の道の分岐です
東海道は、左側
この先また、2つにわかれ
東海道は、右手に向かいました。

大岡寺  だいこうじ




水口藩主の祈願所
境内の芭蕉碑には、
「命2つ 中には活きたる 桜かな」と
大岡寺の、桜を読んだそうです

街道交流館



水口宿のお祭りで使われる
山車などが展示さらていました。

水口城




本丸御殿は将軍の専用の宿舎だったとの事
ここ、木曜と金曜休みで、
中に入らなかった。
な、なんでぇ〜〜
金曜日に、休む〜〜って感じでした。

五十鈴神社




この、神社を過ぎると4キロ
ほぼ真っ直ぐな一直線の道

この道を北畷手(なわて)と呼ぶ
もともとは、曲がりくねった道だったが
東海道制定寺に直線に直したそうで
両側は、松並木だったとの事



広重の東海道五十三次の水口宿は
これです。




水口宿のどこで書かれてのかは
不明との事ですが、
私は勝手にここら辺ではないかと
思いました。

てか、ここら辺には、
現代の建物がなく
干瓢を干す風景が
想像しやすかったからかな?

で、なんで
干瓢が水口宿の名物なの?
北関東住みのかかあ天下としては
干瓢と言ったら栃木でしょう!
と思いましたが

水口宿の干瓢のルーツは、
やはり、栃木にあったようです。

干瓢の産地栃木県壬生藩主
加藤よしのりが、水口宿に来ることになって、その時に
壬生の干瓢製法を水口宿に伝えたようです

水口宿まだ途中ですが
続きは明日、

天皇陛下のテレビ放送が、気になって
ブログ書きに集中出来ない。

明日にします




















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